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2016年5月31日 (火曜日)

五月が尽きます

mixi にも書いたけど
しびれるの 八代亜紀のジャズを聴く(増殖版)

ムスメ夫婦たちの職場は
新年度の異動の引っ越しのときに
(半数近くがどこかに行きますから仕方ないのですが)
職場をあげてお手伝いに行き助け合うような組織なのです
そこで手伝いに行ったお礼に貰ってきたお魚の干物がおいしくて
もう一度お取り寄せをしたのです。

どなたかのご実家か親戚らしいです。
第二回目のお取り寄せでウチも参加してみました。
(アジの開き)

アジの開きは、考えていた以上にとても美味しいものでした。
熊野灘の漁村を訪ねて歩いても
そう簡単に美味しい店が見つかるわけでもないですから
このお店と巡り会えたのはとてもウレシイです。

大量に流通する干物とは違った手作りを
しっかりと守っておいでなのだと思います。

間違いなく、先入観が覆ります。

直接注文して
送料払って
お店と同じくらいの値段で
味が倍ほど美味しければ
他では買えなくなります。

背骨も食べます。
というか、おいしく食べられます。
つまり、何も残らずに食べられます。
骨が美味しい。
味のわかる人にオススメします。

(とんかつ)
地元県内産の豚ロースが売っていました。
牛肉は地元産ですと100gで1300円はしますが
豚の肉はそこまではいきません。
海外産が100gで100円ほどで並んでいましたが
その4,5倍くらいですね。
それでも高い。

旨いので、マジメに料理を作って
喜ばせたいときはまた買ってしまうなあ。

何も贅沢しないけどその程度です。

(この子のお父さん)
6月から50日間の研修に出かけるので
しばらく我が家の子になります。


鯖の味噌煮 アジの開き とんかつ 写真日記から

2016年5月28日 (土曜日)

わたしたちイイネどうしの仲だから(5月下旬号)

5月ももうすぐ終わりますね

増殖するブログの方に追々と書きますね

錆色を辿って心の旅に出る(5月下旬号)


カツオのたたき(オリーブオイル+にんにく) 車窓から 鉄路 銀だこのたこ焼き サッポロ一番味噌ラーメン風焼肉風味の焼きラーメン 写真日記から

2016年5月25日 (水曜日)

伊勢志摩サミット 少しざわざわ

伊勢志摩サミットで
報道が賑やかだ
残念ながら
お天気は晴れやかではないが
荒天でもない


今夜は鯛 麦畑

 写真日記から

2016年5月22日 (日曜日)

小満をすぎて憂いの夏近く─最近の余白から 小満篇【裏窓から】


最近の余白から 小満篇

▶️ 焼き鳥の三本を二人で分ける
と最初に書いて
▶️焼き鳥が三本ふたりで見つめ合う 
と改めようと閃く。

そのあとに「見つめ合う」なんていう生易しいものではなく「睨み合う」ほどに激しい感情が「ぶつかり合う」ほうが激情的でオモシロイと思い直す。
私たち二人は周囲から「おまえらはいつも喧嘩をしとる」ように見えると言われる。実際には喧嘩などではなく大声で喧嘩のような口調で普通に対話をしているのだ。

電車や街中でときどき夫婦喧嘩をしている二人に隣り合わせたりすることがあるが、あの言い合いを隣で聞かされるのは非常に不愉快で腹が立ってくることもある。そんなものは誰もいないところでやって欲しいと文句も言いたくなったりして後味がいつまでも悪かったりする。私たち二人もそういう不快を撒き散らしていることが多いのかも知れない。
しかし焼き鳥を食うときに「睨み合う」のは心のなかでは「見つめ合う」に等しいことを弁明しておく。

ツマが一本でええわとつぶやくようにいい私がそんなこと言わんでもええと同じようにつぶやくように言う。
黙って一本ずつを囓ったところでもうちょいともらうわといってそそくさと二切れほど切り離して持ってゆく。
そんなことは惜しくもないしやらんつもりもない。
むしろ作った者としては食われて嬉しい。

十七音で心のせめぎ合いをすべて表現するのは難しい。この作品は駄作だろうからたぶん十年もたってからもう一度私が読んでも、他の誰かが読んでも、この夜の二人がどんな気持ちで焼き鳥を食ったのかは蘇らないかもしれない。
しかし、私たちはそんな刹那を生きているのだからそれでいいのだとも思う。
お父さんの焼き鳥はおいしかったとだけ語り継がれたらそれでいいのではないか。

焼き鳥三本

「憎しみは忘れられるか」
そんな言葉を紙片に殴り書きして自分なりの答えを頭の中で反復している。
憎しみを抱には訳があるだろう。たとえどんな事情があってもそれを忘れてしまうようなことがあるならばそれは許してしまったことに他ならない。
一旦許してしまってそれを憎しみと呼べるのか。許さないから憎しみである。

では、憎しみを事情があって解消するとしよう。憎しみではなくなることは即ち「許す」ことになる。
許すことは忘れることともいえる。
許しておきながら忘れもしない憎しみが有り得るのだろうか。
それはもともと憎しみといえるようなものであったのか。
わたしが抱く憎しみとは、もっと真っ黒の憎悪に満ちたドロドロの憎しみだ。

果たしてわたしはそんな憎しみを意思をもって忘れることができるのだろうか。
もっと広く考えて、ヒトは忘れたいことを意思のチカラで忘れられるのだろうか。

世の中の誰もが持つものでもないだろうが、ひとつの憎しみを私は持って生きている。
絶対に許し難いことがあるのだ。
自分のなかの正義がある1つのできごとをどうしても許さない。
だが、しかし、あれほどまでに烈しく憎んだのに風化してゆく気配をこのごろになって感じる。
人間は老化により記憶機能の一部を次第に退化(劣化)させてゆくのだから仕方がないかもしれない。
それも許すことになるのだろうか。
しかしながら、理由は如何にあれ、憎しみを凶器や暴力に頼って晴らすことは許されない。
ならば許すしかないのだが、忘れられないから困る。
風化してゆくのは悔しい。

憎しみのことなどを書き続けると人間の品位が下がるからやめよう。

♠ 小満をすぎて憂いの夏近し
♠ 小満をすぎて憂いの夏近く
♠ 小満やすぎれば憂いの夏近し

理論も何も持っていないから
ただ出任せに呟いてみる

わたしは夏がキライなのだ
ただ暑いだけの夏

バイクに乗って旅をしていた時代は
別人のように夏に走ったなあ

二人分の人生を(二色の人生を)生きている
なんか ええなあ

そうよ
GWにバイクに乗ってかっ飛んでいくツアラーをみていて
そういう時代があったことを回想していた。
みんな 癒やしを求めて走り続けている

わたしはもう癒やしなど不要になったから新しいステージを探す旅を探している

豆ごはん

豆ごはん母去年より年老いて

豆ごはんをいただく。
格別、特別、美味しいわけでもなくても、こういう味をその季節に感謝をしながらいただくことが大切だ。
そのものの存在とそれ自体の価値と人々が大昔から嗜んできた味わいや愉しみを、普遍的な価値の上で味わうことが必要なのだと思う。

わが家の豆ごはん。
何度もチャレンジしてなかなかどこにも負けない味になっていると自画自賛して喜んでいる。
幸せとは、完成されてしまったものを、与える側のスケールでポンと置いて、幸せとして味わってくださいと贈るものではないだろう。

食や暮らしに関して、現代人はすっかり肝心な尺度の哲学を失ってしまった。
幸せボケになっているとも言えるのだが、豆ごはんなど典型的ののだが、完成された時代にポンと生まれた子どもたちにはわからない味なのではないか。

ニコニコする。

ふと、そんな言葉を思い浮かべて、身近にも日頃からニコニコとしていない人がいるかも…と考えてみた。
日常会話でも、不必要だから笑わないのだろうが、にこやかな人という表現がピッタリの人もいる。

子どもを育てていくときに、親は、にこやかであって欲しい。

もしかしたら現代が荒んでいるのは、こういった心のゆとりが欠落しているからではないか。


写真日記から

2016年5月21日 (土曜日)

小満をすぎて憂いの夏近し

小満をすぎて憂いの夏近し
宮下奈都さんにちょっとハマって
愉しい毎日を過ごしています


写真日記から

麦畑 阿闍梨餅 鯵のフライ 揚げシュウマイ

M's Zoom から

5月20日かぼちゃ

2016年5月20日 (金曜日)

茂木健一郎・羽生善治 「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本

茂木健一郎・羽生善治 「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本

こっちに


茂木健一郎・羽生善治 「ほら、あれだよ、あれ」がなくなる本 BOOKsから

2016年5月19日 (木曜日)

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭

BOOKs(読書日記)を追加。
でも、感じたことを上手にかけないのでヤキモキしてます。

宮下奈都(その6) 神さまたちの遊ぶ庭

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭

2016年5月18日 (水曜日)

小鯛のささ漬けとしば漬け(幻の京都日記)

小鯛のささ漬けとしば漬け


しば漬け 小鯛の笹漬け 小鯛の笹漬け 小鯛 写真日記から

2016年5月16日 (月曜日)

カツオのサラダをしてみた

カツオのサラダをしてみた


ハンバーグ新レシピにチャレンジ かつおのサラダ 写真日記から

2016年5月15日 (日曜日)

二冊の本

イデオロギーは真っ向から対立するのだがとても読みたい本がある
石原慎太郎 49番目だって(市立図書館)

20160515_35336

♠♠

ずっと前に予約して今日届いたので借りに行ってきました

茂木さんはそれほど関心ないけど 羽生さんは大いに読みたい

20160515_34525

2016年5月14日 (土曜日)

歩くこと

写真日記から マンゴーオレンジ


去年の9月から休日に6キロほど
通勤で1日3キロ歩くのですが
6ヶ月あまりで[max]から現在を引くと −4kgほどです

春から初夏にかけては減りません
やはり気候がいいからでしょうか

同じことを繰り返していても
限界があるということで 安定期を迎えているのか

お腹の肉の量は増加しているよう見えます
おヘソからみぞおち付近に 大きめのお好み焼きを1枚載せたように 肉が盛っています

21年前に(サリン事件の年に)
母が切除した大腸癌ほどの塊を
バッサリと僕のお腹からも切り取れば
さらに2、3キロは減るような気がする

どうしたらこの塊が消えてくれるのか
頭を使えってことか

18年まえにおとやんが死んでしまったときの体重までには
あと−4キロや

頭を使わなあかん段階にきたのやな

2016年5月12日 (木曜日)

宮下奈都(その2) 羊と鋼の森 を読んだあとに

最終版
宮下奈都「羊と鋼の森」を読んだあとに (その5)

❏ 感想 まえがき

春の連休は宮下奈都さんの本を何冊か読んでいました。
そのなかで「羊と鋼の森」は、急がず焦らずじっくりと読むことができました。

第13回本屋大賞で大賞に選ばれていることが先入観としてどうしても大きな妨げになっているのは避けられないものの、大衆の声がどうであれきちんと見極めるためにもここは本屋大賞を眉唾だと思わずに読んでみようと、博打に出かけるような気持ちで読み始める決意をしたのでした。

嫌わずに読もうと心が動いたのは友だちからメールで宮下奈都さんの作品の感想を少し聞いたからです。
友だちは高校の国語の教師です。
本屋大賞決定の際にも先駆けてノミネート作品やその作家さんの作品を何冊か読んで予想をするなど楽しんでいるそうです。
宮下奈都さんの作品においてもこの大賞作品だけでなく「神様たちの遊ぶ庭」の感触も聞かせてくれました。
そんなことがあって背中を押されたみたいになったわけです。
(こんな先生が高校時代にいたら先生も好きで本も好きという青春時代だったのかななどとアホなことを思い浮かべながら作品に突入です)

実は先生の押しの他にもうひとつ事件があったのです。
それは宮下さんの名前を「宮下奈都」ではなく「宮下奈緒」と間違ってツイッターで書いて(mentionして)しまい、そのミスを宮下奈都さん自身からのツイートで指摘されてしまうということがありました。
一生懸命に書いたラブレターを間違って渡してしまった挙句その子に惚れていってしまう…なんてことはドラマでもありえないのかもしれませんが、わたしは宮下奈都を読み始めるはっきりとしたきっかけを自分で上手に作ったのでした。

「羊と鋼の森」を読み始めるまえに「はじめからその話をすればよかった」読んでいました。
初めにエッセイを読んだことが親しみを持たせてくれて息を抜きながら少し軽めに宮下さんと接することができた感じです。
偉い先生にインタビューをしに行くとき、十分に予習を済ませたようなゆとりのようなものを持って「羊と鋼の森」へと進んでいきます。


❏ 感想

宮下奈都さんの印象というか作風のようなものをはエッセイを読みながら少し想像をしていました。
詩人みたいなタッチがあるなとか、あれこれと堅苦しく物語を作り上げてしまうようなタイプでもないなとか、どうやって好きになっていこうかを悩むようにあれこれ考えました。
メモを取る習慣の話が書いてあったので、作品の中のひとつひとつの展開がそんなメモから掘り出してきて築きあげられていくのだろうなあ、と想像してみたり、
子どもたちのことを日々眺めている目線から着想を得ているような会話や場面もあります。「面倒くさい」なんていう言葉が小説のなかで急に作者らしく無く使ってあるのをみていると、こういうところも苦心の表れなんだろうなと、余計なところまで考えてしまう。
そんなふうに考えたくなるような身近さを放っている人なのかもしれません。

ストーリーを作っていくタイプではなさそうですし、後になって語録をまとめ上げられるほどに課題を提起するタイプでもない。

優しく(失礼な言い方ですが)行き当たりばったり的に場面や心を映す場面が展開していくみたい。もちろん「だいたい、どの小説にも精魂なんてものはとっくに込められているのだ」と「はじめからその話をすればよかった」のなかで書いてますから、行き当たりばったりなどはないと思いますけど、そのさり気なくファインプレーのようなところが好感度を上げているのでしょう。

ドラマのシナリオ化して映像作品に作り上げたとしても、ドラマになりきらないようなことをしっかりと作文して纏めてくれて(イメージっぽく表現して)わかりやすく伝えてくれる人みたいだ。

悪く言えば純文学のこってりしたものを想像して期待するとがっかりすのだろうけど、まろやかで心がほんのりとするような末永く大事にお付き合い出来そうな作家なのかもしれないとも思ったわけです。

そういうわけで、作品にも大いに興味があるんだけども、欲張りなことに人間的にも大いに興味が湧いてきて、むかし(40年ほど前ですね)遠藤周作さんに会いに行ったみたいに、宮下奈都さんにも家の玄関に普段着でお邪魔してドアをコンコンとノックしてしまいそうな(それを許してくれそうな)味も感じてしまうのでした。

「 羊と鋼の森」というように、タイトルに「森」とつきます。けれども実像としての森は登場しません。作品でイメージされた森は、わたしたちが触れている環境創造活動や森林やみどりとの共存、さらにはおいしい空気や水を育む森と通じ合っているものがありました。
主人公はピアノの調律師をする若者です。ピアノは鍵盤の奥に隠されているフェルトのハンマーが鋼の弦を叩いて音を出します。このフェルトや弦を工夫・調節してピアノの音は調節します。森に生まれ森の大きさに守られて成長する若者の話です。
物語のなかで「古いピアノの音の良さは、山も野原も良かった時代に作られたからだ」「昔の羊は山や野原でいい草を食べて育ち、その健やかな羊の毛をぜいたくに使ったフェルトをピアノのハンマーに使って」いたからいい音がするのだ、と書いています。

作者の宮下奈緒さんは、北海道に山村留学をして家族で1年間過ごした経験があり(それを素材にして)「神さまたちの遊ぶ庭」という作品も書いています。

「羊と鋼の森」も「神さまたちの遊ぶ庭」に出てくる森も、ふだんから仕事で自然保護や環境創造、森や緑との共生などをテーマに仕事をしているわたしたちみんなが夢見ているような森ととても似ていました。
しっとり・どっぷりと何度も読み返せる作品でした。


❏ 感想 あとがき

(試しに本屋大賞を読んで)直木賞とは色合いが違うなあと、優劣ではなく、感じたのでした。
そもそも同じラインに並んで比べなくてもいいような風に感じます。

「博士が愛した数式」という小川洋子さんの作品をむかし読んだけど、ああいう作品のように鋭利でない切り口で魔法にかけたように作品が読者に忍び入って来るのようなところが宮下さんにもあった。
決して軽くはないのだが、作者は冷たい人を装って、熱くならない物語を淡々と続ける。
結論だけどこかで暗示したらいつ終わってもいいような甘いベールに包まれたお話だったのかもしれないな。

・・・・と、ここまで書いて、本屋大賞のことをパラパラと調べたら、さらにわかってきたことはその「博士が愛した数式」(小川洋子)が第1回本屋大賞だったということです。
本屋大賞なんて眉唾やなあ、なんて書いておきながらも楽しく読んでいる作品が何篇かあったので、ちょっと言い過ぎたかと反省しつつ、
小川洋子や石田衣良、絲山秋子、角田光代、三浦しをん…と読んでいるから、あゝわたしも結構ミーハーだったのだ。

自分で書いた感想をもう一度読みなおすと
「ストーリーが荒削りで躍動感のあるモノや、感動の押し付けのような作品が巷には多いこのごろ、素直に小さな物語を、しかも、文学的に彼女は綴っている。
こんな作品は次々と生み出せるようなものではなく、作者の宝物のような感性を繊細にかつ満遍なく出すのですから、きっと彼女の中でも数少ない名作になることでしょう」
と小川洋子さんの作品のことを書いている。(11年前の感想)

わたしが大好きな「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)とか「利休にたずねよ」(山本兼一)ような滾りがない。だからこそまた違った読者が吸い寄せられるのだ。

♠️ 

もう一つ特記したいことがあったので記録しておく。

読書真っ最中のこと、原民喜の作品を引用している箇所に出会う。(P57)

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

これは「沙漠の花」という作品のなかにある一節だ。ちょうど半年ほど前に「原民喜全詩集」を見つけて考慮時間0秒で買ったわたしですから、原民喜という名前が登場するだけもうお涙頂戴ものでした。

そのことをツイッターで mention したら reply がもらえたのでした。


写真日記から 羊と鋼の森(宮下奈都)

2016年5月11日 (水曜日)

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭

きょうからこれを読みます
「神さまたちの遊ぶ庭」


BOOKsから 宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭

2016年5月10日 (火曜日)

宮下奈都(その1) 羊と鋼の森 に少し触れたので

今月号のメルマガの巻頭で少し触れたので書き留めておきます。
(改訂すると思いますが)


大型連休が終わりました。

今年は、飛び石連休を工夫すれば長期休暇にしてしまいやすいということで、中には実践して遠出をしたり有効活用した人もありましょうね。私は…住まいと職場を移動した以外は青空がよく見える大きな窓のある部屋で寝転んで読書をしてました。

4月号で富山の自然を舞台にした宮本輝の小説に少し触れましたが、この連休は宮下奈都さんの本を何冊か読んでいました。

なかでも、第13回本屋大賞で大賞に選ばれて話題を集めている「羊と鋼の森」をじっくりと読むことができました。

タイトルに「森」とつきます。けれども実像としての森は登場しません。作品でイメージされた森は、私たちが触れている環境創造活動や森林やみどりとの共存、さらにはおいしい空気や水を育む森と通じ合っているものがありました。

主人公はピアノの調律師をする若者です。ピアノは鍵盤の奥に隠されているフェルトのハンマーが鋼の弦を叩いて音を出します。このフェルトや弦を工夫・調節してピアノの音は調節します。森に生まれ森の大きさに守られて成長する若者の話です。

物語のなかで「古いピアノの音の良さは、山も野原も良かった時代に作られたからだ」「昔の羊は山や野原でいい草を食べて育ち、その健やかな羊の毛をぜいたくに使ったフェルトをピアノのハンマーに使って」いたからいい音がするのだ、と書いています。

作者の宮下奈緒さんは、北海道に山村留学をして家族で1年間過ごした経験があり(それを素材にして)「神さまたちの遊ぶ庭」という作品も書いています。

「羊と鋼の森」も「神さまたちの遊ぶ庭」に出てくる森は、ふだんから私たちみんなが夢見ているような森ととても似ていました。しっとり・どっぷりと何度も読み返せる作品でした。

羊と鋼の森(宮下奈都)

2016年5月 9日 (月曜日)

母の日に考える

母が亡くなって1ヶ月。

まだふわふわとしていて、受け入れられない自分がいる
すい臓がんだった
10時間に及ぶ手術も経て3年という歳月。
死ぬ間際まで痛がっていたのが心残りだ
3人兄弟で自分だけが年の離れた末っ子で母とはウマが合わない気がしていた
母は上の二人が好きなのではないかと今でも思う
きちんと悲しめないのが哀しい

♠♠♠♠

短くまとめましたがそんな内容の日記でした。

母の日のころにこの日記を私は読みました。
そのあと、いろいろと思うことを書きとめていたのですが
なかなかまとまらない。
私の心も揺れるからまとまらないのだろう。

母の日とは、母に向けて感謝を表し何かを伝える日なのだが…
しかし、周りを見渡せばそれだけではない日を迎えた人も多いかもしれません。
この日記のようにちょうど1ヶ月前に母を亡くした人がある。
読めばあれこれと考えます。

1ヶ月間、心を痛めたことでしょう。
すい臓がんと診断を受け3年の余命宣告の予告の通りに亡くなっていった人でした。
最後まで痛みが消えず苦しいのは、後に残る人には分かち合ってあげられない。
年が離れた一番下の妹の自分だけが母とはウマが合わなかったように思い続けている。

子を思う母が年の離れた3人目の子が上の兄弟よりも好きになれないというような感情が存在するのだろうか、私には言及できません。
家庭の事情や生い立ちや血族の歴史なども絡み合うのかも知れませんし。
でも、意識をして好きになれないことができるかというと、そんなことはないと思います。

それぞれの事情やそれらを取り巻く感情の起伏や程度までに及んで私が感じたことまでお話しすることはできません。
でも、考えざるをえないこともあります。

ヒトはいつか必ず死んでしまいます。だから死んでしまうのを拒否してしまっては辛いのです。
受け入れるのは辛いのですが、死んでしまっても、気持ちを整理して、振り返ってやることが一番の弔いになると私は思っています。
亡くなって月日が過ぎてから、その人が生きていた頃のことを、生き残った立場から振り返ることが大事だと思います。

死んでプツンと切り捨てることができるのは、全くの他人か知らない人か無関心な人かくらいのものです。

だから、亡くなったあとにも何度も何度も思い出して偲びながら、既に居なくなってしまったその人ともう一度対話をするような気持ちが必要だと感じています。

逝ってしまった人のなかには、はさぞや悔しい思いを残していった人もあるでしょう。
いいえ、満足でしたという人もある。

突然で何も考える暇がなかった人もあれば、死ぬことと向き合い想像を絶するほどのことを考え続けていた人もあると思います。
形にならない思いを日夜胸に蘇らせて、その心の奥にあるものを誰かに伝えたかった人もあるだろう。

もしも私が、数年後に死ぬ宣告を受けたなら、既に言い残すことはおよそ整理をつけてきたはずですが、日々脈々とその思いが湧き上がると思います。

しかし、言葉にはできないし、諦めも伴うでしょう。
無力感が襲うかも知れない。
言いたいことの1%も形にできないまま死んでいくのだろうと思います。

生きていたときのことを振り返り、話した言葉のひとつひとつや何かをしたあのときの動作、顔色、喜び方、哀しみ方に始まり、口癖、仕草、好き嫌い、など、あらゆるものを手がかりとしてその人を蘇らせようとするのです。

でも、死んで、その人は居ないのです。

完璧に知っていたつもりの人であっても、あれこれと考えるうちに、あるいは誰や彼やが偲んで語るのを聞くうちに、死んだあの人のことなどそれほど知らなかったのかもしれないという錯覚さえ浮かんできます。

でも、私が一番よく知っていたはずだという確信。

その確信を不安定ながらも大事にして、日々生きていたころのその人を考え続ける。答えなどは出ないし、真相も知ることができないまま、弔う日々が続くのです。

人の心の熱さにはそれぞれありますから、過激にも熱くなることなく
(でもたぶん忘れることはないと思いますが)
緩やかに自分の人生の中に融け入れさせてしまう人もありましょう。
それはそれでまったく悪いことではないと思います。

自分が死んでしまうときまでずっとその人との対話が誰も知らない形であれ続くのだろうと思います。

私の場合、20年近く前になくした父ですが、年々、哀しくなってきますね。
あの人に迫り近づいてきた証だと喜んでいます。
もうすぐ同じ年になります。

2016年5月 8日 (日曜日)

大型連休は終わります

こどもの日〜連休終盤

というわけで
今年の連休もおしまいです


羊と鋼の森(宮下奈都) 母の日


2016年5月 5日 (木曜日)

こどもの日(立夏篇) 【裏窓から】

カタツムリ柱のキズを越えてゆく ─ 立夏篇 【裏窓から】

子どもの日ってケーキがあるんですね


写真日記から 初節句のケーキ

2016年5月 3日 (火曜日)

宮下奈都 羊と鋼の森

大型連休真っ最中
宮下奈都さんの本をツマに買ってきてもらいました

飛び石はそのまま跳んで仕事して
3日も出かけて
午後はお休み

宮下奈都 羊と鋼の森


車窓から 車窓から写真日記から


宮下奈都 羊と鋼の森BOOKs(読書日記)から

2016年5月 1日 (日曜日)

iPhone のカメラが壊れた

iPhone のカメラが撮影できなくなった
instagram や LINE では撮れるけど
ちょっと不便になりました

二年ほど前にはメイン電源スイッチが壊れて
先日はセンターのボタンの動きがおかしくなって
それと連動してでしょうか カメラが使えん

飛び石に躓きかけて四月尽


写真日記から 別れの言葉辞典 昭和の日

M's Zoom

  • 健ちゃん
    M's Days フォト

写真日記(平成28年版)

  • 越乃寒梅
    平成28年の
    日々の写真に
    コメントを
    綴ります

京都日記(平成27年11月)

  • 渡月橋
    京都日記
    平成27年11月篇

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    京都日記
    平成27年7月篇

京都日記(平成27年春篇)

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    平成27年版の
    春の日記です

写真日記(平成27年版)

  • 伊達巻
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    コメントを
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日々是好日写真記

  • ハーモニカ
    860枚 平成18年から平成26年まで(写真日記)

Walk Don't Run

  • ユース宿泊スタンプ帳
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    記憶を記録として
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