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2012年1月 8日 (日曜日)

いつかは飲みたいと願った

遺す言葉を続けよう。

 *

▼怨む、憎む

 そのようなことはなかったと思う。そもそもそんなことをしても勝ち目がなかったので、はなからからそんなモノに刃向かうような真似はしない。

 腹を立てたり失意に苛まれないで生きるためには、自分のやり方を思案してゆくしかなく、そこで哲学的な思考回路が育ったのだろう。たまに理屈も言ったが、表に出ていってまで強く主張することはなく、内に秘めていることが多かったかもしれない。

 片方の耳は大人になるときには聞こえなくなっていたし、もう片方の難聴は年齢ととも進行していたこともあり、さまざまなケースをあれこれと考えても、やはり自分の世界にいるのがよかったのだ。しかし、大人しく引きこもっているようなタイプでもなかった。

 宴会ではカラオケも上手かったというし、何よりもドジョウ掬いの踊りが滑稽で非常に面白かったと母が話す。感情的になったりすることはほとんど無く、穏やかで、他人にも嫌われるようなタイプではなかった。その分、お人好しで騙されることがあったかもしれない。

 とにもかくにも、機嫌の悪い姿は一度もなかったし、他人の悪口を言うこともなかった。冬の朝はどんなに寒くてもポイと布団から跳ね起きて、「辛いのはその時だけや」とあっけらかんとしていた。本当はすこぶる気合を入れていたのだろう。何事もそのような調子で明るく振舞うところが多くあった。

▼八朔が好きだった。

 昔にたびたび日記に書いたように記憶するが、今ごろ探してもそれほど簡単には見つからないものだ。

  • 初霜や八朔ひとつ供えたろ 2008.11.19
  •  総じて甘い物が好きだったが、八朔は酸っぱくても特別に好きなようだった。ミカンは食べたけれど、家族がみんなで大きな籠ごとを一晩で食べ尽くすほとにむしゃむしゃ食べていても自分は食べたいだけ食べて部屋を出て行ってしまうような人で、食べ物においては決して無茶な食べ方はせず、好きな魚があればいつもよりやや多めに食べているなと、傍で見ていて気付く程度だった。美味しいものを食べると素直に美味しい美味しいと繰り返しながら目を細めて食べていた。

    ▼痛めつけた身体のこと

     身体も大きいほうではなかったこともあり、酒を飲んでもほどほどで気持ちよく酔えたらしく、真っ赤になっていつも先に眠ってしまった。やはり、血圧が高かったのを高齢になるまで放置したことが相当に身体を痛めつけたのであろう。定年になって死ぬまでの6年間は身体の随所に在る不具合と、どうしても我慢できなくなったと言ってみんなの反対を押し切って手術に踏み切った腰の痛みとに悩まされた。生きる悔しさを感じていたかもしれない。高血圧の投薬も定年より前から欠かさなかったものの、60歳を過ぎたころにはもはや長生きの望めるような身体ではなかった。

     若いころに難聴になってしまい、身体を張って生きるしかないのだと、自分で考えたのだろう。さらに、親もがそう思い働き続けて育て、結婚後も身を粉にして働いたのが身体に祟った。仕事をコツコツとする真面目な性格と身の回りをいつも綺麗に整理整頓しておくような几帳面さがあったのに、これも50歳を過ぎたころからは自然現象として衰えてきていたように思う。子どもを育てることに追いまくられた挙句に一息ついて失速したのかもしれないが、そのような顔はまったく見せなかった。

     定年を終えて少し気楽な暮らしができるようになったと思ったところで悲しいことに高血圧による脳内出血で倒れて、何度か入退院を繰り返すうちに次は脳梗塞を発症した。高血圧症の人にとって脳梗塞は珍しくなく、大きな手足の不自由は出なかったものの、脳の一部が少し麻痺したらしい。一緒に住んでいる家族は、それほど詳しい原因や症状の特徴などを医師に尋ねなかったこともあって、離れて住んでいる私は詳細を知らないまま、現実以上に元気なのだと思い続けていた。

     今頃になって死亡診断書をじっくりとみて、初めて晩年のことを推測してみることになった。ボケて来たとか気が変になったなどと言った人もあったようだが、やはりあのときの脳は、もう壊れ始めていたのだったと今更気づく。

    ▼いつかは飲みたいと……

     私は悪い息子ったのだ思う。ろくに見舞いにも来ないで、まだそう簡単には死なないと思って甘く考えていたのだろう、身近で死んでゆく人もまだそれほどいなかったこともあって、父親という人のそのすごさに気づかないままいつでも1時間ほどで行ける場所に住み続けた。

     父親が病気で床に伏しているのをそれほどしっかりと記憶に残していない。何度も見舞っていないということかもしれない。いや、倒れたときには見舞っているが、父親のほうも弱った顔を見せなかったのかもしれない。認知症が出始めていても、このときにはその他の臓器は元気だったので顔色も激しくは悪くなかったのかもしれない。

     「卒業したら親父と飲みたい」というようなひとつの目標を、私たちの18歳のころは誰もが夢に描いていた。苦労を掛けて大学を出たらきっとふるさとに帰って身を立てるのだと強い意志を持っていた者も多かった。私はそういう一群の仲間にもなれずにいたことになる。飲んで話をしたこともあまり無かった。もちろんそれは父親の性格にも由るのだが。

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