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2012年12月31日 (月曜日)

今年も暮れ行く 大晦日号

12月29日(土)

▼雨あがりアイラブユーと水でかく

どうやら雨降りだったようだ。
そうやったっけ?
というくらい記憶に無いけど、

そういえば結構降っていたな。

▼さて年末大きく息を吸い込んで

年の暮れということで
何をする訳でもないのは

毎年のことなのだが、
少し部屋を片付けて
年賀状などを書いたりしたのだ。


12月30日(日)

30日ということで
二人でイオンに買い物に。

買出しに来てます。
あー柴漬け食べたい!!


12月31日(月)

▼年暮れて黒豆ひとつつまみ食い

今年も母のところにおせちを
というかコンニャクとお芋を貰いに行く。

先日の第九の余韻が続き
大晦日もテレビで第九を聴く。

家族は
おバカ番組を同じ部屋で見ているので
イヤホンで聴く。

俳句って現在形

今年は砂女さんにお世話になりました。
素敵なお歌ときらりと光る教養にやられっぱなしでした。

もう少し食いついていようと思います。

ちょっとお休みするのは少し「挽歌」に疲れたから。
(そんなに挽歌ばかり書いていたかしらとも思いつつも)
そこから抜けなきゃならないときになったんじゃないかと。
まあ単に興味が俳句に移行しつつあるだけかもしれません。
俳句って現在形なのだわ。

続・1989年の夏 花も嵐もⅡ その31

記憶がないけれども、自分の心理を遡りながら推測はできる。もちろん、いまさらそんなルートを追いかけてみたところで面白味もないけれど、要所要所を地図を見ながら思い出してみる。

小平小学校の廃校跡を見た後、私は稚内方面に向かった。写真を残そうという強い意志はなく、宗谷岬で記念写真を撮るわけでもなしにぐるりと道東のほうへと回って行った。

昔、国鉄が走っていた線路跡や駅の前で栄えた商店街のあった形跡を確かめながら網走方面へと行く。駅前の家の並びは、空襲で焼け爛れた白黒写真を見るように、建物をきれいに剥ぎ取ってまっすぐの道路だけが残っているところが多かった。ところどころに身を潜める様に家が寄り添うのを見ながら、道草をすることもなく淡々と知床方面へと走った。

どのあたりで泊まったのだろうか。あのころはテントも寝袋もまだ持ち歩いていなかったので、宿を探すかYHに泊まったと思う。たぶん、知床半島を横断する峠を感慨深く回ったに違いない。結婚した直後の夏に来た折に、ツマはさいはての列島の影を遠望し何かしらの想いに浸っていた。私はひとり旅の中で、ツマのあのときの後ろ姿を思い出していたのではないか。もう来ることはないだろうとは考えもせず、またいつかみんなで来ようと誓っていたのかもしれない。

懐かしさの点在した道東を、どんなふうに走ったのか、どこに泊まったのかさえも思い出せないが、十勝岳を真正面に見る展望台に寄ったような記憶がある。あそこも二人で行った思い出深いところだった。

砂漠を走るレースのように砂塵を巻き上げて、未舗装道路をタンデムで駆け上がったところに展望台はあったのだが、89年に訪れたときは道路も舗装され、展望台の周辺は綺麗な駐車場に変化していた……。と書きながら、この記憶は大きな勘違いで、未舗装のダートと未整地の展望台を見たのは86年ではなくそれ以前の渡道のときであり、綺麗に姿を変えた十勝岳の展望台を見たのは、86年にツマと一緒のときであったのかもしれない。

1984年にツマと来たとき、何の予備知識もなく北の国からのドラマのことも意識せずに、麓郷というところに立ち寄った。その偶然がとても素晴らしい思い出になっているのだが、十勝岳の見える展望台に寄ったのもこのときだったのかもしれない。

でも今や、その話はそれほど大事ではなくなっている。あの年の私は、少しずつ様変わりする北海道に失望し始めていて、そのときに未踏であった道南の地に寄って、フェリーで東北に渡ろうか、などと考えながら函館界隈でだらだらと道草を食ったり天気の様子をうかがったりしていた。

ところが、気象台のデータベースを今になって検索してみると、あの年の8月7日に北海道にまで台風が接近しており、私は函館市内のホテルをキャンセル待ちして探して必死で泊まって、次の日にモトトレインで帰ってきてしまった。(この列車の切符は、旭川の駅で旅の始まりのころに購入しておいたような記憶もある)

それは、哀しい旅の終わりだったのだが、この列車の中で同じボックス席になった人の1人が八嶋さんで、今でも交流が続く掛け替えのない友だちとなる。

【1989年台風13号は8月7日に関東東北を横断して日本海に抜けていた】

1989年に来た台風13号

モトトレインは、青函トンネルが開通したのを期に、札幌から新大阪までを一気に夜中のうちに走ってしまうブルートレインに連結するバイク専用の貨物列車で、何名くらいが利用したのかは分からないが、寝台特急に乗って贅沢な帰還が可能なのが特徴だった。寝台列車の料金に1万円ほどバイクの輸送料金が掛かったように記憶している。

同じボックスにいた女性(佐藤さんという奈良県で看護婦さんをしている方だった)は、早朝の新大阪に着いてその足で職場に直行だと話してくれたから、ハードな旅をしている人にも重宝されたのだろう。あのころは寝台列車ではなく、飛行機で一気に移動するプラン(商品)もあった。しかし、そのようなプランも数年で姿を消し、北海道を目指す旅人は、日本海か太平洋をフェリーで渡るか、青森からフェリーに乗るという手段で渡道するしかなくなる。

先にも書いたが、1、2年のうちに小さな旗をバイクに付けて走るのがブームになり、ライダーズハウスというバイクツーリストが利用しやすいような安価な(または無料の)宿泊施設が広まり、北海道にバイクがどんどんと押し掛けるようになる。ミツバチ族というような言葉も生まれたのではないだろうか。

私の大好きだったオロフレ峠は廃道になり、86年にタンデムで走った、大雪山の東をぐるりと回った長い長いダート国道も、時代の流れのうちに舗装されてしまう。

私は1989年を最後に北海道へ渡る旅をやめてしまった。

1989夏、新大阪駅のホーム

2012年12月30日 (日曜日)

伊勢えび

伊勢えび

2980円が高いか安いかは何とも言いがたいが、年末年始の価格なんでしょうね。 暮らしにゆとりのある方はいただいてくださればいいし、私のように見るだけの人もあっていいか。

2012年12月28日 (金曜日)

ねぇ待って明日の午後の雨予報  Xmas号

12月24日(月)

▼Xmasなんですけれどカレーです

この世に慌てん坊のサンタクロースがいるならば、
朝寝坊のサンタクロースがいてもいい。
大晦日くらいにやってくる。
除夜の鐘を突いている。

いいじゃないか。
お雑煮食べようサンタさん

▼サンタさんプレゼントは君でいい
▼Xmasツリーの陰でシッコする


12月25日(火)

▼月きれい焼鳥好きさキミも好き
▼その欠片拾たらあかん恋をする

月がもうすぐ満月になる。
たぶん28日ころだと思う。
真冬の月は、大きくて丸くて、澄んでいる。

▼寒いねと書く手紙恋文以前
▼赤い頬覆うピンクの君のミトン


12月26日(水)

もういくつ寝ると御正月♪
ついついそんな鼻歌を歌ってしまう。

▼ねえ君のその物語続き聞きたい
▼月白し恋心またよみがえる

▼年の瀬の仏壇見慣れて十五回
▼この土間でおとう逝っても餅をつく

母のところにお餅を貰いに行きたいのですが
もう、お餅つき済ませたかな。


12月27日(木)

朝の列車、一両に8人。
年末嬉しい。

高田高校の子たちばっかし。
補講かな。

一期校にはあと二ヶ月、二期校にはあと二ヶ月半が残される年末だった昔、若者には大きな節目があった。

この節が消えて、人の心も次第に弱くなったのではないか。
ゆるゆるばかりではイケナイと思う。

▼ねぇ待って明日の午後の雨予報
▼雪雲が鬼のツラして海睨む

どんよりとした雪雲のような空が
西の空を覆っている。

背中に陽射しを受けて
ガラス越しに日向ぼっこをするのが
冬の一番の楽しみです。

職場は結構ひんやりしています。

▼冬籠り貴方に会いたい会えるまで


12月28日(金)

▼ああ今年も終わってゆくの、いたづらに

年賀も全然、未着手。

2012年12月27日 (木曜日)

1989年の夏 花も嵐もⅡ その30

この夏に出掛けた北海道ツーリングのレポートは何ひとつ残っていない。何故、日記が残っていないのかは不思議であるが不明である。私が日記を書かなかったということはないと思うので、何度かのPC上の資料整理のときに失くした可能性が高い。

ムスメが2歳になったばかりの夏のこと、私はいつものように夏休みに休暇を追加して取って長期の旅の計画を立てた。夏休みが始まる日か終わる日に2日の休暇を取得すると土日を含めて長期休暇になるというパターンは定着していたので、このときもおそらくそのようにして休んだのだった。

あとになった今でもツマは言います。

(娘が)まだまんヨチヨチやったし…(私らだけを)置いて1人で北海道に旅に出かけて行ったのやから…寂しかったわ」

言葉には出ていませんが、不安とか、私に対する心配とか、それはそのときに私が何も考えなかった寂しさをフルセットで二人は負って私の旅を見送ってくれたのでした。

ずっと後年になって私はそのことを理解し、何とも言い訳のしようのない申し訳なさに襲われますが、償なえないまま日々が過ぎている。

さて、そんツマの心を察することもないひどいオットの私は、フェリーの予約にも成功して北海道へと旅立ったのでした。北海道へは77年(1人)、84年、86年(タンデム)で来ていたので4度目でした。初めて来た77年と比較すると人の数も旅人のようすも少しずつ様変わりし始めていました。

76年に住んでいた東村山市の萩山寮時代に小倉君という子がいて、彼は夕張市の出身でした。お父さんが炭坑マンだと話をしてくれましたので、あのころはまだまだ北海道には炭坑がたくさんあって、産業としてもしっかりとしていたことが想像できます。

後に八嶋さんが手紙(メール)でくれた夕張市のようすの写真を拝見してもその盛衰ぶりが伺えました。北海道は少しずつ昔の文化と貧乏、未開発のレッテルを棄て始めていたのでした。

オートバイで北海道に渡るにしても、ツーリングライダーはそれなりに思い切って「北海道へ行く決意」をしなければなかなか行けませんでした。それが、次第に身近になりつつありました。それは、欧州が実際に距離が短くなった訳でもなくルートが開拓された訳でもないのに、誰も彼もが欧州旅行に行くようになったのと似ていて、ある種の壁のようなものが低くなってきたことを意味していると思います。

必然的に道内を走るバイクや旅人気質にも変化が出始めていました。交通事故も増えたのでしょうか、この年はフェリーを降りたライダーをもれなく集めて、ひとつの部屋で安全教育をして小さな記念品の旗をくれました。その旗を荷物に付けて歓んで走ったのが北海道で旗をなびかせて走る最初の姿だったのではないでしょうか。

どの辺りを走ったのかをほとんど記憶してないのですが、雄冬の未開通部分の道路が走れるようになったばかりだったので、小樽港を出てから稚内方面へとその新しい道路を走ったことが記憶にあります。

廃校になった小学校があって、「さようなら小平小学校」というように校舎の壁に大きく書いてあった文字を妙にくっきりと記憶しています。

続く

2012年12月26日 (水曜日)

為せば成る成さねばならぬ何事も

ぐずぐずしている私を見かねて、父はよく「為せば成る成さねばならぬ何事も」と言った。それは私への小言ではなく、自分に対する鼓舞であったのかもしれない。今も昔もわたしが自分の行動力のなさを悔やんだり情けないと思うときに、必ず父の口にしたこの言葉を思い出す。

父の人物像としては、横着な側面を持ちながらも、実は石橋を叩いて渡ろうとする側面もあった。

・石橋を叩いて壊す迷い人
・うじうじと悩んで暮れる思案橋
・丹念に噛み砕いて味を選る
これは私の性格を3句に纏めたもので、プラスな点ではなく、総じて優柔不断であることを表している。口先だけで実行力が伴わないため父親から見れば、なかなか成功作品が出てこないことに地団駄を踏んでいたのだろう。

しかしながら、父の指摘は厳しいものではなく、私は放任主義で育てられた。黙ってモノを完成させてゆく姿だけを見せ続けて手本としようとした。

「一を見て十を知る」「見てわからんものは聞いてもわからん」と呟き、一から十まで回りくどく説明することを嫌って、黙って見ていなさいと言った。思い付いたら直ぐ実行することが大事であり、考えてから行うことよりも、素早く何事も行うことのほうに大きな長所あるのだ、とも考えていたようだ。

そんな考え方の一部が私にも伝染していて、特に私が歳を食ってからは、そういう考え方が最も似てきた点ではないかとさえ感じる。

為せば成る成さねばならぬ何事も。その言葉の本当の意味は少し違うかもしれないが、とにかくあの人は成功作品も(失敗作品も)たくさんあったと思う。プランだけで消えてしまうようなことは非常に少なかった。

「(猫が通る)玄関の自動扉機能」は面白い発明で、昭和30年代にそんなものが、山深い田舎の家にあったということ自体が如何にも私の父らしい。

原理は小学生の夏休み工作と同じ程度の発想で、そのころ農家の人がお米を計るのに使う天秤秤の重しをガラガラと開けるガラス戸に紐で取り付けただけのもので、猫が開けても走り去っても自動で戸が閉まるというモノだった。

このガラス戸にはもうひとつオモシロイ仕掛けがあって、来客があると家の中でブザーが(今でいうと玄関のピンポンが)鳴るというビックリな機能もあった。この仕掛けも初めての来客の方を驚かせたものだ。

赤外線や超音波のセンサーなどを応用した装置がこの世に全くない時代に、自動で扉が閉まったり、人が来たら合図を出す機能を家に備えようと考えた人がいたこと、そしてそれを自分で作ってしまった人が我が家にいた。

ことしの言葉

ことしの言葉を思い出している。
併し、あかんものですね。

今年にどんなことがあったのかさえ思い出せなくなっています。
【雷山無言】 語録
を参考にしてみますが
あまり熱心に書き留めなかったことを悔やみます。

そんなおりに12月の締めとして

■山中伸弥教授の言葉から

研究や人生もマラソンと同じ。勝てなくても最後まで走り抜かなければならない

山中伸弥教授の言葉です。

世の中の多くの人が、成功というひとつの到達点にゆける前に終わってしまうのではないでしょうか。

少なくとも私は、成功よりも失敗のほうが多いし、最後まで走りきるまでに明らかに沈没であったり挫折であったりするようなことのほうが遥かに多い人生です。

人生はまだもう少し続きますが、成功など宝くじレベルではないのかとさえ思えます。

皆さんもそれでも走り続けなければならないと思っているのでしょう。だからこそ、こんな言葉が共感を呼ぶ。

--◇

印象に残る孔子の言葉:

逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(お)かず

井上靖「孔子」を読んで、沁み沁みと思いました。

この文庫本は、父がまだ生きているころに買ったもので、私の机の片隅に置いたままなかなか難しくて読み切れず、四苦八苦しながらもたまに手を伸ばしておりました。

このごろ、この本の凄さが身に沁みてわかるような気がします。

ヒトは何も、多くを語るとか大声で語る必要はない。
揺るぎない視点と姿勢が大切なんだと感じます。

井上靖は、書きます。

「河の流れも、人間の流れも同じである。時々刻々、流れている。流れ、流れている。長い流れの途中には、いろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐではないか。人間の流れも、また同じことであろう。親の代、子の代、孫の代と、次々に移り変わってゆくところも、川の流れと同じである。戦乱の時代もあれば、自然の大災害に傷めつけられる時もある。併し、人類の流れも、水の流れと同じように、いろいろな支流を併せ集め、次第に大きく成長し、やはり大海を目指して流れ行くに違いない。川の流れが大海を目指すように、人間の、人類の流れも亦、大海を理想とする、大きい社会の出現を目指すに違いありません」

--◇

遺す言葉
平成22年から少しずつ書き始めていますが、まだまだ続きます。

そうそう、夏ころに座右に

大一大万大吉

を書き足しました。
石田三成、好きです。

噛みつく

おそらくこの国の人の大勢の人が原子力発電所や原子力で電気を起こすことに疑問を抱いていて、それを停止させてでも新しいことを始める努力をしなくてはならないと考えている。私はそう感じているし、同じことを感じている人も多いと思う。

しかしながら、年末に行った選挙の結果の白黒の話をすれば、原発は推進していいのだし、幻となったひと昔もふた昔も前の経済の繁盛ぶりを夢見て、また一度豊かな暮らしを取り戻し、満足のいく毎日を送りたいと願っているという結果を示している。

昔の政治は、たとえ野暮を通せる過半数を持っていても、野暮を通す心配や不安をどこかに潜めていた。ヤクザの任侠の世界にも似ていて、考えてはいても即座に野暮ったく振る舞って品位を落としたくないし、理性と品位と見栄と義理がそこにあって、慌てずともじっくりやっつけてやろうという親分的な感覚もあった。

果たして今の政治にそんなものが残っているのか。それが不安なだけに多くの人がざわざわとするのかもしれない。

(過半数を持っていても、3分の2を持っていても)人々のことを直に見つめる温かみのある「良心」を持った政治をやって欲しいと願う。そう先日、ここで書いた。その同じころに「のんびり」の記事も引いてきて、これからの「定常化社会」を生き抜いてゆく気持ちの拠り所を投げてみた。しかし、残念なことにそのことに「噛みついた」人は誰もいなかった。

電子ツールによってネットワークに簡単に入ってゆける。そこには仮想空間が広がり、ホンモノとニセモノが混在したソーシャルな世界があり、自由に誰もが意見を述べることも、聴きいることもできる。それらを情報として活用したり、重要な知識として利用する人も出てくる。そんなことは当然で予想通りのことであったのだが、これが人々の判断基準や規範を揺るがしているのではないかという不安は拭い去れない。もしかしたら、その歪んだ「何者か」がこのたびの選挙の結果の「淀んだようなあと味」を齎したのではないか。

噛みついてくる人が少なくなった。これは、この国の人が大人しくなったからではないと考えている。端的にいえば、ネットワーク・ボケで情報ボケで、判断力を失いっていったことと、さらには、失った判断力を(何をどう勘違いしたのかどこからか拾ってきた知的そうな情報を背負ってしまって)自分の判断力は失われて行っていないと思い続けているために、この二重の失敗が社会構造をどんどんと荒らしてゆく。

簡単で、安価で、損をしないものにはすぐに飛びついたり噛みついたりするのだけど、面倒なことやどうでもいいことや金がかかることや他人のことや未来のことにはいっこうに興味を示さないし意見も言わない。考察さえしないでお任せにしている。「いかにも」な世相であるが、それを改善するには今のこの時期に飯台をひっくり返す勢いで怒りが必要だったのかもしれない。

荒れた社会を元に戻すのは(やはり本当の政治ができるのは)自民党しかないという心の底に潜んだ気持ちが、隙間から至る所で前面に吹き出した形になっている。だから、何代か前に社会を滅茶滅茶にした良心の全くなかったバカ総理や内閣ではなく、しっかりとじっくりと政治のできる人たちの「良心」に期待したい。

2012年12月24日 (月曜日)

あの人のオシャレすぎるの、気にかかる ─ クリスマスの頃を呟く

これを書き始めて偶然にも1977年の冬の今頃を思い出した。
年内の最後の講義に出て、生協でコタツを買って帰ったのだった。

丸ノ内線と西武池袋線の中を、
大きな箱を下げてゆくときの、
指に食い込む痛さだけが記憶に鮮烈だ。

こんな寒くなる時期まで我慢していたのだな。
お金がなかったのか、ケチだったのか。

あのころから少しも変わっていない自分を振り返る。


12月22日(土)

クリスマスだからといって誰かに電話をしたわけでもなかったが
あのころは10円玉を入れる公衆電話しかなかったので
普段から部屋に貯めて置いてある10円玉をポケットに一杯詰め込んで

タバコ屋の角の寒い寒い路地で電話をかけたのだった。

▼湯ざめする長電話赤電話キミの髪
▼クリスマス公衆電話で立ち止まり

▼用もなくあなたのダイアル回す夜
▼星あかりあなたの留守を確かめて

▼掘りごたつ貴方の小指を探してる


12月23日(日)

クリスマスのころに私の部屋にやってきた
コタツに入って4畳半の下宿で夜を過ごした。

東京にいた6年間で2度だけ年末年始を送った。
どちらも人生を大きく揺るがせた試験が
年度末に控えていたのである。

東京はクリスマスムード一色なのだろうな
と想像しても、私の知っている年末年始の東京は、
寒々しい風がガラス戸の隙間から吹き込む
冷え込んだ4畳半の思い出だけだ。

まあ、それでいいと思っている。

▼Xmas呟き控えて向かい合う
▼さわさわと凩吹いていい便り
▼ザワザワと凩吹けばすきま風

ちかごろは、社会も豊かになって、
さらに豊かなときの勢いの習慣の余韻もあって
ケーキ屋さんもチキンやポークを売るお店も人が溢れている。

▼キミに会う朝焼け時刻に目が覚めて
▼あの人のオシャレすぎるの、気にかかる

きのう、我が家は、お店で買ったチキンも並べたけれど
家でフライドポテトをあげてくれた。

着々と準備をする目を盗んでつまみ食いをして
さあと座ったときには、水割りも2杯目でポテトも激減……。

ウイスキーにはフライドポテトがよく合うということ、
知りまして、ごめんなさい。

今年のケーキ

2012年12月23日 (日曜日)

キミに会う朝焼け時刻に目が覚めて ─ 冬至篇

21日。

T君から便りが届いたのが12月21日のことで、メリークリスマス、とだけ書いてある彼らしいメールだった。

もはや私たちに余分な言葉など不用だと考えていたのかどうか、それは全く不明だが、友だちの間にそれほど多くを語る言葉など今は必要としないのだということなのかもしれない。

何をして食っているのか考えるのは私のほうの都合であって、彼はたぶん人生に不満も持たず弱音も吐くことなく、逞しく生きているのだと信じて間違いはない。

土日は西戸崎教会の牧師をしています、と書いていたので、その場所を調べたら、思わぬと所だったことに妙に嬉しくなってきて、一方で、一瞬羨ましく思えて、また一瞬、これはやはり言葉の助けを借りて積もるは話もせねばならぬときが必要なのかもしれない、とも考えたのだが。

しかし。

会えば奴に私は諭されるだけだろう。ちょっと癪に障るような気もしないわけではないが、実に淡々と人物の本質を見ている奴だけに、失ってしまった感性をもう一度刺激してくれるかもしれない。

冬至の夜。

カボチャにも柚子にも縁もなく、淡々と日常の暮らしを継続している。アジのお刺身を食べたことをひそひそと歓んでいる。

北国では雪が降り続いている。今年ももれなく寒い冬がクリスマスを目前に列島にやってきている。太陽は私たちの星から遠くに離れ、人類に物事を離れたところから眺めることの重要さを暗示しているのかもしれない。

年末には選挙があって、自民党の大多数の得票という結果になった。人々は今から次へと脱出して変化のなかを泳いでゆく決意をしている。原発には大勢が反対している気持ちを持ち続けているにもかかわらず、そうはさせまいと強い意志を抱く政治思想がしばらくこの国を引っ張ることになる。

論壇は、理性で政治を、と書く。
政治も、人生も、恋愛も。
みんな「あとの祭り」のことが多い。

23日にはベートーベンの第九を聴きに県文にいく。
Yさん(Y先生)のご招待券で。

図書館で、村上龍著「55歳からのハローライフ」を予約した。

23日の第九の半券

2012年12月21日 (金曜日)

ゆずひとつ、黄色がだんだん好きになる 冬至号

12月13日

まだ木曜日。
もう木曜日。

12月15日

きょうは、GGカードデビューの日だ。

ふたたび、
マルちゃんのカレー煮込みうどんです。
わりと、続けて食べても美味しい。

▼カレーうどん、汁飛び散って、ヒョウ柄に
▼でかけまえきょうはいずこへと言いたげに
12月15日のサザンカ

▼本棚をゴソゴソすれば苦き過去
▼よもふけて泣きごと許さぬ雨宿り
▼雫飛ぶ甘い言葉の雨宿り
▼雨宿り凍えるしずくの恨み節

12月17日

ゆっくりと、ひとりで泣ける映画が見たいなあ。
そんなことを書いている。

静かに年の暮れを送りたいと思ったのだろうか。

▼久しぶり折りたたみ傘の世話になる

夕方から少し時雨れた。
痺れるほどには冷たくなく。
憎しみも蘇らない。

▼髪を切る、言葉突き刺す恋心
▼不意をつく時雨が憎しキミ濡れて
▼さいならと憎まれ口のひとつだに

雨降りは
切ない過去と甘い過去をリミックスする。

12月19日

▼久しぶりに、ホットウイスキー飲んだ

寒いので。
というか、身体が芯からほこほこしないのは何故だろうか。
老体になって血流が悪いのかなと不安にもなる。

夕飯に冷たい酒ばかりじゃあかんかと思い、温かいのを飲んでみる。
湯上がりは布団にすぐに潜り込む。

12月21日

▼ゆずひとつ、黄色がだんだん好きになる

柚子は数日前に近所の方に貰って
湯豆腐に振りかけて食べた。

少し残っているのだが、
お風呂に入れるのはもったいないので、
冷蔵庫に入れてある。

アジの刺身を久しぶりに。

アジの刺身

2012年12月19日 (水曜日)

夢のことをもう少し考える

夢のことをもう少し考えることにする。あの人は果たしてどのような夢を描いていたのだろうか、問いたくなる。

◇振り返る
家に帰って母と昔のことを振り返れば、あのころの暮らしのことや苦労・苦難のこと、貧乏のことを思い出すと同時に、先に逝った人の特権のように必ず父が話題に出てくる。あの人はよそさまの人を困らせたこともあったものの、誰にも憎まれたり恨まれることがなかったのだ。人柄の良さや正直さ、表裏のない人間性などをみんなが認めていて嫌われることがなかった。その性格のおかげでか、膨大な数の夫婦の縁を世話し、晩年には依頼を受けて奔走していた。

だから、ストーブの周りに残された家族が集まって取り留めのない話を始めても、幽霊のように昔の話題に出てくるのだ。そしてその場で、あの人の夢は果たして何だったのか、と問うてみるとき、人それぞれがあの人を語れても、具体的な夢を明確に答えられる人は誰1人いないようである。ツマ(私の母)でさえ、姉でさえ、弟でさえ、答えを言い出せないのではないだろうか。

◇不思議な人
不思議な人であったといえよう。誰にも気に掛けられない人であり、誰にお節介をする訳でもなかった人とも言える。何の欲もなく、大きな夢を抱く訳でもない。自由に、まさに気ままに生きていた人だった。

併し、気の毒な側面もある。自分の夢を誰にも伝えない哀しさがそこにはあったのではなかろうか。その打ち明けなかった気持ちを誰が知り得るのか。

◇孫のこと
自分の孫はすべて見てから死にたい。さらには孫の晴れ姿を見てから知りたい、などと孫を思う心はいつの世の人にも強いものがある。あの人には孫が4人いたのだが、もの凄く大事にしたなどという記憶や逸話もない。ただし、若いころから子どもは好きであったと、あるときに母は話してくれたことがあり、孫に接する機会に恵まれなかっただけで、孫を思う心は人一倍強かったのかもしれない。

私にはムスメがいる。近くに住んでせっせと顔を見せに通うこともなかったが、父はうちの子をどう感じていたのだろうか。

◇私とのこと
母は「あんたはあの人とは(18歳までで)そんなに一緒に暮らした訳でもないから、あんまり憶えとらんやろ」という。確かに、人間味を感じるような年齢になってから暮らしたことはなく、例えば意地の張り合いをしたり物事に対する主張をぶつけあったり取り合いをしたこともない。政治の話もしなかったしニュースを話題にして何かをしゃべった記憶もない。

もちろん夢の話をしたことなどもない。小学生のころに何になりたいかと聞かれて、船乗りになりたいと答えて、高学年ころにはアナウンサーになりたいと答えたことがよほど強烈に印象に残ってたらしく、逝ってしまう直前までも、(学校にはやったのだが)「オマエはアナウンサーにはなれんだなあ」というようなことを口癖ではないものの、振り返りながら呟くことが多かった。大学時代には金も心でも苦労を掛けた。そのことを振り返り続けていたのだろう。(しかし責めたり叱ったことは1度もなかった)

◇消えてゆくもの
1973年の年末から74年の春ころに掛けて、昔からの家の脇に続いていた味噌部屋(と呼んでいた物置小屋)を壊し、鉄骨造りの2階建ての家を父は自分1人で建てた。2階に8畳間と4畳半、1階に4畳半ほどの部屋と車が置けるガレージを設けた。

建築にあたって、建物の土台のコンクリートを打つところから始まり、うちの山に行って木材を切り出し、(自動で製板する機械まで作ってしまい)柱や壁の用途ごとに弾き、階段や窓枠の設置までもすべて自分でやってしまった。(但し、屋根瓦を拭いたり木の建具で障子を作ったりするような専門的なことは職人さんに任せた)

その部屋は私が高校時代に勉強部屋として使用して、あとは物置のように使っていたが、今年の11月に解体した。

◇ひそむもの
ただそれだけであると言えばそれまでだが。併し、これを書きながら気づいたことがひとつある。

あの家は私が受験勉強に取り組み始めるころに考案され、3ヶ月ほどで出来上がって、我が家の本家を解体してもなお物置小屋として残っていた。まさにこの離れの家は、父が若きころ(私が中三のころ)に誰にも言わなかった夢のようなものを2階建てをつくりながら夢見た…ひとつの形であったのかもしれない。

解体が進む家屋を見ながら、そんなことが想像の上で蘇ってきた。

あの人は、間違いなく何か夢を、大きな夢を心に抱いていたに違いない。誰も知らないし気づかなかった夢を。


【- Walk Don't Run -】遺す言葉から

2012年12月16日 (日曜日)

12月15日の山茶花

12月15日のサザンカ

12月15日のサザンカ(土)のサザンカ

午後、買い物に出かける前
咲いているのを
ふと見つけた。

雨は朝のうちにやんだのに。

湯豆腐をいただく、テレビを消して

15日 (土)
GGカードをもってイオンへ。

値下げしました
の札につられて

カティーサーク

今夜は湯豆腐をしましょう
と二人で言っていたのですが

白菜と椎茸だけでは寂しいので
お刺身を買いました。

ブリのお刺身

ブリ
美味しいです。

ポン酢に
近所でもらった柚子を
振りかけて
食べました。

2012年12月14日 (金曜日)

おまめさん

12日のこと。
 
家に帰ったら
母が豆をストーブの上で煮ていた。
 
それをもらってきました。
 
豆の匂いがきちんとする。
 
畑の土がええのかな。
旨いわ。
 

2012年12月13日 (木曜日)

朝焼けや飛行機雲をひとつ抱く  12月中旬突入号

12月9日

▼雪かしら、予想にそわそわ宵の入り
▼おでん食うおそ松くんを語りつつ

寒い予感がしたのだろう。
寒い夜みなさんくれぐれもお早うにお休みなさいますように。
などと書いている。

もしも雪が白色てなければ、
今宵、
こんなに静かに夜を迎えないだろうな。
少しずつ寒さが近づく。

12月10日

そろそろ、
年の瀬も加速する。

そんなときに
桜餅を食べて
美味しい
と喜んでいる。

雪の便りが届く。
うちより北のほうは、

今も降ってるのでしょうか?


12月12日

寒い朝だった。

冬はつとめて……
寒い朝、好きです。

きょうから手袋。
東の空に月と星。
雪なし。寒くない。

おはようございます。
雪ですね、どちらもこちらも。
そんなことを書き込んで、朝の快速に飛び乗る。

そして

おはようございます。
しっぽり積もりましたね。
というようなことを書き込んで
北国の方と挨拶を交わす。

 

12月11日

▼月もなく星もなく君もなく
▼朝焼けや飛行機雲をひとつ抱く

12月中旬、年の瀬の準備を始める。

 

2012年12月12日 (水曜日)

物語は進まないほうが愉しいかも。その13 ─ 第九

月日は矢のごとく過ぎ去ってしまうのか、というとそうでもなく

物語は進まないほうが愉しいかも。その12 ─ ビッグバンドジャズ、久しぶりに

を書いたのは意外と最近ことでした。11月7日に音楽を聴きに行った日記です。
でも、この日にはその人にはお目にかかれず「ちょっと見かけたけど声を掛ける前にどこかに消えてしまった…」なんてことをあとからくれたメールに書いてました。

元気にしてるかな、と相変わらず気にかけていると食堂で女子二人で(上司の方と二人で)お昼を食べているのを見かけます。またそれがなかなか知的な2人組で、これじゃ簡単に声も掛けられません。

遠くで見ているだけの日々が続くのですが、ひょっこりとメールはくれるんです。

ピアノ2台の第九の演奏会に行きますとか、三島由紀夫を(演劇を)みに来てます、とかいう具合に、ぼんやりしている私に刺激の矢を撃ち込んできます。

若くて独身時代に(って私の独身時代は非常に短いし、彼女はコイビトの話なども全然してくれませんが)こんな友だちがいたらちょっとぐらぐらとなるのかもしれません。

おそらく、惚れてはサラリとかわされた人も多いのではと思います。しかしそんな話題で駄弁る訳でもなく確かめようがないのであらゆることは真相不明です。

さて、そんな彼女から
「寒いですね、元気ですか、第九聴きに行きますか、チケット買いましたか?」というメールが寒さが急にやってきた先日に届きました。

用意してない私は不意打ちを食らって、正直、第九は1人で行っても詰まらんなあー、でも誘うのもなあ、と諦めてもいたので、はっきりしない返事を打ち返して、第九行きたいなーという思いを抱きながら一夜を明かしました。
でも朝にそれでは済まされぬと考え直し「私も行きたいので、チケット分けてくださいな。誰のお邪魔にもならないなら…」なんてメールしてしもうた。これって一緒に行きましょうかという意味だなと、後で考えておバカ度を反省したのですけど。

まあ、
「OKですよん」
という返事が来たのでひと安心。

そういうわけで、物語は全然進みません。

サバのみりん干し

サバのみりん干し

最近お鍋が続いたので
11日の夜は
大根のみそ汁と
サバのみりん干しでした。

素朴な味がいいな。

さくら餅

桜餅

夕飯を食べて、なんかもう少し欲しいな、という顔してたら

うちのんが出してくれました。
さくら餅。

プリンターのインク

プリンタのインク

プリンターが壊れて、というか、カラー印刷機能がうまく作動しないので白黒印刷機として使用する1号機(S600)と印刷コマンドに応答しなくなった2号機(F360)を諦めて、我が家はプリンターを使うんはやめました。

新品のインクが余ってきたので、募ったら貰い手が見つかったので、きょうあげてきます。

2012年12月 9日 (日曜日)

寄せ鍋やあれは嫌いでキミ好きで ─12月上旬篇

17のおとという名前にしている。
それは「十七の音」のつもりで書いているのですが、
たった十七で伝えるのはとても難しい。

難しいところに余韻があっていいのだと思う。
三十二文字揃えて、十分に伝わっては、
ふんわり感がなくなってしまう。

12月1日(土)2日(日)

▼雪だより貴方は凍えていませんか

寒い夜ほど温かく抱かれて
▼寄せ鍋を食いたし併しひとりなり

お鍋がおいしい季節になったと言って喜んでいると
毎日毎日お鍋を食べることになるのだが。

素朴な味であればあるほど
飽きがこないと感じる。
飽食の時代を迎えているが
偽物グルメも多い。

やっぱし、おでんの大根の隣にある竹輪が旨い。

▼ちくわ食う貧しいころを噛み締める
▼寄せ鍋やあれは嫌いでキミ好きで

昔、きたないのれんをくぐって入った居酒屋で
月並みにおでんを注文して、静かに食べた夜があった。

ツマと
「あのときのおでん、旨かったな」
「そうやな、白梅町の酔心やったなあ」
「串八が満席で…」
と、そんな話をする。

静かな夜だった。

▼師走きて母のつけたひの菜食う

ちまたでは、正月の準備も忙しかろう。
ショッピングセンターでは、クリスマスの飾りが鮮やかだ。

▼炭を焼く山は温たし風もなし

▼しめ縄に汗の沁み込む父の技
▼しめ縄を編み上げる父の背中

▼ひとり言遠い貴方への愚痴かしら

私はいつものように
何の変わりもない年の瀬を迎えている。

今年もインフルエンザの予防接種を受けなかった。
人ごみに出かけるのは相変わらず嫌いである。

罹患しないことを祈ろう。

12月3日(月)4日(火)5日(水)

▼木枯らしが隠れておるぞ曲がり角

▼寝よまいか貴方慕って星が飛ぶ
▼夜更かしをするのも貴方の冬の癖

寒い夜やったなあ。
あんな日に逝ってしもうた人のことを思うと、
手袋の句は詠めんなあ。

抱きながら
「この人どんどん冷たくなるわ」
と言った母。

▼手袋をそなえてそっと灯をともす

▼節電という文字灯すネオンかな
▼冬木立隠れた月夜の闇を食う
▼雨あがり師走の風の支度かな

コートを着な寒いなあと思いながら
まだ着ていない日が続いていた。

グググと冷え込んで、車のガラスも凍てつく。
月は真冬の空に高く昇る。

12月6日(木)7日(金)8日(土)

▼茜空好きだと書いた窓ガラス
▼あの人は夕焼けみなとがよく似合う
▼半月や諦めきれない物語

▼月あかり消えて貴方を連れ去りに
▼おやすみは、貴方のオヤスミ聞いてから

冷え込むと
星が瞬く。

こどものころ
それが不思議だった。

星を見て宇宙を想像した。
宇宙飛行士になりたいと思ったことはなかったが

掴みようのない神秘を
どうしても理屈で考えようとした。

星座にロマンを感じることもない可愛くない奴だったが
ギリシャの神話を生んだように
人々の夢を馳せる心には感動する。

みんな
星をみながら
政治の夢を語れば
きっとこの世は良くなるような気がする。

▼麦の芽を踏むこと知らぬ新俳人

恙なく年終りたし月凍つる(砂女)
▼その欠片私のグラスに分けておくれ 

つつがなく、なんて言葉は死語なのかもしれない。

余裕を失った人と
余裕を勝ちとっても役に立たない人たち。

もうすぐ選挙か。16日。

7日は大雪だった。

▼大雪やきょうからコートとメモをする
▼師走きていつ帰るのかと便りくる
▼年の瀬や餅をついたと便りくる
▼冷える夜貧しい頃を思い出し

12月、静かな夜にきらびやかなネオンの見える駅の片隅で
大好きな貴方を待って

そのあと、
温かいお鍋をつつきながら
二人で旅の話でもしたいなあ。

▼待ちぼうけあなたに会えたら今夜こそ

2012年12月 8日 (土曜日)

この日にコートを出しました ─ 大雪篇

▼今年ももれなく大雪を迎える。この日から冬至までの間に冬の覚悟を決めて、そのあと正月を迎え冬を乗り切る勢いをつけて、一気に大寒を過ぎるまで全力で冬を走り抜けるのだ。まさに冬の寒さが身体の中まで染み込んでくるのはこれからだ。だから、身体中が凍てついてしまう前に春になってもらわねば、我慢の限界がきてヘタレてしまうような気持ちになる。

▼誰だって冬の寒さは苦手だろうと思う。朝、布団から飛び出すのが辛いし、服を着替えるのも寒くて億劫になる。えいやーと気合いと勢いでパジャマを脱ぎ、着替えてしまえば、そのあとはトントン拍子にお出かけの支度も進むことが多いのだが、みんなそこでもう少しだけこの温もりの中で微睡んでいたいと思い、誘惑から抜け出すのに苦労しているのだ。

▼12月になると寒さが一段と厳しくなり、朝、庭に出て植木の葉が霜で凍り付いているのを見ると、いよいよ本格的な冬を覚悟をせねばならないと思う。12月5日、歌舞伎役者で俳優の十八代目中村勘三郎さんが亡くなった。2歳しか違わない人であることにある種の無力と寂しさ、覚悟と使命のようなものを感じる。

▼大雪の朝、7日からコートを着用し始めた。特に辛抱をするつもりもないが、まだ冷たい風がシャツに吹き付けても痛々しい寒さを感じる訳でもなかったというのが延び延びになっていた理由で、二三日前から鞄を持つ手が悴むようになってきたことが切っ掛けだ。思うほどに吐息は白くないものの、寒さはぴりっと厳しい朝だった。一度着たら脱げないなと思い、これを脱ぐ春のことちょっとだけ想像してみる。

▼今年度の冬はどんなになるのだろうか。節電モードは去年よりも色褪せ華やかなイルミネーションも堂々と胸を張って輝いている。大雪の夜に東北地方・三陸沖で大きな地震があり、東日本は大きく揺れた。前の大地震から一年半余りが過ぎている。冷たい風の吹く冬に起こる地変は不安も大きくいっそう辛い。原発の被害を受けた地域や震源地に近い人たちが「原発がなければ放射線の被害はなかったし家族が離散したり古里を離れなくても良かったのに」とネットで呟くのを読むと、文明というものをもう一度最初から見つめ直し、社会を再構築しなければならないことを痛切に感じる。

▼一度手にしたものを手放すのは勇気のいることではあるけれども、科学技術の齎した幸福を振り返り、自分自身ばかりに向いている視野を周囲に転回しなければならない。高速道路の天井板の落下事故を見ても、人の奢りと横着が気にかかる。畏れる心が枯れてしまいつつあるのはやはり幸せボケと思わざるを得ない。イルミネーションを消すことがそれほど不安なのだろうか。

2012年12月 6日 (木曜日)

ツバス

東北ツーリング('96.7.25.~8.6)のレポートにも出てくるが、普代村のスーパーの前で「ツバス」を三枚におろしたものを焼いて売っていた。

それを食べたのがこの魚との出会いだった。
(普代ではツバスとは呼んでいなかったかもしれない)

あれからこの旨い魚の虜になってしまう。
思い出のいっぱい詰まった旅であったことを回想する。

私に地方ではこれを刺身にして食う。

大地震がきてあの村は間違いなく流されたと思うと、この魚を食べるたびに泣けてくる。

ツバス、県内産

2012年12月 5日 (水曜日)

歩き続ける

なにげなしに読書記録を手繰ってみると、数年間に自分がどのような本を手にしたのかがわかる。そこには、自分自身との格闘の末、書物に依る自分の姿も見えてくる。弱くなると頼ってしまう、強くなっても、また拠る。ヒトはどんな自信家であり実行家であったとしても、少なからずこういう側面を持っている。座右と言えば格好がいい。併し、弱音の受け口であってもかまわないもので、そういうまだら模様を人生に残すことがいいと思う。

自分を振り返るには、歴史の足跡を辿るのがいい。谷川浩司の「復活」 羽生善治の「決断力」が目にとまった。

谷川浩司は彼の著作「復活」のなかで、「何度も何度も負けたとしても、自分の道をひたすら歩き続ければ、やがてそこに一本の道が拓けてくる」という言葉を書いている。

これは成功すれば立派な言葉であるし、失敗すれば励ましの言葉でもある。この言葉を補足すると最後の部分に「『拓けてくる』(ことがある)」とするのが正しい。

そもそも、な話であるが、私は「勝ち負け」というものを好まないので、賭け事にしても、何かの競争にしても、さらに誰か(または何か)に対して勝っている状態とか負けている状態という概念のようなモノを好まないできた。何故に嫌いなのかは小さいころから育った環境にもよるのかもしれないが、「そもそも」勝ったところでどうなるわけでもない、喜ぶだけだろう。そんなものを征服しても、侵略しても、優位に立っても、目指すところが揺るぐ訳でもないし、揺るぐような目標であっても困る。

誰とも競うことなく、こつこつと正直に努力をし、苦労を重ねて、何かを積み上げてゆく姿を、小さいときから父親の姿を見て学んでいた。

あの人は何か大きな夢を誰かに打ち明けることもなく逝ってしまい、(周りの)人は十分に満足して幸せな人生だったと評してくれるが、本当は自分のユートピアを描いて夢への途上にいたのではないかと、このごろ夢を見るように想像してしまう。

あの人も何かを誰かと競う人ではなかった。あらゆることにおいて、そういう概念のない人だっただけに、67歳を2ヶ月後に控えていたあのときは、まだ、夢に一歩一歩近づきつつあった途上であったのかもしれない。

もりつぢ

伊賀市に用があったので出かけまして

お昼時だったので、文句なく「もりつぢ」へ。
お店の中が新しくなっていたので驚きました。

2012年12月 4日 (火曜日)

ひとり旅のはじまり  花も嵐もⅡ その29

旅好きになったのは社会人になった最初の夏のことで、紀州を当てもなく旅をしたことが始まりだった。

ヨーロッパにシベリア鉄道に乗って渡り料理人修行をして帰ってからコックをしているという人に出会ったりして、終わってゆく夏に熟成されるように私はバイク旅の道に入ってゆく。

夫婦で九州や信州や北海道を旅し、車で東北を駆けてきて、未知でワクワクしている面白い世界に飛び出してゆくことを覚えてきた。そして、ムスメができて、さらに羽ばたくように私は一人旅を楽しむようになっていったのだった。連休になると私は二人を置いてツーリングをするようになってゆく。そのように書くとヒドイ奴だと思われるだろうか。

何故、よその家族のように家族で車に乗って仲良く出かけなかったのだろうか。子育てに追われて、アトピーが激しかったこともあって、ツマは今考えれば籠りがちであったのかもしれない。その深刻さに私は気づくことなく、人並みのお父さんをやりながらも、家におとなしくいる母娘を残して休日は旅に出たのだろうか。ちょっとワルイ父である。でも、そうでもなかったと、ツマも言ってくれるのて救われる。

でも、何故、家を置いて旅に出るようになったのかという疑問は私自身でも答えがわからない。私には曾祖父のころから受け継ぐ日本左衛門的な気質があった。それがちょうどそのころに芽吹いたのだろうか。そんな風に思ってみたりしている。

子どもを置いて出かける父を、母と娘はいつも見送ってくれた。玄関で記念写真を撮るのは御守りのようなものだった。あのころ、トレードマークとして首に巻いていた赤いバンダナもお守りのひとつだった。

私が旅に出たあとの家にいても仕方がなかった二人は、実家に帰るなどをして過ごしていたようだ。アパート時代も社宅時代も、今の家に移り住んでからも、せっせと電車で京都に行って私を自由にさせてくれていたので、ついつい私も甘えるようになっていったのだろう。

あのころの私の仕事は人生のうちで最も忙しかった時期に当たり、ニュースステーションや大相撲ダイジェストを見ながら夕食をとるのが当たり前の日々が続いていた。子どもが歩き始めたことや話し始めたことなどに気づく暇さえなく「うちの子いつから歩くんや?」とか「いつからしゃべるんや?」と尋ねた話は伝説になっている。

ムスメが生まれたのは1987年の夏で、社会人になって6度目の夏だった。それまでの5回の夏のうち1人で過ごしたのが1年目と2年目で、3回目から5回目まではツマと過ごしていた。そしてムスメができてツマは子育てに自分のすべてを注ぎ込んでゆく。

ムスメのアトピーは悲惨だった。顔中にイチゴジャムを塗りまくったように肌が荒れてぬるぬるとなった。小麦粉、卵のほか、挙げれば何でもダメだった。水を飲んで米を齧るしかない状態で、何に頼っていいのかさえわからないまま病院に通った母の情熱は、外で働いていれば言い訳の付く父とは全く違っていた。結果オーライで、現在は元気で健康になっているので、もうあのころのことは微かな思い出で十分だと思いながらこれを書いているが、母は辛かった日々を思い出すと感慨が深かろう。

併し、そんな母とムスメの葛藤をよそに私は旅に明け暮れてゆく。やっぱしひどい父親であったのだ。

2012年12月 2日 (日曜日)

ふられても、 あのとき好きだと言えば良かった…… 11月下旬篇

11月27日(木)

▼冷え込んで電車一本の朝寝坊

こんなことを書いているのだから
寒かったのだろう。

▼北風や大河の海に出るところ

御在所連峰が白くなったという便りが
届いた朝だったかもしれない。

▼ふるえる風遮断機のキミも容赦無く

マフラーをしている人や
コートの襟を立てて歩いてゆく人が
目立つようになってきた。

11月28日(金)

さて、
ぼちぼちと年が暮れる準備をすることにしよう

▼月も凍る切ない夜が待ちどおし
▼ねえ君のメジャー9を僕にくれ

ねえ僕に「黄色いゾウ」を薦めたキミ
あれはサヨナラの手がかりだった
キミは僕の描くドラマの中では
永遠の天使ですね。

でも君は、ほんとうは
天使なんて似合わない人だと
そう思うの。

ふられても、
あのとき好きだと言えば良かった……

▼好きですと言っちゃいけない、月みてる

満月をみると、
また、
あの人に会いたくなる。

切ない夜が過ぎて行ったのだ。
この夜。

11月29日(木)

夕暮れに
駅をおりたら雨降り
電話して
お迎え頼む。

▼好きな人あきらめたころにひょっこりと
▼切り干しや母の形見とする前に
▼夕暮れに山茶花ひとつはにかんで

好きなんだけど、離れてるのさ ♪
そんな歌を突然
思い出して歌ってみる

▼南天よ霜の朝まであといく日

おやすみを届けることに
情熱を持っていたむかし
そんなころがあったなあ。

燃えてなければ
いい作品はできない。

11月30日(金)

▼侘助や忘年会に行きたいな

深夜に丸源ラーメンに行く。

ムスメが忘年会で
家に帰り着いてから
ラーメンを食べに行くという。

家族じゅうがみんなオヤジになる夜

丸源ラーメン

 

▼ラーメンが食べたし外は土砂降りで
▼夕闇に独り占めしたい君がいる

そんな回想、
いやいや、
ドラマを浮かべながら
ラーメンを啜る。

啜るという字には、
又が四つもある。

2012年12月 1日 (土曜日)

ユーミン その2

続・ユーミンなのですが。 

時間が止まりますね。
余命まで残り少ない時間に
あまり立ち止まっている暇はないのだ
というジレンマ

ユーミン

ひのな

ひのな

食というのは、明らかに文化である。

この文化というものを軽視して、経済や産業の発展の夢を見ている現代社会はおバカなドンキホーテのようなもので、いい加減で目覚めなさいと言いたい。

食は母や祖母に依てその地に根付き、人々を育ててきている。
私はおいしい豆腐やみそ汁やおせち料理や煮物を教えてもらい食べさせてもらって大人になってきた。

反抗もして遠くの都会に十年以上も住んでいたことがあるけれど

この国の文化は、こういう食と、食を育む自然の息づかいなのだということを今頃になってやっと自信を持ってみんなに言えるようになってきた。

自然と食が暮らしの文化を受け継ぎ守ってゆくのだと言う強い自信のもと、何か役立つことをしたいなと思う。

話を戻して

▼師走きて母の漬けたひの菜食う ねこ

カレーうどん

すがきやのカレーうどんを食べましたが

すがきや

マルちゃんのカレーうどんのほうが美味しかったなあ。

マルちゃん

うどんは多めのお湯で湯がいておいて新しいお湯で作ります。
おあげ、ちくわ、鶏肉、ネギ、かまぼこ(おいた)を入れてみました。

固形のインスタントのカレー粉を1人分で1個ほど足してます。
そうすることで、さらに美味しいです。

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