去年の今ごろ
ふとしたことから去年の今日のつぶやきに再会して、そこに自分の進歩のないことに気づくのだが、ひとこと「進歩がない」といえばマイナスの意味にもなるものの、ヒトはそう簡単にあらゆる面で進歩できるものでもなかろうから、そういう窪んだ時期があってもいいのではないかと思ってみたりしている。ジャンプをする前には屈むのと同じようなものだろう……。
私たちは学校にいく過程で三角関数というものに出会う。sin、cos、tan である。この基本的関数は、その前に習った xの2乗、3乗などという n次関数と、後で習う複素関数とあいまって、世の中のすべての状態を近似的に表してくれるといっていいだろう。 ─ その意味の持つ一番大事なところを高校の数学では教えないで、解法に終始するのが少し残念だが。
人生においてであろうが、人間関係であろうが、ヒト社会でも、動物たちの仲間でも、生命の進化においててでも、また心の変化においてでも、私たちのすべての行動のプログラムにはそういう関数成分が含まれていて、その関数には終わるものがなくどこまでも続くことを定義している。
ヒトは転んでも立ち上がらねば歩き出せない。転んだままでなければ移動できないならばそこには事情があろうけど、転がったり滑ったりする技術を身につけてゆく。起き上がると必然的に速度が必要になる。つまり、速かろうが遅かろうが、動作は速度を持った行動(走ること)に変化してゆく。
時間軸上に、そのように刻まれる私たち。
私たちの心。
そして、私たちの悲しみや喜び。
それを受け入れることは決して怖いことでも不名誉なことでもなかった。
永遠の美学としての数学関数の中で生きてゆく。
なんども走って転んでまた走る (ヌカガジュンコ)
フーリエ変換というのがあって、押しなべていえば時間関数で表した軌跡を周波数成分として解析(変換)するのだが、これと似たようなことは人間の頭の中では比較的容易く行われてきているように思う。
たとえば、ヒトの笑顔をフーリエ解析してみるとか。怒りや喜びであってもいい。結局のところ個性だ何だといいつつ、その喜びや悲しみには数知れない背景や重みがあるのを、「嬉しさを★5つで表現」みたいな調子では行かないだろうということも知っているし、人には言えないものを聞かなくても理解しあうという心も持ち合わせている。だからヒトはそんな曖昧さをきちんと分析しているのだ。
ヒトの性格だって同じだ。
あらゆるところで食い違いがあり異質であるにもかかわらず、とても仲良しでくっついて離れない二人だっている。(私たち夫婦みたいに)
歯車だって、どんなすばらしい技術者が最高の設計図を描いたとしても、必ずギシギシと音を立てるだろう。止まってもいいし、悲鳴を上げてもいい。歯が磨り減ってがたがたになってもかまわない。
いつかどこかでで誰かが定義付けた複合的な三角関数のウエーブの上をサーフィンでもするように流れていくしかないのだ。
─ 師よ、転んだらどうすればいいのでしょうか?
─ なあに、起き上がればいいのだ。
そういえば、そんなことを学生時代のノートの裏表紙に書いていたなあ。
あの大学ノート、どこにいったのだろうか。
毎年、同じようなことを振り返りながら年が暮れれてゆく。
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