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2013年1月29日 (火曜日)

暮れゆく1月に昔を思う

昔の日記が出てきた。
それは、節分のころのものであった。

日記には「複素解析学の先生に就職が決まったので単位をお願いに行った」と書いている。

先生の顔はもう覚えていないけど、先生、ありがとうございました。
あれから私は京都のオ社というところに就職しまして、まあ、その後いろいろとありましたが、学生時代のさまざまな教訓や問題提起のおかげで、ここまで来れております。

私の今があるのは、あの時期の答案に

先生!就職が決まったので単位をください

とか

白紙のA4の解答記述用紙に

先生の出題された問題は私には解けませんでした。併し私は卒業しなくてはなりませんので一生懸命勉強しました。就職も決まっています。勉強したことを書きますのでお願いします

と書いて、A4用紙に全く関係ない想定問題とその解答をびっしりと記述した。無線技術士の試験解答を書いたときのように必死で書いたのでした。

そういう科目が、複素解析学以外にもたくさんあった。数科目はあったと思う。

(そしてそのことを思い出して今でも夢で魘されているとツマは言う)

3年になるとき、4年になるとき、そして卒業のときに、次々と同期生の姿が消えて行った時代だった。あれはあれで私なりによく頑張った学生時代だった。

今思うと、単位をくれた先生も素晴らしい。散々落としておいて、卒業のときはいくつかのハードルを与えながら大目に見てくれたのだ。

あれはちょうど今頃の季節でしたね。

31年前。
24歳。

2013年1月26日 (土曜日)

冬障子茶の湯に向かい膝を丸める 1月中旬篇

寒さがひとつ峠を越えたか
身体が寒さに慣れたのか
21日には北勢方面に出張に出かけたりしていたが
どうやらこのときにインフルエンザを貰ったらしく
週末から発症するという1週間を過ごすことになる。

1月21日(月)

朝夕の列車には3年生は乗っていないのだろうか。
少し学生さんが少なくなっているような気がする。

▼お別れが迫っていても泣きもせず
▼卒業が迫っていても泣きもせず

バレンタインのチョコがスーパーなどに並びだした。
チョコと節分を終えれば一息つけるか。

▼柚子ひとつチョコの横にて何を待つ

少しスランプで
遺す言葉を書く勢いも緩くなっている。

▼雨降りや貴方を濡らせ凍るまで

私は作品の善し悪しに関わらず
こんなのが好きで、
別にその人が濡れ鼠になっているのを喜ぶ訳ではなく
その濡れてさまよう悲しい姿にその人の魅力を
魅惑にして重ねて行きたいと思う。

傘を差し出したくなるような濡れ方を演出してみたい。

▼恋文や出せずにそっとひきだしへ
▼さようなら、流れ星の絵を書いてくれた人
▼懲りもせず今夜もお休み夜空に投げる

寒さは今がピークなのだろうが
低気圧が北日本に偏っているのか
こちらでは風が強く吹かず、
車のガラスも凍らない日が続く。

1月22日(火)

▼iPadミニ本日出荷のメールくる
▼小雨でも地肌を打つの冬の雨

メールが届いて明日届くと追うのでそわそわしている。

ツマがメールをよこして、
自転車で転倒して打撲の怪我をしたという。
それを聞いた私は急いで家に帰る夜道で
高校生の自転車に正面から追突される。

災難な日だった。

1月23日(水)

▼冬障子茶の湯に向かい膝を丸める
▼正座して炭火熾るや冬障子
▼悪ガキが餅食いながら冬障子

冬障子という季語がお題だったので少し書いてみる。

障子のある家で暮らす習慣を諦めてから
扉をさーっと滑らせて開ける音からも遠ざかる。

▼冬障子さあーっと開けて滑り込む

冷気の籠った畳の部屋が
家のどこかに一間あるという落ち着きを失ったのが寂しい。

iPadが来るので、受け取って

ツマを医者につれて行く。
あばら骨が骨折という診断。

1月25日(金)

昨夜、風呂から上がっても
身体中が痛くて仕方なく
額に手を当ててもらっても
熱くはないというのだが
念のために医者に行くと
インフルエンザと判明した。

▼インフルA鼻をかんだら人が散る
▼鼻くそをほじくってみるインフル

その後、薬を飲んで
安静にして
家では隔離状態の日々が続く。

熱は上がらず、37.1℃が計測値では最も高かった。
タミフルと解熱剤と症状を押さえる薬を飲んで寝ている。

2013年1月25日 (金曜日)

冬は寒くなくてはならないのだった 大寒篇

まつすぐに十一月の始まれり  鷹羽狩行

冬は寒く長く、確かに辛い季節ではあるが、11月にその覚悟を決めたからには、終わるまでやり通す意思も必要だ。寒いと言って投げていてもいられない。私のいつもの口癖で大好きな言葉で言えば「縄文時代から予測できた」ことに不平不満を言ってはいけないのだ。まっすぐに11月を始めるからには、強くて揺るぎない意思と決意と展望があったのだから。

私たちは怒りや不平を日常として生きている側面があって、それが励みになりプラスの思考ができて羽ばたけるのであろう。大寒を迎える1月20日は、連続的に寒がり屋さんを苦しめた寒さも少し揺るんでいた。今年は穏やかな朝だったと日記には書きとめている。

大寒を迎えることはそれは父の命日を控えてということであり、寒さの中で声も枯れて出なくなった1998年(平成10年)のあの葬儀のことを思い出す。なだらかで優しい山並みも大寒波の到来で白く雪化粧をしていた。嘗てこんな景色になった日があり、父が喜んでか珍しがってか、カメラを出してきて写真に撮っていたのを思い出す。それほどまでにこの山に雪が積もる景色は珍しかったのだが、父の葬儀の日は,峠を越えてくる人が難儀をするほどの雪となった。

21日が母の誕生日なので墓参りをかねて家を訪ねた。誕生日の贈り物などしないのだが、ドーナッツを三つほど買って帰って仏前に供えた。私たちが結婚をしてからの間に葬儀にたった(都合で参列できなかった人も含む)人のことを私が尋ねてクイズのように回想しながら並べ替えてみると、母は考え込むこともなくスラスラと答えて行く。私は1問も正解を出せなかったかも知れないのに、自分の答えが正解ですとばかりに教えてくれた。

房子さん、きしさん、逸夫さん、忠知さん、父、静代さん、さだえさん、としさん、幸一さん、常夫さん、三生さん。

もう結婚式に出席した数よりも多くなってしまった。このあとに連なるのは紛れもなく母の名前であり私の名前なのだ。そう考えると、こうして大寒を過ごすことの大事さが見えてきて、この寒さが不可欠であり、父を語り継ぐためには再び冬を迎えたら寒い冬でなくてはならないのだと思った。

2013年1月23日 (水曜日)

to bridge

オバマ大統領就任演説。

いくつかのセンテンスを聞き流したあと、この言葉が耳に着いて離れない。

Today we continue a never-ending journey, to bridge the meaning of those words with the realities of our time.

*
*

人々は、夢を追いかけてきた。
いつか夢の中に解放されたいと願って
幾つもの艱難辛苦を乗り越えてきた。

to bridge

まだまだ、先は長いというのか。

私は後片付けに取りかかっているけど。

*
*

21日は「bridge」ではなく、「ブリ」をいただきました。
県内産
ブリのお刺身

2013年1月22日 (火曜日)

東北のこと 花も嵐もⅡ その33

東北地方ってのは詰まらないところだと思っていた。併し、このシリーズの前篇で多くを裂いたように、知られざる面白さがたくさん潜んでいる。バイク雑誌に紹介されたとしても北海道のように人が殺到することになろうし、地形的に暴走をそれほど許さないところであることや走ること以外に深く味わうものを多く含んでいるだけに、そう簡単には食い潰されはしないと願いたい。

そうして東北との出会いが遅れる傾向にあるかというと、ツーリングを始めてまず誰もが行きたがるところは北海道で、次に九州に行き、信州に行くというのが筋書きのようなものだからだろう。東北まで辿り着いても、かっ飛ばしている子たちが多い時代のツーリストには、そのころは飽きているのかもしれない。30歳を過ぎても40歳になっても乗っている奴は、よほど貧乏で車が買えないか、少し変わった奴と呼ばれてしかたのないか、本当に旅そのものが好きで、そういう人が東北を走っていることが多い。

もちろん、初めてのツーリングで東北を走る人も多いと思うが、青森・秋田・岩手だけで四国ほどもあるのだから、初心者では手に負えない地域だ。面白くなくて当然かもしれない。

その点、信州は関東からも関西からも一泊二日で行ける手頃のな所であったし、仲間も多く、走って楽しいところもたくさんあった。景色がよく、夏も涼しいのでコンパクトに旅を纏めようとすると信州を走ると失敗がなかった。ツーリングには欠かせない美味しい蕎麦屋もある。

だが私は東北に行く用事があったのだった。それは、シリーズの前篇でも触れたように、そこに私が会いに行かねばならないひとりの女性がいたからであった。だから、その人に会うために東北を目指し、逢わない・逢えないにしてもそちらの方向に吸い寄せられるように走ってしまうのだった。

女性のことはさておき、東北の魅力にはどっぷりと引き込まれた。90年代などは6、7回東北の方向に向かって走ったのではなかっただろうか。

そのころは元気もよく、高速道路を使わずに渋滞時間を割けるために夜明け前の出発を試みて距離を稼いでゆく。早朝出発とは、3時に起きて4時ころに家を出ることだ。渋滞をさけるために本州の中央部の盆地をすり抜け峠を次々と越えていった。峠越えの日記もいくつか残されている。

2013年1月21日 (月曜日)

あのころは逃げ道が用意されていた

体罰のことで社会が騒がしい。桜宮高校のバスケットボール部の生徒が体罰を受けて、その後自殺をしていた事件だ。事件の真相は何らかの形で解明され歴史に刻まれて行くだろうから、私はここで所感も書かなければ言及もしない。

だが、こういう事件を報道で知れば、様々なことを考えさせられる。

ヒトは他のほとんどの動物たちと違って言葉を喋り手を使うことができる。使える以上はそれが武器になってしまうこともあり得る。つまり、言葉による脅迫、そして、手による暴力は十分に相手を制圧するための武器になることができる。

ヒトは自分たちの持った優れた能力が手に負えなくなってきているのではないか、人間という動物として淘汰が始まっているのかもしれないとも思えてくる。

言葉を操り、2本足で歩き、文明を築き上げるという他の動物からかけ離れた能力を持った以上、これをヒトから奪い取ることは、相当に崇高な神の教えやお告げでもない限り、不可能だろう見て間違いない。つまり、その言葉よる暴力も手による体罰も、その概念は消すことができないのだと思う。

**

私は小学校4年生のときに父にひどく叱られたことを思い出している。

今は健康ですが、小学4年のときに腎臓の病気(たぶん腎炎だったと思います)を患いまして、2学期に丸ごと入院していました。顔がむくみ、オシッコにタンパクと血が混じるので真っ赤でした。安静にしていることと塩分の摂取を控えることが治療となります。

併し私は気ままなふつうの悪ガキでしたので、病院の中で大人しくしていることはなく、歩き回ります。従って一向に良くならない訳です。何度も注意を受けてそれでも治らない私を父は厳しく叱ったのでしょう。人生の記憶の中で父に何かで怒りを表して叱られたことは1,2度しかないのではないかという記憶の中の1回です。

当然、母が何度も大人しくしていないと治らないことを話しているはずですが、無視したわけでもなく、じっとしているなんて我慢ならないのが普通でしょうから歩き回りました。いっこうに良くならないので父が怒った訳です。

病院の中庭の木に括り付けられて、棒でバシバシと叩かれました。キリストみたいに姿だったのでしょうか。そのときの棒が何だったのかは私には不明ですが、後になって尋ねなかったので今後も不明です。母が言うには父は泣きながら叩いていたそうで、それくらいしかわかりません。今想像するには、中庭に落ちていた木の枝かなにかであったのではないかと思います。木の物指しなんていうような甘っちょろいものではなかった。よく足の骨が折れなかったものだと感心しますが。まあ、そんな風にしたおかげで私の足は腫れ上がり、歩けなくなっていましたので、安静にしているしかなくなりました。

このころは、親の言うことを聞かないと裏口から放り出されて鍵を閉められました。農家の家には入り口がたくさんあり、鍵の掛けられないような戸もたくさんありますので、鍵に意味はなかったのですが、そのピシャリと閉めるところに大きな恐さがあった。

親のほうも、その辺から入ってくることは承知の上で閉め出すのですから、ちょっと喜劇的でもあるのですが、まるで猫をオモテに放り出すように投げ出されます。子どもはそのような目にふだんから何度も遭っていますので、親に叱られることには慣れています。

ところがあの晩の父の叱り方には怖さがあった。小学校4年生ですから、病気を罹って安静にしていなければならない理屈などはわかる訳がない。訳もわからず叱られたような面も少しはあったのではないでしょうか。

父も身体が弱く、腎臓も人ほど強くはなく,若いときに私と同じように少し入院をしたことがあったのだと後で聞きました。自分の弱さを子どもに引き継ぎたくない気持ちがあったのでしょうか、36歳だった父は、このまま足がしばらく動かなくすれば否応なく身体は良くなると思ったのかもしれない。論理的にではなく、親の感情としてそう思ったかも、と想像します。

私はそれから少し親の言うことを聞く子どもになって,病気も慢性化することもなく全快して健康でおります。中学高校時代には水泳も禁じられ、マラソンも程度に応じて許してもらえただけした。大人になっても、風邪を引いて寝込んでもオシッコに血が混じらないか(親は)心配をし続けていましたが、大きな病気になることもなくここまで来れております。

体罰だとか苛めだとか自殺だとか。そういう行為には目標があってのこと。目標をつかまえて、そのための手段に、それらが正しかったのかどうかと考えて、さらに、必ず同時にもうひとつの道、それは逃げ道でも大いに結構ですので考えておくことが不可欠と思います。

私を叩き続けたあのときの父は、何が逃げ道だったのでしょうかね。
父の命日の前の晩にそんなことを考えておりました。

2013年1月20日 (日曜日)

目をつぶる雪がとうとうと降っている 1月中旬2号

私は1日の大半を空想で生きているのではないかと思うことがある。
現実から目をそらしているのではなく、夢ばかりを追いかけているのだ。

1月18日(金)

▼目をつぶる雪がとうとうと降っている
▼霜焼けやキミがスキだと口ごもる

朝の通勤時刻に少し雪が舞った。
嬉しいような気持ちもあるものの、現実的には嬉しくない。

しかし、窓から見える田んぼのうっすらとした雪景色が
妙にドラマチックで、
こんな雪の中ではしゃぎ回って戯れることができたらさぞや楽しかろうにと想像する。

▼不器用でいつも振られる金曜日
▼鬼さんがおいでと言うのでお茶をしに

雪は午前中の早い時刻にすっかり消えてしまった。
夢は儚くてよろしい。

1月19日(土)

▼霜焼けも死語となりゆくお湯洗い
▼霜焼けや母の言葉がよみがえる
▼霜焼けや撫でる温もりと母の小言

霜焼けなどというものはできたことがないけれど
子どものころは珍しくもなくて
痒くてさすっている子がたくさんいた。
少し意地悪な言い方だが
霜焼けって、温もりを感じます。
最近の子どもたちは本当の温もりを知らんのと違うか。
▼雪だより見知らぬ国にいる貴方
解説不要。

▼寒い夜は皆でひとつの部屋に居る
▼山の神しばし雪雲引き止めて

▼スーパーの肉のチラシに意思が揺れ

▼夜も更けてあられ茶漬けの箸の音

そうそう、きのうの晩に久しぶりに
あられのお茶漬けを食べました。
旨い。

1月20日(日)

▼大寒や貴方の胸にカエル夢
▼大寒や早起き鳥のその一句
▼眠れぬ人泣いても笑ろても大寒の朝
▼大寒や目覚まし鳴っても床を出ず

▼一度だけ電話きたことありました
▼鳥が啼き大寒明けて新聞屋

朝寝をしようと思っているのですが
日の出の時刻になると目が覚めるのです。

誰の邪魔もしたくないので
布団の中でごそごそとiPhoneを触っている。

新聞屋さんが通り過ぎて
鳥が鳴いて
朝日がカーテンの隙間に見える。

みんなは寒い寒いというけれど
寒くない朝。

大寒だった。

2013年1月19日 (土曜日)

「のほほん」と「ゆるゆる」

これを書いてからひと月ほどを迎えようとしている。

自分自身をなかなか振り返ることができないなかで、正月を過ごし、何もなかったように新しい年が加速してゆく。

「大晦日から正月へと切り替る」ことのある種の「畏れ」のようなものを私たちは忘れてしまているのではないか。

何不自由なく暮らし、何が幸せなのかを見失い、その失踪にさえ気づかずに、のほほんと生きる。

「のほほん」と生きることと「ゆるゆる」と生きることを混同して、「ゆるゆる」だけが独走して暴走してゆく。

明後日は母の誕生日。
その明くる日は父の命日。

2013年1月18日 (金曜日)

寒風や汽車はゆるりと闇に消ゆ 1月中旬号

1月13日(日)

雨がそこまで来てまする

▼サンマ食う睨みつけたい奴がいる

サンマの丸干し

1月14日(月)

そとは、雪が舞っております。

▼ざらざらとみぞれを流す雨となり
▼雨だからぜんざい食べてお茶飲んで

押し入れのタンスに積もった埃ほどの雪が積もりましたが
あっという間に消えました。

地面は冷たく濡れたままで
建物や壁は冷えきっています。

▼足跡を重ねてみたらキミがいた

北国の人の便りを読んでいると
相当な大雪が北日本を見舞っている。

1月16日(水)

▼恋の果て冬枯れローカル始発駅

夕べ、寝床で寒さを詠んでいる人たちの句をよみながら
外はさぞかし寒かろうと想像をしていた。

▼明日朝の貴方の髪を夢に見て

▼いい夢を見たいわ貴方の手を握る
▼さきイカを齧ってみてもキミ遠し
▼ねぇちょっと寄っておいきよ抱いてやる

何もいいことなど無かった東京を去って
今年で31年目を迎えるのだが、
東京では何もいいことなど無くてもそれで良かったのだと
今頃になって思うことが多い。

勉強しに行っていたんだから。

ぜんざいを食べたいと口癖にしていた私に
お昼はラーメンで、オヤツはぜんざいを振る舞ってくれた。

ぜんざい

▼三日月に落書きしたね二人夜道
▼キミは今日より明日がなお可愛い

人生は末広がりになるのが望ましいと思う。
だったら今から何かしなくては、と思案する。

遺す言葉を書きながら、遺すことは大事だと思う。

▼命日が近づくハッサク捥ぎにゆく
▼雪雲を呼んでおとうを荼毘にふすおとう

週末には墓参りに行こう。

1月17日(金)

▼ジェーアールと言って舌もつれたり
▼残り物でもレンズを曇らせる
▼こんばんは今でも汽車と呼ぶ世代

▼一両のディーゼル寒気が追い立てる

▼お母さん今夜はモテモテうふふのふ
▼受験生三十七年巻戻る

▼寒風や汽車はゆるりと闇に消ゆ

もうすぐセンター試験

2013年1月17日 (木曜日)

受験生、ガンバレ

受験生

いつも、電車で見かける受験生。

もうすぐ、センター試験だね。
風邪ひくなよ。

少しくたびれたかな

通学カバンの友だち

3年間一緒に通学したのかどうか
私には分からないけど、
少しくたびれているね。

もうすぐセンター試験。

そして、卒業。

2013年1月16日 (水曜日)

好きだったもの

何が好物だったのだろうか 今更ながら分からない。

命日が一日一日と近づくと毎年同じことを考えている。
亡くなる日におれなかったことを今更ながら後悔している。
アホみたいに誰のために仕事をしてたんや、と社会や会社に対して腹も立つ。

好きだからといって腹一杯に食うような人ではなかった。
そういうことを決めて意思で行っていた訳ではなく、何か動物的に「腹八分」のできる人だった。
腹八分は何事においてもそうだったようだ。 遊ぶ、賭ける、食べる、など。

働くということにだけ甘かったか、よく働く人であった。
どんなに寒い朝でも、ぐずぐずと布団に入っている姿は一度も見たことがなかった。
布団から出たら必ずすぐに何か仕事をしていた。
人より遅く起きることもなかった。

農機具の保守、準備、片付け、に始まり、一日の仕事の始まりは起きて数分後から始まっている人であった。

さて、 好物は分からない。
ぶりが手に入れば、プロ並みに包丁を研いで、刺身をしてくれた。

生の魚を旨そうに食べる人だった。

ズガニがとれる季節になると夜明け前から川に出かけた。
捕れたてのカニを湯がいて旨そうに食べている姿は野性味があった。

旨いものを旨い時期に食いたくなって食う。
そういう人だった。
生き方もそうだったのだろう。

22日の命日に、庭には鈴なりのハッサクが成ると思う。

あの木を植えたのは父だ。
ハッサクが好きだったのではないかと、近年はそういうふうに思っている。

2008年の11月に

初霜や八朔ひとつ供えたろ

とよんだのだ。
私は、そんな簡単なことをやっとそのころから気づき始めたのだった。

2013年1月15日 (火曜日)

ひっそり

ひっそり (14日)

シロノワール

2013年1月14日 (月曜日)

サンマ食う睨みつけたい奴がいる

13日 (日)
いよいよ美味しくなってきて、
一日二匹。
昼と夜に食べた。

▼サンマ食う睨みつけたい奴がいる

そう書いてみたのだが、
ほんまに睨みつけたい人などはいない。

買ってきた日は、血が滴っていたのだが、少し止まったか。

少し乾くまえのモノが美味しい。
店では買えないな。

サンマの丸干し

2013年1月13日 (日曜日)

失恋は庭の焚火でそっと燃す ─ 1月上旬号

年末には雪が降る日もあるのに
この冬は、ジーンと寒いものの
天気も崩れることなく、
お正月も終わって行った。

1月6日

▼あら珍しい、グラスがカランと音立てた

初霜に白きねぶかや薄化粧
と昔に書いたのを見て
▼初霜や白きねぶかの薄化粧
のほうがいいかもしれないとふと思った。

あれは小雪の朝のことだった。
2年とひと月余り前の私が、たった十七音を読み返すだけで、
面白いようにあのときが蘇ってくるのが分かる。

▼えんがわで日向ぼっこをしてる猫

しあわせ分けてくだしゃんせ

+

1月8日

▼朝がゆのあとのコーヒーがまた大好きで

七草がゆ、食べませんでしたが
ナイショで注ぎ足したお酒が、余分だったのは誰にも言えない。

お粥が美味しい。
七草がゆにするともっとお美味しい。

ブリの刺身

+

1月9日

▼iPadミニ。ポチッとしましてん。二週間

+

1月11日

月は欠けていってゼロになる。
ゼロは、始まり、だから、新月

▼金曜日、ぬくい、早起き
▼ぬくい朝。毎日こんなんならいいのになあ

口癖のようにいうけれど
冬が好きなのではなく
寒くない冬が、夏よりも過ごしやすいと思うのです。

食べ物も旨い。

▼太り気味貴方の愛を受け止めて
▼新月が地球の裏で愚痴を言う 

▼せつないと言えばあの人にゃあとなく
▼明日から貴方のことを猫と呼ぼ 

▼失恋は庭の焚火でそっと燃す
▼冬鳥や凍えて落ちよ焼いてやる

▼坂道がみんな小走り金曜日

そうか。
こんなことを思っていたのは、金曜日だからなのだ。

金曜日なんて嬉しくもないのに
もうすぐ月曜日が来るのが嬉しいのかな。

+

1月12日

12日から14日までは成人の日があって連休になっている。
二十歳の頃の東京の暮らしを思い出す。

あれはあれで精一杯生きていたのだ。

もしも今のように、
狡くて卑怯で、要領よくて上手にしゃべって
斜めにモノを眺めることができて、冷めていたら

今の私はなかっただろう。

▼あしたからいい子になろう。飲んだくれ
▼一撃であの人倒す言葉が欲しい

▼とおり雨みぞれに変わりて失恋

いつものことながら
通り雨にあった訳でもないし
それがみぞれに変わった訳でもない。

冬の空を見上げていると
淡々とエネルギーをためておこうと思う。

久しぶりに冷たい雨が降る予報となっている。

成人になるみなさん。
寒くて冷たい雨が降っていたことを一生覚えていなさい。
それが役立つときがきっとあると思う。

2013年1月12日 (土曜日)

お酒のこと

お酒は、おそらくそれほど好きではなかったと思う。

したがって、飲み意地のようなものは一切なかったし、変わったお酒を飲みたがる訳でもなかった。飲めない日が続いても、無性に欲しがることもなかった。つまりそれほどお酒は好きではなかった。

だが、夏の暑い日に旨そうにノドを鳴らしてビールを飲んでいた姿を思い出す。旨いからといってとことん飲み尽くすということもしない。雰囲気もあるのだろうが、暑いからグビグビと飲む。満足したらそこでおしまい。

珍しいものがあったらケーキでも饅頭でも興味を示すのと同じように、お酒も珍しいものを見ると嘗める程度に飲んでみることはした。

少し飲めば、仄かに酔うたのだろう。それで満足な人だったのだ。

モノの程度を弁えているようにも思えるが、そんな奥深いことを理屈で持っている訳ではなく、感覚でその程度でオシマイにしておくことを美徳としていた。

誰に教えられた訳でもなかったのだろう。しかし、根っから大人しい人だったので、そういう人柄となったのではないか。

お酒の席で、ほっかむりをしてドジョウすくいをするのが上手だったという。母がその特技のことを気に入っているようで、長い付き合いのある寄り合いなどで、その芸を見せていたときの思い出話をしてくれたことがあった。話す母の表情も素晴らしく嬉しそうなのが印象深い。

私は一度も見たことがなかったが、私の前では頼んでもしてくれなかっただろうな。

前にも書いたが、 人に憎まれるとか嫌われるとか、好き嫌いの対象にされるということもなかった。もちろん、他人の悪口を言うとか避難をすることもしなかった。

考えを持っていなかったという訳でもなかろうが、自分の出る幕ではないと考えて控えている人だった。

お酒のことについてこの人との思い出を書こうとしても何も出てこない。夕飯のときに改めてジョッキで乾杯をしたこともない。熱燗徳利を注いであげたこともない。

お酒の思い出ではないのだが、京都から引っ越しの荷物をトラックに積んで帰ってくるとき、夕飯を食べるために国道沿いのレストランに入りステーキを注文した。京都のお父さんも一緒だったこともあって、うちの父がステーキなど食えるかどうかを心配した。例えばマナーであるとかフォークの使い回しは大丈夫かと心配したのだ。

ところが、出てきたステーキを、私も顔負けなくらい上品でしかも慣れた手つきでさらっと食べてしまった。どこでテーブルマナーを習ったのだろうか。

本人に尋ねる機会もなくそのままになっていたが、後になって母が言うには、あの人はいろんなところに顔も出して、初めてのときに分からなければ恥ずかしいとかいう感覚なしに聞くからな、と話してくれた。

「聞くいっときの恥、聞かぬは一生の恥」

口癖のようにその言葉をよく言った。聞いても良いが、何遍も聞くな。一回聞いたら自分のものに吸収して、「一を聞いたら十を知れ」とも言った。何事にもそういうスマートな生き方を旨としていたのではないかと、今更ながら思う。

2013年1月10日 (木曜日)

サンマの丸干し

サンマの丸干し

10日に仕事で出かけたので、帰り道に買ってきました。(昔にも行ってます)

サンマの丸干し


冬になるとサンマの丸干しが食べたくなる。

熊野方面に仕事で出かける用があったので、通り道でサンマの丸干しを買って帰った。

ええ奴、ちょうだい、と言って二つ(一束4匹)買ってきた。

まだ半乾きの状態で、片方の束からは包んでくれた新聞紙に血が染み込んでいる。

オモテに干したらカラスや猫に狙われそうやな、といいながら家の寒そうなところを探して吊り下げてある。

2013年1月 8日 (火曜日)

初日の出遠くの人にも届けたい ─ 新年号 今年もよろしく 

1月1日

謹賀新年。
いつもと同じように五時半に目が覚めて、まどろんでいる。

家族全員が休みの正月は近年ではなかっただけに、みんなが朝寝を楽しんでいる。

私だけが布団の中でごそごそと、カーテンの隙間から東の空を見ている。

元日の朝から、ウンコがいっぱい出る夢を見た。
今晩の初夢に希望を繋ぎたい。

元旦五句

▼大晦日庭の干し柿ひとつ食う
▼初日の出寝床から窓越しに見よ

▼もっこりと、ムックリと、もりもりと
▼私より朝寝しておる初日の出

▼初日の出遠くの人にも届けたい

お祈りをしたいことは、健康のことばかりで
私だけではなく、みんなが健康で暮らせることを願うだけだ。

1月2日

▼古池や朝日を纏い鷺群れる
▼年明けて一日パジャマで過ごしたり
▼初夢や片目を開けてメモに取り

白みその雑煮と、吸い物ふうの雑煮を朝夕で食べる。
お餅が旨いので、食べ過ぎていることは分かるのだが。

1月3日

▼パジャマをきたまま、体重が増えるまま

▼もう寝ましょ明かりを消して手をにぎる
▼ひっそりと肩を抱かれてひっそりと

ネットを流れてゆく文字を追うと、流星群が見えることがわかる。
そんなに寒いところにまで出て行ってみるエネルギーはなくなった。

お願いしたいこともない。
幸せなのだろうか。

▼流れ星叶わぬ人の雪化粧
▼凍てる月ふるえるように肩を抱く
▼寒いやろ僕のはんてん着ておいき
▼流星群を見に行く皆さん。温かくして行ってね。願い事かないますように

1月4日 仕事始め

おはようさん。
高校生がおらんだけで、いつも通りの始まり。

寒いです。
けれども、田んぼの水たまりも畦の草も、凍っていません。

仕事始めの日
▼麦がうっすら青くなっている

1月7日朝の車窓から

1月5日 小寒

▼小寒や五ミリに切って襟を立て

風は吹くと耳が冷たい。
耳温かパッドみたいなグッズを見かけますね。

マフラーは汗をかくので、あれがいいです。

2013年1月 7日 (月曜日)

麦畑

1月7日朝の車窓から

少しは、ふつうの人っぽい、まじめな日記を書くような人になろうと思う。

朝、珍しく時間ぎりぎりで駆けてみたらいつもの各駅停車に乗れてしまって嬉しかったこととか、窓から麦畑の青い芽が出ていることを見つけて写真をパチりと撮ってしまったことなどを書こう。

麦畑は、まだ、少し雑草の生え初めみたいで、麦なのかどうか分からんから、もしかしたら間違いかもしれないけど。みょうにわくわくしている。

これから夏になるまで、何度かこの場所で写真を撮ることになると思う。 だから、私はこの汽車が好きなのだなと思う。

2013年1月 6日 (日曜日)

もっと遠くへ 花も嵐もⅡ その32

社会人になって初めて買ったオートバイは、赤色のCBXというバイクでした。

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このバイクでは、二人で遠くまで出かけた思い出があるが、GSXでは一度も後ろに乗せたことはなかった。

大沢温泉にて

GSXのデビューは「その31」で書いた北海道ツーリングで、それ以降も私のツーリングはいつも1人であった。

90年の夏を過ぎて、今の地に引っ越してきて、ネットで知り合ったバイクの仲間が少し増えた。

できる限り人には会わないで、nifty のオートバイフォーラム(FBIKE)のツーリング部屋を切り盛りしながら、私は1人で出かけることが多かった。ネットでの知り合いにも実際に会うようなことはしなかった。

それでも、GSXというバイクが珍しかったこともあって旅先で声をかけられることがあり、ひっそりと有名人なのかもしれない、などと思って愉しんだ。

中日ネットの皆さんとは、せせらぎ街道や中山道を御一緒することが多かった。

私の旅は、信州の乗鞍高原へ出かけて信州に目覚めて始まり、奥飛騨、木曽路、美濃路で育まれた。

その間に、四国を拓き、東北へも出かけて、この二つの地域が私の大好きなツーリングエリアとなってゆく。

2013年1月 5日 (土曜日)

年の初めに考える ─ 小寒篇

初霜に白きねぶかや薄化粧、と昔に書いたのを見て「初霜や白きねぶかの薄化粧」のほうがいいかもしれないと、今ふと思った。あれは小雪の朝のことだった。2年とひと月余り前の私が、たった十七音で綴られた言葉から、面白いように蘇ってくるのが分かる。

*
*

ニンゲンは言葉というものを話すことから、それを書きとどめておくという能力を身につけたことで、あらゆる情報を歴史に刻むことへの一歩を踏み出した。文字の発明。石器時代よりもさらに遡った時代のことだった。遥かなるご先祖様たちは、一年という周期で季節が巡り、太陽が私たちから一番遠ざかるときに冬という季節が訪れ、しかし必ずまた暖かい季節がくるということを、どのように捉えていたのだろうか。

言葉というものが文字よりも先行して存在したのだが、その言葉とは果たしてどの程度完成されたものだったのだろうか。季節という概念はどのような印象であったのか。痛い、こそばい、痒いという感覚はあったにしても、もしかして、嬉しいとか悲しいという感情はあったのだろうか、とさえ思うことがある。

言葉を書きとめておくのは、昔を蘇らせるためだけではない。現在進行形で次々と目の前で起こっていることに対する感情を捨て去らないためにも、残しておく手段のひとつとして、できる限り短く、そして激しく、美しい形で、脳裏に閃く情念を残そうと考えた表現、それが十七音である。

去年の暮れにふとしたことで「俳句って現在形なのだ」といった砂女さんの言葉に出会い、そが頭の片隅にある。生きていることや行動を起こすことの考察過程では、過去を疎かにせずじっくりと見つめることや未来を大きく描くことを大切にするのだが、行きつくところは現在だと常日頃から考えている。つまり、過去に栄光があったとしても、未来に夢を大きく描けたとしても、しっかりとステップを踏むときには今を見ている必要があるのではないかと考えているので、俳句が現在形であるという表現が妙に嬉しい。

*
*

最近は、お遊び十七音は低迷状態で、気に入った作品が続くときもあるが、叶わないときのほうが多い。善し悪しはさほど重視していないので、それなりの作品が続いたところで大きな落胆ではないものの、そんな作品しか残らない日常を送ることを旨とはしない自分がいるのも確かで、もっと現在形に元気を取り戻したい。

平成25年の元旦は快晴で、初日の出も拝める朝となった。寒さも例外なく厳しく、県境の山並みは薄化粧の山肌となったという。

寒の入りを迎えた5日には、初詣に出かけた。滝原宮の参道を歩く人影は疎らで、正月の賑わいと比べると夢の跡のようであったのだろう。神様をちょっと独占できたような気持ちになった。

今年は年賀に書き添えられた一筆に苦笑することが多く、、健康を労わるものや身体に傷みや軋みがあるのを嘆くような言葉が目立った。そういう歳になってきたことは紛れもない事実であるだけに、現在形を大事にしてアクションを起こしたい。

かみそのを足音ひとつ二つゆく

2013年1月 2日 (水曜日)

うけつぐもの

■■ はじめに

新しい年が始まりました。
いかがなお正月をお過ごしになったでしょうか。

冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。

元旦の朝に若水を汲みに行く井戸やもち米を蒸す竃が残っているご家庭は、ほとんど姿を消してしまったのではないでしょうか。お正月が来るたびに、雑煮の餅が味気なくなっていくのを感じます。

子どものころはまんまるに丸めた手のひらサイズのお餅を具だくさんの味噌味で食べたものですが、杵や臼が家からなくなってしまったことで、つきたてのお餅を丸めることもなくなり、お雑煮用に丸いお餅を少し作るほかは、四角に切った餅のほうがポピュラーになってきました。

伊勢平野は、お米に恵まれたこともあって、かき餅やあられの文化が浸透していて、これを炭の火鉢で焼いてお茶漬けにして食べるという味わい方もあります。

直に火を使わず電気による暖房や煮炊きが当たり前になっていく時代へとゆっくり変化する環境ですが、忘れられていく味というものもあるのだな、と思いながらお正月のお餅を食べました。

今年は、我が家の定番・西京味噌(白味噌)のお雑煮のほかに、よその地方の真似をして吸い物ふうの汁に焼餅を入れて食べてみました。異郷へ旅をしている様な気分を少しだけ味わいました。

このメルマガがお手もとに届くころは、寒さもいよいよ厳しくなっていることでしょう。二十四節気の暦をもう二三枚めくれば季節が変わります。もうひと頑張りですね。

■■ あとがき

Facebook や Twitter の情報拡散機能を利用して、様々な行政部門からイベント情報や事業PR、活動報告などが発信されていく時代になってきました。メールマガジンはすっかり時代の置物のようになってしまいそうです。

それは、印刷された書籍や昔ながらの分厚い辞書が、電子ツールによって入れ替わってしまうのではないかと心配したときの不安にも似ています。

しかし、書籍は消えてしまう運命ではありませんでした。インクの匂いのする紙を一枚一枚捲って、活字を確かめることの喜びや味わいの深さを愉しむ人がいる限り、便利で合理的な電子の波にも待ったが掛かっているみたいです。

確かに、メールマガジンは素早い動きには追いついて行けません。これを書き始めてから配信をするまでに一週間以上を要してしまうこともありますから。

では、スローな時代に、スローな暮らしをしている人が読む「マガジン」とはどうあればいいのでしょうか。思索するときが増えつつあります。

読者のみなさまからもご意見やご提案をお待ちします。

2013年1月 1日 (火曜日)

読後感想:配属先は「追い出し部屋」〈限界にっぽん〉

(作成・加筆中で、公開中)

配属先は「追い出し部屋」〈限界にっぽん〉
朝日新聞 経済部 
平成24年12月31日
の記事に関連して。

自分の遺言としてもブログに感想を載せておこうと思います。


平成15年、平成の「大リストラの嵐」のときに「パー」な会社を(その当時は、「まー」な会社だったが)を体裁のいい言葉「自主退職」ということで辞めました。

残念ながらその首切りのエゲツナイ(関西弁?)面接の記録を私はよう残していない。既に私の記憶からも風化しようとしているが、朝日新聞の記事(平成24年12月31日第1面)を読んで、少し蘇った。

今更蘇らせたくない気持ちと、社会責任として事実を文章にして残しておかねばならないのではないか、と思った気持ちが熱くなってくるのが分かる。あの気持ちがたとえ一時であっても残さねばならなかったのではないか。

あのときのリストラは、ま社・本社社員だけで3万人とも言われます。私の住んでいるところの事業場では、2千人ほどの社員がいたのでしょうか、そのうち300人近くが退職をしている。しかし、数字や率に目を向けると誤りが生じる恐れが高い。

正規の女性などの間では、残業も少なくなってきたし、会社はあれこれ口うるさく言うようになってきたので辞めようかしら、とか、娘もお嫁に行ったしそろそろ辞めようかしら、という人もいました。もうすぐ40歳やしのんびりしたいわ、と考えている人もいただろう。

工場従業員として正社員で雇用されて約20年ほど勤務して来たが、今、辞めたら退職金を5倍もくれるそうやって……、ということで、それやったら辞めようかな、となった人もいただろう。800万が正式な退職金なら、4000万円の退職金が貰えるのだから、嫌そうな顔して少しごねてみてからすんなり辞めれば大成功だ。

実際に3千数百万円の退職金をもらったと話してくれた女性もいましたから。もちろん、私も例外なく5倍の退職金をもらいました。

そこまでしてでも、全社で3万人に辞めて欲しかった。本当は10万人の社員のうち6万人ほどを整理したかったのではないかと、私は想像します。

辞めて欲しくても意地でも辞めなかった人もいたでしょう。せっかく入った大企業の社員の道、失いたくないですから、仕事がないと上司や所属の雰囲気で宣言されて、さらに拷問のような転属・転勤に遭っても辞めなかった人もあると思います。

私のように、少し抵抗したけど企業と戦っても勝ち目がないと見てあっさり諦めざるを得なかった人も多いと思う。こんなアホな会社に見切りをつけよう、と早い段階で決意をした人もある。

また、会社が、居残る決意を表すようだったら残してもいいと思いながら(退職勧告の)声を掛けたら辞めた奴もいます。3万人の中には様々な色合いの人がいたということを見逃すとこの会社の後の「茶番劇的経営」を冷静に見つめられない。

記事を読んで、あれは明らかにかなり「質の悪いリストラ」だったと私は感じ取っていたことを、今更ながら思い出しました。

幸之助の死去以来、矜持のような精神を、恥も外聞もなく捨て去っていった大企業です。生きるためには必死だったのです。見栄に満ちた肥満化した製造業です。あの会社は、大きくて強くてかっこ良くて、たくさん給料払って、威張っている必要があった会社だったのです。

「日本一の経理システム」と自他ともにその素晴らしさを誇った経理。これを守り切らねばならないとでも考えたのでしょうか。「企業は儲けて何ぼ」そういう会社に成り下がっていた会社が迎えたのは、3万人のリストラでした。

そのあとにも同じようなことを10年間で繰り返してきたのでしょうが、私は最近の動向を注目すらしてなかったので分かりません。しかしながら、それでも復活を夢見て、自己増殖を試みたのだろうか。

一方で人材を切り捨てて、その間にブランド力や名誉も失いつつ必死で巻き返そうとしているようですが、プライドと過去の繁栄が迷信のように残っているだけです。

昔、造船や鉄鋼がどん底に落ちて解体されて、同じように繊維業界も日本中を支配するかのような勢いだったのですが、とことん廃れてしまって、伝説も残っていないほどです。家電業から総合電機産業と呼び名を替えても、既にもう時代は次のステージです。

私はそう判断して平成15年の自主退職勧告(実質上のクビの脅し)を受けました。生涯で貰う給料総額は、死にモノ狂いで縋り付いたほうが多かったのかもしれません。仕事がなく、過去の栄光のような仕事や業種、立場に返り咲くこともできずに、家族から誹謗され続けて50歳を回ってしまいます。

幸か不幸か、ひとつの兆候として、急激に抜け続けていた頭髪が、抜けることを止めて残り始めたことが笑い話のネタにできます。

しかし、外ズラだけ保って本質を隠しながらの、恥だらけのリストラが今でも続いているのだという事実を知ると、あのときあの会社がおこなった、犯罪にほとんどすれすれだったリストラのことを、歴史の年表に刻んでもらうべく、公表して記事にしてください、と言わなかった私を後悔します。

もちろん、その後、マスコミというところの別の視点から見る姿も見てきましたから、マスコミに公開することが得策だったとも言えないし、マスコミも興味を示さなかったと思います。

社会の悪を咎めたい。そういう気持ちはありますから、これからチャンスがあったら狙うことにします。生きてるうちに実現できたらいいのですが。

◆◇
◇◆

赤字にあえぐパナソニックグループに、従業員たちが「追い出し部屋」と呼ぶ部署がある。

なるほど、10年経っても体質は変わらないのだなと思うと自然に頬が緩むような気抜けを感じた。私がいたとき、既にその10年ほど前の嫌がらせのような話を先輩や異動してきた同輩から聞かされて知っていたこの会社の体質を思い出したからです。

詰まるところ20年近くが経っても会社というものは体質を変えようとしないのだなと思うと、私がこの会社の長所短所をじっくりと考察したときのあらゆる推論の誤りは極めて少なかったと確信できます。

人事の生む組織は、見かけ上変化するのだが、ピラミッド型に築き上げた人の繋がりは一部の人の都合と欲望などに大きく左右されて、神髄には変化は起こらない。真の心で社会に貢献して世の中に役立とう、というような社訓は所詮大義名分に過ぎず、人など大事にしようと考えもしない体質である以上、理想にあげたような姿にはある時点から全く近づいてはゆけないのだということも分かってきます。

10年前には「追い出し部屋」などという洒落た名前は無かった。ただの会議室か従業員食堂のテーブルで十分だった。有能で立派な信念を持っていても、一部の人物の都合に見合わない人は、このテーブルを仕事の作業机として与えられた。

少なくとも私の身近な人から伝え聞いて知っている人は大阪大学を卒業して誰もが越えられないハードルを越えてくる才能を持って「ま社」に入ってきたのだが、どこでどのように気に入られなかったのか、テーブルである作業をすることになる。

 

「キミは机に座ってこの白い用紙に丁寧に与えられたボールペンで30センチの直線を引いてください(1日中それをすることを業務の命令とします)」という指示で毎日を送ったのでした。これは業務命令でした。破れば業務に背くのでクビにできます。それが会社の論理でした。

このような指示は珍しいことではなかったらしい。軍隊で、穴を掘らせて再び埋めさせて、さらに掘らせて……を繰り返すという伝説的で物語的な事実話に非常に似たことをやっている会社なのでした。

少なくとも数年間この会社に勤めたことのある人なら、「なるほど、そうですか、やっぱりね、おかしくないね」と感じると思います。そういう会社だったのです。そういう体質を芯の随のところに染み付くように持っている会社です。

初めて会社に来たとき、廊下を並んで制服を着て歩く社員の足並みが、歩調を揃えて行くように見えたのは錯覚ではなく意図したものだろうか、それとも上司の指示なのだろうか、と家に帰ってから考え続けた。私が学生時代のこと、防大の校舎の中を歩く学生が歩調を揃えて歩いていたのは、学校の躾だった。しかし、この会社の人たちはどうだったのだろうか。

テレビなどに登場して商品のことを語ったり、研究所や技術センターを撮影するカメラに社員の様子が写されたりするとき、日本の「ま社」の優れた商品と幸之助が生み育んだ素晴らしい職務に服する精神が、まさにテレビに(または新聞や雑誌に)紹介されているのを見て、製品とその精神を当然の成り行きの賜物と思った人も多かろう。

しかし、その背後には、弱きに強く振る舞い、外部の目に敏感に、監視をする人がいなければ狡き、世を渡るチャンスを伺うのがこの会社で生きる手段、そんな精神が流れていた。

つまり、日常に先生が生徒を叱ってばかりいるクラスで、ひときわ優秀な人物を保ちながら、裏の姿として先生が休みで自習になったらいち早くサボっているような奴、そして先生が現れたらくるりと翻って優等生にいつでも変われる奴のような人物を育成する会社。そんな雰囲気を社風にしたような感じだった、この会社は。

クラスで気に入らない奴がいたら、どうでもいいようなクラス役員を押し付けたり、何の意味も無い作業を押し付けている姿を想像してしまった。

のし上がって行く奴はそのような手段で学級委員になり、ガキ大将もこなして、引き連れる自分の子分待遇には自社の誇りを催眠術のように刷り込んでゆく。それに応じた給料や福利厚生で会社とともに、一緒に歩んで行くひとつの側面からは決して不満が出ないように封印を施し、社員を「材」の用に使った。

私が仕えた部長があるとき「うちの会社は『人材』では無く『人財』と呼ぶのだよ」と言っていたのが強烈に印象に残っているのだが、あの「財」は宝物の「財」ではなく、使い捨てて自由に使える「財産」という意味の「財」だったのではないかと、あとになって何度も苦笑したものだ。

そう思うにふさわしい会社であった。

鞣革で首を絞めるような言葉で仕事の継続意欲を奪い、自分から辞める言葉を吐かせようとする手口。こちらに労務や精神科学の知識があればもう少し闘えたのかもしれないが、最高の人材を揃えて法律に沿った話をされては、私たちの言い分は子どもの駄駄をこねてぐずっているようにしか聞こえないだろう。だから勝てる訳が無い。すべてこの会社の筋書きで進むのだろう。

あのときにはとても悔しい思いをして、もう忘れよう、あんな会社のことは……と思った。本当に病気になれる人が羨ましいとさえ思った。

上手に卒ない論理で攻められてその背後から

「もし辞めて、1ヶ月後に県内の港で一家そろって遺体があがったときに、私が辞めさせたと思われたらあかんから……(辞めろとは言わんよ)」

というかけ声が聞こえてきたときは、煮えくり返るほど頭に来ました。関係者の家をすべて灰にして自分もそのあと死のうかとさえ思った。

しかし、それをしても、間違いなく周到に準備が行き届いていて、「ぜひとも我が社に残って頑張って欲しいと声を掛けて励ましていたのに……」と(ヤクザの)ドラマのようなことを言われて、握り潰されるだけだろうと思うと、そんなことは本当に賢い人間のすることではなかったし、現実的ではなかった。

私は、公に事実を伝えるチャンスを待つしか無い、と思い直したのだった。今でもそんなチャンスがあるとは思っていないが、一部の人が大きく事実を違えて理解しているならば、それを伝えることは使命であると考えている。

それは世の中を良くするための手助けであり、これから会社を追われる人へのエールでもあるだろう。さらに、この会社の製品を購入する人への参考情報でもあるし、今後この業界で職を探す人への提言にもなると確信する。

平成24年12月31日の朝日新聞朝刊の記事を読んで、こんな風に書き出すことになったことの次第には、そのような動機があります。

◆◇
◇◆

大阪府門真市のパナソニック本社から遠く離れた横浜市の子会社。工場などがたつ敷地内のビル「S10棟」5階にあるその部屋は、看板もなく、がらんとした室内に100台ほどの古い机とパソコンが並ぶ。そこに、事務職の女性が配属されて3カ月がたつ。

手に取るようにその様子がわかる。浮かんでくる。なされている会話も推測できる。

どうでもいいような建物。家賃も掛からないようなところだろう。

ボロボロのプレハブを与えればいいと考えている。

言い訳がたつように、通信回線や機器は揃えるけど、ボロばかり。
空調が壊れていたりするだろうから、確かめに行ってみるといい。

おもな仕事は、ほかの部署への「応援」だ。「要請があれば駆けつけて、製品を梱包(こんぽう)する単純作業などをこなす」。応援要請がないと、することはほとんどなく、終業時間が来るのを待つしかない。

 つまり、不用な人を体裁よく活用し、少しでも早い時期に自主退職に追い込むための部屋を、今風に考え出したのだろう。

マスコミ対策も労務関連も完璧だ。訴訟になったことも想定して必要書類は完璧にしている。

10年前は、退職後の会社を斡旋していましたが、今はそのように体裁よく斡旋ができる会社すら見当たらない。

退職金を5倍も出すほどの余力も無い。

だが私が昔上司に「新入社員を雇えば、3人雇って君と同じ費用で済むのだ」と言われたように、この人たちも言われたのだろうか。

はっきりとは言わないものの、この会社らしく以心伝心で伝えたのだろうか。

言ったら終わり。(一家心中のような)事件になったら会社の責任だが、言わずに伝わればその人自身の問題であるからという基本的なこの会社の考え方で事を進めて行く。

人権教育なども行き届いているから、上から見下ろす側に劣勢はない。

様々な部署からここに、正社員113人が集められた。この女性のように、働き盛りの30~40代までもが対象だ。配属されて最初に受けた「研修」では、自己紹介のやり方を見て、みんなが「だめだし」をするグループ討論をさせられた。

いかにも、君たちはここで元に戻って、昔のように活躍できるチャンスを得てください、という虚心に満ちたモーションをやっている。

初めての「応援」は、携帯電話の箱詰め作業。入社以来初めて、「Panasonic」のロゴが袖に入った作業着を身につけた。他工場から持ってきたベルトコンベヤーの横に並び、30秒に1個、流れてくる携帯電話を段ボール箱に詰める。

これまでは主に非正規の社員がやっていた仕事だった。「私の人生、変わってしまった」。その後も、他部署の仕事を手伝う日々だ。

の部屋の正式名称は「事業・人材強化センター(BHC)」。

素晴らしいとしか言いようが無い。
この会社はあらゆることにおいて体裁を整えてから物事を招き入れる。
如何にもこの会社らしい命名方法だと思う。

その手法は悪いことばかりでもなく、困難なプロジェクトであればその命名から勇気と投資がモリモリと湧き出てくる。

そのことを知っているからこそ、逆に鞣革で首を絞めるような使い方もできるし、それを戦略にもできる。

そういうところも、20世紀後半を先頭を切って走ってこれたパワーのひとつだろう。
お金の掛からない部屋で、よその部署がお金をかけることのできないような仕事を引き受ける。

何かのリカバリーの仕事を専門に引き受ける。
帳簿の上でお金が動かない部署を作れば、金を掛けられない屑の人材を雇用できることになる。
特別に設けた費目で処理されてゆく。
産業廃棄物を処分するような費目とすれば、会社の感じる痛みを軽減できる。

 

その少し前に上司に呼ばれ、「今の部署に君の仕事はない」と告げられた。
会社が募集する希望退職に応じるか、「BHC」への異動を受け入れるか。

異動するということ自体が「クビの一歩手間です」という宣言である。
本人もそのことを十分に知っている。

一度嫌われたら好きになってもらえないのは、色恋の話や現代社会においても同様だ。

「嫌い」、「好き」という感情は、痛いという感覚と同じように命令形が成り立たない。

嫌いなものを「好き」になることに、命令形はない。

したがって、異動してくださいと宣言されることに、返事は不要なのだ。在ったとしても意味を成さない。

「キミの仕事が無いということは、キミは有能無能に関わらず、お金も掛かるし、(例えば高度な知識があっても使いにくい人材なので)どこの部署も欲しがらないのです」と言っているのだ。

バカで安くて反抗しなくて、直ぐ辞めて欲しいときに辞めるような人材のほうがありがたい。手ごわくて厄介な奴は処分できるときに、(正当な)手段がある方法で処分しておこうと考える。

そういう統一した意識がこの会社の管理職には流れている。

しかし、そのような扱いや判別方法は、言葉としてバイブルになっているわけではない。

上を見ながら自分が出世の梯子を登るときに覚える術だ。

術を身に着ける人と身に着けられない人、さらにそういう術で生きていきたくない人があって、この3つめの道を選んで会社に残ろうとすることはできない。

邪魔者にされていつか処分をされる。

数日迷った末に、子供のことを考えて「残ることにしました」と告げた。すると上司は「BHCに行っても、1年後どうなるかわからない。このことは理解しましたね」と念を押した。

私が上司と10年前に交わした言葉と、中身こそ違うものの、私があのときに感じた「あんたら一家心中してくれたら片付くのに」というような気持ちが潜んでいるのが見えてくる。

生き残る人を集めて集合体を作って会社を存続させても、最後には組織は空中分解をすることが見えている。

それでも、ピラミッドの頂点には、人を蹴落として二つの顔を自由に扱える人材を揃えようとしていた。この業界に生き残りたかったのだろうと思う。

もちろん、こんな無残で卑劣な会社になり果てるとも想像もしなかったのだろうが、催眠術のように会社を愛する七精神(世間でいう社訓)を植え付け、社歌を歌い、プライドを持たせ続けたのだから、狂気のツラで突っ走ってもどこまでも自分たちは正しいのだった。

私はそういう自分の会社を見ているのが嫌だったし、一員になるのも嫌だった。

加担もしたくないし、被害も蒙りたくない。

こういう会社は完全に分解することを願っても叶うわけもないので、限りなく分裂して社会に影響を及ぼさなくなるのが望ましいのだ、と思ったし願っている。いつかこの国をもネジ曲げてしまう力も潜めているだけに。

 

■会社「退職強要ではない」

朝日新聞が入手した内部資料によると、BHCが今あるのはパナソニックの子会社2社。
在籍者リストには計449人の名前が、肩書などとともに記されている。
両社の全従業員の1割弱にあたる人数だ。

このような部署がこの会社には幾つも影を潜めて存在するのだろう。

きっと誰も知らない、新聞も書かない。社会の一般の人もそんなことを知りたがらない。

利益も害も及ぼさない、消費する経費も最低限の部署(またはそのような機能、仕組み)が各事業場に1つずつ間違いなくできているだろう。

部署として存在しなくても、そのような扱いを受けている人がいるはずだ。

調べれば1割どころではないはずだ。3割ぐらいいるかもしれない。

出向を命じられている人などの中には、たくさん紛れているに違いない。

心の病に落としいれ、無理やり休ませれば、社内がある意味で浄化できるとも考えて、実践しているかもしれない。

長い時間にわたり出向を命じ、心も体も部外へと押し出して、ステージから消してしまうという手段は、どこの会社でも多分おこなうことだろうと思う。

この会社は社訓の七精神にあるように「一致団結して」統一した精神を持っている人が多いし、そういうことを実施する側の人こそが生き残っている。

BHCについて、会社側は社員向けに「新たな技能を身につけてもらい、新しい担当に再配置するための部署」と繰り返してきた。
だが社員たちには「余剰人員を集めて辞めるように仕向ける狙い」(50代社員)と受け止められている。

会社のいい分はどこまで正しいのだろうか、信憑性があるのか。

明らかに歯の浮くような回答をまともに受けて、記事を書いた突っ込みの甘さは何だろうか。

マスコミの無知?マスコミの営利目的の記事編成?そういわれても仕方があるまい。

もしもマスコミが社会を正すひとつの力に似たものを持っているならば、この歯の浮くような会社の言葉の裏腹の部分や、労務部門の悪魔のような顔をもった体質を探って欲しかった。

受け取る資料と公式にインタビューに答える情報を纏めてひとつの論文風にまとめるのは、大学生や卒業したての若い社員は得意だろう。マスコミの記事が近年優秀でありながらも、甘さを指摘されるのは、もっと泥臭い部分に顔を突っ込む技に欠けているからだ。利益を追求するあまり、金がないという理由で周到な時間をかけて取材もできなくなったこともあるだろう。

えげつない会社の形振りをスクープしても出世もできないし儲からないこともわかるが、報道精神に甘さを感じ始めている人は多いと思う。

会社は自分たちが正当であり続けなくてはならない。だから「大事にしてやっている社員が辞めるのだから(会社にとっても)苦しい」という姿勢を守りたい。

社員の本音は、「辞めたくないけど、もう無理だろう、鞣革で首を絞められているのだから」であり、「金をくれ、あとの仕事を保障してくれ。家族を養えるように」ということなのだ。

労働基準に抵触するギリギリの環境のようなところに転籍を強いる、また強いられる恐れがあるということを言葉にして、面接で話す(脅す)。

 

(今までとは違って)毎日苦しいとか汚い、臭い環境や激しく体力が必要なところに異動しても今の時代はありがたいと思わねばならない、というようなことをサブリミナル的に植えてきた効果を確かめながら面接がなされる。

今や会社のほうも、子会社が空洞化となり人材のやり場が無いはずで、10年ほど昔のように子会社や下請け会社に人材を押し出すことさえできないのではないだろうか。

しかし、労務部門はさらりと「次の仕事は世話をする、または次の仕事を探すだけの時間は与える、それを有給時間として十分に与えるから心配するな」という。

何年か後になっている姿は、そこには卑劣な首切り実態が残るのではないかと、容易に想像できる。

それとも、40歳から50歳くらいの、今記事に取り上げられている対象の社員たちが定年になるのをじっと耐えるとでもいうのか。

必ず多大なしわ寄せがあるに違いないとみて、そこを掘らねばならない。それがモノを探すときの常套手段だろう。

これについて、パナソニック本社は「(会社を追い出すためだというのは)受け止め方の違い。会社として退職を強要するものではない」(広報グループ)と説明する。

これまでに書いてきたように、「受け止め方の違い」などと白々しくも言ううところが茶番下劇だと思う。そんなことは、話のネタ程度でしか無く、誰もが信じないことは分かっている。

併し辞めさせられる側の心理として、会社のこの堂々と(白々しく)言い続ける論理に対して自分に勝ち目は無いと悟らされるのも実態だ。

この正当な言葉の「凶器としての力」は凄まじいと考えねばならない。

一度狙われたら助からない。

先にも書いたが、有能であるとか、知識があるとかいう問題ではない。今そこで必要かどうか(って書きながら当たり前のことなのだが)に掛かっている。

人材を育成して「知を生かし、個を結ぶ」という精神を打ち立てたことのある立派な会社が手のひらを返すようにして「キミが辞めれば3人の新人が採用できる」と暗示を掛けてきた。

「いつ心中してもらってもかまわない。うちの会社のせいだったとは言わないで欲しい」
と思っていることも伝わってくる。

◆◇
◇◆

子会社2社のBHCから、別の部署やグループ内の他社に「転籍」できた人は数十人いる。ただ、9月末までに32人が退社し、転籍した人より多いという。

3社協定の枠の中で採用されているので外面的には子会社ともとれる事業部門を子会社と呼んでいるのでしょうか。

東京圏内以外にもたくさん事業場があるので、似たような部門や部屋が作られたのでしょうか。

必ず似たようなことをしているか、無理矢理に東京に転勤させているのか。そのあたりは見えてきません。

会社の規則で、どこに転勤になっても従う、という意味の項がある。どのこ会社にもあるはずだ。この規約の重みを普段から潜在的に植え付けてあれば、東京にBHCというところがあるので……とまで切り出して、その先を口籠るだけでも十分に効果が高い。

嫌と言えば「辞めますか?」と問い返せばよいのだから。

そういう茶番劇の果てに449人が異動して32人が退社しているというのだから、かなり強引に退社を迫ってることが伺える。

これらの数字に騙されてはいけない。32人の生の声を32種類取材してこそ、本当のレポートになろう。

32種類の声の裏には家族の声がある。私の家族は、お給料もたくさんくれるし、休みは多いし、会社としても社会的に有能でかっこいい、さらには人にやさしい善良な会社なのだから、海外に転勤(や単身赴任)になってでも残って欲しいと思った。(し、そう言った)

夫は「愛してもいない会社」「愛されてもいない会社」に残ることの辛さを家族に説明できているのだろうか。

32人の親友や家族に聞きたい。32人の日記を読みたいと私は思う。

だから、ここで記事にしただけでは、用意された筋書きだ、としか私には思えない。

BHCを最初に設けたのは数年前、パナソニック本体の半導体部門だった。

「以前は余った人員を他部署で受け入れることもできたが、韓国や中国企業との競争激化でその余裕はなくなった」(パナソニック本社広報)という。「余った人員」が集められているのが、BHCというわけだ。

 深刻度はかなり増していると言えよう。嘘は書いていないだろう。

国内子会社や共栄会社(とP社は呼ぶ)にも力が残っていないことを白状している。

ハローワークに1日いると40歳または50歳を超えた人が職を探しにやってくる。

何日も通い続けると知り合いができる。

そういう仲間同志の世間話や愚痴や弱音、家族に話せないような情けない話が混じる会話を記者さんは聞いたことがありますか。

2,3日居座ればおよそ聞けます。

失業者の実態を探るなら、まずそこから始めねばならない。

大企業が子会社(下請け会社)として囲っていた会社に転籍したら、その会社が倒産、または大幅業務縮小したらどうなるかは、自明だ。

人生のご褒美としてもらった退職金の多くをつぎ込んでコンビニ経営に乗り出した人も、風の噂に聞くのだが、そのコンビニが店を閉めたこともそのあとで知る。

自分で工場を始めた人もいた。古巣の会社から人材を受け入れ、取引もしてもらい従業員を7人程度で始め、数年で400人ほどまでに成長させた。そののち5億というマイナスの数字を残して会社は倒産した。

P社の筋書きだったのではないか。

首を吊って保険金を受け取るということがニュースになったころがある。

ほんとうにそいうことを考えたことのある人(で、今生きている人)に会って話を聞いたことが記者さんはあるのだろうか。

製造業の「国内回帰」を引っ張ってきたパナソニック。だが海外勢に押され、2年続けて巨額の赤字を出す見込みだ。

つい最近まで安定していた大企業ですら雇用を支えられなくなり、就職氷河期を勝ち抜いて正社員の座をつかんだ30~40代にまで人減らしが及ぶ。

 会社に見切りをつけて新天地を求めようにも、良い働き口はない。辞めるに辞められず、仕事がある部署への転籍もかなわない「社内失業」が増えていく。

事実なんだろう。従業員の給料を半分に減らすことはできないので、辞めてもらうしか無い。

就業時間を減らして、給料も減らしたいところだが、労組の絡みもあり大きな改革はできない。

会社が肥満化していることは分かっているのだけど、ダイエットできない。

会社は形振り構わずに、処分に走っているだといえよう。

世間ではお手本だった会社だが、お手本である姿をも棄ててもいいとさえ思い始めている。この記事が世に出てくることもその兆候で、押える力もなくなっている。

何か別のものに、大手企業は責任を擦りつけているようにも見える。

◆◇
◇◆

今年、急な経営悪化で人減らしを打ち出す大企業は相次いだ。創業100年で初めて大がかりな希望退職を募ったシャープ本社でも10月、大阪府内に住む40代の男性は上司にこう言われた。

「この職場にいても、ポジションはありません」

「ちょっと待って下さい。これじゃ指名解雇じゃないですか」。
頭が真っ白になった。

私は10年前に「ポジションはありません」という言葉を至る所で耳にした。

優秀であっても異動してやり繰りする気は全くない。その力も、気力もない。

嫌いな奴を、邪魔な奴を、使い捨て同等に処分するのが手っ取り早いし安い、早いのだ。

幸之助が一人一人の社員の手を握り「ご苦労さん、頑張ってや」と言って回ったのは、歴史的といえるほど昔のこととなった。

その頑張っての言葉の根底にあった社員をねぎらう精神を社訓の中に秘め、「水道哲学」として世の人に知らせた。

母の又従妹だった上之郷利明さんも「ま社」を取材し、この哲学を記事にした。

神様のようになった幸之助が地方に来るという話があると、天皇陛下が来る時のように廊下を掃除し磨き、窓を磨き、庭を掃除した。

社員には見られているかもしれないときの行動の規範を徹底させ予行演習までした。歩き方から服装、頭髪までチェックした。そんな時代もあったし、経てきた。

しかし、幸之助の死後、この哲学の一部だけが経営理念として生き残っただけで、本来の会社が備えるべき人材に手厚い考えはなくなってゆく。

死後の社長の業績や改革の内容、事業の展開を見れば見えてくるだろう。内部にいた私は見たくもないが。

もしかして……。幸之助の本心は、あのような(水道哲学のような)美徳ではなかったのかもしれない。

貧しくて、人に自慢できるような身分でもなかった自分が一番大事なのだ、と思うような人だったのではないか、とさえ思うことがある。

弱いものは踏み潰して行きなはれ。
運のない人は棄てて行きなはれ。

そういう風に心底は考えるような人だったのではないか。
幸之助ってただの欲深い商人だったのではないか。

そう思われても仕方ないような会社に変貌しつつある。

◆◇
◇◆

欧米も「雇用の創出が政府の仕事」(オバマ米大統領)と国をあげて対策に乗り出す。「雇用は労使の問題」と企業まかせにしてきた日本の限界が見えてきた。

どん底を迎えた雇用の状態。
私は仕事を退いて、1年間年金も保険も払えない暮らしが続いた。
仕事などどこにもない。

行政は若者の就業率を上げるために躍起になっているが、その若者を支える40代50代の人々の再就職先が、そのタマがないのだ。

 

緊急雇用対策などというまやかしの政策で社会は変わってはゆかない。

定年前に仕事を追われた人の再就職対策も、若者と同様に躍起にならねばならない。

二つの世代の失業状態は、同じ失業でも全く違った質のものだ。

数字には表れないから、同一視してしまうのだろうか。

若者のほうに重点が注がれている。

ハローワークに行ってみればわかる。

40代50代が仕事を探している姿ばかりだ。

若者については、企業構造の問題以外にも失業の原因がある。

就業意識の違いなども大きい。

意欲の喪失という社会構造とは別の問題も多いのではないか。

教育に起因するような側面も感じるし、そのような点を指摘する親世代も多い。

一方で、定年を控えて10年前に職を失った人の痛みは大きい。

雇用を継続するとか、ワークシェアリングを拡大した形での再雇用も必要になろう。

行政に何ができるのか。

国民全員を一斉に失業させ、一斉に一時的でも面倒を見てやるという方法を取れば、社会は大きく改革できる。

それに似たことをするくらいの大きな勇気が必要だろう。

限界にっぽん」第2部では、日本が抱える難題と向き合う大阪を主な舞台に、雇用と経済成長をめぐる政府の役割や責任を考える。

 定常化社会という言葉がある。

さて、経済成長を迷信のように信じている人々と諦めて新しいステップを踏み出すことを試みている人がいるが。

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