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2017年4月25日 (火曜日)

消えゆくもの 穀雨篇 (裏窓から)

(四月二十日 穀雨)

ムスメの旦那さんのおばあちゃんが亡くなった

旦那さんにすれば実の父の母(だからおばあちゃん)です

ムスメ側から見れば私の母と同じ関係になる

幸いに私の母は生きていて

今日も電話を掛けてきて

「タケノコをもろたのでどうや」と言うていた

タケノコは今年になって二回めで

一回めはしっかりと湯がいたものを用意してくれて

それをもらって帰って炊いて食べた

明日も受け取りに行くという約束をした

この先 あと何度受け取りに行けるだろう

100歳まで生きたとしても春は十回あまりしか来ない

ムスメ家族のおばあさんのことを考える

若い夫婦はどのように

八十歳をを過ぎた人の死を捉えたのだろうか

自分が歳をとるにしたがい子どもが大きく成長する

それと同時に、血や義理で繋がった血族・姻族を失う機会が増える

まだ三十歳ほどのころの自分を思い出してみる

つまり

自分の身の回りで人が死んでしまうということに

未経験であった時代のことを私は回想した

若い二人はどんな風に死別というものを捉えているのか

これには計り知れないものがあるのだ

ひとこと 死別と言っても

様々な死に方がある

なかには

若くして無念な死に方をする人もある

憎まれながら死ぬ人もあれば

惜しまれて死ぬ人もある

別れについて考えても

人それぞれである

いつかは別れがくるのだが

幾つものドラマがありシーンが起こる

喜怒哀楽、非情不条理に満ちていることもある

あれこれと思うと

私が歩んできた三十年前に遡って

あのころの自分を思い出すとか

その後の歴史を掘り返すのは

今更のことながらきわめて辛い

その忸怩たる思いを

誰に引き継げるわけでもないし

夫婦の仲で話題にしても

分かり合えるものでもなかろう

若い二人も三十年後に私と同様の感情や思いを抱くとは限らない

それは当然のことだ

あらゆる条件やモノ組合せが変わって

心もまったく違った感性や感情の上で生きているだろうから

新しい時代には新しい心情が生まれているのだろう

このような哲学めいたことを考えはじめると

迷路のなかを歩き回るようである

糸口などまったくないようでありながら

必ずとあると信じている自分の力のようなモノの感触を

掴むことができる

私は

昔からこんなことを考えるのが好きだったのかも知れない

しかし

この年齢になってからある年代まで戻って

考え直すからこそ意味があるだとも思う

ある意味では

すでに無力なのだけれども

考えることによって

小さな炎を灯し続けて

これからの年令を生きていきたいと願っているのかも知れない

その炎を

聖火の火のように

受け継げたら最高の幸せだろう

あの子たちのおばあちゃんが亡くなったことを

最も悲しんだのは紛れもなく息子であったはずで

この人の心は揺らぎながら

その人から生まれて

あの人と共に60年間を生きてきた時間や歴史を

死別する前後の相当の時間に静かに

考え思い出し尽くしてきたに違いない

そのことを

つまり、何を回想し何を考え何を悔やみ何を喜び……

などということを

子どもたちに伝えることはできない

けれども

炎として受け継ぐことであるならば

できるかも知れない

(通夜から帰ってきて)

穀雨の夜はそんなことを考えておりました

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