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2014年3月31日 (月曜日)

春嵐

3月30日のつぶやきでは

▼降り出した音優しくも酔の明け

と朝一番に書いている。

29日の夜半から降りだした雨が深夜に雨脚を強めたのが強い印象になって残っていたのかもしれない。

雨雲は素早い動きで、午前中に荒れ模様であったにもかかわらず、午後には青空も見えていた。

風は強く、春の嵐となったことも記憶してこう。

(29日)

久しぶりに市内のホルモン屋さんに出かけることになった。昔の仲間たちが飲むというのでお声をかけてもらった。この頃は貧乏の低空飛行であるのでお外でお肉などということは考えもしなかったのだが、10年以上もご無沙汰しているかもしれない人々にも会うのだからということで、ちょっと頑張って出掛けてみた。

一升びんでホルモン

オムロンにはリストラはなかったのか、みたいな話から世間一般の会社の実態話などをして、懐かしい友が今どうしているかなどという話も聞かせてもらった。そろそろみんな定年を迎える準備段階に入り、後輩のF君が部長になったとか、同期のM君が転勤でこちらに来るとか、お世話になったMさんは役員だとかいう話も飛び出す。そんななかで世間の流れから早々にスピンアウトした私は暢気を装っている。

久しぶりにジョッキでビールを飲んだ。あくる朝は少し体調を崩してしまったが、また10年ほどは大酒を飲むことも無いだろう。今度のその時は棺桶に酒でもかぶせてもらう時なのかなと思っている。最近、軽いストレッチをすることを試みて、腰の痛みや膝の痛みが和らいでいる。

2014年3月29日 (土曜日)

ごちそうさん

3月29日の天声人語で「ごちそうさん」というドラマが終わったことに触れていた。ドラマのことは皆目わからないが、この言葉を聞いて思うことがひとつある。それは、「ごちそうさん」というお礼の言葉を街なかのメシ屋で使う人が少なくなったのではないか、ということです。僕らが学生のころは学生街の定食屋で「おばちゃん、ごっつあん」といえば、「いくらや、勘定して」という意味であった。ご飯を食べたらごちそうさまと手を合わせている人の姿は今も昔も同じで、むしろ、表面的なお行儀の良さや躾という点では現代人の方がいただきますやごちそうさまを丁寧に慣行しているかもしれない。しかしながら、街の食堂で見かける姿の減った理由を考えると、ヒトは昔ほどに食べ物へ感謝の心を抱かなくなったことで心から「ごちそうさん」と言えなくなったのではないか。

3月29日偕楽公園

3月29日、開花宣言のあとの最初の土曜日。

2014年3月28日 (金曜日)

宮本輝 慈雨の音 流転の海・第六部

宮本輝 慈雨の音 流転の海・第六部です。

1980年代はじめに「流転の海・第一部」に出会い長いお付き合いです。
来月4月末には、第七部(最終編)がハードカバーで出ます。
(文庫まで読まないつもりでいますが)

登場人物の人間関係もおおかた記憶が曖昧になっているのに
普通ならば面白くなくて投げ出すのだろうけど
何の迷いもなく読了できてしまうのでした。

近頃、少し面白味をなくしているのは売れっ子になってしまったからか歳のせいであるか情熱が減ってきたのか息切れであるのかなどと心配をしていたが、流転の海を書くときは元に戻っていたから安心した。やっぱし少し違うぞという気持ちで読み始める。何もたくさんの秀作を世に残すことなど無い。数少なくてもしっかりとしたものを読みたい。もちろん面白味に欠けると言ってはみても、詰まらない作品や下らない作品、売れればいいという作品を書いているわけではなく、少しお尻に火を着けられて書かされているとかゴーストなお弟子さんが代わりに書いているのではないか(ないと思うが)という作品が多かったような気がしただけだ。読み手である私の方も、熱く燃えていないこともあったのだから、仕方がない。そういう時期もあろう。

さて、この作品は、シリーズの中ではもっぱら大人しいと言われたように、第五部までと比べると激動の物語ではない。シリーズ全体から見ると作品の中でも少し緩やかな部分といえるかもしれない。宮本輝の長編作品の特徴は、息を抜いているような中だるみがあることだと思うが、シリーズの過程にもそういうところがあって、前編や本編はそういう部分なのかもしれない。まあ、物語でもリアルな人生でもそういうものだろうから、それでいいのだと思うが。

第六部は確かに宮本作品の中では大人しい一節になるかも知れないものの、流転の海の作品の中では重要な位置づけであるし、最終編へと向かうための助走のようなものだろう。内容は意味深いものがあって結末を迎えるにあたってとても欠かすことのできないモノが占めているような気がしている。

数々の教訓や哲学を作品の中に散りばめながらしっとりと読者に届けてくれる作品が多いのだが、この第六部では苦しい時代背景のなかで数々の辛い別れを経ながら一人一人が完成されたひとつの姿に向かっているような、それは人生の儚さでもあるのだろうが、宿命でもあり人としての強い姿でもあり弱い一面でもあるところを伝えてくれる。

生き様を、もはや戦後ではないという時代背景に乗せて、作者らしいペンで綴ってゆく。日本の国民がもれなく苦労して生きてきたことを包み隠さず残しておかねばならない。そんな時代に自分たちは大きくなってきたのだし、自分たちを育ててくれた人も年を食っていったのだということをしっかりと記録しておかなくてはならない。物語を書きながら、誰もが書ける自伝ではなく、語り継ぎながらもっと重くて深いものとして伝え遺すのだという魂のようなものを感じることができる。

現代の幸福社会に生きる人たちへ決して苦言であるとか説教じみたものではない形で、噛み潰したときに激しく滲み出てくるような苦味を伝えておく責任がある。それはひとつの作品としておもしろいとかおもしろくないとか人気があるとか売れるとかそのような問題ではなく、遺言のような形で伝えたいと作者はもしかしたら思ったのではないだろうか。自分の使命のようなものと考えて、気合を入れようとしたのかもしれない。

貧しい時代に生まれて貧しい時代を生き延びて、数え切れない苦難を子供に引き継いできた時代の人であっても、そこには自信や自尊があったのだということを伝えなければならない。新しい世代へと過去の様々な歴史を受け継いだ人の責任としてその遺言を物語にしなくてはならない。それはひとりの小説家としての宿命であり感謝でもあった。そんな意気を持っている姿がある。ということは私の推測であり希望でもあり憧れではあるが、長い年月を経ても読み続けている原動力なのかと思う。

流転の海(第一部)と出会ったのは、社会人になりたての1980年代の初めの頃だ。思えば長い付き合いで、次の作品が下降線だったらしばらく間を置いてから読もうと何度も思いながらも、文庫になれば必ず買って読んできた。この不思議な魅力は何処から生まれるのだろう。(友だちに薦めてもきっと途中で投げ出すことが容易に想像出来るだけに、誰にも紹介せずに読み続けている)

宮本輝 慈雨の音

2014年3月21日 (金曜日)

わたしの新しいドラマを始めよう ─ 春分篇

(17音のつぶやきを拾い集めるやよい三月彼岸まで)

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▼けんけんぱあの人に追いつけないまま

わたしの三月朔日はこんなふうに始まったのでした。いつものようにあの人ってのは架空の人でありながらわたしは誰かを見つめている。

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▼雪あかり夢から醒めて火をおこす
▼雪しぐれあなたの髪を眠らせぬ
▼郵便屋さん私の手紙は来てません?
▼凍りつくよな貴方の指と切る
▼雨音がピチピチ春が近づいてくる

三月になっても一向に暖かくなって来ず。お水取りのころに春のジャケットとズボンで出掛けた覚えもあって、あのひんやりと沁み入る寒さが快感だったのだが、今年はしばらくお預けになっている。

▼土砂降りの予感がしたの逢う前に
▼泣き顔がステキ土砂降りハネたボブ

容赦なく夜どおし降り続く雨の音を聞きながらわたしは何をぼんやりとしていたのか。いつもならば32年前に東京で聞いた雨音を思い出すのだろう。今年はそんなにも沁みったれていなかったようだ。ちょうど夢中になっていた本でもあったのかもしれない。

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▼蕾待つ誰とは言わぬ露の朝
▼花が咲くまでもう少しだけ頑張る

どうやらひたすら何かを待っているような気配がある。またどこかの街角で素敵な人でもみつけたのだろうと想像しておいていただくことにしよう。

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▼よもぎ摘み1両の汽車飄々と
▼下駄の音春はまだかと坂をゆく
▼あの人を憎んで雨水凍りなさい
▼恋空を寒風吹いて片思い

春の足音という表現がある。それが好きで、春が好きであるよりもその言葉の響きが好きなために春を待ち遠しくしているのではと自分で思うことがある。足音が近づいてきたり坂道をのぼっていくドラマの場面には明るい未来へと向かう変化が隠れている。見えないものを待っているのが好きなのだろう。何年か前の今頃の季節にも夜空を見上げては切ない思いをしていたことがあった。そんな時間ばかりであれば死んでしまいそうになるが、片思いであっても終わってくれるからこうして生きているのかもしれない。

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▼うしろ向き泣いた笑顔の黒い髪
▼お月様もう貴方なんぞ追いかけない
▼春一番あの子が欲しい花いちもんめ
▼ウグイスや囀りだけが花なりて
▼鴨の池そろそろざわめき始めたる

▼あの人がお伽噺話をしてくれてひとつの恋が終わるのを知る

ちょっとした決心のようなものが見えていると思いませんか。恋が終われば、また新しい恋の予感を感じ始めるというお得な気質なようです。

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▼卒業の朝霧雨滲む水銀燈
▼待ち合わせ疏水のほとり柳の芽
▼あの人の言伝てを胸に春に立つ

3月下旬にはおとうの誕生日があります。もう16年も過ぎてしまって、その誕生日を祝うこともないのですが、生きている時にも一度もお祝いをしたことなどなく、言葉に出来ないほど後悔をしています。

ヒトはひとりで生きていることには変わりないのですが、知らない所でものすごい大きな心配や願いが飛び交っていて、そのおかげで自分が成長できていくのだということにあるとき突然気づくわけです。

これは他人に教えられて知ったら無意味なことであり、教えて差し上げてもそれは禁断なことだとつくづく思います。たいていはおとうが死んでしまってからのことが多いと思いますし、死んでしまってからのほうが宝としての価値があるのだとも思う。宝とはそういうものだとも言い換えられるかな。

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▼土筆摘み架空の会話を籠に盛り
▼サクラソウお稲荷三つくださいな

春休みに落第が決まった頃だったのか、それとも特別研究テーマが決まった頃だったのか、それははっきりと記録にないのですけど、いつも通りに商店街に出かけた帰りにいつも通りの小さなお店でお稲荷さんを買うのが愉しみでした。可愛らしい頭巾のバイトの女の子で、きっと近所の大学生だろうと思うけど、ショーウインドーの上の小さな寄せ植えの花の名前を尋ねたことがありました。知らなかったようで小さな声で「サクラソウ……」と教えてくれました。あのころの恋はいつもたいていがそんな感じでした。

しだれ桜

写真:浜松城公園のしだれ桜。
— Hitomi (@taps_miller) 2014.3.21のツイートから

2014年3月18日 (火曜日)

あしたを生みだす ─ 裏窓・号外

■■ 巻頭言

春の足音が聞こえ始めるとあっという間に野山が華やかになり街行く人の装いも少しずつ変化してきます。オフィス街に溢れる人たちも颯爽としていて春らしさを感じる毎日です。少しばかりの寒の戻りがあっても、新学期には花が満開になるように植物たちは準備を着々と進めていますし、新学期や新年度をこの時期に決めた昔の人はエライなあと思えてきます。

そんなふうに花の咲く来月、いよいよ三重県総合博物館(MieMu:みえむ)が開館します。首を長くしてお待ちの方々もさぞかし多いことと思います。津駅から偕楽公園に寄り道をしてツツジを楽しんだ後、美術館を経て博物館までとゆっくり歩いてみるのもいいかもしれません。いつかこの道が、四季の花に埋もれるフラワープロムナードのようになってくれるといいなあと夢見ています。

博物学という分野は、子どものころから意外と身近にあったのではないでしょうか。家の本棚にずらりと並んだ百科事典などに植物や動物の図鑑があって、子どものころは絵本代わりにこの図鑑を眺めたりして過ごしました。大人になったら昆虫学者になるんだと夢を持つ友だちがいて、夏休みには一緒に昆虫採集や近所の河原へ化石や鏃(やじり)を採りに出かけたりした思い出などありませんか。

そういう思い出を結集させてくれたのが博物館なのだろうと私はイメージしています。高校の教科書で今西錦司先生の大興安嶺探検という著書を知り、探検家になりたいと夢に見たこともありました。

博物館といえば、京都大学総合博物館(京都市)や国立民族学博物館(吹田市)がまっさきに浮かびます。MieMuもこれらに負けない魅力的な博物館になって欲しいです。そのためには、利用する人たちも本当の博物学の面白さを、知識だけでなく体感して熟成させていかなくてはならないと感じます。

興味深い企画があがっているようです。MieMuに見学にお越しになるみなさんと私たち環境生活部のスタッフが一体となって、あっと驚くイベントや展示を見たり体感できると、三重県がもっとおもしろくなってくると思います。

■■  あとがき

明日を生み出す力。子どものころの生き生きした自分に戻ることからスタートしたいと私は考えています。

博物館のことを書くことで、博物学とは何だろうということを考える機会ができました。それを探っていくと、子どものころには何にでも「わくわく・ドキドキ」な気持ちで踏み込んでいって、知らないことがあっても「知ること」へ変えてゆく原動力としていたことを思い出します。

このごろは、どこかに出かけて何かをするにも、あらゆる面で準備万端になっています。やはり、好奇心を刺激してものごとを探求するには、少し未完成である方がいいでしょう。未熟で未完成なものを散りばめることで、多くの人々を惹きつけて欲しいです。

私たちがふだんから接している環境学だって博物学と仲間の体系で、たぶん同じステージで未来を見つめているのでしょう。だったら、環境創造活動をするたくさんの人たちもMieMuに集い、もっと手を取り合って一丸となって進んでいけるといいですね。

そうすると、MieMuの「明日を生み出す力」が築き上げる未来は、きっと楽しくておもしろいものになって行くのだろうな、と思います。

2014年3月16日 (日曜日)

伝記

16日は記念日で、31年目という新しい日常を始めることになる。

父の伝記は、きちんと構想を立てて書き始めた訳ではないので、どうしても纏まりがつかず、書いている自分でさえもう一度読もうという気にはなれないものとなってしまっている。どうしたものか。タイトルだけでも書き直して、要約文を付け足して推敲した方がよいかもしれない。

だがしかし、書いている人のそのときの気持ちというものも大事であるので、伝えるのが目的であるとはいいながらも、伝わらなくてもいい部分も認めてやって、そのときの感情を尊重するのもよかろう。

というわけで、私が書く回想記の主役はあくまでも私の父でありながら、残される人に向けて書き始めたわけで、それは私自身のためのものであったと同時に、私の子どもやツマへの手紙のようなものとも考えた。

私から見ていた父の気持ちを想像して、なおかつ、父の言伝て(ことづて)を掘りこすように私は言葉を残したい。それが私の回想記であり、私の伝言であり、私の伝記となるのだろう。

まだまだ、しばらくの間、考え続ける。

斎宮博物館・梅園

※オヤジという表現は使わないことは前にもどこかで触れた。私の暮らしの中ではオヤジという日常語はなかったのだから。だから、父と書く。または、おとやん、おとう、と書くこともある。

2014年3月15日 (土曜日)

ごちそう

3月14日はツマの母の命日である。中3の卒業式の数日前に緊急手術をするといって京大病院に入院し、卒業式の前日に逝ってしまう。ツマの母はそこで止まったままだ。結婚したころは、思い出してはそれからしばらくは泣いてばかりいたが、16日に30回目の結婚記念日を迎える今では、もう泣いてもいられない。それでも、もう一回逢いたいなあとひとりごとを言っているのを聞くと、居た堪れなくなる。

中旬になって少し暖かい日が続いている。勤行をする部屋にも電気ストーブを持ち込まなくても良くなった。日一日と春になっていくのだろうな。そんなことを思いながら、16日の結婚記念日には何を食べようかな、などと考えている。ムスメは社交的で、毎日友人知人と食事をして帰ってくることが多くなったし、二人の食卓を何で飾ろうか。地味な食事になると思うが。

さて、ごちそうを食べたいな、と考えて子供の頃の食卓(飯台)を思い出してみた。

今日はごちそうを食べる日やなと察していると、母が家で一番大きな皿を持たせてくれて、魚屋さんでお刺身を買うてきてと言う。風呂敷に包んで皿を抱かえて店にいき、お刺身をおじさんにお願いすると綺麗に盛りつけてくれる。

一番大きな皿といっても、大人になった今に思い出すと、手のひらを広げたほどのもので、町の食堂でコロッケ定食を食べたときにキャベツとコロッケが載っている大きさの皿だったのではないかな。あれが我家で一番大きな皿だったのだ。

お刺身の値段が幾らだったかとかどれほどの量を(何グラムほど)買ったのかとかの記憶はない。買う母の方も家族で食べるので、というように私が言伝を受けたと思う。

流通システムが変化し、経済感覚も生活スタイルも大きく違った50年ほど昔、つまり、刺し身は、年に何度かのおめでたいときの「ごちそう」だったのだ。

今は一日一魚ということで、スーパーに並ぶお魚を買う折に、三日に一回くらいで刺し身が入る。私がツマと一緒に店に出かけると必ず刺し身を買うし、県内産で珍しい魚であったりすると迷わず買う。(珍しいといっても変わった魚ではなく、なかなか出回ってこない魚という意味です)

他に、子どものころのごちそうの定番は、寿司、すき焼きだろうか。

寿司は、スーパーで身近に買えるようになってしまった。すき焼きは、ごちそうジャンルから少し影を潜めて焼き肉などにどちらの家庭も変わりつつあろうか。

鍋といえば、水炊きかすき焼きをした。田舎の私にとっては、めでたいことがあって鶏を料ったときに水炊きをするか、牛肉を買いに行ってすき焼きになるか、母が手間をかけて寿司を作ってくれるのがごちそうであった。そうそう、味ご飯をたいてくれることもあった。

というわけであるが、現代はごちそう文化、よそ行き文化というものが消えていってしまったこともあって、毎日がごちそうのおうちも多いかもしれない。(毎日がよそ行きの服で過ごす人も多いでしょうし)

結婚記念日。16日。
何か旨いものを食べたいなあと思うのだが、何にしようかしら。
そうそう、16日は冷蔵庫が届くのだ。505リットルのを買ったんですよ。
実質二人なのに……。

2014年3月13日 (木曜日)

朝ドラ

▼3月11日の通勤列車のぼんやりの中で、NHK朝ドラのことを思い出している。父のことだが、メモは「そういえば」で始まっていた。

▼そういえば、テレビを見ている姿など見かけたことのない父であったが、朝ドラを見てから、または昼休みに飯に帰ってきたついでにドラマを見てから、再び職場に戻っていく姿を見かけたことがあった。

▼私が家でゴロゴロしていた頃のことのだから、それは学生時代のことで、春休みとか夏休みであったのかもしれない。父は40歳半ばだったことになろうか。

▼父はテレビを見ない人ではなく、ひとりでドラマを見ることもあったのだなと今頃になってふと思い出した。

▼日曜美術館を見ている姿と、朝ドラを見る姿。父とテレビとが結びつく僅かな思い出である。

◎追記

▼居間で、母と弟と私と三人がテレビを見ているときに、例えば冬ならば一緒に炬燵に入りミカンなどを食べながらドラマをみたような記憶はない。8時だよ全員集合をみたような覚えもない。

▼子どものころに夢をみたように「一緒にお酒を」飲んだような記憶もない。

▼だからといって、私の子どもに父とそういう時間を作って思い出の足しにしなさい、と言うこともしないでおく。背中を見せてればいいのかなと、近頃はそう考えている。

2014年3月12日 (水曜日)

3月11日に考える

▼3月11日。こんなことを囁いている。

▼あれからどちらの原子力発電設備も停止したままです。エネルギーは.、原子力が不可欠という論理は少し無理が出てきていると思うのは自然でしょう。他のエネルギーは非現実的というような表現をする人がある中で、3年間にヨーロッパの各国では風力発電施設が増え、発電量が占める割合が着実に現実的な次期エネルギーとしても道を歩み始めている。太陽光や洋上風力の応用のテクノロジーは活発化している。

▼社会システムの中には、災害に対する危機管理意識が徐々に定着し始めているし、マニュアルも整備されている。もちろん、施設も改良されているものがあるし、新しく考案されてもいる。あらゆるところで、万一に備えている。

▼人の心は、一方で、風化し続けている。景気が回復する夢を追いかけて、自分だけが生き延びようとする見え見えの生活スタイルを、相変わらず大事にして暮らしている。個人が先か地域が先か。そういうことを突き詰めても、結局のところ上手く行っても答えが出るだけで、その答えが個人だったとしても地域だったとしても、幸せと不幸せを混ぜあわせることなどはできずに、どこかで誰かが不幸せを背負いながらこの世界は成り立ってゆく。

▼だから、大事なのは答えではない。行動なのだ。そう誰もが気づいているのに、社会は相変わらず儲ける話とか増税を上手くやり過ごす話とかに溢れている。近い将来に、今苦労している人たちがみんな幸せになれたときに、優雅なごちそうを食べて贅沢な車に乗って走り回ればいいじゃないか。今は、その豪華な食事の任意の一品でいいから困っている人に役立てようというアクションのほうを私は尊重したい。

2014年3月11日 (火曜日)

チキン

3月10日

(ツマ)お墓参りに行って
帰りに京都駅の伊勢丹・地下で。

お夕飯の一品となりました。

チキン

朝から寒い日で、
昼休みにわが職場の窓から見る景色は吹雪になっておりました。

お墓参りは9日に済ませていたので
10日はおじいさんと天山の湯に出かけたそうです。

近所にはお得な回数券を販売に来られるそうでして
通常観光客価格ですと千円近くになりますが、
訪問販売で買うと、
1枚が600円で、11枚綴って、10枚分だそうな。

2014年3月10日 (月曜日)

旅の西行-伊勢参宮をめぐりて

3月9日、斎宮博物館歴史講座 「旅と交通」
第4回  「旅の西行-伊勢参宮をめぐりて」
に出かけてきました。

講師は、静岡英和学院大学准教授   蔡佩青(さい はいせい)先生です。

空き時間で梅園を散策してきました。

斎宮博物館・梅園

2014年3月 9日 (日曜日)

私にとっての「峠越え」  花も嵐もⅢ その69

峠が山深ければそれで良いというものではないと思う。道路だから、人々が暮らす中で行き交った歴史そのものが貴重で、そこにある足跡はその表現のひとつだろう。

峠越えを始めたころ、そんなことは考えもしなかった。険しい峠路で、なるべく人が通らないような寂しいところを選んで走ったし、標高も日記に書き留めていた。

くねくねと幾つもの山を越えてゆくことも大事だったし、麓の村へと至る道を走り切ることに楽しみを感じていた。

あるときから、季節の移ろいにも目を向け、花が咲くとその花にも興味を持ち、変わってゆく彩りを味わって歓んだ。

1人で山深いところに入っていっても孤独感は不思議にも感じなかった。むしろ静けさに包まれながら手ごたえのようなものを感じていたのだった。

オートバイで越える必要はなかった。ハイキングのときもあった。でも、車では行かない。もしも行ったとしても、それをカウントの中には入れたくなかった。

バイクを降りてしまったので、徒歩で越えるのが一番だと今は考えている。車で行ってもそれはそれで構わないとも考えている。

大切なのはその峠と、どのような気持ちで向き合うのかではないか。

バイクから離れて気がつくことがある。ある人が、バイクに乗り続ける人は、世間で一般的に言う「金持ち」だ、と話してくれたことがある。それを聞いてそうではないと思われる方も多いと思うが、「金持ち」という表現の与えるイメージに温度差があるものの、心も生活も豊でなければバイクには乗れないというのも事実だろう。しかも、心身ともに健康でなくてはならない。

私がその条件を失ったのかどうかは、難しいのだけれども、ひとつのステージとしてバイクという乗り物で旅をすることを、ひとまずやめた。もしも急に(賞金獲得や事業成功で)大金持ちになっても、バイクを買うことはしないと思う。

考えると複雑になるので、ひとまずこのことを考えるのは中断する。

1981年秋三国峠で

2014年3月 8日 (土曜日)

三月のはじめに考える ─ 草臥れる

wahaku

▼そうなのか我が人生の草臥れて
02-12 10:01


二月の中頃にこんなことをつぶやいている。砂女さんところから「草臥れる」という言葉をテーマとしていただいてイメージしてみた。(1107

不満ばかっしを言ってきた人生だった。今もツイッターの俳句季語が詰まらないと(いや、どんどん詰まらなく変化してゆく)とぼやいている。人の悪口や仕組みや組織の不平を安々と言ってはいけないのだとあるとき気づいて心得てはいるものの、つい口に出さなくてはやりきれないことだってあるのだ。どうして面白く無いのかってのは、自分でもよくわかっている。

自分のつぶやきが面白くなくなってきた。つまり、活き活きとしていないのだ。ヒトはそうあるためには、スパイラルであろうがうねりであろうが、ともかく変化をして大事なことは上昇し続けることだ。今の私にはそれが欠けてきているからなあ。

ほんとうに草臥れているのだろうか。

▼あの人のかしげた首とえくぼ好き
▼好きな人と乾杯するための角煮かな

ちゃんとこんな作品も書いているんだけどね。

2014年3月 7日 (金曜日)

わが家の猫は三匹です

砂女さんのすごさは私にはわからないのだが、(わかっているように)見栄を張っても仕方ないといことは長く人生をやっているとわかるので、お好きな二句で思うところを書き残しておこう。

ちょっとお題を頂戴しただけなのでコッソリといく。

 たんぽぽよあたしの猫がいた時間  砂女(1117)
 前髪をぱつんと剪つて春兆す  砂女(1121)

雨降茫々日々記 には写真もあって、さすがと思わせるような視点が散りばめられている。

パソコンで日記を書き始めたころに、同時にメディアにはデジカメが普及し始めて、ブログを書きながら日々写真を載せる人、旅先の様子を載せる人などがあっという間に溢れた。

カメラを持たない私は僻み根性・捻くれ魂で文章だけの日記を書き続けた。四国を旅しても陸奥を旅しても写真の混じった日記は稀である。

私には言い分があって、ひとたび画像が載ってしまうと、作文が読まれなくなるので、言葉を伝えたい私は画像を載せないことを主張した。それが成功だったかどうかは分からないが、ブログの中に残った長編のシリーズは、言葉だけで綴っている。

友だちになった人であってもなかなかブログの奥のほうまでは読んでくれないのだが、それは一種の鍵のようなもので、そこをくぐり抜けてくれれば私自身に到達できる。そんな洒落たことを言ってはみたものの、私が死んだときにムスメでさえもこれを読んではくれまい、と想像する日々である。

口ぐせは、それでいいのだ。やけっぱちで、そうなってくる。

さて、砂女さんが私にヒントをくれた「猫がいた時間」について回想している。

私には猫などいなかった。ホンモノの猫は子どものころに飼ったことがある。犬もいたし、ヤギも、牛も、ニワトリもいました。

今、私は猫という架空の幸せを思い出している。幸せは論理的に不幸せと背中合わせであり、人生であっと驚いた一瞬は何ですか?という巷に転がっていた質問を自分なりに考えたときに、あっと驚いたくせにすぐに思い浮かばず、あとからじわりと襲ってきた不幸せな出来事があった。ツマが薬を飲んで救急車が来て眠っていた私が救急隊員に叩き起こされてツマは病院に運ばれて……というあの事件だ。(もちろん、ブログに何度も書いてしまう卒業できない学生だった日々も強烈な記録ではあるが)

ツマに一番大きな事件は何だった?と尋ねたら、「オンナをつくったときや」と間を置かずに答えたから、同じ答えを思い浮かばなかった私は黙ってしまった。

不幸せを幸せに変えることができて、今は大きな傷は残っているのかもしれないものの、猫のような二人がお互いに猫であることを否定しながら暮らしてる。

▼たんぽぽよ私が猫といる時間  

私にはこんなふうになってしまう。

ぱつんと剪って。

私は、そんなわけで「ぱつん」と音をたてて切ってしまう必要があったのだ。音が大事なんだと思う。古池に飛び込んだ蛙のように大きな音をたてて冬から春へと切り替える必要があった。

▼おちんちん危うくぱつんと切られんや

猫を飼いたいと何度も、それとなく話題にするのですが、頑固に拒否され続けております。しかし、うちにはもう一匹大きな猫がおりまして、たぶんそのうちお嫁に行くと思いますが、この家に住み続けるとも自ら申しております。

もしも、猫を飼うならばこんな名前にしよう……と、そういう夢ばかりを浮かべて暮らす日々です。

Suzume

2014年3月 6日 (木曜日)

一生懸命、生きなくては ─ 啓蟄篇

しばしば、静かに物を考える機会があると、どうして私は今のような仕事をしているだろうと思うことがある。多くの昔の知人たちも、折り在って再会すれば、私がイメージと異色な仕事をしていると思うらしい。

先代は、村長、村会議員、町役場職員だった。そんな衰退の系譜を正直に受け継げばよかったものを、どこか私の捻くれ根性が反発したのだろう。クラスのK君が「オトコは数学」と叫んだこともあってか、どん尻の成績だった数学を使う分野に進学をした。

いい加減なところで見切りをつければいいのに、執念深い気性と、とんでもないときに根性を発揮してしまう質から、工学部を諦めなかったのが人生を決定づけてしまったようだ。

紆余曲折の歴史はあるものの、情報科学と数理科学の谷間を往来しつつ電気のことも知ってるふりをして、アホみたいに大きい「パーな」総合電機メーカーに席を置くことを選んだ。正しい選択をして早々に山の中の農村に帰れば、明るい人生だったのだろうか。しかし、想像は次々と浮かぶものの、どれも情けない姿ばかりだ。

時間というものはパラパラ漫画のように捲れてしまったら戻せないし戻さない。戻そうとも考えない。

そういう掟を破って、もしもあのときにあのような道を選択していたらどうなっていたのだろうかと、深々と考えて、静かに沈み込んで夢を見る。しかし、どこまで考えてもそれは夢であるだけだ。

例外もなく、啓蟄のころになると、また、夜中に魘されたそうで、卒業できなくて必死になっている私が、試験を控えて友人たちに情報を集めて回ったりしている夢を見たところを見つかったらしい。

親はそんなアホな息子とは知らず仕送りを続けてくれたのだから、夢の中でも夢から醒めても、泣ききれない。

絶対に取得できるわけのないほどの科目数が卒業直前の試験でも残っていた。あとから考えても、本当に卒業できたのか不安になって、卒業証明書を取り寄せたこともあるほど、ドタバタであったあのとき。人生で一度だけ死に物狂いになったのかもしれない。

真っ白なA4サイズの答案用紙に、答えが書けない。解けない。そこで、苦肉の策で私は次のように答案用紙に書いたのだった。(そんな科目が幾つもあった)

先生、私は一生懸命勉強したのですが解けません。勉強したことを代わりに書きます。就職も決まりました。卒業させてください。

こうして考えてみると、今も昔も進歩がないことに気がついた。遅すぎるか。あと十年でおとうの死んだ年令になるというのに。

2014年3月 5日 (水曜日)

白菜の漬物

白菜漬けの素

白菜の漬物を漬けているのやけど、水が冷たいなあ。

2014年3月 4日 (火曜日)

ひな祭り

20140303hina

ひな祭りといっても、もはやお雛様を飾ることはしなくなりました。

友だちがブログでお雛様の片付けを済ませた様子を書いているのをみてて
うちはお雛様を飾ったこともあまりなかったし、飾ったときにはいつまでも放置していたのを思い出す。

仕舞い遅れると行き遅れるというけど、そんな父母のもとで育った(我が家の)ムスメさんはどうなるのか、ちょっと心配です。

私の母は、オトコばかりの子どもで、若いころは子育てをしながらもお雛さんを飾りたいと何度も思ったようです。

育った家庭環境にも依るのでしょうが、尋常小学校に入る前に父親が死んでしまっていたということもあったのでしょう。

一方で私のツマは、中学校の卒業式の前日に母を亡くしています。それまでのいくらか恵まれた暮らしから(少しお金持ちでもあったし)どん底に叩き落された日常を味わっている。

世の中には、こういった不幸なことがいくらでもあるのでけれど、今や国民はそんなことを忘れて、豊かさにかぶれて幸せに溺れている。

2014年3月 2日 (日曜日)

中島京子 小さいおうち  感想篇

2014年2月20日 (木曜日)の日記中島京子 小さいおうちを買ったと書きました。感想篇です。

昭和初期の東京郊外でささやかに暮らしている家族とその手伝いさんの暮らしをとおして、その時代に生きた二人の女性が、その時代にしては余りにも激しい想いを抱いて生き抜いていった。

その時代の人がどんな衣食住のなかで暮らしていたのかを語りながら、本の帯では「恋愛事件」と書いているが、そんな甘ったるいものではなく、もっと真剣勝負的であった感情を、こともさり気なく書き綴った物語である。

作者の巧さが随所に現れている作品だった。

売れれば勝ちと言わんばかりで並んでいる本屋の文庫や新書の中にさり気なく置いてあったように思い買ったのだが、私もちょっとしたブームに買わされた感があって、すこしばかり悔しい気持ちで読み始めたのだが、先入観も持っていない作者(中島京子さん)の強い信念のようなものが迫ってきて、語り口の巧さとともに惹きこまれてしまう。

画一化されて、ある方向づけをされた種類の売れっ子作家ばかりが溢れる時代なだけに、こういう作品は心に優しく入ってきてくれる。低迷文芸のなかで光っている。永遠の0を対岸に追いて貶しているわけではないのだが、書きながら少しそんな錯覚も襲ってくる。しかし、ポリシーもテーマも、作家の姿勢も人間的根性も、みんな異質なのだから、比較してはいけないのだが。

東京郊外。何処だって良かったのだろうが読者は気にかかる。いや、ひとりの読者である私は、それが気にかかるような世代である。文学がこの時代を書かなくなったし、書けなくなったし、読み手や興味をもつ人も減りつつある二十一世紀に、最後の力を振り絞って、その力の素振りも見せずに物語を置いてくれた作者に感謝をしたい。

私の下宿を思い出す。(私の母より十歳ほど若かっただろうと推測する)下宿のおばさんが、その下宿の建物の古さを思いながら「この建物は昭和3年に建ったんですよ、空襲でも燃えなかったんです」と話してくれた学生時代の下宿は昭和57年ころで既に50年以上昔の建物で、友人が訪ねてきてビールを畳に置いて飲んで喋っているときに、ふとしたことでコップが倒れてしまい、一本の筋になって部屋の端から端までビールがするすると流れて行った、というほど部屋は傾いていた。あの建物に昭和の初期を感じ、愛しながら学生時代を送った私だけに、この小さなお家のモダンさが私なりに形を変えて伝わってくるようだった。

※その下宿も一昨年訪ねれば建替えられ「能生館」という建物の表札が新築の前に残るだけで感動的だった。江古田駅から徒歩で数分で、ここから早稲田に通学した多くの学生が日本中にいるはずだ。少し昔はここも郊外だったことを思うと、自分も物語のドラマの中に溶け込みそうにもなってくる。私は得な性格なのだ。

脱線修復。

というわけでセピア色風に物語が進行する。イタクラ・ショージという人物は、旨味調味料程度かなという感じでありながら本当の主人公だったレベルの物語というびっくり箱の持ち主のような位置づけであったわけで、事件そのものは現代ドラマにストレートにすれば視聴率をカウントできるところまでも及ばないような平凡なものであったわけだろう。しかし、昭和とか戦争とか暮らしとかを、衣食住という素材の上に載せて語ればこれほどまでに、上質で迫る作品にできるのだと感動的である。

作品の中には振る舞いであるとか、食べ物であるとか、感情というものが、実に巧妙に練りこまれている。一節一節が考え抜かれて書き上げらているのが伝わってくる。そういうところが上質さを感じさせてるのだろうし、売れればいいだろう的な作品群への挑戦状にも思えてくる。 多くの戦中文学(というのが正しいのかどうかわからないが、戦争中の青春文学)は、もっとリアルに悲壮的であったような気がするのだが、この作品はワザとそういう書き方をしないでいるのでしょうか。すっぽりと読み手ごとこの戦争突入前に連れて行く。だから、少し甘ったるい家庭向けのドラマ仕立てのような映画のシーンを、自分の頭のなかから引き出してきて割り当てて読んでしまう。(だがそれは間違いであるとすぐに気づく)

そんな甘っちょろいドラマでもないのに。光景こそまったく優しいのだけど、だから、解説だってそれなりにベールに包んで、どうぞと差し出してくれているのだが、この心の中は言葉にしてはいけないし、動作にしても、ましてや光景にしてドラマにしてしまってはいけないものだったのではないか。というか、こんな緻密なものを映像にできるのか、という難問疑問がある。

ぽたりと手紙を落とす。そのストップモーションに余韻を残して消えてゆく音があったのだろうな。ねえ、タキさん、話してほしいな、本当の心を。

悲しくも寂しくもない。楽しくも嬉しくも、可哀想でもない。でも、なんとなく泣けてくる作品なのだ。泣けない人は読まなくてよろしい。

中島京子 小さいおうち

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