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2013年10月31日 (木曜日)

十月尽

wahaku

【号外】

先日お知らせしまいたように、携帯電話(iPhone)が床に屈んだときに胸のポケットからポタリと床に落ちましてコロコロと跳ねたあとスイッチに反応しなくなりましてん。 そろそろ、携帯をやめようかな〜と思って、12月11日から1ヶ月間のうちに解約しようとほぼ決めていただけに、世の中、こんなもんやなと思った次第です。(……と、ここまではあっちのブログに書きました。)

さて続きを書きます。


ずっと写真を載せることに抵抗をしていた時期がある。ブログが映像に引きつられて、本文が疎かになると考えたからだった。それでも、載せていた一時期があったが、iPhone(ケータイ)をやめる事になって、再び昔に戻ろうとしている。

世の中の主流がラジオではなくテレビに移行し、ニュースや娯楽さえも、新聞や雑誌から奪って行ってしまう。すっからかんという訳ではないが、活字だけで人々の心に物を届けようとするメディアやツールは、一種の時代遅れとまで(間違って)思われてきた。

電源を入れればすぐ届いてきて、わからないことがあれば瞬時に調べ上げるネットワークに乗った情報も大切であるが、わたしたちの感覚であるとか、人間の生物たる受容能力に対して、技術が時間を縮めることは出来ない。もうこのへんで馬鹿げたお遊びはやめにして、損得ではないモノへと視点を移してもいいのではないか。

そう言い続けながら、iPhoneを4年間使用した。電話は掛けなかったので、5700円×48ヶ月=11万5200円を投じて少し遊ばせてもらったが、あと1ヶ月と12日を残して落下破損となったため、このまま終わらせることにした。

破損の報告は最近連絡を交わした二三人だけにした。あいつ、メールを出しても返事をよこさないなあ、電源が入っていませんのメッセージが続いたな、と気付いてくれる人もあるだろう。なかには、もしかして逝ってしまったか……と思ってくれる人もあるかもしれない。そう思われたら嬉しい。わたしもそこそこの人物だったといえよう。

連絡を交わした人たちとは電話番号(家電)ではなく、住所を新しく伝え合った。手紙を書いて連絡をし合いましょうという暗黙が了解された。どうしても必要な人は職場に連絡をくれればよいし、さらに急用なれば家族のケータイを鳴らしてくれれば事が済む。それ以外のところにわたしが居たとしてもそれは電話に出られない場所が多い。

そう思って見直すと、生活行動パターンを何色かで色分けできてしまい、些かそんな人生を寂しいと思い、しかしながら、さて、わたしはその中の何色であとの人生を生きようか、と考えてみることもできた。

十月はわたしの誕生月であることもあって、この季節はわたしの大好きな季節です。短い秋を、その短さ故に寂しがる人があるももの、めぐる季節は三角関数のようなものだから、また、新しい物語を伴って巡ってくるだろうと楽しみにしてみたり、枯れゆく落ち葉を美しいエンディングと考えてみたり、いや、あるいは新しい物語の始まりと見てみたりしております。

向田邦子を読んでいます。飛び切り古いものを買ってきました。飛行機事故で亡くなられたのが1981年8月22日ですので、その2年余りあとに文庫化された「夜中の薔薇」という作品です。

向田さんは昭和4年生れでわたしの父や母と2歳違いです。それだけに、記述の内容の隅々までが、父や母の、特に母の呟きやボヤキ、ため息と共振していて、わたしに迫るものがあります。

エッセイは、20歳代から50歳に至るまであらゆる日常のことに触れていて、30年前にわたしを育ててくれた父母や身近な人たちに時代を飛び越して会いに行っている感覚をもらえます。

自分ではだんごっ鼻で可愛くなかったと繰り返し書いているのですが、70年代に彼女の作品に直面していたわたしは、向田さんの写真を見てお気に入りだったし、エッセイを今読んでも、その意地の強さや頑固さやお茶目さがなかなか素敵で、ヒトの味わいのようなものを愉しませてもらっています。(感想は後日、いつものところで)

2013年10月30日 (水曜日)

こぼれ話 3 稲庭うどん ー 花も嵐もⅡ その62

■ 稲庭うどん

旅を始めたころは、稲庭までうどんを食べに行くような計画はそれほど考えたこともなく、信州あたりで蕎麦を食べて愉しんでいました。

東北には私の思いがこもっていましたので、しっとりと少しずつ道草をしながら北上をしてゆきます。夏の東北を愉しんで走っていました。

だいたい、私のツーリングは、峠越え。そして、秘湯を訪ねるのがテーマでした。ですが、何を思いついたか、1998年の8月10日に稲庭を訪ねています。この年の私が、旅の途中で少し趣をチェンジして一路稲庭に向かった理由は、もう忘れてもいいのかもしれない。

何がそうさせたのか。

あの年は、父を冬に亡くしまして、糸の切れた凧のようなものだった。愚かな回想も幾つか浮びます。

40歳を超えて厄年を迎え、仕事のストレスもあったのでしょうか。今であれば精神科にお世話になって病気の端くれと診断されているしれませんが、持ち前の明るさでそれほど深刻に見えないようでしたので医者には行かず、体調(不良)も出なかった。自分も上手に力の配分をしていたのでしょう。

俯瞰的にあの時期の仕事の内容や組織の体制を振り返ってみると、いつ爆発しても変でもなかったのですけど。諦めが早い性格が異変を生まないのかもしれません。私だから大丈夫だったわけで、ダメに成ってしまえる人が幸せなのか不幸せなのかはなんとも判断し難い。

そもそも、そういう社会が悪でありそういう組織が罪悪や泥沼の状態を生み出していたと私は考えつつ、ある意味で冷静であり、大きな意味で諦め放っていたのでした。

あのような国内最大の家電メーカ組織の中に技術者として放り込まれて、ヒトはどんどんと個人の特色性(個性)を失い(というか出せないまま持ち続けて)いましたので、それを見ているのも嫌であったし、自分がそれにまみれるのも嫌でしたから、数年後にチャンスを狙って抜け出したわけです。

「パーな」会社は、個を紡ぐのが下手な組織で構成されていたので、21世紀になって急激に崩壊の道を歩んでゆきます。宿命であったのでしょう。

という訳で、考えてみれば、ニンゲンとして一番究極の圧迫に追いやられている時期でして、それがこの1998年とか1999年であったわけでした。

1998年、私は稲庭うどんを食べるために、あの広い東北を北上し(佐藤養助商店定休日とかち合って)、再び1999年に稲庭にやっていきます。そしてまた定休日でしたが、それから再訪はしていません。

今度行くならツマと行きたい。

2013年10月29日 (火曜日)

こぼれ話 2  さぬきうどん ー 花も嵐もⅡ その61

■ さぬきうどん

不思議なもので、うどんであるとか蕎麦というものは旅人を惹きつける。どうしてなのだろうか。

味が脳みそにストレートに響くのだろう、という気がしている。理屈もなく旨ければ身体中が悦ぶのがわかる。

うどんに出会ったのは、偶然だった。

あるとき、宿のあてもなく、飛び込みで琴平YHに泊まることした。夜も遅く、夕飯が出来る時刻ではなかったこともあり食堂を探して町の中を彷徨った。そのときに1軒のうどん屋に入ったのが始まりだった。

店は、決して綺麗でもなく新しくもなかった。ファッショナブルなグルメブックにも無縁のような店で、そこに無愛想な爺さんいた。しかし、その爺さんが出してくれたうどんが格別に旨かった。

「この蒲鉾は坊っちゃんでも出てくる八幡浜の蒲鉾だ……」
みたいなことをボソボソと言いながらカウンターの向こうで調理をする粋な爺さんで、「さぬきうどん」って何だろう、どんな味がするのだろう、と私は不安だったが、食べて見て驚いた。

この旨さはどこから来るのだろうと、メラメラともっと食べ歩いてみたいという自然の欲望が燃え始めたのです。

(しょーもないグルメブームの煽りではなく、自分のセンサーが働いたのが、この上ない誇りだと思っている)

後にも、さぬきにはうどんを食べるために、四国に何度も立ち寄ることになります。

旅のステータスとしての食の満足は、旅の満足にまでなります。

私の人生にも大きな歴史を残してゆくことになります。

何度も何度も、四国を訪ねて旅した時期は、幸せな時代でした。

2013年10月28日 (月曜日)

こぼれ話  ─ 花も嵐もII その60

富山県の平村のガソリンスタンドの子供の話は、楢峠、牛首峠 【峠越え】で最初に書いた。花も嵐の初篇の15話でも触れている。[2008年9月6日 (土)]

私にしたら(読むの人に)嫌がられても何度も書きたい話なのだ。

□・
・□ 

秋になったら燃えるような紅葉がアルプスの山々で見ることがふ出来る。それを絶対に見に行こうと強く念願していて、仕事が忙しければ忙しいほどに必死でやりくりして行った。

人生には、情熱が必要で、これがないと乗り切れないのだが、さらに美しい欲望も必要だ。そのときの自分に欠乏しているものを追い続け、是が非でも手に入れてやろうという一種のハングリー精神に似たものが欠けては念願を叶えることは出来ないし、行動力のエネルギーが生まれてこない。

ガソリンスタンドの親子の話は、中学生だった子どもさんが何年も経ってから再びツーリングで訪ねてみると、大人になっていて子どもさんの手を引いていたという長い歴史を見つめる染み染みきた感情のエピソードだ。

今もう一度行けば、その子どもさんが親になって子どもを連れているのだろう。しかし、ガソリンスタンドが次々と閉められてしまう現実もあって、確認しに行くような旅を考えるわけにもいかない。

2013年10月27日 (日曜日)

(続いてきて)、酒のこと

(続いてきて)、酒のこと

酒は、からきし弱かった。ビールをコップ1杯飲んで真っ赤になっていた。

面白そうだとか興味があるからといって、楽しそうに新しい酒を飲むことがあったが、それ以外では、旨い酒をひとくちだけ飲む人だった。

もちろん、勢い余って飲み過ぎたこともあったのであろうが、私が酒と出会ってから見かける父の酒は、非常に大人しい酒であった。いつも必ず、飲んだら眠ってしまうような人だった。

母が言うには、ドジョウすくいの隠し芸がとても上手だったそうだ。地区や職場の酒の席では、ほどほどに飲むにとどめて、そういう芸を披露していたのかもしれない。

決して多弁になることもなく、ヒトの話に耳を傾けるでもない。(難聴だったのであまり賑やかな席は好きではなかったと思う)

苦言を言うわけでもなく不平も言わない。怒ることもない人だった。(了)

2013年10月26日 (土曜日)

(続いてきて)、髭のこと。

(続いてきて)、髭のこと。

私の母は髭が嫌いだ。私のツマも髭が嫌いだ。だから、父は髭を生やしていなかったのだ。

父本人は生やしたいと思っていたようだが、一定期間口髭を生やしていたのを見かけたことはなかった。と言いながらも、私が小学生くらいのころに勢いか遊びで生やそうとしたことがあったかもしれない。母に苦言を言われていたような気がするのだが、しっかりした記憶ではない。

赤髭だったこともあって、しばらく伸ばしてやめてしまったのかもしれない。

しかし、私は30歳くらいから50歳くらいまで伸ばしていたので、同じ性分だったとしたら、おそらく母に嫌われたので控えたのではないか。

私の弟は50歳を過ぎる頃から、なんだかモゾモゾと生やしている。

私は人生で一番たくさん人に会う時期に生やしたこともあって、多くの人に「髭の○○さん」と呼ばれる。今は、ツマの意向で剃り落としてしまっているが、60歳くらいになったら昔のようにしたらええわ、と言ってくれている。

永年あったものが無いと寂しいな、と思うことは時々ある。自分の人生、寂しく生きるのは嫌である。無いと寂しさを理解してくれる人はほとんどない。しかし、父と弟はわかってくれそうだ。

私の髭はわりと整然としていて、天皇家の殿下のようだったこともあり、私のことを殿下とか教授と呼んで茶化してくれた人もあったが、私の父や弟は残念ながら赤髭で草が生えたようなものである。それはそれでもちろん、羨ましい。親からもらった髭なのだから。

(続く)

2013年10月25日 (金曜日)

(続いてきて)、おしゃれ

(続いてきて)、おしゃれ

それほどオシャレな人ではなかった。だから私があの人のオシャレの何を回想しようとしたのか。このメモを書いたときの心理を思い出せずにいるのだが、推測は着く。外れのない推測。

子どものころの写真が何枚かどこかにあった。あったというだけで満足している。今ここで出してきて偲ぼうというセンチな気持ちはそれほどない。自分の頭の中にある記憶が一番頼りになる。

その写真では、鳥打ち帽を被って、分厚い外套を着ている。昭和30年代に三十歳くらいだった若者は、みんなそんな格好をしていたのだ。伊勢神宮の内宮の鳥居の前で私は肩車をしてもらっている。

農作業をするか、山仕事をするか、寝てるかだけの暮らしの中で、洒落た背広も着たかっただろうにな、と思う。

テーブルマナーはよく知っていた。とある席に父と座らねばならなくなったことがあり、父が心配でドギマギして慌てたことがあった。しかし、無用であった。私よりも安心してみておれたのを思い出す。

何も知らない人だから、恥ずかしくもなく、わからないことがあったらすぐに尋ねるからよく知っているのだと母は言う。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とよく口癖のように私に言った。

おしゃれのことを書きながら、あの人には「オシャレ」というもじよりも「おしゃれ」のほうが合うような気がしてきている。

(続く)

2013年10月24日 (木曜日)

いつかは父と……

◎髭のこと
◎酒のこと
◎オシャレのこと

そのように書いたおぼえがきがメモ(アプリ)のなかに残っている。古くなってどんどんと下に追いやられていってしまう。

しみじみと父のことを思い出す夜に、静けさがこんなことを書かせたのだろう。

何の取り柄もなく、何かを主張するわけでもなかった。何かに激しく怒りを表す人でもなく、酒を飲んで饒舌にしゃべる人でもなかった。

現代農業と日記帳を枕元に置いていた。

たまにTVを見るというと、日曜美術館くらいのもので、またさらにみんなと並んでドラマでも見ることがあると、そっと涙を拭いているような人だった。

根っ子つ(彫刻)をしたり、尺八を作ったり吹いたり、絵を描いたりしていたのだろう。そういう1人の時間のときのあの人に私は関心を持たなかった。

こういう類の話は往々にしてあることで、多くのみなさんが生前のその人を回想するときは、多かれ少なかれ感じられるのではなかろうか。

自分とひとりきりで向き合っていたあの人と、どうして一緒の席にいって言葉をかわさなかったのだろうか。

「いつかはオヤジと飲みたかった」みたいな回想記を書かれている人を見かけることが多い。みなさんは、そろって、そのときの自分のことを悔やんでいる人が多い。

たぶん、父は待っていたのだと思う。

でも、内緒の話だが、オヤジさんが元気にして生きている人には、そのことを教えてあげないことにしている。それはニンゲンの宿命だから、未来を変えるようなことはしてはいけないのだ。

(各項に続く)

2013年10月23日 (水曜日)

冬のルージュ  ─ 霜降篇

嵐が立て続けに来ている。小雨の降る日が続く。(22日)

静かに冬を過ごしたいと思い、そっと冬を迎えるための仕度に忙しい日々を過ごしている人も多かろう。装いはまだ秋でありながらも、街には冬を待つ人がいる。

+  +

▼朝寒や挨拶かわす新聞屋

吐息は白く濁りはしない。しかし、あの1年前の寒さが蘇るような冷たさが瞬時に襲いかかる朝もある。

▼通勤の列車でパクリとメロンパン

寒いからという理由で布団から出られない。
時間が迫る。
駅までの車の中ではお化粧したり、パンを食べたり。

無人駅で通勤客を次々と拾うローカル列車の中は綺麗な娘さんたちがちらほら。

▼忙しいを最後にメール途絶えたり

▼朝寒の垣根が焚き火を待っている

落ち葉がちらほら。

イチョウの落葉はまだだけど、雨に濡れて道路の隅っこに追いやられているのはサクラの葉っぱだろうか。

毎朝、のぼる坂道の上で待っているケヤキの葉も、しばらくしたら石段を埋め尽くすのだ。

▼ショーウィンドウ貴方をさらう冬やがて

▼ときめいて君のルージュが冬を待つ

こんな日は風など吹かないで、静かにわたしを駅まで行かせて欲しい。

遮断機があがって、ちょっと遠回りをしてみたい駅の向こうのアーケード。

夢に描いたのは、貴方と私の架空の物語に出てくる遠い街の繁華街だったかもしれない。

2013年10月22日 (火曜日)

侘しいと書いたあなたを好きになる

侘しいと書いたあなたを好きになる

学生時代の下宿は侘しかったけど夢があったな。
いつか大物になって、社会を動かしたいな、なんてことを考えていた。

怖いもの知らずと言えるのかもしれないけど、勇敢だったとも言える。

自分史。

短歌って欲張りですね。

自分史、綴る、躓く、眠れぬ、夜、雨音、激しい、
ってこんなにたくさんの魅惑的な言葉をいっぺんに使って作品にしてしまう。

▼自分史を書き始めたる窓の外

▼ペンを置く音重なって雨音

▼躓いたおかげで波乱と幸せと

まあ、私ならそんな日記にして、誰が読んでもわからないもので纏めてしまう。

30年(生きてないと思うが)たって読んだときに、なるほどと思えば万歳で、何だったかなと思い出せなければリセットして、新しい物語を書き始めよう。

◎◎
◎◎

(砂女) 自分史を綴れば躓く場所ありて眠れぬ夜は雨音激し

たぶん私より何年か先を走っている方と思う。お子様の話をなさらないので、子どもがなかったったのか、事情があって(今は)いないのか。

もしも、子どもの話をなさったならば、凡人だったか偉大だったか、巨人だったか、それはもしもの話だ。

もしも……の連続だから人生は楽しいし、侘しい。

2013年10月20日 (日曜日)

秋仕舞

▼里芋の皮を剥いている丸い背中

13日(誕生日)は日曜日、京都に行く予定だったので、その前に家を訪ねたら母が裏で里芋の皮を剥いていた。

サトイモ

笊に山盛りの芋を菜刀で剥いていたのを見て、子どものころ、裏の小川に晒して自動で皮を剥く水車のような道具があったのを思い出す。

あれは一般的なものだったのだろうか。そんな話を母としている。

菜刀で剥くので角がゴツゴツしている。もう歳なので、面倒くさいし、手先も器用には動かない。

▼日の暮れに鎌洗いたる秋仕舞い

サトイモを洗う姿を見て、さらに、父が鎌や鍬を溝(を流れる水)で洗っていたのを思い出す。土のついた刃から泥を丁寧に洗い落としてゆく。

あのころは、家の軒先を流れる川にも豊かで綺麗な水がいつも流れていた。農地が区画整理されて、水路が農業土木技術の論理通りに作り替えられてしまうことで、庶民と小川との暮らしの姿も変わっていった。

何事においても、ヒトの知恵や工夫が染み込んだものが姿を消し、合理性を求めた近代化のモノが当たり前になってしまった。豊かになったような錯覚である。

▼柿すだれ父が呟く声がする

柿を簾のように縁側にかけている家も見かけなくなった。里芋の皮を剥く母のうしろ姿を見ながら、柿の皮むきもこのようにコツコツとこなしていたのだろう、と思う。

菜刀の切れ味が悪いときは父が砥いでくれたのだろう。何しろ名人級の腕前であったのだから。近所の包丁も頼まれてよく砥いであげていたのを思い出す。

コツコツ仕事をするときに息子を横に座らせて、小言でもなく、人生哲学でもない、愚痴でもないことを静かに話しながら、作業をした父を思い出す。

作業とは、つまり、包丁を磨ぐことや柿の皮を剥くこと、道具を片付けること、縄をなうこと、注連縄を作ることなど、様々な農家の営みや暮らしの中にあることである。


ネットを探してみたら懐かしい写真があったのでお借りしてきた。

サトイモの皮むき

2013年10月19日 (土曜日)

一度だけ

一度だけ。

その願いが叶っていたら

また違う人生。


多くの人がわたしと同じように人生を振り返るのではなかろうか。

もしも、あのとき、受験に失敗していなければ。
もしも、あのとき、好きな人に告白していたら。

もしも、あのときに、息が絶える目前の父に声を掛けられたとしたら。

**

そんなものは、架空であって、発生しなかった時点で夢物語だったのだ、と自分に言い聞かせてきた。長いようで短いような人生だった。

一度だけ……。何が一番のわたしの望みだったのだろうか。

その答えは、旨い酒を飲み続けるために、息が絶える直前まで心に仕舞ってこくことにしよう。

2013年10月18日 (金曜日)

伝えるということ

旨味と甘味

父は甘い物が好きだった。そんな気がする。

いや、とりわけ好きだったわけでもなかったかもしれないが、みんなが甘いものを嫌いだと言って顔を顰めるときでも、さらりとひとくち食べている姿が記憶にある。

もしかしたら、甘いものを受け入れる分、左党ではなかったのかもしれない。

だが、ついぞ、好き嫌いの話を聞いてみたこともなければ、そのことで酒飲み談義をしたこともなかった。

何が好物だったのだろう。秋に旨いものが食卓に並ぶたびにそんなことを思い出す。

--

▼穭田のひっそり朝を待つ季節

そんな季節が訪れた。

父はズガニを捕るのが名人級だった。

秋になると毎朝、夜明け前から川に出掛け籠いっぱいのカニを捕り、茹でて、旨そうに食べていた。旬を愛した人だったのだ。

投網も上手だったので、一年じゅう川に出掛けていた。

その中でも、ズガニがとりわけ好きだった。しかし、特に誰にも賞賛されるでもなく、その腕っ前も知る人ぞ知るというものだった。

そしてその腕前の凄さが、やはり後年になって明らかになってくる。何故、あのときに一緒になってその腕前を引き継がなかったのか、残念で仕方がない。

松茸山の在り処もズガニ捕りのコツも、根っこつ(根っ子の木の置物)の仕上げ方も、わたしは教えてもらおうとしなかった。今思うに、自分という人間はなんて思い上がりの激しいアホなやつだったのかと反省をする。

一子相伝という言葉の通り、父の技と心を受け継ぐことが大切だったのだと気付いたのは、亡くなってからひと昔以上が過ぎてからだった。遅すぎた。

あの人の感じていたことを、今のわたしが受け継いでいれば、あの人と旨味談義を交わしていなくても、答えは自明だったのだろう。

伝えるということは、何事においても、無言であるのだ」というようなことを、たびたび説教じみながらも話していた父のしたたかな視線と手さばきを思い出す。

▼ズガニ捕る水の冷たさ子は知らず

2013年10月17日 (木曜日)

手掛かりはあなたの残したペンネーム

随分と寒くなってきた感じがする。北海道の中山峠で初冠雪のニュースも読んだ。

夏布団のままだと朝方寒い。新聞屋さんが来る5時過ぎに目が覚めて、そのまま布団の中で膝を抱いていた。

きょうから上着を着てゆく。
少し駆け足でも汗をかかないのでありがたい。

▼待ち合わせ貴方の街は黒い雲
▼手掛かりはあなたの残したペンネーム
▼つぶやきのあなたの名前そっと消す

1週間前に柳壇に投稿してみたが、没だったのでここに書いておこう。
没作品に面白いものはないが、言葉を足せば何かが見つかるかもしれない。

私はこの3つの作品を書きながら、ささやかなるドラマを書きたいと思っていたはずだった。時間が過ぎると忘れてしまうからアカン。

ミスド

2013年10月16日 (水曜日)

豆餅

豆餅(出町 ふたば)

きょう、ちょっと出かけて、
京都展なるものをやっていたので
豆餅@出町ふたば を買ってきた。

本日中ということで、
ご飯とは別にしっかりと食べてしまいました。

父の日記

おともさんが つれづれ (10月15日)という日記のなかで
「父の日記を読ませてもらった。父が日記をつけていたとは知らなかった。」
と書き出している。

親と子どもというのはギャップを持った関係であることが多い、と私は常々感じているので、その日記の先を読みながら、子どもの視点を確かめているような気持ちになってくる。

父や母というものはその正体をなかなか理解されないものだと思う。正体というと曖昧だが、それは、子どもを思う心(それは心配のこともあれば、将来の夢のこともあろう)であるとか、子どもの日々の行動を見詰める・気にかける視線であるとか、連想する着想点・着眼点であるとか、様々な感情要素としての集合体のようなものとして考えている。

子どもの側からの言い分ではおそらく、(自分は)父や母が子を思う心はよく理解しているしいつも感謝をしているのだから……、となるのだが、その理解認識の程度に細やかなギャップがある。

自分が父や母になって子どもを持ち、たぶん孫を持つようになって、8割ほどの人がそのことを理解できるのだろう。それまでは教科書で過去の歴史を学んだのと同じ程度であると考えてよく、押しなべて言えば、子どもは考えているほどに親のことを気にしていない。気づき始めるのは死んでからのことが多い。

もうひとつ言えば、何も、それを悪いとか残念だとか、改善課題だといっているのではなく、それでいいのだと考えて良い。

何故なら、そんなことはハナから当たり前のことで、何人もの子どもがあった時代には尚更のこと、末っ子に近づくにつれ親とは早々に死に別れる運命を背負っていたのだし、愛情の度数とは別に自立心も抱いていた。つまり、ずっと昔からそうだったのだから、そのままで良いのだが(そんなことが言いたくて書きだしたのではなかった。大きく脱線してしまった。)

子どもというものは父や母の日記や行動や考えにはあまり感心を持たないことが多い例をこれまでにもいくつか見てきた。友人が(母という立場で)ブログで日記を書いているのをムスメさんは(子どもという立場で)あまり感心を持たないし、熱心に読むことはあまりしない傾向があると感じてきた。しかし、その逆は全く成り立たなくて、母は可能性を追求するようにムスメのブログやツイッターを必死で追っていた。

そんなもんでしょ、と言ったらオシマイである。

ヒトは、このギャップの人生を送り、失くしてから反省するのである。あまり冷めてしまって物事を捉えてもいけないが、何事も理屈どおりに考えて成し遂げられることは世の中にも人生にも人間関係にも稀であって、ハナからそういうものに必死になって立ち向かうことを考えるのはよしたほうがいい……と指南書めいたことも、ほんとうはお節介なことなのかもしれない。

私はここで【- Walk Don't Run -】遺す言葉というページを書き続けて、それを書くためにこのブログをやっているのだが、このページは誰も読みにやって来ないことがわかっている。もちろん、他人が読んでも面白くないし、感心も湧かないだろう。ではわたしが死んでから誰かが読むかというと、可能性のあるのは家族だけであるが、その可能性もほとんどないだろう。

では、何故書くのか

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わたしは父の日記をこの「遺す言葉」を書くためにどうしても読みたいと思ったことがあった。母を訪ねて押入れや倉庫や蔵までも調べたが、残っていなかった。筆跡さえも殆ど無かった。

わたしはなにかその幻のようなものを追い求めるために書いているのかもしれない。このごろ時々そう思う。

クチナシ

2013年10月11日 (金曜日)

タイトルで辿る人生論

[第一期:人生なんて]

 (パーな会社の一員として働いて学んだこと)

  • まじめに生きても成功するとは限らない
  • 世の中は頭の悪い奴でも得できる
  • ビリでもキレとズルでのし上がれる
  • 上司になったら威張らねばならない
  • 上司はできないとわかっていても命令をする
  • 部下を叱るやつほど甘い自分をごまかしている
  • 優等生には爆発的な企画力がない
  • きちんと仕事をすれば必ず騙される
  • 真面目にすれば利用される
  • 本音を言い続けるとそれを悪用して陥れられる
  • 人を褒めてる奴は蔭で倍ほど悪口を言っている
  • きれいな職場の裏は(物も人間も)汚い
  • いいヤツほど出世意欲を見せない
  • チャンスを摘むには悪知恵を使う
  • 出世を徹底的に追う奴は利己的と考えてよい
  • 優しくて好かれる人でも地位や名誉を得ることが出来る

[第二期:まんざら]

  • 人生、失恋の数で優しさがわかる
  • 惚れやすい奴はお人好し
  • 恋は直感、愛は本能
  • 好きと思えば、行きなさい
  • 迷ったら、グレーはやめて白黒で
  • 澄ましていてもムッツリな人が多い
  • みんなムッツリだと思え
  • ほんとうは1度くらいは道を外したという奴は割りと多い
  • 好きになるなら普通にエロい人を選べ
  • エロい奴は割とストレート
  • エロに溺れてはいけない
  • 好きになる子はたいてい理想じゃない子だった
  • 可愛く見えたら、自分のエロボケを疑え

[第三期:省みる]

  • 子どもは3人以上できて一人前
  • 子どもが出来るころから自分も社会参加を果たす
  • 親バカ爺バカになって自分を省みる
  • だいたいが反省したころは手遅れ
  • 手遅れになってからが力量の見せ場

[第四期:出直す]

  • 義理を尽くすことは人間として一番大事
  • 義理を果たしなさい、道が見える
  • 見えないところでお世話になった人に礼を尽くす
  • 礼を尽くすのに手遅れはない
  • 社会に恩返しをしなさい
  • 尊敬する人がいますか
  • 心に鬼を持ちなさい
  • 鬼のような助言をする先輩がいますか
  • 親友には大金を貸して欲しいと言い出せない
  • 困ったときは一人だ
  • 泣きたいときも頼る人はいない
  • 親友と思える人があったら疑っても良い
  • 死ぬときは自分をすべて捨てきっておくこと

次々と思いつくままに書きなぐった。
そこには、自分でも纏められない人生模様がある。

進化するのは、人として授かった命と使命だ。

駅前路上シンガーたちも進化しなくてはならないことを前に書いた。
いつまでもそこで歌っているのでは進歩がない。

私もどこかでお役に立たなくてはならない、と思うことの多い日々。

2013年10月10日 (木曜日)

じぇじぇじぇ

じぇじぇじぇ

くださいっとおねだりしたら、もらえました。

幸せ。

じぇじぇ、私のメールの始まりですが、これは、じぇじぇじぇ、だって。

2013年10月 9日 (水曜日)

菜箸や煙を纏う秋刀魚なり 寒露篇

8日は寒露であった。

窓を開けて眠ると夜風が冷たい。風呂あがりに軽く浴びている夜風は心地よいが、寝入ってしまうと大変なことになる。

 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな  芥川龍之介

ツマは、寒がりである。私よりも少し厚めの布団をかぶっている。それでも、今朝、のどが痛いわ、と言っていた。

確かに風が冷たいが、薄手の布団を肩までかぶって窓の隙間から吹き込む朝の乾いた風邪を吸いながらウトウトしているのは気持ちがよい。

サンマ寿司

▼菜箸や煙を纏う秋刀魚なり

昔のように薪を焚いて風呂を沸かすわけでもない。薪ならば、焚きつければ火が起こるのでそれを七輪に入れて魚を焼けばよい。

夕方におもてに出て夕空に明るく輝く白い大きな星(金星)をみながら、カラスなどが鳴いて帰るのを見上げて夕飯を待っていると、母が、風呂を焚いてくれとか、ついでに秋刀魚を食べるから焼いてくれとか、呼びつけられる。

秋の夕暮の家の裏口(勝手口の外)は忙しかったことを思い出す。

子どものころは、秋刀魚などという魚は高級だったのだろう。本当に旬の時にしか食べさせてもらえなかった。ふだんは、鯵の干物か、今ごろの季節ならカマスの開きか。

刺し身でサンマを食べるのも大人になってからのことだ。

薪で焚いた風呂は、釜が保熱をするので、湯は冷めにくかった。今の季節は真冬のように寒くないので、早い時間に湯に浸かったものだが、昼間の明るさが窓に残っている時刻であったりすると、少し開けて外の空気を吸ってみる。風呂の周りに充満している煙が隙間から入り込むと、どこぞの温泉よりも風情があったのではないだろうか。

むかしは、10月10日ころに町の運動会や学校の秋の運動会があった。米の収穫も今ごろだったのだが、麦を作るのをやめてコシヒカリのような品種改良された作柄の米が普及してからは、台風が来る前に米の収穫は終わってしまう時代になった。

そんな昔を語れる人が少なくなった。秋の夜は、おいしいコメからとれた旨い酒を飲みつつ、夜風に吹かれていたい。

お酒は、燗でも冷やでもなく、棚で眠っている温度がいい。

満月まであと10日ほどか。

ふるさとの柿はどちらも豊作で

庭にて、柿

私が中学生だったときに父が日曜大工で我が家の庭の一角に2階建ての離れを建てた。1階にはシャッター付きのガレージと6畳間、トイレ、井戸があった。2階には4畳半と8畳間があってベランダもついていた。もはや日曜大工というレベルではなかったのだが、40年ほどみんなに愛されて、このたび、取り壊して更地にしてしまった。

その一角に大きな柿の木があった。たーちゃんの柿と家族で呼んでいた。おそらく、叔父さん(たーちゃん)が就職したころに植えた柿ではなかろうか。

その叔父はいま脳梗塞で倒れてリハビリ療養中である。

数知れずこの地に帰り、遠き時間に思いを馳せ、止めどなく生家を想い続けたふる里の柿の木に、その叔父の名前をつけて父(自分の兄)が呼んでいたことは本人も知らないだろう。それを知る人は、今では母と私くらいになってしまった。

人が年を経て滅びていくことは人類の宿命であるから仕方のないことだ。しかし、忘れられてゆくことをすべて認めるのは辛い。

それと何よりも、豊かさに満足した多くの人(社会)が(自分たちの幸せばかりが大切で)、忘れてはいけないものを分別する力を失ってしまっていることが悲しく寂しい。忘れてからでは取り返しがつかない。

歳月人を待たず。

ふる里に残った柿は残すところ1本である。次は誰の番だろうか。

--

(砂女さんの歌から)
盗む子も啄む鳥も絶ゆ柿の如く実れる重きししむら

2013年10月 8日 (火曜日)

秋の乗り放題パス

JRのお知らせに

  • 秋の乗り放題パス:平成25年10月5日~平成25年10月20日
  • 発売エリア:JR全駅
  • 人員区分:おとな
  • おねだん:7,500
  • 有効期間:3日間

というのがありますよと教えてくれた友だちがいて、早速検討を始めるのだが、知ったのが10月7日と既にギリギリであったので、焦りと諦めのような日々をここ二三日過ごしている。


7500円で3日間乗り放題は有難い。

ちょうど連休を使って(友人を訪ねて)新潟にぶらっと行ってみたいなと思っていたところだったので、そんな切符があるならば、新潟だけでなく東北にも行きたい、ということだった。


連休は京都にお出かけしようとも思っていた。けれども、新潟ではなく信州付近でとどまるにしても、秋の紅葉シーズンということもあり、誘惑は大きい。

だが、このごろ、すっかりインドア派になってしまっているのです。

2013年10月 7日 (月曜日)

認めあう

長く続く(不倫の)カップルは「お互いが、本当に認めてほしい部分を認め合っている」

「不倫をする男性が、彼女に求めるもの」という題名がついネットコラムで見つけた一節だ。不倫のネタで話を引きつるようとしているが無関心なので大幅にカットして読み進むと、的を得たことを書いている。

結婚したくても思い切れない、いい人と出会えない人が読んでも面白いし、視点を変えて自分を見つめてみるのにも良い題材だと思う。

■■

一般論に書き換えてしまえば、
ヒトが、恋愛的な付き合いを求めるのは、その人自身に何らかの問題を抱えていることが多い、
という。

つまり、問題を抱かえていなければ、外に恋愛的な付き合い(不倫や浮気)を求めないというのです。

夫婦がお互いを認め合っている(または認めっている部分を多く持っている)ならば、不倫や浮気はしない。

ヒトは自分の中にある「本当に認めてほしい部分」を理解してくれる人を求めていることが多く、その点を改善すれば心のつながりが得られるという。

■■

ヒトが結婚をすることは、社会的使命であると。そう私は言い続けてきた。
子どもをもうけて育てて、家庭をまとめて、社会参加をすること。
そして、子どもを大きく立派にして社会に出して貢献させ自分も貢献する。子どもは、子孫を繁栄させて、未来の社会を作る一役を担うこと。

だから、結婚をしないで社会でダラダラしている人を少し辛辣に叱ってきた。

人それぞれ事情もあるから何でもかんでも叱るつもりはないし、現代社会のアホな側面が若者の心を蝕んだりしているので、救ってあげねばならない面もある。しかしながら、現代の若者は(しかも結婚から遠ざかっている人は)ちょっと自分の方ばかりを見詰め過ぎているではないか、と気に掛かる。

それを「ゆるやかな自己主張だ」というような言い方もできるのだろうけど、個人主義という言葉が生まれたころに、そこにある個人そのものを自分に当てはめて中心に置いてあらゆるものを組み立てていく気風が出来上がってしまったからだろう。決して間違いではないのだが、間違いだと言い切る意見が出て見つめ直すチャンスを失ったことによる損害が大きい。

ブログだってツイッターだってケータイ電話だって、テレビドラマもクイズ番組も、お笑いも、全部自分の方を向いて構成されているのだ。

私がこれまで何度も書いてきた「お鍋を食べるときに絶対に自分の皿に自分の食べる分を装わずに食事を進める」というルールを、日本の社会のあらゆるところに取り入れていけば社会は必ず変わってゆく。

本当に認めてほしい部分を触れ合わせることが出来ないという難題も、容易く解決できるのではないか。

どうぞ、想像してください。

ドーナッツ

2013年10月 2日 (水曜日)

荷物落下紛失 花も嵐もⅡ その59

東北ツーリング('96.7.25.~8.6)

のなかで触れている荷物を紛失事件が辛い思い出のひとつだ。

( 鬼無里を楽しんで、せせらぎ街道を走って帰っ来る途中に)

□・
・□

[8/6-1](安雲野~平湯~高山~せせらぎ街道)

せせらぎ街道でテントと寝袋以外の一式とメモがいっぱい書き込んであった地図や少しのスケッチなどの入ったバックを落とした。気が付いて止まったら後続車が少し戻った所に落ちてたと教えてくれたので期待をして戻った。でもなかった。悔しい。二往復もして探したのに発見できず残念であるが届を出して諦めることにした。(でも後続車の人は何故に拾ってくれなかったのだろうか??) 

□・
・□

日記にはこう書いた。

あのときは寝ても覚めても悔しかった。

だって、私の後には車は走ってこなかったし、すれ違っていった車もなかった。道路脇にも荷物も落ちていなかった。

私の荷物を拾得した該当の車はあの車しかなかったはずなんだけど、知らんふりをされたことが悲しかった。

荷物には東北の思い出がいっぱい詰まっていた。汚い下着のほかに他人にしたらゴミやガラクタばかりだった筈だから、何の得にもならないものを拾ったことになる。

地図にサラサラっと書き込んだ落書きやスケッチもなくしてしまったことがとても残念だった。

(そんなことがあって、荷物の固定には気を使うようになっていく。)

荷造りや道具のこと 花も嵐もⅡ その58

旅の荷物は、あれもこれもと考えると増えてしまう。だが、オートバイでは積載に限界がある。初心者のころはタンクバック、後に収納ボックスを増やした。

地図は塩ビファスナーの付いたの収納用文房具(A4サイズ)に入れるようになり、テントやマットも後部荷台に持ち歩くようになる。

■タンクバック

昭和50年代から60年ころまでのタンクバックは、ゴムベルトをタンクに巻きつけて固定していた。それが、マグネットに変化した。

荷物収納方法はタンクバック以外にも振り分けバックやトップボックスなどが普及していく。

たくさんの荷物を安定して積みたい。脱着が簡単で、雨にも強いものを自分で工夫した。

++

■収納ボックス&荷造りベルト

東北を旅していたときにコメリという小さなホームセンターを見つけて、固定用のベルトを何気なく買って持っていたのですが、その紐が後になって塩ビの収納ボックスをKLEのキャリアに固定するのに大いに役立つことになった。

市販の立派で格好の良いTOPボックスには劣るけど、1分以内で脱着できるし、雨の日も安心。固定紐を逆にすれば肩から掛けることが出来たし、キャンプではテーブルとしても良かったし椅子でも使えた。

このボックスの上にテントと銀マットを括りつけた。銀マットは、遠くからでもハッキリ見えるので、キャンプ・ツーリストらしいグッズだと持ち歩きながら嬉しくなった。

++

銀マットもエアーマットに代わってきたしテントもコンパクトになってきました。コンロ(バーナー、ストーブ)なども火力が強いものが出まわってますし、灯りも充実しています。

ロウソクのランタンなど、今はダサくて。
でも、灯りは乏しいほうが染み染みしていいなあと思うのはわたしくらいなのかな。

2013年10月 1日 (火曜日)

ワンマン列車にて

ディーゼルのワンマンカーの降車駅で思わぬ光景に出会った。

ワンマンカーでは、列車が止まって降りる時には運転席の前で切符を渡すかお金を払って列車から出る。この常識的な約束をひとりひとりが守って降りてゆくなかで、1人の若い男性が運転手さんに呼び止められた。

(お客さん)「切符が…」
と大声で呼びかけられているので降車客の最前列の方向に目を向けて見ると、既に若者はホームを数メートル向こうまで早足に駈け出していた。運転手さんが声をかけた言葉の後半が曖昧だったのかこちらまで聞き取れなかったのかは不明であるが、若者は運転手さんに切符に係ることで呼び止められたことに疑いはない。

何事が起こったのかは、当事者が知るのだろう。しかし、切符に間違いがあったのか、確認が必要であったのか、料金に過不足があったことが伺える。運転手さんは席を離れて追いかけられない。周りの乗客は知らんふりだ。

もしもこれが法に抵触する行為ならならば咎めねばならないし再発防止策を考えねばならない。もしも若者が料金不足の呼びかけを無視したとすると、それは犯罪であり人道上でも大きな問題だ。鉄道会社や周囲の社会人たちはどんな行動をとればよかったのだろうか。

もしも不正乗車なら許しがたい行為であり、運転手さんは強く止めたのだろうか。

モヤモヤしている。

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