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2015年7月26日 (日曜日)

高村薫 李歐

「李歐」というタイトルがもたらす全てのイメージを取り除いて、何の先入観も抱かずに読み始めたい。

高村薫の他のどの作品よりも、厳しく言えば、全く違った味わいの作品である。もちろんファンであれば、高村薫の彼女らしさがとても出ていて、深みや厚みのある作品になっていると褒めちぎる人もあろう。文体においても同様で、それが小気味良いテンポをというより粘っこさを出している。

構成やタッチも、わたしにとったら非常に受け入れやすいもので、いわゆる芥川賞系の清々しさのようなものが無いのがまたいいのだ。マークスの山(直木賞)やレディ・ジョーカーなどの彼女のポピュラー作品と比べると(比べてる元もコテコテですが)少しコッテリとしているかもしれない。

ハードボイルド作品であると言ってしまえば、本物のハードボイルドを愛する人にその違いを指摘されそうだ。しかし、こんな色合いの作品と思って読み始めなかった私は、結構なハードぶりであると思ったのでした。

映画にするならこのくらい激しいのが面白い。しかし、映画には絶対にできないのがこの作品だろう。何故なら、面白さというのは話の流れを追っかければいいというものではない。登場人物の手指のぬくもりやら動きやらから心の奥まで、好き嫌い・愛情に似た生温さ、生臭さ、そしてバックグラウンドとして設定している社会の流れ、そのリアリティまで。彼女のペンが書いたものでなくてはならない。

例えばちょうど今話題になっている芥川賞の花火を書いている又吉さんが真似して書いてもアカンのだ。又吉さんの作品は映画にして楽しく見て、みんなで感動して痺れてください…になってしまうだろう。芥川賞の作家には異次元に近いか、接近できてもここまで到達できるには相当の年月と経験と失敗が必要だろう。

というわけで、高村薫にしか書けない。書いたものでしか衝撃は味わえない。そういう作品であった。

という「李欧」という作品ですが…。

鋼の冷たさが肌身に伝わってくるような作品でありながら、ニンゲンの人生って何だろうなあ、と考えさせられる作品でもありました。

非常に個人的な人の昔話になるのですが、ちょっと身近なところに刑事をしている人がありました。
それで、その人が何らかの事件で撃たれて亡くなった。
50年ほどの昔の出来事です。
そしてその人の息子が大阪府警で刑事になったのですが、やはり20数年ほど昔に撃たれて亡くなっている。
大体、父は私の父と同じくらい、そして息子も生きていれば私と同じくらい。
死亡したのは40才前後の敏腕刑事のころだったのではないでしょうか。

一般庶民には、マル暴の担当をする人などが身近にはいないのが普通です。世の中の裏のことなど知らないまま、気付かないまま、平和な暮らしを送って一生を終わってゆく。だからその当時に、私が二人の話を聞いたときも、まるでドラマのようだと思いました。

人生の送るうちに人付き合いも増えてくる。その中には思わぬ世界を知っている人がいたり、信じられないような経験を積んでいる人があったりする。驚くような話を直接聞くことができるたりもする。そういう人生の延長線上を直線ではなく点線で辿ってゆく感覚でドラマが存在する。

高村薫の作り出すドラマは、作り話であることが分かっているにもかかわらずドキュメントを読むような感覚にさせる。それが彼女の物語への哲学の提示であり、社会批判でもあるのかもしれない。

マル暴の世界も日常のニュースでは扱わないのが常識で、いわゆる水面下ではドロドロと流れている社会の歪んだ姿なのかもしれない。

紙一重で私たちの日常なのだ。

高村さんは朝日新聞の論壇でかつて

人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはずです。日本で「古事記」や「日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したからです。つまり、物語は人間が生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、私たちの王、私の家族、これらはすべて物語です。物語の特徴は、自分たちが見たいもの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除することができるところにあります。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されているのです。

物語は自ら完結する性質があります。つまり物語の外を遮断して閉じているということですが、この閉じた物語をあえて開いて、外にまなざしを向けるのが人間の進歩というものだったと思います。

と語ってる。

つまり、私たちは物語の中で自己完結をしてはならないのだという。

だが作品は、それ自体がもたらすハードボイルドで現実と空想の狭間にあって、リアリティをふんだんに伴った陶酔に似たもので私たち読者を満たしてくれる。

作品の中で

---

一彰はそれ以深く考えるの放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない。
突発的な歓喜の発熱だと思ったからだった。
熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。

---

と哲学を語り
また別の形で漢詩を引く。

(文庫250ページ)

(重送裴郞中貶吉州 劉長卿)
猿啼客散暮江頭
人自傷心水自流
同作逐臣君更遠
靑山萬里一孤舟

これは、

重ねて裴郎中の吉州に貶せらるるを送る
猿は啼き 客は散ず 暮江の頭
人は自ら傷心 水は自ら流る
同じく逐臣と作りて君は更に遠く
猿の鳴きしきる夕暮れの時の船着場で君と別れる。

人は自然と心を痛めるが
そんな人の情などお構いなしに
川の水はどこまでも流れていく
君も私も同じく左遷された身
君は私よりもさらに遠くに赴任するのだ
青々としたあの山の彼方
万里の果てまで
小さな舟に乗って行ってしまうのだ

という意味の詩で、李歐と一彰が別れるシーンで一彰がボールペンで写真の裏に書き付ける。

この詩は突き刺さった。天才的にうまい。

人生をドラマに仕立てて小説にして感動までを呼び込むのは非常に難しい。
友情を言葉で表して長い月日の物語の中に埋め込んで結実させるのはもっと難しいだろう。

有りもしない背景の中でいかにも有り得るような奮えみたいな興奮をじりじりとストーリーから放出し続け、滅びるべきものを滅ぼして、多くの男女の心のふれあう物語が完結する。

高村薫は、これで感動してはいけないんだ、と言いたかったような気もする。

李歐
(講談社文庫)

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