【雷山無言】

2012年4月22日 (日曜日)

煙突の下に

砂女さんのエッセイ(779)を読む。
文筆をなりわいとなさっていたかのようなタッチが好きで、時間ができると覗きにいく。

四日市という文字が目にとまった。煙突の話から始まる。

私の仕事は四日市の空を見ていることだ。煙突の煙がどちらに靡いているのか、きょうの視程はどれほどなのか、を毎朝確認し情報を提供する。

大気汚染は、昭和40年代にピークを迎えるのだが、もはや、あのころの空を知っている人は50歳を超えてしまい、鮮明に思い出せる人は60歳を超えてしまった。

あの煙のなかに含まれる大気汚染物質を胸いっぱいに吸って喘息で悩んだり体調不良になった人たちは年々減っていき、あの時代を伝える語り部さんたちもやがて消滅するのだろう。

公害は、身近な出来事や日常の記録であった時代から、ひとつの歴史に変わりつつある。今や、行政にかかわる人たちでさえその苦しみを知る人が少なくなり、このひとつの重大な人間の過ちを解決済みの忘れられてしまうような事件ではなく、時代を区切る失うことのできない大切な世紀に起こった社会学的にも貴重な痕跡として歴史に残さねばならない。

そう、カラダで感じている人たちも減ってきた。四日市市は、ごく普通の地方の中核都市になり、豊かな自然と重厚的な産業との共存する住みやすい街に変わってきている。

煙突の下に煤で汚れた工場群がある。

仕事でその中に入る機会があり、コンビナートという形のない言葉が意味するものを肌で感じたことがある。

綺麗な服を着て、髪飾りをつけ、ピリッとお洒落をして街を歩き、美味しいものを食べ愉しいことに歓声をあげている社会。そのもう一方に、このような埃臭く、油の染み付いたところがあるのだと知ったとき、わが国の豊かさの本当の姿を知るためには、ここに来て歴史を学ばねばならないと痛切に感じた。そのことを思い出した。

2012年1月22日 (日曜日)

記憶にとどめる

22日は父親の命日だ。しかし風邪で外には出ない。



記憶にとどめる。そのことを風邪で臥す寝床の中で考え続けている。
葬式を記録に残さなかったことを今更ながら悔やむ。
カメラやビデオに収めようとすることは、神妙なる式典の真っ最中に好ましくないことだという見方も多かったと思う。

しかし、その壁を乗り越えて記録に残すべきであった、と今になって思う。

まあ、仕方がないだろう。
あのときの私には冷静さがなく、直面した事態の大きさを受け止めるのが精一杯だったからだろう。

だが、冷静に捉えて記録に残すべきだった。
そう反省をする。

次は、必ず記録に残すつもりだ。

2011年11月 6日 (日曜日)

11月のはじめに考える ─ 目線をかえる

11月2日に

上から目線、 という言葉がある。
悪い意味で使われるようだが、わたしはこの言葉を悪く思う必要はないと考えている。
大事なのは上からも下からも見る姿勢である。

と書きました。

上から見る必要があるときもあるし、下から見ることを必要とされることもある。
ふらっとに見るのも当然必要だし、枠の外から見ることも重要だ。

行政を見直すとか、裁判を公平性を出すために・・・・などということを目指すのかもしれないが、行政刷新担当、裁判なら裁判員(陪審員)といっ て、あとから委員を選んであたかも何事にも左右されずにしかも非常に道理にあった判断が、何の駆け引きもなしに行えるというようなイメージでの改革手法 (見直し手法)が取り入れられつつある。

では、いったいそれまでの行政人の努力や苦労を如何に考えるのか。

あとから出てきて、好き勝手な意見をいい、前提としてその人物が信頼できるということで、左右にぶれも無く、ばさばさと切り捨てるのは格好いいが、貴方のどこまでが正しいの?と問いかける人が居ないのとこのシステムを疑う声がほとんど聞こえてこないのが心配だ。

貴方を選んだのは誰なんだろう、と考えると未来がとても怖い。
私たちが欲しいのは、切り捨てることではなく、しがらみの無い判断をして実行することにあるわけで、のこのこえらそうに選ばれて出てきた人がこれ までのこの上の無いほどの上出来の立案を何を根拠に取りやめることができるのか。取りやめは貴方にお任せしたくない。実行だけ手伝ってください、といいた いのだが。

世の中のあらゆるところで、アホ・カス・ボケ(AKBと呼ぶ)どもが、自由に意見をいい、その意見の重みや根拠や論理などの不明確さはまったく無視されて刷新が続く。例えば、公務員の給料を削減する、人員が多い、無駄な政策が多い、xx法案はおかしい・・・・などと叫ぶ。

叫ぶのは自由だが、論座を替えっ子しても同じことが言えますか?
貴方が突然大富豪またド貧民になっても同じことが言えますか。

このままでは、AKBの無責任発言(ネットやマスコミに多い)によって行政の政策立案システムやノウハウ、伝統は、失われていってしまう。

何度も書いてきたが、縄文時代には行政という言葉は無かった。飛鳥の大地を聖徳太子が馬で駆けていたころにも政治という概念はまだまだ薄く、法の概念がやっと芽生え始めるのだ。
自分たちのために作った行政のシステムを、自分の利益や我満をまず第一尺度にすえる目茶目茶な(そして一見正しそうで正当そうである)意見が、社会を破壊してしまう日がやってくる。

税金にしても、社会保障、教育、医療等についても、自分だけが助かる自分だけが生き抜く自分だけが幸せである仕組みを作ろうとしている社会システムに移り変わりつつある。

(かつて、多数決という決定手段の一手段である言葉が大手を振り歩き、その背景にある意見を擦り合わせて協議しあらゆる意見を取りいれて熟成して新しいものを作り上げるという知恵を踏み潰したのと似ているのかもしれない。数の論理の暴走した愚かな昔)

宴会の席で、自分の目の前の美味しそうなご馳走を食べたかったら、隣の席の人のお膳をよそいなさい。
今夜の夕飯の6品目のうちの2品を困っている人に還元する心を持てるようになりなさい(この場合、「持つ」という動詞に命令形は成り立たないが)

上から目線を非難するときは下から目線も非難する。それぞれにはそれぞれの論座がある。相手の論座の見えない(見ようとしない)時代を迎えている。

蛇足だが、TPPが話題です。上から目線なら早く推進、参加。下から目線であれば、留まるとなりましょうか。
優秀な政治家さん。国に居たときには推進の色合いが強かったけど、地方にきたら見直し不参加の様な感じ。どこぞの農地で泥のついた手と握手でもしたのでしょうか。総理も握手をしてから出直され、新しい意見を組み立てられるといいのかもしれません。

2011年7月28日 (木曜日)

地デジを考える その2

その1で少しコメントをもらったので、その返事を書きましたのでここに貼っておきます。


私としては、可能であるなら、地デジの工事はおやめになることをお勧めしたい。
今のところは。

テレビを見るだけであるなら、NTTの宣伝に言っているとおり、ネットワークでもいいわけですし、お金のことを言わなければネットワークから配信されてくる情報を買えばデジタルテレビ放送を受信する必要はない。

NTTを薦めるつもりはないし、大体が人間が一日にテレビを見てられる時間はそんなにないのだから、そんなことに膨大なお金を投資するのは、感覚が麻痺しているとしか思えない。

それでもドラマが見たい人は、そのドラマだけを携帯電話で見るなどして凌ぐことをオススメします。

地デジではなく、デジタル無線情報通信技術として時代に浸透したら、通信料金も安価になります。だって、テレビは無料が当たり前だからね、昔から。

その中で、ホテル予約、旅行計画、地図検索、歴史探訪、辞書検索、路線検索など、今のインターネットで扱っている技術が押し寄せてくる。

そのころにはテレビという名前はなくなってしまっているかもしれない。昔はテレビというものがあってね…というのだ。

そんな中で、ドラマなどを楽しむという文芸文化や庶民のささやかなるスローな放送の中での楽しみは残されてゆき、ラジオにゆだねるのがいいと思う。

高齢化も手伝って、私たち現在の中年は、将来の老年になる過程で、音声メディアを楽しみボケ防止もしてゆく。

映像メディアは、気の毒だが、ますます崩壊して、利益を奪い合い、相互崩壊の道をたどるかもしれない。NHKはそのことを予測しているからこそ、デジタル放送のもうひとつの技術の浸透に布石を打つ。

双方向という言葉は、それほどキーワードではないと思います。
放送メディアが心配しているのは、利益を上げるツールだと思います。

情報は、無料である、という概念は簡単には変わらない。
そんな中で、稼がねばならないけど、時間は24時間ですし、人々の収入は目覚しく増加はしないのですから、それほどのシェアが見込まれることはない。

国民は、このような快感な暮らしに溺れていたら、必ず、心を滅ぼします。

すでに、飢餓で苦しむ大陸の人々のほうが、美しく真剣に生きているというように見えてならないのですが、皆さんはいかがでしょうか。

2011年7月27日 (水曜日)

地デジを考える その1

タイトルにはそう書いたけど、
あまり考えたくない気もしてますが、
移行の日に世間が騒いでいたので
この騒動もモノの種、メディアの稼ぎネタか。

思う壺やな。

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かねてから私は
「地デジ(移行)を機会にテレビをやめてしまう人がもっとたくさん出れば、日本の文化レベルが高くなってゆくのかもしれないのに」
といい続けている。

国家の策略に対しては、いい物は乗ってもいいが、よくないものや無駄なもの、イケナイものには簡単に乗らずに、一矢を投じなくてはならない。
それが国民の責務だ……と思っています。

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「TVは、やがて多様化された情報通信メディアの中のひとつの(大きな)枝になる。その時にどれだけ価値あるものとして生き残れるか。総合的情報通信手段で例えば光回線と携帯電話ネットワークあたりに吸い込まれる。先手を打っていったんTVを遠ざけてみようと。」

と書いた。

国民をこれ以上アホにしてしまう餌をばら撒くのはやめて欲しい。
教育が大事だ、若者の就業を支援するのだ、などといいながら、低俗番組を作り続ける放送メディアや、優秀と劣悪を区別したりその差亀感覚を失ってしまった報道メディアを垂れ流しにしておくことは、昔、原子力発電所を目をつぶって容認してきた知識人や行政人の行いに等しい。

技術の進化は、大歓迎である。

ちょうどコメントで、とむさんが
<昔、アメリカの誰かで「テレビが有線になり、電話が無線になる」といった人がいます。そのとおりになってきましたね。テレビはNHKの一部を除き、コンテンツが悪すぎます。せっかくの高精細画面なんですけどね。>
と書いてらしたが、

私は、そのコメントとして
「地デジについては、私なりの考えを持っていますが、デジタル放送(通信)技術という点では、認めるものの、やはり国民を導いてゆくひとつのカリスマでもあるのだから、責任を持って社会浸透の展望を設計してあるべきと思います。とむさんはNHKの一部をと書いていますが、とにかく(すべての局が)貧弱だということは間違いない。」
と書いた。

何もNHKがいいものを作れて民法がダメだとはいわなくてもいいと思う。良品の比率はNHKが多いかもしれないが民法だって素晴らしいものもありましょう。

一方で、NHKの番組宣伝CMには呆れる。民法は呆れるを通り越してテレビを切っていたが、近頃はNHKの場合も間違いなく切ることにした。

したがって、テレビを観賞するというレベルで見るという時間は、限りなくゼロのなっているので、白状すると番組の評価も出来なくなっているのが事実である。

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情報通信媒体を通して国民が享受するものやできることはすべてが我々の権利だ、と考える人の多さを理由に、なし崩しにしていると人間の頭の中はどんどんパーになって行き、一部の人々だけがそれなりに思考を継続できる状態になるが、世の中を動かす流れを作るべく本当の要素は国民で、それがスカスカなのだから民主主義も多数決も投票も無意味になってくる。

テレビなどの娯楽は確実にパブリックドメイン化が進み、電波で流れる情報は即時性の高い報道とかチャットなどの流れを汲むものに集約される。

ますます、豊かに暮らすということを見誤ったまま個人的我先勝手主義が浸透し、自由というものがは勘違いされたまま、社会は荒廃を続ける。哲学を失った荒れた世紀を迎えるのだろう。
(地デジが悪いといっているのではなく、そういう時期に連動して変化するのが、世の常なのだろうと冷静に見ているのですが)

2011年6月22日 (水曜日)

続・人間の手に負えない、を考える

「人間の手に負えない」という言葉は、何度繰り返して言ってみても重みがある、と感じる。この重さを感じられるような人であって欲しい。(国民は)

先日の日記コメントの最後にも書き足したが、放射線がどこからどのように出てきているのか。そのことを何ら明確に示すことなくして、放射線レベルの数値だけでバカ騒ぎをして、世間を不安に陥れているメディアと行政サイドの責任は重い。重さを分からないでいることがまた情けない。

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原子核反応を利用した発電所も、山に降り注ぐ水を貯水したダムも、施設の中にたまったエネルギーは最終的に電気に変化してゆく。

エネルギーとしてたまっている姿は、水のほうが怖いのかもしれない。ダムが決壊したら下流の住民や村は流され生きるための生産拠点を失ってしまう。水は怖い。しかし、人間は水と原始時代から付き合ってきたし、ナイルの下流で文明を誕生させた人々はこの水を手に負えるものとして利用してきた。

原子核の反応を利用する施設は、水の貯まったダムと同じかもしれない。決壊しても住民が避難し、その後、対策を講じれば村が蘇るのか。原子炉というダムからもれた放射線は、いまだに、どのあたりからどのように漏れて、下流に(付近地域広域に)どのように拡散するのかさえ明確にできないままでいるのだから、これは「人間の手に負えない」と言わざるを得ない。

(放射線が)「手に負える」ようになるという根拠も残念ながら何処にもなく誰も示せない。むしろきちんと考えれば考えるほど、水を張ったダムとはある意味で同じ形での電力開発施設でありながら、根本的に違っていることが分かってくる。こういう違いに「根本的」という言葉を使い、「手に負えない」という判断をするのだ。

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いったいどこまで、自分たちの不自由さを取去って満足すれば、人間はひと息つくのか。

節電節電とバカ騒ぎする人たちの意識の中に、もっと不自由を我慢する心を復活させることから始めねばならない。

難しくない。

旬のものを旬の時期に食う。
明るくなったら起きて、暗いときには活動しない。
店も閉める。
自動販売機も電気も消す。
(なぜ「自動」のものが必要なのか、どれだけ自動化が必要なのかも見直さねばならないのだが)

何が悪かったのかな、と真剣に考える。
成り上がりの豊かさかな。
国民が魔術にかかったまま、醒めることはない。

これも「手に負えないもの」のひとつか。

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続・人間の手に負えない、を考える

2011年6月19日 (日曜日)

原理的なところで人間の手に負えない

6月14日の天声人語が、池澤夏樹さんの「核エネルギーはどこか原理的なところで人間の手に負えないのだ。それを無理に使おうとするから嘘で固めなければならなくなる」と連載小説の中で述べた言葉を引いている。素晴らしいこの言葉には、幾つもの論理が隠れている。少し紐解いてみる。

昔、物理学の講義で先生がテキストを片手に「このテキストは薄っぺらいですが中身は5倍も10倍も濃いんだ。行の間にいっぱい大事なことが隠れている」と仰ったその言葉が痛烈に残っている。「物理学」とはそう言うものなのだということであり、「学ぶ」とはそういう姿勢から貪り取ることなのだということを意味したと単位をもらってかなり後になって気づく。論理はたった一行の中に何十行にもなって展開されてゆく。

さて、池澤夏樹の言葉を考えてみる。

核エネルギーとは、何だろうと考える人はそれほどいないかもしれない。原子爆弾を連想することはまったく歪んだイメージではなく、ただ、少しの投入で非常に高いエネルギーを得られるという意味で、非常に画期的で夢のようなものであったのだろう。

しかし、ヒトは、いくら夢をかなえるためであっても、何者にも迷惑や加害が無いとしても、やってはいけないことがあるということをいつからか忘れてしまっている。そしてそのことを再三指摘している人がいるにもかかわらず、人類の文明の進化や生存のために、やってはいけないことにいくつも手を染める。

ほら、幾つも身近なことにもある。他人のものを盗む、壊す、脅すこと。倫理的と改めて述べずとも兄弟の結婚、遺伝子操作、遺伝子組み換え。恐喝、贈賄、収賄、などに始まり最近では悪意ある株取引、市場操作などもあるのか。そして殺人、傷害、放火など。報道の捻じ曲げ操作(のような恣意的なアンケート調査)…。

核エネルギーを操作する領域というのは、手に負えないことなのだと池澤氏は言う。「原理的なところで」と前置きをしているように、原理は分かっていても、できないし、やってはいけないことなのだ。

一部の知識人や偽知識人たちが、そのことをいとも簡単に「手に負える」と言っている。これには怒りを向けるところを失ってしまった。そういった人たちに真剣に血相変えて怒りをぶつけるれば、吠え立てる犬に真剣に血相を変えて怒っている、こととまったく同じ行為になってしまう。

手に負えない。だから嘘で固める。嘘で固めるという表現でもいいのだが、本質を解決しないともいえるし、手に負えるとは如何なることかを明確に定義し、そのことを如何にクリアするのかを、きちんと説明しないからそれを嘘と呼ばざるを得ない。

*

経済が行き詰るとかエネルギーが不足するではないか、と別方向から攻撃も来る。それとこれを区別して考える整理された頭くらいもって欲しかった。

エネルギーが不足して真っ暗な夜を迎えてもいいのではないか。
経済が行き詰ってしまえば、都会を中心にマネーで構築した社会を即座に解散して、国家は倒産させ、人々は自然の中で本当の豊かさを考え、求めてゆけばいいのではないか。
幸せとは何だろうということを、もう一度考え直しましょうという暗示だ
と、どうして捉えることができないのだろうか。

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しかしながら、マイナスの話ばかりをするわけではない。
・太陽光のエネルギーを使った発電と上手く活用できる社会システムを生み出そう
・風力発電も積極的に利用しよう
・バイオマスも然りだ
震災からしばらくしたころの日記にこの3つのエネルギーのことを書いた。すると偶然にも翌々日ころに各新聞社の社説が3つのエネルギーのことに触れていたのを見て、私の思いもまんざら間違っていないことを確信した。(5月17日18日の日記:エネルギーを考える)

科学技術は、風力発電の低周波ノイズをアクティブ・ノイズ・コントロール技術で解消するなどに打ち込めばいい。科学とは手に負えるものを捌くところに本来の意味があるのだろう。

行政は、電力供給システムを見直し、社会構造を180度展開させてでも、エネルギーというものを500年も1000年も先まで通用するもので引き継ぐ知恵を出さねばならない。

そのためには、エネルギーって何だろうか、どういう姿が一番理想的なのか、というところから考えることを始めねばならない。平行して家庭で自分の使う電気は自分で起こそう的な動きも見えてきて、見つめなおすのにいい機会だといえようか。

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おバカな発言をニュースで見ると悲しくなる。怒らない。もうええわ、アホくさって感じ。ヒトが進む道筋を、哲理の面で誤った人たちが多すぎる。

昨今の報道を見ていると、恐怖をあおるばかりの放射線レベルの数値が掲載され、社会を脅かしている。
もうやめてくれといいたい。
報道と一部知識人と一部偽知識人たちのステージは見たくない。
誰か、哲学の話をして欲しい。

やれやれ
脱線的随想となってしまった。

2011年5月18日 (水曜日)

エネルギーを考える Ⅱ

暮らしの中にエネルギー。そういう言葉があって電力会社がオール電化を推進するのに使っていたような記憶がある。事業者としては間違いではないし、否定をするものでもない。ムスメが就職するときに反対をした会社もあるが、電力会社なら反対はしなかっただろう。

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電力は、これからのものなのか。
またはエネルギーとして、未来があるのか。

これには解決しなければならない課題がある。
資源は限りなくあるわけではなく、化石エネルギーは、40年余り、天然ガスで60年、石炭で200年。ウランが60年。
(環境科学者の諸説によりますが、通説として採用します)

せっかくですから数字に強くなって、覚えておくといい。

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なくなったらどうなるか。

対策を打たなければ、エネルギーとしてなくなるのだから、それで電気を起こしていたら電気が消えます。

これは、間違いないことです。化石燃料が想像よりも長く採掘できることはありますが、いつかはなくなることは、地球の構造を考えるだけで自明。

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代わりは?

・太陽光
・風
・バイオマス
などがもっとも有力。

地熱も半耐久的に有効。

今注目されているバイオマスはまさに地球を救えると思う。

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太陽光線を電気に変換することだけを取り上げてみると、例えば、光-電気エネルギー変換素子が今よりも50分の1の価格で生産可能になるとすると、その辺の壁には太陽電池パネルがペタペタ貼ってある状態になります。

熱や光エネルギーが電気に変換されるので、パネルを貼った物質は熱くなりません(家屋、車などは冷却する手間も省ける)

その辺で電気が起こせるので、前に触れた【分散エネルギー(供給)システム】を一般化させれば、電気は中央の発電所で作るのではなく、至る所にある発電施設で作れますしそこから供給できます。

フィットネスクラブの運動エネルギーが電気エネルギーに変換され、会員は働いて割引をもらい、電気は市民へ、という絵が描けることになる。

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自動車会社や電力会社は、事業の範囲や形を100年200年先を見通して構築しなおす必要がある。

そのためには、国家プロジェクトとして電力を見直す必要がある。

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・・・のだが、そんな思い切ったことはできないから、永遠に電気で悩む社会と付き合うことになるのだろうな。

私は先にこの世を去っていますが、できる限りのことはしたいとは思っています。

だから、1700年代にボルタによって電池が発明されますが、そのころにまで暮らしを巻き戻してこれからの電気との付き合い方を再構築しなければ解決しない、と思うなあ。
(たった300年ですぞ)

国民は、もっと、物理と科学の歴史を勉強しなければならない。

2011年5月17日 (火曜日)

エネルギーを考える Ⅰ

人間というのは、と書けばいいのか。
知に神様のようなパワーを信仰する人々の集まりは、と書けばいいのか。

知が作り出した原子核反応を利用して、熱源を得て、発電をするというシステムを考え出したことに、これほどまでにこだわり続けるのは、愚かとしか言いようがないと、そろそろ断言していいのではなだろうか。

どこまで、偽りの神様を信じるのか。

分散型エネルギー(供給)システムであるとか、自然エネルギーというものを、何かかたくなに拒んでいるとしか思えない。何か恨みでもあるかのようだ。

金儲けに走っているマスメディアの翻弄されながら、あれだけ痛い思いをさせられた人たちでさえ、未来をしっかりと見ようとする段階になって、もう考える力を失っている・・・ような人々があちらこちらに出てくるから、あきれてモノが言えなくなってきた。

本当に私たちの暮らしを見直す気はあるのだろうか。
経済はこのまま、またはそれ以上を保持しながら、暮らしを見直す。
それを実現するためには、従来に描いた筋書きを一切やめて、エネルギー学と地球物理学、惑星科学を真剣にもう一度最初から検証して考え直すことから始めねばならないのではないのか。

2011年5月10日 (火曜日)

言論は自由であっていいのか

▼書きながら思いが変化する。時々刻々と変化する中で私の中を揺らぐことなく流れているモノとはなんだろうか。そんなものが果たしてあるのか。

▼連休中にこれを書いている。もうやがて2か月を迎える。2か月が長いか短いか。人はそれぞれの時間の物差しを持っているし心の物差しも持っている。一向に進まない復興とみるのか、それほどであれば上出来とみるのか。行政サイドの作業最前線の皆さんのご苦労を考えるといい加減な言葉を吐けば自らの軽さを露呈させてしまう。

▼3か月後にここにいる人たちの姿や心がどうあるべきで、実際にどうなっていると予測するのか。そのためには如何なる手を打つべきか。 6か月後を見据えてどの様な戦略図を描くのか。では、1年後では、3年後では……。実はその様にビジョンを見つめて構築することがこの闘いでの作戦で最も困難なのだろう。俯瞰的過ぎても落ち度が出るし、頭に血を上らせても失敗を重ねる。

▼ポテンシャルは備えている。行動力も判断力もある。金は何とかする。では、様々な方向から様々な邪魔が入る。何が邪魔をしているのか。別に自由に飛び交う言論が元凶だと言いたいわけではない。(どうでもいい奴の言葉ばかりが前に出てきて邪魔だという事実はあるが)

▼本当に私たちが必要とする報道は何か。報道側は今一度見直さねばならない。日本中が幸せボケで豊かさボケで満足ボケとなっていたつい先ごろまでの、銭金(ゼニカネ)だけで物事の尺度を決定し善し悪しを判断していた時期、経済社会構造を真っ先に立てかけてモノを見ようとする視点を忘れろとは言わないまでも、これからは変えてゆくのにちょうど良い機会だ。自由主義でなければ社会の進化はないにしてもそれを盾にして暴走する思想集団(これがまた賢者の集団で)も咎めねばならない。そして、腐った報道にいつまでもしがみついていたら社会が荒廃してゆく。被災地の何を報道してほしいのか。私たちは何を知らされたいと願っているのか。興味本位にその辺に転がっているようなあいまいでいい加減な情報とは一線を引けるような報道を期待したい。そのしっかりしたものの上で自由に言葉を出し合うのがいい。


「三重は少し原発には遠いからかもしれませんが、いつも緊迫感のない」とA君に形容された私は初日だけ熊野古道を歩いてきたものの黄金週間中は家にいます。福島県の友人は田植えの苗の作付が着手可能か否かの明暗さえ出ないというのに、幸福にも私の地方ではおよそ田植えは終了しました。

▼先日から考察しながら回想を開始している遺す言葉」がなかなか纏まらず、どこまで考えても社会への怒りや自分の人生の悲しみのようなものが私の脳裏に再来する。だが所詮私も、その程度のニンゲンだったのだ、という気もしてくる。

▼現代は自由にモノが言えて、こうして書けて、さらにこのように読まれぬかもしれずとも遠方に送り付けることもできる。新聞にもブログにもツイッターにも自由に意見を投稿できる。たとえそれが間違っていようとも正しかろうとも、活字となって暴走させることもできる。また、何処の誰が責任を負うてくれるかもわからないええ加減な言葉が我が物顔で暴走し、社会はどんどんと転落してゆく。地に落ちで本当に目が覚めるのか、やってみれば面白いかもしれない。

▼私が何を考えているのか…は、私にしかわからない。緊迫感がないと言われた事実からすると私の考えていることは、世間一般の目でみて緊迫感に欠けるということを意味しているのだろう。ひとつだけはっきりさせておくと「緊迫感というものを持つ」という概念すら私は思い浮かべなかった。したがって(緊迫感を)持つことが大事であるとか不可欠であるとか、またはその逆であるとかいう概念も当然持っていない。そんな奴の頭の中に、では、何が思い巡っているのか。私にしかわからないのだろうが、言葉に(文字に)して表さねばどこにも出てゆかない。

▼三重県が発信するメールマガジン「三重の環境と森林」の「巻頭」と「編集後記」で私は以下の内容を記した。(原稿チェックの段階で下線部の内容にかかわる箇所の削除指示があったが。仕方ないのと悔しいのとで、自分のブログに全文を載せたけど。無力である)


メルマガ

【巻頭】

春を迎えました。花が咲き鳥が啼いて野山はいっそう元気になってきましたのが伺えます。通勤列車の沿線に広がる麦畑も日に日に青く大きくなり、県庁前の花時計も色鮮やかになってきました。このメルマガが配信されるころには偕楽公園の桜は散ってしまいツツジの出番になっているかもしれませんね。

自然の移ろいにうっとりとさせられながら、こうして春がやって来るという約束は百年も千年も昔からなされていたことであろうと思い、また一方で東日本に地震災害にもたらした地震も地球と人類が交わした約束であったのかもしれない……とも考えたりしていました。被害に遭われたみなさまをお見舞い申し上げますとともに、一日でも早い復興をお祈りします。

「天災は忘れたころにやってくる」という言葉を物理学者・寺田寅彦が残しています。私たちが暮らしている地球という惑星から見れば、その果てしない生命線上の捉えようのないほど小さな近年に私たち人類がいます。200万年以上昔に2本足で歩く人類が登場し、5千年前に文明が生まれ、科学技術に至っては18世紀ころから歴史が始まります。

これらの長大な歴史のなかで、人々の暮らしが幸せを夢見ながらも何者かを畏れ、知恵を絞り文化を築き上げてきたことを振り返ると、環境を守りながら自然とともに豊かな暮らしを実現してゆく過程で見直さねばならないものがいくつもあることに気づかされています。

そのようなことを感じながら四月の始まりを迎えました。

【後記】

アラスカに住み自然を見つめ続けた写真家の星野道夫の著作を読むと「自然に対する畏敬」という表現が数々登場します。そこで「畏敬」とは何だろうと考えてみます。

辞書を引けば答えは簡単ですが、彼の伝えたかったことや彼の感じていた畏敬がことごとくすべての人々に伝わったならば、私たちが目指している環境創造活動は違った形になっていたかもしれません。

天災か人災か。東日本を襲った大震災の余震は物理的にも精神的にも続いています。社会までもが揺れ続ける中で3月30日の天声人語(朝日新聞)は「地球や自然への畏敬が足りず」「天災が暴いた人災である」と書いています。

大きな問題を解決しても将来にあるべき私たちの姿が揺らいでいては再び社会は道に迷うことになります。コラムは「電力業界は論敵の視座から出直すしかない」と手厳く締めていますが、環境に携わる我々も、エネルギのことを見つめなおし「地球を見つめる視座」が必要なのでしょうね。


▼論敵の視座。最も今の社会に欠乏しているのではないか。AKB(あほ・かす・ぼけ)な連中が勝手なことを言い合うなかで、この歴史的な人災を、知恵の力で解決へと導こうとする力を国家は全く失っている。やはり、「天罰」と言って非難を浴びたものの素晴らしいどこぞの知事の発言は改めて考え直しても面白く、もしかしたらひとつの「視座」では正しかったのではないかとさえ思えてくる。(そのこともブログで触れたように、もっと別の区域の人々に浴びせかかれば、まさに天罰になってよかったかもしれない)

▼人の考えは言葉で表現されるが、その人が正直にモノを言っているのかどうかは誰も保証できないし証明もできない。この未曾有の天災と人災で、私は何をどう感じて思っているのか。誰にも言わないし、どこにも書かない。書き残しもしないだろう。

▼何を考えて生きているのか。次に述べるようなことを私は考えて生きているのか。そのなかに私の本心とは逆の考えがどれだけ含まれているのか。わかる人はそれほどいないだろう。所詮、世の中はその程度なのだ。つまりは、思ってもいないことをペラペラと書くこともできるし、夢を語ることもできる。事実をきちんと報告することもできるし、ひとつの思想を論文にでもできる。そういう社会の中で生きていながら、結局のところは慎ましやかになけなしの金を手に、暮らしている。

▼どこぞの有名なケーキショップのひと切れのケーキを食うもよし。世界に名をとどろかせるマカロンを食うもよし。しかし、今そんなことをしている暇があったら倒産するかもしれない国家の再建に知恵を貸そうとするのが国民の生きる道だ。経済の発展や回復も大事だが、一部の経済学者のマヤカシの言葉のマジナイに惑わされた世相の流れをもう一度しっかりと見直すべきではないのか。経済学のボケカスどもが社会発展が大事だと叫び、情報化社会が二十一世紀を大きく進化させるのだ大声で叫ぶ。声が大きければいいというものでもなかろう。しかし奴らが滅びない限り世の中は、ささやかに暮らす庶民が夢に描くようなカタチには戻っては行かない。

▼原子力発電の賛否についても、今ごろあれこれ言っても無力だ。もう30年前以上も前からそのことを言い続けていても世の中はAKBのパワーに牛耳られていて、なるようにしかならなかったんだから。

▼東日本国と西日本国の間ではパスポートは不要で、通貨は統一されているのだけれど、あれは隣の国で起こった天災と人災だから、と考えている人がいてもいいだろう。愚かな東ノ国の歴代の総理が愚かな行政をした結果、首都圏などという非哲学的で勝手気ままで自己中心的な区域を作り上げてしまった。裸の王様という物語を子供の頃に読んだことがあったが、まさにその通り。都市は肥大化し文明として果たしてそれほど価値が高いのかと思えるような文化のもとで人々は自己満足をして生きている。(そう見える)

▼首都圏は解体すべきだ。そしてその都市のためにエネルギーを生産し続けて、放射線という得体のしれないものまで頭から浴びせられて苦しい生活をさせられた一部の地域の人々はもっと怒らねばならない。怒るべきだ。もうこれ以上、そんな人のためにあらゆるものを犠牲にするのはやめようと言いたい。滅びることが大事なんだ。天罰だったんだから。

▼でも、滅びるなら東ノ国を丸ごと滅びさせてしまうのが一番だ。昔、ベトナムから多くの難民が流出したように、豊かで自己中の生活をしていた権力や権利まみれのニンゲンは、どこか新天地を求めて流出したように、人々はもう一度社会を見つめ直し、自分の存在を考え直すのがいいだろう。こんな人災の中にあってもそれでも暢気に都会を守ろうとしている連中のためにそんなところに留まることなど不要だ。新しい夢の国を作るのがいい。

▼東京湾に原発を、という署名が大昔にあった。デモもやってた。中曽根元総理の最近の著述を読むと、東京湾に原発を作ることの危険性を認めている。「想定しているから(作らないのだ)」と正直に言っているからあの人は偉大な政治家で実際に成功もできたのだろう。あの人のイデオロギーとは真っ向から対立するものの、行政人としてのスタンスに石原慎太郎と同じように素晴らしいものがある。それを持っているから多くの人が認めたのだろう。それとも、国民はそんなことなんか何も考えていなくて、みんながそうするから的な勢いでそうなったのか。面白い世の中だと思う。このような立派な論敵が少なくなったことが悲しいともいえるか。決して嫌味ではなく、論力のようなものが弱体化したから社会が空洞化し形骸化したのだ。

▼電気の節約だって。何をいまさらあほらしい。暖房便座の電源はもう何年も前からOFFです。お風呂の追い炊きも特別な事情がない限り使用しない。風呂はいつも夫婦二人で入る。熱い目のお湯が好きな人からやや先に入る。蛍光灯は半分以上を消して、掃除機は使わず箒を使う。いわゆる美味しい水という類のものは買わない。深夜までは起きていない。クーラーは数年前に壊れたのを機会に新しいものは購入しない。車の洗車は水道水などの上水では行わない。20分程度の外出は徒歩か自転車で行く。その程度の場所に用事があっても電話で済まさず出かける。雨戸などを活用し冷暖房効果を高める。コタツはぬるめに設定し寒い思いをする。その分服を着る。外出するときに着るような厚めの服を上から羽織って寒さを少し我慢するのだ。昼間は電燈を使用せずに、仕事や作業は窓際に移動してこなせる様な工夫をする。明るくなったら行動するよう心がけ、暗くなったら余分なエネルギを使わない。車のエンジンは停車時間が約1分以上のように長くなることがわかっている交差点では停止する。ブレーキを不必要に踏まねばならないような運転はしない。当然スピードも不必要に出さない。アイドリングストップなる高級機能を持っているような車に投資をすることや無駄な買い替えはしない。あるものを上手に工夫をして暮らす。(行政の方針の間違いを今更指摘しても社会改善に直接はつながらない)。車は最低台数に減らす。健康に心がけ医薬にかける経費を減らす工夫をする。数分待ったら来るような便利な電車に乗るために(自分の快適さのために)無駄な燃料を使うことは避け、1.5時間から2時間ほどの間隔でしか走っていなくとも時刻表を見ておけば乗れる列車を利用し、多少は不便であろうが空いた時間を上手に活用する暮らしを心がけ、化石燃料の不必要な消費を避ける。もしも、計画停電が来ても計画断水が来ても風に吹かれる葦のごとく飄々と暮らせるようなスタイルを意識して毎日を暮す。

▼でもね、本音を言うと、今回の震災で電気ガス水道が止まってみてその大事さに気づきましたという人があまりに多くて、私たちの今までの環境教育はおしゃれの道具としての環境スタイルをPRしてきただけだったのかと省みる。この苦境で体感するようなものの大事さを感じて環境を守ろうと常に言ってきたのだが(伝わっておらず、伝わった結果から)、いかにも豊かな社会のオトシゴたちが捉える作法で理解されたのだな、と感じた。復興したら何割かが忘れてしまうことを思うと厳しいことを言うようだが、まだまだだと思う。自分のことしか考えていないレベルだ。

▼長くなるのでひとまずこの辺でペンを置く。

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