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2014年9月30日 (火曜日)

堀川惠子 永山則夫 封印された鑑定記録 (その2)

永山則夫 封印された鑑定記録 

この作品はNHKでも映像番組として放送され、作者の堀川惠子さんは経緯を語っている。

テープ記録が発見されそこには「歴史を覆すようなこと」が数多くあったという。

世の中では四十何年間、金欲しさの犯罪だと言われていたけど、実は、根っこには家族の問題がありました。これは、ただ単に個人で持っておくものではないと思い始め、最初は本にするつもりで出版社と話を進めてやっていました。でも、文字にして書くものと実際に聞く声というのは全然違うと思い、やっぱりこの音を残さないといけないんじゃないかという気持ちが出てきました。(堀川さん)

「本当にその事を知りたいという人が手に取って」この事件を考えるために、消えてしまった事実をもう一度見つめなおし、死刑という裁きを一考しなければならない、というような熱意を感じます。

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永山則夫の精神鑑定記録の存在は、<死刑の基準 「永山裁判」が遺したもの>を取材するときに、録音テープとして残っていることを知ったと書いています。

「記録は鑑定を担当した石川先生が持っていらして」「二年半がかりでお願いをして、心を許して」もらって堀川さんは詳しい取材に入ります。

「今、少年事件というのは実は減ってきているのですが、でもやっぱり時々大きな事件が起こる。そういう時に、どうして少年が人を殺すのか、普通簡単には起こりえないことがなぜ起こるのかと考えるときに、未来のことは分からないから過去に起きたことに学ぶしかな」く、信じられないような根気で作者は録音を解析したのでしょう。

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その1冊が「永山則夫 封印された鑑定記録」です。

信じられないようであり一方で確かにそういう家庭が存在してもおかしくなかっただろう。実際にわたしが生まれた田舎の山村に住む80歳を超える母の昔の様子を聞き出しても、なるほどと思うところが多い。

想像をできないほどの荒んだ貧しさがあるのだが、その時代に豊かな人もあった。わたしの従兄弟や会社で上司、高校時代の担任の先生は、昭和23年から26年ころに生まれた戦後のどん底の世代でありながらも大学を卒業している。貧困とか格差という言葉はこの時代にもあったのだということも紛れもない事実で、日本の何処かで苦しんでいる人がいた。

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永山則夫は、なぜ彼が四人も人を殺したのか。堀川さんは、実際にテープを聞いて動機を明確に掴んでいく。永山の動機は、(貧しさや生活の事情により自分を追い込んだ)家族に対する恨みでした。こんなことをやったら家族が困るだろうという「あてつけ」の為の事件だった、と断じています。

しかし、それだけで終わってしまったら、この事件そのものと記録の隅々にびっしりと秘められている大事なものの大部分を棄ててしまっていることになります。

堀川さんはあとがきで、「今回,永山の100時間を超える独白と,それを引き出した石川医師と改めて向き合うことで,あまりに普遍的な『家族』というテーマに行き当たりました。」と書いています。

犯罪とは何か、罪とは何かを考えることはもちろんですが、人の心とはどんなものか、家族とは何か、幸せとは何か、という問いかけを常に頭のなかに置いてこの本を読み続けたのでした。

堀川惠子 永山則夫 封印された鑑定記録

2014年9月29日 (月曜日)

堀川惠子 永山則夫 封印された鑑定記録 (その1)

連続射殺事件を起こした永山則夫は19歳でした。1968年10月11日の東京を始めとして、京都・函館・名古屋で4人を射殺した事件で、(わたしは子どもでしたから知りませんでしたが)貧困がもたらした凶悪犯罪として世間は騒いだと記録にあります。

逮捕の28年後1997年、死刑執行。

著書によると、永山死刑囚は、哲学書や小説をむさぼり読む勉強家で、その傍ら、大学ノートに日記をつけていました。外の人との手紙のやり取りも手書きで複写していたとも書かれています。のちに『無知の涙』はベストセラーにもなり、印税は殺害被害者の受取拒否をしなかった遺族にも届けています。

永山の精神鑑定は278日間・約8ヶ月に及んで行われ、100時間に及ぶテープを、信じられないことにその当時に鑑定をした石川医師が保存していました。また、その鑑定書も永山が大切に死刑執行まで手元に保存して何度も読み返した跡を残しています。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)などは現代のように明確に学術解明されておらず、脳の状態をCTで撮影するなどということは夢にも及ばない時代に、石川医師は、信じられない根気で永山と接している。そしてその記録を、堀川さんは解析している。

それだけでも、体が震える驚きであるが、さらに、問題提起を読めば、わたし自身そのことを語る言葉を纏められなくなるほど奮えるような衝動に襲われる。

100時間のテープを解析することは、永山則夫の生い立ちから事件までの道筋を丹念にたどり、事件の動機に迫ることだった。

永山の家族の生い立ち、酷い父親の暮らしぶり、母親の育児放棄、失神するまで続く兄の暴力、周囲の人間の不信、連続する不幸や不運、母親代わりだった姉のセツのこと、貧しい暮らしぶり。

現代の豊かで幸せに暮らす多くの人々からみれば、全く架空の物語のような日々の連続で、現実味をもって想像することはできないのではないか。

その背景があって、永山は、生活を荒ませて貶め、破滅の道へと歩む。

永山は、石川医師に非常に細かく正確で正直に話している。その一部始終を収めたテープを堀川さんは聞き直し、考察している。

そして、石川先生の鑑定書は、インタビューの結果を細かく纏めて診断結果として記している。

だが、司法は採用しなかった。その後、司法は「被告人を事件に向かわせた根本的な問題」に目を背けながら無期懲役、死刑に関わり続け、さらに裁判員制度の求刑・判決にも影響することにも触れている。

堀川さんは著書の中で、元裁判官から聞いた「これほど被告人の心に迫った鑑定書というのは、私自身の裁判官人生でも読んだことがない」という発言も引いている。そんな恐ろしいほどに完成された鑑定書であったのに、封印されたわけです。

読みながらも体が震えてくるのがわかったのだが、読み終わってからも、これまでの数々読んだドキュメントにもなかった凄さを感じた。

2014年9月24日 (水曜日)

墓参り ─ 秋分篇

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(23日)

小屋の軒と畑にて

花畑

田園

庭にて

お墓参りに出かけて
ぼた餅4つもろてくる。

--

▼人絶えて草茫茫とあざ笑う

▼土の中温みを待つや芋の声

▼秋の雲は芸術的でひょうきん

▼ぼた餅をもろて帰りますおとやん

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彼岸に多くを語ることもなかろう。

秋の風が吹いていたとだけ書き留めておくことにする。

2014年9月20日 (土曜日)

給料日されどサンマと言うなかれ

(20日夜)
給料日されどサンマと言うなかれ  ねこ

■□
□■

▼(18日)サンマをフライパンで焼く 
昨日フライパンで焼くサンマにチャレンジしている。NHKラジオ番組の投書で絶賛している人があって、気にかかったのでクックパッドなどで確認すると、上手くいくと書いている記事だけが残っている。コンロも汚れず、おいしく焼けると書いている。

▼サンマを焼くことには苦心をしている
結論から推測すると世の中の多くの人は、サンマを焼くのに苦労をし、楽に、きれいに焼きたいと願うが、全く成功しないでいるらしい。そこで、フライパンにキッチンペーパーを敷いて焼くとおいしく焼けるという料理手順を規格化した手法に飛びついたのだろう。

▼フライパンでさんまを焼くこと
普通の食堂でサンマ定食を食って満足しているのであれば、この手段で焼いたサンマはおいしい。手軽に焼けて、コンロも汚さず、皮も内蔵もポロリと取れて、なんて画期的だ、となります。

▼1日目(18日)
3匹買って来て、フライパンで焼くサンマにチャレンジしてみる予定でした。しかし、ムスメが帰ってくると思ってたのに夕食に急に留守となったので、1匹残しておいて2匹だけフライパンで焼いてツマと食べました。(写真には撮りませんでした。きれいな焼き上がりではなかったから)

▼2日目(19日)
ウチには両面グリルがありますので、残っていた1匹をこちらで焼いて二日目に食べてみました。二日目はグリルで焼きました。ガスの火が両面からというけっこう信頼できる武器のせいで、こんがり・ふっくらでジューシーに焼けていました。冷蔵庫で1日眠っていたのに、味は劣化しておらず、1日目よりもこんがりとしてかつ柔らかいですし、ガスの強火のせいでしょうか、勢いよく焼けていて旨かった。やっぱしサンマは藁で焼け、というのがわかります。

サンマ

▼七輪で焼くことは、
家に帰った時にしかしませんから、きちんと比べられませんが、炭で焼くとおいしいです。私の家は(実家は)まだ火をおこして使う生活文化で暮らしています。マメを煮るのも、アンコを作るのも、煮炊きあれこれは火を起こして七輪にかけます。そのついでに、焼肉や魚や芋や栗、ニンニクなどを焼いて食うので、大体の味は記憶にあるけど、炭で焼くとおいしい。

(レンガで魚が焼ける釜を庭に組み上げたのですが、煙が出ると言って煙たがられています)

▼やっぱしサンマは七輪だが、
今は七輪が無いので、両面グリルが1番。やっぱし、このグリル、イケます。ガスの両面グリルってのは、なかなかの優れものです。肉焼いても魚焼いてもパン焼いてもピザ焼いてもおいしい。

▼そろそろサンマも太ってきて
(肥えてきて)旨味が出てきました。 もうひと頑張りです。

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2014年9月17日 (水曜日)

芋虫

芋虫

朝庭に出てみると、芋虫が里芋の茎にピタリとついている。

気持ち悪いのだが、害虫でもなかろうし、この里芋は収穫できる見込みもなく、放置することにした。

しばらくして、どんなもんか覗きに行くと、バッサリ齧った葉っぱがあった。

無残な葉っぱ


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2014年9月14日 (日曜日)

居酒屋さんで大ジョッキ

(9月13日、夜)

つぼ八

つぼ八

決して便利なところにあるわけではないのですが
この店が好きなんですね。

ほっこりしたくなると行きます。
もしかしたら、大昔、ツマと北海道を旅した1986年、
苫小牧の宿の近くで入った店が「つぼ八」だったかな
と思うのです。

でも、それが理由でこの店が気に入っているわけではない。
だって、あのときに入った居酒屋はそれほどいイイ店じゃなかった憶えがある。

そういう大きな旅の思い出を引きずっているのかな。

2014年9月13日 (土曜日)

イワシの蒲焼

(12日)

金曜日久しぶりにイワシ食う

イワシの蒲焼

(写真は昔のもの)

2014年9月10日 (水曜日)

仕舞い支度ひとつ重ねて白露かな ─ 白露篇

(8日)

中秋の名月と白露が同じ日になったようで秋の風情をゆっくり楽しむ人にとっては味わい深い一日になった。

九月上旬にやってくる中秋の名月というのは意外と珍しいらしく多くの場合は九月下旬あたりに来るらしい。彼岸花が咲くのが不思議にもちょうど20日ころのことでこれは多少の気候変動感じてもズレること無く間違いなしにこの日ごろに咲き始める。中秋の名月はその時期に見上げることが多いらしい。

秋の七草に歌われるススキにおいてもまだわたしの居る人里ではそれほど風情を出し始めているわけではないので実際にはもう少し秋が深まった方が秋らしくしんみりとしてくるようだ。

味覚モノも同じで栗であるとかキノコなど九月の今ごろではまだ少し早い気がする。

20140908kuri

九月になれば一気に涼しくなるのでかき氷を食べたいとか水遊びがしたいという欲求はいつの間にか消え去っている。

そして、スーパーの商品棚にはお鍋の具材が並び始めて、初物のサンマなどが登場する。そうするとさすがに、味覚を先取りしたくなってくるのだ。

▼秋の月かじってみれば失恋味

20140908hasa

農業も実家の弟に任せたままだ。相続も済ませた。

全然手伝いに行かない悪い長男坊主だが弟が快く田んぼを継いでくれることになりわたしに残してくれたのは100坪ほどの畑でそこには柿の木と栗の木がいっぱい植わっている。実はそれもほったらかしで実家の母がせっせと草取りなどをしてくれている。

白露などという洒落た時節を味わうような暮らしをしていないくせに白露篇を書いている。

三十数年前の大学生活を送っていた頃であれば、試験の季節を終えて文化祭でざわめき始めるのがこのころで、父から送られてくる秋の荷物には、鉛筆書きの手紙と両手で持てないほどの栗と新米が詰まっていた。

来春にはムスメが嫁ぐので今年は最後の夏であり秋である。父もアツイ人であっただけに今のわたしと同じような節目を超えるときに私と同じような気持ちを抱いたのだろう。

過去は消失してゆく。それでいいのだ。

2014年9月 7日 (日曜日)

而立まで  花も嵐もⅢ その79

社会人になったのが24歳であった。自分ではもうすっかり大人気取りであったのだろう。しかし、もう一つの視線で自分を振り返ってみるとあのころほど危なっかしい時代はなかった。大人か子どもかを考えれば子どもの分類であった。社会的な責任やそれに応えようとする意欲や自立心の方は大人扱いで間違いはなかったと評価もできるのだが、総括的に冷静判断を下せばまだまだ未完成であり未熟であった。

こういう危ない年代には往々にして危ないことに盛んに挑もうとするのが若者の特徴である。そうでないような若者は人として面白味に欠けるわけで、過大評価かもしれないが、それなりに見込みもあったわけで、一丁前にも、人並みの社会人としての危険な目や大きな事故にも不運にも遭わずに過ごしていけたことは幸運であったと考えねばならない。

仕事においても上出来の出帆であった。自分の実力を遙かに上回った職場につき、能力の限界で仕事に打ち込めた。いや、能力以上の組織の中で無我夢中の日々を送ったのかもしれない。そういう点は人間の潜在的な察知能力のようなものが働き、舵取りをしながら人生を渡ってゆくものなのか、とにもかくにも脱落をすることもなく、勝手気ままな人生を楽しんでいた。

なんといっても一番の無謀は結婚である。社会人になって僅か2年にも満たないうちにその決心をしたのだから、これほどまでに自信に満ちた人生を踏みしめていた人間はそう多くもないのではないか。就職したらすぐに結婚しようと考えていたのだが、ここでも幸運の神様が微笑んだのだ。あのチャンスを逃したら今も結婚できずにいたのではないかと真面目に思うのだから。

1984年の夏には新婚さん気分で北海道へタンデムツーリングに行っている。その2年後にももう一度北海道に行くのだが、その間に九州、信州なども走り回っている。私のバイクは赤色で、ツマは赤色のつなぎであった。つなぎは、もしかしたら未だに我が家の押し入れのどこかに眠っているのではなかろうか。そりゃあ、あのときの思い出が染みこんだ服なのだからおいそれとは棄てていないかもそれない。小さすぎてもう袖も通らないと思うが、ツマはそういうものを棄てない人なのだ。

愛国駅にて

あのころのことをツマに尋ねたら、そりゃあもう必死であった、と言う。

眠かったし姿勢は悪くて辛かったし乗っていても面白くなかったし疲れるばかりで、早く降りて休みたいとばかり考えていた。なのに私は走り続けることに夢中で、お昼ご飯も食べずに、催促もしなければトイレ休憩もなしであった。普通ならとっくの昔に別れているのだろうが、何が好きだったのか一日中抱きついているのだけが嬉しかったし必死であったという。その話を聞くと、なんてひどい奴だと自分を思うし、もっと優しくしてあげなかった自分を叱りたくなる。ちょっと哀しくなるような切ないドラマだったのだ。

私たちは世の中にいるようなすべてがぴったしの相性の恋人ではなく、今でも笑い話にするのだが、趣味を100個あげても90個以上も同じではないような不一致なカップルであったのに結婚をして夫婦になったのである。何故と問われても困るのだが、インスピレーションがあったのだ。京都で住むことになって最初に見つけた下宿で初めて会った女の子であったというだけなのだが、人生というものはおもしろい。この話は機会があったらまた書こう。

そのころちょうど、北の国からというドラマがテレビで始まって人気が出ていたので、舞台となっていた麓郷の森という所を訪ねていった。誰もドラマのロケ地などを旅のルートに入れたりするような時代ではない。このドラマが火付け役だったのかもしれないが、案内看板も標識もない北海道の大地をバイクで走っていく。

裏摩周

写真は家のどこかに積み上げた整理箱のなかに残っているだろう。社会人になって真っ先に買ったオリンパスのOMをいつも持ち歩いていたので、結構きれいな写真を撮っている。だが、数が少ない。今のようにデジカメだったら、二人の時間をつぶさに残せたのだろうと思うと、記憶は頭の中に思い出としてあるだけで、写真はそのほんの1コマだけなのだ。忘れてしまうのが惜しいのだが、その後に築いた数々の記録を大事にしなくてはならないと、老齢化とともに思う。死んだら消失するのだから、それでいいのだ。

新しい時代の人たちには新しい人のドラマがあるのだから、私はここで幕を引けばいいと思う。そう思ういながら二十歳過ぎのころのことを思い出している。

草津白根スカイライン

2014年9月 6日 (土曜日)

語り合う

▼何を書くか

私はこのブログの中なかで何を書きたいのか。それは、タイトルに表現したように何かを遺したいということだ。手法は、断片的な思いつきを連ねていくだけでまとまりがなく、読んでいてもわかりにくい。しかし書いているわたしはそれなりに必死です。1つずつの断片を書き出すときには必ずモチーフがあって小さなテーマを持たせるようにしている。

▼夏の終わりに考える

今年の夏はムスメが家にいる最後の夏だ。そのことを先ごろの日記に書いた。その後、なるほどと気づくことが自分のなかにあった。それは、わたしの父も同じような時期を過ごしたことがあったに違いないということであった。

わたしが結婚をするときには嫁さんに倅を盗られてしまうような感覚に囚われたかどうか。その一方で、嫁さんが自分のムスメになるのであるから、ムスメのなかった自分に女の子の子どもが増えることでもあった。古里に帰省するたびに子供のようにはしゃいで、父はツマを自分の娘のように可愛がったし、わたしにムスメが生まれたときもとても喜んだ。そんな複雑な心理のなかで、孫と一緒に暮らせない自分の晩年や、定年を迎えてからのその後の人生のなかに並行して存在する孫たちのことを考えたに違いない。それは、とても哀しくて寂しいドラマであったのだ。

▼還暦を間近に控えて

父が様々なことを考えた一つ一つを、自分もこの歳になって捉えることができるようになってきた気がする。つまり、同じ血脈を受けた人間である以上似たようなことを考えていても全く不思議ではないのではないか、ということである。父が27歳のときにわたしが生まれた。そしてわたしは、30歳でムスメをもうけた。つまり、57歳で孫を得たわけであり、わたしは今57歳になろうとしている。その年齢になって初めてわかることがあるはずだ。子どもが独り立ちしてわたしの手綱ではどうにもならないという、極めて当たりまえの状況は、多くの人たちはこの年令で出会うのだ。

▼これから

こういう極当たり前のことに気づくのが遅かったのを悔やむ年代も今であり、楽しく走ってきたマラソンゴールに周回遅れで到達する直前の孤独感のようなものを感じるのも今ではないか。誰もが健康で苦しみもなく充実して生きていたいと願う。自分に湧いた自然な気持ちを迷うことなく口にし自分を見つめようとする人や新しいもの模索する人に出会うことが増えるのも今からだろう。

▼冷静に考える

みんな、冷静に考えている。世の中の大勢が似たような状況であり、先手を打てなかったことを悔やみながらもそれが敗者ではなかったこともわかっている。人はそういうものを宿命と呼ぶように定義付けて来たわけで、宿命を認めながら、エンジンを止めて不時着できる場所を探している。できることなら美しく朽ち果てたい。

▼さて、そんなことを考えながら。

いっしょに酒を飲み交わすことも殆どなかった父の心の内を推測してみようと、また静かに考え始めた。果たして、父にはわたしに遺したいと思った「言葉」があったのだろうか。こんな答のないことを考えようとする自分になってきてしまった。

▼手綱

つまり、自分の持つ手綱が届きにくくなってムスメやツマとの間に細やかな隔たりのようなものが見えてくることに思考は遡る。手綱をなくしてしまったが実は手綱は杖のようなものだったのではないか。新しい杖を見つけ出さねばなるまい。綱を張り直すのかは正しい手段ではないだろう。比喩的に言えばそんなところではないか。

▼ムスメのいない家で

ムスメが嫁に行ってしまえば寂しいから、犬とか猫とかを飼えば……と言っていた人があった。ツマは動物嫌いであるし、世話を焼くのはもう勘弁して欲しいと思っているだろう。自分自身が猫になったような暮らしをしたいと願っていることだろう。(しかし世の中の人々を見ていると孫に夢中になって必死になって動きまわり、子育ての時以上に苦心をして、小言も嘆きも果てないようだが)これからどんな暮らしへと変化していくのだろうか。

▼父の哲学

父は仕事を退いて、長男の(孫)娘とも同居できず、健康も害し不自由な身体で過ごす日々を送ることになる。いわゆる誰もが描く夢の様なバラ色の晩年を迎えた人ではなかった。思うがままのように絵を描き木を彫り磨くという日々を送る。農業を諦めず、たまに競艇へと出かけて楽んでくるというようなスタイルであった。酒を飲み交わすこともなければ人生論を話すこともなかった。テレビを見ている姿も記憶にないが、NHKの日曜美術館を見ていたのは憶えがある。あのとき一緒に並んでテレビを見ていればまた得るものがあったのだろう。よくいっぱしの大人になった人が父に敬意を表しながら「いつかは二人でのみたい」というようなことを言う。おやじの背中、みたいなシリーズ物でも定番である。つまりそこで「語る」のは「人生哲学」であり、聞きたいのはその「哲学」であり、自分がこれまで培ってきた哲学との差異を確認すること、そして多かれ少なかれ「軌道修正」をしたいということであるのではないか。

▼遺産

わたしには、父から受け継いだり刺激を受けたりする哲学はなかった。それは、人生の後半でほとんど哲学を交えた対話をしなかったからだ。言葉は何も遺らなかった。だからと言って遺産はある。それは私自身であった。

父の絵

2014年9月 5日 (金曜日)

猫のように

猫のように暮らしている。砂女さんがそんな表現をしているのを読んで、勝手な想像をふくらませてゆく。

猫のようにとはいったいどのようなイメージを持てばいいのかな……と思い、悠々で自由気ままなようにか……などと頭にそんな暮らしぶりを一瞬浮かべてみるものの、アイツらはあれでそれなりに苦労しているのだろうから、ほんとうは夢のような暮らしなどどこにもないのではないか、と思い直してみたりする。

苦労が多くても満足がいけばいいではないか、と自分に言い聞かせて生きてきた。

鳥のように空を飛びたいという人がいれば、奴らはいつか地面に降りなくてはならない時が来るのだし、地に足をつけて大地を水平に眺めて生きている方がたくましく充実しているのだ、鳥のように空を飛ひたいという夢だけを見続けるのが一番幸せなのではないか、と反問を繰り返していた。

ムスメが家にいる最後の夏をまもなく終えようとしている。

夏に掛かるころにはそんな話は具体化されてもおらなかったのに、私が冬に決めなさいという意志表示をしたらコトから転々と進化して結論まで見えるところにいってしまった。

まさか、この夏が最後の夏になってしまうとは。

◎○

周囲の人が猫か犬を飼いたいね、寂しくなるから、という。だが、猫か犬と暮らす日々は容易に想像できるが、現実として考えていない。

鳥は空から大地を見下ろし外敵も少ないように思われがちでも、決してそうはないだろうことはわかる。命を懸けて飛んでいるのだ。

猫だって誰かに飼われて幸せそうに見えるが、猫のほんとうの人生は野良の方が幸せかもしれないし、毎日同じ時刻に餌をもらってご主人の足に擦り寄っていても、別のところで夢を抱いているかもしれない。

○◎

私にも、猫のように暮らす日々が待つのだろうか。
またはそれとも猫を飼って、猫らしい人生を送る猫を眺めながら共に暮らすのだろうか。

親子丼

2014年9月 3日 (水曜日)

逢えそうな気がする

▼あの人に会えそうな気がして海まで    ねこ

そんなことばを思い出したが、ほんとうにもう一度だけでも会いたい人にはもう二度と会えないし話もできない。わかりきったことなのだが、架空の時間をさまよえる十七音の中でだけでは夢の様なことが書ける。

海まで

では、現実に会いたい人がいるのかというとそうでもなかったりする。

いまさら人に会って昔を語るのもほんの一時凌ぎではないかと思えるし、正反対に、一人でも多くの人に会って記憶の淵を掘り返しておくのもいいかもしれないのだが。

用事もないのだけれど
必ず時間に余裕があると
この海までやってくる。

引き潮が好きであるが、そのときにどうなのかを調べるてから出かけてくることもあれば、行き当たりばったりのこともある。

満ち潮だから残念というわけではない。波打ち際がこのコンクリートの堤防を浸していれば、さざ波のサワサワという音も聞こえるのだから、手を伸ばして掬って舐めてみたくもなるのだ。

自転車散歩を始めたのがお盆の終わり頃である。この海までは15キロ余りあるのでなかなか思いきれず、ここまでの半分の小高い峠の所で引き返している(8キロ)。この海まで来ようとすると国道を横切って幾つもの信号を渡ってくることになる。脇を車が走り抜ける道路も走る。それが嫌だったこともあるが、朝焼けとか夕焼けの美しいときを頭の片隅で期待している気持ちもある。

海岸に佇んでそんなものを眺めても黄昏を感じるだけの年齢でありながら、その黄昏を手探りで探しているような日々が続く。


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2014年9月 2日 (火曜日)

水玉

2014年9月 2日 (火)

去年、家でもらってきた里芋を
玄関先の庭に埋めておいて
ものぐさをして食べずにしていたので
大きな葉が幾つも出てきている。

掘れば食べられる芋があるのだろうか。
雨あがりに水玉を揺らしている。

我が家のムスメさんは研修で
飛騨高山に出かけていった。

5時前に起きてあれこれと支度をして
8時前にツマを送り出し
洗濯物を干して
少しストレッチをして
横になった。

水玉を見ていると
どことなく安定感があって
なおかつ緊張感のようなものを感じる。

水玉

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2014年9月 1日 (月曜日)

秋刀魚が食べたい予感がしたのおゆうはん

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八月の最後の日は日曜日。
お仕事に行ってましたけど

おゆうはんは、サンマでした。

食べたかったのが通じたみたい。

かぼちゃ

かぼちゃは、つきだし
もう少し上手に盛り付けるといいのでしょうが。

サンマを焼いて

サンマはつい先ごろに、刺し身でいただいたのに
焼いたのが食べたくなって
店に並んだのをみてすぐに買ってしまったのそうです。(ツマ)

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