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2014年6月 7日 (土曜日)

話を聞く(3) ─ 昭和30年代の回想

6月初旬の麦畑が台所の窓から見える。もう随分と昔から麦など作らない。20年以上昔の、いや、45年ほど昔の麦刈りのときの思い出が蘇ってきた。鋸鎌(ノコギリ鎌)でザクザクと刈っていく様子や脱穀をした後のはしかかった(「はしか」が痒かった)こと、麦ストローでシュースや牛乳を飲んだことをなどが断片的に記憶に焼き付いている。

麦には、細かい芒(のぎ/ハシカ)があるので、皮膚に付着すると気が狂うほどに痛痒くなる。これを「はしかい」というのだが、現代では麦を収穫することがなくなったので、この「はしかい」という言葉も消えつつあるのだろう。文化が生んだこういった息づかいのような足跡を絶やしてしまうことの罪悪感と喪失の無力が、消える灯びの最後の輝きのように身体の中で騒ぐのがわかる。

この痛痒い身体を風呂に入って流したいと思っても、わたしが生まれた頃の我が家ではできないことが多かったと母は話す。叔父がまだ高等学校に通っていたころの話である。この時代の話を聞くには、予め知っておかねばならないことも数多くあり、その都度話を中断させながら説明を加えて母の話は続いた。

嫁に来た者が風呂を浴びることができるのは、家じゅうが寝静まろうとするときで、もちろん最後にしか入れない。その風呂の湯が棄てられてて風呂桶が空になっていたことが何度もあったという。叔父(M)の意地悪だったと言う。その人がどのような人物であったのか、又の機会に触れるとして、その人はお昼のお弁当が気に入らなかったからという理由で湯を抜いてしまう意地悪をしたそうだ。

そのときはさぞかし辛い思いや悲しい思い、悔しさや憎しみも湧いたことであろう。しかし、あのころのことは、もう今さら、という気持ちもあるようだ。

憎しみや恨みは消えないのだが、今さら何を言って何が始まるのかという思いが母にはあるのか。その人は年金をもらう年齢を迎える前に内臓疾患に起因する症状で逝ってしまっているのだから、責めるものも何もないという気持ちがあるのだろう。

叔父は二人あって、名古屋と大阪という都会へこの田舎から出て行き昭和30年代から現代までをくらした。大阪の叔父(M)は、数々の苦難ののち、勤める会社の経営難、住宅事情の悪化などがあって、悲運の晩年の人生を送り、まだまだという年齢で人生を閉じた。子どもが二人(男女)いて未婚のまま親が先に逝ってしまう。叔母さんもその後すぐに逝ってしまい、人生のドラマの悲しい舞台の主人公のようでもある。そんな人生模様もあってか、嫁いだころの数々の憤怒をこれ以上は言及する必要もないのだろう。私の父が逝ってから今までをひとりで生きて、残された数々の有形無形なものへの感謝を思ったり、今の暮らしが十分に幸せなこともあろうかと思う。

名古屋に出た叔父(T)さんは、電話会社に就職し歴代で記録に残るという管理職早期昇進を果たし、細部では人知れぬ悩みも数多かっただろうが、社会一般として充実した人生を送っている。(今は脳内出血後の病気療養中である)。現実がもたらすドラマは奇しくも2つの明暗の展開であった。

++

母が嫁いだ先の父(私の祖父)は、社会的にも人物としても立派な人であったという。わたしの父はその人を(自分の父親として)語ったことは1度もなかったが、母は、思い出話を度々してくれる。(姑であるのに)賢くて冷静で尊敬のできる人であったと目を細めて回想する。それは、村会議員をしていたからという観念があるからではなかった。日々農作業に出かけた折には、嫁いできた一家の嫁に様々な話をしてくれたり、家の中で農家の雑事をしながら、世間の事や人生のことなどを話にして聞かせてくれたという。

長男をサイパンで戦死させたこと。家を継ぐ倅は(母の夫)は、子どもの時分に外的な病気で耳が遠くなり学校にやれなかったが農作業を全て継がせる決意でいること。弟二人(二人の叔父)は、高等学校というものができたので、学校にやって町に出そうと思うということ。農業は無学なものが継ぐしかなかろう、これからの時代は、学問を修めることは非常に重要な事で、こんな山奥で、お金もなく資産もなく農作業を続けるという、負けのクジのような生き方は長男が引き受ければよいうのだ、という考え。社会は大きく経済的な発展を遂げて、将来は想像もできないような暮らしをするようになるだろうという夢のような話などを、田んぼの作業をしながら滔々と聞かせてくれたそうだ。

そんな祖父に悪いところは全くなかったのだが、あえて言えば1点だけあると母は言う。祖父は仕事好きではなく(怠け者であったというわけではない)、あまり精を出して農家の仕事をする人ではなかったという。よく出来たもので、息子が(父が)よく働く人であったのはそのせいかもしれない。

人として褒められないことがあるとすれば、そのことたった一つだけで、縁側に腰を掛けて新聞を読むか、世の中にはそう多くは出回っていないテレビというものを先駆けて茶の間に置きニュースを見ている人だった。そんなところが、そっくりだと、わたしの方をチラチラと見ながら、懐かしむように母は話す。

わたしは、祖父からも父からも形見らしいものは何一つもらわなかったが、私自身が形見であったと、前にも書いたことがある。こういう点もその所以である。

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