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2013年8月23日 (金曜日)

地震・雷・火事・オヤジ ─ 処暑篇

▼脱線・閑話から
一言で表現すると、現代人はこのような災難や怒りのことを、小馬鹿にしたように振るまい、意識の面においても殆ど畏れを持たず、自分でどうにか出来るとか、理屈で何とか出来ると思っているように見える。もちろん、わたしもその一人であることが自分自身で歯痒くあり、愚かだと思えるものの、自分ができるできないはさておき、誰かが非難しなくては現状は打破できない。

▼神様がいて
世の中を好き勝手に暮らしていけば、いつかはやがて自分にその代償が回ってくると考えたのは、遠い遠い昔、原始の時代の人々であった。太陽の光を見て距離や角度を測り、建造物を正確に配置する設計や、暮らしの及ぼす暦をうるう秒まで計算していたわけであるが、それらと同時に神様というものを捉え信じて讃えて、なおかつ怖れ(畏れ)ていた。

▼救急車が交差点を横切ろうとするのにもかかわらず、横着にもそこをどこうともせずに救急車を邪魔する車を近ごろ度々どころではないほど見かける。故意であるかないかの問題ではなく、このような極悪非道な奴に対しては、必ず自分の身内が致死状態で救急車に乗っているときにその前で何者かによる神がかり的な戒めを受けるような世の摂理が施され、なおかつ死刑を進呈して悪人を戒めていただけるような神の業がなされることを願う。

▼神様とは、正義の味方であるだけでなく、悪者に対して怖くて厳しく冷たいモノであっても構わない、というか、神がそのように厳しすぎる神でなければ誰もここぞというときに縋ったりお願いにいけなくなる。世の中の悪事を神様が一手に引き受け裁くことでヒトの心は神を恐れ(畏れ)、非道を恥ずかしむようになるのではないか。見えざる神が消えかかっている社会が当たり前になりつつある。

▼これもすべて科学というものが災いだったというと飛躍し過ぎだとお叱りを受けるのだろうか。あらゆるものを科学が解明してゆきやがてそこに宿っていた神様がいなくなる。そんな時代はすでに来ているのだが、人があらゆることを神秘として捉える心は、五臓六腑が何モノか分かり始めている程度で留めておくべきであったし、情報通信は、狼煙に始まり伝令、手紙と進化していくけれども、電話程度で進化しないほうが良かったのではないか。

▼心に鬼を。むかし、そんなことを書いたが、鬼という架空で得体のしれない恐ろしい物を心に抱くことと、正義に対する後ろめたさは二つの揃ったヒトの自省作用であり現代はこれをなくしている。

▼理屈で考え進むことが出来るようになったせいで、何事も見えているような錯覚に陥る。(見えているのは事実かもしれないが、見ないことも大事だ)いわば、怖いものなしで暮らしているから、神様も怖くないし、地震や雷も怖くない。オヤジも地位を失っている。

▼罰(バチ)が当たるべき人に、罰(バチ)が当たらなくなってしまったら、そこには不平等感が残る。神に抱く畏敬の心をなくして、デジタル的に法律を解釈して世の中を構築してゆけば、オヤジの怖さが意味をなさなくなってくる。精神科学が抱かえる数々のオモロイ病気は、怖い神さまが苦言を呈さなくなったからではないかと思っている。

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▼お金もないし地位も名誉もないのに年収の5倍も6倍もする家を買うようにというか、買うという行為が成立するのも現代経済理論の賜であろうけど、これはモノや心を白黒で切り分けてしまうことによって可能になってくる。りんごが好きでそれよりもいちごが好きでそれよりも桃が好きでそれよりもりんごが好きな人には想像も出来ないことを、社会システムの中に取り入れてきたのが21世紀なのだろう。

▼得体のしれない物がなくなっていくので、得体のしれないものを怖がる心がなくなる。雷雲が山峰付近で発生していて、ゴロゴロが地響きのように届いてきても、科学の力が自分たちにはあると思うからゆえ神様の怒りを畏れない。もしも、神様の怒りや祟を怖れていたならば、間違いなく都会は水浸しになっても怪我人や死人を出さないし、遠い山奥の大規模な地すべりでも最低限の被害に留められたかもしれない。長い科学の進化を思い切って2000年くらい昔でストップさせれば面白い。

▼利益というもの味覚というものなども全てがこのような数式の上で組み上げられてゆく。価値や味や心はすべてお金に置き換えられる(またはそのことが可能な)世の中になっている。ここで、価値をお金に替えてしまわないことを提案しようものなら、変人奇人の時代遅れ人間扱いなのだろう。

▼しかし、処理できる数式があることで(それをいいことにそれを使って)何事にでもその中心に迫れるというのは、良い点もあるがマイナスも多く存在する。スポーツについても芸術についても文化にも言えるのではないか。詰まらなくなっていると思う人が後を絶たないのは、神(的なもの)を失くしたからだ。

▼その結果、「情熱が冷たくなっている」とわたしは思う。燃えたぎるものを感じなくなる人と、燃えているのを共有する人との隔たりが大きくなっている。身近にはプロ野球がそうであったし、次々とスターを生み続けたい様々な業界も、隔たりの向こうにいる無関心の(わたしのような)人にとれば、宇宙の外のような話になる。最近では、TV番組も映画もドラマもアイドルも、多くがそうなってきた。こういうことを多数決で乗り切ろうとするところが、またまた愚かだ。(フーリエ変換、しっかり勉強しなさいと言いたい。)

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