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2015年4月10日 (金曜日)

半券

ふとしたはずみで、財布の中から、印刷の薄れかけた切手大のチケットが滑り落ちた。

と書き出している。

それはそれは
 短歌と、日々と、普通のごはん。
のなかの

ボートの半券  2015.03.21 Sat
から

カメラには収めぬ一日があふれ出すあなたの漕いだボートの半券
  (万葉の里・恋のうた募集「あなたを想う恋のうた」で優秀賞)

◎◎

近代の短歌でもとくに放送や情報のメディアが人々に歌というものを紹介する機会が増えてから急速にこのような歌がその潜在的な力と美しさを隠すことなく届いてくるようになったと思う。それだけに短歌というものが排風柳多留のように歴史のなかに定着してゆくようなことがあるのだろうとふと考えてみる。そのなかから光り輝くものを見つけてくる。

どうしてこの作品にひきとめられるのだろう。
不思議なチカラが漂っている。しかし、不思議なんていうものはそもそもこの世にないと思っている。何でも解明できるはずだ。だが、魂の存在の証明は困難かもしれないが。

では、どうして惹かれるのか。
それは、この人が半券を棄てずに持っていたことで優しい心と哀しむ心を持ち合わせていることがうかがい知れるからだろう。好きでなければ持ち続けられないものを持ち続けながらも「はっきりした関係でな」いと書いているのに本当は好きなのだ。好きなら好きといえばいいのに世の中や人生というのは意地悪なものでやたら好きだと正直に振る舞うと大事なところをも逃してしまったりすることもある。じっと控えめで淑やかな人が重んじられたりするのを良しとする長い歴史があるのもそのせいだろう。

好きなら好きといえばいい。
ところが、言ってしまえばオシマイよ。寅さんじゃないがそういうことってよくある。だから、幾分打算的であるが秘めてしまうのだ。

恋愛上手になることもない。
だが世の中上手な人がいるのよ。まあ、わたしも直ぐに人に惚れてしまって哀しい想いを何度もしてきたけれど、哀しかったからといって死んでしまいたいわけではないし生きている元気を失ったわけではない。まあ、スイーツとご飯は別腹という人の言い分に似ているかもしれないかも。

でも恋愛上手はお得なことが多いかも知れない。
出会って間もない女の子からすぐにメールや連絡方法を聞き出しているわたしを見て、そのことをツマがケラケラと笑って困った人だと呆れて顔をしかめている。そのくせわたしたち夫婦は仲良しであり、でも、相性チェック100の項目テストをすると95%くらい不一致である。ほんと、誕生日と血液型だけがバッチリと讃えてくれるだけで、ツマはそのことだけでとても喜んでいるからそれでいいのだ。

この短歌の作者は写真のことを少し悔やんだのだろうか。
でも悔やんでも始まらないのだから、諦めが肝心と思ったのか。わたしはこの人のことをここにある文字と言葉からだけしか想像できないけどこの人は「やっぱし写真欲しいなあったらよかったな」と思ったに違いない。めっと(面と)向かって話しができるのだから「写真なんて諦めなよ半券のほうがずっと思い出深いよ」と言うところかもしれないが、人の心はないものねだり、半券をじっと見つめてそのときの情景をそこに映し出して目を閉じるしかないこの人の気持ちは辛いほど伝わるのだ。

写真があればそこでストップかもしれない。
そんな非情なことも言えないけど、わたしの時代には写真なんか簡単には撮らなかったし、撮れなかった。頼りになるのは自分の心にとどめた記憶だけだったのだ。

この恋で懲りちゃいけないよ。
とわたしは言ってしまうかもしれない。辛い思いをした人は、引っ込み思案になったり迷って道を選び損ねたりする。でも、しくじるときはみんな誰だって同じなんだってことを考えればわかるのについつい自分は不運だからとか性格が悪いからとかあそこがマイナスだからとか、まあいろいろとよく考え着くなあと思うほどにマイナスに連想を進めていってしまう。

わたしの部屋のガラクタ入れのなかに
24歳のときに一緒に京都に行こうと強くプロポーズした一人の女性の写真が何枚も残っていてその写真のことをツマはよく知っていて今でもわたしが不安定な気持ちで家にいるときにチラリとその話をする。わたしもわたしで、棄ててしまえばいいものを持っている。もう絶対に会えない人なので大事に持っていてもゴミにしかならないのだけどそこに引き出しがあるから放り込んだままになっているのだ。

24歳は就職して社会に飛び出す記念的なときで、
その行き先が京都だった。6年間住んだ東京を離れることにとても寂しい思いを持っていたのだがその辛さや重さは自分でも言葉に出来ないほどに得体のしれない波だったのだ。でも、あっという間に忘れてしまう。本当は忘れてしまっていることはなくて何度も決まった場所が夢に出てくるし決まった路地で必死になって探しものをして駆けずり回っている自分がいるから脳味噌の中には記憶しているのだろうけど、わたしは忘れたと思っている。もしもいま、街でバッタリ昔の友に会ったとしても、けっこう気付かずに行き違ってしまうかもしれない。実際にそういう事例がわたしには幾つもある。記憶というものは至って曖昧で、形を表すものは儚い。

だから
半券でストップする。

この半券で物語を終えてしまう必要があるのだ、
ドラマでも映画であっても。
わたしは卒業式を小中高大と4回やっているけどどのときも悲しくなかったし人一倍涙腺が弱いのに泣かなかったのはきっと次の扉を開けて次の世界を見ていたからなんだと思う。この歳になると次の世界の扉って「他界」に行くあの世への扉だったりすることもありそうだけど、それでも結構楽しみにしている。

新しい恋をしたいと密かに思っているのかもしれない。

落書き

落書き
新・写真日記(27)
4月 7日 (火)

落書きは駅のホームの、小さな屋根がある木のベンチの後ろの掲示板に書いてある。ポスターなら10枚ほど貼れるところだが、一枚も貼ってなくて、去年あたりは安全啓発のJRのお知らせがあったのだが、それさえも剥がしてしまって、画鋲が転々と錆びついて残っている。その壁にこの落書きはあった。

この駅から1キロほど離れた中学と2つの高等学校の生徒が乗り降りするくらいで、通学時間から少しずれて利用するわたしはせいぜいクラブ活動などの数人がベンチに座っているのを見かけるくらいだ。

落書きを書いた犯人一味は、この学校の生徒であろう。屈指の進学校である生徒たちにも切ない思いは在るのだ。

さて。

松尾くんって誰だろう。
消してあるじゃないか、意味深だ。
そうだ、書いてからしばらくして、別の人が消したのではないか。

などと推測の声が飛ぶのが聞こえてきそうだ。

落書きに意味はない。
あの瞬間の激しい時間が埋もれている。

書いた張本人のキミだけの宝物なのかもしれない。

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