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2014年5月28日 (水曜日)

山陰の話 花も嵐もⅢ その74

砂女さんがブログに山陰の旅のことを書いてられたので
懐かしくなりコメントをした。書き留めておく。


■ 出雲

「月の沙漠をはるばると」
そんな歌を思い出しておりました。
山陰地方というとどうしても華やかさに欠けるので、
バイクツーリスト時代にも再訪をする友人たちは少なかった。

ですけど、味のあるところが多いですよね。地味なところ。
古事記や考古学の時代は好きですので

愛着感が大きい場所です。
お蕎麦。好きです。出雲も出石も。
| 2014.05.25 |

■ ローカル線

宮本輝の小説に「海岸列車」という作品があります。鎧駅という寂れたところが登場します。

この駅を幾度も幾度も訪ねました。山陰へ行けば必ず寄りました。

もう一つ、亀嵩駅も同じくらい訪ねています。砂の器(松本清張)で有名になったところです。

どちらの駅も、必ずひとりで行き、時間を忘れて駅の中や周辺を歩き回って、ひとりごとを声が枯れるほどつぶやいてきます。

山陰とは、そういう場所を抱いているところでもあります。
| 2014.05.26 |

■ 海と食べ物

またまた来ました。

日本海は、わたしの住む太平洋とは違って暗いイメージで言われますが、それは風雪の厳しいこともありましょうけれども、北に向かって眺めますので太陽の光で光らないこともあるかと思います。私の毎日眺める海は太平洋で、いつも太陽が輝いています。入射角の浅い9時ころとか3時ころの海はキラキラと光ります。このあたりが海の色も違って見せるのかもしれません。

日本海ではホタルイカが獲れますが、山陰の諸寄漁港や浜坂の町のホタルイカはおいしく、富山が有名ですが山陰のほうが蟹などと並んで漁獲高も多いのではないでしょうか。

泊まった宿で、到着直後にほっこりしていたら、宿の奥さんがホタルイカとビールを出してくれまして、缶ビールがおいしくいただけるようにとコップまで添えてくれました心づかいがあったのも山陰でしてね。

些細なことがひとつひとつ光るのが山陰の良い所ではないでしょうか。

あ、そうそう、鎧や余部は、砂の器では登場しないと思います。
| 2014.05.28 |

2014年5月27日 (火曜日)

麦畑

きょうは、いつもと反対側の車窓です。

海の上はどんよりと曇っています。
スッキリと晴れなかったみたいです。

あと、1週間ほどで刈り取りでしょうか。

麦がなくなると、いよいよ夏の到来や。

麦畑

▼麦畑黙っていても恋焦げる  ねこ

2014年5月25日 (日曜日)

うす焼き・塩わさび味

(25日)

休日のお仕事の友として、
この日は「うす焼き 塩わさび味」を選んだ。

うす焼き・塩わさび味

おやつを食べる習慣は
子供の頃から全くない私であるが、
休日当番があまりにも暇であったりすると
食べているのが楽しい。

Apple 散歩(写真日記)から

2014年5月23日 (金曜日)

唐揚げ

ゆうべのはなしです。
唐揚げは、皮が旨いです。

来月前半くらいまでかけて少し痩せようと思って
ビールとウイスキーを控えようと画策中でしたが、
日々、こんなお料理の連続で、ちょっとだけビールを。
水割りもついでに。

唐揚げ

2014年5月21日 (水曜日)

霧雨ふる ─ 小満篇

ツバメの写真。
ムスメが熊野へ帰るのを見送りに出かけて
多気駅で撮ったのではないかと記憶する。
平成22年の7月初旬のことだ。

メールボックスに保管していたのを見つけてきょうここに保存しておいた。
平成26年5月21日、きょうは小満。

ツバメ

昨夜から雨が激しく降って
夜明けのころから霧雨にかわった。

日めくりを見て小満だと気づく。

おとといあたりから青空文庫で三国志を読んでいる。「桃園の誓い」の巻は感動の連続で、初めて読んだ時にもこんなくだりがあったことをすっかり忘れており、とても新鮮な歓びである。

最後まで読み切る自信は、はっきり言ってない。登場人物が多いし漢字難しい。目も見えなくなってきたので長時間読書は辛い。何よりも、どれだけ面白くても緊張を持続する根性のようなものがすっかり萎えてしまっている。

ウソを書いたところでしかたがないので、そう記録しておこう。

先日から断片的でかつ曖昧に書き残してきた雑感のひとつに、旧友・知人との意識の温度差のことがある。

つまり、その人たちとは、学生時代などに熱く語り合うような時間を共有したり、多かれ少なかれ、あるいは善意と悪意の混在するなかで友人として一時期を送った人たちである。

そして、60歳を間近に控えてこれまでと全く違った感覚でその友人たちとの付き合いを見つめ直してみようかなと考える日常である。

時には競争をし刺激を受け突き飛ばし合い励まし合うってきた。

そんな人生の教科書に載っているような人間関係であったが、結婚をしたり遠方に住むことで疎遠になったりったり、永年の年月を経たりする間に忘れられていってしい、そして冷めてきた。

自分の家庭や趣味が優先されるので当然の成り行きだったともいえる。

頭のなかで「友は大切な宝だ」と考えて、若き頃から今までやってきた。

けれども、そんなことは切り捨てて、ひとりで(または家族などの限られた人間関係のなかで)人生を終わっていけばいいではないか、と考えを修正したかのような時期もあった。

つまり、会いもしない友人たちとは、もう縁がなくても仕方がないとまで考えていた時期がある。

しかし、更に最近になって変化が出てきた。

これらの人々は何の根拠もなく人間的付き合いを開始した人々であったことを再認識して見たいと思う。

言ってみれば、仲間たちは価値観も政治観も趣味も暮らしも性格も全く違う人たちであることが多く、作為的に不安定で纏まりのない集団であったからこそ、新しい何か価値あるものを増殖していた。

だから、(人生の見直しのようなものをして)きっぱりと切り捨てるのではなく、損得抜きでけっこう心から友として触れ合えるのではないか、むしろ、今の殺伐とした時代にはその友人のほうが掛け替えのない存在ではないか、と考えるようになった。

私たち夫婦が100の項目で何1つ一致しないにも関わらず、夫婦として非常に完成されたバランスを保っている。

それに似て、そういう友人たちがたとえどんなに異質で異次元で暮らしている人になってしまっていようが、もう一度わたしの死に際に刺激をもらって再燃するのにふさわしい人ではないのか、と考えたのだ。

だが、それもそこで終わりかも、と思う。

温度差という言葉で曖昧なようにして書いてきたが、しかしながら、やはり、折り合わないものなのだなと感じざるをえないことも多く、波長のようなものはそんな美的な幸福物語では巡ってこないのだ。
昔なんかにかまってられるか、というのが本音の人も多かろう。

些か消沈気味になったものの、早い話が、そういうむかしの仲間たちは、もう過去の人であるのだ。それでいいのだ。

そこで、先ほど。

棄てられずに放置していたメールや文書を先ほど処分をした。
私が突然いなくなったとして、即座に価値が失くなるものたくさんある。
今のうちに棄てよう、と考えたのだ。

4年前のツバメの写真。

あのとき、ムスメは新任か2年目のころであった。ツマは、寮へと帰るムスメの姿を淋しそうに見送っていた。その姿が印象に残る。

今は本部に帰ってきたから家にいるが、更に4年後にはここにいないだろう。

私は未来をどの程度まで読みきっているのだろうか。その程度が優秀であっても見誤っていても、どっちだって構わないのだが、答はひとつだろう。

4年後、面白くなってくるぞ、と楽しみにしている。

2014年5月14日 (水曜日)

今井 むつみ、針生 悦子 言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで (ちくま学芸文庫)

言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで (ちくま学芸文庫)
今井 むつみ、針生 悦子

今井むつみ 言葉をおぼえるしくみ


まず、このタイトルにいかにも匂わせているように、言語習得のメカニズムを解明して語学上達に役立てようとか勉強手法に先手を打ちたいとか、考える人々の神経を少し刺激しておこうと感じられなくもない。いかにも現代的に読者をつかもうとするところが、まあ、残念なわけでアホくさいわけでもあるんですが、目くじらを立ててもしかたがないので、サラリと流す。

先生は当たり前のように「母語」と書いてらっしゃる。やはり、言葉を研究していると「母国語」ではなく「母語」とするところが自然になるのだろう。心づかいというよりはその自然体が嬉しくて読み進む。言葉は(当たり前のことなのだが)母から受け継ぐのだな。それは言語学に限らず、方言や生活習慣、食事作法などでも切実に感じることで、素人の私にも「母語」という響きに優しさが伝わってくる。

この研究は、数理科学や情報科学をやってきた私にすごくストレートにフィットする。(直球的に心に飛び込んできてくれる)

それは、たぶん、私がこれまで接してきた思考方法や実験や分析方法が、先生の行う実験や分析や判断に境目を持たずに限りなく近いからだろう。

つまり、心理学という言葉が入っているけれども、それは明らかに「理学」であるということで、文系のイメージではないのです。
(私が昔に学問をした人間だからそう思うのかもしれません。現代の学生さんたちは、とっくの昔にそんなことは知っておられて、心理学や精神科学は、ノンセクションな域で融合した総合的な理学だと認識しているのでしょうが)
そう思うと、工学から数理科学へと自然な形で専門域をスライドさせてきた私は、漠然とあのころは、もしかしたら、こんな研究がやってみたかったのかもしれないな、なんて思ったりする。行動科学などを工学的にやってみたい、などと言ってアホ扱いでしたからね。(気の多いことも指摘された)

子どもはどうやって言葉を覚えていくのか。興味深いことの前に、言葉と物体や状態をどのように関連付けていくのか。そのきっかけはどんなところにあるのか。
さらに、それらの事象をどうやって切り出して確認すると良いか。そういう解析・判断手法をこの本から読み出すのがおもしろいと思います。

全ては実験で確かめて、解析して、判断して結論付けていくのですが、パズルのように、いや、パズルより複雑で、しかも論理的で、更に、未知なことを掘り起こしていくおもしろさが満ちています。

じっくりとノートを脇において、しっかりと要約をまとめながら読み進むことをオススメします。

以前、今井むつみ「ことばと思考」(岩波新書)を読んで感動していたので、あのときの新鮮な感動は今回はジャンプして、さらに新しく深く追求した実験の手法の凄さに感動したり分析論理に驚いたりしました。

純粋に、人間の思考というものの、基本の基本に戻って見つめていくところが大切で、そういうことができる素直な視野と視点が欠かせません。非日常的思考と戦うとリフレッシュしてきます。(私には職業的にそういう思考が存在するけど、偏屈な視線と捉えられがちですが)

けれども、あまりにも普通の暮らしをしている人や文学歴史とかを愛している人たちには、こんがらがってしまって詰まらなくなってくるかもしれない。どちらかと言うと普段から偏屈な理屈言いのタイプの人が合うのかもしれないが、理学とはそういう穴を埋めるものであるともいえるか。

2014年5月13日 (火曜日)

もう少し頑張れる 花も嵐もⅢ その73

ひとりで走っている旅先では素朴な人に巡り会えます。旅人でありその村の人です。旅人は、1人の人同志ですぐに話しが弾むようになるし、寒村のじいちゃんであっても人懐っこく話しかけてくれる。

一人旅ってのは、なかなかできないという人もあるようで、羨むように「一人旅かい、いいねえ」とか「勇気あるねえ」と声をかけられることも多かった。

訳を秘めて旅に来てるらしい通りがかりの1人旅の女性に遭遇したこともあります。その子はもしかしたらセンチな旅だったのかもしれないけど、一生懸命にニコニコと話そうとして、何かいい思い出を作るのに役立てればいいなあと思ったのでした。

そうやって、人に言えない旅もあるし、見ず知らずの私に話してスッキリする旅もある。

篝火を焚いてキャンプ場で1人の夜を過ごし、心を曝け出して喋る人もあれば、堪えている人もありました。寂しがっているというわけでもなさそうで、旅人同志が賑やかにやっている前にいながらも孤独を噛み締めて、明日の行く道の右左を考えているのだろうと感じました。

旅に来れば1人です。

誰も頼れないし相談もできない。自分を虐待しているわけではないにしろ、少し判断を迫るような窮地に追いやってしまうことで、自分に判断力と決断力が出てくるのではないでしょうか。新しい道が見えてくるその瞬間がなかなかの快感なのかもしれません。

逃避と言ってみるもののそんなに甘くない。力を試しに来ているに他ならない。そして多くのみんなが、「まだいける、もう少し頑張れる」と思って帰ってゆく。

2014年5月12日 (月曜日)

話を聞き始める(2) ─ 母の回想

昭和26年ころ、母はこの家に嫁いできた。

旧家屋は昭和7年に新築しているので、建って僅か20年ほどあとになる。その時代にすれば新築に当たるほどの新しさであっただろう。

当時、そのような大きな家は近所でも建てる人もなく、今で言えば大豪邸であったのかもしれない。そこに、無理やり父が母を嫁に欲しいと言ったのか、古来の習わしなのか、お嫁に来ることになったのであった。

全く嬉しくはなく、不安であった。仕方がない、そんな時代に生まれ落ちたのだ、と今でこそ話すが、そのころであるから、嫌で仕方がないが家の風習であるのだから仕方がない、と考えたのかもしれない。

家屋の話を簡単にする。

建物のほぼ中央に大黒柱があり、その西側(8時から12時の方向)に8畳の間が4部屋ある。

東側には、飯台などを並べる板間や、さらに東に土間が広がり、奥戸さんや炊事場になっている。

東の出口は背戸と呼び、3時の方向に位置する。背戸へ抜ける脇(0時から3時の位置)には味噌樽などが置ける小さな収納部屋、その向かい側(3時から6時の位置)に風呂、牛小屋が並んでいた。

牛小屋を通り抜ける通路は、5時の方向で東南の隅に通り抜けることができ、その先の外には便所があった。

この便所は家屋とは別棟になってい東南側に突き出す小屋の一番隅で、東南角から南に曲がり屋のように延びる建屋は、言わば蔵のような建物で味噌部屋があり、さらに農機具なども置ける倉庫になっている。

大黒柱が家屋の中央にあるので、4つの8畳間と台所・炊事場・牛小屋域を東西に分けている。そして5時から7時は家屋の正面にあたる。

正面玄関は真南に向かって通っている。その脇には立派な式台があり、格子をはめ込んだ木戸が生活空間である板の間とをきちんと仕切っていた。

玄関は立派なもので、私が子どものころは日常生活でさえもこの玄関からの出入りはしなかった。もっぱら生活通路は背戸であり、牛小屋のなかを抜ける通路だった。

嫁に行くというのが人生の定められた運命であったわけだが、ここに嫁ぐ前に、女学校を出てから働きに出ていた時期が母には2、3年あった。

製糸工場時代と知事の家に住み込んで女中時代を送っている。

だが、その当時にどんな暮らしをしたのかを断片的に話してくれるだけで、この時代のことについてきちんと書き留めて置けるような話はほとんどない。

辛くて厳しい暮らしであったに違いないが、知事の家では時々ご馳走をお呼ばれできることがあったとような思い出話をしてくれるだけで、知事は厳格な人だったので女中としては悲しい思い出もなさそうである。

製紙工場は辛かったようだ。労働条件も厳しかっただろうが、母は恨みのあるような生活を思い出したくないのかもしれない。

世間の大方の人がそのような苦労をする時代だっただけに、仕事に行けたことだけでも喜ぶべきことであったのかもしれない。

いずれにしろ、少しばかり仕事をしてから嫁入りしたわけである。

2014年5月11日 (日曜日)

知者水楽仁者山楽知者動仁者静知者楽仁者寿

子曰
知者楽水
仁者楽山
知者動
仁者静
知者楽
仁者寿


子曰わく
知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ
知者は動き 仁者は静かなり
知者は楽しみ 仁者は寿し

2014年5月10日 (土曜日)

剛毅朴訥

子曰わく
剛毅朴訥 仁に近し


いつも持ち歩いている「孔子」(井上靖)をパラパラと。

2014年5月 9日 (金曜日)

こどもの日に ─ 豆ごはん

よそ行きのええべべ着せてもろて
百貨店の屋上の
遊園地へ出かけた
子どもの日

汽車の窓を開けると
煙が目に入ったけど
風が気持ちよかったのは
夏が始まっていたからなんやな

そんなことを
ふと思い出したのでした。

今は、よそ行きの服というものは失くなったし
百貨店の屋上の遊園地も姿を消した。

鯉のぼりを屋敷のなかに
あげるおうちも少なくなった。

たとえ、
社会や個人が豊かになったとしても
あのときのような
素朴で謙虚な心を
失わないためにも
古き習慣やモノを
残しておくことは
とても大切だと思う。

幸せや豊かさを追い求めるだけでは
ホンモノの幸せは得られない。

(こどもの日にこんなことを書き残したのですが、こちらのブログにも書き写してきました)

ことしの豆ご飯

いつの時代にもついて回ることなのだろうけれども、文明というものが進化して、暮らしのなかに息づく文化が姿を変えてゆくことに対して、わたしたちはむかしから無抵抗であらざるを得なかった。

暮らしのなかでご先祖様から受け継いできた習慣・しきたり、遊びといったもののほかにも言葉や食事などがあり、わずかな年月の間だけでも思い出しきれないほどこれらを失ってゆくのを寂しく感じている人も多いことでしょう。

春の田植えの時期に、綺麗さっぱりと鋤き終わった水田に水が満ち、鏡のような一面に早苗が植え込まれていく風景を見ていると、この営みがほんとうに次の世代に伝えるべきことは何であるのかを考えさせられます。

人生の設計を二転三転させて、およその打ち手が後手に回ってきた五十数年間でした。こどもの日に自分の子どもや世の中の子どもたち、むかし子どもだった人たちを見ていると、わたしもあのようなヤンチャをしてきたのだから……と思うこともあれば、逆に大人し過ぎで冒険心に欠けているような点も感じます。着実に失敗をせず、他人も自分も傷つけること無く、みなさまに迷惑をかけることもなく物事をこなしてゆく。

面白みに欠けるともいえましょうが、当人は充実している。その陰でやはり失敗の連続を余儀なくされ失意に満ち、気力さえも失いかけている人もあることでしょう。

ここ数年、好んでこの季節には豆ご飯を食べています。子どものころにはそれほど食べた記憶が無いのです。それには理由があって、わたしの母がこのお豆があまり好きではなかったのだと思います。畑ではたくさん収穫しますがどうしていたのでしょう。そしてこの数年は、ツマのお父さんが自宅の家庭菜園で収穫する豆をたくさんくれるので、ツマは子どものころに回帰したように喜んで豆ごはんを作ってくれます。

わたしは、さやえんどうが大好きで、これは母も好きだったことから味噌汁などに入れてくれたのでしょう。ツマはそのことをやはり近年になって知り、サヤエンドウを見つけると好んでわたしの好きな豆といって買ってくれます。

ツマが自らはそれほど食べないサヤエンドウの豆を買ってくれるのを見ていて、わたしの母が、農家のしんどい作業を終えた日の夕飯に父のためにカツオをの刺し身を買って飯台に並べていたのを思い出します。子どもたちは生臭い刺し身をそれほど好んでは食べませんでしたが、父はうまそうに猫のように食べていました。

今は、わたしがこの季節になれば必ずカツオの刺身を喜んで食べています。そのことは、早く逝ってしまった父はたぶん知りません。一緒に食べられたら良かったけど、それはそれで仕方のなかったことなのだと思っています。

さて、わたしも、子どものためにそんな思い出が作れるといいのですが。

2014年5月 8日 (木曜日)

話を聞き始める ─ 回想

昔ばなしを聞いてやるという感覚ではなく、昔の苦労を話してもらって私も少しはその時代を知りたいと思います。一緒に並んで聞いてくれているツマはそんな気はさほどなく、幾らかの共感を共にし自分を見つめなおす参考にしている程度かもしれません。

そう言っても、何もかもを打算的に捉えて話を聞いているわけでもなく、17歳のときに(ツマは)母と死別していることや現在の自分の子育ての心配・不安、娘の結婚に懸ける夢のことなどもあって、何等かを考えさせられてくれるヒントのようなものを見つけられたらいいなと思うことがあるでしょう。人にはそんなふうに控えてモノを見詰める姿勢が大事です。幸せをつかみたいという目標に進むための私たちがするべきことを考えている。

さて、母の回想は結婚したころの苦労に集中していきます。それよりも子どものころは─昭和10年から終戦のころまでは─、学校で友だちと楽しく過ごしたとか勉強したとか、(父親は5歳くらいで死別していましたので)母親と何かをしたとか家事を手伝ったなどの、ありふれたものであるのでしょう。

昭和6年生まれですから、10歳を過ぎるころからは戦争の影響が社会に深く浸透します。食糧難、貧乏などが原因の不幸は、その時代のすべての人々のおよそ平等な不幸であり、時勢はこれらの不幸を本当の不幸であるとは捉えさせなかった。生きていれば幸せと思ったわけではないのでしょうが、非常に非人間的で歪んだ思想に纏わられた暮らしをしていた時代でした。

というわけで、子どものころに尋常小学校の廊下を走り回ってお転婆であった話やそのときに床が抜けた話や同級生のお寺のおっさん(になる子)がいつもクラスで1番だった話などがひと通り終わると、次は農家の話や暮らしの話になります。

2014年5月 7日 (水曜日)

苦しくて  ─  林芙美子 放浪記 から

いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。かの人は私を睨み殺すのかも知れない。生唾が舌の上を走った。私は自分がみじめに思えて仕方がなかった。別れた男との幾月かを送ったこの部屋の中に、色々な夢がまだ泳いでいて私を苦しくしているのだ。──引っ越さなくてはとてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭に描いていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。


どういうわけか、この部分が気に入ったのだろう。
おぼえがきにしまって、大事に置いている。

林芙美子 放浪記 から  (青空文庫 159/1210)

林芙美子 放浪記

2014年5月 6日 (火曜日)

旅へのいざない 花も嵐もⅢ その72

やはりGWになると四国ことを思い出します。

藤の花が咲いて山に緑があふれると四国行きたいと思いました。

冬の間はじっとしていましたから、春休みのころに紀伊半島をぐるりと回ってウォーミングアップを済ませると、四国の険しい国道が私を呼んでいるような気がして、ひとりでそこを走りたくなってくる。

種田山頭火のようにひとりで彷徨うような旅のスタイルに、センチでノスタルジックな美と落ち着きを感じていたあのころ。

淋しいのだけれどもどこか自分と向き合っているような気持ちになれるような旅を1週間ほど続けることで、自分なりにリフレッシュできていったのだろうと思います。

テーマを決めて何かを探して知らない場所を訪ねて行く。そこには村があって人がいて、水が流れて花が咲いている。そして様々な出会いがあり驚きがありました。それらの感動の数々が思い出となり旅のパワーとなっていったのでした。

2014年5月 5日 (月曜日)

切り捨てるもの ─ 一子相伝  立夏篇

夏も近づく八十八夜。子どものころに母と幾度も「せっせっせーのよいよいよい」をして遊んだことを思い出す。科学的・文明的おもちゃもなく、母と二人で遊ぶか縁側で裁縫をしている脇で話を聞くなどをして過ごしたのだろう。

今の時節ならば、もうすでに麦は大きく育って穂を出しているし、当時は現代のように田植えを5月初旬にはせず、1ヶ月先の6月初旬頃にした。。麦を刈り取ってから田植えを始めるので、5月は苗床を作るのも忙しかったに違いない。

もちろん、茶摘みの歌のようにお茶の収穫も農家にとっては大事な仕事だ。また、桑が大きく育ち始めるので、養蚕の方も忙しい。

83歳を超えてしまった母の昔ばなしを聞くのが、近ごろ楽しい。中身は決して楽しい話ではないのだが、苦しかったり辛かったことを、すべて過去のことにしてしまって話す母の姿を見るのが楽しいのだ。

二十歳の頃に嫁いできて、舅・姑、大姑がいて、夫には姉と妹、二人の弟がいた。そんな家族がどのように暮らしていたのかを話してくれる。詳細は書かないでおく。母や私が順次死んでいくときに消えていってしまうような記憶とすればいい、そんな理不尽で不条理な話しであった。

母は当時の人やその人の為したことやしきたりを私たちが想像できるレベルを超えて憎んだに違いない。今さらそのレベルを定量化してみたところで時代は変わらないし巻き戻せるわけでもない。怨みを果たせるものでもなかろう。その時代は既に過去なのだと切り捨ててしまえるような人の方が幸せなのかもしれない。

柱の傷

パソコンのなかの記録写真に柱のキズを写したものがあった。

▼背くらべそれも無縁なひとりっ子

その写真を見ながら、もはや、ここに名前の書かれている子どもたちはこの写真なぞ必要とはしていないのだと感じた。

ひとつずつ明日へのステップを踏み続けるために、もはや、このようなモノが必要な時代ではないのだ。私はもっと冷めてこなければイケナイと示唆されているのではないか。

母が切り捨てた過去は、確かに歴史的には尊いものであり人間の心が未来へと進化し成熟する時代のある種の証であるのかもしれないが、私たちにも(否、私にも)このような「切り」の決断が必要だと迫られたのだ。

父は生前に日記をつけていた。かなり若いころから1年に1冊という立派な日誌をつけていて、私の最古の記憶のころにすでに日記が枕元に置いてある様子がはっきりと残る。しかし、この日記は、晩年には1冊も残っていなかったのだから、どういう事件か事故か判断かで処分をされたのだと思う。

先日、母が更に古い記録を出してきて見せてくれた。それは昭和初期の我が家の家計簿に相当する記録だった。筆で和紙に綴っている。時代劇や平安絵巻の古文書みたいに流れるような墨字で書かれている。祖父が残していたものだと母は説明をしてくれた。

消えてゆくモノと残されるモノ、そして、切り捨てられるモノ。様々な記録や記憶があり、その時代が望んでいる方法でおそらく始末されてゆく。しかし、何等かの形で伝承していけたとしてもやがては消えてしまう。

父は何のために日記をつけて、のちになって、どのような判断で抹消(始末)したのだろか。それは何故だろうか‥‥と大きな疑問が残ったままである。

父からは何ひとつ形見として受け継いだものはなかったが、この心を推測するための目に見えない秘伝書のようなものを、伝心で受け継いだのだなと、このごろ何となく感づき始めている。

一子相伝という言葉が浮かぶ。

2014年5月 4日 (日曜日)

立夏篇の前に

立夏篇を書こうと思い立ったときにちょうど砂女さんの短歌(&俳句・随想)のブログを読んで何かを感じていた。4月下旬に桐生市で大きな山火事があってその真っ最中の頃の記事であったかもしれない。

人生のことなど何も考えずに40年余りを生きてきたときに、それではいけないと気づいて慌ててあれやこれやと理屈を考えたり反省をしたりした。しかし、それももはや愚かなのかもれない、これからは自分を見つめて自分らしく、他人を見つめてみなさまに感謝して、そしてもうとやかく理屈を並べ立てるのをやめて生きていかねばならないと考え直したのが50年。孔子の言う天命であり、それから数年、今となって、今年の春は一段と爺々としてきたなと思う。

そういうわけで、何事においても少し足踏みをしているのであるが、立夏篇を書き始めるときにはすっかり立ち止まったように(意志でもなく)ぼんやりとしていた。

(書きかけのメモがあるので残しておく)

このまま一生誤魔化して終われるならば、それがいい。誰だってそう思うことがあるだろう。一生嘘をつきとおせてしまえば、それは正直者と何ら変わらないのかもしれない。

そんなふうに思っていた時期があった。しかしそれでも、しばらく冷静に考えればどこかに間違いが潜んでいることくらい誰でもわかる。そんな狡くて擦れた人ばかりが世の中に棲んでいるのであれば、そういう生き方もあるのだろう、いずれどこかで歯車が狂っていることがバレて、道を踏み外しかねない。現実に戻って見つめれば、正直に生きてゆくことがいいに決まっている、と知る。

正直に生きていければ、みんなが幸せになれますよ、でも、真面目だけで毎日を送ったとしても、成功するなんて誰も保証してくれないから、「努力だけで根性だけで目標が突破できるなら私は間違いなくもっと立派に成れていただろう」と言った(有名な)人があったが、一瞬であれ共感を呼ぶ言葉であろうことは間違いない。だからといって人を憎んだり騙したり陥れたり、また嘘をついたりして凌ぐことは許されない。

2014年5月 3日 (土曜日)

ことばのおぼえがき

■あ行

あいさ→間、隙間
あばばい→眩しい
あも→餅 
あらくたい→荒々しい 
あんご→あほ 馬鹿 

いまし→今 
いろう→触る 

えらい→疲れた

おいでなして→ようこそいらっしゃいました 
おいない→来きてください、お越しください
おおきんな→ありがとう 
おくんない→ください 
おたい→私 
おちん→おやつ 
おもしゃい→おもしろい 
おわえる→追いかける 

■か行

かいだるい→疲れてだるい 
かっぱしゃぐ→乾いている
かんぴんたん→乾いている 

きしょく悪い→気持ち悪い 
きづつない→恐縮する 
きばる→おごる 
きんにょう→昨日 

くちなわ→蛇 

けなりい→うらやましい 

こぉちく→頑固 強情
ごうわがく→腹が立つ 
こぉた→買った 
こぉとる→買ってある 
こそばい→くすぐったい 
ごっつぉう→ご馳走 
こっつい→大きい 
こめをかす→米を研ぐ 
ごめんして→許して
こわい→固い、(ご飯が)こわい 

■さ行

さおぐ→騒ぐ 
さいそけない→情けない 
(何々)さかい→(何々)だから 
ささって→明後日の翌日 
(何々)さんす→(何々)なさる 例:「今日は何さんすの」(今日はなにをなさいますか)

しゅむ→沁みる 
しょうずくなる→しゃがむ 屈む 
しょずむ→つまむ 
(何々)じょ→(何々)ですな 

すこい→ずるい こすい
ずつない→苦しい 
ずっとか→よほど はるかに 
すま→隅 
すんどる→生活している 

せやに→そうよ 
せんど→いっしょけんめい 

そやもんで→それだから 
そばえる→じゃれる 

■た行

だだくさ→大雑把 
たとむ→たたむ 
だんない→かまわない 大丈夫 

ちみぎる→つねる 
ちゃっちゃと→早く 直ぐに 
ちょける→ふざける 
ちょびっと→少し
ちんちん→とても熱い 例:お湯がちんちん
ちょぼっと→ちょっぴり 少しばかり

つおい→強い 
つくねる→例:着物をその辺につくねとく、というように使う
つんどる→混んでいる 
つめる→挟む 例:ドアで指つめる
つらい→気の毒な 
つる→持って運ぶ 例:机をつる

どえらい→すごい 
どける→のける 移動する 
とごる→下に沈殿する 
どべ→びり 
どないした→どうした 
とぼす→火を点す (ともす)
どむならん→始末におえない、どもならん 
とめる→なぞる 

■な行

なっとしょう→どうしましょう
なっとな→何やって?
なっともならん→どうしようもない 
なんね→何か(用ですか)?
なんば→とうもろこし 

にいやん→お兄さん、関連語:じいやん、ばあやん
にじくる→塗りつける 
にやす→沸かす 

ぬかす→言う
ぬくたい→あたたかい、温い

ねき→直ぐ近く、わき
ねっから→一向に 

のぐ→脱ぐ 
のたる→腹ばいになる、のたり=ヘビ
のぶとい→人の言うことを聞かない、ずぶとい 

■は行

はく→手袋を「はく」
はさかる→挟まる 
はしかい→痒い 
ばばいい→眩しい 
はたてる→行動する、準備をする 
はめて→(仲間に)入れて。手袋を「はめる」とも言う
はんじかん→30分 

ひやかい→冷たい 

ふたかわ目→二重瞼 
ぶぶ→湯 

へたばる→疲れて動けなくなる 
へっしゃげる→つぶす、ぺしゃんこにする 

ほっこりせん→はっきりしない 
ほる→捨てる、棄てる

■ま行

まいそをこく→ゴマをする、べんちゃらを言う 
まいそこき→お世辞を言う者 
まいて→(仲間に)入れて 
まだまん→まだ 
まめなかぁ→元気ですか 

みじゃく→こわす 

むしる→手でかき取る 

めめこい→小さい 
めぼ→ものもらい 

もけた→例:あの人、女の子もけたんや、…もけやんして
もぐ→(果物の実などを)もぐ 

■や行

やからをきる→ヤンチャを言う 
やけつりをする→火傷する 
やにこい→やりにくい 
やめる→痛む、うずく 
やらかい→柔らかい 

ゆわい→祝い 

ようけ→たくさん 
ようせん→できない 
よさり→夜更け、夜中 
よして→(仲間に)入れて 
よぼる→呼ぶ 
よんでもらう→ご馳走してもらう、よばれし=およばれ(ごちそうになる)

■ら行

わやく→いたずら 
わやくちゃ→むちゃくちゃ 

2014年5月 2日 (金曜日)

高齢者の記憶 ─ 回想

高齢者の記憶障害、精神障害の病気のこと

老人ボケとかアルツハイマーという言葉が身近に迫ってきている時代になった。果たして50年ほど昔にの実態はどうだったのか。

まず、母数が少なかったのでしょうか。老人の人数が少ないならば、ボケの症状を見かける確率も少ない。

一方で、ボケの病理はどうなのでしょうか。生活習慣や食生活の影響を受けて、成人病や肥満、運動不足の人が増えれば、発症の可能性は高くなりましょうか。

では、いよいよ、うっかりしてはおれぬ時代を迎えているということでしょうね。

母は80歳をとうに超えていますし、心配が募ります。ときどきあやしい言動をすることがあります。年寄りなのだからしかたのないレベルとも思える記憶ミスも多くなってきたこと盛りますが、家系にそのような事例の有無を調べるよりも、直面している様子を観察するほうが、しっかりした手がかりになると思います。

アルツハイマーの予防策として

  • 雑談をする
  • 運動をする(ストレスを除去、睡眠を十分に)
  • 成人病に注意(食事を心がけるように)する

などと言われています。

母に話を聞くことは、簡単に出来て予防効果の高いアクションかもしれません。
昔ばなしを聞きに行き、記憶を呼び戻して活性化を図ろうと思い立ちました。

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