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2016年8月19日 (金曜日)

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

堀川惠子さんに出会えたのは、とても幸運であったと思う。それは、ちょっとした書評の何かに閃きがあって手にした
● 永山則夫 死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの
● 永山則夫 封印された鑑定記録
という二冊を読んだのが二年ほど前で、あのときの出会いがなければこの作品は間違いなく読まなかった。

原爆供養塔は、広島平和記念公園の片隅にある小さな塚で、そこの地下にはおよそ七万人の遺骨が眠っている。この物語は、この原爆供養塔に毎日通い世話をしていた佐伯敏子さんという女性がヒロシマで闘った歳月を、堀川さんが取材をして、さらにこの人のやってきたこととやり残してきたことを受け継いで、遺骨の家族を訪ねて歩き、話を聞き纏め上げたたものだ。だがしかし、それでも見えているものはヒロシマのほんの一部であり、終わりのないことなのだということを知ることも大事なことだと思う。

取材の中で語られる一言一言の想像を絶する出来事や地獄のような風景、佐伯さんの半生から語られる壮絶な事実は、ヒロシマから経験者が消えてゆくけれども、次の世代へと受け継ぐ貴重な言葉だとして絶やしてはならない。

ヒロシマを語った人もそれを聞いた人も、消えてしまった形で登場した人たちも、七十年というあれからの年月に言葉に出来ないモノを滲ませている。作品を読むとそれが伝わってくる。

その堀川さんは、まずその佐伯さんを訪ねたのだった。序章はそこから始まる。

テレビは周知の通り映像で勝負をするドキュメントを提供するメディアである。そして、その正反対の方向から「活字」や「写真」で迫るが書籍によるルポルタージュである。

テレビならば無駄になるような些細なことや面白くないこと、だらだらと長すぎること、細かいことなど、さらにはゴミのネタもみんな活字にして積み上げて(それでも涙をのんで削るのであろうが)私たちに提供してくれる。しかも、一過性のモノではなく、文字として残って自由に読み返せる。声に出しても読める。(この作品もぜひ声にだして読んでもらいたい)

今の時代、何もかもがデジタル化になり、テレビのような映像ドキュメントは、接しやすく入り易いため人気があることもあって、予備知識や興味と無関係に、誰もが目に飛び込むモノを深く考えずに見て触ることができる。
映像の刺激が強烈であれば簡単に食いついてしまうこともあるだろう。

確かに映像(動画)は、美しいモノを美しく醜いものもありのままの姿で確実に伝えることが比較的容易だ。音も伝える。匂いもやり方次第ではかなりリアルに近い形で伝える工夫ができるかもしれない。

しかし、活字のルポはそうは行かない。膨大な調査・取材をする点ではどちらも同じでも、活字メディアでは、資料の吟味を怠ってホイホイと積み上げてしまったら途轍もなく不出来な作品になってしまう。読者に伝えたいことの肝心な部分さえ伝わらなかったら、ルポが死んでしまう。

堀川さんはテレビの報道の人であったのだが、活字のドキュメントを書く人に姿を変えている。しかしながら、どこかしらに映像のセンスが流れているのが読んでいて伝わってくる。一字一句を絵に描くように綴ってゆく。

活字出身の映像作家がいいのか、映像出身の活字作家がいいのか。ぼーっと頭の片隅で考えながら作品を追い続ける。

取材に何の甘えも手抜きもないヒロシマの物語にグイグイと引き込まれいていってしまう。

いったい誰に読んでもらいたいのか。
今の我が国の人たちのどのような人々、年齢層に読んでもらいたいか。

必要性として、誰が読むべきだろうか。
何故、これをルポとして伝えなくてはならないのか。
伝える意義や意味とは何なのか。
ひとつひとつをここで紹介したいが、それをすれば1冊丸ごとになる。無駄のない1ページ1ページは淡々と語り続ける。

作者は焦ることも気負うこと無く、この膨大な(分厚い)本を、五倍も十倍あった資料から纏め上げている。

作品は静かに事実を語り続け、読者はそれを堀川さんの魔術のような構成や記述により映像に変換してイメージを膨らませる。だからこそ一人でも多くの人の目に届けたいと思う。

現実をぶち壊した残忍なこのような事実を書いた作品が書店に並び、大勢の人が想像を超越した事実に触れる。

読んだ人だけが知っていればいいことなのか。
知らない人があれば届けて皆が隈無く読むべきなのか。

70年という歳月が過ぎてゆくなかで、作品に書かれた事実や実情が歴史の1ページに変化してゆくのを嘆くことは必然としても、埋もれた事実がまだまだあることへの歯がゆさのようなものが湧く。

人の心に触れながら、その生きざまを真正面で受けとめて、決して揺るがずに事実を地道に掘り起こしてゆく。余韻のような問題提起が続く。

感情を限りなく高ぶらせないで、事実をきちんと正確に伝えているのだろう。その感性や技術を図り知ることは到底できないが、ルポルタージュとしての完成度の高さが波の揺らぎを受けるように伝わってくる。そこに、しっかりとした強烈で熱く煮えたぎるものも感じる。読者は、目を背けずにそれらを受けて、見つめる。

ヒロシマに関わった、あるいは反戦に関わった日本中の多くの人々が、切実に願ったことを叶えるために、改めて一歩進み出そうとしなくてはならない。

焼け焦げて融けて消滅してしまった数々を蘇えらせてやるためにも、出来事や足跡を遺すルポルタージュという活字の力で国民はヒロシマと向き合わねばならない。

(平成28年8月18日読了)

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

堀川惠子 原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年

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