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2012年12月27日 (木曜日)

1989年の夏 花も嵐もⅡ その30

この夏に出掛けた北海道ツーリングのレポートは何ひとつ残っていない。何故、日記が残っていないのかは不思議であるが不明である。私が日記を書かなかったということはないと思うので、何度かのPC上の資料整理のときに失くした可能性が高い。

ムスメが2歳になったばかりの夏のこと、私はいつものように夏休みに休暇を追加して取って長期の旅の計画を立てた。夏休みが始まる日か終わる日に2日の休暇を取得すると土日を含めて長期休暇になるというパターンは定着していたので、このときもおそらくそのようにして休んだのだった。

あとになった今でもツマは言います。

(娘が)まだまんヨチヨチやったし…(私らだけを)置いて1人で北海道に旅に出かけて行ったのやから…寂しかったわ」

言葉には出ていませんが、不安とか、私に対する心配とか、それはそのときに私が何も考えなかった寂しさをフルセットで二人は負って私の旅を見送ってくれたのでした。

ずっと後年になって私はそのことを理解し、何とも言い訳のしようのない申し訳なさに襲われますが、償なえないまま日々が過ぎている。

さて、そんツマの心を察することもないひどいオットの私は、フェリーの予約にも成功して北海道へと旅立ったのでした。北海道へは77年(1人)、84年、86年(タンデム)で来ていたので4度目でした。初めて来た77年と比較すると人の数も旅人のようすも少しずつ様変わりし始めていました。

76年に住んでいた東村山市の萩山寮時代に小倉君という子がいて、彼は夕張市の出身でした。お父さんが炭坑マンだと話をしてくれましたので、あのころはまだまだ北海道には炭坑がたくさんあって、産業としてもしっかりとしていたことが想像できます。

後に八嶋さんが手紙(メール)でくれた夕張市のようすの写真を拝見してもその盛衰ぶりが伺えました。北海道は少しずつ昔の文化と貧乏、未開発のレッテルを棄て始めていたのでした。

オートバイで北海道に渡るにしても、ツーリングライダーはそれなりに思い切って「北海道へ行く決意」をしなければなかなか行けませんでした。それが、次第に身近になりつつありました。それは、欧州が実際に距離が短くなった訳でもなくルートが開拓された訳でもないのに、誰も彼もが欧州旅行に行くようになったのと似ていて、ある種の壁のようなものが低くなってきたことを意味していると思います。

必然的に道内を走るバイクや旅人気質にも変化が出始めていました。交通事故も増えたのでしょうか、この年はフェリーを降りたライダーをもれなく集めて、ひとつの部屋で安全教育をして小さな記念品の旗をくれました。その旗を荷物に付けて歓んで走ったのが北海道で旗をなびかせて走る最初の姿だったのではないでしょうか。

どの辺りを走ったのかをほとんど記憶してないのですが、雄冬の未開通部分の道路が走れるようになったばかりだったので、小樽港を出てから稚内方面へとその新しい道路を走ったことが記憶にあります。

廃校になった小学校があって、「さようなら小平小学校」というように校舎の壁に大きく書いてあった文字を妙にくっきりと記憶しています。

続く

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