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2016年5月22日 (日曜日)

小満をすぎて憂いの夏近く─最近の余白から 小満篇【裏窓から】


最近の余白から 小満篇

▶️ 焼き鳥の三本を二人で分ける
と最初に書いて
▶️焼き鳥が三本ふたりで見つめ合う 
と改めようと閃く。

そのあとに「見つめ合う」なんていう生易しいものではなく「睨み合う」ほどに激しい感情が「ぶつかり合う」ほうが激情的でオモシロイと思い直す。
私たち二人は周囲から「おまえらはいつも喧嘩をしとる」ように見えると言われる。実際には喧嘩などではなく大声で喧嘩のような口調で普通に対話をしているのだ。

電車や街中でときどき夫婦喧嘩をしている二人に隣り合わせたりすることがあるが、あの言い合いを隣で聞かされるのは非常に不愉快で腹が立ってくることもある。そんなものは誰もいないところでやって欲しいと文句も言いたくなったりして後味がいつまでも悪かったりする。私たち二人もそういう不快を撒き散らしていることが多いのかも知れない。
しかし焼き鳥を食うときに「睨み合う」のは心のなかでは「見つめ合う」に等しいことを弁明しておく。

ツマが一本でええわとつぶやくようにいい私がそんなこと言わんでもええと同じようにつぶやくように言う。
黙って一本ずつを囓ったところでもうちょいともらうわといってそそくさと二切れほど切り離して持ってゆく。
そんなことは惜しくもないしやらんつもりもない。
むしろ作った者としては食われて嬉しい。

十七音で心のせめぎ合いをすべて表現するのは難しい。この作品は駄作だろうからたぶん十年もたってからもう一度私が読んでも、他の誰かが読んでも、この夜の二人がどんな気持ちで焼き鳥を食ったのかは蘇らないかもしれない。
しかし、私たちはそんな刹那を生きているのだからそれでいいのだとも思う。
お父さんの焼き鳥はおいしかったとだけ語り継がれたらそれでいいのではないか。

焼き鳥三本

「憎しみは忘れられるか」
そんな言葉を紙片に殴り書きして自分なりの答えを頭の中で反復している。
憎しみを抱には訳があるだろう。たとえどんな事情があってもそれを忘れてしまうようなことがあるならばそれは許してしまったことに他ならない。
一旦許してしまってそれを憎しみと呼べるのか。許さないから憎しみである。

では、憎しみを事情があって解消するとしよう。憎しみではなくなることは即ち「許す」ことになる。
許すことは忘れることともいえる。
許しておきながら忘れもしない憎しみが有り得るのだろうか。
それはもともと憎しみといえるようなものであったのか。
わたしが抱く憎しみとは、もっと真っ黒の憎悪に満ちたドロドロの憎しみだ。

果たしてわたしはそんな憎しみを意思をもって忘れることができるのだろうか。
もっと広く考えて、ヒトは忘れたいことを意思のチカラで忘れられるのだろうか。

世の中の誰もが持つものでもないだろうが、ひとつの憎しみを私は持って生きている。
絶対に許し難いことがあるのだ。
自分のなかの正義がある1つのできごとをどうしても許さない。
だが、しかし、あれほどまでに烈しく憎んだのに風化してゆく気配をこのごろになって感じる。
人間は老化により記憶機能の一部を次第に退化(劣化)させてゆくのだから仕方がないかもしれない。
それも許すことになるのだろうか。
しかしながら、理由は如何にあれ、憎しみを凶器や暴力に頼って晴らすことは許されない。
ならば許すしかないのだが、忘れられないから困る。
風化してゆくのは悔しい。

憎しみのことなどを書き続けると人間の品位が下がるからやめよう。

♠ 小満をすぎて憂いの夏近し
♠ 小満をすぎて憂いの夏近く
♠ 小満やすぎれば憂いの夏近し

理論も何も持っていないから
ただ出任せに呟いてみる

わたしは夏がキライなのだ
ただ暑いだけの夏

バイクに乗って旅をしていた時代は
別人のように夏に走ったなあ

二人分の人生を(二色の人生を)生きている
なんか ええなあ

そうよ
GWにバイクに乗ってかっ飛んでいくツアラーをみていて
そういう時代があったことを回想していた。
みんな 癒やしを求めて走り続けている

わたしはもう癒やしなど不要になったから新しいステージを探す旅を探している

豆ごはん

豆ごはん母去年より年老いて

豆ごはんをいただく。
格別、特別、美味しいわけでもなくても、こういう味をその季節に感謝をしながらいただくことが大切だ。
そのものの存在とそれ自体の価値と人々が大昔から嗜んできた味わいや愉しみを、普遍的な価値の上で味わうことが必要なのだと思う。

わが家の豆ごはん。
何度もチャレンジしてなかなかどこにも負けない味になっていると自画自賛して喜んでいる。
幸せとは、完成されてしまったものを、与える側のスケールでポンと置いて、幸せとして味わってくださいと贈るものではないだろう。

食や暮らしに関して、現代人はすっかり肝心な尺度の哲学を失ってしまった。
幸せボケになっているとも言えるのだが、豆ごはんなど典型的ののだが、完成された時代にポンと生まれた子どもたちにはわからない味なのではないか。

ニコニコする。

ふと、そんな言葉を思い浮かべて、身近にも日頃からニコニコとしていない人がいるかも…と考えてみた。
日常会話でも、不必要だから笑わないのだろうが、にこやかな人という表現がピッタリの人もいる。

子どもを育てていくときに、親は、にこやかであって欲しい。

もしかしたら現代が荒んでいるのは、こういった心のゆとりが欠落しているからではないか。


写真日記から

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