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2011年5月10日 (火曜日)

言論は自由であっていいのか

▼書きながら思いが変化する。時々刻々と変化する中で私の中を揺らぐことなく流れているモノとはなんだろうか。そんなものが果たしてあるのか。

▼連休中にこれを書いている。もうやがて2か月を迎える。2か月が長いか短いか。人はそれぞれの時間の物差しを持っているし心の物差しも持っている。一向に進まない復興とみるのか、それほどであれば上出来とみるのか。行政サイドの作業最前線の皆さんのご苦労を考えるといい加減な言葉を吐けば自らの軽さを露呈させてしまう。

▼3か月後にここにいる人たちの姿や心がどうあるべきで、実際にどうなっていると予測するのか。そのためには如何なる手を打つべきか。 6か月後を見据えてどの様な戦略図を描くのか。では、1年後では、3年後では……。実はその様にビジョンを見つめて構築することがこの闘いでの作戦で最も困難なのだろう。俯瞰的過ぎても落ち度が出るし、頭に血を上らせても失敗を重ねる。

▼ポテンシャルは備えている。行動力も判断力もある。金は何とかする。では、様々な方向から様々な邪魔が入る。何が邪魔をしているのか。別に自由に飛び交う言論が元凶だと言いたいわけではない。(どうでもいい奴の言葉ばかりが前に出てきて邪魔だという事実はあるが)

▼本当に私たちが必要とする報道は何か。報道側は今一度見直さねばならない。日本中が幸せボケで豊かさボケで満足ボケとなっていたつい先ごろまでの、銭金(ゼニカネ)だけで物事の尺度を決定し善し悪しを判断していた時期、経済社会構造を真っ先に立てかけてモノを見ようとする視点を忘れろとは言わないまでも、これからは変えてゆくのにちょうど良い機会だ。自由主義でなければ社会の進化はないにしてもそれを盾にして暴走する思想集団(これがまた賢者の集団で)も咎めねばならない。そして、腐った報道にいつまでもしがみついていたら社会が荒廃してゆく。被災地の何を報道してほしいのか。私たちは何を知らされたいと願っているのか。興味本位にその辺に転がっているようなあいまいでいい加減な情報とは一線を引けるような報道を期待したい。そのしっかりしたものの上で自由に言葉を出し合うのがいい。


「三重は少し原発には遠いからかもしれませんが、いつも緊迫感のない」とA君に形容された私は初日だけ熊野古道を歩いてきたものの黄金週間中は家にいます。福島県の友人は田植えの苗の作付が着手可能か否かの明暗さえ出ないというのに、幸福にも私の地方ではおよそ田植えは終了しました。

▼先日から考察しながら回想を開始している遺す言葉」がなかなか纏まらず、どこまで考えても社会への怒りや自分の人生の悲しみのようなものが私の脳裏に再来する。だが所詮私も、その程度のニンゲンだったのだ、という気もしてくる。

▼現代は自由にモノが言えて、こうして書けて、さらにこのように読まれぬかもしれずとも遠方に送り付けることもできる。新聞にもブログにもツイッターにも自由に意見を投稿できる。たとえそれが間違っていようとも正しかろうとも、活字となって暴走させることもできる。また、何処の誰が責任を負うてくれるかもわからないええ加減な言葉が我が物顔で暴走し、社会はどんどんと転落してゆく。地に落ちで本当に目が覚めるのか、やってみれば面白いかもしれない。

▼私が何を考えているのか…は、私にしかわからない。緊迫感がないと言われた事実からすると私の考えていることは、世間一般の目でみて緊迫感に欠けるということを意味しているのだろう。ひとつだけはっきりさせておくと「緊迫感というものを持つ」という概念すら私は思い浮かべなかった。したがって(緊迫感を)持つことが大事であるとか不可欠であるとか、またはその逆であるとかいう概念も当然持っていない。そんな奴の頭の中に、では、何が思い巡っているのか。私にしかわからないのだろうが、言葉に(文字に)して表さねばどこにも出てゆかない。

▼三重県が発信するメールマガジン「三重の環境と森林」の「巻頭」と「編集後記」で私は以下の内容を記した。(原稿チェックの段階で下線部の内容にかかわる箇所の削除指示があったが。仕方ないのと悔しいのとで、自分のブログに全文を載せたけど。無力である)


メルマガ

【巻頭】

春を迎えました。花が咲き鳥が啼いて野山はいっそう元気になってきましたのが伺えます。通勤列車の沿線に広がる麦畑も日に日に青く大きくなり、県庁前の花時計も色鮮やかになってきました。このメルマガが配信されるころには偕楽公園の桜は散ってしまいツツジの出番になっているかもしれませんね。

自然の移ろいにうっとりとさせられながら、こうして春がやって来るという約束は百年も千年も昔からなされていたことであろうと思い、また一方で東日本に地震災害にもたらした地震も地球と人類が交わした約束であったのかもしれない……とも考えたりしていました。被害に遭われたみなさまをお見舞い申し上げますとともに、一日でも早い復興をお祈りします。

「天災は忘れたころにやってくる」という言葉を物理学者・寺田寅彦が残しています。私たちが暮らしている地球という惑星から見れば、その果てしない生命線上の捉えようのないほど小さな近年に私たち人類がいます。200万年以上昔に2本足で歩く人類が登場し、5千年前に文明が生まれ、科学技術に至っては18世紀ころから歴史が始まります。

これらの長大な歴史のなかで、人々の暮らしが幸せを夢見ながらも何者かを畏れ、知恵を絞り文化を築き上げてきたことを振り返ると、環境を守りながら自然とともに豊かな暮らしを実現してゆく過程で見直さねばならないものがいくつもあることに気づかされています。

そのようなことを感じながら四月の始まりを迎えました。

【後記】

アラスカに住み自然を見つめ続けた写真家の星野道夫の著作を読むと「自然に対する畏敬」という表現が数々登場します。そこで「畏敬」とは何だろうと考えてみます。

辞書を引けば答えは簡単ですが、彼の伝えたかったことや彼の感じていた畏敬がことごとくすべての人々に伝わったならば、私たちが目指している環境創造活動は違った形になっていたかもしれません。

天災か人災か。東日本を襲った大震災の余震は物理的にも精神的にも続いています。社会までもが揺れ続ける中で3月30日の天声人語(朝日新聞)は「地球や自然への畏敬が足りず」「天災が暴いた人災である」と書いています。

大きな問題を解決しても将来にあるべき私たちの姿が揺らいでいては再び社会は道に迷うことになります。コラムは「電力業界は論敵の視座から出直すしかない」と手厳く締めていますが、環境に携わる我々も、エネルギのことを見つめなおし「地球を見つめる視座」が必要なのでしょうね。


▼論敵の視座。最も今の社会に欠乏しているのではないか。AKB(あほ・かす・ぼけ)な連中が勝手なことを言い合うなかで、この歴史的な人災を、知恵の力で解決へと導こうとする力を国家は全く失っている。やはり、「天罰」と言って非難を浴びたものの素晴らしいどこぞの知事の発言は改めて考え直しても面白く、もしかしたらひとつの「視座」では正しかったのではないかとさえ思えてくる。(そのこともブログで触れたように、もっと別の区域の人々に浴びせかかれば、まさに天罰になってよかったかもしれない)

▼人の考えは言葉で表現されるが、その人が正直にモノを言っているのかどうかは誰も保証できないし証明もできない。この未曾有の天災と人災で、私は何をどう感じて思っているのか。誰にも言わないし、どこにも書かない。書き残しもしないだろう。

▼何を考えて生きているのか。次に述べるようなことを私は考えて生きているのか。そのなかに私の本心とは逆の考えがどれだけ含まれているのか。わかる人はそれほどいないだろう。所詮、世の中はその程度なのだ。つまりは、思ってもいないことをペラペラと書くこともできるし、夢を語ることもできる。事実をきちんと報告することもできるし、ひとつの思想を論文にでもできる。そういう社会の中で生きていながら、結局のところは慎ましやかになけなしの金を手に、暮らしている。

▼どこぞの有名なケーキショップのひと切れのケーキを食うもよし。世界に名をとどろかせるマカロンを食うもよし。しかし、今そんなことをしている暇があったら倒産するかもしれない国家の再建に知恵を貸そうとするのが国民の生きる道だ。経済の発展や回復も大事だが、一部の経済学者のマヤカシの言葉のマジナイに惑わされた世相の流れをもう一度しっかりと見直すべきではないのか。経済学のボケカスどもが社会発展が大事だと叫び、情報化社会が二十一世紀を大きく進化させるのだ大声で叫ぶ。声が大きければいいというものでもなかろう。しかし奴らが滅びない限り世の中は、ささやかに暮らす庶民が夢に描くようなカタチには戻っては行かない。

▼原子力発電の賛否についても、今ごろあれこれ言っても無力だ。もう30年前以上も前からそのことを言い続けていても世の中はAKBのパワーに牛耳られていて、なるようにしかならなかったんだから。

▼東日本国と西日本国の間ではパスポートは不要で、通貨は統一されているのだけれど、あれは隣の国で起こった天災と人災だから、と考えている人がいてもいいだろう。愚かな東ノ国の歴代の総理が愚かな行政をした結果、首都圏などという非哲学的で勝手気ままで自己中心的な区域を作り上げてしまった。裸の王様という物語を子供の頃に読んだことがあったが、まさにその通り。都市は肥大化し文明として果たしてそれほど価値が高いのかと思えるような文化のもとで人々は自己満足をして生きている。(そう見える)

▼首都圏は解体すべきだ。そしてその都市のためにエネルギーを生産し続けて、放射線という得体のしれないものまで頭から浴びせられて苦しい生活をさせられた一部の地域の人々はもっと怒らねばならない。怒るべきだ。もうこれ以上、そんな人のためにあらゆるものを犠牲にするのはやめようと言いたい。滅びることが大事なんだ。天罰だったんだから。

▼でも、滅びるなら東ノ国を丸ごと滅びさせてしまうのが一番だ。昔、ベトナムから多くの難民が流出したように、豊かで自己中の生活をしていた権力や権利まみれのニンゲンは、どこか新天地を求めて流出したように、人々はもう一度社会を見つめ直し、自分の存在を考え直すのがいいだろう。こんな人災の中にあってもそれでも暢気に都会を守ろうとしている連中のためにそんなところに留まることなど不要だ。新しい夢の国を作るのがいい。

▼東京湾に原発を、という署名が大昔にあった。デモもやってた。中曽根元総理の最近の著述を読むと、東京湾に原発を作ることの危険性を認めている。「想定しているから(作らないのだ)」と正直に言っているからあの人は偉大な政治家で実際に成功もできたのだろう。あの人のイデオロギーとは真っ向から対立するものの、行政人としてのスタンスに石原慎太郎と同じように素晴らしいものがある。それを持っているから多くの人が認めたのだろう。それとも、国民はそんなことなんか何も考えていなくて、みんながそうするから的な勢いでそうなったのか。面白い世の中だと思う。このような立派な論敵が少なくなったことが悲しいともいえるか。決して嫌味ではなく、論力のようなものが弱体化したから社会が空洞化し形骸化したのだ。

▼電気の節約だって。何をいまさらあほらしい。暖房便座の電源はもう何年も前からOFFです。お風呂の追い炊きも特別な事情がない限り使用しない。風呂はいつも夫婦二人で入る。熱い目のお湯が好きな人からやや先に入る。蛍光灯は半分以上を消して、掃除機は使わず箒を使う。いわゆる美味しい水という類のものは買わない。深夜までは起きていない。クーラーは数年前に壊れたのを機会に新しいものは購入しない。車の洗車は水道水などの上水では行わない。20分程度の外出は徒歩か自転車で行く。その程度の場所に用事があっても電話で済まさず出かける。雨戸などを活用し冷暖房効果を高める。コタツはぬるめに設定し寒い思いをする。その分服を着る。外出するときに着るような厚めの服を上から羽織って寒さを少し我慢するのだ。昼間は電燈を使用せずに、仕事や作業は窓際に移動してこなせる様な工夫をする。明るくなったら行動するよう心がけ、暗くなったら余分なエネルギを使わない。車のエンジンは停車時間が約1分以上のように長くなることがわかっている交差点では停止する。ブレーキを不必要に踏まねばならないような運転はしない。当然スピードも不必要に出さない。アイドリングストップなる高級機能を持っているような車に投資をすることや無駄な買い替えはしない。あるものを上手に工夫をして暮らす。(行政の方針の間違いを今更指摘しても社会改善に直接はつながらない)。車は最低台数に減らす。健康に心がけ医薬にかける経費を減らす工夫をする。数分待ったら来るような便利な電車に乗るために(自分の快適さのために)無駄な燃料を使うことは避け、1.5時間から2時間ほどの間隔でしか走っていなくとも時刻表を見ておけば乗れる列車を利用し、多少は不便であろうが空いた時間を上手に活用する暮らしを心がけ、化石燃料の不必要な消費を避ける。もしも、計画停電が来ても計画断水が来ても風に吹かれる葦のごとく飄々と暮らせるようなスタイルを意識して毎日を暮す。

▼でもね、本音を言うと、今回の震災で電気ガス水道が止まってみてその大事さに気づきましたという人があまりに多くて、私たちの今までの環境教育はおしゃれの道具としての環境スタイルをPRしてきただけだったのかと省みる。この苦境で体感するようなものの大事さを感じて環境を守ろうと常に言ってきたのだが(伝わっておらず、伝わった結果から)、いかにも豊かな社会のオトシゴたちが捉える作法で理解されたのだな、と感じた。復興したら何割かが忘れてしまうことを思うと厳しいことを言うようだが、まだまだだと思う。自分のことしか考えていないレベルだ。

▼長くなるのでひとまずこの辺でペンを置く。

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