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2012年6月12日 (火曜日)

山本兼一 利休にたずねよ

この作品をわずか21ページしか読んでいないときに、「山本兼一・利休にたずねよ」から、とし断ってブログに次の箇所を引用している。それは物語の一部始終を何も知らない私であり、何が大事で、何が神経を刺してくるのかさえ想像もできない段階であったのだが、引用した箇所を今読み返してみて、この物語の鋭い棘が私を刺していたことがわかる。


懐から袋を取り出した。美しい韓紅花に染めた麻の上布だが、すっかり色褪せてしまった。なかに小さな壺が入っている。掌にすっぽりおさまる緑釉の平たい壺で、胴がやや上目に張っている。香合につかっているが、すがたは瀟洒で、口が小さい。もとは釈迦の骨をいれた舎利器だったかもしれない。全体にまんべんなくかかった緑釉に、深みと鮮やかさがある。よく晴れた夏の朝、海辺に出て濃茶を練ったら、こんな色に見えるだろうか。気の遠くなる歳月をへて銀色に変じた緑釉の景色は、見ているだけで、顔もこころもほころんでくほどやわらかい。緑釉の色味が、唐三彩の緑よりはりかに鮮烈である。おそらく、何百年もむかしの高麗の焼き物であろう。あの女の形見である。(P21から)

山本兼一 利休にたずねよ


作品は、書き出しからフルパワーで掛かってくる。脳震盪を起こすほど激しく刺激的な文章は、決して攻撃的でも呪文のようでもなく、坦々と読者を利休の居る世界に、あるいは時代に、そしてその場所に誘い込んでしまう。とりわけ、湯が滾り、雑音が消え、花入に花が差されて、私を睨みつける一輪がそこにあるのだという凛としたなか、私は本を手にすることができる。

子どものころ、花を生けている母に向かって「僕も華道を習いたい」と言ったことがあった。母はすかさず「男の人なら茶道がふさわしい。そっちが面白い」と返した。あのときの会話がこの小説を読みながら何度も何度も蘇った。私は陶器が好きで、花を生けてあるのを見るのも─あくまでも私なりに、大好きなのだが、人の言葉や振る舞いは心の奥深くで形や色を変えて刺激を与え続けるものなのだろう。

歴史小説であることも意識せずに読み始めた。そしたらこれがなかなか、直木賞のなかでは指折り上位に入れてもいい作品だった。車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」の読後のときも私は感動することを飛び越してしまって、そう、神経と魂を抜き取られたように腑抜けになってしまった。ああ、直木賞って素晴らしい。でもその言葉だけで表せない「芸術」と「美」がこの作品にはあるのだ。本屋に棚積みした単に売れるだけの小説と区別のできない人は読まないでいただきたい。間違って読んでしまっては詰まらぬ読後感をばら撒くことになりかねない。

あくまでも小説で歴史物語なのだから、そう簡単に歴史は変えられない。変わりますまい。しかし、秀吉でなくても、誰であっても緑釉の棗は欲しい。手に取りたい。私も欲しい。持ってる利休が憎たらしい。もっと、羨んだのはそこまで激しく命を賭けることに美を追求できたということ自体が、なかなか私に真似ができるだろうか。悔しかったのでしょう。

「うたかた 利休」の章の最後で、「利休のこころの闇に、夥しいうたかたがはじけ、饐えた匂いをふりまいた。」と終わり、次の章が「ことしかぎりの 宗恩」となり「─薄情なひと。」と書き出す。

このあたり、いつもなら赤ペンで線を引きまくるところだろうが、この作品はそれを許さない。じっとこちらを見つめる槿の描かれた本を両手で包み込み、女の心というもの、利休の追憶を想像する。

そして私は、そこに栞をそっと挟んだのだった。その理由ですか……「利休にたずねよ」、ということで。

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