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2015年1月30日 (金曜日)

月末のお買い物

平成27年写真日記

モンブランケーキ風のパン カレーパン 寿がきやラーメン プレミアム


雨が雪に変わることはなさそうな日で有難い。

ツマが美容の用事を済ませるのに付き合ってからショッピングセンターに買い物に出かける。

久々に寿がきやラーメンを食べてみようと意思が通じあって、期間限定プレミアムにチャレンジする。390円

ムスメのために電気アンカを買って、居間のシーリングライトを付け替える念願を叶えようと店に行き注文して、夕飯の買い出しをして、おやつを買って帰ってきた。

3時間ほどぶらぶらとしたら雨は小降りになっていた。まだやむようすはなかったみいだが。

2015年1月28日 (水曜日)

宮本輝 いのちの姿

宮本輝 いのちの姿

わたしはこの本を誰に教わったのか記憶していない。

記憶というよりメモ書きでいいから残しておくべきだった。 その人にお礼を申し上げられない。

ブログかツイッターかにチラリと書名を取り上げてくれたのを見て何か閃くものがあったからその時読んでいる本の次の候補に真っ先にあげた。立て続けに本を読むことが少ないだけに、図書館に予約までしてそんなふうに読もうとさせたのだから、何かわたしを刺激したのだろう。

読む直前に随筆であることを知るのだが、(随筆はそれほど力を入れて読んで来てはいないのだが)いざ読みはじめると短くてさっぱりとしたタッチで、宮本さんが若返っているような想像をさせてくれる作品が続いた。

1月24日の日記「いのちの姿 から」にも書いたが、

短くて質のいい随筆ってのは
連続的に纏めて読めるものではなく
もし読んだとしても
それは幾人もの恋人と次々とデートをするようなもので
はなはだ壊滅的である。
一篇ずつじっくりと読むならば
短い通勤列車の中で毎日読むのがいい
と、そんなふうに思うのだ。

そんなふうに感じながら毎日少しずつ仕事前とか昼休みに読む。

宮本さんのことを、最近の作品を取り上げて、詰まらなくなったと(そんなにはっきりとした言葉ではないが)何度か書いたかもしれない。

物語の色合いに昔らしさがなくなっていくことを寂しがったのだろうけど、それも年齢のせいもあって、モノの見方や考え方、感じ方だって少しは変化するだろうと、変わってきたと言った自分に対して説明するようにも言い聞かせたと思う。

このエッセイは、何か目に見えない衝動がわたしに働いたから読むことにしたのだ。それは、分からないし不思議なものだが、宮本さんはわたしより10歳上でそれは当然縮まることもないのだから、わたしがこの歳になったことで、10年前の宮本さんがやっとわかってきたということなのだろう。

だから、エッセイ好きじゃないわたしがエッセイを読んで、良かったぞ、読んで良かった、と思うのは、前に向かって大きく進んだわけで、嬉しいのです。

宮本輝全短篇」という作品集が「上・下」で出ている。アレに出会って痺れるほど感動して、暫く痺れが引かない日々が続いたときに似ているのだ。

(まだまだ加筆・訂正します)

2015年1月27日 (火曜日)

シビ、小松菜とおあげ

平成27年写真日記

小松菜とおあげ  しび


シビ、小松菜とおあげ
いつものパターンだが、これがいたって健康的。

2015年1月25日 (日曜日)

石川直樹ほか 宮本常一と写真

石川直樹ほか 宮本常一と写真

おととい
読み終わって
複写して書庫に保管する
(個人利用)

感想はあとで。

石川直樹ほか 宮本常一と写真

十ヶ条のところを読んで、「銀マド 小寒篇」でも書いたが

--------

三十年という周期 ─ 小寒篇

元日に襲来した寒波が一日二日息を潜めたと思ったが、再び勢いを増す気配だ。愈々寒の入りである。暑さより寒さのほうが我慢が可能でマシだとする気持ちがあるものの、低温というのは身体に大きな負担を掛けることは間違いなく、新聞の片隅に掲載する訃報欄にも御高齢の名前が目立つ気がする。

--

先日引用した「宮本常一が父から旅立ちの日に授かった旅の十ヶ条」のなかで

 7番目にあげている
◎ ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている

 8番目にあげた
◎ これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

 そして、9番目の
◎ 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

さらに最後、10番目の
◎ 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

言葉というのは安易に表出させてしまってはならないと思う。ここでみる文字が意味するものよりも遥かに大きく深く厚くて熱いものが隠れている。補足は不要だろう。

(以下略)

---------------------

何が偶然に働いたのか、わたしは若い時代に宮本常一の著作に出会えた。

売って金を儲けるという社会において、本屋に棚積みしている本がベストセラーになってゆく現代とは、全くスタンスの違ったもので、研究とか学問という肩を貼ったようなものでもなかった。

ちょっとメディアに反発して正義の味方気取りのジャーナリストが売れてチヤホヤさせているその人が正しく毅然とした姿勢のように持ち上げられて、つまりその人は、公共放送からスピンアウトしてその後朝日新聞とすったもんだの夫婦げんかよりも見たくないようなアホ騒ぎをして大きく取り扱われいるようなジャーナリストで、読者までもがアホ騒ぎに乗せられてその気にさせられている時代なってしまっている今、

ちょっと似つかわしくない地味な研究者の本を読んでいると救われるのだ。

2015年1月24日 (土曜日)

水仙

平成27年写真日記 から

水仙 三重亀山ラーメン@サッポロ一番 八宝菜


何の変哲のない日々が過ぎるなか
おなかばっかし出てくるのを些か気にかけながらも
いっこうに対策を打たないままで日々が過ぎる。

少しストレッチでもしようかと庭で体操をしてみると
水仙が咲いているのを見つけた。
いつからか庭に咲いているのだが
自分で植えた覚えもないから不思議だ。

▼抜き打ちで立ち止まらせる花が在る
(結婚式まであと二週間を切った)

2015年1月23日 (金曜日)

死に際の一週間

21日に小さなケーキを母に買っていった。誕生日だからケーキなのだが、長い人生でもお祝いにケーキを持参することなどは殆ど稀なことであった。

喜んでいたのかどうかは計り知れないものの大切に冷蔵庫に仕舞っていたのであの夜かあくる日にでも食べただろう。

22日はおとう(父)の命日で、67歳を目前にして逝って以来初めて迎えるひつじ年だ。年月は早く過ぎると言いながらも、たっぷり、じっくりと84歳まで辿り着いた。

ストーブにあたりながら死ぬ間際の話になった。

「痛い思いも辛い思いもしないでストンと死にたい」
「夜眠ったら朝には冷たく息が止まっているような安らかで突然の死がいい」

というようなことわたしが言うと母は即座にそれを否定して

「一週間くらいはしんどくても死に際らしい終わりを送りながら大勢の人に次々と別れを交わしてから死にたい」

そんなことを言うので些か驚いたのだが、年寄ると死に対する恐怖もあろうと思うものの、世話になった方々ときちんと儀式を交わしたいと考えてのことだろう。一週間くらいは生きていて、といいながら、心臓が子供の頃から弱いので心臓麻痺で死ぬと思う、とも話していた。

阪神淡路大震災、オーム真理教事件と事件や災害が起こる直前の師走に大腸のまわりを切れるだけバッサリとやってもらった大腸癌だったが、再発もなく生きてきた。「命拾い」とはあのようなときに使うのだろう。両手サイズほどの大きな肉のパックを見るたびに、あのときに切り出して医者が見せてくれた肉の塊を思い出す。

葬式は派手でなくとも立派な墓でなくともいいと言葉にしたりしながら覚悟を自分に言い聞かせているようである。まあ、墓は粗末では済まされないし済ますこともないから心配しなさんな。

せっかくここまで生きてきたのだから、まだまだ生きて欲しいし、願いを最後に叶えるならばそんな一週間を贈ってやりたいが、魔術師でもないわたしだから祈るだけである。

一方、父はこの22日に逝ったのだが、最後に言葉を交わしたのがいつであったのかとかとかその言葉がどんなものであったのかさえ全く記憶にも記録にもない。母のときはきちんとしなくてはイカンと思っている。

2015年1月22日 (木曜日)

もし壁に当たったら、変化する勇気を持て

元東京ヤクルトスワローズ・宮本


2位指名されて入団し、当時の野村克也監督に「プロは結果が全てだが、プロセスを大事にしろ」と教えられました。
「自己分析をして、しっかり準備して、もし壁に当たったら、変化する勇気を持て」とも。

「ダメだったら変えてみる」のは、簡単そうに見えてとても勇気が要ることです。
変化する勇気を持てたことで、プロで19年間やれたのだと思います。

野村監督には随分叱られたので、ある日父に愚痴を言ったことがあります。
すると、父が手紙をくれたのです。

「自分は好きではない仕事を、家族を養うために続けてきた。おまえは好きなことをやって金を稼いで幸せなはず。プロとして一生懸命にやれ
と書いてありました。

ありがたかったですね。改めて父に感謝しました。


2015年1月21日 (水曜日)

ひの菜 ─ 大寒篇

平成27年写真日記から

ひの菜 ハッサク お菓子をもろた


▼歳を食うきのうは大寒ひの菜食う 

ひの菜は旨い。

毎年のことだが、この寒い季節には父の葬式に容赦なく吹きつけた凩への憎しみを思い出す。

もちろん、憎しみと言っても激しい憎悪の念ではない。葬式を行う最中もしぐれ雪が舞い冷たい風が山から吹きつけた。消えることなく燃え続ける焚き火を囲んでわたしは次から次へと事の次第を済ませてゆかねばならないで、忙しいも憎いも、それこそ哀しいも辛いも、何もなかったわけである。

何も憎むものなどなかったことにしてもあの冷たい風だけには参った。結局のところ風邪をこじらせて1週間寝込む結果になった。

まさか、逝ってしまうのが突然やってくるとは想像もしていなかっただけに、哀しみは随分とあとからやってきた。出来のよい息子ならオヤジの逝くときくらい察しがついて仕事のことなど放り投げて来るところなのだろう。わたしはアホな息子であった。おとうも察しがついていたことだろう。

わたしの場合は真面目といえば真面目であるが、あとから考えて馬鹿がつくような真面目さだったなと大きな後悔をした。詰まるところ、会社という実態のない亡霊のようなモノに見事に魔術をかけられ、飼い犬のように使われ都合のいいように行動や思考を抑制されていたのだと、冷静になって考えれば気づく。

仕事をいい加減にしろというわけではない。家族の一大事に何を根拠に仕事などに誠意のようなものを見せていたのか。自分に腹が立って仕方がなかった。会社という巨像はのちに美しい理由を大義名分に掲げて10万人の社員のうちの3万人近くを人員整理をするのだ。パーな会社であったのだが、その喘ぎに今なら笑い飛ばしてやるだけだが、あのときはそれさえもできずにいた自分も悔しい。

パーな奴らの話をすれば紙面が腐る。やめよう。

父は死んでしまう数年前にハッサクと夏みかんを畑に隣どおしに並べて植えた。その木が屋根を越すほどに大きくなって、実がなると軽トラックで貰いに来てくれる人があるほどまでになった。

今年のハッサクは旨い。食ってみてすぐに分かる。旨いと嬉しい。

ハハがひの菜を漬けて「持っていくか」というので何の遠慮もなくもらう。もう今年にもらうひの菜が最後かもしれないと思いながらもらってくる。

いなり寿司、味ご飯、味噌汁、お雑煮、ひの菜、その他にも漬け物の数々。それらの味を受け継げなかったものが多すぎる。

2015年1月18日 (日曜日)

ぶり大根とたまご焼き

平成27年写真日記から

ぶり大根 玉子焼き

(ゆうべ)

ぶり大根はブームなのか。
やたら、ぶりのアラが高過ぎる。

経済学は強者の理論。
なるほど。

ぶりは普通の切り身を買ってくる。
子どもの頃はぶり大根など食べなかったのに。

ゆうべは、日本酒をコップに一杯


たまご焼きは、
焦げ目がないのが良い
といううけれど

わたしは、
少し焦げている方が
おいしいし、
そっちが正しい姿と思う。

2015年1月17日 (土曜日)

スパ 2品

平成27年写真日記から

ほうれん草、ハム、しめじ  干し梅、大葉、じゃこ


先日からスパゲッティを食べたいと
口癖のように言っていたので
ツマが願いを聞いてくれて

  •     じゃこ、大葉、干し梅
  •     ほうれん草、しめじ、ハム

の2種をしてくれた。
どうしても塩を控えるので
味の濃さには加減の工夫が必要だが
出来合いのソースや店の味とは違う旨さがある。

世の中の多くが、
味というものを、
教科書や声の大きい人の惑わしに引きずられているところがあるだけに
家庭の味を追求するのは必要であり大切であるし
深い意味がある。

理屈はいいから、満足していただいた。
ビールも飲んだ。

2015年1月16日 (金曜日)

佐々涼子 紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている

平成23年3月11日の午後、東日本を地震と津波が襲った。その震災で津波に呑みこまれ完全に機能停止した宮城県石巻市の日本製紙石巻工場が復興する姿を取材して綴ったのがこの本だ。

この震災から3月で4年を迎える。この感想を書き始めた1月初旬は阪神大震災から20年という節目にも当たることもあり、防災について考えることが増えている。

自然災害のなかでも地震のように発生を防げないもので、発生周期が特定できないものは、目に見えない不安と恐怖を住民に与え続ける。レベルの差は大きく、言ってみれば楽観的な人もあるし、その逆の人もいる。大きな災害を経験した人は、それ以外にも心理的な傷を負いながら暮らしてゆかねばならない。

科学の力で防げることもあるが、完璧は難しい面もあるし、あまりにも過剰な防災対策は日常生活にも影響を与える。わたしたち太平洋沿岸・南海トラフに面している人々の多くは、阪神大震災も東日本大震災にも強烈な打撃を受けていないとも言える。

何百キロも遙かに離れた場所に住んでいるので、ルポルタージュのひとつひとつを理解できても、やはり本質的なところで体感していない弱みがある。それは自分自身にもわかっている弱みであるが、もやっとしたままの人が多いのではないか。

あの地震が発生したとき、わたしは揺れを体感した。職場は8階で机の下に潜り込もうとする女性も見かけた。船に乗ったときの大きな揺れのようにゆっくりと揺れた。偶然にも職場のTVモニターが議会関連中継を映していたので、それが急遽報道ニュースに切り替わり、海辺の町に津波が押し寄せるところを映し出しはじめた。仕事中であるが、他人事では済まされない恐怖がジリジリっと来る。これは日本中が大騒ぎになるのではないか。そう感じた。

偶然にもあの日の朝に、友人が赴任している女川の町の様子をインターネットのカメラやブログで見ていた。職場で発行する3月号のメールマガジンの記事のどこかに春の訪れの様子や情報、話題を組み込みたいと考えたから、そんなキーワードで検索すをするときにその友人(YOさん)が住んでいる女川町に目が止まった。明くる日に蟹祭りがあると書かれていたのを読んだばかりだった。

友人であるYOさんはこの日は東京に出張で、地震が発生したころは女川に向かって帰ってきている途中だった。奥さんと子どもたちは海岸からさほど遠くない会社の社宅に住んでいるので、津波に襲われた。職場の津波ニュースを見ながらYOさんの安否を心配したが、当人のYOさんは女川に帰り着けず仙台付近で足止めになり、実際に1週間近く、インターネットやあらゆる掲示板や伝言板で行方不明の家族の安否を探し続けた。眠れない夜を幾日も過ごしただろう。

わたしには、そのような人が身近にあった。それでも、現実にこの地域でどんな事態が起こっていたのかは、実際に行って見ていない分だけリアルではなかった。こればかりは、被害に遭遇した人々のナマの話を聞けば聞くほどに、当事者でなかったわたしの方は格差のようなものを感じたのだ。

ルポルタージュはその格差を、報道記事や写真、証言などだけで埋めることはできない。残念であるが仕方がないことなのだ。どうしても埋めるとするならば、国民全員が実際に被災するしか無いだろう。だが、それでは様々な方面で努力をしてくださった皆様に申し訳が立たない。だからこそ、新しいステージで災害に遭遇したならば、そのときはずっとずっと成長して逞しくなって、社会を再構築するために賢い知恵を次々と打たねばならない。そのためにも、歴史の日々をあらゆる角度から整理して記録に残し学んでおくことが重要なのだ。

ドキュメンタリーのドラマ風にもできようし、映像取材を大きく採用してTV映像ファンに訴えかけることもできるだろう。しかし、興味を優先してしまってはメディアの衰退だ。ひとつひとつのシーンや言葉の陰に秘められた綴ることもできないモノが、それは見えるもの見えないものも混在していて、それを伝えていけねばならない。そんな使命を持ちながらの作品だ。

この取材ノートや没資料なども含めて、もっと多くを読みたいと思わせるような内容だった。話は他でもすでに報じられているとおりで、製紙工場が団結して震災のあらゆる障壁を乗り越えて、半年で見事に復活する話である。

作者は書ききれないほどの人々から取材をしたことだろう。この作品には多くの人の思いが篭っている。それが伝わって来るのがわかる。

佐々涼子 紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている

2015年1月14日 (水曜日)

おざなりの まえがき

まえがき

わたしが父から何も聞けないままで父を失ってしまったことと
父には隠されたわたしにない魅力があったことなどが
引き金になってこうして父のことを回想することになる。

しかしそれは叶わぬことであったため
推測ばかりの纏まりのないものとなり、
わたしの夢の実現のための語りのようなことばかりを
綴ってしまうことになっている。

わたしの子どもは
わたしにはさほど興味を抱かないだろう
と思う。

子どもというものは
親の生い立ちや学業成就の苦労などに興味を示さない。

特に、
知り合いや親友や自分の家庭を見渡すと、
子どもというのは親の学生時代のことには
あまり関心がないようだ。

田舎人間であるし、
往々にして貧しいことが多いので
興味がわかないのも理解ができる。

しかし
子どもというのは
過去をじっくりみるよりも
未来を夢見る方が幸せだから
過去など振り返らないのだ。

それでいいのだろうと思う。

20111111tokyoyusimaimg_0028

そんなことをメモに書いておいてから1ヶ月余りがすぎた。

来月初旬には結婚式を済ませて、
新しい住まい(旦那さんの部屋)へと
出て行ってしまう。

そして1ヶ月もたたないうちに
二人に異動の辞令が出る。

人生とはそうやってトントン拍子に進むのだ。
振り返る暇などない。

それでいいのだ。

2015年1月13日 (火曜日)

寝巻の紐

▼寝巻きの紐

括り付けられて、叩かれたものだった。
「もうしません」と泣いて謝ったものだ。
小学生のころは、地震や雷や火事よりもオヤジが怖いのだ。
そういう状態であることは、時代が変わっても普遍性を保ってねばなるまい。

▼体罰

体罰がすぐに話題になっていた。
ツイッターやらブログで勝手に思うところを世間の人間たちは言い放題の時代になっている。
先言ったモンが勝ちとか、声が大きい方が正しいとかいう問題では無いのだが、まあそれに近い。
子どもは叱って育てるよりも、褒めてあげたほうが良いという声が一面的に大手を振っている。
反論は萎縮しているのだろうか。
みんなが「右向いて右」で、正しい方法や答はひとつなのだろうか。
おかしいんとちゃうか。
体罰のどこが悪くてどうしたら良くなるのかはっきり言えないまま「右向け右」かよ。

▼体罰2

── もう、手に負えんようになったなあ
そんな話を父と母がしていた或る時間を思い出す。
人権問題というものがクローズアップされている。
それは正しいことで良いことだと思う。
人権を蹂躙されて世の中で蔑まされて生きてきた人たちは大いに救われている。
そのことに異論を唱えるつもりはない。
子どもというものは、一般社会人として手離れをするまでは、気持ちの上ではまだ親の身体の一部であると思う。
いわゆる目の中に入れても痛くないものなのだ。
火事場に身を投げ打って子どもを助けにゆく本能を見ても自明だ。
重篤な病や臓器の疾患の治療のために親が自分の生きた身体の一部を提供するという事実もある。
この時の子どもの身体と体罰を受けるときの子どもは同じ身体だ。
体罰を罰という暴力という色に塗り替えてしまうのが、現代社会学の人権論であろうか。
数学や物理学を学んだ人は、受験時代には1つしかない答えを求めて競い合う。
あるときにこの分野を極めると「答は幾つあっても構わない、物事は多面的に見て多次元尺度で解析してこそ真髄に迫れる」という考え方とも出会う。
人権が提起する体罰についても、同じ尺度で見たり一方的に避難するだけでは本質的な解決にはならないだろう。
体罰の哲学の誕生から考え直すことが大切ではないか。

▼自立

叱られなくなった頃がある。
自立の頃だろう。
子どもはそのとき初めて身体が親から遊離するのではないかと思う。
私の場合はお馬鹿だったので、そののちも、時の流れを堰止めることもできずに勝手気ままに生きてきた。
多くの人に世話になって、またあるときは叱られて生きてきた。
いたずらに馬齢を重ねてしまったことを悔やむ。
自立とは、形や時間が定義するものではないのだ。
私自身が誰にも恥ずかしくなくなったときに見えてくる未来のなかに答えがある。

2015年1月10日 (土曜日)

朝から餅を

平成27年写真日記から

お餅 (ふくらぐ) お餅 (ぼちぼち) お餅


朝からお餅を焼いてます。
ストーブに当たって
待っていると
温まります。

2015年1月 9日 (金曜日)

ハマチ

平成27年写真日記

はまち


2015年1月 9日 (金)

冬になると
ブリを食べることが
多くなりますが
きょうはハマチがお安かったので
久しぶりに選んできたそうです(ツマ)

画面に入りきらなくて
500円以下ですから。

味は、ブリほどこってりしてなくて
あっさりとコリコリおいしい。

2015年1月 8日 (木曜日)

ストーブでお餅を

平成27年写真日記から

お餅  お餅


お餅を焼いております。

2015年1月 7日 (水曜日)

すみれ 味噌Ⅱ

bike-tourist.air-nifty.com > 新・写真日記(27)


平成27年写真日記 から

ラーメンすみれ 味噌Ⅱ

ラーメンで多くは語らない。
ごちそうさま

2015年1月 6日 (火曜日)

三十年という周期 ─ 小寒篇

元日に襲来した寒波が一日二日息を潜めたと思ったが、再び勢いを増す気配だ。愈々寒の入りである。暑さより寒さのほうが我慢が可能でマシだとする気持ちがあるものの、低温というのは身体に大きな負担を掛けることは間違いなく、新聞の片隅に掲載する訃報欄にも御高齢の名前が目立つ気がする。

先日引用した「宮本常一が父から旅立ちの日に授かった旅の十ヶ条」のなかで

 7番目にあげている
◎ ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている

 8番目にあげた
これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

 そして、9番目の
自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

さらに最後、10番目の
人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

言葉というのは安易に表出させてしまってはならないと思う。ここでみる文字が意味するものよりも遥かに大きく深く厚くて熱いものが隠れている。補足は不要だろう。

小寒が来れば寒の入り。ちかごろでは、七草粥やどんど焼きでもちを焼いて食べる習慣が消つつある。失くしてはならないと考えている人がたくさんいながらも消えてゆく。

子どものころに母が火鉢の前で編み物や手仕事をしながら「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞななくさ」と謡のように教えてくれたことが懐かしい。炭を放り込んで布団で覆う炬燵は昭和三十年代に姿を消したし、火鉢も時代を追って使わなくなった。(写真は一部ネットから)

20150107hibati  20150107rentan

進化の度合いが人の命の周期よりも遅いのであれば、平安時代、江戸時代の暮らしというように語り継がれるのだろう。しかし、高度経済成長の時代を二十世紀で終了させた現代では、いわゆる周波数(1/周期)が速くなっているのだから、そしておまけに寿命がドンドンと伸びているのだから、人々の心は追いついていけないし、社会も迷い道に入り込む。

去年は「結」(結ぶ)という字を当てはめておこうかと考えたりして迷っている間に年が暮れた。今年は、はて、どんな字を目標にするか。これまた迷っていると娘の結婚式まであと1ヶ月となりカウントダウンが始まった。

昔に書いたものに―2013年10月16日 (水)


父の日記
■子どもというものは父や母の日記や行動や考えにはあまり感心を持たないことが多い例をこれまでにもいくつか見てきた。


というのがある。子どもは親のことなど気にかけていないのだという静観的な所感だ。

ツマがムスメと離れるのでメソメソと淋しがっている。そのメソメソを見て、はたと気がついたことは、30年前に、またはその10年ほど前に、わたしたちの親がツマやわたしを自分の手元から手放したときの心情を思ったのであった。

父はわたしが18歳になるときにわたしを東京に送り出してくれた。ツマの父はわたしたちが結婚するときにムスメをわたしに託してくれたのだ。

あれから父は何通にも及ぶ手紙をわたしに送り続けている。ほんの一部しか現存しないのが残念だが、それはそれでいいのだとも思う。

三十年という周期は神秘的であり童話的でもある。長い長い物語がムスメにも始まるのだ。

2015年1月 4日 (日曜日)

餅つき

bike-tourist.air-nifty.com > Walk Don't Run (写真日記)


餅つき  餅つき

餅をついて丸めているところを撮影したものが出てきたので記録しておく。
平成13年12月29日とデジタルデータには刻印されている。

このころは、母も年老いて、弟に手伝ってもらいながら餅つきはするものの、この台の上で延ばして片付けていくだけで、丸いお餅を幾つも作るようなことはしない。

あずきと大根おろしでそれぞれ2,3個食べるだけ、つきたての餅からちぎり取ってみんなで食べて、残りはうす餅(一般的にはのし餅と呼ぶかも)にしてしまい後で切る。

丸い餅より切らずに保存するほうが合理的と考えているようだ。

餅は丸いもの。そういうものだ。

おにぎりは三角であるし、おでんのこんにゃくは三角で、卵は丸い、トーストのパンは四角、だから、お餅は丸い。

丸い文化が段々と消えていくのは、高齢化も多かれ少なかれ影響している。消滅していいものとそれを許されないものと考えるかの境目も時代とともに変化する。

変化の速度が人の寿命と比較して著しく遅い場合は何ら問題ないし昔からも問題にされてこなかったが、人の寿命が2,30年伸びてさらに文化の変化周期が2,30年短くなったから、消滅するものを惜しむ人が増えたのだろう。

味に差異がないならば、形には丸か三角か四角くらいしかないのだから、巡り巡っていつかまた丸いお餅の世紀を迎える時が来るのかもしれない。

2015年1月 3日 (土曜日)

ハーモニカ

20150103harmonika
お天気も良かったので
一日のんびりと
ハーモニカを吹いたり
ボントロを吹いたりして
過ごした。

このハーモニカは九州に出張に行ったときに心斎橋の山野楽器に立ち寄って買ったもので、かれこれ15年位かそれ以上昔のことだ。

練習しないので全く上達しないけど、吹くと子どもの頃にふいたのと同じ音が蘇るので嬉しくなる。

楽譜がないと吹けないから、覚えている曲を断片的に吹いて遊ぶだけだ。

2015年1月 1日 (木曜日)

元旦

bike-tourist.air-nifty.com > 日々是好日(写真日記)


元旦・お雑煮  熊野七里御浜

7時4分の七里御浜の日の出
元旦恒例のお雑煮

元旦に加筆中と書いたところでお出かけとなった。
実家に帰って新年の挨拶をして一杯飲もうかというところで小雪がちらつき始めた。

早々に切り上げて我が家に戻るけど、いつものようにこたつで寝てて、ひとしきり眠ってお布団に移動した。

格付けのTVをむかしにみた記憶がある。
また見たいなと思っていたが、放送さえ知らずに2日が終わった。

初夢は記憶に無い。(2日 記)

M's Zoom

  • 七月中旬ディズニーランドにて
    M's Days フォト

写真日記(平成28年版)

  • 越乃寒梅
    平成28年の
    日々の写真に
    コメントを
    綴ります

写真日記(平成27年版)

  • 伊達巻
    平成27年の
    日々の写真に
    コメントを
    綴ります

京都日記(平成27年11月)

  • 渡月橋
    京都日記
    平成27年11月篇

京都日記(平成27年7月篇)

  • 鱧のお弁当
    京都日記
    平成27年7月篇

京都日記(平成27年春篇)

  • 焼き鳥
    京都日記
    平成27年版の
    春の日記です

Walk Don't Run

  • ユース宿泊スタンプ帳
    忘却をおそれず
    記憶を記録として
    遺そうと思う

日々是好日写真記

  • ハーモニカ
    860枚 平成18年から平成26年まで(写真日記)

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