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2014年6月 9日 (月曜日)

子どもたちの事故報道を見て考える

新聞のニュースで子ども水の事故が報じられている。真相は出歯亀になるだけであるしそれほど詳しくも読まないが、最近は社会面が新聞やニュースの原動力になるのか、なりふり構わず賑やかだ。果たして時代は変わってきたのか。そういう疑問を持つ人も多いと思う。結論だけを言えば変わったのだろう。しかし、問題や課題はそんなところにあるわけではない。

子どもたちが水辺で遊ぶことや線路で遊ぶことは、子どもが子どもらしくあるならば、当たり前のことだ。私だって小学生のころは線路で遊んでいて、危険を察した汽車が急停車したこともあった。親にものすごく叱られたのをはっきりと覚えている。遊びたくなるような心の持ち主で無くてはならないし、そういう場所が遊びに適している場所だと自分たちで発見することが、子どもの自己形成の出発であるとも思う。

水辺に探検に行くときは、近所の仲間で(悪ガキ連中を想像するとわかりやすい)出かける。親分は上級生である。お墓で野球をしたり川で魚を獲ったり線路沿いで土筆を摘んだりするのはまっとうな遊びだった。ボールが遠くへ飛んで民家や学校のガラスを割っても、深みの潜んだ淵に亀を探しに行こうとしても、上級生がそこにいて見張っているか注意をするか引き止めるか。普段から淵の怖さを唱えるように話をして聞かせるとか、怖い爺さんが住んでいる垣根にはボールを放り込まないように教えるなど、これらを日常の教訓とする社会があった。

今の子どもたちには、年上の悪ガキから掟を教わる社会が消えつつあるのだろう。

少し前、グライダーが不時着できそうなほど真っ直ぐな農道が交差する長閑な村の外れの信号のある交差点を通りかかったときに、小学生が数人いて信号を見て止まっている。車など何分たっても走ってこないようなところで、忘れた頃にやってきたのが私の車であった。

黄色い帽子を被った子が混じっていたので1年生だろう。上級生は、赤信号を見て車など来ない信号であるのに1年生を制している。赤信号だから渡ってはいけないのだという素振りがよく分かる。

その光景を見ながら私が思ったことは、人が築き上げた文明の中で大人が作った決まりで信号機という機械が人をコントロールしようとしている。車も来ないといっても赤だから渡れば法に抵触する。でも、大人であれば、右を見て左を見て渡るのだろう。何しろ、動物も虫もいないような田んぼの真中の信号なのだから。大人は大人でそれで結構。子どもは上級生に止められて法を学び社会の掟を知り人間の関係という社会に参加し自分を築き始める。

このような上級生がいること、閑散とした農村にこの子たちが生まれ住んでいること、信号機の前で立ち止まってじっと青になるのを待ったこと。これらのことに無駄なことなど何ひとつないのだ。

子どものころに線路に石を置いて遊んではいけないとしっかりと教えられた。まあ、それほど汽車も来なかったが、侵入防止の柵もなかった。昔は扇風機にもストーブにも柵はなかったが、柵がなくても、危ないことを知っていたから、誰もがそこには近づかなかった。事故も少なかったし、ニュースもなかった。

時代が変わったと最初に書いたのだが、ひとつの現象が変わったことは事実であろう。人々の心に影響をもたらすあらゆるものが、一方向に向かって倣うように変化してきたことが、暮らしを豊かにし幸せにし充実させて来たのである。しかし、人間の本質的な何か幹のようなモノを蝕んでいる。

腐った幹は切って棄てるというような現代社会。
次々と新しい歪や膿が発生し続ける。

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