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2012年4月30日 (月曜日)

ウドを食う

うど

うど

近年、これほどまでに美味いうどを食ったことはない。
人の心が寂れてゆくほどに、美味さが増す。
(作られたモノが出回っているという嘆きもある)

これを食わねば夏は迎えられない。

子どものころに父がウドを美味そうに食べているのを見て
こんなもののどこがいったい美味いのか、と思ったのを回想している。

父は無口で、
こんな美味いものがワカランか
と言っただけだった。

今の私ならば
これは大人の味なのだ、とか

人の作り上げた豊かさの中で味を知ることをできなくなった奴らが美味いといって食っている味には虚像の自己満足が多いだろう、オマエにウドの味がわかってたまるか、

と、さらにはもっともっと長たらしく講釈を言うところだが、父は無口だった。
無口な人ではないだけに、その無口に意味があった。

父は酒を飲まない人だったので、ウドをつまみながらも、炊き立てのご飯を食べたのだろう。あの人がカラダで感じた味を、私はどこまで感じられるのだろうか。

味は千年も二千年も遥まで変わることはない。

ヒトが文化を枯れさせて滅びることの発端には、こういうものを見逃してしまうことを許す豊かさではないか。
それは幻の文明であり幻の進化だ。

坂道を先に駆け上がって行ったあの人のうしろ姿が陽炎 ─ 4月下旬号

4月26日(木)

▼貴方なら明日の花は何にする?

花屋の店先を通って
春の色と優しく甘い香りの花々に出会う。

店のテーブルではいつもの店員さんが
花を切っていけている姿が窓越しに見える。

私が好きだった人も花が好きで、
思い出にあるのは
花を生け終わって花台に向かいあっている姿だ。

花屋になりたいの。夢なんです。
京都からこの地に移り住むときに、ある人にそんな話をした覚えがある。

4月27日(金)

▼貴方には夏のイメージよく似合う

いよいよ、明日から大型連休だ。
あの人は、旅に出るのだろうか。

もはや、初夏の気温だ。
夜半、机に向かったときに机の上に積んだ本の一番上にあるのを見つけた。

ひとの
最後の
言葉
大岡信

BOOKs】から

大岡信 ひとの最後の言葉

「さりながら、死ぬのはいつも他人なり」

序章は、マルセル・デュシャンの言葉から始まる。

4月28日(土)

おはようさん、道はひっそり、鳥は賑やか。

聞きなれない鳥が近所の小枝に来ている。
うっかりと寝ておれない。

▼ 朝日まぶしくGWは始まった
▼ 朝霧の光の渦を泳ぎゆく

私はどこに
旅に行くわけでもなく
会いたい人もあるわけでもなく

▼ 一人旅貴方のいない切り通し
▼燦燦と窓いっぱいの春花粉

4月29日(日)

▼ 暇すぎて哲学者の如く成る
▼ しみじみと大空みればくもの飛ぶ

今やもう奇跡を起こしてまでして、
あの人を連れ去ろうとは思わない。

▼坂道を先に駆け上がって行ったあの人のうしろ姿が陽炎

なんだか、短歌っぽくない?なんて。

▼雲雀高くさえずる空に飛行機雲

暮らしてみたいと思った。
遠くで汽笛を聞きながら。

哀しい歌ばかりを口ずさみながら
どこまでも山を越えて走っていったあのころを思い出す。

あれはあれでよかった。

木曽路 ─ 花も嵐もⅡ その8

【木曽路】

ひとりで旅をする人の多くは、誰にも束縛されない自由な時間を愉しんでいるのかもしれない。なかには、淋しくて仕方がないと思いながら道ゆく人もあるのだろう。立ち止まって同じような人にめぐりあい数少ない合言葉で挨拶を交わして、もう一度ひとりの世界に戻ってゆく。

「是より北 木曽路」の碑を見ると必ず寄り道をする。東海道が主たる街道だった時代から、川を渡らなくてすむ中山道へと人の流れが移っていった時代があったのだろう。しかし、そこには山深い峠を越えても越えてもまだまだ遠い旅程が待っていたのだ。

私たちは、旅を愉しむ。愉しみながらあのころの、いや、そういう時代の止まったような時間に触れに行きたいのだろうと思う。

時間を止めるというのは、誰もが描く夢のひとつだ。

夢を追い続けることが、私の旅だった。

なぜ夢を追い続けるのだろうか。

2012年4月29日 (日曜日)

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2012年4月28日 (土曜日)

角煮 ふたたび

角煮

角煮

2012年4月25日(水)
久々の角煮だ。
去年の秋以来かも。

きつめの甘辛はやめにして、
ゆる味にしました。

--

【FB】

そういえば、角煮を載せていなかったな。(久しぶり2度目の掲載)
美味しく煮る隠し味は、ピーマンを丸ごと1個入れることです。
ニンジンは愛嬌です。ニンジンピーマンしいたけは、だしのつもりでしたので、食べない予定でしたが、食べてみたら美味しかった。マル

GWは、昔は必ず旅に出ていましたが、昨今はセーフモードの暮らしなので、近所に散歩に行く健康的な暮らしをしています。

今夜は餃子を作って、腹いっぱい食べようかな。美味しく作るコツは、分厚いマイまな板で徹底的に野菜を微塵切りにすることだ。わは

※たまごは定番です

2012年4月25日 (水曜日)

いばら饅頭のこと ─ 4月中旬号外

4月22日(日)

▼せめて一度好きだと貴方に伝えとう

そうえば、
花が咲いたあとに出会って
花が咲く前に別れてしまった人がいた。

もう憎んでもいないけど。

▼春嵐や別れる人の髪濡らし

嵐のように雨が降ったのだろうか。
花を散らしたのだろうか。

サクラは、散りたくないと、願っていたのだろうか。

4月23日

おはよう、雨降り。

▼一輌のディーゼルがずぶ濡れでやってくる

▼貴方にはしびれ薬の饅頭を

+  +

いばら饅頭のことを
私の古里の母は
かしわ饅頭と総称して呼ぶ。

饅頭の文化というのは
探ってみると面白い。

先日、その古里に帰ったら
母が形のゆがんだヨモギ餠を出してくれた。

50年間、形を変えることなく
丸められてきた餠だが
そろそろ食えなくなるのだと思うと
2個続けて食ってしまった。

中山道 ─ 花も嵐もⅡ その7

【中山道】

初めての旅が乗鞍だったということは大きな意味を持った。その後、何度も信州へ足を運ぶきっかけとなったのが乗鞍だったし、アプローチが中山道と飛騨高山側とに分かれたので、変化があった。素晴らしい場所であると同時にアプローチを愉しむ旅を覚えてゆくことになった。

景色が良いこと、蕎麦が美味しいこと、そして何よりも道草旅をするために乗鞍へと向かった。中山道は情緒があって、何度行っても飽きずに道草ができた。少しずつ、伊那谷のほうへと足を伸ばしたりしながら、峠道を愉しむ旅は続くのだ。

永年乗っている間に三河から伊那方面へ向かう道路も整備されてきたし、権兵衛峠もトンネルになってしまった。実はまだトンネルを走っていないのだが。中山道には道の駅が充実したし、町をバイパスする道路がいくつも増えてきた。

30年間という時間は目を瞑っている間に過ぎたわけではないので、少しずつの変化を見ながら、時には道路の開通に驚きながら走ってきた。

正直、このように便利になった道路を走って、もうこれ以上旅をする気はなくなってきている。便利を理想としてきたわけではなかったし、早く移動できることを望んできたわけでもなかった。だから、これからは列車に乗って、徒歩も使っての二人旅を愉しんでいこうと思う。

中山道といえば、お蕎麦を食べに次から次へと店を捜し求めた。地元の人たちと石垣に凭れて話をし、暮らしの変化の様子を聞いたり、美味しい蕎麦や自然の味覚を味わった。

木曽馬のことも学べたし、栗きんとんや五平餅にも出会えた。自分の足で地元を掘り起こして見つけたという満足感が私にはあって、今や雑誌やメディアで取り上げられるそれらを、私は私の時代に味わえたことがこの上なく嬉しい。

2012年4月22日 (日曜日)

心の写真

(4月9日のメモから)

心の写真
・・・・なんてものがあると思うか?

*

あのころは夢だけ食って生きていた。

夢は叶わないが、
少し近づくことで満たされた気持ちになれる。
いつか叶えたい。
叶うことなどないのだろうが
諦めても棄てない。
*

何者かに心を奪われてゆく瞬間。
その快感やスリルが忘れられないから
ふたたび。

いや違う。

奪われてゆく瞬間には、、
きっと何も感じていない。

死んでゆくときも同じなのだろうと思う。

曖昧なもの

アンドウのお父さんが行ってしまった知らせを聞いて
あれこれ理屈を書いたが、そんなものに意味があったのかどうか。

実に、

記憶というものはいい加減なもので、
私は、親父の死んだときのことなど、
ほとんど憶えていない。

そんなもんなのだろうか。

いや違う。

(4月8日のメモから)

合わせ鏡その隅っこに君がいる ─ 4月中旬篇

4月の中旬は、こともなく過ぎてゆく。
雨が降り、晴れとなり、また雨となる。
花はちり、人も散る。

そぼ降る雨が、
水をいっぱいにたたえた田植え前の田んぼに降り注ぐ。

季節のこういう側面を見るのは、必要なことだ。

雨が降らなければ
母親は蛇の目でお迎えには行けない。

4月10日(火)

▼せめて一度好きだと貴方に伝えたかった

そうえば
花が咲いたあとに出会って
花が咲く前に別れてしまった人がいたなあ。

4月11日(水)

▼春嵐や別れる人の髪濡らし

嵐のように雨が降ったのだろうか。
花を散らしたのだろうか。

サクラは、散りたくないと、願っていたのだろうか。

4月12日(木)

▼花びらよ宙へと自由に跳ぶ瞬間

花が散ると、
花屋になろうと思い
都を離れたあのころを思い出す。

▼道ばたのソメイヨシノ葉が出始めて
▼一列で黄色い帽子がピカピカで

-*

毎朝のかわいい高校生の鏡、
覗き込んだら目が合って

▼合わせ鏡その隅っこに君がいる

散る花が惜しいのかなと思いながら
そんな奴じゃないなあ、私は、とも思う。

▼散る花で祝い忘れよその人を
▼舞う花や別れの盃なみなみと
▼いい夢を見る方法を探ってる

4月13日(金)

▼忘れがたき人花びらのごとく
▼恋心未熟に燃えて花と散る

いけない、いけない。
思い出してはいけない人がいるのだ。

4月17日(火)

田植えの終わっている田んぼ、見つけた。

▼花が散って赤い小さな実を結ぶ
▼花吹雪ボクとアナタに幕を引く
▼草笛がピープー泣けば君が来る
▼梅干しとたくあん好きさ君好きさ

4月19日 (木)

造幣局へサクラをみにいく

造幣局へサクラをみにいく

4月20日(金)

チューリップ 庭で

庭で

▼チューリップきのうの晴れはウソだと笑う
▼しとしとと優しい雨に貴方も濡れる

4月21日(土)

▼葱坊主雨の合間にふらふらと

木曜日に大阪の造幣局の通り抜けを見に行き
金曜日には下り坂で、

土曜日、今日も、
雨が続きます。

どこかで悲しむ人がいたら、
それはことさら悲しい雨であろうなあ。

(その夜)

嵐のような雨が降っている。
今夜は珍しくこんな時間まで起きている。

余計なことが思い浮かんできて、
いつの夜のように、
耳鳴りが消えてゆく。

▼GW近し、嵐のような雨が降る

旅の計画が
ぶんやりと浮かんでいる。

煙突の下に

砂女さんのエッセイ(779)を読む。
文筆をなりわいとなさっていたかのようなタッチが好きで、時間ができると覗きにいく。

四日市という文字が目にとまった。煙突の話から始まる。

私の仕事は四日市の空を見ていることだ。煙突の煙がどちらに靡いているのか、きょうの視程はどれほどなのか、を毎朝確認し情報を提供する。

大気汚染は、昭和40年代にピークを迎えるのだが、もはや、あのころの空を知っている人は50歳を超えてしまい、鮮明に思い出せる人は60歳を超えてしまった。

あの煙のなかに含まれる大気汚染物質を胸いっぱいに吸って喘息で悩んだり体調不良になった人たちは年々減っていき、あの時代を伝える語り部さんたちもやがて消滅するのだろう。

公害は、身近な出来事や日常の記録であった時代から、ひとつの歴史に変わりつつある。今や、行政にかかわる人たちでさえその苦しみを知る人が少なくなり、このひとつの重大な人間の過ちを解決済みの忘れられてしまうような事件ではなく、時代を区切る失うことのできない大切な世紀に起こった社会学的にも貴重な痕跡として歴史に残さねばならない。

そう、カラダで感じている人たちも減ってきた。四日市市は、ごく普通の地方の中核都市になり、豊かな自然と重厚的な産業との共存する住みやすい街に変わってきている。

煙突の下に煤で汚れた工場群がある。

仕事でその中に入る機会があり、コンビナートという形のない言葉が意味するものを肌で感じたことがある。

綺麗な服を着て、髪飾りをつけ、ピリッとお洒落をして街を歩き、美味しいものを食べ愉しいことに歓声をあげている社会。そのもう一方に、このような埃臭く、油の染み付いたところがあるのだと知ったとき、わが国の豊かさの本当の姿を知るためには、ここに来て歴史を学ばねばならないと痛切に感じた。そのことを思い出した。

2012年4月21日 (土曜日)

花筏見送る人も無言なり

4月の初旬に父を亡くし、急遽帰国したときに、帰る空港から便りをくれた友だちに出した手紙を、上手でないところは少し書き直したが、記録しておく。4月15日早朝に。


私の地方の桜は、まさに今散らんとしていて、
▼花筏見送る人も無言なり
というわけで、信州よりも一足先にソメイヨシノは葉桜になろうとしています。

お父さんがなくなって、そのあとにもmixiの日記を書き足していたりするようですが、人生なんてのは、そんな継ぎ接ぎだらけの驚きや喜びで出来上がっているのだと思っていた。

そんな中、今、自分の頭にあるのは、自分の番もやがて来るということで、もしかしたら、この次に葬式にかかわるのは、81歳の母親の葬式でないならば自分自身の葬式であるのかも知れないということだった。

そう、喪服なんて着られるかどうか、サイズのことなど気にしているなんて(といっても軽く触れただけなのだが)、お笑いネタみたいにも思えてくる。葬式なんてのはそんな感じでやってくるのがありがたいのだろう。

今の時代、いつでも会えるという安心感が潜在的にあるものの、 18歳で家を出てしまったこともあって、父親はそれほどいつもそばにいたわけでもなく、それは父だけでなく母もそうですが、これから死んでい行くという不安や恐怖はなくて、既に私の心の片隅に住むところを持っていた。だから、どうぞ楽に痛みもなく逝ってください、とわりと冷めて祈っていられる。日々一緒に暮らしているならばまた話は変わってくるのだろうと思う。

しかし、生きるということは、人それぞれの思いの違いが歴然として出てくるもので、私の母の場合は、もうすぐ死ぬだろうと自分で言いながらも、ものすごい負けん気で生きたがっているのがわかる。「食事に注意を払って、生活に気を使うように」と、子供らに言われても気にしないようなふりをしながらも、生きたがっているの伝わってくる。

その点、父は14年前に逝きましたが、いつ死んでも仕方がないほどにそれほど健康ではなかった人だったのですが「生きられないのは悲しいなあ」といつも嘆くようにしていた。けれども諦めのようなものを持ってようにも思えるときがあった。

私は父譲りで、生きることには、固執しないような面があって、いつ死んでもいいなと思っている。

人には、人を育てるという、つまり育成し次世代をよいものに改革してゆく大きな使命があって、(貴殿の場合は子供がないのでそのことには、理由もわからないし触れてきませんでしたが)、社会的に、その使命を負うことで、さらにもっと早く若き時代にその使命を意識することで一人前になる条件のひとつが揃うと思う。

夫婦になる、つまり結婚して家庭を持つという基盤のうえで社会に参加をし、その基盤の上で社会を見つめて、人間を見つめて、あらゆるものを理解しながら生きるのだ。人とはそういう社会の中で、社会に貢献して恩返しもしてゆく使命がある。

自分が楽しく。そんな傾向が現代社会に蔓延しているけど、人間なんてちっぽけなもんだから、社会を永遠に引き継いで行くような遺伝的な動物的使命を持っていることをあっさりと認めて、毎日の暮らしを見ることは大事なんだと、45歳あたりを過ぎてから切実に思う。

つまりは、詰まらない見栄や快楽や豊かさや怒りなども必要なことは認めるけど、そんなことにこだわって自分の人生の目標を狭義的に決めてきたことが社会の中での不満を生み、ばかばかしい欲に走る遠因でもあるような気がするのだ。

ボケに満ちた今の社会の奴らに対し、死と向かい合って生きろというわけでもないし、もっと世の中に尽くせというつもりもないが、じじいになってきて、そういう自分のことばっかしを見ている人を見ていて、ああ、あれは間違っていたな、と自分を諫めるわけです。

人にはさまざまな家族があって、そのお父さんがどのような影響や言葉や規範を次の世代に与え、遺していたかまでについて僕の言及するところではないのですが、父の遺したあらゆるものが、ゲーテの残した言葉と同じくらいに、神秘的で、詩的で、あるときは論理的に解釈することで、結構蘇って来る。

つまりは、ささやかな周期で、遠大なる使命を背負っているということなんだ、と思うわけです。

花筏を、歓喜に満ちた酒宴の後の酔いで見送る人もあろうけど、散る花を惜しんで、涙で悔やむ人もあろう。別れと出会いの季節である時にお父さんが逝かれたことは、ご本人がどんな病だったのかはわかりませんが、花の中でのご逝去として記憶に残ると思います。

僕が第15回目の三重県の俳句で
▼散る花と国の峠でわかれたり
と書いて佳作になった時の心はどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけど……。

別れとは、そういうものであり、峠道の向こうとこっちでは新しい暮らしが待っているということです。

新しい使命を明確にして、さまざまな社会の一員として、小さな力であり大きな力になって、もうしばらく生きていきましょう。(……と、自分に言っているみたいな手紙になってしまった)

便利の象徴として考案されたもの

ソメイヨシノが花びらを散らせているのを惜しむ間もなく緑の葉が顔を出し始めました。

青々とした麦畑が広がっているなかを整然と一列に並んで登校する小学生たち。その中に黄色い帽子の一年生が混じっているのを発見すると嬉しくなります。まさに新入生や新社会人といった雰囲気の若者たちが駅前を駆けてゆくのを見ても春をいぱい感じます。

町外れなどにある野菜の直売所や無人販売所に竹の子やタラの芽が並ぶようになったのも近年のことのような気がします。それまでは近所のお爺さんが春の山で採ってきて世間話の傍らにおすそわけをしてくれたものでした。

人々は栄養価やアレルギー負荷を繊細に気遣う一方で、自然食や旬の食材にも関心を向けています。暮らしぶりは緩やかに変化しつつあり、豊かで快適さを求め続けます。

4月の初旬には、地域の資源ごみ回収の当番をする機会がありました。早朝に続々と持ち寄られるごみの山を見ながら、あらためて、便利さやデザインを優先した「プラ」マークの製品が多いことに気づかされました。

便利とはいったいなんだろう。豊かに暮らすということで私たちは、何を、どこまで犠牲にしていいものなのだろうか。

環境の負荷を小さくするために私たち一人ひとりはこうしたプラスチックのリサイクルにも気をつけている。それは大切であるのだが、さらに、豊かさと便利さについてももっと掘り下げて考えねばならないのではないか。

プラ プラ

プラ資源についてもう少し書きます。

県外の友人となにげなくごみについて話をしているときに気づいたことがありました。それは、わが地方では常識化されているレジ袋の有料化やエコバックの普及のことです。

友人の地方では、レジでマイバックを出して「レジ袋を要らない」というとポイントがもらえると話していました。そのときは、なにげなしに聞き流してしまいましたが、ポイントがもらえるってどういう意味だろうと思い、話を戻してみてその発言の理由がわかりました。

つまり、レジ袋は何処の地方でも有料というわけではなく、地方によっては「もらわないようにしましょう」という呼びかけやポイント還元運動をしているだけで、レジ袋はあくまでも無料のところが多い、ということです。

今や、うちの県ででレジ袋を無料化にするということはできないと思いますし、人々はそれほど不便や苦労を押し付けられているわけでもないので、現状が常識として続くと考えられます。

レジ袋の有料化というのは、便利の象徴として考案されたものであるにもかかわらず、便利さを追求して進化していった社会システムを、ささやかながら昔に戻してみんなで考え直してみた実例といえます。

私たちの身の回りには、原点にかえってみることで生活スタイルをチェンジできるものが他にもあるのではないか、と思います。

2012年4月15日 (日曜日)

号外 ─ 花も嵐もⅡ その6

乗鞍高原を書いたので、少しブログの写真について書きます。

ブログの片隅にあります。

乗鞍高原

乗鞍高原

ここにバイクを止めて、1分ほどのところに共同浴場(無料)があります。
とてもいい感じの温泉です。

この写真は、2002年5月の下旬ころだと思います。まだ雪があって登山道路は閉鎖です。
もちろん、今は、通年で一般車両が車両通行止めになっていますが。

この先の大駐車場で野営をしたこともあります。とてもいい思い出です。今は、皆さんのマナーが悪いのでそういうことは片っ端から禁止ですね。

齋藤孝  座右のゲーテ −壁に突き当たったとき開く本

齋藤孝  座右のゲーテ −壁に突き当たったとき開く本

齋藤孝  座右のゲーテ −壁に突き当たったとき開く本

押しなべていえば、普段から壁にぶつかってばかりの人が、自分なりの考えを少しずつ見出す中で、このような本に出会うと勇気付けられ元気が沸いてくる。

自分で考え始めていたモノゴトの摂理のようなものが、この本には、私の頭から盗み取られたように書いてあるのだ。

だから、
面白くも何ともなくて
斉藤先生やゲーテに背中を押してもらった私は、自信を持って生きてゆけるようになるのだ。

目次を読み起こせばおよそが思い出せる。
目次に●をつけておくと、暇なときにそのあたりを読み返せる。

100円ショップで小さな付箋を買って、全部使い切るつもりで読み始めるといい。
付箋を結局全ページに貼ってしまったという人、または全然貼らなかった人、などピンキリとは思うが、3σからはみ出るような人は除くとして、せいぜい10枚から20枚くらいを貼りたおしてゆくくらいの感じで読むと、あとで読み返す楽しみがちょうどよくなるのではないか。

赤ペンでもかまわないが、付箋のほうが剥がせて移動できるので面白い。

100円の古本をゲットするのがお手軽でいいでしょう。
★は、珍しく3個とします。

-----
Ⅰ 集中する
 1 小さな対象だけ扱う
 2 自分を限定する
 3 実際に応用したものしか残らない●
 4 日付を書いておく
 5 完成まで胸にしまっておく
 6 実際的に考える
Ⅱ 吸収する
 7 最高を知る
 8 独創性などない●
 9 独学は非難すべきもの●
 10 自分だけの師匠を持つ
 11 「素材探し」を習慣化する
 12 使い尽くせない資本をつくる
Ⅲ 出合う
 13 愛するものからだけ学ぶ
 14 豊かなものとの距離
 15 同時代、同業の人から学ぶ必要はない●
 16 性に合わない人ともつきあう
 17 読書は新しい知人を得るに等しい
 18 癖を尊重せよ
Ⅳ 持続させる
 19 先立つものは金
 20 儀式の効用
 21 当たったら続ける
 22 他人の評価を気にしない
 23 異質なものを呑み込む
 24 邪魔の効用●
Ⅴ 燃焼する
 25 現在というものに一切を賭ける●
 26 計り知れないものが面白い
 27 感情を生き生きと羽ばたかせよ
 28 詩的に考える
 29 過去に執着しない
 30 青春のあやまちを老年に持ち込むな
 31 年を取ったら、より多くのことをする

2012年4月14日 (土曜日)

乗鞍高原 ─ 花も嵐もⅡ その6

【乗鞍高原】

1982年の10月、乗鞍高原に向かう。

名神高速道路に京都東で乗ってから地図を持っていないことに気づく。竜王パーキングに設置された高速道路案内地図を頼りに北に向かう。中央道の土岐か中津川あたりで降りて国道19号を北へと走る。乗鞍に行こうと決めるのは中津川を過ぎてまだまだ走って木曽福島あたりまで来てからだろう。

今なら10月の連休の混雑具合は容易に予測するが、あのころは無知だったし、そんなに人があふれる時代でもなかった。しかし、乗鞍だからそう容易くは宿も見つからず、日が暮れても旅館案内所の前で何人もの私のような旅人が群がっていた。車の人もいたがごちゃまぜで泊めてくれる民宿の大部屋に滑り込んだ。

そこは、屋根裏部屋のようなところだったと今になってみれば思う。満室の民宿ばかりだったので、仕方がない。知らない人の集まりだったのだから今だったら不信感に満ちて、貴重品なども肌身離さず持ち歩くところだろうが、このころはそんな乱れたものでもなかった?のか、私がオトボケだったのか、暢気なものだった。事件も事故も起こらずだったのは幸いだったのか必然だったのか。

確かに、80年代は貴重品の保管にも杜撰だった。温泉に入るときもタンクバックに財布以外の貴重品は置いたままだった。ブーツを盗まれたとかいう話も聞いたことがあったが異例だった時代だ。

乗鞍の民宿は4千円ほどで温泉もあった(メシはなかった)。安いと思ったがその後に泊まりを重ねてみるとそれ相当の価格だったかと思う。乗鞍に泊まったことは、私にとって幸運だった。温泉に出会えたことが一番の刺激で、ツーリング観がそちらに動き始める。

--

乗鞍には無料の温泉もあるし有料の公共浴場もある。白骨温泉も近いので、何度も行くことになる。高原のど真ん中に位置する大きな駐車場の片隅で野営をしたこともある。お咎めを食らわないほどおおらかな時代だった。

人間が図々しくなってくるとそれも許されなくなり決まりや規制ができ、ロープが張られ、鍵を締められるようになる。

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乗鞍に泊まったあくる日には、石ころだらけの山岳道路を高原側から上っていき、乗鞍スカイラインからも上がってくる一番高い駐車場のところまで行って引き返してきた。

ハイマツが広がる山岳道路を走りながら、この世にこんな素晴らしい景色があるのかと感動した。バイクでなくても登山でもよかった。山に登ろう、自然に触れて旅を続けたいと潜在的にそう思い始めていたのだろう。

その後も秋になるとこのあたりに出かけ、スーパー林道を走り、バイクを置いて歩き、湯に浸かり、蕎麦を食べる旅を繰り返す。

続、閑話 ─ 花も嵐もⅡ その5

【続・閑話】

ざっくり30年、3台のバイクで旅をしてきたわけだが、最後のKLEの時代には雨の中を走ることがとても少なくなっていたな、とこれを書き始めたときに考えていた。

それは、私という人間がズルくなって、かつ、怖がりになったために、雨に立ち向かって旅に出ることが少なくなったからという理由もある。しかし一方で、天気予報などの情報も簡単に入手できるような時代になったことが大きい。

雨の予測を見れば家を出ない。嵐がきそうならそちらにはいかない。どうしてもそういう旅になってしまうのが自分ではいやだったので、旅自体も少しずつ減ってくる。先の見えている旅にはトキメキがなかった。

旅はスリリングで、予想を超えていなければならないし、どこまでも行く手は未知でなければならない。雨降りは嫌なのだが、雨合羽をフル活用していたころに、雨の中に走り出るのを嫌だと思ったことはなかったし、雨が辛いと思ったこともない。

不自由や鬱陶しいとは思うことがあっても、旅の楽しみが減衰することにはならない。バイクに跨る奴が初めから雨が嫌いでバイクに乗るのならばそいつの好奇心はホンモノではないのではないか。

旅に出るときの「現実からの逃避感」のようなものも冷めてきたことも事実だった。逃避しなければならない理由もなくなった。仕事もやめて他人には悠々自適だねといわれてしまうような暮らしをしていることもあろうが、旅にいざなう激しい情熱が萎んできたのだ。

社会の変化も私の心を少なからず刺激した。電話をひとつ取り上げてみても、旅先の野営場で公衆電話を探し家族に無事にテントが張れたことを伝える意外に連絡する情報は不要なのだが、携帯電話などが普及したこともあって、誰とでもどこからでも、どんなときでも連絡を取り合えるようになったことで、不便が便利になり、また必要な情報以外のものが野宿の夜の空を飛ぶことになる。皮肉でよく言ったものだが、そんな状態になってきたのなら家の庭にテントを張って一夜を明かせばいいのだ。

そんなこんなで、社会の贅沢、便利、満足、豊かさなどの感覚を、どうしても私は受け入れることができず、情報ツールや電話、商業バイク雑誌などが一般的になってからはひとりの野宿を伴うような旅には出ていないような気がする。

至れり尽くせりで情報を並べられるのは嫌なのだろう。最初から携帯電話や溢れる情報に満たされた世代の人たちは、自分で不便や不安に向かって行くことなどは筋書きにもありえない話で、上等に揃えられれた数々のメニューを選択するところから始まり、そのことが旅の醍醐味であると思うのかもしれない。

そういうものを楽しむことも夢のひとつだ。60歳を超えたら、妻と一緒に出かける旅で私は叶えていきたいと思っている。

閑話 ─ 花も嵐もⅡ その4

【閑話】

「その3」の話は、 第20話【花も嵐も】 寂しい風になりたい<紀州山中> で書いた内容でした。書いてから気がつきました。よほど強烈だったということでしょうか。

さて、この旅を初めてのツーリングといっていいのかどうかはわからないぞ、と思いつつ、確かに和歌山県、潮岬への旅は24歳の私には衝撃的だったなと回想してる。

何事も未熟であるということは無限の可能性を秘めているということを意味するのだろう。人は、未完成の道をどこまでも走り続けなければならない。しかし、そこでは目標を失っているわけではなく、お決まりの道やチャレンジの手段に決まり手があるというわけではないというだけのことではないか。

だから、思案に暮れてさまざまなルートを考え出して何度もチャレンジを繰り返す。違った季節に訪れてみる。いつだってその瞬間の自分がいるように、その道を走り行くときにはそのときなりの自分がいる。走りきってしまえば終わりというものではないだろう。

峠を越えてゆく味わいに私が夢中になってゆくのは、この和歌山県の山のおかげなのかもしれない。あの当時は、紀伊山中の素晴らしさを受け止めるだけの器が私にはなく、紀伊半島を少し走って次の地域へと気を移らせていった私だった。しかし、10年も20年も走ってのちに紀伊半島に帰ってきた自分を振り返ってみれば、あのときの私は未熟であり、日本中へと飛び出して行ったのもひとつの旅の儀式だったとさえ思う。

原点に戻りたくなると「牛廻越」のことを思い出す。

紀伊半島で旅の手がかりをつかんだような気分になった私は、その年の秋に信州へと向かう。何故、信州なのかは今はわからない。そこに高速道路が通じていて、まだ行ったことにない土地があったからだろうか。

その頃は、温泉に興味があったわけでも、ご当地の美味しい食べ物-グルメという言葉は一般的ではなかった-に関心があったわけでもない。登山にも興味を持っていないし、風景にもさほど感動しない。どうして、バイクなのか、どうして旅なのか、それは今となっては想像の域で回想をするしかない。

学生時代にパイプフレームのパッキングを担いで戸隠連山に行ったり、小さなキスリングのようなザックで北海道をヒッチハイクした。寝袋ひとつを持って三宅島に行ったこともあった。そのときの好奇心と冒険心が消えていなかったのか。

村会議員を務めていた私の祖父は博学だったという。日本の情勢のことを良く知り、何でも幅広い知識を持った人で、俯瞰的な視点があったという評判を聞いたことがある。一方で日本左衛門とも呼ばれたそうで、行ったわけでもないのに日本の地理のことをくまなく知っていたそうだ。もしかしたら、子どもの頃にその祖父の膝の上で昔話を聞いたからなのかもしれない。そんなわけで、何の情報も予備知識も持たずに1982年の秋に私は信州へと旅に出る。

2012年4月12日 (木曜日)

潮岬YH ─ 花も嵐もⅡ その3

【潮岬YH】 和歌山県

そのような波乱を巻き起こした旅が、私の初めてのツーリングに当たるのかもしれない。決して長い旅でもなく、楽しいものでもなかった。ただの1泊の家出のようなものだった。

でも、確かにあれは記念的な旅だったとすると、日記がないことが残念で仕方がないが、それらしい記憶がかすかに残っている。

YHで泊まった。YHでのひとり泊は久しぶりでだった。何故なら、大学時代に北海道を旅した以外には、卒業の前年の秋に友人と信州に出かけそこでYHに2泊ほどしたくらいだったのだから。

潮岬YHでは同じか少し上の年齢の人が同室だった。スーパーで買った廉価版のサイクリング車で東京からぶらりと来ていた。その人はコックさんで、シベリア鉄道に乗ってヨーロッパに渡りフランスあたりで1,2年の修行を積んで、今はこちらでコックをしているという話をしてくれた。非現実的な夢物語のように私はその話を聞いたのだろう。

だが、このシベリア鉄道という言葉に潜在的な刺激を受けたのだろうか、と後になってから思う。旅の人生を送ってきた一人として、途轍もないロマンをリアルに知らされたわけで、夢を食べ続けるための一歩にふさわしい出会いだったのかもしれない。

その人とはそこで別れて終わりだった。お互いに有名人になれなかったから、ドラマにもならなかった。

2012年4月11日 (水曜日)

牛廻越・引牛越 ─ 花も嵐もⅡ その2

【牛廻越・引牛越】 和歌山県、奈良県

今乗っているKLEの車検が8月だから、CBXを買ったのも8月だったのだろう。高校時代は通学に駅まで乗っていく以外には、休日に田舎の道をぶっ飛ばして遊んでいただけだったが、社会人になった私が乗るのだから…少し贅沢でかっこいいバイクにした。CBXはあのころは割りとお洒落だったのだ。

ひとり旅のツールになってゆくのだが、このころはひとまずは、未知な道を走り回りたいと考えていただけだと思う。

購入したのちすぐに紀伊半島を周る旅に出ている。潮岬のYHで泊まり、十津川村の落石だらけの未舗装の峠を、高野山側から奈良県側へと越えた。

残念ながら写真もなければ日記もない。大きな台風が過ぎ去った直後で、国道の峠の崖が崩れて迂回路を越えたのだった。沿いの岬を出て、虎が峰を越えて竜神温泉まで来てそのことがわかった。

虎が峰も、今は旧道の面影はまったくなく、けっこう険しい山岳道路だった。そこを走りきって到着した竜神温泉で通行止めを知らされた。不通だった国道は425号線であった。仕方がないので、やむなく、そのひとつ南にある県道を越えた。

あのころはツーリングマップルなんてものはこの世になかった時代で、全国道路地図を持っていたのでそれを頼りに山岳道路を越えた。登山道と代わりがなかった。

国道のほうの峠を「牛廻越」といい、県道のほうを「引牛越」と呼ぶ。1982年の夏のころにどのような道路だったかは、想像していただくしかない。現在はかなりマシになって車でも走れるようになっている。

CBX ─ 花も嵐もⅡ その1

【CBX】 京都

24 歳で就職して京都に住むことになった私は、車を買えるほど豊かではなかったので、新入社員らしくバイクで通勤をはじめた。京都の街は交通がとても不便で、バイクや車がなければ行動範囲が狭くなる。活動時間も限られてくるということで、高校を卒業して足を洗っていたのだが、再び免許を取るために四条にあるデルタ教習所に通う。

バイク事情は6年間で大きな変化があった。中型バイクという免許ができているのだ。大きなバイクの事故が多いからだろう。いわゆるナナハンには大型免許というのが必要になっていた。

メカニックも進化している。高校時代には幻に近かったDOHCのエンジンを搭載したバイクが一般化されている。キャブレターも4連、サスペンションもモノクスタイプに変化していた。

バイクやメカニックのことは私にはまあどうでもよかったのだが、まず免許を取り直してバイクを買った。CBXというバイクにした。私たちの高校時代はCBという名前だったが、進化したことを意味するのだろう。

24歳でバイクに戻り、次第に旅のツールとしてのバイクに跨り、沖縄を除く全都道府県をくまなく走り回って55歳になり直前でいったん休憩とすることにした。考えてみればちょうど30年間、乗っていたことになる

思い出の深いところは数々ある。特に、田舎道や鄙びた村を越える峠道には捨てがたい感動がある。そんな思い出をどこまで思い出せるか。花も嵐もⅡでは、面白い話も詰まらない話も掘り起こして残しておくことにする。

自分のために。

花も嵐もⅡ はじめに

はじめに

ふたたび、このタイトルで書き始めるとは考えたこともなかった。


あのときの34話
は、あれでひとつの完成されたものであり、私のスタイルの完了形だともいえた。しかし、平成24年の車検を受けずにKLEを降りることを決心したのだから、少し昔を辿ってみておしまいにしようかと思うに至った。[ぜひ第1話から読んでやってください]

バイクは、永年のバイク仲間であるK氏(岐阜県)が引き継いでくれることになっている。初夏を迎えるころにお届けにあがろうと思う。

もうしばらく別れを惜しむことにする。その間に、昔を少しばかり綴ってみることにした。

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※少しずつ書きます。戻って書き直すこともありますのであしからず。

知らないことがたくさん

ぐっちゃん

>結構長く生きていますが、まだまだ知らないことがたくさん。

自己紹介の書き出しにそんなことを書いていますが
まさにそのとおりですね。

そして知らないまま、逝ってしまうのだろうけど
悔しくも、儚くもないなあと
このごろはそう思います。

春嵐あなたは素知らぬふりをして ─ 4月上旬号

新年度、あけましておめでとうございます。

4月1日

3月のお別れの時期も過ぎ去って、新たな仲間たちを迎えようとしている。
通勤列車に紺や黒のスーツの若者を見ると自分たちが社会人になったときのことを思い出す。
鶯が鳴いている。でも、人里には鶯は来ないなあ。
姿を見せないので、その意外さを知らない人も多いのではないだろうか。
鶯は、ウグイス色の美しいイメージのまま、そっと。

▼もう少しあなたを待つわホーホケキョ
こんな呟きを書きながらも私は
鶯など待っているわけではないし
もちろん、恋人を待っているわけでもない。

だが、待ち遠しいのだ。
何をなのかはわからないのだが。
それが春よ。

つい先日から、ホオジロが鳴いている。
そうだ。たぶん、アイツはホオジロだと思う。
鳥は鳴いて
地球もいつまでも揺れ続けている。

そういう自然界の独立した歩みのようなものがとても偉大に思えてくる。
偉大というより尊大なのかもしれない。

▼春なれど地球はなおも震えたり


4月3日

▼そういえば親父もこっそり泣き虫で

どうして、この日に「泣き虫」という言葉を思い起こしたのだろう。
瞬間を切り取るのは、何も写真ばかりではなく、言葉でも可能だ。
私の父は、声に出して泣くことはなかったが、目頭の涙をたびたび拭いているのを見かけた。その気持ちが30年の隔たりを経て届いてくるこのごろ。

父は、季節を喜んだりする言葉は何も残さなかったものの、春になると一番に竹の子を掘ってきてくれた。旬のものを心の底から楽しんでいる自然人だった。

▼竹の子を食うても、必ず父思う

生きているときには、毎年この時期に食べさせてもらっても、まったく気にもかけなかったのだから、人というのは勝手なもんだ。


4月4日

昨日の朝に
▼ことごくモノは手遅れで始まる
と書いて、車窓を眺めていた。
夕方の列車は風で運転停止が1時間近く続き、大きくダイヤが乱れた。
風も強く、夕刻には嵐のような雨が降った。
寒い気団と暖かい気団が混ざり合うのだろう。
空でもドラマが起こっているのだろうか。

この季節にはこんな天気がつきものらしい。
▼じゃあと言い別れることもできぬまま
▼春嵐あなたは素知らぬふりをして

4日は一転して穏やかな日差しの下で花見をするような日となった…のかどうか、つぶやきだけでは回想できないが、竹の子を食べたいと書いているから、穏やかだったのかもしれない。
きのうの雨は上がったので
▼無人野菜販売所にタケノコを見に行ってこようかな
というわけで、午前中にベルファームの直売所で小さな竹の子を買ってきた。


4月5日

きのうあたりからウチの庭先でチチチとないている鳥は何だろう、と気にかけている。
どうやらホオジロらしい。

▼ホオジロやホーホケキョには負けるなよ
▼日曜日、ちょうど咲き頃、花見頃

次の日曜日(8日)あたりがお花見にぴったしになりそうだ。
7日は大阪経由で京都に出かける予定。
家族は嵐山で花見だ。

▼夜桜のぼんぼり遠し君恋し
▼サクラサク昨日の涙あすの風
花の下で一杯飲むには少し肌寒い日が続く。
もうこの歳では外で飲む気など毛頭起こることはない。

▼小説の一言で泣けて車窓みる
▼もういいの、散った花びら水に流し
▼木瓜淡きキミと出会ったときを思う

どうも、花は咲けども外に出て散策する機会もなく
なかなか頭が刺激されず、ピリッとした作品ができない。

いいえ。
スランプの理由はほかにあるのだが、書けないのだ。


4月6日

メモ帳に
▼恋は封印
なんて書いている。
封印したいのは、ほんとうは別の心ではないのか。

▼白雲の下り行く駅舎の空
▼病院の桜が咲いて意味重く

桜が、いよいよ、きれいだ。
やはり散りゆく風景がなんとも刹那的だと思う。

▼怖すぎる貴方の無音のまなざし


4月7日


▼奥の手を打って明日から蘇る
▼花びらを散らしてホントのじじいかな
朝から心斎橋に降り立ち、アップルストアに立ち寄り、楽器屋で道草をして、ヌカガさんの写真展をみにいく。
芸術のことはなぁーんにもわからんが、頭はがんがん刺激を受ける。


4月8日


▼朧月黙ってのぼる貴方らしさ
昨日、街に出て歩いたので、へたっている。


4月9日


▼あの頃は夢だけを食って生きていた
▼デモーニッシュに迷走したあのころの夢
▼届かない私の思い、またその思いを思う思い
スランプならそれはそれで、その瞬間を言葉にすることにした。
朝の列車にやかましさが戻った。
高校生たち、新学期は楽しかったのを思い出す。

▼恋文を書いて最後の恋となる


4月10日


▼あの人の名を呼んでみたくなる月夜
▼きょうあすとお休みだけど用もなし
資源ごみの日だったので、朝に時間休を取ろうとしたところ、先日行った医者で採取した血液検査の結果を聞くのにいい機会なので、1日休みにしてしまった。
そういうわけで用がないわけではないのだが、日の当たる部屋でぬくぬくとしている。

▼そうだ!恋文十七音にしよう
そんなことを書いてみる。
しかしゆるゆるとした時間の中にいると作文はまったく進まない。
「花も嵐もⅡ」を書き始めようと思っているのだが、怠けている。

2012年4月10日 (火曜日)

向田邦子 あ・うん

向田邦子 あ・うん

この作品を読み始める前と、読み終わったあととで、これほどまでに装丁の味わいの違う作品も少ないかもしれない。

向田さんがどんな顔をしながら、このすばらしい装丁を眺めつつ、出来上がった作品をドラマにしていったのか。そんなことまで想像させてくれる素晴らしい絵と文字ですね。

あ・うん。この文字と、それを声に出して読んだ響きだけで、読後の感想がじわりじわりと私自身の心の襞に染み込んでくるようです。

向田さん。この人の心の中や、ピリッと強そうな意思や、実はとても弱くて甘いかもしれない女の側面など触れてみたいと切実に思うような作品です。

この作品には、いくつものシーンがあります。しかしそれは、どこまで考えてもドラマでして、限りなく私たちの心に近くにある非現実。頭の中でしかありえない日常です。しかしそれを映し出した現実のようにしてしまったのです。でも、作り話でよかったわ、とほっとしてみたり、どこまでも自分の心の痛みにぴったし当てはまったりして、そういうところが読後感を書こうとする人を困らせる。

向田邦子 あ・うん

青りんごの一節で、

一番大事なことは、人に言わないものだということも判った

なんてさり気なく書いてくれるけど、もうカラダはぶるぶると震えるほど共振していました。時代を超えても、こういう普遍性をストーリーにするところが、誰にも真似ができないところです。

舞台は戦前で、これから戦争に突入する日本だった。30年ほど前に発表されたときは、戦争の現実を知っている人が半分以上残っていたこともあるが、21世紀になった今はもうこのドラマの時代を知る人はほとんどいなくなってしまった。そういう点では、いつかこの物語も過去のものになり、古典となってゆくときがくるのだろうが、廃れてゆく真っ最中の今の時期にこの作品を読む人たちは、どのように感じているのだろうか。

30年前は身近だったことが、今は書物の上だけでドラマとなっている。たとえば平成生まれの人にはどう映るのだろうか。

砂埃の立つ道路、ガラガラと開ける引き戸、土の踏み固められた土間やその奥に続く三和土。土間の玄関が想像できることや井戸水を手水に汲んでいる姿が思い浮かぶ人は少なくなってしまったこの時代にも確かに通じる小説であって、ファンとしてはこの上なく嬉しいのであるが、少しずつ歴史小説のようになっていてしまうのが、めちゃめちゃ寂しい。

だが、小説の背景は時代劇ではなく、現代であって、その限りなく現代に近い戦争中という時代に、人々の実社会で劇的に生きていた時代だった。そんな中での人々の会話がこの作品にはあり、あの時代の豊かさの基準の上での幸せ感が綴られている。

向田さんが作品にしてしまうと、ほとんどがドラマのセリフのように思えてしまうのは仕方がない。向田さん許してください。でも、ほんとうはこういう縦横に切ってしまったようなドラマの中にある、切り口のようなものを向田さんは小説にしたかったのだろうと思う。読んでいてその詩的で劇的展開の手法に痺れてしまう。

つまり、一見、作られた温もりのような小説たちも、ほんとうは必然であって、酔いしれるような作品も多いように思う。

向田邦子 あ・うん

芋俵のなかで

みすみす実らないと判ってたって、人は惚れるんだよ

言葉にしてしまえば、誰でも書けるようなことを、読者の中にシーンとして与えてくれる。そっと、人の影と影を置いて、活字を読む人のまぶたに蘇らせる。

どうして、あれほどまでに、男の心、女の心をスパッと書けるのだろうか。向田さんは、独り身だったのに、あれほどまでに読める心。いったいどこからあの繊細な観察眼や幕の向こうて動く心を見通すことができたのだろうか。

作品は、私たちが忘れかけている友情であり愛情をモチーフに、ささやかな日常のまさに「あ・うん」をものがたりにしている。

2012年4月 8日 (日曜日)

ヌカガジュンコ写真展「音が伝わる温度」

ヌカガジュンコ写真展「音が伝わる温度」
ヌカガジュンコ写真展「音が伝わる温度」

2012年4月7日 土曜日

心斎橋へ出かけた。
わくわくした。

泣き虫の僕が
このときには、泣くのを忘れた。

2月3月になってスランプに陥っているのだと自分をなじってばかりいる日が続く。なしればなじるほど、自分は委縮するがわかるけど、きっと、カラダに新しいカビのような種をまとって蘇れるような気もしている。

ほんとうは出る幕じゃないような気もするし、その正反対のような気もしながら、ヌカガさんんの個展へと向かう。心斎橋に着いたのが10時ころで雨粒がビルの合間から落ちてきて、田舎者の自分を隠すように空を見上げたりする。

20年以上前だろうか、ハーモニカを楽器屋さんで買ったのを思い出した。1万円以上する私にしたらその当時細やかな贅沢な楽器だったが、寂しいときとか嬉しいときとか、このハーモニカは私をささえてくれた。

時間があるのでぶらっとする。appleストアに行く。ブックとデスクトップのパソコンを交互に眺め、ああ来て良かったと思いながら、何を見て確かめるわけでもなく、マックを見ている。

楽器屋さんにも立ち寄った。ピアノを見て、リコーダーを見て、オカリナを見て、ボントロのところへとゆく。キングとかバックとかコーンしか知らないけど、何の見栄もないのだけど、贅沢など何もしないのだからこれくらいはいいよね、と言いながら40万円くらいのを買いたいな。でも、今買ったもうすぐ迎える自分の最期のときに、この楽器が一番高価な遺品になってしまう。

そんな散策の時間を送りながらも、ずっと写真展のことが気にかかる。なんたって私は素人なんだし、とても素敵な写真をみにいってしかもその作者にも会えるなんて最高にウレシイのだ。

いっぱい喋ってごめんなさい。こういうところでは静かに見てるのが常識なのかもしれないけど、と気にしながら、お構いなしにヌカガさんに話しかけてしまう。たくさん語らない人だけに、自分がふらふらと彷徨うのがわかる。

写っているものと隠しているものと、訴えているものと秘めてるものと、期待しているものと諦めているものを、わたしはどうにかして掴み取りたいと思う。ああ、これって昔の大好きになった人の心が掴めなかったときに必死になって探ろうとした私に似ているのかもしれない、などと思う。同時に、レベルが低すぎる自分を心のなかで大声で叱る。

テーマなんてきいたら野暮なんだなと思いながら、そういうことを言葉にしてしまう。もう、この次にいつ再び出会えるかわからない作品たちを、記憶の中に刻みつけることが不可能なだけに、必死になる自分がいたのだ。言い訳をするならば、だから、記憶を引き出す手がかりを探して一緒に仕舞おうとしたのだと思う。

そんなことは不要なのだとも思う。芸術は爆発だと岡本太郎が言葉を残しているけれど、ほんとうの意味を理解しているわけではないものの、爆発という響きが好きだからいっそうこの言葉も好きだ。

音が伝わる温度という一見メンタルで詩的な響きも、私の頭の中では数学的物理式にイメージ化されてしまう。爆発するエネルギーの変化量のデルタδ=という文字がその先を探っていて、いつも到達するあらゆることが普遍的にもっている結論「モノゴトでも感情でも、そのエネルギーが満足させるものは変化量の大きさで決まってくる」というアレに到達するのだ。

ヒトは、温度という目に見えないものを姿に変えてわかろうとしてきた。音だって見えないもの。見えないものばかりが絡み合って作る物理現象を言葉にすると、詩的になる。

しかし、そこには、ほんとうに人々の心を震わせたものを伝えたい熱情があるのではないか。震えることはエネルギーだ。フクシマが震えて、そのあと、音も立てずに木々を揺らし、人々の心も揺るがせて、社会も震撼させ続けていることと、そのことが減衰してゆくことへの激しい怒りのようなものを、逃したくないのだ。

アナログ的に無限大のステップで、青から赤へと色彩が変化してゆく四季の変化や春に生まれたパワーが冬にかけて滅亡してゆくように、物理的破壊が放ったメッセージが消えてゆくのを引き留めてゆかねばならない。その使命をみんなが均等に担っているのだから、時々刻々と発散されるエネルギーの変化を捉えたいのだ。

瞬間を切り取るためには鋭くてよく見える眼が必要だ。その瞬間を読み切るアンテナも、変化を捉える素早い神経も必要だ。
でもそこには、シャッターが切れなくなるほどに感情豊かに潤んでしまう眼も心も欠かせないし、チャンスを逃して悔しがる意地も、圧し折ってもまた伸びる尖った鼻も、あったほうがいい。

ボクの好きとあなたの好きは正反対かもしれないけど、たった1枚でもいい、同じステージにのっかって別の角度から眺めることができたことが嬉しい。お気に入りは言葉にしないということも大事なのかもしれない。そんなことをつぶやきながら、帰ってきました。

 

2012年4月 4日 (水曜日)

夜更かしをすればするほどキミ遠し 年度末篇

3月28日

▼夜更かしをすればするほどキミ遠し
▼それを機に便りの糸も切った人
▼あの人を重ねた街の赤い夕陽

このような3作を年度の最後になって吐き出している。
誰かと永いお別れを果たさねばならないのだという予感を感じたのだろうか。
それは、わたしにも想像のできない秘密なのかもしれない。

誰にも言えない。

3月29日

この日になって、
言葉には秘めたものが必要だね,そっと秘める…
というようなことを落書きしている。
あ・うん。読み続けている。大事に読む。蘇る遥か昔。

▼ステップを踏めど日暮れは淋しいと

3月30日

▼春になって沢庵頬張る音が増え

2年間の転勤から戻ってきた娘が大好物の沢庵をぼりぼりと食べる音が食卓をにぎやかにしている。

3月31日

▼お別れのあいさつ、こんにちはに変わる新年度

そんなこんなで平成23年度もおしまい。
古いことは忘れて、新しいことに向き合おう。

2012年4月 2日 (月曜日)

初心を忘れずに

意思を持って公務に着いたのですから、公僕としての責任感を感じ、また、使命感を持ち充実感も感じて日々職務に服していることと思います。職務経験は、まだまだ未熟でありますが、今後も努力を惜しまず、強い意思を持って業務を推進できるような人を目指すことが大切です。社会においても家庭においても充実した日々を達成するために、初心を忘れずに誠意と真剣味を持ってあらゆることに向かっていってください。

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