« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月31日 (水曜日)

金森敦子 芭蕉はどんな旅をしたのか

芭蕉はどんな旅をしたのか。

まあ、そういう本なのだが、その裏にある様々な人間模様のなかで生まれてくる旅というものに対する見方の違いに拠っても面白みや着眼点が変わる。生活スタイルを日常から歴史的な線上で捉えようとしているならば、この書籍の面白さは計り知れないほど深くなる。

この作品の前に「関所抜け江戸の女たちの冒険」を取り上げました。あれはこの「芭蕉は…」の布石のつもりでしたが、「関所抜け…」の作品のほうが関所という特定の機能をもとにして紐解いてゆくので、中身が濃くて完成されているように思えます。ですから、資料的要素の高いある意味では高尚な作品だったと感じます。しかし、この「芭蕉…」が詰まらない作品だったとは決して言えなくて、引用文献は非常に広い範囲に及びますし、タイトルとは違って、江戸時代の旅の民俗学のような感じでしょうか。

金森さんの視点に揺らぎはなく,二つの作品の差は、興味の発端に違いに因るものではなかろうかと考えます。

「奥の細道」は、一種の現代人が持っている旅の憧れの完成作品のひとつであり、東北という地域やルートにしても時間にしても、途上の味わいにしても夢を叶えるひとつの形であります。ですからそこを芭蕉がどんな旅をしたのかということには興味がある人も多いはずです。旅人の目線で資料を読んでゆくわけです。

江戸時代は貧しかったにもかかわらず、お金もないのに、割合は高くはないにしても幾らかの人が全国を股にかけて旅をしました。この好奇心には凄まじさがあります。日本を回るなんてのは、現代の海外旅行より思い切った行動です。

馬車は日本にはない。だから、車の轍はないわけで、泥田のような狭くて凸凹した街道を、乞食のような纏で歩いてゆく。道行く先には盗賊がいて不安は多い。関所は厄介だ。川を超えるのもひと苦労だったに違いなく、渡しを使えば金がいる。僅かな金を工面して旅をするにしてもあれこれとお金がかかる。銀行はない。言葉は通じないことが多い。天候に左右されながら、健康を気遣い、国を跨いで旅をする。

これは、現代人が考えるような甘くてロマンに溢れたようなものではなく、修行のような旅だったのかもしれない。何故旅に出るのだろう。人間の本能のようなものなのだと感じざるを得ない。

通貨が流通していない時代です。経済という概念はささやかながらあったのかもしれないものの、人々が生きていられるのはお互い様,というような感覚で暮らしていたのだろう。そうはいっても,いいこともあれば世の中には腹の悪い人間もいただろう。そういう、結構ドロドロとした面と純粋な面も持ち合わせた社会は、現代社会とどんな風に違っていたのだろうか。そんなことを、江戸を旅してゆく資料から感じ取ってゆく。

金森さんの本には髪を結うにも(例えば)20文と書いてあっても、それが今の時代に幾らの換算かの解説は一切なく、読みながら身体で感じ取ってくださいという感じである。だから、関所を越えてゆくときも、街道を駆けてゆくときも、その時代に人の気持ちになって、読んでゆく。道案内に何百文も払う。命の保証、この先の情報に対する不安は、想像を絶するものがあります。

僅か2-300年の過去のことなのにこの国の文化は信じられないほど姿を変えてしまった。その変わる前の世相の中に飛び込んでゆきたい。言葉にしても振る舞いにしても全く違っただろうし、人々が、存在さえ知らないような概念とどのように付き合っていたのか、などを文献を読んで知りたい。そこには必然的に信仰や神の姿が現れ、畏敬に満ちた姿があります。

現代社会はここまで荒廃しながらも、快適で豊かな暮らしを求める未来志向を持ち続けている。そのくせ、そのことに対して何故かしら不満があって、どこかを直してゆきたいと大勢の人が常々考えている。だからこそ、江戸の時代に戻ってもう一度考え直すことをした方がいいのではないかと強く私は思った。文明というものを見つめ直してみることで、解決の糸口を掴みたい。そう期待するわけです。

もっとたくさんの人に、こういう作品に触れてもらって、私たちの暮らしの原点を純粋に見つめたい。そうしないとこれからの未来は良くならない、とこの作品を読んで改めて感じます。

芭蕉はどんな旅をしたのか

(京都検定の話題になって)

(たちはらさんと、京都検定の話題になって)

歴史の勉強はあまりしませんでしたが、好きな場所もたくさんあります。
休日にはカメラを持って毎週、どこかに出かけていました。
うちの人も一緒に出かけたこともあります。

ですから、よその地方の人よりは少しは知ってることもありましょうね。
でも、試験を受けるレベルじゃないですね。

歴史建造物とか史跡がめちゃくちゃ好きな訳ではなかったけど、
ロマンを感じやすい性格なので、気まぐれに勉強しましたけど。

その建物や地域に住んでいた人やそこの人々が交わしていた言葉、
暮らしに使っていたモノなどに興味があり、
さらに、そこにあった気持ちや言葉、苦楽などにも惹かれます。

その時代に、こんな言葉は存在しなかったのではなかろうか。
科学が生んだモノが全く存在しない時代に、
またが例えば医学がまだ夜明けを迎えていない時代に
この時代の人たちは、そのモノをどのように感じ取ったのだろうか。
そういう視点でモノを見てしまいます。

奈良県の明日香を歩いたときも、
この時代の人々が「幸せ」という言葉を使ったのだろうか 。
「節約」「環境」という言葉を使ったのだろうか。
そんなことを考えました。

では私たちはいつのころから、欲深いことを考えるのか。
競うということ、をいつ頃から考えるのか 。
などなど 、人間味の成長、言い換えてみると精神の進化のようなことを知ってみたいですね。

その上で京都の文化を学んでみると、暮らしにもっと近づけるように思うのです。
専門家ではないので、妄想のようなものです。
どこかの先生方が何かの本で書いておられることなのかもしれませんけど。

とにもかくにも、検定の問題をネットでちらっと見たら難しかったので、受けるならば勉強しなあきません。

(だから受けませんけど)

神無月あなたに手紙出せぬまま ─ 十月下旬篇

夕焼けの綺麗な季節です。
あかね空の写真がいっぱい。

10月19日

▼夕暮れに青春ドラマの主題歌を

ちかごろは、学習塾にいく子が多いので、
クラブ活動は朝練に力を入れているところが多いのだろうか。

10月20日

きょうは初お鍋でした。

▼あなたたちにナイショで飲んだワイン酸っぱい

この季節になるとぶどうの収穫後ということもあって
確かにワインが出回りますね。

初めてワインを飲んだときの酸っぱさを思い出します。

10月21日

▼里の秋父は逝き栗枯れはてて

紅葉が遅れているというニュースを耳にしていたのですが
ふとしたことで京都の古刹の庭の写真を見て
古里の秋はどないやろと思った次第。

お昼に、久々にすがきやラーメンを食べる。

10月22日

▼飲み過ぎてしょぼんとしたのも束の間で
▼恋すると落ち葉舞うても躊躇いて

何かの理由で、ご機嫌になって
少しお酒を飲み過ぎたのかもしれない。

濡れた落ち葉が何かを語りかけたのだろうか。
また、ふらふらと夢ごとを考えている…

10月23日

▼大粒の雨しとどにてなお染み染みと
▼雨上がり打ち拉がれて落ち葉踏む
▼雨上がり忍が如く秋がおり

雨がやんで風が出てきた。
家まで歩いても汗をかかない。
いい季節になってきた。

10月24日

▼朝焼けにやがて霜光る古里よ
▼おはようと言葉残して改札へ駆けて行ったその人のハイヒールの音
▼水冷えて古里の井戸思い出す

きっと、水のぬるさを何かのときに感じたのでしょう。

古里の井戸水。
ぬくい季節になってきました。

10月26日

秋は、すどうし。

食べたい。
そんなことを考えている。

キノコ狩りの遠足が懐かしいなあ。

10月27日

▼十三番目のキミが一番ステキですね

あの人の話は,こんどにしようか。

10月28日

雨がしとしと日曜日。
一日、予定を流して家にいた。
(四日市jazzフェスの日だったのですが)

家でのんびりした。

▼雨降りや落ち葉洗いて冬支度
▼雨の日はコタツにニャンコ居て欲しい
▼淋しかろ着物の裾のそのあたり

▼冬支度逝くとわかっておりながら
▼雨音やすべて無色の余韻かな

まだ何か驚くものを待っている。
そんなことを別の日記に書いて
秋の夜長は老けてゆく。 

10月29日

▼通過駅車窓の闇の夢を切る

わけあって
いつもの通勤列車とは違う電車に乗っている。

ガランとした汽車じゃなく、
電車はざわざわして、
やっぱし好きになれないかな。

10月30日

▼松茸山、子にも遺さぬその在処(ありか)

twitterの今日の季語が、松茸だったのだろうか。
たくさんの句が飛び交っていた。

子どものころは松茸なんか珍しくも旨くもなかったのに。
これも一種のポピュリズムなのか。

10月31日

▼神無月あなたに手紙出せぬまま
▼朝露のガラスに一文字書き残す
▼好きですか?聞けば満月かたぶきて

とうとう、十月の最後の日を迎えました。

芭蕉はどんな旅をしたのか。
の感想を纏めています。

▼一時間に三分進む時計なら私の人生消費税分だけお得

長生きしたいとは
思わないけど
長生きしたいと思うような激しく強欲な生き方をするのは
この歳になってからは必要なことなのではないかと
このごろ思うことが多い。

2012年10月29日 (月曜日)

ブリのお刺身

ブリのお刺身

ブリのお刺身

いつもいくスーパーのお刺身ですが
高い方を買ったそうです。

ハマチとブリがあったので
高かった方を買ってしまったとうちのんが言うのです。

旨いから高かったのだね,きっと。
でも夕方で2割引だったそうですけど。

もの凄い旨かった。
久しぶりのヒット。

2012年10月28日 (日曜日)

ほんとうは、何かを待っているのだ

冬の寒さがじわりじわりとやってくる。

満ち潮が波打ち際の人たちに気づかれないように
ザザ、ザザとくるのとは少し違う。

キツネやタヌキが人間を騙す手口のように、
明日には昨日を忘れさせて、
のほほんとしている私たちを欺くのに似ているのかもしれない。

わかっているのに騙されて、
冬になればこんどは温かい春を待つ。

春になると夏を恋しがり、
秋が本当は好きなのだと嘯く。

恋人に好きだというのも
30年以上も一緒に住むうちの人に、
無言の眼差しを向けるのも

まだ何か
もうひとつ何か
驚くものを待っている
……のかもしれない。


あさやけを一番列車がくる季節

満月を大吟醸と待っている

あさやけ…の作品は、年末の寒い朝に書いたのだと記憶します。
霜が一面に広がる枯野の向こうの地平線から朝日が昇ろうとしてた。

大吟醸…の作品は、中秋の名月が過ぎてしばらく過ぎた頃、
人恋しい秋の夜の切ないお話です。
ほんとうは、大吟醸なんて飲んだことないです。

つぶやく十七音 のおと (号外)

東海柳壇

1月17日東海柳壇

平成24年1月17日朝日新聞

どっかに書き残しておかないと
そのうち忘れられてしまうのではないかという不安。

まあ、そういう弱音もたまにはいいさ。

今年の初掲


今朝の新聞

2012年10月25日(木)朝日新聞

9月の末に投稿したので

すっかり忘れてました。

2012年10月27日 (土曜日)

朝の散歩 (津城跡)

津城跡

津城跡

石垣に登れることを知りました。(27日)

続きを読む "朝の散歩 (津城跡)" »

親の心子知らず

この言葉を私は親から直接に聞いたのかどうか、記憶にない。しかしこういう一種の説教じみた話は母の小言であるとか、父のつぶやきであったことが多い。

今、考えるとこの小言やつぶやきが、自分の踏み出すべき一歩に対し示唆に富んでいた、と思う。特に父の独り言のようなつぶやきは、反発感も抱かせず心に届いた。インパクトが弱かったこともあるので、今ごろになって響いているという後悔もあるが。

私が1977年に北海道に1人で出かけると言い出したときに、いくらかのお金と電話をかけるのに便利なようにと小銭を黙って持たせてくれた母は、おそらく私がもっともっと子どものころに、親の心子知らず、という昔の人の言葉を記憶のどこかに棲まわせたのだろう。

77年の旅日記の冒頭にこの言葉を引用して、見送ってくれた親たちに感謝をしている。だが、感謝の本質を改めて問うならば、あのときの感謝は感謝ではなく,教科書に書いてある程度の表明のようなものであったのではないかと反省する。

私が難儀な子どもだったから育てて行く未来に希望を持つしかなかった。しかし、なかなか舵を取れない息子に対し、ある種の諦めのようなものを伴いつつ、自分の思うようにならない子どもに向かって溜め息混じりで、「親の心子知らずというやろ」と母はつぶやいていたのかもしれない。

私の母は父を生まれてすぐに失っていたので、不幸にまみれた自分の心を息子に伝承させないためにも、母としての努めを果たそうとした。

親の心を子どもは知ることなく、ゆく果て制限のなき所まで、枠などを感じずに羽ばたかせてやりたいという気持ちと、そういってみても貧乏だったのでそうもできないという悔しさとの狭間が存在し、母はおそらく、親の心は必ずも子どもに伝わることがよい訳でもなく、時期が来れば自ずから分かり合えるものだと考えたのだ。

では、いったい私たちはいつになって親の心を知ることになるのだろう。

若い時代には知ったような気分に陥り、ヒトは親になって初めて親の心を知ると悟り、さらに親を亡くしてさらに本随の親の心の原点に触れるとも考えるようになる。つまりは、親心などというものは、何ひとつ子どもには伝えることができない、のではないか。

いつの時代になってもそうであるが、オヤジの背中という言葉が哀愁を持ったテーマであちらこちらで取り上げられるように、背中は大いなるものを伝えてゆく。背中のほかにも、言葉でもなく書物でもないもので、「子知らず」であったはずのものが伝わってゆく。一種のオヤジの哲学のようなもので、DNAではなく空気感染をするのだと感じている。

そういうものは、きちんと伝わると越えることはできないのだが、曖昧に伝わるから親父を飛び越した大物も生むことができる。つまり、このように物理学のエネルギー理論にそぐわない伝承が世代の受け継ぎの中には存在する。

しかし、昨今はこの事象でさえ、合理化、数値化されてしまって、ひと回り大きなものを生むチャンスを失いつつあるように思えて、いささか家内くなる。トンビはタカを生む。これが親心というものなのだ。

父親は役割を失った…のではなく、どんな父親であろうとも必ず役割を果たしていて、受ける側の方が受身体制を一段と強め、柔軟性や貪欲な向上心、成長しようとする自己増殖細胞のようなものをなくしつつあるために、自分をひと回り大物になることができないのではないか。

親の心子知らず、という苦言を常にその年齢に相応した形で肝に銘じ続けることがこの言葉の目指すところではなかったのだろうか。そして、子は何ひとつ親の心を形にしては受け継がないのだろうと思う。


【- Walk Don't Run -】遺す言葉

ブリを照り焼きで

ブリの照り焼き

ブリの照り焼き

26日の夜のこと

ちかごろは
刺身ばかりではなく
落ち着いた一品も食べます。

2012年10月25日 (木曜日)

けさの新聞

今朝の新聞

朝日新聞、平成24年10月25日

9月の末に投稿したので
すっかり忘れてました。

2012年10月24日 (水曜日)

ツマと旅する  花も嵐もⅡ その27

二人で東北を旅したことがあります。ムスメができる前のことですから1985年ころではないかと思います。バイクの旅ではなく車の旅でしたので、ブログの目次にあげている旅の軌跡には載せていない旅です。

記憶が曖昧なのですが、その前に1人で東北を走ったときに八幡平を越えていますが、頂上の駐車場が大きな広場であったのを記憶していて、二人で行ったときはGWでその駐車場が大雪で埋まっており、展望所に上る階段も大方が隠れていたので、雪の多さやそんなにたくさん降ることをものすごく驚いたのを良く覚えています。GWのころなのですが、それが85年なのか86年なのかは、日記も残っていない。

東北地方のGWの雪の凄まじさは、想像以上のものでした。夏には越えることのできた鬼首峠が雪で通行止めなことはショックでした。こんな幹線道路が通行止めになってしまうなんて、一年の半分が孤立状態ということですから、厳しい冬を知らされた訳です。

あのころの鬼首峠は現在とは違って険しい道で今は旧道の峠で、もしかしたら現在の地図に残っているかもしれませんが、時代を巻き戻してもう一度走るとなると、相当に気合いを入れて走らねばならない険しい道です。場合に寄ったら通行不可かもしれません。北海道のオロフレ峠のように姿さえなくなってしまっているかもしれない。数年後に新道が開通したのだろうと思います。部分的に幅員拡張工事やトンネルの工事が進んでいました。

私たちの旅は京都から北国街道を走って東北に向かいました。北陸自動車道も完全には出来上がっていませんでした。確か富山県の滑川付近まで走れて、その後は一般道路を行きました。親不知に寄ったりしながら国道8号線、7号線を通って会津若松まで行き、駅前の案内所で必死になってホテルを探してビジネスホテルに泊まった。1日で800キロほどを走りました。

旅の計画は何も立てずに行きましたから、当てなどある訳もなく、会津若松のホテルの近くの居酒屋の強面の店員さんに鳴子方面を教えてもらって、磐梯山付近を観光してから鳴子温泉まで行き次の宿を取りました。その宿が、ちょっとしたテレビ番組などでも出てくる有名なところであることがずっと後になってわかって、その近くで食べた蕎麦屋までTVに出てくると嬉しくなります。私たちは誰にも教わらずに巡り会えたのだからそれが嬉しいのです。温泉は素晴らしかった。こういう温泉を次々と訪ねる旅をすると温泉ツウの気分になって来れます。その宿で次の温泉を教わりました。

さらに次の旅程では、鳴子の宿で教えてもらった鶯宿温泉へ。今ではずいぶんと寂れた温泉街ですが、あのころはそうでもなかったのではないでしょうか。宿はGWなのにすいていて、夫婦だからということで大きなお風呂を貸し切りで使わせてもらったのを覚えています。八幡平を回って田沢湖付近を観光して、東京に走って帰ってきたと思う。

そして東京のディズニーランドに寄って花火も見ているのでその近辺でも泊まったことになる。どの辺りであったのかは記憶にない。

水冷えて古里の井戸思い出す (裏窓から)─霜降篇

カツオを食べた月曜の夜に天気が崩れて、早朝には雷を伴う土砂降りとなった。新聞を取りにゆくのに庭を二三歩跳んだだけで大粒の雨が頭に突き刺さるように降り注ぐ。

冷たい雨の降る朝だった。こんな雨の朝を迎えるのは、久しぶりのことで、やがて寒い冬がやってくるのだなと憂う気持ちが襲い掛かる。

傘をさして歩くのを嫌がっている自分の気持ちを押し切って、外に出ると雨が小降りになっている。もしやと期待をしたら願いが叶って、職場へのいつもの道は傘を差さずに歩いて行けた。

例年なら半袖のカッターシャツに薄い秋物の上着を着ていたのだろうが、その上着を箪笥のどこかに仕舞い込んでしまい、急激な気温の変化に追いついけず発見できないままなので、ここ数日は長袖のカッターシャツを着て上着なしの通勤スタイルで出かける。

霜降。

きょうの季語にそう書いてあって、吐息の白い11月下旬ころの田んぼ道を思い出す。

信州のほうからの便りでは、紅葉が1週間ほど遅れているという。

そんな話題が出ると決まって気候変動を指摘する声も上がってくるようになったのもこの10年ほどの間のことで、ますます社会の流れが大衆迎合型に変化してきて、その勢いで環境変化にも気づいてもらえるのはありがたいが、一向に暮らしの中に決定的な手段が定着しない。

ぶるっと震えた朝に怖気づいたのか、子どもがストーブを出さねばならないと言っていた。夏が過ぎて電力事情が少し安定しているものの、冬になると夏以上に電気の消費量が上がるだろう。

エネルギーを新しい発想で作り出し有効利用する取り組みは季節の移り変わりの数倍の遅さで進む。人の心は、メディアの強力な勢いのせいで、だんだん贅沢になり不満足を感じるレベルが高くなってくる。

これらのアンバランスな速度(の波長)が重なり合うねじれた位相の社会はいつまでも続くのだろう。この波動の上に、年齢とか健康などというパラメータが被さってきて、一段と社会の居心地感が複雑になる。

秋風に吹かれるススキのように風に揺られて、陽の光に輝いているのがいい。おいしい米粉で作った団子を食べたくなってくる。

霜降の朝には南勢方面で50ミリを超える雨を記録したのに、夕方にはその雨も上がって、あくる日は(今朝は)極上の朝日がわが部屋に差し込んできた。

▼古里はもう1,2度は寒かろうな ねこ
と思いながら、真っ赤な朝日を愉しませてもらった。

カツオ

カツオ

最近は、ブリとか(ハマチとか)サンマとかアジとか。

そういうのが多くて、カツオは久しぶりになりました。

すっかりネコになったムスメに半分あげて、私は4、5切れをいただきました。

お茶漬けは、お預け。

10月22日 (月)

2012年10月22日 (月曜日)

なぜ、ひとり旅なのか  花も嵐もⅡ その26

ひとり旅を続けていると、同じように旅を愛する人たちと出会い、言葉を交わし、ときには友だちになれる。

そこには人それぞれの事情があってひとりで旅をしているのだと思う。単に友だちがいないのではなく、ひとりを選択している人がほとんどだ。

都会の雑踏から逃げ出してきている人、仕事で受ける重圧で苛まれた自分自身を慰め労るためにやってきている人、何かを考えるために真っ白の世界を見つけにきている人など、様々な人々が旅という共通のカテゴリーの上ですれ違い合う。

たき火をしながら、夜空を見上げ、緊張のときほぐれた自分を見つめて、旅のことを考えるときに、多くの人は、ぼそっと「逃避ですね」と口を揃える。この「逃避」という言葉には途轍もなく深いものがある

本当は逃避してはいけないことを知っていながら、逃げている自分を許している人。あるいは、逃避するのもいいじゃないか、また元のところに戻る覚悟はあるさ、という人。

元気が出たから戻って行くよ。また、逃げたくなったらいつでも来ればいい、と考える人。いつまでもどこまでも逃げて行きたい、と真剣に考えている人。

何も考えないで、時間が過ぎてゆくのを、儚く淡い酔いに任せて、たき火を見つめ、過去を振り返り、未来を語っている人

ひとりで飛び出すだけで、同じ地面でつながって,一本の道を行けば辿り着けるところにいながら、誰も追いかけてこないユートピアみたいなとこにすっぽりと収まることができる。

ひとり旅かい、勇気あるね、と声をかけられたことがあった。そうなのだろうか。いや、確かにそうかもしれない。

日常社会のなかで、私たちは勇気を出せずに縮こまっているのかもしれない。縮んだままばっかしではカラダがおかしくなってしまう。息をするのと同じように、瞬きをするのと同じように、私たちソロツーリストは、あるとき、ふと、ひとりの旅に出る。

しかし、勇気なのだろうか。自分の行く方向を決めて足を踏み出すこと。その着地点が真っ暗闇でも、スリリングでありながら確信があって、自分のスタンスがわかっていれば、空を飛んでいる鳥と同じように、大丈夫なんだなと思う。

舞い降りる地面を探すというけっこう難しい技も学んでゆける。

2012年10月21日 (日曜日)

10月中旬のおいしい話

10月19日 (金)

ミカン 届きました

ミカン 届きました

ムスメのところにミカンが届く。

去年度までの赴任先でお世話になった方からだ。

私が、
自分に実力があって
自分の技術で一人で社会を生き抜ける
というような妄想を
過去に持ったのは、
間違いだった。

名誉でも地位でもお金でもないものを
大事にして暮らすことを、
肌身でわかるようになったころには
もう遅いのだ。

これからを生きてゆく人たちは
厚みのある人間になろう。
それを、無意識でできることが才能になってゆく。



10月16日 (火)

あじごはん

あじごはん

味ご飯には沢庵がよく合う。

庭にて

庭にて  10月17日 (水)

庭にて

まとった雨が降っている。
この日は畑などに出かけずに家にいて
のんびりと過ごしている母と
少し台所でおしゃべりをしてきた。


庭にて

あんまし風情のない庭だが
この狭い庭を見ていると
おとやんが丹念に植えた木が
美的に見えてくるから不思議だ。


庭で、あずき

庭で、あずき

縁先に小豆が置いてある。

お店で買えばそれで済むのだろうが
こういうものを育てて、ともに暮らしながら
日常を歩んでゆくという生き方が
実はヒトにとってとても大事なことなのだ。

経済学以前の話だ。

2012年10月20日 (土曜日)

パソコンのことなど

私のこと。

MAC ユーザーです。
FACEBOOK mixi にも顔を出しています。
ブラウザは、safari と Firefox
メールは、サンダーバード と MAC のデフォルト
iPhone も持っていますが、電話は数十円しかかけないので、契約が終わるときに解約を計画中。
MAC BOOK Air を考えています。
電話は、やめます。
ツイッターでは、十七音。
Facebook は面会レベル。
mixi は、対話がそれなりに進んだ人と。
こちらのブログは、私の書いたものをすべて書き残しておきたいと思って作りました。
残念ながら読んでいただくためのBLOGではありません。
アルバムもいい写真があるという訳ではなく、時系列的に残している面が強いです。
そうはいいながらも、私としても読んでもらえるといいなあというカテゴリはあります。
数々のカテゴリーにお気に召すものがあったらご覧ください。
なかなか、書き手と読み手の気持ちが一致しませんね。
BBBB=4Bな奴です。
BIKE
BOOKs
BIG BAND(楽器もキングの3Bです)
 そして
ビンボー
これで4Bです。

2012年10月19日 (金曜日)

栗ごはんあなたのキスの味がする ─ 10月中旬篇

10月8日

▼新米で誕生祝う寒露かな

店先のお米がすっかり新米に変わってしまった。
子どものころなら、10月10日に運動会があって、
まだまだ秋の稲刈りは済んでいないところもあったなあと思う。

青いミカンを運動会を見に来てくれた家族と食べた思い出。
これは次の世代の子たちには伝えられないのだな、とも思う。

10月9日

▼自画像に白く豊富な毛をのせる
▼夜が更けて貴方の似顔絵描いている

窓を開けはしていると少し肌寒いと思う夜があるこの季節。
考え事をするにはもってこい。

10月10日

▼この次の満月の夜に乾杯しょ
▼ねえ二人でいつか月まで飛ぼうと……
▼その辻の向こうであの子が待っている

この次の……なんて書いているので、この夜には月はなかったのだろうか。
満月が過ぎて、日々細く欠けてゆく月を見上げていたのかもしれない。

誕生日が近いせいか、少しウキウキするのだ。

10月11日

▼あの人に真っ赤な林檎のラブレター
▼秋の恋。これが一番燃えている
▼枝豆が妙においしい神無月
▼卵焼き黒く焦げたの朝寝坊

枝豆を茹でて食卓に出しながら、今が旬なん?とツマが言う。
そうかもしれないな、と答えて豆をつまむ。
地場産の豆だそうで、美味しい。

稲刈りのころに豆も収穫したのだから、旬なのだ、きっと。

そんなことが分からなくなっているなんて誰にも言えない。

10月13日

▼秋色のカーデガンの背中見る

こんなことを誕生日に書いて
その1行だけしか残っていない。

誰の背中を見たのか。
どんな人を思い浮かべていたのか。
それはいつ頃のことを頭に浮かべているのか。

私は、カーデガンという洋服をあまり好まず
ツマは大好きでよく羽織っている。

秋色ってどんな色だろう。
想像は目まぐるしく展開してゆく。

誕生日。
リクエストを叶えてもらって、ケーキは省略。
水割りを少しオマケしてもらう。

10月14日

▼灯台へのらりくらりとあなた流
▼青い海背中のキミにプロポーズ

10日に神島に出かけたときに
鳥羽の港で海上保安庁の巡視船が出てゆくのを見た。

自分が行けなかったからって、ムスメを海上保安庁に就職させようとまで考えた私だから、
ああ、船に乗る人になりたかったなあ、としみじみと思いながら船が残していった白い波を見ていた。

10月15日

▼大根の白き肌食べごろに

少し、艶も出してみる。

10月16日

▼願い事叶えるために今夜はここでペンを置く

風呂から上がって、寝所で本を読んでいる。
三冊も借りてきたので。

10月17日

▼まとまった雨おかまいなしに肩濡らす
▼石跳んで雨の庭先色とりどり
▼秋雨が濡らす軒先吊るし柿
▼あずき叩き冬には旨い餅食おう

休みだったので、母を訪ねてゆく。
お米をもらって、話をしてくる。

庭にて、柿
庭にて、柿

いつも同じ話をするわけではなく、話題は次々と抱負だ。
80歳超えてこれだけ頭の中が、喜怒哀楽に満ちていれば心配ないか。
友だちが次々と消えてゆくのが悲しいようだ。

10月18日

この雨が激しい雨に変わるころ、
あなたの傘は涙色、
金木犀の咲き誇る
テラスの家に消えてゆく、
好きでも追えない私を置いて

冷たい雨が柳を濡らす、
喜び満ちて出会った人と、
悲しみ流した疎水にかかる、
石の小橋で指切った、
約束遠く秋寒し、
雨いよいよ激しくて

▼栗ごはんあなたのキスの味がする
▼追いかけて雨一段と容赦なく
▼雨沁みてキミの帰り待つ改札口

演歌の作詞家になりたかったの
と好きな人に打ち明け話をしても
ふーんそう…といって、気に留まらなかったことを思い出している。

10月19日

▼秋の薔薇咲いてあなたの笑顔の如し
▼秋の花あなたに逢える日を想う
▼秋晴れや風爽やかで家におり

太平洋の沖を台風が関東の方面に進んでいる。
けれども、昨日まで激しく降った雨は早朝にはあがった。

洗濯ものをパリッと広げるその音がすがすがしい。

2012年10月16日 (火曜日)

戸隠へ  花も嵐もⅡ その25

信州には戸隠というそば処があります。

あそこへ東海地方から日帰りで走るには、それなりに根性が必要です。中山道を北上して松本市あたりまで行っても、そこから長野市方面が遠い。

実際に80年代のころの道路は、現在とは比較にならないほど昔ながらのものでした。ですが、若さとは凄いもので、安曇野から鬼無里を抜けて戸隠まで行って帰ってくるのだから凄い。若者は燃えているのでしょう。

名古屋周辺を拠点とするネットの仲間と日帰りで行きました。私よりも歳上の人も多かったから、驚くほど中年ライダー揃いでした。

戸隠の蕎麦がどれほどまでに旨かったのか、私に語れる才能はないですけど、学生時代に戸隠登山のために麓に入って、4日間雨が降り続いて戸隠中社の 付近で張ったテントの中で晴れるのを待ったことがありました。それ以来の戸隠でした。

早起きした。
走った。
蕎麦食った。
このホップステップジャンプが大事だったんだなと思います。

このころからツーリングが変わり始めたのでしょうか。富山県の利賀村に蕎麦を食べに行き、長野県の戸隠に蕎麦を食べに行く。
だんだんと「蕎麦ツー」というものが楽しくなってゆきます。
美味しいものを食べなければバイクで出かける意味がない。
そこまで思うようになりました。

バイクは走り回るためのものではない。
私に食べる喜びを誘う(いざな)うものだ。

走ることから一歩飛び出した私は、のちに、食べるもの以外に愉しみを求めるようになってゆきます。

カラダを解きほぐしてくれる湯舟というものに出会い、
また、野宿をして満天の星も見上げるようになり、
多くの人とも巡り会う。
旅というものは、ストイックな状況で生まれるものであり、無限の未知があるから走るのだと気づきます。

旅先の限りない感動を求めて、筋書きのない、想像のできないところに向かって走り始める。その先を夢に描くための手段は、現代のようにネットなどにあふれている情報ではなく、たった1枚の地図だった。夢とはそういうもので描くものだと感じ始めていたのでした。

旅が無限に拡散し始めます。

2012年10月13日 (土曜日)

タコの唐揚げ

タコの唐揚げ

私はこれが好きで、リクエストを時々する。

別に変わった料理でもないのだが

タコをそのまま唐揚げにするだけで
鶏とかもいっしょに唐揚げにする。

欲張りな僕は
タコを少し残しておいて
酢の物にしていただく。


(誕生日)

タコの唐揚げを食べて、
ビールを飲みました。

人々の暮らしの中から
「よそいき」とか「ごちそう」という言葉が消えて
四半世紀が過ぎます。

昨晩は、私にとってごちそうをいただきました。

孫さん、野田総理など
同い年ががんばっているので
私も颯爽といこう。

ポリープ拡大写真

ポリープ拡大写真

ポリープ拡大写真

大腸朋腫というらしい。

1年間、大事に育てることになりました。

(いつかは癌になることもできるそうです)



もう1か所、気になるところがあったので、

炎症部分

炎症部分

こちらも生検しました。

炎症を起こしているだけだそうです。

ほっ。

秋の夜長に考える その4

秋の夜長に、これを書きながら大黒柱が家にあったのを思い出している。

東大寺の大仏殿で見たような大きくて太かったものであったかのように記憶が蘇るが、昔の記憶というのはそれほどあてにならず、いくらかは変化しているだろう。過去の景色などが美化されて蘇るのと同じメカニズムだ。

柱の太さを定量的に計測した記録がないので不明である。だが、現在のうちの柱を測ってみて、普通の太さのものでおよそ120ミリほどであることから考えて、私の生まれた家の大黒柱は300ミリほどであったのではないかと推測する。靴のサイズや肘の長さより幅は広かったし、その柱の脇にあった黒電話の台がその蔭にすっぽり収まっていたのを記憶する。小学生のときは柱の蔭にひっそりと隠れることもできた。

あの家の太い柱はその1本だけで、ほかの柱はその半分ほどだった。障子や唐紙を4枚纏めて片側に寄せて閉めて(4枚重なる厚みに)やや余る程度だった。このごろの柱はさらに狭くなってきて、新築の家を見かけて父があまりにも細い柱なので驚いていたのを思い出す。もうあの時代のような重厚な家を建てるような必要はないのだろう。

大黒柱のある傍らには、「つし」(厨子)と呼んでいる屋根裏の倉庫への梯子があった。上には風呂に焚きつける柴であるとか雑穀などを保管していて、台所からはその梯子を登ってゆけるようになっていた。

何事においても、このように暮らしの中から考え出されたものに対し工夫に工夫を重ねたものを人々は生活の中に取り込んで、まこと慎ましやかに暮らしていた。生産高も増えない、つまるところ経済的な発展もない長い長い歳月を、幾つかの世代を通して伝承してきていたのだ。

家を壊して近代的な暮らしや生活スタイルが浸透するとともに、農業というものが培った文化も廃れ、家族はマネー(お金)を稼ぐために外に出て働き、国は経済的発展を遂げて、どんな田舎の人であってもお金を稼いで豊かさを感じるように社会が変化してくる。

押しなべて、このような文化が齎したものが家族の中の関係の変化であってマイナスの効果ともいえるのだろう。父親というものが「父」という立場だけを表す言葉になり、その人の生まれたときからのものの見方や考え方や、さらには先祖代々からの人々の暮らしぶりや喜びや苦労などを、言葉や言葉以外の「なり」や「ふり」で伝承することを絶たれてしまった。

このような人間味であるとか無形の心というものが家屋の中で醸されてきた時代の最後の世代が私たちなのだと思う。これは、言葉や数式、さらには精神科学や心理学、民俗学の資料では受け継ぐことのできないもので、残念ながら私でさえわが子に伝えることができない。まさかそんな世紀が来るとは、私の前の三代、四代の祖先は考えもしなかっただろう。

【- Walk Don't Run -】遺す言葉

2012年10月12日 (金曜日)

秋の夜長に考える その3

秋の夜長に。

季節が秋だったのかどうかは全く記憶にないが、父が寝床で日記を書いていたのを思い出す。

一年中欠かさず書いていただろうから、季節が秋であったというわけではなかろう。しかし、確かに父は枕を胸にして温かい布団にくるまってうつ伏せで書いていた。

子どもの私は大人が書く日記など全く関心もなかったので、枕元に置いてあっても開けもしなかった。母も夫の日記のことなど興味も無かったに違いない。一年分を書ける日記を父は使っていて、小さな字がぎっしりと詰まっていた。

一度だけ何処かのページの、ほんの一節だけ見たことがあった、というか見えてしまったのだ。当然のこと、内容のことは記憶にないが、何か小説のような、あるいは詩文のような文章であったことが微かに印象として残っている。

あの日記は父の死期が迫っているころ、興味のかけらも持たない私の母が、何か部屋の整理整頓の拍子に捨ててしまったと思う。きっと間違いなく、誰にも、父にも、尋ねることもなく焼き捨てたと思う。

父はどういつもりで日記を書いていたのだろう、今の私の気持ちと同じであったのだろうか、もしそうなら、私の書いているこの日記が突然消滅したら……私ならばさぞかし悲しむだろうから、あの人もやり場のない無念を感じたはずだ。

しかし一方で、頭の片隅で焼き捨てられることも予期していたに違いない。日記が焼失したことは誰にも話さず、焼いた人の気持ちをいたわったのかも知れない。

こぼれた水を叱るような人ではなかった。

【- Walk Don't Run -】遺す言葉

2012年10月11日 (木曜日)

続、秋の夜長に考える

秋の夜長、テレビを見ることも無かった父はどうして過ごしていたのだろうかと、母に尋ねたら、本を読んだり尺八を吹いたりしてたな、と言う。

仕事のこと、生き方のことにおいても、何ひとつ小言など言わぬ人だった。私と同じような性分だったとすると、相当に堪えていたのかもしれない。

66年と10ヶ月という歳月の最後の6年ほどがどれほど充実したものだったのか、或いは後悔に満ちたものだったのか、私にはわからない。自分勝手にその頃を生きていていた私には今となっては計り知れないのだった。

倅とはそんなものなのだと思っていたかもしれない。強くものごとを追いかけるということをしなかったのは、ほどほどでやめておくという大人しい一面があったからだろう。

しかし、もう少し生きたかったに違いない。あと10年余りという節目が近づくに連れて、手繰りようのない糸を手繰ろうとしてしまう。人間とは、そんなものだろう。

一年という時間を四つに分けた人がある。さらにそれを二つに分けて、さらに三つに分けようと考えた人がある。

二十四の節気に分けられた私たちの暮らしの波長が、移ろう季節と同期して身に染みて、さらに心にまで染み込む年齢になってきた。

そのことをいくら言葉で説明して伝えようとしても儚いことだろうと思いながらこれを書いている。

【- Walk Don't Run -】遺す言葉

2012年10月 9日 (火曜日)

おまえなんか夕焼けと一緒に燃えてしまえ - 10月上旬篇

10月2日

▼ねこに一歩、近づいて、ねこになる

朝のうちはこんなことを言いながらの出勤だったが
3日のお昼に大腸カメラの検査をするので
夜は静かに眠りたかったのだろう。

▼月がきれい。見上げるふりして吠えてみる
▼一目みてたちまちのうちに指切った
▼静か過ぎて貴方に好きだと言い出せない

月は何処かに
貴方は遠くの人に

寂しいにだろう。
きっと、思いを寄せていた人が
遠くに離れて行ってしまうのを悔やんでいるのだ。

▼月が高くて寝所まで差し込まないので

冬の月は高いからね。寝所までは届かない。
それが、また風情なのか。

10月3日

▼ぎんなんは大人の香りと言った人
▼母校への銀杏並木や三十年

銀杏並木を見ると悲しくなる。
黄色が嫌いなのではなく
あの黄色い葉が木枯らしに揺られて舞うのを
やがて冬が来て舞うのを
私は見たくないのかもしれない。

▼あの人と銀杏並木を歩いたことはなかった

私はある日の出来事を思い出しているのかもしれない。

あの坂を登ったところのイチョウも色づいただろうか。
富士見坂を越えて神社の方に曲がる角のレンガという喫茶店の前で
僕たちは4年ぶりに偶然の再会をしたのだった。

神田川にあの頃の面影はないな。
その昔の面影を辿って書きかけのストーリーを書き続けて行きたい。

▼夕暮れが待ち遠しいの、淋しくても
▼夕焼けや電車丸ごと惹きつけて

夕暮れというのは特別な匂いがする。
路地を歩いてもサンマの匂いやすき焼きの匂いがする。
激しくニンニクを炒めた極上の中華の匂いがすることもある。

夕焼けを見上げながら
あの山を幾つも越えたところにいるある人に会いに行きたいなと思う。

▼路地裏を曲がればおでんの予感する
▼味ご飯未だ引き継がず八十歳

とにかく、
秋は哀しいのだ。

10月4日


▼主翼灯、遠い夜空の恋煩い
▼夕焼けが誘ってくれる恋模様
▼おまえなんか夕焼けと一緒に燃えてしまえ

そういう訳で
夕暮れが私を苛む日が続く。

▼ふと鏡で見た自分カッコいいかも

たまには自分を褒めてみる。でもね、なんだか。

10月5日

▼どうして月を見ていると一人の人が恋しくなってくるのかという疑問

あの人の顔がまんまるで月みたいだったから
いいえ
色白で透き通るようだったから。

まあ、いいんだ、どうでも。
月を見てると哀しいというより、悔しくなってくる。

10月7日

▼この季節、ひれ酒夕べ飲みました
▼約束よ、指は切っても秋の空
▼新米で誕生祝う寒露かな

さて、
酒は一人で飲むがよろしい。

旨さが染み通るのを味わうのだ。

この次の満月で乾杯しよう。

2012年10月 8日 (月曜日)

何もかも許せてしまうそんな秋

少しだけ痛みの残る秋である
いつかの棘がまだ抜けなくて

わたしは誰にも打ち明けられない悲しみを
そっと探すのだ。

6月の終わりのころのメモから

僅か30数年前のいまごろ、
私が大学生であった頃に
父が私宛に書いた手紙には、
6月下旬に田植えが忙しいと
書いてる。
今の時代はもう、ひと月以上前に
田植えも終わり、青苗は
スクスク大きくなっている。
~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~
6月下旬の田植えが終った田んぼを見て
僕は何を考えていたのだろうか。
このメモを書いたころに古里の母を訪ねて
昔は田植えが遅かったことを話し、
そのことを一緒に懐かしんだ。
母と一緒にいるときは、昔のことなど思い出しながら
懐かしんで愉しむようにしている。
長かった年月からすれば、終わりまではもうすぐだ。
覚悟は、しているつもりでいる。

新米や誕生祝う寒露かな ─ 寒露篇

青いミカンが店先に並び始めてもちかごろは驚かなくなったとつくづく思う。ヒトははっと驚くことが大切なのだ。しかしながら、サンマが秋に出回っても、青いミカンをほくほくと食べられる夜長を迎える季節になっても、それがずっと前からの筋書き通りであったかのように過ごす。

と いいながらも、それが幸せなのだ。幸福というものはそういう当たり前のようなことを何の遮りもなく戴いて過ごせることをいうのだ。これは豊かさという概念でも同じだ。このことは、何度もこの「銀マド」で触れて、それを自分に差し向けて時には反省をし、さらには元気の源にしてきた。

さて、

新米や誕生祝う寒露かな

新米で誕生日を祝うなんていうことばの遊びすら何にも面白くない。新米など、今の時代に何が有難かろうか。コメなど収穫できて当たり前になったのだから。しかし、子どものころ……と書きながら早や50年も昔のことになるのかと思うと、その社会史を年表ではなく自分の目で見てきたことにもささやかな感動をおぼえるのだが、そのころの秋の運動会では両親がそろって見物に来て、地区ごとに区分して敷いてある藁の蓆の上で、子どもが駆けるのを応援したのだ。

青いミカンをその季節に初めて食べるのは、この運動会のお昼ご飯の時であった。あのときの大きな握り飯は新米だったのだろうか。母の握り飯は、きれいな三角で、この頃の人は三角に結ぶことむ下手糞になってしまったことを思うと、私たちは豊かさと引き換えにああそんなものまで失くしたかと、いささか寂しい思い である。

寒露。

小春日の陽射しをふんだんに受けながら縁側でゴマを叩いた子どものころを思い出す。静かな秋だった。

2012年10月 7日 (日曜日)

カルビも買って、サンマもねだった

サンマ。刺身で
10月 6日の夜

カルビを買ったのに
サンマも欲しい
と言ったのでした。


サンマ。刺身で


割引シールが目に入ると

停止抑制がかからなくなります。


お肉は控えようと思っているのですが
買ってしまう。


あとで、サンマも買うのに・・・・


カルビ

カルビ

久しぶりの肉に手が震えたのか……ピントがボケた

2012年10月 6日 (土曜日)

蕎麦ツー  花も嵐もⅡ その24

利賀村というところがある。蕎麦がたいそう旨いという。
しかしあのころは、蕎麦にはそれほど関心はなく、新しい味覚を求めてバイクを飛ばすということの方に私は熱いものを涌き上がらせていた。


必然的に話題性と新規性で未知なるエリアを目指すたびが多くなり、あの年の秋は利賀村を目指すことになった。一緒に走るのは中日ネットのバイク仲間たちだった。年齢層も様々で、歳上の方々も目立ったことが私の性分に合致した。


バイクツーリストとしてはまだまだ未熟な時代だ。私は三十四、五歳で、娘は四、五歳だった。このころから家庭をそのままにしてバイクで駆けずり回る人生(中盤戦)が始まった。


利賀村蕎麦ツーは記録に残るツーリングだった。バイクとともに歩んできた私の人生のひとつの節目となり、転機でもあったと言える。また、ひとつの見方としては勢いづいた上昇気流に乗って、何をしても後悔もない時期がこのころから始まったとも言える。悪く言えば、周囲も何も見えない一途な自分がいて、間違いを正す人もなければ咎める人もない時代、自信に満ちた輝かしい時代だった。


そのときの善し悪しを今になってとやかく悔やんだり讃えたりするつもりなどさらさらなく、また、その必要もないと考えています。人にはこのようなひとときが5年とか10年あるいは長ければ20年という周期であってもいいと思います。しかし、そのことを後で自分の人生の糧にするということが前提ですが。


性格にも拠るかもしれないが、このような時期は決して長く続かないし、むしろ長く続けることは好ましくないと今は思っています。ひとつの判断を持って旋回をしてみること、これが幅広い視野と多角的な視野の下に築かれる冷静で的確な判断力と未来を見つめる眼を育てると思うのです。


私の場合、20年間ほどはバイクで走り回っている人生を過ごしました。娘が生まれてから二十歳頃までという勘定になります。果たして、それがどうだったのかは今となっては誰が何とも論じることも評じることもできない。


さて


利賀村への蕎麦ツーが具体的にどんなものだったのかは、実はしっかりとは記憶に残っていません。ツーレポも残っていない。パソコンが不調になるたびに記録が消滅して行ったので、その途中で日記も消えて行ってしまったのでしょう。ま、仕方ないか。でも、利賀への蕎麦ツーというツーリングはあったのだ。


そのあと、利賀へは何度も何度も行きます。それは利賀村の蕎麦を食べるツーリングで、それまでの私にない新しタイプの旅のカタチで、「食べる」ツーリングの愉しみでした。


牛首峠、楢峠(奥飛騨)という記録が1992年の日記にあります。この年代ころは、明けても暮れても、夢の中でも、蕎麦を食べに行く山岳峠道が浮かんできては頭にこびり付いていたのではないでしょうか。ほんとうに寝ても覚めても。


奥飛騨というエリアは、でっかかった。そして遠かった。紅葉は腰が抜けるほどきれいだった。人生を生き抜くうえで使う「きれい」という言葉の意味が、私の辞書の中でガラリと変わってしまった。


蕎麦という食べ物の概念もすっかり新しくなります。


利賀村までは、土砂降りの「山の神峠」を越えて行きました。あるときは野営をしてまで行った。あのころの「山の神峠」は、山岳悪路を走る専用の車でない方々はきっと苦心したのではないでしょうか。凸凹で険しく狭い峠で、絶壁に迫りながら越えてゆきました。


朝、テントを出ると周りの山が真っ白の雪景色に変化していました。私のサバイバルでハングリーで、ロマンとセンチに満ちあふれたバイクツーリスト人生は、ここで基礎固めされていったのかもしれない。そんな風に思いながらこのころの日記を読み返しました。

2012年10月 3日 (水曜日)

ネットさきがけのころ ─ 花も嵐もⅡ その23

バイクの旅人だと自分で言うようになったのは、30歳ころからだろうか。それまでは、近所の田舎道を勝手気ままに走っていただけだったから。


最初は民宿利用が多かった。のちにユースホステル(YH)、キャンプ、野宿、と変化してゆく。


1990年代になってバイクの旅人たちと交流をするようになってくる。インターネットなどに設立された電子会議室が私と大きく変えていった。


名古屋に本社のある中日新聞が「中日ネット」という今でいうSNSを始めたのに参加したことで東海地区の友達が瞬く間に増えた。


オートバイの集まりは楽しかった。朝4時ころからでも家を飛び出して名古屋界隈のみんなと合流して、奥飛騨などを目指して走ったこともあった。


一方で、全国規模の電子会議室にも参加した。近頃、あのころを懐かしんで同窓会をやろうとしている「ニフティサーブ」のオートバイフォーラムにどっぷりと入った。


ココでは、ツーリング部屋の管理人までさせてもらって、全国規模で旅の話をした。それと同時に私の旅も遠くへ、もっと遠くへと出掛けるようになってゆく。旅先で知らないバイクツーリストさんから「ねこさんですか?」と声をかけられたりすると嬉しかった。


中日ネットとniftyのFBIKEのことはこの後で書こうか。

草津-白根

1983729

1983年7月29日
草津-白根 有料道路

懐かしい写真が出てきたので、ここに入れておくことにした。

2012年10月 2日 (火曜日)

ねこ

猫に一歩。近づいて、猫になる

---
【つぶやく十七音】 号外

M's Zoom

  • 健ちゃん
    M's Days フォト

写真日記(平成28年版)

  • 越乃寒梅
    平成28年の
    日々の写真に
    コメントを
    綴ります

京都日記(平成27年11月)

  • 渡月橋
    京都日記
    平成27年11月篇

京都日記(平成27年7月篇)

  • 鱧のお弁当
    京都日記
    平成27年7月篇

京都日記(平成27年春篇)

  • 焼き鳥
    京都日記
    平成27年版の
    春の日記です

写真日記(平成27年版)

  • 伊達巻
    平成27年の
    日々の写真に
    コメントを
    綴ります

日々是好日写真記

  • ハーモニカ
    860枚 平成18年から平成26年まで(写真日記)

Walk Don't Run

  • ユース宿泊スタンプ帳
    忘却をおそれず
    記憶を記録として
    遺そうと思う
フォト

BIKEs

  • 平成24年(2012年)最後の春(閏日)のKLE
    かつて
    バイク・ツーリスト
    だったころ
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
2018年5月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ