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2018年1月 5日 (金曜日)

星野仙一 七十歳 (一月四日)

天地人 1/7

 スポーツ選手には、そのプレースタイルや外見などからさまざまなニックネームが付けられることがある。それが付けられれば、超一流の証しと言ってよいのかもしれない。

 よく知られているのは外国のサッカー選手だろうか。ペレ氏は「王様」。「皇帝」はベッケンバウアー氏。プラティニ氏は「将軍」と呼ばれた。「空飛ぶオランダ人」はクライフ氏だ。野球界で「ミスター」といえばもちろん長嶋茂雄氏。「トルネード」は野茂英雄氏。松井秀喜氏は「ゴジラ」だった。

 プロ野球中日のエースとして「燃える男」、その後、中日、阪神、楽天の監督になってからは「闘将」と称されたのが星野仙一さんだ。気迫を前面に出し、特に「宿命のライバル」と呼ぶ巨人戦ではめらめらと闘志を燃やした。

 数々の名シーンがあるはずなのに、小欄がなぜか真っ先に思い出すのは、あの「ヘディング事件」。グラブをたたきつけて悔しがった、そのときの投手が星野さん。1981年の巨人戦、遊撃後方のフライを中日の選手が頭にぶつけて捕球できず完封を逃したのだ。

 いや、しかし何と言っても忘れられないのは、2013年に楽天を初の日本一に導いたこと。東日本大震災の被災地東北が歓喜に沸いた。星野さんの訃報がきのう伝わった。本県のゆかりの人からも惜しむ声が漏れた。70歳。あまりに突然で、あまりに早過ぎる。

…………

談話室 1/7

明治大野球部のキャプテンにはグラウンドの外でも三つの役目が課せられた。合宿所の便所掃除と監督の車の運転手、チームについての意見具申である。名将島岡吉郎監督(故人)の考えに基づく厳格な習わしだった。

「人が嫌がること、つらいことこそ先頭に立って上の者がやるべきなんだ」と便所掃除の初日、監督はたわしと雑巾を持ち手本を示す。運転手役は礼儀や言葉遣いなど気配りの修養になる。監督室を毎朝訪ね、その日の練習や試合のオーダー編成といった意見を申し述べる。

多くの逸材を輩出する名門で星野仙一さんは主将を務めた。熱血指導で島岡イズムの薫陶を受け、野球人の「原点」を学び、「指導者としての哲学」を培った。「厳しさと激しさの中でこそ人は伸びる」。著書「勝利への道」で「オヤジさん」と慕う師の姿に自身を重ねた。

闘志むき出しでマウンドに立つ「燃える男」、チームを率いて栄光に導いた「闘将」は鮮烈な記憶と球史に大きな足跡を残して永逝した。プロ野球楽天を日本一の座に押し上げ、東日本大震災の被災地に元気をもたらした「本気の男」は天上で、恩師と何を語らっているか。

…………

正平調 1/7

中日のエース時代、星野仙一さんはけがに苦しんだ。痛めたひじが、あるとき赤くはれ上がっていた。聞けば、ハチにわざと刺されたのだという。

ミツバチの針に刺されたら血行障害が治る。そう聞いてハチをピンセットでつかみ、ひじに当てたのだと。投げて勝つことに命をかけた男の執念だろう。本人からの告白談を、野村克也さんが後に明かしていた。

突然の悲報である。星野さんが70歳で急逝した。“燃える男”と“闘将”と。二つの異名がこれほど似合った人をほかに知らない。語るべき評伝はあまたあるのだろうが、ふと頭に浮かんだのがハチの話だった。

阪神の監督時代には、「あしなが育英会」のステッカーを選手のヘルメットに貼ることを提案している。震災や病気で親を亡くした子どもたちを支援する同会には、ステッカーの効果で寄付の申し出が相次いだ。

〈人の半分は後姿です〉。昔の広告コピーを思い出す。けがと勝利の重圧に独りもがき、未来ある子どもたちにはそっと手を差し伸べる。華やかな舞台の陰で見せた、星野さんの後ろ姿に教えられたことは多い。

18年ぶりの阪神優勝で関西を元気づけてくれた人である。ありがとう。天上へ旅立っていく背番号「77」に、今はまだほかの言葉が見つからない。

…………

滴一滴 1/7

「燃える男」と呼ばれた星野仙一さんは倉敷市水島で生まれ育った。「私の闘志を培ったのは、田舎者で、決して野球エリートではないという自覚によるものではないか」。そう著書に記している。

工場の技師だった父は星野さんが生まれる前に病死した。母は工場の寮母をしながら3人の子どもを育てた。「周りの人を大事にしなさい」。それが母の口癖だったという。

負けん気や親分肌を示す逸話は子ども時代から事欠かない。けんかの強さで知られ、理不尽な上級生には一人で向かっていった。一方、後輩や仲間の面倒見はよく、小学6年の時は難病で歩けない同級生を背負って登校した。

野球をするように勧めたのは母だった。体が大きく、気の強い息子が横道にそれないよう、心配してのことだったという。高校時代、甲子園出場はかなわなかった。その悔しさが「今の自分をつくった」と語っていた。

野球人生を振り返り、自らを「幸運な男」としばしば称したが、幸運は逆境に耐えてこそ手にしたものだろう。中日の監督時代には、妻が白血病で亡くなる試練もあった。

昨年11月には帰郷し、野球殿堂入りの祝賀会で見せた笑顔を覚えている人も多かろう。突然の訃報を信じられない思いで聞く。1年半前から闘病中だったという。最後まで「星野仙一流」を貫いた、その強さを思う。

…………

地軸 1/7

 悲報に涙を流す市民の姿があった。ありがとう―。東北の地から寄せられるたくさんの感謝の言葉に、その存在の大きさを改めて知る。

 球界の「闘将」星野仙一さんが、人生のグラウンドから去った。楽天の監督就任1年目に、本拠地が東日本大震災に見舞われた。闘志むき出しのプレーと采配で沸かせた「燃える男」は、被災地を思いやる「情の人」でもあった。

 避難所を訪ね、災害臨時ラジオで共に乗り越えようと語り掛けた。見えない明日を前にどうすべきか自問自答。諦めないで戦う姿を見せることで希望を、と誓った。

 「選手はこれまで優しさを被災者へ届けたが、今年はさらに強さを与えたい」。2013年、オープン戦で松山を訪れた際にはこう語っていた。そして、まさにその年、日本一を決めた。仙台の雨の球場で、仮設商店街で、集会所で、抱き合って涙を流す被災者やボランティアの姿が胸に残る。

 岩手、宮城、福島3県では今も1万5千人余りがプレハブ仮設住宅で暮らす。ふるさとに戻れない避難者は8万人近くいる。復興への道は、まだ遠い。

 福島県南相馬市では先月末、津波に耐え、住民の心のよりどころとなっていた「かしまの一本松」の命の灯が消えた。だが、そのそばには一本松の種から育てた苗木が植えられるという。希望の光は受け継がれる。「諦めない」星野さんの思いもまた、人々の心を照らす光となって、つながれるに違いない。

…………

小社会 1/7

 安芸市があれほど熱狂に包まれた日々がかつてあっただろうか。星野仙一さんがプロ野球阪神の監督に就任した2002年の春。キャンプ地タイガースタウンのにぎわいは今も語り草である。

 

 安芸球場は観客が1万人を超える日が続き、市内のホテルや旅館は報道陣で満杯。このため周辺の駐車場で車中泊する県外客が続出した。球場前のコンビニエンスストアの売上高は全国の系列店の中で上位を記録。

 

 商店街は監督の名前にちなんだ千一円セールを展開した。商品や宣伝に知恵を絞って売り上げを伸ばすなど波及効果はすごかった。「闘争心を燃やせ!」「もっと元気出せ!」。グラウンドに響く激しいげきに、市民まで奮い立たされているように感じたものだ。

 

 星野阪神になってから、安芸キャンプが縮小されるといった残念なこともあった。それでも低迷久しいチームを03年にリーグ優勝させている。言うことは言うが結果もしっかり残す闘将だったと、訃報に接して改めて思う。

 

 楽天の監督だった13年には日本一に導き、東日本大震災の被災地を盛り上げた。東北だけじゃない。夢を諦めず、挑戦し続ける姿勢に、どれだけ多くの人が勇気づけられたことだろう。

 

 星野さんが再び阪神監督となり、安芸球場に立つ姿を想像する。「うつむくな!」「元気を出せ!」。疲弊が進む地方で暮らす一人として、背筋をぴんとさせるあのげきをもう一度聞きたかった。

…………

水や空 1/7

私事にわたって恐縮だが、長崎に生まれ育ったのになぜか「寝ても覚めても中日ドラゴンズ」という熱狂的ファンを身内に持ったせいで、「燃える男」の活躍にも派手な言動にも、知らず知らず目や耳が向いた気がする。

新春の夢を思い描く松の内に、好きな言葉は「夢」という星野仙一さんの早すぎる訃報を聞く。70歳。中日と阪神をリーグ優勝、楽天を日本一に導いたのだから「闘将」という前に「名将」と呼ぶべき人だろう。

阪神を引っ張ったころのオフ中、ベテランの多くを自由契約にして“血”を入れ替えた。非情と呼ばれたその裏に「何としても勝つ」の信念が張り付いていたとすれば、ああ、やっぱり「闘将」なのだと思い至る。

プロ野球にげきを飛ばしたことがある。「必死でやってくれたらいいの。ホーム(本塁)でさ、バーンとぶつかって、けんかになるでしょ? それでいいっていうの」

何かと無理はせず、ほどほどに、角を立てず-と自制が重んじられる昨今、必死でやれよと叫び、必勝を期して実際に勝ってみせる人の存在が、今にしてずしんとくる。

楽天が日本シリーズを制したとき、大震災の被災地に必死の末の「V」をささげた。燃え上がるほど熱いだけではない、苦しむ人たちの肩に温かな手を置く“ほっかほかの人”でもあったろう。

…………

有明抄 1/7

現役時代は不動の強者・巨人に臆せず立ち向かった。監督となっては選手を鉄拳で鍛え、審判に激しく詰め寄る…。人呼んで「燃える男」、星野仙一さん。この“熱い血”のルーツはどこにあったのだろう。

「お父さんがいる子には絶対負けない」「家の中でたった一人の男なのだから、いつもちゃんとして何かあったら一番頑張る」―。星野さんの小学生のころの誓いである。母親の胎内にいる時に父親が病死し、姉2人の母子家庭で育った。

母親は工場住み込みの寮母として働き、3人の子どもを大学に進ませる。星野さんは、大学時代に母親から毎月送ってもらった書留封筒と手紙の束を、ずっと大切にしていたという。明治大野球部では、スパルタ教育で名をはせた島岡吉郎監督に出会う。

島岡さんから「命懸けでいけ!」「魂を込めろ!」「誠を持て!」―の三つの教えを徹底的に仕込まれたと自伝『夢』に記している。星野さんは島岡さんに、知らない父親像を重ねていたのかもしれない。厳しさと愛情。それは、星野監督そのものだ。

その星野さんが70歳で亡くなった。投手としては、意外にも146勝にとどまり、監督としての評価が高い。「若者を育てていくことは男のロマン」と語っていた星野さん。精魂込めて育てた野球人たちの中に、いつまでも生き続けることだろう。

…………

河北春秋 1/7

試合に敗れた翌朝はどうしても寝覚めが悪い。采配を振ったわが身を責める。「チクショー、この野郎」。そんなとき、仙台市中心部の自宅マンションからいつも散歩に出た。「東北大の片平キャンパスから広瀬川沿いへ出て山並みを見る。これがいいんだ」

街角では行きつけのとんかつ屋のおじさんが店の奥で開店準備をしている。鮮魚店は仕入れ魚を忙しく店頭に並べている。「『ヨッシャー』と思う。息遣いを感じて、俺、この人たちのためにも街のためにも頑張ろうって思ってくるんだよ」

享年70、星野仙一さんの訃報に接し、生前伺った話を思い起こしている。スポーツ部に在籍していた頃、ちょうどプロ野球東北楽天の監督や球団副会長だった。沈む心を闘争心に変えてしまう「燃える男」のパワーの源は街と人であると知った。

中日での鬼気迫る投球、中日と阪神を指揮してリーグ制覇、そして東北楽天で日本一と、まばゆいばかりの大輪が咲いた歩みのなかで、仙台での散歩はささやかな道端の露草だったか。だが、それは「俺は二流投手」と言っていた野球人がユニホームにそっと挿した花だったと思えてならない。

露草の花言葉の一つは「懐かしい関係」という。東北で誰が忘れよう、背番号77。きょうの七草がゆは何と苦いことか。

 

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