煙突の下に
砂女さんのエッセイ(779)を読む。
文筆をなりわいとなさっていたかのようなタッチが好きで、時間ができると覗きにいく。
四日市という文字が目にとまった。煙突の話から始まる。
私の仕事は四日市の空を見ていることだ。煙突の煙がどちらに靡いているのか、きょうの視程はどれほどなのか、を毎朝確認し情報を提供する。
大気汚染は、昭和40年代にピークを迎えるのだが、もはや、あのころの空を知っている人は50歳を超えてしまい、鮮明に思い出せる人は60歳を超えてしまった。
あの煙のなかに含まれる大気汚染物質を胸いっぱいに吸って喘息で悩んだり体調不良になった人たちは年々減っていき、あの時代を伝える語り部さんたちもやがて消滅するのだろう。
公害は、身近な出来事や日常の記録であった時代から、ひとつの歴史に変わりつつある。今や、行政にかかわる人たちでさえその苦しみを知る人が少なくなり、このひとつの重大な人間の過ちを解決済みの忘れられてしまうような事件ではなく、時代を区切る失うことのできない大切な世紀に起こった社会学的にも貴重な痕跡として歴史に残さねばならない。
そう、カラダで感じている人たちも減ってきた。四日市市は、ごく普通の地方の中核都市になり、豊かな自然と重厚的な産業との共存する住みやすい街に変わってきている。
煙突の下に煤で汚れた工場群がある。
仕事でその中に入る機会があり、コンビナートという形のない言葉が意味するものを肌で感じたことがある。
綺麗な服を着て、髪飾りをつけ、ピリッとお洒落をして街を歩き、美味しいものを食べ愉しいことに歓声をあげている社会。そのもう一方に、このような埃臭く、油の染み付いたところがあるのだと知ったとき、わが国の豊かさの本当の姿を知るためには、ここに来て歴史を学ばねばならないと痛切に感じた。そのことを思い出した。
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