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2010年10月31日 (日曜日)

さようなら出会いも別れも神無月 ─ 十月下旬篇

10月30日の午前中に紀伊半島沖にやってくる台風のおかげでメディアは大騒ぎ。
馬鹿みたいに。

台風が来るそうだといって騒ぐのはいいのが、本当に本心で騒いでいるのだろうか。

騒ぐことで、情報産業に注目が集まったり、占有率(視聴率など)が上がって利益が稼げるので、心とは裏腹に騒いでいるだけではないのだろうか。

確かに

雨はたくさん降りました。
風はそれほどでもないです。
海は荒れています。


ちょうど、先日、ポピュリズムのことを読んだので、余計におバカな人間がおバカな情報に群がってバカ騒ぎをしているように思えて仕方がなかった。

災害などにさらされた地域の方々に対しては不謹慎な発言かもしれませんが、

今の情報メディアが被災者の見方や立場でモノを考えているとは思えないことから考えると、根本的に災害弱者は体制に対して立ち上がらねばならないはずとも思いますが。


さて、

(30日)

雨が降ってつまらんので、歯を磨いてから楽器を吹こうかな。

最近、夜空のトランペットとかを思い出して吹いてみたりしてますが、正確に思い出せないのでめちゃめちゃやけど。

そんなことを書いている。

楽器を吹くのは楽しいけど、何か訳ありのこともある。


(29日)

▼怖いので寝ましょう。ではまた明日

そんなことを書いて日記を閉じている。
台風は来ないと確信を持ちながら、来るかもしれないと書いている二重人格な自分。

味噌おでんを食べたいと思っていた。
名古屋名物。
でも、歴史的にも、思想的にも、名古屋は嫌いだ。

食い物だけは別扱い。


▼キミが好きという直前に暮れる秋
▼暮の秋貴方の手紙焼いてます

わけあって、
こんなことを書いている。


▼暮の秋ちんちん切られる夢を見る

眠れない夜があったのかもしれない。
私には珍しいことです。
何か悩みがあったのか。

切られたちんちんの行方は。

▼猫、飼いたい

これは夢。


(28日)

▼さようなら出会いも別れも神無月
▼温くいお布団の中が一番好きや
▼好きですと、リンゴをかじって言ってみる

なんだか
そういう季節になってきたことを
認めたくないような。
反発心。


何が悔しいかって、
昨日の夜に8時ころラジオをつけたらN響の定期演奏会をやってて、
大方、第5番が終わりかけでした。聴きたかったなあ。


▼雨上がり曇りガラスを拭いて見る

ぼーーとしていたかった。
降りそうで風呂出さない夕暮れ時。


(27日)

▼木枯らしに赤い実揺れて日が暮れる


(26日)

▼お布団の中が一番ええなあ

木枯らし1号やそうです。
夕方の駅のホームは寒かったなあ。


楽器を吹いている。
きょうはいっぱい吹いた。
満足満足。


▼山頭火を読みたい季節やね、ボソッ
▼風が冷たいな、熱燗が恋しい、人恋しい
▼北海道は雪ですか、。私はまだしばらく半袖です。


(24日)

▼中島みゆき

明日も今日も留守なんて
みえすく手口使われるほど
嫌われたならしょうがない
笑ってあばよと気取ってみるさ
泣かないで泣かないであたしの恋心
あの人はあの人はおまえに似合わない

……と中島みゆきの
そればかりをうたっている
私がいる

40型

40型のテレビを買いましたが、決まってみるのは朝の6時半からのNHKのニュースのお姉さんだけです。

6時45分になったら出てくる男性アナを(見たくないので)見てしまう前にその場を離れます。

それくらいしか楽しみないのに、買ってしまった。

2010年10月28日 (木曜日)

木枯らし1号

落ち葉が歩道にひっそりと落ちている。風に舞いながらサラサラと吹かれているならば、いかにも秋に誰かを偲ぶような詩情も湧き出てくるのだろうが、濡れ落ち葉となってコンクリートの歩道にはり付いていた。それが数日前のこと。

落ち葉なんてのが風に舞うのは晩秋のことだ。北山修が京都の街に吹く風を歌ったころはもっと秋の深まったころだっただろう。そんなことを考えて、私はまだ半そでで出かけて行った。しかし…。

26日の夕刻、木枯らし1号が吹いたという。
どこの街も秋色はいっそう深まり、急に襲ってきた冷え込みに悲鳴を上げている。

昔も今も何も変わらない冷たい風が吹いている。
そうよ。おそらく人の心なんて、そう簡単に変わるようなものじゃなくって、秋になったら誰だって悲しくなるのさ。
……と嘯いてみるものの、ちょっと悲しいことがありまして(秘密)。

*

秋。

今はもう会えない人たちを切実に振り返ったり遠くの人を恋しがったりしている。遠い昔を思い出している。

人間なんて、長い歴史が捻じれながらも時を刻む合間で泣いたり笑ったりしている。だから、人が人であるうちはずっと宿命でもあるように、泣き笑いは心に付き纏うのだろう。

私だって数々の落とし物をしてきたよ。
もう拾い歩くのはやめにして、遺言を書かねばならないな。
そんなことを、ときどき考えながら、落ち葉を見つめている。

ちょっと肌に寒さが沁み込むだけで少し弱気になってゆく一面がある。
一方で、少し温まると強い私がモリモリと湧いてきて、俄かに元気になってくる。
この年齢ではまさに生きる元気でもあるのだが、それが我ながら可笑しい。

*

ショーウィンドウ。
木枯らし。
短く切ったキミの髪、風に乱れて、
後ろ姿、光の中へ。

もう追わないから。

2010年10月27日 (水曜日)

車谷長吉全集2。恋文絵。

きょうは、車谷長吉全集2の返却日ですが、延長してもらおう。

車谷長吉。
恋文絵

ええわ

車谷長吉

赤目四十八瀧心中未遂がいいです。
まず、読んでみてください。

2010年10月24日 (日曜日)

十月下旬の ─ つぶやく十七音 霜降篇

ふと、悲しいと哀しいを見つめなおしてみたりして、
何もいいことがなかったけど、
まあ、ちょっとニッコリな話もあったけど。(20日)

そんな1週間だったな。

さて

(24日)
▼満月やキミの後ろに回りたい

昨夜のお月様は見えたのだろうか。
むかしから中秋の名月と呼ばれているのが、この九月や十月の月であろうが、ほんとうに月を見あげて何かを思うのならば十一月や十二月の月のほうが心に染み渡ると思う。

▼秋の月ちょっと淫らな顔をして

(23日)
▼満月はしくしく泣いて欠けてゆく

まえに「三日月は恋をしながら丸くなる」と書いたのを読み返しながら、
ふと、そんなことを思い浮かべる。

涼しくなってきました。
朝の散歩に出かけて、優しい風に吹かれてみたい…

▼秋の朝風に吹かれる風もなく

意地悪なことばかりを書いている。
作り話はイジワルなのほうがオモシロイ。

▼ふと、悲しいと哀しいはどう違うのだろうか、と思う

そのことをtwitterに書いてみた。思いが色々と返ってきた。
何名かの呟きを書き残しておこう。

・「悲しい」は対象の喪失、「哀しい」は対象の存在に対して抱く感情
・失恋して恋人を失うことは「悲しい」、恋人を留めておきたいと千々に思い悩む人(の存在)は「哀しい」
・「悲しい」は透明で「哀しい」には色がある
・「哀しい」は相手を思って感じる心を表す言葉。「悲しい」は自分自身の感情ストレートに表す言葉
・哀しいは哀愁があるというか、秋のもの悲しい感じ。 悲しいは文字通りかな
・悲しいっていうと、本当に何か自分にとって不幸なことが起こって悲しい、って感じ、哀しいだと、誰か自分以外の人に対して哀れに思うとか切ないとか、何かそういうの

▼猫の道散歩ついでに追うてみる

朝は不思議なものまで見えてくる。路地を悠々と行く近所の猫ちゃん。ちょいと追いかけると、すすすっと逃げこんでゆく秘密の道。

私も迷い込んでみたい。

(22日)
▼肩寄せて月に「大好き」と指で書く
▼一人酒に憧れて手酌してみて寂しすぎ
▼夢の中ざわめく海の波に乗る
▼潮騒が貴方を攫う防波堤

頭の中が上品で爽やかなときは、素敵なつぶやきが生まれる。
モヤモヤしているときは、駄作ばかり。

この日は、
◎坂田栄男さん、逝く。うーーーん。合掌

青春時代、研究室に顔を出しては勉強しないで、囲碁を打っていた。
私は弱い。
自分を知るという意味でも大きな一撃だった。

▼さり気なくネクタイ選んで肩をポン
これは朝の通勤列車の中でぼんやりと思い浮かべた句。

(21日)

▼キミと僕、秋雨前線でつながる
▼夕焼けに切なくなって、まあちょっと
▼まあちょっとあなたに手紙を書いてみる
なんて書いてた去年の今頃を思い出している、21日のひととき。

さっきから
▼蚊がとんどる。打ち落としてやるぞ。ルーチョンキ

秋の夜長は手紙を書くのがいい。
鉛筆でもいい。

父から荷物と一緒に添えてあった手紙を思い出す。
きっと鉛筆か何かで、何かの裏紙に走り書きした手紙が添えられてあって、元気かい、とか書いてあるはずだ。

涼しくなりましたが……。汽車の中の暖房はやめてほしい。
私は半そでのカッターシャツで暮らしているのですが、通勤列車の中で暖房を入れられたら、もうこれ以上脱ぎようが無い。
勘弁して欲しい。
寒い人は上着を切るかコートを着て欲しい。
暖房で汗だくは嫌や

(20日)
▼軒先の干し柿ひとつ持ち帰れ
▼雨雨冷たい雨冷た、給料日前

▼十三夜。最も綺麗な月夜だといったのは誰だった
かな、とかふと思う

雨はいつでも恨めしい。
でも
まんざらそうでないこともあるけど。

▼恋のことプチッとリセットしたくなる
▼朝焼けと夕焼けとどっちが好きか?

こんな調子で十月の下旬は始まったのだった。

すすきぼうし

斎宮

きのう、すすきぼうしを見つけたので1枚撮ってきた。(10月23日)

この日は月に一度のイベントの日であったらしく、たくさんの人が来ていたが、私がついたときにはイベント会場に設営しているテントの撤収がほとんど完了していました。

斎宮

コスモスの畑があったので少し散策する。

2010年10月23日 (土曜日)

詩集 散リユク夕ベ  銀色 夏生

詩集 散リユク夕ベ  銀色 夏生



山が笑う。
初夏の風に吹かれながら、儚かったときを思う。

コミュに銀色夏生のファンの人がいて、
思わず昔の詩集を手にとって見た。

2年前に、【銀マド:ひろちゃん】に書いた。
そうか、あれから2年が過ぎるのか。

--

この詩集。
1998年の出版なんだ。
あの子。
初版を買ってきたんだな。

偶然出会った作品が、とても素敵な作品で
偶然出会ったオンナが、人生を捻じ曲げてしまったオンナで

本当に、魔女のような奴だった。

初夏の風に吹かれて涼しい目で遠くを見てた。

--

人は、一年中恋をしていなければイケナイ。
それも
途轍もなく激しい恋がイイ。

今、千夜一夜、を書いているが、激しかったときのほうが私なりに美しい作品が書けていると思う。

女は、触媒のように不思議な魔力を持つ。
散ってばかりだ、私。



| 2008-05-03 09:35 | 読書系セレクション |

週末には手紙を書いて ─ 霜降編

前略。今朝は涼しい朝を迎えました。

真夏の朝のようなどんよりとした空ですが、秋の気配が十分に漂っています。
もしも青空だったら、清々しい霜降の朝と書けたのかもしれませんが、何事も筋書き通りにはいかないことは今までに幾度となく経験してきたから、すぐに気持ちは切り替えることができる。

……なんて。

霜降。

+

週末には手紙を書いて。

秋が深まり、各所で初霜がみられることもあろうという季節をいうらしい。

暑かった夏がひと段落したと思えばあっという間に秋になり、やがて木枯らしの吹く季節に移ってゆく。

流れるような日常の、ささやかな出来事を、そのまま流してしまっては、もったいない。


この頃はブログを書くのも遺書だと思いながら書いている。
静かにその行く果てを考えると、懐かしいデザインの大学ノートを1冊買って、日記を綴ってみてもいいなあと考えてみたりする。

急がねば、突然死が待っているかもしれない。

+

そんなことを走り書きをして、さて、今日は何をしようかしら。
二人で出かけようかな。

考えていることと実際はなかなか一致しない。
これも、これまでに何度も体験済み。

どこかでお祭りをやっているらしい。
そういうのを聞くとワクワクするの。

朝寝坊の好きなその人には、ぬくぬくした布団の中の微睡を、もう少しプレゼントしておこう。

2010年10月21日 (木曜日)

干し柿

干し柿が軒先にあったので、懐かしくて1枚写真を撮ってみた。

子どものころは、どこの家でも鈴なりの柿が干してあったのに、今はその影もない。

▼軒先の干し柿ひとつ持ち帰れ

干し柿

2010年10月20日 (水曜日)

竜馬がゆく 司馬遼太郎著


竜馬がゆく 司馬遼太郎著 文春文庫

ひとりの青年がこの文庫を手にしていたので声を掛けた。そしたら目を潤ませて「ほんと、熱くなりますよ」と応じてくれた。こちらまで嬉しくなってしまった瞬間だった。

「あなたの理想の人は誰ですか」と訊ねると坂本竜馬だという若者も少なくなったかな。四国、土佐の国を旅するとそういう一本気な旅人に出会う事が多い。そういう私も「竜馬がゆく」を片手に土佐に旅立ったことがある。

司馬さんの小説には一種独特の語りがある。それが何かというと、物語の本筋から少し脱線して、しかも少し長引くところにある。ドラマではあまり許される手法ではないのだろうけど、彼の小説にはそれがあるから面白い。竜馬がゆくにどれだけ脱線があったかは記憶にないが、物語にぐいぐいと引き込んでいく魔力がある。だから、その魔力が利きすぎて四国へ旅立つ人が跡を絶たない。

かくいう私も99年の黄金週間には「坂本竜馬・脱藩の道」を辿っていた。天気は快晴。高知県、梼原村への旧街道の峠道を味わうようにトレースした。出かけ前には「街道をゆく・27」も読み返してきた。梼原村に入って、関門旧跡の前でひと息ついて四万川から坂本川沿いへとバイクを進める。六丁なんていう在所がある。そこを越えて韮が峠に私は立った。この峠から生まれた土佐の町を竜馬は振り返ったに違いない。そしてこれからの時代への夢と大志を抱いてこの峠を下ったのだろう。

ひとつの歴史なんて自然の生命からしたらちっぽけなのかも知れない。しかし、そのちっぽけな歴史を多かれ少なかれ動かしたひとりの人とその精神がこの峠で、もしかしたらある決意をさらに固くしていたのである。竜馬の脱藩は文久2年3月24日。桜は七分咲きの頃だったと「竜馬がゆく」には記載されている。


上の記述は私があるミニコミ誌に書いたものです。(ミス記述もそのまま)
読書系では、竜馬がゆくをまだ紹介していなかった。
それは大事なものを取っておくような感じにも似ているけど、出し惜しみしても仕方ないし、また何度書いてもいいものはいいだろうから、ここで書いておこう。

| 2005-01-30 10:21 | 読書系セレクション |



旧暦3月26日に竜馬は韮ヶ峠を越えたんですね

司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を書棚の奥から探してきたら、まっ茶に色あせてます。もう20年近く前に、「功名が辻」を読み終えて、150℃くらいまで熱くなってしまっていた私は、次に竜馬がゆくを手にしたのだった。

文春文庫「竜馬がゆく」第2巻、P401あたりから声に出して読んでみると、ぐいぐいと引き込まれますね。吉田東洋の暗殺あたりです。ぜひ、この数字を憶えてから本屋を訪ねてくださいね。

脱藩のあたりは何処だったかな・・・と思い私が今手元に持ち出した本にはメモ用紙が挟んでありました。ツーリングに出る際の持ち物リストです。バンダナ、カッパ、手袋、リップクリーム、ライター、YH会員証、手帖、コンロ、シュラフ、電池、電灯、ろうそく、箸、トレーナー、フリース・・・
などと書いてある。

当然、このメモを挟んだ文庫本を持っていったこと疑う余地もない。

脱藩のくだりは、第2巻最終ページまで続きます。

| 2005-03-13 08:58 | 読書系セレクション |

高村薫 3冊


高村薫著 レディ・ジョーカー

(はじめに)

うーん、と唸ってしまう。
何故、高村薫がこれほどまでに人気があって、★が平均して4個以上というのは、今の活字離れの時勢にあって、まことに不思議だ。

私のように偏屈、変人といわれる人が熱中するなら理解も出来るが。

いずれにしろ、軽薄、短小、いい加減、人気伺い、金儲け、売れ筋迎合、ベストセラーミーハー人気などなどと(私が)言っている本屋のワゴンの中にあって、この作品は光り輝いている。

*

照柿
マークスの山

と続いて読んできたのだが
少し、異色を感じた面もありながら、
確かに、高村薫を女性と思っていなかったというひとが多くいるだけある。
そういう色合いがある筆が濃く出ていた。

でも
どれをとっても
素晴らしい作品ばかりだ。

--

マークスの山は直木賞作品で、内容を見てもかなり分かりやすい。

レディ・ジョーカーは、壮絶で予想さえも出来ないタイトルからして、「よし、高村薫を読むぞ」、ぐらいの気合がいるのかもしれない。

(では、感想を)

合田と加納という用意された二人の人物に、自分の内面を内面から見つめさせたり、あるいは客観的に静観させたりさせる。さらに、静観ではなく激しく批判的にも見ることもあったかもしれない。二人の違った視点を絡め合わせることもある。

人間である以上、誰もが持ち合わせている自省観念を、多角的な視点で扱いながら、練り上げた物語を現実味の帯びたドラマへと仕立て上げてゆく。

次のページが重苦しく厚い壁のように見えることもある。しかし、読者は遅々として進まないドラマの次を待っている。些細な展開の中に散りばめられた日常的な変化も見逃してはいけないし、その心理も御座なりにできない。

美文でもないし、報道記事風でもない。やはり、小説なのだと思う。これが、朝日や読売新聞社社会部のドキュメント記事のように綴られていたら面白いかというと、決してそうでもないだろう。

どんなキャラが好きか、嫌いか。ある方にそう問われたことがある。考えたこともなかったというのが正直なところで、私という者が人一倍に好き嫌いの感情がはっきりしている人間でありながらも、冷静で淡々と成り行きを見守っていることに改めて気づかされた感じだ。

感動を伴わないわけではないし、好き嫌いも無くはないが、そういうものは本質とは関係なく、男と女の間でいうならば許し合える程度のものかもしれない。それよりも、登場人物たちのそれぞれが自省と対話をする姿や心の叫びを、あたかも自分のことのように読み耽るとき、好きとか嫌いという観念が引き潮のように見えてなくなり、物語の中を流れる冷静で眩しいスポット光源が私の心に差し込んでくるのを感じる。

高村薫の小説作法が、先にも書いたが、美文でもなく、また分かりよいものだと言えるようなものでないだけに、この作家の人気の理由は、この泥泥として汗臭いような小説自体にあるのではないだろうか。松本清張が新しい推理小説を開拓したというなら、高村薫は再びジャンルを超えた社会派といえる。

残念ながら私は、商法や企業法、物権、債権などには縁の無い日常でして、この物語のひとつのポイントを読み解いてゆくのは難しい。法学や経営学の知識がもう少しあればと思うものの、一般社会で暮らすには実際には不自由もしないので、この小説レベルの話はお茶の間ドラマを見る感覚でサラリと流させてもらった。

しかしながらそういうことを片目で見ながら、高村薫がさり気なく読者に投げかける社会悪や不条理への感情は、少し物語から脱線しながら作者自身の新聞論説なども思い浮かべて考察したくなってくる。(これはこの本の感想では無いので省略)

高村薫という人は、ルポライターでない分、小説がルポっぽくない。詩人で無いから詩的でない。少しドタバタでギクシャクなところがあったが、これだけの長編ならば大きく差し引いて、読者の読書観を捻じ曲げてしまいかねないほどの刺激的な作品だになっている。

合田警部補(のちに警部)の、弱弱しい面と知的な面と不良でヤクザな面が、素晴らしくミックスされて、程よい加減だ。人物を取り上げると、どの人も味が出ている事に気がつく。これは高村薫の普段からの人間洞察力としか言いようがなかろう。

「東電OL殺人事件」のような作品をこの人に書いてもらえたら、私は痺れて動けなくなるだろうな。
| 2010-05-28 19:17 | 読書系セレクション |


照柿 高村薫

刑事事件や殺人が起こるが、決してサスペンスや推理モノではないし、高村薫がそんなジャンルの人ではないと友人が教えてくれた。だが、何故に第1冊目に着手できなかったか。この人が女流作家でありながら、性別を感じさせないほど--男性だと思わせてしまうほど--の作風だから読み切る自信がなかったのかもしれない。

解説は「罪と罰」と書くが「赤と黒」や「レ・ミゼラブル」でもよい。そんな作品が持つ浮き足立たない筆致がファンを惹きつけるのだろう。お笑い芸人が観客をダシにしたネタをやったり自分自身が笑いながら演じるのに似た小説が蔓延する昨今、このように朗読家の頬が締まるようなペンは小気味よい。

そういうわけで、話は全く進展しない物語でありながら、これでもかというほど作者のアクのきいた風景や心理の描写に引きずり込まれてゆく。

ブドウのような黒目がちな女性・・・のような記述があったところで私はこのオンナに惹かれてしまう。二人の男も泥臭い。埃臭い。そして場面のひとつひとつが、セピアのように暗い。熱い。うるさい。
もう読むのをやめよう。別の作品を読んだあとに続きを読もうと、何度も途中で考えるのだが踏みとどまる。それには私なりの理由があった。

自分の人生、それなりに心当りのある葛藤がある。なかには、醜いことも汚いことも、歓びも悲しみも。
小説というのはあくまでもフィクションであるが、その作家の意思が私の心の性感帯のようなところを--それはエロチックなものや性的なものでは決してなく、もっと神経に近いようなものですが-擽る。

それは、麻薬のようであり、かつて恋におぼれて身体中が融けてしまいそうになった瞬間のように、もうひとつの自分の世界に堕ちてゆける。

照柿を「罪と罰」と比喩する人にも、私のような誰にも話せない過去があるのかもしれない。
| 2007-03-28 10:50 | 読書系セレクション |


高村薫 マークスの山(上・下)

上下を一気に読み抜けてしまいたい気持ちが逸るにもかかわらず、密度の濃さになかなか進まないという状況に脳味噌の片隅がやめちまえと反応するなかで、どうしてもやめられない理由が見つからないまま、ミステリアスの裏に秘められたドラマが、じっくり、どっしりと感動を蓄えさせてくれて、最後まで読ませてくれた。

高村薫の作品は読んで即座に嫌いになる人もあれば、私のように連続的に夢中にならないものの、また再び買ってしまったという人もあろう。

彼女の筆は、考えに考えを重ねて書き留められているのがよく分かる。そいつが、ある種の作品を噛み砕いて味わいたがっている私の気持ちに突然襲い掛かってくるので、何が読みたいわけでもミステリージャンルが好きなわけでもないのに、自分を苛めるような、ちょっとヒステリックな衝動のに似たものを伴ないながら、私はこの人の世界に呼び込まれてゆく。

「照柿」を先に読んで随分と間を空けている。相当に勇気を持って恐る恐る読み始めたというのがホントのところ。こんな作品、最後まで読み切る人が居るのだろうか、と頭の中で考えながら一行一行を着実に読み進むとそれはあっという間に数ページ進んでいて、密度の濃い濁流のようなもののなかに(という表現が果たしてただしいのか分からないが)、時間や情景、人々の心理までも圧縮してくれている。

真剣勝負で読み進む。単にストーリを追い、面白さを味わうだけの作品ではない。他人が勝手に映像化することなどは絶対に不可能だろう、もしできたとしてもそれは全く別物と化してしまい間違いなくこの作品の本質を生かせないに違いない、と思える作品であるだけに、物語の展開と数々のシーンを私自身が作り上げ、共感し、考えながらというある種の苦難のような読書になるのだが、そのあたりがこの人の作品の魅力であり多くのファンが居る理由であろうか。

私の普段の仕事にも多かれ少なかれ関係していることもあるのだろう。法のもとで管理されながらも絶大なる権力というものを持ち、その背中に万人からも監視されているという日常の我々の心理をも緻密に組み上げているところなど、業界人から見ても精巧に書かれていて面白い。

ミステリアスな題材を扱う物語であるのだが、決してそのようにあらかじめ決められたような言葉でジャンルを決めて欲しくない小説だ。テーマも構成も充分に吟味された味がある素晴らしい作品だと思う。

(直木賞作品です。こういう作品を読んだあとは直木賞に大きく拍手を送りたくなります。)
| 2008-08-04 08:57 | 読書系セレクション |

関野 吉晴 グレートジャーニー―地球を這う


関野 吉晴 グレートジャーニー―地球を這う〈1〉南米~アラスカ篇


関野 吉晴
筑摩書房 2003

(環境を)考えさせられる1冊でした。(プライベートで公表済)
-------------------------
▼約400~500万年前にアフリカのタンザニア・ラエトリに人類が誕生した。そして、百数十万年前にアフリカを飛び出し、私たちの祖先は、ユーラシア大陸を横断しベーリング海峡を渡り極北の地を越え、北米を経て、ついには南米大陸最南端のパタゴニアへと到達した。東アフリカから南米大陸に至る5万キロに及ぶ大遠征の、壮大でロマンに満ちた道のりを、一人の探検家が逆ルートで辿った。この旅をグレートジャーニーと呼び〔名付けの親はブライアン・M・フェイガン/英国の考古学者〕、マスコミやTVメディアが取材した。関野吉晴さんは、1993年に、南米ナバリーノ島を発ち2002年にアフリカのラエトリに到達し冒険を終えた。関野吉晴著:ちくま新書 「グレートジャーニー -地球を這う (1)南米~アラスカ篇」 を読む。
▼旅は過酷であった。にもかかわらず、最後までやり遂げられたのは、彼が旅の途上で様々な人々と出会い、その人々の生活文化を理解し打ち解けあい、また自然というもの、人間というものを素直に見つめていたからだろう。
地球上には文化的な大きな段差のようなものがあるが、通じない言葉、異なる文化の壁を越えて飛び込んでゆき、彼は考え続けた。人類の心の奥深くにある神への心を見つめ、自然への畏敬を持ち続ける。
「私たちの祖先はどんな世界を見てきたのだろうか? 現代人には感じることのできない形で自然と触れあっていたのではないか? 火、水、時間、森、言葉、食、数、音楽、踊り・・・」 関野さんはさまざまな「自然」とのつながりに想いを馳せる。
▼日本を始め先進国に輸出されるために丸ごと伐採されてしまう森に直面する。それは、遥か昔から先祖が恩恵を受けてきた森で、この森とともに暮らしている人々がいた。あるときは道路も通じていない村々を訪ねたことがある。決して物資が豊富でもないし便利でもない。しかし、そこには経済的にも文化的にも自立した素晴らしい人々の姿があった。「世界の中心は大都会にあって、そこから距離的に離れるほど文化果つるところ」という意識が大きな誤りであることに気づいたと関野さんは書いている。
▼今、地球環境とか私たちの社会というものを、何もかしこまって「考える」必要などない。
地球上にいるほんの一握りの人間が、膨大な軍事力や神懸り的な覇権意識を持ち、最先端の科学技術文明を良きものと信じ、豊かな経済社会の実現をして、地球を統治している。そして、我々はこの上ない幸せな暮らしをしていると思っている。確かにその通りである。しかし・・・である。有事法案が成立した夜、再びこの「グレートジャーニー」を読み返して、(極力短い言葉で表現すると)「人間は愚かだな」と思った。なぜ愚かなのか。それは、愚かなことに気づかないからである。「考える」必要などない。気づくことから始めればよい。  2003/06/25 07:33

| 2006-03-20 20:40 | 読書系セレクション |

グレートジャーニー―地球を這う


関野 吉晴 グレートジャーニー―地球を這う (2)


筑摩書房 2005
関野 吉晴

出るっていいながら出なかったので、待ちました。
-----
以前、関野吉晴著 「グレートジャーニー ─ 地球を這う」という本を紹介したことがあります。

 約400~500万年前にアフリカのタンザニア・ラエトリに人類は誕生します。その人類が、百数十万年前にアフリカを飛び出し、ユーラシア大陸を横断しベーリング海峡を渡り極北の地を越え、北米を経て、ついには南米大陸最南端のパタゴニアへと到達する。

 東アフリカから南米大陸に至る5万キロに及ぶ大遠征の壮大でロマンに満ちた道のりを、関野吉晴さんは逆ルートで辿ります。まさに、グレートジャーニーと呼ぶに相応しい感動的な旅です。

 シベリアのコルフという町にやってきて、食料・雑貨店でインスタントラーメンやスナックを買って宿で食べたとき、
「みるみるうちにごみが出てくるので驚く。日本では当たり前のことなのだが、トナカイ遊牧民のキャンプから帰った直後だったために、強い印象を受けたのだ。」
 「遊牧民のキャンプではほとんどごみが出ない。トナカイは余すところなく食べる。野菜などの生ごみはトナカイや犬が食べてしまう。基本的に一番無駄な『包装する』ということがない。缶詰はほとんど食べない。」・・・と書いています

また、魚やカニなどは各家庭や親戚で分配するが、大きな鯨が獲れたときに、
「分配という行動は、高等なサルのあいだでも見られない人間特有のものだ。」「ここシベリアでも、狩猟民の間では分配がごく普通に行われていた。」「この人間を人間たらしめている行動様式は、われわれの社会ではいつの間にか影を潜めた。いい車を持っている。立派な家に住んでいる。モノを独り占めする者が、社会的な地位を獲得するようになっているように思う」…とも書いています。

素朴でありながら、冷静な分析ですね。いかがでしょうか。
----
職場で発行しているメルマガの後記で紹介したので、転載。
| 2006-03-20 21:41 | 読書系セレクション |

グレートジャーニー―地球を這う

熊谷達也 セレクション


熊谷達也 氷結の森

相剋の森、邂逅の森と続く三部作として知られている氷結の森の面白さは、樺太からソ連へと主人公を流離わせて、しかも史実の中に物語を晒しながら、熊谷達也の荒々しい筆が人々のドラマとして纏め上げているところだと思う。主人公は北へ北へと逃げ延びてゆく。逃げるという言葉は相応しくないかもしれないが、行く果てに事件が待っている。

熊谷達也は「森」をタイトルに入れて描く三部作として、その「森」をどこまで意識し頭の中で熟成したのだろうか。それは、林であるとか海であるとか、はたまた山であるとかいうものでは許されなかった。森でなくてはならなかった。

そうして森を考える始めると、それはだだっ広い大地や閑散とした林ではなく人々が物理的にも精神的にも絡み合い侵し合い傷つけ合い、ときには助け合い励ましあうような人間関係の中に潜む人々の野性味を森の中に埋め込む必要があったのだ。そしてその中で、ときには激しく熱情的でありながらも冷静な視線で物語を描いてゆく。

作者自身が深い森に彷徨い入るときにこそ、このような作品は完成することができるのではないか。そういう意味では、三部作はこれで完結しなければならないし、新しく始めるためには今ここで完結しておき、新たなステージで洗練された作法を得て築かれてゆくのだろう。

ニコラエフスク・ナ・アムーレ(尼港)事件を参考にして物語は構想された。後半は少し色合いが変わって、いかにもスケールの大きな劇映画を見るようだった。しかし、おそらく物語は史実とは一切関係ないもので、事実と言えば樺太とソ連の厳しい寒さやその街の情景と、出来事を引っ張り歩く大きな事件だけが事実なのだろうと思う。

相変わらず、自然を見つめる眼が途轍もなく優しく、人を容赦なく切り捨ててゆく筆は厳しい。前作などに見られるような物語の中盤での緊張の途切れもなく、安定して読み通せるいい作品だったと思う。

| 2010-04-21 06:54 | 読書系セレクション |


邂逅の森 熊谷達也

熊谷達也の作品は、初期のころに読んだモノに読後感想を残しておらず、ずっと気にかけています。

もう1回読みたいけど、それなりに長いし、テーマもどっしりとしたものが多く、またそのうち読みます。

(最近、そういう本を再読したくて、それで人生が終わってしまうような気がする・・・。
つまらない本が多すぎるからか)

メも程度に感想を呼び戻した程度ですが・・・。


邂逅の森 (文春文庫)
熊谷 達也
文藝春秋
\690


「邂逅の森」と「相剋の森」はセットで読むことをオススメします。

邂逅の森は、大正時代に東北地方でマタギとして生きた青年の人生を描きます。自然と共に、熊と共に生きてゆくひとりの青年の物語です。直木賞です。

こういうのを読むと、さすが、直木賞!と膝を叩きたくなります。

熊谷達也が相当に気合いを入れて書いた作品で、細かいところまで行き届いた構想はもとより、文章で物語を書き伝えようという情熱が溢れています。美文ではないのですが、読者に伝わってくるものが多い。

題材として取り上げるものも、環境問題や自然保護、狩猟という文化と対峙する様々な人々の視点など、本を読みながら物事をじっくりと考えてみる、同時に自分も見つめてみると言うようなタイプの人には、素晴らしい読後感が残ると思います。

一部では、私たちが直面する環境保護という課題を考えるのに取り上げられたりて、自然と調和して生きるには大いなる畏敬があるのだというような喚起させる面もありましたが、私としては、背景はそうであっても、やはり小説として文章に溶け込み登場人物を味わい、熊谷達也の一番面白いところを味わうのがいいと思います。

| 2009-02-07 10:25 | 読書系セレクション |


モビィ・ドール  熊谷 達也

モビィ・ドール
集英社文庫
熊谷 達也
集英社
\700


熊谷達也の作品には、多かれ少なかれの参考文献が挙がっている。そういう点が好きなポイントで、着想や内容などが全くの出鱈目ではなく、じっくりと調査もしたものを読むという満足感もある。

私の仕事が環境と森林に関わるので、「森」の小説ではテーマやモチーフに大きく頷きながら、仕事の何かで紹介してやりたくなるような気持ちで読んだが、モビィ・ドールも決して裏切ることは無かった。自然と関わる仕事をしている私にも、結構リアルなお話で、引きつけられるいい内容だった。

「森」の小説よりも壮大さは無いものの、ちょうど真夏に読んだこともあるし、実際に(大昔に)伊豆七島へ旅した経験もあって、舞台が海に移っても小説として楽しく面白く読ませてもらった。

作者の無意識な性格なのか、こだわりなのかは不明であるが、比嘉涼子という女性に読みながら魅了されるような、そんな綺麗で知的で躍動感のある女性が登場して、ここでも、こういう女性を書かせたら上手いなあ、と関心する。
流れるような美文ではないのだが、男っぽい筆で、よく吟味して書かれたいい作品(マジメな作品)だと思う。

| 2008-08-20 16:49 | 読書系セレクション |


「ウエンカムイの爪」(熊谷達也)

きのうは、「ウエンカムイの爪」(熊谷達也) を読み終えた。彼の作品は、長くて重かった「邂逅の森」のようなものも良いが、この程度のものも読みやすい。
むしろ、長い作品は、少し力が入りすぎている感があって、いわゆる男の料理を食べるような感触がある。
よく吟味して書かれているし、書くことが好きなんだなというのが伝わってくるいい作品だと思います。

─ ─ ─ ─
メモから

邂逅のの森、相剋の森、と読んで、このウェンカムイの森ときた。

物語としては、逆に辿ったことになるが、それでも楽しく、面白く読めた。順にこだわらず読んで構わない。ひとつひとつがそれぞれ持ち味のある作品だ。

作風は、この三作にあたっては、揺らぐことなく、読み手を惹き付けるのも上手だし、流れのテンポも良い。

大事に読もうと思っていたのに、例の如く通勤の車の信号待ちを使って読むだけでも、すぐに読み切れてしまった。

動物の生態をよく調査しているし、それを読み手に分かりやすく提供しているところなどからも、自然に対して持つ作者の畏敬の気持ちなども伝わってくる。

| 2006-05-13 08:28 | 読書系セレクション |


漂泊の牙 熊谷達也

女性がいい。
美人で知的で行動的だ。

男がいい。
ぶっきらぼうで、野性的で、優しさを隠し持っている。

作品は面白い。
邂逅の森、相剋の森と較べて、また、一味違う。

詳しく丹念に調べて、じっくり考えて書いている。

そういうところが伝わってくる作品ですね。
文脈の流れが素晴らしいわけではないけど、つまり私の好みとはちょっと違うのだけれど、ぐいぐいと惹かれて一気に読んでしまいました。

栗駒山系は色々と思い出深いし、じっくりと山の様子なども思い浮かべながら読めました。

しばらく余韻に浸ろう。

| 2005-10-26 15:44 | 読書系セレクション |


相剋の森 熊谷達也

熊谷達也著「邂逅の森」と「相剋の森」を読みました。セットで読むのがいいですね。

 前者は、東北地方でマタギとして生きた青年の人生を描きます。自然と共に、熊と共に生きてゆくひとりの青年の物語です。直木賞。

 後者は、ツキノワグマの棲む森の自然と共に生きている人間たち、そして主人公の女性ライターが、自然とはいったい何なのか、保護をするとは、共生とは何かを考え続けます。ちょっとイデオロギーな話あり、ドラマありといった素晴らしい作品です。

 「邂逅の森」は大正時代、「相剋の森」は現代を舞台に、環境問題や自然保護、狩猟という文化と対峙する様々な人々の視点を踏まえ、私たちが直面する環境保護という素材を取り上げた凄みのある小説です。どちらも小説ですが、自然と調和して生きるには大いなる畏敬がそこにあることを暗示している秀作です。

| 2005-07-24 15:41 | 読書系セレクション |


熊谷達也 いつかX橋で

2010年06月04日

出版社とは勝手なもので、これを青春小説と紹介していた。
確かにそうなのかもしれないが。

この物語は、戦争が終わる直前、7月の仙台空襲から始まってその後の2年ほどの間の時代を生きた二人の男と一人の女の物語だ。

今は既に、戦争経験者は殆ど無い時代だ。豊かな時代に生まれて、何を今更、そんな文学にさえも興味を示さねばならぬか。そんな潜在的な人があふれる中、熊谷達也は、どんな気持ちでこの作品を書き出したのだろうか。

森シリーズのイメージが強い作家だけに、読者としてはハズレは読みたくないという思いもあるもの、熊谷氏が彼の独自の作法で綴ってくれる、幾分荒っぽい筆と、吟味された優しい筆がミックスした物語を読みたくなるのです。ときどき。

あの独特の優しい視線で、魅力的にまとめてくれる女性が登場し、愚直に生きようとする男がいて、その者たちをひきたてる荒っぽい男がいる。(そう、女性が途轍もなく可愛らしく綺麗で魅力的なのだ、いつもながら。)

熊谷氏の生き方のどこかに潜んでいる彼の哲学のようなものと、小説への情熱をブレンドするとこんな物語が出来上がるのだろう。

物語の流れも終結も残酷である。誰もが望むハッピーなど無い。しかし、そうでなければこの時代は成り立たないのだという、当然の摂理を捻じ曲げることなく、読後にこれほどまでの満足感を与えてくれたのだから、私はとても満足している。

ただ、読後(直後)が深夜だっただけに、眠れなくなってしまって困った。眠れない夜などもう30年も昔から1度も無かったのに。でも、許せる感動だったかな。

---

阿川弘之のレビューを少し前に書いたばかりで、彼の作品は紛れもない戦中文学だ。そのイメージと少し似かよった始まりなのだが、本質的にはまったく違う。宮本輝も松坂熊吾の生きた戦中を書くが、これともまた違う。

人間模様は、重松清を連想させるところもあるが、そんなに滑らかで美しいものでもない。やはり、熊谷達也の作風だと思う。

ドラマを上手に作るTV局で、4回連続くらいの真剣なドラマにしてくれたら、見てみたいような気がする。

熊谷達也の頭の中には、そんなお洒落なところもあるような気がする。

| 2010-06-04 11:47 | 読書系セレクション |

死の棘、出発は遂に訪れず 島尾敏雄


死の棘 島尾敏雄著(その一)


 浅蜊汁すすりて夫の無言なる 凪子

このあと「あははー昨夜の我が家の風景です」と凪子さんが書いてらっしゃいます。
普通の家族の春の風景なのでしょう。

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「出発は遂に訪れず」を書いた島尾敏雄という人は、膨大な作品を残したわけではなく、数こそ少なくとも文庫となって出版されているものはどれを取っても意味深く、文章というものの重さを切々と感じさせてくれる。

「死の棘」も然り。
凪子さんの一句を読みながら家族の普通の姿を思い浮かべたときに、島尾敏雄の経験した「死の棘」のような人生を思い浮かべた。
こういうブンガク(文学)を映画にすることを試みた映像芸術家の心意気や感動は称えることができるものの、人の心を映像にすることは相当に困難だったのではないか。

映画の評価がいかがだったのかを、申し訳ないが、私は知りません。
死の棘のあの忍び寄るような閉塞感を、筆者が文学作品として記録しておきたかったのだと考えるならば、やはり活字をひとつずつ読みたい。文学とはこういうものなんだと迫るモノがある。

奄美大島の加計呂麻島呑之浦の特攻基地跡に彼の文学碑が建立されたことを報じる新聞記事(1988年12月)を切り抜いてその言葉を私はメモした。

病める葦も折らず けぶる燈心も消さない   島尾敏雄

| 2005-04-07 12:11 | 読書系セレクション |


島尾敏雄 死の棘 (その二)


静かに本棚を眺めていると
学生時代に買って読んだ本が
静かに過去を語りかける。

1000冊以上は読んだなあ。
半分ほどは処分をしてしまったが
残念なこととをしたなと思う。

こうして表紙を眺めているだけで
この本を読んでいたころに立ち寄ったスーパーで
買ったものとかは鮮明の甦るのだ。

しかし、不思議にも記憶には季節感がない。

なるほど、この作品らしいかも知れない。

「棘」なんだけど
ほんとうの「棘」の意味まで
わかる人がこの世の中にどれだけいるのだろうか。

| 2010-01-17 11:19 | 読書系セレクション |


出発は遂に訪れず 島尾敏雄 その2


出発は遂に訪れず 改版 (新潮文庫 し 11-1)
島尾 敏雄
新潮社
\620

部屋の窓から見える景色がこの原稿を書いている間にも少しずつ変わってゆく。冬枯れてグレースケールになってしまった家並みがさっきまでそこで何の主張もしないでひっそりと在ったのだが、寒波の襲来で空模様が遂に雪に変わってしまうと、あれよあれよと言う間に積もって、屋根が真っ白になってモノトーンの景色になってゆく。誰に打ち明ける訳でもないが、そわそわと雪の積もる様子が私も気にかかる。亜温帯性の山茶花にも容赦なくぼたん雪は降り続いている。

部屋の明かりをつけて本棚を眺めたら太宰治の『グッド・バイ』(角川文庫、1998年)が真っ先に目に付いた。津軽は今ごろきっと大雪だろう。津軽を旅しても太宰の記念館には立ち寄らなかった私だが、もしも奄美大島を旅したならばきっと島尾敏雄の足跡は訪ねるだろうな。そんなことをぼんやりと考えながらその隣に並んでいた『出発は遂に訪れず』を手に取った。太宰は嫌いではないが好んでは読まない。美学を感じるけど痺れてこない。

島尾敏雄の作品を読むのは髄分と久しぶりだ。『出発は遂に訪れず』という作品よりも『死の棘』(新潮文庫、1981年)の方が先に発表されていたんだということを、原稿を書き始めた今ごろになって初めて知った。彼が亡くなったのは……と調べるとこれが1986(昭和61)年だったので、そんなに月日が流れたのかと驚いた。速いものだ。新聞で訃報を読んだのが先ごろだと思っていた。そういえば奄美大島に詩碑が建ったという切り抜きがどこかにあったはずだ。

そうこう考えていると、戦後文学というものは、つい先ごろまでは進化しつつあった文学であったが、21世紀になってしまって明治文学などと同じように歴史上のものになってしまった……ということを改めて思い知らされる。では、現在の潮流にのった浅田次郎などは何文学と呼ぶのだろうか。戦後文学の刺激を受けて小説家になった人たちよ、もっと頑張れ。

| 2008-07-09 13:51 | 読書系セレクション |

疾走 重松清著


疾走 重松清著


【便箋1から】

都内のホテルで静かに読み終わった。それは、シュウジの終わりと同じように、(いつものうように涙をぬぐいながらではなく)、「静かに」というのがふさわしかった。

「やっとひとりになれたんだね」、というような、ねぎらってやる気持ちになっていたらもっと号泣していたかもしれない。予想をしていたのだけれども、些かのやり場のなさも感じたりもしていた。でも、すぐには泣かなかった。

女が魅力的だ。
アカネはヤクザですれっからしで、顔も可愛くないとされながらも惹かれる優しさを持つ。
みゆき。この子だって子どものクセに、抱きしめて連れ去って、大事にしておきたくさせるような、細々しい弱さがある。
エリは…。私はこの子に惚れましたと正直に書きます。
カワイクナイ。冷たい。ひとりで、孤高で、でも、スマートで、キレのある腺で姿も性格も書いてある、魅力的な子でした。一体何を考え、何を言いたいのか、明確にしない素振りばかりで、強さを失わずに、ひとりを貫く。でも、弱いんだ、ほんとうは。

ひとりで生きているのだろうか。
二人で一緒に銃弾を浴びたらもっと幸せになれたのに…と何度も思った。話をそこでストンと終わらせても良かったにと。でも、それは、私がエリを好きだからだったのだろう。

物語はスローテンポで始まり、前半から終盤へと、起承転結を明確にした形で進む。後半の急展開も慌てていない。

そういう流れの中で、一人の人間の心の奥を、きわめて詩的に綴っている。でも、ブンガクっぽくはない。いや、ブンガクじゃないのかもしれない。風景が見えてしまいすぎるのです。

誰の人生にもある「裏のドラマ」。
心の中にあって、上手に書けずにモヤモヤしている小さな出来事や喜怒哀楽を、わたしたちがすっかり忘れてしまっている視点から甦らせてくれた。そう思う。

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【便箋2から】

何故、人は走るのだろうか。

それは自分との「闘い」ではない。人が無心になって求めるモノ、それを探し続ける人にとって、ひとりで走り続けることを「闘い」とは呼びたくないだろう。
自分との出会い、ひとりの自分と出会えるところ。それは、果たして走っているときだけなのだろうか。

苦しいけど、苦しくない。全速力で走りきったところに何があるのか。走った人にしかわからない。

--- ねえ、エリは聖女だったんですね、遠藤さん、周作さんはどう思いますか?
--- ねえ、エリはシュウジが好きだったんですかねえ。そんな気持ちを越えたもっと高貴な所を走っていたのでしょうかね。追いつけなかったのですか。何処に幸せがあるのですか?
--- きっと、エリは抱かれたかったんでしょうね。でも大切なモノをなくしてしまったし、表現の方法を失ってしまったのでしょうか。

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ちょうど今、私は都心へ仕事で来ています。すごく大勢の人がいます。
みんながシュウジで、みんながエリなんだろうか。

読み終わってから、じわじわっと、来ました。
都会の夜に、ひとりでホテルで泣きました。
| 2005-11-19 00:06 | 読書系セレクション |

福永武彦 死の島(上・下)  その3


福永武彦 死の島 (その3)


その2につづき その3

さまざまな感想があるようですが、それらを読んで、文学者というのはオモシロイ人たちだな、という感想のほうが先に出てきてしまいます。いきなり失礼なことを書き出して、文学(ブンガク)のご専門の方々を不愉快にさせてしまったかもしれません。

まったくの文学は専門外で、社会人になってからも悲しきかな三角関数や代数幾何学、微分積分とか、こういう無機質なものとお付き合いをしていながら、小説とか文学作品に遊んでもらって暮らしてきました。

だから、ブンガクのみなさんが、ブンガク作品を、また熱烈な読書家の方(や可哀想に読書中毒になった方々も)、作品のことをやいやいと理屈付けておられるのを読むたびに、一般的表現で言うと「引いて」しまうわけです。

これらの遠因は、高い教養レベルを実現し多くの知的文化人を育成しようとする現代教育の賜物なのでしょうか、ブンガクとか読後感想をひとつの囲いに包んでしまって近づきがたいものにしてしまった感もあります。

もしかしたら、福永武彦が読者に投げつけたかったものは、そういう一面性をもった読者たちへ向けたものでもあったのかもしれませんが、私は言葉の遊びの感覚を少し発展して変形させくらいに捉えて、誰にも読まれないかもしれない詩集を福永武彦がひとりで長篇に編み上げ直しただけのようにも思えてきて、これは彼の自己満足の集大成なのではないか、とさえ思うのです。

しかしながら、作品としては、誰もが★五つも進呈するほどのものにふさわしく、どの数行であっても読者を魅了する。いや、私は魅了されたのではなく、一種の催眠術にかかったように取り付かれてしまうのでした。他のどんな作家にもない不思議な力で、惹かれ過ぎて疲れると池澤夏樹のカデナを読んでいたり、宮本輝をぱらぱらと見ていたりするのです。別に死の島なんて最後まで読まなくてもええわと思いながらも、何ヶ月も掛かって読み終わってしまったわけです。

良質のフルコース料理を戴いているような感動。これはこの作品を読んで共感できる人にしかわからないものでしょう。絶版になってしまっているのは、単に読者が減っているというだけのものでもないと思いますが、TVでいうなら視聴率狙いのようなばかげた作品を賛美する時代だからこそ、こういうバランスの取れた、作品をまだ知らない人にささげたい。
 
| 2010-03-10 10:51 | 読書系セレクション |

福永武彦 死の島(上・下)  その2


福永武彦 死の島(上・下)  その2


その1に続いて

感想文は書きかけなので、レビューとしては、またいつかまとめますが、ひとまずメモ程度に。

*

福永武彦は、1979年8月13日に亡くなっている。私はこの「死の島」の文庫(上巻360円、下巻320円)を買ったのが12月6日と裏表紙にメモ書きしいていることから、もしかしたら彼の死のニュースを聞いて頭の片隅にそのことを置きながら年末に買ったのかもしれない。煙草一箱100円の時代だから、300円は安くはなかった。

キリスト教の作家や戦後文学といわれる作家を読み漁っていた時代だった。どのような順番で福永武彦に到達したのかわからないが、忘却の河を読んで草の花を読んで、それから死の島に辿り着いたのだと思う。

このときはまだ22歳になったばかりで、学生時代の有頂天の真っ盛りであった。この後24歳まで学生時代を過ごすのだが、果たしてそんな青春の真っ盛りに、福永武彦が読者の人生を変えてしまうほどの威力をつぎ込んで書いたのかもしれないこの作品に、私はどれほど刺激を受けていったのだろうか。

文学とはまったく関連のない学部であったので、読後の感想であるとか福永武彦論を述べる必要はなく、お気楽に文学を読んでいるのだという自己満足に浸っていたのだろうか。

今となってはどのように感じながら読み進んだのかは不明であるが、彼の書く小説作法には相当に影響を受けたことは間違いなく、忘却の河の感想を書いた時点でも、もう一つの自分が居るのではないかというほどに考えさせられているのが伝わってくる。

30年以上のブランクで再び「死の島」を読む。現代の本屋にこんな本を高く積み上げても誰も買わないだろう。大きな影響を受けたともいわれる村上春樹の小説を、巧妙な魔術のようなコピーと煽りでベストセラーに持ち上げても、福永武彦はそう簡単には売れないのかもしれない。今の読書人の持ち合わせている、インスタント食品でも美味けりゃ上等だというような感覚に似た、また、美味いか不味いかわからないけどみんなが美味いといってるから、というような感覚の人たちに、福永武彦がわかってたまるか。

面白いと思えるはずがない。

絶版。

私は★を5つ付けます。
ほかの皆さんの真似をしたわけではありません。

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一部を引用します。
読書部にも書いたけど、また違った人の目にもとまるといいのになと思い、ここにも貼っておきます。

死の島。

(上・P268)
小説というものが己の内心の願望の現れであるかのように、まるで祈りのように、己はその架空の世界に、かくありたいという己の夢をありったけ託して、それによって己自身の不安からも逃れていたのだ。

(下・P124)
もしも時間というものが或る一つの点から別の点へと流れて行く流れであるとするならば、初めと終りとは必ずあるだろう。しかしわたしにとって時間というものは或る一つの平面の上を繰り返してじぐざぐに動いている線にすぎず、或いはまた限られた空間の中をぐるぐるまわっている曲線にすぎず、それらの線の動きの間には幾度も初めがあったし、終りもまた幾度もあっただろう。わたしにとって初めと終りとは結局は同じものにすぎず、わたしは螺旋を描いて同じ地点を繰返し繰返し通り過ぎ、いつでも死を通り越して歩き、二度も三度もその同じ地点を通り、そうやって往ったり来たりすることでわたしの時間を所有してきたのだ。それがわたしの時間なのだ。

(下・P441)
人は眠りから目を覚まして、どういう夢をみていたかを思い出すが、しかし思い出さない夢もたくさんあるのだ。必ずしも全部が全部思い出されるとは限らないし、思い出したつもりでも、すぐまた忘れてしまう夢もある。とすれば大事なことは、夢を見ることではなく夢を思い出すことだ。単に見られつつある夢というのは幻影にすぎない。見た夢でなければならない、ということだ。夢はそれを見つつある現在に於て、あらゆる夾雑物を含む混沌としたアマルガムだ。それは僅かばかり砂金を含んで流れて行く河の水だ。問題は川の水に手を涵していることではなく、そこから砂金を採取することなのだ。

(下・P443)
それが小説を書くという行為ではないのだろうか。小説もまた、恰も我々の見た夢の破片を我々が思い出すことによって夢が成立するように、現実のさまざまの破片を思い出すことによって成立するのだ。思い出すということの中には、無意識の記憶もあるだろう、無意識の願望も含まれるだろう、もっと暗く混沌とした暗黒の意識も含まれるだろう。思い出すということは殆ど想像するということと同じだ、しかし小説によって、己の「小説」によって、死者は再び甦り、その現在を、その日常を、刻々と生きることが出来るだろう。己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、いなそれは死そのものを行為化することなのだ……。

| 2010-03-07 22:32 | 読書系セレクション |

福永武彦 草の花


福永武彦 草の花

この人の作品を読んでいると、自分がどんどんと気障になっていき、どんどんと詩人になれるような錯覚に陥る。

自分を見つめる眼がこれほどまでに暖かくもあり、時には冷静でもあるのだということが、自分にも当てはめることが出来るならば、もしかしたら、二十歳のころにこれを読んだ私は、催眠術にかかったように美しい恋をして激しい愛を実現させようとしたのだろう。

福永武彦は、小説で何を実現させようとしたのだろうか。自分の内面にある詩的で、激しい愛に向ける気持ちを、物語にしたかったのだろうか。

この「草の花」を読みながら「死の島」も読み進めている。大雑把に感じることは「死の島」のほうがより洗練されて完成度が高いなと感じられることで、「草の花」が断トツで人気のあることに疑問を感じながら、愛の苦悩のようなものって根強い人気なのかなとか思ってみたり。

忘却の河のように、奥の深さがあまりないだけに、この作品には物足りなさもある。人生は思い切り泥々としたもので、私たちはそういう宿命を背負って生きている、というようなのが私は小説として好きだな。

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待ちきれず感想を少しだけ書いてしまった。

「死の島」のほうが完成度が高いと思う。
「忘却の河」のほうが、過去を背負った私のような男には感動や共感があるかも。

福永武彦。
読書部Ⅰの作家別シリーズの12月に選ぼうと思っています(あくまで予定)

| 2009-11-13 22:18 | 読書系セレクション |

またまた、にっこりな話

今までにも登場したことのあるA子さんの話。

お隣に腰掛けているA子さんと、日に日に詰まらない話も出来るようになって来たのですが、私が酉年でこの子が戌年ということで、25歳という年齢ギャップは親子の会話のようでもあります。

休日には何をしていたのかとか、最近何か映画を見たかとか、普段は御飯を食べてからあとは何をしているかとか。

些細な話をするうちに、さり気なくメールを尋ねたらすんなりと教えてくれて、週に何回かメールをする。何の意味も無いメールですが。

そんな彼女が昨日、まじめな顔をして
── ねこさん(本名で)、いい人が出来たんですよ
という。

── どうりで、先日の大雨の日に、中津川まで栗ご飯を食べに行っていたなんて、私の想像がドンピシャやん。
というと、素直にまたニッコリとしている。


この子は、この歳であるが、綺麗で尚且つお茶目なところがある。しかも非常におとなしいみたい。ひとりで静かに好きな恋人を想いながらニタニタしたりしているのが似合うところもある。

可愛らしいので、入れ替わり立ち代り男性が用事を作ってこの子のところへやってくるので、部内の男性の名前を覚えるのにも助かっている。


私は「恋人できたのか……」と父親のような感覚でひっそりと歓んだのですが、その後の仕事は少し異変となってしまった。非常にすまし顔の美人の彼女がときどきにっこりと思い出し笑いのような顔をしているような錯覚に囚われて、ちらりちらりと彼女を見てしまい、こっちまでそわそわ状態になってしまったのです。


夕方の列車の中から、私がそのことを短くメールで書いて送ったら、「まだまだ緊張していて、自分でも何を言っているかわからんことがあって、付き合うって難しいです」、というようなことが書いてあった。

2010年10月19日 (火曜日)

秋深きキミの泣き顔あかい紅 ─ 十月中旬後半篇

ちょっといいことがありまして
そのことは、また別の日記で書くことにする。

(18日)

▼秋深きキミの泣き顔あかい紅

▼林檎見つめれば甦るかの人の頬紅

「化粧はキライ」が私の口癖なのに、あの人の化粧は許していたの。
烈しいチークを見ながら、昨日の夜に遊びすぎたのかしらと思ったりした。

でもそれはまったくの思い過ごしで、その人は地味で大人しい人だったということが次第にわかって
濃い目の化粧をキライというのはそのときからやめた。

お化粧をしながら、何を考えているのだろう。
恋心もそれほど持たない人だったから、妙に淋しそうに見えてくる。

秋が深まって、真っ赤な林檎が店に並びだすと、あの人の赤いほっぺを思い出す。

▼まっさらのネクタイ締めると恋をする

新しいネクタイを、うちのんが買ってくれまして
それほど嬉しがらなかった私ですが、やっぱし嬉しかったみたいで
だったら、もっと素直に喜んで見せればよかったのに、と少し反省しながら

別の誰かがかわいいなとか思ってみたりしてる。

(17日)

悪人。吉田修一。
読み終わった。(感想アップ済み)

赤目四十八瀧心中未遂(車谷長吉)のときに激しく感じたような哀しい衝動がある。
映像作品はそれ相当に完成度の高いものになるんだろうと思ういますが、
映像を読み取る力が要求されるような作品やな。

(17日)

▼母に会う、茸狩り遠足を懐かしむ

いつも、秋になると書いていますが
父が元気なころは、籠にいっぱいマツタケを採ってきてくれたなあ。

全然美味いと思わなかったな、と負け惜しみを言いながら
マツタケ山を教えずに逝ってしまった。

それは結構、当たり前のことらしい、どこの家でも。

(朝、ツイッターで)
おはようございます。
6時から7時まで散歩をしてきましたが、見かけるのは、おじいさんばっかしですね。

ほんま、ジジイばっかし。
私もジジイ。

(16日)

▼秋色のコロン香るや夢を抱き

▼林檎見つめれば甦るかの人の頬紅

真っ赤な林檎を口に頬張る。
すっぱい味が広がる。

あの人を好きになったときのように、じわっと甘さが襲ってくる。

(16日)

おはようございます。
今朝のアサヤケ、すごく綺麗やった

朝焼けと夕焼け。
どっちが綺麗だろう。

2010年10月18日 (月曜日)

放浪記 林芙美子

放浪記 林芙美子



「コタツで読書」シリーズで書いたものです。
2005年12月12日のメモから。

何冊目かわからんようになってきました。
林芙美子著 放浪記 新潮文庫

小説とはこういうのをいうのだと思いましたね。何しろ文体が素晴らしい。天性の美文なのかも。
読みながら声に出して読みたくなるんだから。

彼女はよく泣きます。読み手も一緒になって泣く。

ぐいぐいぐいと引き込まれてゆきます。こんな文学が少ないね、近頃。

(加筆します、2006.7.15)

2006年の新潮文庫100冊にも入っている。名作のジャンルらしい。このなかの本は全冊を学生時代に読んでおくことをオススメするのですが、さらにこの放浪記を最初に挙げます。

時代背景を知り、彼女の心を想いながら、読む。
強くて逞しく、また女らしく、ときには哀しい彼女の自伝です。


| 2006-07-15 16:03 | 読書系セレクション |

2010年10月17日 (日曜日)

吉田修一 悪人(上・下)

老眼鏡が無いので
なかなか読み進まないとぼやきながら、
やっと読み終えました。

一気に読まないからといってオモロク無い、というわけではないです。
ぶつ切りでゆっくり読める、優しい作品と思います。


東野圭吾を読んだときよりは、味があった。
彼の作品は「手紙」を読んで、それ以降手をつけていないけど、
この人の作品はまた何か読むかも。(少し)

そんな感じ。


感想は(上)に書きました。

吉田修一
悪人(上)(下)


悪という言葉が、時には烈しく刺激的過ぎると思う。その言葉を上手に使ったといえば営業的成功といえようが、文芸を純粋に職業としているのだからそれななかっただろうと思う。

悪人という言葉を探るために、殺人と純愛と悪からの逃避を重ね合わせて物語を作るのだ。

*

「逃げる」とはどういうことか。その心理とはどのようにして生まれるのか。作者にもそのような実体験があるとは思えないし、まして「殺人」の経験があるわけでも無いだろう。しかし、「逃げる」「殺す」ということを、ドラマから離れて自分のまぶたに浮かべて考えて、悲劇を共鳴させていた。

人(ヒト)は、哀しい生き物だとつくづく思う。自分の意思を通せば必ず壁にぶつかり、そこで間違いなく妥協なり屈辱を味わう。そうでなかったとしても、諦めが待ってるのではないか。だとすると、諦めるというある種の不幸せを目指して生きることは、幸福を目指して生きるはずだった自分の夢に逆らうことになる。

逆らうのは嫌だ。
だから、世の中を生き抜くのは難しい。


ドキュメント・ルポのタッチで、特に後半からそのような色合いで、物語は進む。しかし、小説なのだから、新聞のルポを読むような雰囲気はない。昔に読んだ「東電OL殺人事件」(佐野眞一)のように、事実の物語ではない。あの作品は佐野眞一がすっかり詩的なドラマ仕立てにしてしまったルポ(としては最低の作品)だが、この作品は、小説を佐野風・ルポ風に書かれたといっても良いかもしれない。そういう意味でリアリティがあって、面白い作品だったといえる。

しかし、なあ。
やり場のない屈折感が残る。
残らなくては作品の持ち味がなかったともいえようが。

*

作者は最後の一行で

─ その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんです。ねぇ?そうなんですよね?

と、書く。

これを書くために何ヶ月にもわたり連載をしたとは思えないが、メインテーマにあったことは間違いない。
ありふれているといわれようが、私はこういうメジャーコードで終わるような音楽のような結末は好きだ。

新聞連載中はそれほど目立った話題でもなく、のらりくらりと眼を通し真剣に読まなかった私だから、煌びやかさもなかっただろうと思う。あとから上手に味付けしたとも言えなくはないが、地味な作品だったと思う。(しかし、改めて読むと新聞小説の特徴が非常に顕著に出ていて面白い。毎日読まなかった私が悪かったな)

映画化で話題を呼んだらしい。出演者の写真が文庫本にカバーとして巻いてあったが、さほど興味もなく棄ててしまったのだけれど、ホームページでPRを少し見るとイメージに合う出演者が多いようだ。さぞかし映画は面白かったのだろう。

ただ、小説は活字だ。
その活字で女の心や弱い人間の気持ちを或いは醜い人の心理を書いているのだから、映像は別文化だと思う。映像にするにはその心理表現を映像化する技術が必要だし、見るほうはそれを読み取るだけの力も必要だろう。

もしもこのストーリーを作品にするならば佐野眞一に書かせて、甘く切ないタッチのほうがいいのかもしれない。だが、吉田修一のペンはルポ風にもなりきれていない優しさがあるから、なかなか、うまくいかないものだ。

確かに純愛劇なのかもしれないが、社会的な問題提起もしっかりとしている。

─ 大切な人もおらん人間が多すぎったい。

現代社会に存在している「愛」というものも見つめている。

吉田修一 悪人 の読後感想を書く前に

吉田修一 悪人 の読後感想を書く前に

車谷長吉 赤目四十八瀧心中未遂

佐野真一 東電OL殺人事件

上の二つ読後感想を予習しておく。

「逃げる」とはどういうことか。
「殺す」とはどういうことか。

車谷長吉 「赤目四十八瀧心中未遂」


車谷長吉 赤目四十八瀧心中未遂


上手に生きてゆけない男が、身体が震え上がるような女性(アヤちゃん)に出会い、名門の出であることを密かにプライドにしながらも表には出さず、どん底の泥の中を歩いてゆく人生を選んでしまっていたのは、他ならぬ自分のせいだったと、およそ認めながら今を生きている。

この作品が私を捉えて放さなかった理由は、この小説の根底を流れている生き様と、そんな寂れた人生がもたらす偏屈な眼差しと、日々の出来事に触発されて狂うようにいきり立つ感情の根源のようなものが、あまりにも私の人生と重なり合ったからだろう。この作者は、私のひとつ前のステージを走っているもうひとりの私ではないのか、とさえ思えてきた。

インテリを棄て名門を棄て、どん底のドロを味わっている。こんなにも、小説に自分が重ね合わさるものかね。こんな失態をやらかした奴はそう多くはない。だが、私はこの小説の節々に共鳴してしまうのだ。

名門を出て約束されていた人生を棄て、否、棄てざるを得なくなり、どん底の生活とドロドロの感情のなかで、生きてゆく。人間関係は、未知に溢れているものの決して複雑ではなく、一度生きることを諦めてしまった者にとったら何も面倒なものでもなかったのだろう。

作者が自分を見つめて書いた小説として、全ての箇所で、何ひとつの無駄も無く、冷静で美的で、かつ激情に包まれるように詩的であったために、最後にアヤちゃんが博多に行ってしまうのではないかという微かでありながら妙に確定的だった予感が、現実に起こるときも、下駄の鼻緒に足が掛からなかったという些細な不運でドラマにしてしまう。しかもそこでオシマイ。

--

人々に突き落とされ、蔑まれ踏みにじられて生きてきた人間だけが持つことができる眼と、青空しか見たことの無いような眼とを、その二つを主人公は持っていて、自省的に綴られる物語の隅々でもその本性をまったく見せずに、純粋な男の心もきちんと残している。

しかし、私に見えてくるのだ。アヤちゃんの美貌も、纏わり着く男たちの容姿も、主人公の純粋さも弱さも、見えてくる。

ドラマはシンプルなんのだけれど、きっと誰もこの作者が書きたかったことはわからない。そんな気がする。だから、アヤちゃんの美しさも、様々な人の狡さも、怖さも、そこに隠れた優しさも、名門からどん底までを彷徨った作者と--作者のように表に飛び出せない阿保な私にしかわからない。

天王寺で泊まって、赤目四十八瀧へと向かい、既に死んでしまった人間のように瀧に沿うてゆく。この僅か一日二日の二人の心は、もう誰にも覗き見ることはできない。

直木賞などという陽の当たるところに置かずに、静かに何処かに密かに飾っておきたいような、哀しい哀しい話だった。

物語のその後がハッピイなのか、実はそうでもなかったのか、わからないままで、悔しいけど、それが人生、それがどん底の生きる道なんだと、私はそんなことを呟いてしまったほど、泣けない小説だった。

匂い袋の放つ甘い香りと臭いアパートの匂いが、物語を思い出すたびに甦ってくる。ピュアな心が漂う。

--

図書館で借りて読み始めるのだが、あまりの素晴らしさに文庫を買うつもりになる。買いに店に走る前に読み終わって新品の文庫が有る。これは家宝となるだろうな。

文章のなかに悲哀を詩的に、さり気なく書ける人は少なくなった。
1歩、間違えれば、泥臭く、誰もが読みたがならないような物語になりかねないのに、間合いがわかっているのか天性なのか。

私に車谷長吉を教えてくれた友だちに感謝の乾杯をしたい。

---

文庫を買いました。
図書館で借りた本は全部読んで返却しますが、もう一度文庫を読もうと思っています。

でも
多くの皆さんにはそれほどオススメしないと思います。
この話に共鳴できる人にだけにオススメしたいが、こればかりは読まねばわかりません。

ひとり静かにじっくりと読んでください。
一文一文を作者が吟味して書いたのが伝わってきます。
それがわからない様では、あきません。

| 2009-08-04 21:29 | 読書系セレクション |


車谷長吉 「赤目四十八瀧心中未遂」 の読後のその後


私は、本の虫、とか、活字中毒という言葉がどうしても好きになれず、コミュニティーのなかでも、意図していい意味あいでは使ってきていません。
しかし、そういうことを少しも読み取ることができないのか、無視しているのかわからないけど、いっこうにコミュニティーに「虫」や「中毒」を自称する人が絶たなかった。

来て欲しくないとまではいうつもりはないのですが、そうでない人が流れを作って欲しかったのです。

(閑話)

近ごろ、コミュに来る人たちは、バイクでも読書でも、設立者という者が気にかからない傾向に有るらしい。参加するときに足跡がないのだ。私は足跡は欲しくないしどうでもいいのだけど、気にかからない人というのはその人物を見ないでコミュに入るのだから、コミュの意思がわからない可能性が有る。

そのコミュが何を目指すのか、理解しないのなら、来ても無意味だと思うが、どうなんでしょうね。承認制にしてまで、フィルターにはかけたくないし、衆議院じゃないけどいったん解散してもいいのではないかと思ってしまうのだ。

(閑話休題)

多読で、年がら年中読書をしている人でも、「虫」や「中毒」でない人はいるのだから、できればそういう風に意識を変えていけばいいのに、と思った。変化を望まないのならそれなりの理由が有るのだろうから訳を聞かせてもらって私も納得したかったのです。

「風が強く吹いている」を読み終えた後、みんな、こういう本が大好きなんだろうなあ、悪くいう人は多分誰一人としていないのだろうな、と思いながらも、こんな本を読んでいると、読書家になって行ってしまうんだろうな、なんて考えた。

兼ねてから早く読みに掛かりたかった車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」があったのでさっそく読み始めた私は、最初から彼の独特さに迷いながら加速度的に夢中になってしまって、図書館の本を読みきる前に自分の文庫本を買おうと思っているうちに読み終わってしまった。

新品の文庫を買って大事に机上に置いている。
赤ペンで線が引けない。
手垢のない美しい本だからではなく、そこに書かれた物語が、汚れていない本から漲っているように思えるから、なのだ。

赤目四十八瀧心中未遂。
読書部Ⅱのレビューへもいつか貼りたい。
そんな作品だった。

(補足)
この本のタイトルの「心中未遂」という言葉は、非常に哀愁を漂わすので、人を惹きつける魔力が有る。しかし、物語にはそんなものとはまったく無縁の、激しさがあった。それは今にも心臓が止まりそうな呼吸のようなもので、読者はそれを追いながらそれぞれに心で叫ぶのだろう。

| 2009-08-05 12:58 | 読書系セレクション |

赤目四十八瀧心中未遂

2010年10月16日 (土曜日)

三日月は恋をしながら丸くなる─ 十月中旬篇 前半

(15日)

半月ですから、あすは、日の出のころが一番の引き潮です。
大きな干潟のある海で日の出を見ると、元気が出るよ。
海まで4キロ。

そんなことを書き残している。静かに海を見ていたいと思ったのだろう。

▼迷い込む知らない路地や秋の暮れ

迷い込む。

そうだ。考えが一向に纏まらないのは、どこか迷路に迷い込んだからなんだろう。
晴れない気持ち。もやもや。

▼迷い込んで少し冒険してみたい

月はイジワルだ。

上限の月。
半月。

▼翳るキミと引き潮を照らす半月
▼いつ見ても、そのときなりに、それなりに

月を見上げると寒く切なかった季節を思い出すなあ。

▼満ちる月海鳴り遠き人のもと

海鳴り。
遠くに、沈むように。

▼わんばんこ、ひょっとこ顔でにらめっこ

鏡を見て、ヘンな顔をしてみる。
誰も見ていないから、
自分を見つめることが出来る。

鏡を見るのは好きだ。
嘘が映らない。


ただいま!今夜はカレーです。
そんなことをつぶやいてみる。
どこかに必ずあるカレーのおうち。
それだけで嬉しかったりする。


(14日)

▼ねえ月が貴方を待てずにかくれんぼ
▼貴方の作るまずい卵焼きを食べてみたい

この日の夕刻も、月を見ながら家路をゆく。
夕飯の支度をする母と子どもの声が台所から聞こえる路地を通り過ぎ家に向かう。

今夜はサンマ、昼はアジ。お魚三昧、バンザイ

(13日)

市内くらいなら、バイクは快調です。
せっかく車検したから乗るぞ!

「車谷長吉全集2」を借りてくる。

「恋文絵」集が読みたいの。


(12日)

▼三日月は恋をしながら丸くなる
▼すすすすす、きききききっと、5回いう
▼ 足早やに散る人とめる三日月
▼ 千切れ雲惚れるなかれと月覆う

いよいよ、十月の満月を迎えるのだ。
月が日に日に冴え渡る。

とにかく、今日は暑かったので、帰り道に少し苛立つ。

▼キミを好きだなんて言って嘘と言う


今日は暑いなあ。お昼に味噌汁を食べたら昼休み中、汗が止まらん。

(11日)

お疲れさんでした。自分。

450ミリの雨を記録した後、2日間は晴れ。

山はあの雨で元気になって。勢いよく川も流れていました。
車で冬物の買い出し。
アイフォン圏外

(10日)

▼出かけよう私を待ってる海がある

…というわけで、東紀州。

お願いがあるの聞いてよ神無月 ─ 十月上旬篇

(10日)

わけあって、東紀州へ。

冬支度ですわ。

9日は峠が通行止めになるほどの大雨でしたが
10日からはあがりまして、青空です。

▼神無月きのうの雨は誰のウソ

(9日)

とにかく、よく降りました。
豪快です。

そこで
部屋でツイッターで遊んでいる。
その話題が「塩タン」「タン塩」論議。
人はこういう話が好きなのよね。

ぼんやり、私も考える。
塩タン。食いたいな。


(語録)
私の場合、草の花といえば真っ先に福永武彦で、
手元にはいつも30年前の文庫が置いてある。
いえ、それだけのこと

▼雨止んで空に無音が甦る
▼秋霖や悪い男をダメにする
▼昼メシの秋刀魚はナイショ、夜秋刀魚

そうや、メルマガもこのころに出したなあ。
秋刀魚のことを考えていた。
(裏窓)


(8日)

▼山栗を隙間に詰めて父ぼやく
▼字余りの手紙を書いてポストに入れる

何もこれといってない日。
向かいの席のA子さんが、連休に栗御飯を食べに中津川へ行くという。
珍しく、嬉しそう。

(7日)

▼人恋し山が粧う夢を見る

紅葉。
最近、見てないなあ。


(6日)

▼小春日のやわらかな陽射しに目を細め

陽射しを温く感じる季節になったということか。
でも、半袖ですけどね。

(5日)

寝袋、カビてないかな
テント、融けてないかな
バイク、動くかな

ツーリングに行きたいけど
元気と意欲がない。

▼チャリダーに変身する夢ばかり見る。

(4日)

▼お願いがあるの聞いてよ神無月

これは、言葉の遊びかな。
いいえ、お願いがあるのか。
ナイショ

(1日)

▼十月と書いて眺める左右対称
▼おはようさん。きょうからネクタイ。十月がはじまり。

九月を少し振り返る 九月下旬篇

(9月30日)

▼そう、その恋は終わったの、そぼ降る雨
▼負けるなと手帳に書いた九月尽
▼霧雨が過ぎたストーリー巻き戻す

9月は30日でオシマイなのだ。
負けも勝ちも、私には無いのだが、
負けるなという言葉は
元気が出てくるからちょこっとだけ好きだ。

(9月29日)

▼思い出のカケラを紫蘇に包みつつ

人は、暇だとプロフィールを改定したりそのリンクを貼りなおしてみたりする(法則)

お休みだった。
ブログを整理してすごす。

(9月28日)

おはようございまーす。
久しぶりに朝の挨拶を書く。

朝日が家並みを赤く染めています。


▼雨上がり水たまりひとっ跳びのミニスカート

おそらく、前日に雨が降ったのだろう。
清清しい。

2010年10月13日 (水曜日)

小説新子 時実新子著


小説新子 時実新子著(朝日文芸文庫)

時実新子という人は、もしかしたら私の人生を指一本で変えてしまったような・・・・なんて言ってしまいたくなるような人です。

◆ 小説新子。 朝日新聞社

アサヒグラフ、週刊朝日に川柳新子座というのを長年連載しておられ、この作品評がこの世で一番の痛快さだったので、私はこの人に惚れてゆくのです。

なぜ惚れるのだろうか。
何処に魅力があるのだろうか。

それは、この小説新子を読んだときに自分で解決できました。
新子さんの川柳は、この世の中でもっとも爽快な17音。

川柳というものへの概念が根底から変わってしまった。
しかも、こういう感性で生きていきたい。

激しい、行きかた。

| 2007-03-06 21:42 | 読書系セレクション |



私の「川柳」との出会いは、イコール時実新子さんとの出会いです。
何というか、新子さんは私の心をこれほどまでにスパッ!と書いてくれて、とっても嬉しくなります。

ちょっと意地悪なこともあり、ちょっと意地っ張りなこともある。
弱い人のときもあれば、強いときもある。
そう、淫らな雰囲気もあり、清いこともある。

女心をそっとつづる。
男の心にズバッと迫る。

この人の半生をつづった本がありました。
朝日新聞社(朝日文芸文庫)の「小説新子」です。

きっとアナタも川柳が好きになります。
いかがでしょうか。
| 2005-03-29 19:26 | 読書系セレクション |

向田邦子 男どき女どき

長かったですね。
こんな薄っぺらな本を
何度も読む。
繰り返して読む。

ちょいと戻る。

少し読んで考えてる。

書き写す。
また考える。
少し読み進む。

そんなことの繰返しでしたが。


男どき女どき
向田 邦子

わたしは、今年の年賀に筆で「初心忘るべからず」と書いた。
世阿弥の言葉である。この世阿弥という人がいったいどんな人であったのかはわたしのような門外漢が語ることでもなく、推測するのもおこがましいのだろうが、言葉は頂戴している。

さぞかし、気性の激しい人であったのではなかろうか。それを燻る炭火のようにエネルギーにかえてしまう力も備えていたのかもしれない。

男時、女時。
このことについて世阿弥は語る。

立ち合い能を競う勝負の場における勝負のときには「勢いの波」というものが常についてまわる。つまりそれは、何事にも勝負どきというものがあると言うことを示唆し、このとき、我方に勢いがあると思うときを「男時」、相手方に勢いがあるときを「女時」と呼ぶのだ……という。

人生は、呼吸の如し、である。
息を吐き、息を吸う。

失敗もするし成功もする。
幸運と不運。
明と暗。

向田邦子は、そういう苦楽を肌で感じていたのだろう。わたしの母より2歳年上だから生きていればもうすぐ81歳になるのだが、52歳になる直前で不意に逝ってしまう。今のわたしより1歳若かった。

そんなこともあってか、向田邦子が四十代後半から亡くなる間際までに書いているエッセイはズキンズキンと染み込む。わたしの母の小言のようにわたしを撃墜してくれる。

男どき女どき、というエッセイは「父の詫び状」ほどにも手厳しく来ないものの、この人の感性がよく出ている。

断片的にメモを取りながら読む。原文を走り書きで書き写したのだから、ちょっとあやしいところもある。

「独りを慎む」というのがある。
〈ソーセージを炒めてフライパンの中から食べていました。小鍋で煮た独り分の煮物を鍋のまま食卓に出して小丼にとりわけず箸をつけていました。座る形も行儀が悪くなっている。〉
などというくだりがあったりする。

大勢の読者は、このことそのものをなるほどと感じるのだろう。しかし、わたしはそれだけでは無いような気がする。そんなことは既に自分の中で気づいていたし、実際に戒めてみたりしてきたのだ。向田氏があるときにふとこういうことをペンで書き綴ろうとした瞬間にわたしは感動する。生きている眼がよく似たところを彷徨っている。

「笑いと嗤い」のなかでは
〈同じ人間でも男の笑いと女の笑いは別である。にらめっこがおかしくなくなったとき、男の子はおとなになる。女がヘンな顔を見ても笑わなくなるのは、老婆になったときに、死に目に近いときであろう。箸が転げて笑うのは女である。男はそんなものでは笑わない。女は、身に覚えのあるもの、目に見えるものしかおかしくないのだ。政治や社会現象は目に見えない。抽象画である。女は笑うことが出来ても、嗤うことは出来ない仕組みに身体が出来ているらしい。〉
などとも書いていた。

この理屈も、それが正しいとは言わないし、そうも言えないかもしれない。人間が老けてゆくというのは身体が衰えることと並行して、精神が鈍感になり、一部分が研ぎ澄まされてゆく。そのキレがいぢらしいほどに伝わってくる。

「花底蛇」では
〈花をいけるということは、やさしそうにみえて、とても残酷なことだ。花を切り、捕われびとにして、命を縮め、葬ることなのだから。花器は、花たちの美しいお棺である。花をいけることは、花たちの美しい葬式でもある。この世でこれ以上の美しい葬式はないであろう。〉

人生を様々なものにたとえ、人それぞれが思うように回想する。わたしもそのひとりなのだが、きっとこの人も誰にも言えない厳しい節目を体験したのだろう。そういう人でなければ安易にこんなことは書けない。

「無口な手紙」では
〈昔、人がまだ文字を知らなかったころ、遠くにいる恋人へ気持ちを伝えるのに石を使った、と聞いたことがある。男は、自分の気持ちにピッタリの石を探して旅人にことづける。受け取った女は、目を閉じて掌に石を包み込む。尖った石だと、病気か気持ちがすさんでいるのかと心がふさぎ、丸いスベスベした石だと、息災だな、と安心した。「いしぶみ」というのだそうだが、〉

一番人気が出るもっと前からドラマのファンだった。この人を有名にしたシリーズのドラマは殆ど見なかったが、単発で投げてくるものは欠かさず見た。詩人のような面も持ち合わせるもの、そういう甘さよりも辛辣さのほうを生かしたのが好きだった。

数々の作品を何冊かのエッセー集から甦らせることが出来る。メインのシナリオ作品をもう一度読もうと決心するにはしばらく時間がかかる。その間合いを愉しませてもらうことにしよう。

長くなったが最後に。
わたしが拾い上げたこれらの一文だけを読んでもまったく面白くも無く、なるほどとも思わない。ズキンとも来ないだろう。向田邦子って不思議な力の持ち主だったのだ。

2010年10月12日 (火曜日)

本多勝一著 戦場の村


本多勝一著 戦場の村(朝日新聞社)

どうしても書いておきたい1冊を何にしようか。散々迷ってその挙句に、私はこの本を手に取りました。ここに書く最後の書物としてどの本を取り上げるか。今まであてもなく書きながらも、そんなことを常に思い続けていました。それを探りながら何冊かを取り上げ、どうやって締めくくろうかと思っていましたが。考えるのをやめました。

本多勝一の「貧困なる精神」と「極限の民族」が私の読書人生に大きな刺激を与えたことは間違いない。しかし、そんなことでセンチにもなってもおれないですよ。私の本棚の中の、奥まった所に静かに収まっていながら、椅子に腰掛けてじっと棚を見上げると必ず目にとまる1冊ですし、この本を最後にしてしまおうかと、さっき決めました。

何を今更。
近年の芥川賞の文学性を決して否定をするようなことはしたくないし、このルポルタージュとそれらの文学作品を比較することなどにも論理的に矛盾があるのは承知ですが、それでも書きたい。
おい!文学(ブンガク)、それでいいのか!

私の中では、遠藤周作の重いテーマ、松本清張の描く社会、司馬遼太郎の紐解く史観、いわゆる戦後文学といわれるものの時代背景、山頭火の虚空、北山修の視線、本多氏のルポルタージュが伝えるもの・・・などなど。それらが攪拌されて、私自身の人生に刺激を与え続けてくれました。

こうしてここで様々な本を書きなぐるために本棚を見上げる夜があったことは幸せなことでした。
さて、過去に拘るのは決して格好悪いことではないと思いながらも、もう少し書いてもいいかも…と思います。

時々刻々。
そうです。その言葉の通りなんですよ。過去を評価しはじめたら歩む足が止まってしまう。新しい本棚を今の本棚の前に設置する隙間を空けよう。さあ、部屋を片付け始めることにします。
みなさん、ありがとうございました。

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昭和43年4月10日第1版。
朝日新聞社から文庫本でも出版されています。

| 2005-06-13 08:24 | 読書系セレクション |


【原民喜】の遺書から

「戦場の村」を書いて最後にしようと思っていましたが、尻切れトンボなので「原民喜」さんに代筆をお願いしました。

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遺書

ながい間、いろいろ親切にして頂いたことを嬉しく思います。僕はいま誰とも、さりげなく別れてゆきたいのです。妻と死に別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったような気がします。

<原民喜>
| 2005-06-23 11:26 | 読書系セレクション |

2010年10月11日 (月曜日)

環境関連 アーカイブ


バイオマスは地球環境を救えるか

(岩波ジュニア新書)

バイオマスという言葉は、実はすごく奥が深くて難しい言葉ですが、この本の中では簡単に説明をしています。

これからの地球上で暮らすためには、どのようにエネルギーと向き合って行かねばならないのかということを、バイオマスの話を中心に書いています。

環境に限らずですが、知ったかぶりの専門的な本は、やたら数字を前面に出し、後楽園何杯分の・・・などというような表現をします。
それはそれで、勝手にやってもらって構いませんが、知りたいのは我々です。

ジュニア新書は、定期的に環境問題を考えることができるような書籍を出していますので、二十歳以下の皆さんならなおさらのこと、こういう本を入門書にされると良いと思います。

この本の中で記述されている内容は、十分に大学教養課程で使用できるものですし、言葉で書いた箇所を数式やグラフ化すれば専門家もビックリするような内容が多かったです。

地球温暖化を騒ぐだけの時代は過去のことにしてしまい、すぐにでも、新しいライフスタイルを実践するには何をするべきかを考え、実践しなければならない。
その参考資料としても、また環境問題の常識としても、この本をお役立てください。

| 2008-01-14 12:38 | 読書系セレクション |


生態系ってなに?―生きものたちの意外な連鎖

高校を卒業したのち、工学の道を選んだのですが、そこでは数学や物理を基礎学問としていて、高校時代にとても面白かった生物という分野からは遠ざかってしまっていました。

ところが、この歳になって(数年前)理学部生物学科出身の方と仕事をするようになり、フィールドにもちょくちょくと出るようになって、生態学ってオモシロイと思い始めたのです。ところが、生態学なんてモノは俄か勉強じゃ簡単に身に付くようなものでもなく、まあ興味を満足させる程度に留まっていたわけです。

環境が仕事ですから、生物という未知な分野や苦手な化学の分野とも付き合う中で、環境を守ってゆくことや地球温暖化を防ぐことと生物のこととが一体どんな風に関係を持っているのか、実は100点満点ではよう答えんかもな、と不安なこともあります。

生態系って何かという基礎学問の中の「はじめの一歩」を分かりやすく教えてもらえば、後の勉強が変わる。
興味の無かった人が読めば、進学コースは生物学系に、なんて言い出す人が出てくるかもしれない。

| 2008-01-14 12:36 | 読書系セレクション |


〔続〕松井章著 環境考古学への招待

 環境と考古学。このふたつの言葉を融合させた学問がちょっと注目されています。人々の生活や文明に環境がどのように影響していたのかということを遺跡などの出土品の中から探ってゆこうという学問です。

 気候や地形、地理的条件の影響を受けて人類は暮らしてきました。つまり、古代人の生活や食事、暮らしを調べて、動物学や植物学、文献史学、生化学、昆虫学、寄生虫学などを集大成させて遺跡や遺物に取り組むのです。そして、環境が文明にどのように影響を与えていたのか、ということを考古学的な視点で考察してみようとしています。

 「縄文時代に戦争はなかった」とおっしゃった佐原真先生に深く薫陶を受けたという松原先生の本が面白いです。どうぞご一読を。

◆参考:松井章著 環境考古学への招待―発掘からわかる食・トイレ・戦争 (岩波新書)

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メルマガを書いてますが、その編集後記に上のようなことを書いて紹介しておきました。校正が入ってボツにならなければ配信されると思います。そのときはヨロシク。
| 2005-03-19 17:04 | 読書系セレクション |


スローライフ―緩急自在のすすめ 筑紫哲也著

◆ スローライフ―緩急自在のすすめ
◆ 岩波書店
◆ 筑紫 哲也


筑紫哲也さんがアメリカ合州国にいたころから、ファンです。あのころは、あなたも時流に乗って、社会を動かさんとばかりに、走り回っていました。

多くの人は、この時期(この年齢)を迎えると、スローに回帰するものなんだろうか。そう、思います。

新書乱立で、いささか、あらすじ本的な側面もなきにしもあらずなのですが、今、やはり筑紫さんに語って戴いて、多くの人にスローな生活を知っていただけるなら、それは良いこと。

私たちの環境を真剣に、、、いやそういう風に肩に力をいれずに、お気軽に知っていただくのに最高で、いいタイミングの書籍です。

当たり前を、筑紫さんに教えてもらってください>みなさま
| 2006-04-26 14:59 | 読書系セレクション |

石田三成 と 明智光秀


石田三成―「知の参謀」の実像 小和田 哲男

明智光秀のほかに小和田先生は、石田三成も書いてます。

■ 小和田哲男著;石田三成―「知の参謀」の実像 PHP研究所

関が原で徳川家康と戦ったという歴史的事実があたえる印象が大きすぎるのです。

しかし、ぜひとも、徳川側の視点で石田を見たお話や記事ではなく、石田三成自身をじっくりと見てやってください。

彼は日本を十分に新しい時代へと変化させるだけの政治力と知才を持ち合わせた人でした。

いつの世でもそうですが、勝者側から(徳川の側から)歴史が残りますので、石田の魅力に触れないまま終わってしまう方も多いと思います。
歴史に、もしも・・・はないのですが、もしも石田に、、と思うとその後の愚かな足跡が変わるのだから、ちょっとしたロマンも感じます。(まあ、夢ですけどね。)

ぜひ、歴史に隠れてしまった有能な政治家の本当の姿に触れてみてください。彼の無念を噛み締めながら、関が原を訪れたくなりますから。

| 2007-01-28 11:15 | 読書系セレクション |


明智光秀―つくられた「謀反人」  小和田 哲男

■ 小和田哲男著 明智光秀―つくられた「謀反人」 PHP新書

本能寺の変の首謀者。織田信長の暗殺者として知られている光秀ですが、私たちは彼のことを随分と悪者扱いしてきたように思います。

知らないことがたくさんあるにもかかわらず、そんなに彼を悪者にして、織田信長を美しく思っていいのか。

実は明智光秀という人は、非常に知にも技にも優れた優秀な政治家としての素質を持ち合わせていて、今で言うなら期待の新人になるべき人だったのかもしれない。

彼のファンになれるほど、感動の一冊。

| 2007-01-28 11:00 | 読書系セレクション |

2010年10月10日 (日曜日)

椎名 麟三 のこと


永遠なる序章 (新潮文庫)  椎名麟三

永遠なる序章 (新潮文庫)
* 椎名 麟三
* 新潮社

昭和30年に発刊された文庫を手に取っている。買ったものは昭和50年の27版で、間違いなく御茶ノ水駅から坂を下ったところの古本屋さんで、100円で買っている。私の家の古本の100という筆跡はここのオヤジさんのものに間違いない。

大学にも行かずに食堂で飯を食い、古本屋に寄って4、5冊の本を買い、坂道をあがって来たときにたくさんの友人たちに出会うが、そこに一番の友人であるJが居たら、そのまま聖橋ほうまで昔からの約束事のように歩いて行き、欄干に肘をかけて凭れて、奴と話す。

キリスト教の話しのこともあれば人生論であったりする。赤色に白線の地下鉄丸の内線が通ってゆくのが見える。神田川を運搬船が行くのも見える。

椎名麟三が、永遠なる序章の書き出しで、医科歯科大学から聖橋に来る様子を書いている。
御茶ノ水からシーンで始まらなければ読み始めなかったかも知れないが、自分がこのあたりで学生時代を送っていた幸運もあって、椎名麟三を何冊も読むことになり、虚無主義の満ちたわけのわかったかわからないような物語に、私は二十歳のころにどっぷりと浸かっていった。

高校時代に、受験体制に遅れをとっている高校のカリキュラムに反発したり生きることの疑問を爆発させながら思い切り反抗期を送った私にニーチェの哲学書を薦めた教師が居たほどだから、受験を終えた私にとって勢いがつけば読みやすかったのだろう。自分の書く日記にも、彼の小説の筆の色合いを真似してしまうほどに影響を受けるまでじっくりと読んだ。

「永遠なる序章」が彼の一連の作品では読みよいかもしれない。30年以上も前に読んだ本だから内容は覚えていないけど、無作為にページを開けて読んでみると結構覚えているから不思議だ。

小説の捉え方や人生哲学などにも、(今の自分にはわからないが)相当に影響を与えたことは否めない。二十歳のころにこんな本を読んでおいて、大正解だったと思う。
| 2009-03-21 10:11 | 読書系セレクション |


椎名麟三、のこと。続き

永遠なる序章から

椎名麟三、のこと。続く。


ほんと、赤茶けた30年前の文庫を電車の中で読んでいます。
(細雪は、放置してしまって、ゴメンなさい)


例えば、日常の連続テレビ小説風に細雪が進んでゆくならば 椎名麟三は、深夜につけたラジオから流れ始めた朗読の時間で読むに相応しいような作品で、

福永武彦を読んで、どんよりとしながらも、感動が満ちてくるのを味わったときのように、一行ずつを噛み締めながら読めます。

戦後を、文学にした人の功績は大きいなあ、とつくづく感じます。

本屋に山積されたベストセラーを嫌う人たちの、結局のところの自分だけの読書観というものにも、あきれるというかその狭量に無言になるのですが、そういう人たちにこそ、福永武彦や椎名麟三をオススメしてみたい。

直木三十五の「南国太平記」のように、場面が手に取る様に展開してゆくのとは正反対に、暗くて貧しい戦後の街の様子を(私も実物は見たことがありませんが)、これでもかと小説が泥を捏ねるように展開してゆく中で人の心の奥に迫る小説あったわけで、この頃の本屋ではもう見ることができない。

だから、椎名麟三、恐るべし。なんです。

| 2009-04-04 11:20 | 読書系セレクション |

2010年10月 9日 (土曜日)

過去は大事なんやで

「過去は過去… 今の方が 大切に思うんですが…」
と仰る方があって、そのもうひとつ前の話は省略しますが、私が少しつぶやいたのです。

*

過去は過去で大事なんやで。

今を生きるときには、過去からの変化を読み取り、考え方やものの見方も解析したり学んだり、ヒントも貰って活きていかねばならないと思うのです。

だから、過去は過去として過ぎ去ったもので、済んでしまったものとしかみてないならば、今も今だけしか見て無いことになる。

未来から見つめれば、今は過去や。
だから、今が大事なら、未来も過去も大事やということになる。

確かに過去を思い出したり頼ったりするのはよくないのですけど、しかしながら、今を生きるときには、未来を見て、しっかり睨んで生きていかなあかんと思うの。

振り返るなんてのはセンチなもんじゃなく、過去を睨んで未来を計るという闘いです。がははは。

*

とまあ、そんな返事を書いたのです。

新田次郎 セレクション


新田次郎著 アラスカ物語

書きとめておきたい本は、山のようにあるのですが、なかなか整理がつかない。

近ごろ、それって自分の人生の整理もつかないってことなのでは、と思ってみたりします。

何を書いても遺書のようになってしまうなあ、と泣き言ばかりを言っていますが、死んだらこの本はみんな灰になるだろう。

私の遺言だけ新刊で出版できればいいか。

+++

新田次郎著 アラスカ物語

もう何年も昔のことで、私が受験生だった昭和50年ころまで遡るような気がする。当時は本を読むことに馴染みなどなかった。ひとりの高校生が単行本を持ち歩いたりカバンに文庫を忍ばせている風景は珍しかった。そういう奴は本の虫かガリ勉か、遊ぶことを知らないひ弱な奴の分類に入れられかねない、そういう時代だった。

なぜアラスカ物語だったのか、それは朧な記憶になるのだが、きっと誰かが単行本を贈り物としてくれたのではないか。そんな気がする。私を読書家と勘違いした親友がその1年前に遠藤周作の「どっこいショ」の単行本をプレゼントしてくれたということもあったし、「アラスカ物語」も何かの理由があってプレゼントされたか、それらの本に感化されて私自らが買ったのかもしれない。何れにしろ、私の読書人生のスタートラインのころの1冊であることは間違いない。

さらに、この本を読了して、受験期間を終了したころに、新田次郎作品では「火の島」を読み、さらに「栄光の岸壁」「槍ヶ岳開山」に出会い、私も山を旅する人へとなってゆく。出会いとはそれ程、偶然で簡単なものでもあろうし、また、それほど恐ろしく感動的でもある。

この作品の主人公であるフランク安田という人は、教科書ではおそらく習わない。だが、人物伝というものが人を育てるというならば、このような人の信念や考え、行ないを今の子どもたちにさり気なく教えてあげればいい。人の生涯描いた物語は新たな時代の人へと受け継がれ、また人を育てるのだろう。

新田次郎という人は、このような人の生きる美しさにこだわりを持っていたのではないか、と思う。それは山に懸けた登山家や冒険家の人生にも存在する。カッコよくないとか非合理的であるという理由で、現代人が御座なりにしている最たるものなのではないか。

新田次郎の小説と向き合う姿勢は、小説家への動機やその後の歩みを見てもよく分かる。彼をこれから読むという人は、まず、「火の島」を読み次に「アラスカ物語」へと進むと良い。彼の真正面からの顔が見えてくるのを感じるだろう。

| 2010-07-02 20:27 | 読書系セレクション |


新田次郎 孤高の人

新田次郎を掘り出してます。

昔に簡単に書いておきながら、再び思い出して書いたので、下巻に今日書いたモノをアップしておきます。

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孤高の人 (上巻) (新潮文庫)
新田 次郎
新潮社
\620


「コタツで読書」シリーズで書いたものです。

2005年12月12日のメモから。

孤高の人
新潮文庫
新田次郎著

新田次郎入門としてはちょいと重いかも知れません。
「栄光の岸壁」くらいか「火の島」あたりがいいかな。
でも、冬に読むなら、コレでしょう。
冬山に行きたくなる。
間違いなし。

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コミュで書いた紹介文を貼っておきます。

■ 新田次郎著 孤高の人

これは新田氏の作品でもっとも評価が高いのではないだろうかね。
比較的初期のころに書かれた作品だと思います。
(調べずに書いてスミマセン)


単独行の加藤文太郎という人を取り上げた作品でして、いわゆる、山岳小説の魁でもあり、加藤文太郎を有名にした作品でもあります。

彼の勇敢で生き生きとした姿を新田次郎の不器用なペンが感動的につづっています。

ちょいと長いのですが、真剣に読もうというならこれからです。

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孤高の人 (下巻) (新潮文庫)
新田 次郎
新潮社
\620


上巻でレビューを書いたのを忘れてた。また書いたので折角だから載せておきます。

単独行の加藤文太郎。

この名を知らぬ人は、登山を知らない人かもしれない。
いま、いわゆる今どきの登山人(登山家とは呼びたくない)は知らないかもしれない。

自分たちの現在に歴史は不要だという考えが多くなっていることも想像できるし、登山そのモノが、アウトドアなレジャーに毛が生えた程度に考えているかもしれないし。
そのこと自体は大いに結構ですけど、登山というモノをする以上は、促成栽培の技術や大量資金を簡単につぎ込んで一夜でキャリアのあるかのような出で立ちになって欲しくない。

新田次郎には、間違いなく、加藤を知って欲しいという強い願望があったに違いない。山を愛する人であれば、簡単にその心は理解できよう。

兵庫県の人。
努力の人。
単独で、努力を積み重ね、勉強も登山も、自分の力で解決する。

教科書に載せたいような人物です。
六甲で緻密に訓練を重ね、北アルプスへ。

その名は、単独行の加藤と知られるようになる。

一度だけ、パーティーを組んだことがある。結婚してまもなくのことだったと小説では確か書いていた。そこで、小説が終わらねばならない結末を迎えるというところが、何とも現実でも小説であっても無念である。

加藤の努力と不屈の精神とパワーを感じ取りたい。

| 2009-07-09 15:39 | 読書系セレクション |


新田次郎 槍ヶ岳開山

新田次郎の作品を思い出していたら
学生時代の下宿で、彼の作品を片っ端から読んだ日々が甦る。

山へのいざない。
ちっぽけな恋より美しいなあ。
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槍ケ岳開山 (文春文庫)
新田 次郎
文芸春秋

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播隆というお坊さんがいた。越中の出身の人だった。

お坊さんが槍ヶ岳への道を初めて開くのである。

槍の姿を、せめて隣の峰か峰の麓からでもいいので、見上げたことのある人なら、あの山の魅力をわかることができるだろう。

その槍を舞台にしている。

山は信仰のもので、神が宿る気高いところだ。
まして北アルプスの山々は自然のなかにあるその勇姿といい、天に突き出る荘厳さといい、この大山塊は霊の峰峰だったに違いない。

まだ、誰も登らぬ霊峰へ。
播隆上人が笠ヶ岳登山を成功させ、初めて登山道というものを開いたのだ。

この時代(1820年代)登るだけでも多大な苦労が伴うのだが、登山道を開き、信仰の道としても完成させてゆく人物の物語。

目の前に槍ヶ岳がある。

誰もをこの素晴らしい神の宿る山へといざないたいと願った播隆上人は、槍ヶ岳への難所に鎖場を設けるなど、登山道を切り開くのだ。

本屋でこの本を発見したときに、あの「槍ヶ岳に登る本」なのか、と単純に飛びついて買ったのであったが、中味はどっしりと重い人物伝であった。

新田次郎が書くから、さらにマジメで、面白い。
| 2009-07-09 14:45 | 読書系セレクション |


新田次郎 栄光の岸壁

剱岳という映画が話題だそうで
何故に今頃、新田次郎さんなん?と不思議です。

アラスカ物語、という作品を木村大作のカメラで撮ったときは話題になったけど、あの木村大作さんが注目されてるのかな。


八甲田山死の彷徨、のときもメディアは騒いだなー。


新田次郎は、あの無骨な作文と、緻密な進行、正確な情報などが味わいなのだ。

剣岳。
見ないで、読んでくれ。

栄光の岩壁 (新潮文庫)
新田 次郎
新潮社

気象の勉強をしたかった私は結局(新田さんの真似をして)電気通信工学科に進むものの、「火の島」を読んだりして気象学への憧れを断ち切れない日々を送っていたのですが、その火の島で出会った新田次郎という人の二冊目がこの「栄光の岸壁」でした。

後に、殆んどを読みつくしてしまうのですが、その引き金になるには素晴らしい作品です。

新田次郎の文章は飾りも無ければ、叙情豊かに書かれているわけでもない。山登りにかける男の心の闘いを、唐突と書き続ける。そこには正確で計算されつくした構想があるのでしょう。

もちろん実在の人物を取り上げて作品に仕上げているのですからリアルではありますが、新田次郎さんの気迫が大きく覆いかぶさる。

冬の山を知り尽くし、怖さも素晴らしさも体感している新田次郎さんだから書けたのではないでしょうか。プラス彼の真面目さもあったでしょうか。

北岳バットレス、アイガー北壁、マッターホルン。
当時私は聞いたことのないところでした。
登山の用語もまったくわかりませんでした。

しかし、大学生だった私は、このときほど山に登りたいと強烈に思った時代は無かった。読むほどに身体中が奮えだし、山に行きたいと思う。

強く生きることのバイブルのような作品です。
まだお読みでなければぜひ、作品からいかがでしょうか。

(もう30年以上も前に読んだのに、あのころ奮えたったのを思い出します)

| 2009-07-08 15:54 | 読書系セレクション |


新田次郎 火の島

火の島
新田 次郎
新潮社

新田次郎の作品の感想を1冊も書いていなかったので、30年前を思い出しながら書きます。

火の島は、気象観測の業務で鳥島に駐在する新田次郎氏の緊迫した時間を物語にしています。
昭和40年ころ、まだ、首都高速や東海道新幹線が開通して間もないころです。日本は今の姿から想像することは難しいほど、まだまだこれからの時代。いわゆる発展途上中。そういう時代背景をしっかりと把握して読まねばならない。

新田次郎さんの小説は、ワクワクさせられたりドキドキさえられたりしながら、ドキュメントタッチで読めるもの、伝記のばあいでも、クールに書かれているので、文学っぽくない。
しかし、彼は、新田次郎という小説家として、大いに名を残したから、人間味のまじめさというか、実直さというようなモノを感じる。

私は、気象庁のような所で、自然現象を相手にするような仕事がしたくて、「火の島」を手にしたんだろうな。
読んで「通信」の世界のことを知って、新田さんがそういう分野出身だったこともあって、「電気通信工学科」に行けば気象ができるかも・・・と如何にも二十歳前の青二才が考えるような判断をして、電気通信を専攻していました。
その後、諦めきれずに、在学中に気象大学校の願書を気象庁まで直接出しにいったりした経験もあるのです。

新田次郎さんの火の島は私にとってはそういう記念的な作品だということで、第1冊目の感想は火の島です。

--------

藤原正彦氏は、新田次郎さんの息子というのは、ちょっと驚きです。というのは、新田次郎さんって、藤原先生の親の年齢だったか・・・ということです。

この作品は、そんな年代の新田次郎がかい書いた初期の作品です。

のちに山岳小説という大きなジャンルとブームを作り上げた功績は、やはり称えねばならない。

藤原先生の「国家の品格」(新潮新書)は、世の中の新書ブームに追い討ちをかけ、新書というジャンルをことごとく粉砕してしまって、いわゆる構造改革的に破壊して、新書から魅力を奪ったわけで、その責任は重い。これは出版社にいえるのかな。

いまや、新書は、新書というか、雑誌ブックレットですね。

藤原先生は別に悪くないが、社会がちやほやしたのか、当たり前を称えたのが悪いのか、ベストセラーになるべき物とならざるべき物が、世の中の一部の勢いで扇動されてしまうという例をつくった。

いまや社会の常識にもなりつつある新書のブックレットレベルへの転落という悲しい変化を、どうしてくれるのですか。


新田次郎さんから脱線してゴメンなさい。
山岳小説。
少しずつ、書いていきたいと思います。
| 2009-04-11 11:28 | 読書系セレクション |

胡麻の花

 泣き虫のまた泣かされて胡麻の花
 (高倉和子)

 坪内稔典さんがご自身のHP、今日の一句(10月7日)で「悲しいにつけうれしいにつけすぐ泣く人が、またまた何かで泣いている。その近くで胡麻の花が揺れている。のどかな農村の立ち話を想像する場面だ。」と書いてます。

 近ごろは農家の畑でもゴマの栽培を見かけることが少なくなりました。子どものころには秋の収穫が片付いたころに、いつも、小春日の縁側でゴマの鞘を木槌で叩いたのを覚えています。

 旬のモノがお店から影を潜めていってもう幾年も過ぎるものの、今年もサンマが魚屋の店先に並ぶ季節になって、心が密かに喜んでいます。秋とはそういう季節だという方々も多かろうと思います。

*

春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠として滴たるが如し、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として睡るが如し。

ついこの前に「山笑う」と書いたばかりなのに、もう「山粧う」季節になってしまいました。

秋は何をしても楽しいです。イベントも盛りだくさんですから、身体を動かしても、食べても、芸術に目を向けてもいいですね。

2010年10月 8日 (金曜日)

小川洋子 セレクション 薬指の標本 博士の愛した数式


博士の愛した数式 小川洋子


この本を日記に書いている人を探して少し足跡をつけて歩きました。

先日から少しずつ読んでます。
久々にまともな作品に巡り合えましたので報告します。

mixiで日記とか検索しても、コメントを書いている人が多くてまたまた驚く。
それでたくさん足跡つけました。

コミュで教えてもらって思い切って買いました。コミュのおかげですね。

文学ですよ、彼女は。

| 2005-12-22 21:51 | 読書系セレクション |

いいモノだけを少しずつってことで、やっと読み終わりました。

まだの人、どうぞ。

苦労して書いているのか、スラスラ出てくるのかわかりませんが、書き手の筆の動きが伝わってくるような、味わい深い文章ですね。
至るところでひとこと感想を書くんですが、「彼女の作品は文学なんです」と思いました。

ストーリーが荒削りで躍動感のあるモノや、感動の押し付けのような作品が巷には多いこのごろ、素直に小さな物語を、しかも、文学的に彼女は綴っている。
こんな作品は次々と生み出せるようなものではなく、作者の宝物のような感性を繊細にかつ満遍なく出すのですから、きっと彼女の中でも数少ない名作になることでしょう。

今年最後に出会った「お気に入り」の作家です。

| 2005-12-28 23:15 | 読書系セレクション |


薬指の標本 小川洋子 新潮社 \380


私たちの日常には、おやっと思うような些細な夢のような出来事があって、そのことは無意識のうちに消えていってしまうのですけれど、小川さんはそれを上手に纏めてしまっておいて、自分の心の喜怒哀楽にのせて物語にしてしまう。

だから、読んでいると自分の体験したようなコトが出てきたり、よく似たことがストーリーであったりする。

言葉も巧みで、甘く、ときには気取って綺麗であったりする。

やや、曖昧なところもあって、強い熱情とか激怒とかは出て来ない。そこが気に入っているのだが、凸凹感が少ないので、それは小川さんの性格なんだろうかなと思って許してしまう。

激しく怒ったり泣いたりするような作品を立て続けに読んだ後には、麻薬のように思うんだよね。

| 2006-08-31 12:00 | 読書系セレクション |


2010年10月 7日 (木曜日)

重松清 セレクション


重松清 ナイフ 新潮社


短編モノには、短編モノの面白さがある。面白さというよりも、ある種の文学性を持ち合わせていると思う。

面白くなくてもそれで十分なのだが、それが結構なほどに私を引きずりこんで、喜怒哀楽を主人公と一緒になって感じてしまう。(そういう自分が少しアブナイくあり、可哀想でもあり、恥ずかしいのだが)

単にイジメの話ではないのかもしれない、と思いませんか。

実際にこのような日常があるのかどうかは私の世代からはわからない。しかし、大人は、いや、親はそういうような心配事を抱きかかえながら、子育てに翻弄している。

重松が見ている(訴えている)社会は、子どもの姿を通しているものの、そこには大人の私たちが決して無視できないような、ささやかでありまた些細な出来事が上手に物語になっている。

そこには大人が日常でさまざまに悩んでいることのデフォルメのようなものであったりするから、ドキッとさせられる。

つまり、大人のための小説でもあるのではないかと思うのです。

子どもたち(たとえば結婚をしていないような若者たち)のための、物語ではない。

だから、というわけでもないが…私は、難しい年頃の子どもを持った世代の母にも、ぜひとも薦めたい。

短編作品集は、詩篇のようなせつない物語が多いですね。
重松の本質を知りたいなら短編。実力を読みたいなら、長編ではないのかなと、ふと思った。
| 2006-10-01 14:15 | 読書系セレクション |


きよしこ 重松清


やっとのことで「きよしこ」(重松清)を読み終えました。すごく時間がかかったなー。

やっぱし、ラストは良かったね。

重松清という人は、どうしてこういうさりげない題材を輝くようなストーリーにしてしまえるのでしょうかね。

| 2005-09-23 22:08 | 読書系セレクション |


流星ワゴン 重松清  読了!


読み終えました。
通勤の車のなかで、信号待ちごとに読んだ日もあります(そういうことはオススメしません)

読みながらいろんな方面の人の読後感が届いてくる。

泣きました! とか
子どもを持つ親になって初めてわかると思います・・・ とか。

異色なタッチの小説ですけど、素直に読めます。
死んだ父の生前の言葉を思い出して、本を少し閉じて考え込んだり、受験生の子どもとたった今交わした言葉と、小説のシーンがオーバーラップしたりしながら涙もなく、淡々と読み進みました。

一体どこで泣くんだろう。泣いた人って、自分を泣かせることに快感を感じてんじゃないの・・・とか思いながら終盤まで来て納得しました。

17日、壇上の姿だけでしょうけど、重松さんにお目に掛かれますね。
「流星ワゴン」を持っていって、裏表紙にサインが欲しいなって、マジで思うよ。

素敵なロマンをありがとう。>重松清さん、コレ、読んでます?
肩車するシーンがいいですね。

| 2005-04-15 16:12 | 読書系セレクション |

重松清 流星ワゴン

重松清 流星ワゴン

2010年10月 6日 (水曜日)

おでん ─ 2004年10月の日記を読む

おでん ─ 2004年10月の日記を読む

平々凡々と秋を送る。
何の変哲も無い日記を書いているのだが

おでんが食べたいなどということにも触れている。

今夜あたり、おでんを食べる人もあるかもしれない。
さて、おでんの種は何がいいかな。

三つあげよ。


*

大根、竹輪、こんにゃく
牛筋も棄てがたい。
ごぼう天も好き。

おっと、卵が抜けてる。

*

庭木に蓑虫が大量発生をして、食い荒らしている。
スミチオン乳剤が倉庫にあったので、これをまいてやっつけてやろうと試みているが、効果は如何に。

五木寛之 のこと


青年は荒野をめざす 五木寛之

青春の門のレビューを書いていたら脱線していき、「青年は荒野をめざす」という作品もありますと紹介した。

そこで
◆ 青年は荒野をめざす についても一筆。

学生さん、新しい流行モノばっかし読んでないで、こういうのも読みなさいな。
古本屋さんで簡単に手に入るから。

限りなく透明に近いブルー・・・(村上龍)のようなタッチで書かれているようですが、こっちのほうが作品としての完成度や面白みは格段に高いですね。

冒険旅行とか冒険小説などと書いている評もあるようですが、この時代の流行の大学生の頭の中にタイムスリップするにはこのような作品に触れるのが一番でしょう。

父よ、母よ。(その世代の人たちよ)

ああ僕の青春・・・というカンジで作品を思い出した人は、ジジイ、ババアの域に達してます。

美的なジジイになりたいな。

(意外とそういう年代の人がこのコミュにもいるみたいなので、ちょっと刺激をしてみただけです。)

--
最近は法然や親鸞を書いておられる五木寛之さん。この作品は三十代の時の作品なんですね。若いって素晴らしい。バンザイ!って叫んでみたくなる。

学生時代に読んだのですが、30年経って読み返しても面白い。

| 2009-01-23 21:41 | 読書系セレクション |


五木寛之 青年は荒野をめざす  その2

〔GREE mixi日記から〕

五木 寛之
青年は荒野をめざす
1974

わかってください。

偶然に、いや、気にかけて
自室の本棚のこの本に手を延ばし

読み始めると止まらんから、怖いなーと思いながら
読み始めたら、ズルズル。

30年前に読んだ本ですが
今読んでも全然違う味わいの本ですね。

---

二十歳くらいの若い子なら
30年経ってから読み返せるようないい本を今のうちに読んでおこう。

30年前に読書に浸った人なら、
もう一度、あの本を読み返してみよう。

嬉しくて泣けてくる。

| 2009-01-24 11:39 | 読書系セレクション |


青春の門 五木寛之著

◆青春の門 五木寛之著

40代50代のおじさんおばさんで、読書が好きなら、まず読んでいるかも。
五木寛之の自伝的な小説ですね。

今の五木さんはすっかり仏教の人になっていますが、このころは
「青春とはこうだ!、ボーっとしてたらアカン!」
と刺激するような、熱い小説家でした。

| 2007-04-01 14:30 | 読書系セレクション |

八風吹けども動ぜず天辺の月

八風吹けども動ぜず天辺の月

*

その言葉がメモに残してある。

どなたかがメールに書き添えてくださったものなのだろうが、申し訳ないことに明確にはその方を思い出せない。
何かのときに窮していた私を見ての助言であったのだろう。

八風吹不動天辺月 ─ 寒山詩

ここで、八風とは、利、衰、毀、誉、称、譏、苦、楽である。

利は成功、衰は失敗、毀は陰で誹ること、誉は陰で讃めること、称は面と向かって讃めること、譏は面と向かって誹ること。苦と楽は、字の如くである。

人生を月のような不動心を持って生きよとの教えだという。

*

この言葉を戴き、さらに秋の夜に漢詩を読む愉しみが増えました。

2010年10月 5日 (火曜日)

松本清張 セレクション


松本清張 火の路

随分と長くかかって読んでいましたが、きのう(H20.2.9)、最後まで辿り着きました。
新聞小説だったらしいのですが、連載中は見てません。何しろ30年ほど前に学生時代をやってたころに既に文庫であったと思います。それを友人が薦めてくれたのを記憶してます。

作品は、もっぱら面白くないという評判で、清張さんの失敗作か、と想像したりしてましたけど、失敗じゃないですね。

清張さんの凄さと執念と頑固さと、ちょっと古さも感じたかな。 古いというのは、現代の流行りに対してそう思うだけで、今の流行りがノンポリな雪崩現象的、空洞現象を考えると、こういう作品のほうが小説らしい小説と言えましょうか。

梅津は最後に亡くなってしまうのですが、このへんがそんなにドラマティックじゃないなって思ってみたりしてマス。ただ新聞連載の最後のほうなので、読み手も疲れていたと思いますから、あっさりしてて良かったとも言えるかな。

女性にもう少しドキドキさせられたかったですね。「詩城の旅びと」みたいに。

スゴイ考察をしてます。意地で書いた論文ですね。正直言ってコレを全部きちんとは読み切れないです。

けれども、明日香に行きたくなります。春になったら行こうかなと思ってます。ミステリーという言葉がやたら使われているようですが、こういう作品で使って欲しい。
| 2008-02-10 10:48 | 読書系セレクション |


松本清張傑作コレクション 宮部みゆき責任編集

11月21日のよみうり堂(読売新聞)に、いい記事が載ってましたね。

松本清張傑作コレクション 宮部みゆき責任編集

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260の短編を読み込み一押しの「一年半待て」から「地方紙を買う女」「真贋の森」「共犯者」など29作品をセレクト、構成から目次まで取り仕切った。

直木賞受賞作「理由」では書き出しを清張のまねっこで書いたというほど清張ファンだが、編集しながら「文章の言い回しからリズムまで、自分が思っていた以上に清張さんの影響を受けている」ことに気付いた。「市井の人々の姿を見つめるところも影響を受けていますね」
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ううーーーーん。

文春文庫全3巻。各667円
私の「年末年始の20冊」に入れることにします。

蒼穹の昴 全4巻 講談社文庫各590円(浅田次郎)、が既に入っていますので、この時点で既に7冊となってしまってます。

おっと、「邂逅の森」がたぶん未読だろうから、8冊。

早くこいこい、お正月。

※「年末年始の○○冊」みたいな特集。まもなく募集したいと思ってます。ブレーンストーミングの嵐のように、読書系文庫100冊…みたいにアップしたいですなー。

| 2004-11-22 22:42 | 読書系セレクション |


よもやま話・松本清張さん

朝日新聞の11月17日の文化総合欄に「松本清張 ドラマで脚光」という記事がありました。「冬の時代」といわれる連続TVドラマ界で、清張さんの小説を原作としたドラマが人気を集めていることを取り上げています。
宮部みゆきさんは「物語が持つ普遍性のせい」という。「お金が欲しいとか,ちやほやされたいとか、築いた地位や名声を保ちたいとか、人間には変わらない欲望があ」り、この「黒い部分が外へ出てゆくときの根っこは共通」であるから、作品には時代を超えても残れる要素があるという。

「黒革の手帖」(テレビ朝日系)は、先にTBS系で成功した「砂の器」を真似ているのでしょうね。私の感想としては、シリアスに作っているように思えるが、撮影シーンの美的度合いから比較すると砂の器のほうが遥かに高かったと思う。金もかけていると思う。米倉涼子さんなどの俳優さん人気でひきつけてるのかな…。

ちょうど黒革…が始まる少し前、我が家の階段書棚に積んであった、カバーもなくなって茶色に変色した「黒い福音」を、まだ残暑も厳しかったこともあり、風通しの良い吹き抜け階段に腰掛けて読み出したら、止まらなくなってしまった。

新聞でも書いていますが「時代が変わっても古びない」ものを私も感じる。そして、「黒」というものが意味する「悪」、それは社会悪であり、社会の裏である私たちのもうひとつの面で、これをを上手にストーリーに組み込んでいる点が吸引力なのだろう。

近頃は、ドラマのシナリオやその出来上がりの質そのものよりも、俳優であるとかストーリーの面白さなどに吊られて、人気度が先行することがある。まあそれも時代の産物と思わねばならないでしょうが、そう言いながらも、ホンモノを見極めるチカラを持って欲しい。そのためには良い作品をたくさん見るまたは読むことではないでしょうかね。(もちろん、ホンモノとか美的上質って何よ?と問われたら主観によるものなので、これについての論理などは脆いものとも言えるが)

やっぱし、清張さんといえば、砂の器の他には、火の路、波の塔、点と線、詩情の旅人、ゼロの焦点、あたりが真っ先に浮かびます。みなさんはいかがでしょうか?

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※この記事を実際に新聞でごらんになると、隣には「文芸の風 第1部 女性作家たち」の第五回、「江國香織」さんが写真入りで載ってますね。これについては、誰か書いてよ。
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※朝日新聞以外は購読してないので分かりません。皆様の投稿メッセージを期待してます。教えてね。図書館に読み行くためにメモしておくから。

| 2004-11-17 12:04 | 読書系セレクション |


松本清張 ゼロの焦点 再読了後

再読了したのですが、もうかなり前に読んだので、細かいところは割と記憶から消えている。映画化ということで、再度手に取ったのだが、100周年というバカ騒ぎはやめて、そっとしておいて欲しいような気もするな。

作品の構成は非常に古い手法といえるが、これかが書かれたときは、斬新だったと思う。最後に様々な謎を解き明かして纏めているというタイプだ。

また内容でセピアなモノを感じるのは、かなり初期のころの作品や「点と線」のなかに出てくるように、夜汽車で遠くまで移動したり、駅へ見送りに来るシーンなどで、世相や社会背景、風俗、人間関係観などが細かなところでも読み取れる。

つまりこの物語の核心的な部分は、清張さんの作品に共通して流れているし、ふとしたことで過去の汚点を知った人物に出会うところなどは「砂の器」で伊勢市内の映画館で写真を見て方向が変わる設定と似たものがあって、こういった展開が読んでいて嬉しくなる。

松本清張は、あの怖そうな顔でこっちを見るから損していると思う。しかし、実は優しく、繊細な人物だったのかもしれない。社会の矛盾に腹を立てていたのかも。目線が厳しいな。

能登半島を舞台にすると、暗い話になっていきがちになりますが、そのさきがけがこの作品だったかもしれない。寒くて寂れているのだが、物語の舞台にするには、そこそこ秘境で、景色も良くて、魅力的なところだと思う。

その能登半島なんですが、初めて行ったのが1978年ころではないかな。車の運転の初心者のころだったような気がします。半島を廻るために狭い道路を行きました。標識も何もない寂しいところばかりでした。豪快な荒々しい断崖の景色や寂れた漁村を訪ねて移動して行きました。

今、地図で見るとあのころに走った道はおおかたがバイパスに代わってしまっているようです。

この作品を読むには、この昔の道を辿って能登半島を巡ってみる必要があると思う。

映画化ということですが、時代背景などを考えて見ることが必要ですね。
現代人のボケた視線でみるんだから、相当に現代化にアレンジしなきゃならんでしょ。だったら、松本清張じゃなくても東野圭吾で十分やなと思う。


| 2009-11-11 15:30 | 読書系セレクション |


松本清張 詩城の旅びと

一時期、こたつで読書、という雑文をある掲示板で書いていて
短い紹介を載せていた。
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「コタツで読書」シリーズで書いたものです。
2005年12月12日のメモから。

推理小説の最高傑作。
清張さんは他にもありますが、ちょっと異色なところでこれを。
松本清張著 詩城の旅びと
けっこう引き込まれて、熱くなれます。
単純な推理小説ではない。きっぱり。
九州まで行って、舞台を訪ねてきました。
さすが南フランスには行けませんでしたが。
いつか行きたいという夢を持ちつづけさせてくれる1冊ですね。
コタツで読書。しましょう。
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いま、松本清張、生誕100年ということでざわめいている。

砂の器、ゼロの焦点、などが有名なとろなんでしょうか。

波の塔もNHKの連続ドラマが良かったなあ。
あのころのNHK。素晴らしい娯楽TV映画を撮っていたなあ。

結構、この作品は読んでいない人が居るかも。
じっくりと、休日に、渋滞のニュースでも見ながら読んでみるのもいいでしょう。

| 2009-04-25 11:08 | 読書系セレクション |


ゼロの焦点 (松本清張)

ゼロの焦点のことなんですけど、読書感想は書いてないから日記系。


きのう、何かの話のときに、間違って「点と線」の映画が最近話題で…と書いたけど、
あれは、「ゼロの焦点」だったわけです。

きょうになって、そのことに気づいて、そしたら急に「ゼロの焦点」が懐かしくなってきましてね。
ちょっと読み返そうかと思って本棚ごそごそしたら2冊ありました。

昭和53年版の文庫があって、さらに、もう1冊は昭和37年発行のカッパのベルです。
もう、めちゃ懐かしい。


車の免許を取り立てのころですから、'70年代の中ごろですかね。
能登半島を旅まして、何も知らずに、何も考えずに鶴来町まで来て、旅館案内所で紹介された旅館に泊まった。
そしたらそこの食堂には、いっぱい写真が貼ってあって、へーって感じだった。
ずっと後になって、その旅館が小説に出てくる旅館だった気がつくのです。
えええーーーって感じで、悔しいような嬉しいような。


ゼロの焦点。
あれは名作ですね。
といいながら、手元に出してきてしまいました。

| 2009-11-07 17:14 | 日記系セレクション |


続 ゼロの焦点 (松本清張)

2009年11月09日
浮気日記。

娘が

風が強く吹いている

を、買ってきてあっという間に読んでしまって
もう一回読み直すと言ってました。

映画向きやろ?
と聞いたら
そうでもない、本もおもろい
というてました。

若者の感覚。やね。

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私は浮気心で

ゼロの焦点(松本清張)に手を出したら
昭和37年版の挿入写真の入ったその本にけっこうハマってしまってます。

金沢の駅前の写真なんて、焼け野原の東京みたい。
恐るべし昭和30年ころ。

| 2009-11-09 22:08 | 日記系セレクション |


続いてきて  その3

松本清張に限らないのだが、昔の作品を掘り出して読むと必ず感じることがある。それは、読む味わいと読ませる術の存在をそこに再発見することだ。面白さとか人気、売れ筋などに左右されないもっと奥深い骨髄のような部分で作品を色付けしているとでも言えばいいのか。

或る作品を取り上げて例えば現代風のTV人気番組のレッドカーペットのようなコントにする、また、落語仕立てにする、講談風にする、歌舞伎風にするなど、些か理論的だが、こういう風味の作品に分類していってみると、数々ある文学作品や文芸作品の持ち味が見えてくるような気がする。

松本清張(ゼロの焦点)にしても先ごろから読んでいる福永武彦にしても、講談風や落語風あるいは歌舞伎調に書いてあるのかもしれない。読むほうもそういう味わい方で愉しむ。

現代風のコントを貶しているのではなく、庶民のなかを流れている文芸を愉しむひとつの歴史の、過去の部分に存在した文芸は、こういった味わい方も想定して書かれていると思うし、こういったところを作品の素晴らしさだと作者は考えながら書いていた面もあろうから、ひとまずは昔の作法で味わってみるのがいいかもしれない。

だから、これらの作品を現代映画にする際には、上記の観点からそのアレンジが非常に難しいことになろうかと思われ、賛否や評価は激しく分かれることになろう。映画化の話はまたするとしよう。

円楽師匠逝去のときに「きく文化」を失いつつあるのではないか、と書いたが、「きく」は「聞く」であり「聴く」である。松本清張の推理小説が単に推理を愉しむだけものでないことは大多数の人々が認めるところで、その社会性、庶民的視点、政治的背景などに男と女、人生、運命が絡んでくるから、これをただ単にざっくりと推理サスペンスとして一回きりでオシマイにしてしまってはファンが黙っては居ないし、誰が考えてももったいない話だということになる。

社会派といわれ、根強い人気を今も尚保っているのは、長い歴史の中に或る普遍性をしっかりとつかみ出し分析している点にある。そしてその社会的なテーマとそこに潜むモチーフを、小説的な手法を用いて私たちに投げつけたからだろう。

あの時代にはテレビも無く人々は貧しい暮らしをしていた。物語に出てくる夜汽車の風景や人間関係の描写、風俗の様子も、この作品の時代の人々の当たり前の風景である。そして、その時代の人々は、自分たちの遥かな未来で、私たちのような今のような暮らしが実現されているということを、おそらく想像もしていない。そんな人たちが主人公であり登場人物なのだ。そこにはおおきなヒステリシスのようなものが存在する。それを理解しながら、この時代というものも一緒に味わうことが大事ではないか。そうすると2倍楽しい(そうしないと半減する)のではないかと思う。

40年も前の小説を味わう。特に若者たちにとっては、なかなか奥が深い作品なのだが、奥まで覗くかどうかは、ゴミのように散らばって消えていってしまった昭和にどこまで近づけるかではないか、とも思う。

2010年10月 4日 (月曜日)

三浦しをん セレクト


三浦しをん著 まほろ駅前多田便利軒


まほろ駅前多田便利軒(三浦しをん)

この作品を読みながら私は3箇所のページ番号に丸をつけた。そのうち2箇所は偶然にも解説に取りあげている箇所に一致している。

私にそれほど眼力あるわけではないと思うので、もしかしたら三浦さんの作品には、丸をつけるような箇所が少ないともいえるか。

あっさりした小説と思わせるのは、そういうところかもしれない。

面白く軽快で、楽しくて明るい。
若者向けの小説かもしれないが、丸をつけたところなどは、一概にそうともいえない。

だが、三浦さんはそんなに人生の薀蓄を語れる年齢でもないのだから、ちょっと不思議。

いつものことながら…って、
まだ、「風が強く…」、と、「神去なあなあ・・・」くらいしか読んでないけど
人物設定には工夫していますね。

でも導入部は面白くない。これは作家の特長かな。

アニメのような作文は、とても直木賞とは思えないけど、ストーリーと人物の醸し出す哲学的暗示は、ちょっとだけ、頑張ってるなーって感じ。

ゴメン。星はとりあえず三つにさせてくれ。だって、同じ直木賞の熊谷達也や車谷長吉と較べてしまうと、仕方がないのだ。

丸をつけたところを、紹介しておきます。
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◇(P105)
「だれかに必要と必要とされるってことは、だれかの希望になるってことだ」
◇(P163)
生きていればやり直せるって言いたいの?」
由良は馬鹿にしたように笑みを浮かべてみせた。
「いや。やり直せることなんかほとんどない」
◇(P196)
「愛情というのは与えるものではなく、愛したいと感じる気持ちを、相手からもらうこというのだと」
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いや。
ほんと。
やり直せることなどほとんどない。

でも
だから、
こうして
生きているのだ。
そういう点からみれば、30代の人が書いた言葉とは思えないところもある。
| 2009-08-28 09:44 | 読書系セレクション |


三浦しをん 風が強く吹いている


昨日の夜に読み終わって
寝不足になってしまったのです。

私は、あまりこういう作品は読まないのに、机には「まほろ駅前多田便利軒」の文庫が有る。

先に娘が読んでしまったらしい。

「神去村なあなあ日常」も読もうと思っている。
風が強く吹いている

でも
こんな漫画チックな物語は好きじゃない。

そのくせ読み返して、ウルウルしている。

秋に映画になるそうで
きっと映画は素晴らしいでしょう。

青春バンザイ。

風が強く吹いている
三浦 しをん
新潮社
\1,890
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ひとりの男のポリシーとひとりの男の刺激的誘発と、それぞれの個性がオンボロの下宿に集って、箱根駅伝に出場できるレベルになってゆく。一本の襷で10人の個性がつながってゆくその1年間を書いた青春の真っ只中を駆け抜ける物語だった。オマケに……ゴールでこのチームが、2秒差でシード校なってしまうという劇的で、ホロリとくるお土産までついていた。

全速力で駆け抜けたあとには静けさがあった。そう言いたい。

作者には「神去村なあなあ日常」で出会う。我が町の上流にある小さな村を舞台にした「神去村」を読み、村まで行って村人の話を聞いてきた。そのあと直木賞作品を机に積み「風が強く吹いている」に手が伸びた。

駅伝の話だとは全然想像しなかった。

冒頭にオンボロ下宿が登場し、それが私の学生時代の西武沿線の「賄付き2万5千円、風呂無で共同トイレ、部屋の扉は戸板スライド式、鍵なし、裸電球、四畳半…」という状況に非常に良く似ていた。

あの下宿にはスポーツマンは居なかったが、都の西北の法学部、商学部、文学部の連中で構成され、理系の私は異色人間だった。30年のタイムスリップをしながら引き込まれた。

「こんな作品を書く作家なんか絶対の好みとちゃうなー」とぶつぶつ言いながら次第にマジで読み始める。

人生は理屈ではなく馬鹿げたことに似たような始末の連続であり、似たようなことを作者は投げかけてない?と思うと真剣味が増してくる。

強くあれ、速く颯爽と駆け抜けろ、美しく羨まれるように綺麗になれ。そんな夢がある。しかしそれらが、なかなか言葉にならずに苦労している。私たちの夢を、何かで叶えたい。
それがこの物語ではないかな。ちょっとした哲学も散りばめてある。メルヘンだけど、バカにできないモノが有る。

それは、素直で実直で潔いもの。1回目に急いで読んだときは平気だったのに読み返すたびに目頭が熱くなる。
| 2009-07-30 10:13 | 読書系セレクション |

2010年10月 3日 (日曜日)

阿川弘之


阿川弘之 春の城

阿川弘之という人は、私が戦中文学というものに興味を持つきっかけになった人かもしれない。原民喜や島尾敏雄 、梅崎春生とともに、どっぷりと毎日、浸るように読み耽った。

ある意味で、このように読み耽ることが必要で、私にしたら戦争は仮想の時代なのだが、そこへと招き入れられて、彼らと同じように青春を過ごしてみるということは、大切なことであったのだと思う。

戦争は異常な時間であった訳ですが、そのドキュメントに似た体験は、幾年の時代が過ぎても必須のことで、どれほど今の時代の人が幸せで何不自由なく暮らしていたとしても、せめてこのような文学で対面しておいてもいいと思う。

阿川弘之は、ある意味ではエリートで、私たちとは別世界の人であったのであろうと思いながらも、その戦争時代の体験はあまりにも悲惨で悲しすぎるので、多様の反発は感じながらも、貧しかったその時代を私に教えてくれたことに感謝する。

小説とは、とにかく、きちんと作文が出来ていることが大事で、その綴り方の中で読者を動かす。阿川弘之の文体は小説の原点にも戻るようなもので、常にクールであった。小説とはこういうのを言うのだと教えてくれた一冊でもあった。

| 2010-05-17 21:39 | 読書系セレクション |


山本五十六  阿川弘之著

簡単なレビューは上巻で書きました。「コタツで読書」シリーズで書いたもので、少しでも若い人に歴史上の人物を知ってほしいと思いました。2005年ころのことです。

山本五十六 (上・下巻) 新潮文庫 阿川弘之著

NHKのそのとき歴史が…で登場したからとか、本屋で高く積まれていたとか、そういう単純なきっかけで読み始める。
おそらく、読んで良かった、という本の代表作かも知れない。坂の上の雲(司馬遼太郎)が注目を集めているようですが、それを読んでから、こっちを読んでもいいでしょう。または、阿川作品を何冊か読んでから、山本五十六でもいいでしょう。他の阿川作品とはちょっと味が違いますが。

高校生の、受験前の学年くらいに読むとか、大学生の教養課程のころに読むとかいう人が多いかな。
宮本武蔵(吉川英治)でも竜馬がゆく(司馬遼太郎)でも、じっくり腰を落ち着けて読むのがいいです。そんなに面白いところばかりではないけど、味がある作品で、自分に大きく影響しているのがわかる。

ちかごろは、お笑い芸にしても瞬間的にぱっと燃えるものばかりで、落語や講談のような芸術的な笑いというモノがカスレテきています。
それを否定しても始まらないけど、愉しむ側はそんなモノに同化されずに自分の「愉しみ術」のようなモノをしっかりと抱かねば、やがてこういう世界は腐って行ってしまう。

読書も同じで、自分を読書家だと潜在的にでも自負する人たちはいつの時代からでもあるのですが、本質的な点で自己満足になって腐らないためにも、いい作品、ホンモノ作品に出会えることが必要ですね。

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コミュで書いた紹介文を。

◆ 阿川弘之著 山本五十六
を、まず最初に書こうかなと考えていました。
12月ころでしたし、真珠湾攻撃を勉強してみるのもいいだろうと思っていたからです。

きょう、くしくも、本日に防衛庁が防衛省と名前を変えることになったのですね。


山本五十六という人は、最後まで日本が合衆国(合州国)との戦争を始めることに反対をした人でした。合州国の凄さを実感としてして知っていたのでしょうね。

戦闘で怪我をした軍人さんを見舞うときも、いかなる区別もなく真摯に熱く握手をして、元気付ける言葉を投げかけていたいうようなくだりを読んでも、我々が先入観として持っている軍人としてのイメージは間違いであり、最後まで開戦に反対をした人。
時代の先を読んでいた人という点が伝わってきます。

小説は事実と必ずしも一致しているとは言い切れないのかもしれませんが、故意に重要なところを捻じ曲げて作品にはしていないと思います。

歴史を学ぶことで厚みを持ち、人物を知ることで読者は自分に磨きを掛けることができる。
そう思います。

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「コタツで読書」シリーズで書いたもの。
2005年12月12日のメモから。

山本五十六 (上・下巻) 新潮文庫 阿川弘之著

先日、NHKのそのとき歴史が…でしたか。あれを見て思い出しました。

25年程前に読んだ本ですが、若いときに読めてよかったと思っています。

名著に出会ってください>みなさん

| 2009-04-18 11:52 | 読書系セレクション |

終わる九月、さて十月が始まって

私の九月は悲しくもなく楽しくもなく
とりわけ歓びもなく過ぎていった。

大きな失意が襲ったわけでもない代わりに、荒波もこない。
ヒトは、こんな時間を過ごしていたら、絶対に屑になってしまう。


では、
私は屑になりたくないのか。

いいえ、屑でもいいやと思っていたこともあるかもしれない。

今は、屑のままで終わるのではなく
もうひと暴れしたいなと思う。


ポテンシャルが足りない。
頭の中で策略を練るのだが、その骨と肉の成長度合いが10年ほど遅れている。
これも実力のうちかもしれないが。

(29日)
▼思い出のカケラを紫蘇に包みつつ

そそくさと都合のいいことは忘れてしまって
新しい愉しみを見つけに出かけよう。


(30日)
▼負けるなと手帳に書いて九月尽
▼そう、その恋は終わったの、そぼ降る雨
▼霧雨が過ぎたストーリー巻き戻す

雨降りが続くと、涼しいので内心すごく喜んでいるけど
やっぱし、寒い冬を連想して、嫌やなあと思う。

十月は生まれた月で、ひとつ歳をとるのでウレシイ。

ウレシイのだが、余命が短くなることが重く圧し掛かる歳でもある。
気にしてないけど、

まだ歴史に何も名前を残せていない。
作品も無い。

どこにも刻まれることなく消えるのは、イケナイ。


(1日)
▼ おはようさん。きょうからネクタイ。十月がはじまり。
▼十月と書いて眺める左右対称

去年の今頃は何を考えていたんだろうか。
少しずつ違ってきている。




水を抱く


水を抱く

まさに「水を抱く」ように私は夢の中を彷徨ってゆく。

果たしてこれは夢なのではないか、私は夢の中で夢を見ているのではないか、と思いながらも、破滅的に貴方を抱いて息を止めて深く沈もうとした。

もう放したくない。
熱い願望が身体から弾けるような気がした。

| 2010-04-04 21:21 | 深夜の自画像(詩篇) |

雨は静かに


雨は静かに

雨は静かに

もしも願いが叶うなら
あなたと二人、ひっそりと

白黒映画の舞台のような
鄙びた里の山かげで

雨に煙る軒先見つめ
じっと黙っていつまでも

雨宿り、垂れるしずくは緑色

Tags:シュール

| 2009-05-29 23:11 | 深夜の自画像(詩篇) |

こぶしの花が咲いたら、古い地図は棄てて、新しい街へと旅に出よう


こぶしの花が咲いたら、古い地図は棄てて、新しい街へと旅に出よう

私たちの出会いは、偶然で
そう、
別れは必然だった。

桜が散り果てて、薫風が疎水をそよぐ季節に
都大路のセンターラインの向こう側にいたあの人と
信号待ちをして止まった私との視線が
合ったというだけの事件であればよかったのに。


枝垂れ柳のもとでは激情の恋は語れない。

こぶしの花咲く街道を、
確かめ合わない感情をみちづれに
旅を何度も繰り返し、
何度も何度も、土砂降りの雨の中でさようならを交わしておきながら
最後は、晴れ渡った青空の下で
さようならも言えずに、散り散りになってしまった。


― ねえ、偶然というものは、これほどまでに罪深いものなのかい。

― いいえ、あなたが嘘つきで、いつまでたっても私を迎えに来なかった罪を、偶然のせいにしないで。


雪がとけて、こぶしの花が咲いたら、
古い地図は棄てて、新しい街へと旅に出よう。

| 2009-04-04 23:20 | 深夜の自画像(詩篇) |

遠くに消えた君のこと


遠くに消えた君のこと

広い世界のどこかしらに
魔法の杖を持った優しいおじさまがいて
その杖をひょいとひと振りするだけで
幸せと夢がふってくるんそうなんだ。

ねえ、
僕たちもそんなおじさまにどこかで出会って
真っ白の雪の野原に二人で並んで
ひょいとひと振りおまじないをかけてもらうんだ。

魔法の橇に乗って旅に出よう。

---

静かに静かに雪が降り続いて
都会の夜を真っ白にして
騒音も雑音もみんな食いつぶしてしまうほど
大きな灰色のベールが街を包んだころに
僕は、ずっと昔に見た夢を蘇らせながら
遠くに消えた君のことを思い浮かべていたんだ。

冬に暖めて、春に融けてしまった僕たち。
そうか、僕は今でも魔法の杖の夢を見ていたんだ。
そうか。

Tags:ハート 追憶

| 2009-02-28 16:10 | 深夜の自画像(詩篇) |

ねえ


ねえ

ねえ

僕と君は
この夜空のかすれた月の明かりが届くところで

遠く離れているけど
一瞬だけ

テレパシーを飛ばしあうんだ。


愛しみと憎しみを
ぶつけあって

穢れた汗を拭い合おう。

夏の月は、ペテン師みたいな光を放つね

そう言ったあと
僕たちは別れたんだったね。

| 2008-08-20 22:31 | 深夜の自画像(詩篇) |

しひて行く人をとどめむ桜花


しひて行く人をとどめむ桜花

しひて行く人をとどめむ桜花いづれを道とまどふまで散れ
(古今和歌集から)

---

なるほどね。
少し破滅的にも思えるこのうた。
人は多くを語ってはいけないだ。

【銀マド】(日記系) 2010年篇 からスピンアウト
| 2010-03-28 11:25 | 日記系セレクション |

僕はセンチに


僕はセンチに

きょうは絶対にメールなんかするものか、と思ったのに…

嬉しいことと
哀しいこととが
同時に来て
僕はセンチになってゆく。

きょうは、片付けます。
おわり。


Tags:泣き言
【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-10-22 20:02 | 日記系セレクション |

空の彼方に見えなくなって


空の彼方に見えなくなって

つぶやく十七音
[あなたに、とどける] から

+

届ける。

最初、そう書いたんだけど
かな書きに改めたの。


お届けモノが
必ず届くという保障はないけれど

きっと届くに違いないと思って
投げてみる。

石ころにしても
紙くずにしても

投げて
飛んで
転がって
コロコロ。

最後まで見つめていることが大事だと思う。
空の彼方に見えなくなって、

あなたが受け取ってくれる笑顔を
ずっと夢に見続ける。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-08-23 16:00 | 日記系セレクション |

恋に「堕ちる」


恋に「堕ちる」

堕ちてゆくときって
体の中から、エキスが無理やり抜き取られるような
快感にも似た不思議な気持ちよさがある。

同時に
恐怖もあるし
不安もある。

僕と手をつないで逃げよう。
二人が意気投合して、駆け出したことがあったけど
待っていたのは、哀しい結末だった。

堕ちるのは
いやや。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-08-22 21:59 | 日記系セレクション |

満ちる


満ちる

きょう、お昼に
汐が満潮になるの。

満ちてくるざわめきのようなものを感じるなあ。

やがて

この干潟も
波におおわれてしまうの。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-07-29 10:13 | 日記系セレクション |

切ない片思いがいっぱい


切ない片思いがいっぱい

「桑の実の酸っぱうまいか 」
という箇所は、ある人からのメールにあった一文。


頬張ると、口の中に広がる刺激を
甘いと思うか
酸っぱいと思うか。

甘酸っぱいじゃ、味気ない。
酸っぱうまい、とは、ナイス。


桑の実には、切ない片思いがいっぱい詰まっているのだ。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-05-27 08:40 | 日記系セレクション |

大潮


大潮

今の時間、満ち潮ですね。

今日のお昼は大潮だったみたい。

大きく息を吸うと元気が出るよ。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-05-25 18:33 | 日記系セレクション |

不確かだったが夢をかけた伝言板


不確かだったが夢をかけた伝言板

昔は不確かだったが夢をかけた伝言板があった。
駅のものなんか、白墨でした。

ちょっとくらい不便なほうが、心が通う。
そんな気がする。


我が家の場合、待ち合わせにケータイ無くても、
大体同じ時刻に、たぶんここらあたりで、
・・・・みたいな感じで出会います。

駅の改札だったり
本屋だったり
何とか通りだったり。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-05-06 13:15 | 日記系セレクション |

時雨か、帰り道に踏切あたりで降られていまいか……


時雨か、帰り道に踏切あたりで降られていまいか……

青空が見えて日が差してくてるなと思って安堵してると
急に雲行きが変わってしまうこともある。

日が暮れるのが遅くなって、
5時半を回ってから外に出ても空は明るい。

太陽が沈んでからは一気に冷えてくるので、
風邪を引かないようにお気を付けください。

坂道を駆けていった人がいた。
急に時雨れてきたけど
降られていまいか…

夕暮れ時を何でもドラマにしてしまう。
イケナイ、イケナイ。

【銀マド】(日記系) 2009年篇 からスピンアウト
| 2009-03-25 22:36 | 日記系セレクション |

ほんとうは好きなのかも知れない・・・・


ほんとうは好きなのかも知れない・・・・

別に、な~んにも用事は無いけど、Sさんち(の日記)に寄ってみたくなる。
書き置きする手紙文も考えてないので、ボンヤリとしているのだが、
キミ、とカタカナで書いているのが目に止まった。

少しずつ寒さが募り、夜空が黒味を増してきているように思う。
私の職場は小さな山脈の麓にあって、職場の付近からは大きな湾が一望できる。
新幹線が止まる大きな駅の前の高層ビルも、数十キロも向こうにあるのに、くっきりと見える。
湾の入り口に浮かんだ、1日で一周できる小さな島も見える。

湾の向こう岸の、セントレアという大きな飛行場の明かりも、夏には全然気にならなかったのに、冬になると無数の星の塊のように瞬くような気がする。

夏が早く過ぎるのをちょっとだけ心待ちにしていた私は、あっという間に移ろう秋の寂しさを噛みしめながら、冬を迎えようとしている。寒さは嫌いなくせに好きだと思われてしまうから、ほんとうは好きなのかも知れない。

「ほんとうは好きなのかも知れない・・・・」

ああ、なんて懐かしい感情だろう。
あの子、どこで、何してるかな。

冬は、おかしなことまで蘇えらせてくれる。
冷たくて真っ黒な闇。
オマエのせいだぞ。
そんなオマエさん。
ほんとうは好きなのかも知れない・・・・

【銀マド】(日記系) 2007年篇 からスピンアウト
| 2007-11-10 10:13 | 日記系セレクション |

やがて消えゆくもの


やがて消えゆくもの

どんなに頑張っても
やがて
消えてしまうと
そう思う。

これは
仕方のないことなんだ。

心に傷がついても
いつかは消える。

命が消える頃かもしれないけどね。

【銀マド】(日記系) 2007年篇 からスピンアウト
| 2007-06-07 22:22 | 日記系セレクション |

ためいき


ためいき

  夢でもし逢えたら 素敵なことね
  あなたに逢えるまで 眠り続けたい


僕ね、この歌をずっとザ・ピーナッツだと思って、決めてしまっていたのよ。

  ためいきの出るような
  あなたのくちづけに
  甘い恋を夢みる

っていう歌があったでしょ。
あれの、続編のように勝手にイメージしていた。

自分のブログに書いている「ひろちゃん」ってやつで、この
  夢でもし逢えたら
ってのを描きながら、その子を思い出したこともある。

素敵な歌は、揺さぶるし、ほじくるなあ。痛いね、心が。


僕のあの人は夢でしか逢えない人になってしまって
夢で逢うと、あなたみたいに清くなくて、もっと大人っぽく艶っぽく、エロっぽくて、腰の骨が溶けそうだよ。

逢いたいね、逢いたいね。
さよならも言わずに別れたからな。

【銀マド】(日記系) 2007年篇 からスピンアウト
| 2007-05-18 23:00 | 日記系セレクション |

五月の風


五月の風

おーい。
僕はここだよ。
ここにいるんだよ。

そう叫んでみても
五月の風は、さらさらと
僕の心を何処かに届けようとはしてくれない。

風の向こうにキミの後姿が、
髪を風にそよがせて、蜃気楼のように、揺れている。

【銀マド】(日記系) 2007年篇 からスピンアウト
| 2007-05-05 22:24 | 日記系セレクション |

2010年10月 2日 (土曜日)

井上靖


井上靖著 風林火山

だいたい、大河ドラマに取り上げられてしまうと、ちょこっと寂しいような気がするのは私だけですかね。

去年の「功名が辻」も例外ではなく、大学時代に進級試験が迫っておいそれと読書などしている暇のない時に、読書願望が沸沸とこみ上げ教科書を脇に置いて読書をしたというのが司馬遼太郎だった。

勇気を頂けて、あれはあれでよかった。十分に試験からも逃避できたし。(結果は聞いてはならない)


そういうわけで、この「風林火山」も大河ドラマの原作となってしまった。最後の部分は川中島の霧が晴れてくるところだったと記憶しますが、30年ほど前に読んだので記憶は当てにならない。

井上靖といえば、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」「北の海」など自伝的作品が数多く、どれも文学として秀作ですね。

時代物として、「敦煌」が有名で、私はこの作品が最も好きです。

風林火山も時代物で、彼の書く歴史小説は、飾り気のない不器用なペンが味を出している、、、、と思いながら次へ次へと急いだものです。

※ 学生さんにもオススメですね。特に「敦煌」を。
                                 【GREE】
| 2007-01-13 09:10 | 読書系セレクション |


敦煌 井上靖

読書部に作家別シリーズのトピックを作っています。
このたび、「井上靖」を作った(@GREE)ので、「敦煌」を回想してみました。

回想すると、また読みたくなるなー。

「細雪」は中巻を1ヶ月以上掛かって読み終わって、ただいま下巻に突入して、岐阜県まで雪子ちゃんがお見合いに行くところですけど、

敦煌になっちゃうのかなあー。

2冊あります。
よっぽど読みたかったんだろうな。
出かけ先で、家にあることがわかっているのに買っている。

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敦煌 (新潮文庫)
* 井上 靖
* 新潮社
* \460

趙行徳が進士の試験を受けるために、郷里湖南の田舎から都開封へ上がって来たのは、仁宗の天聖四年(西紀一〇二六年)の春のことであった。

この感動的な書き出しが私の読書観を大きく変えていくきっかけになる。
ラジオの朗読番組を何気なしにつけて聞き入ってしまうことで「敦煌」に出会えた。昭和52年3月17日。(当時大学生の)私は万年筆でそうサインをしている。昭和51年8月21日第19版、200円

高校時代に「あすなろ物語」「しろばんば」を読んで少しは知っているつもりであった井上靖が、まったく別人のように迫ってくる。

井上靖。
大きな影響を与えたひとりです。

そして
中国。

理系なので余りしっかりと歴史の勉強もしなかったし、その面白さも楽しむほどのことさえしていなかったので、私にはこんな面白い歴史物語の世界があるのか……と驚いたのでした。

ご存知のように、井上靖の書く文章だから、無駄もなく甘みも辛味もない。ストレートな文学です。

物語は、莫大な仏典が見つかるところまでで終わりです。敦煌の歴史的な意味を書いた作品ではなく、趙行徳という人物のドラマを書いている。

風林火山でも似た感じですが、井上美学とも言っていい終わり方。最高。

(今の若者にも読ませたい)

| 2009-03-07 17:45 | 読書系セレクション |

2010年10月 1日 (金曜日)

正高信男


正高信男 0歳児がことばを獲得するとき―行動学からのアプローチ

この本を書かれたのは、(今は教授になっているのですが)正高信男先生がまだ助手だったかもしれません。

研究者というものは、若い時期には、ひとつのテーマに対して捧げる情熱に新鮮味があって尚且つ真剣味がある。

子どもが言葉を獲得して行く過程を、行動科学やら心理学という側面から、たくさんの実験を取り入れて分析してゆくようすの報告です。

新書崩壊の現代ですが、このころは中央公論社も新社に合併する前で、ある意味純粋に燃えていた時代でもあったのかな。

本の内容も、読者にかなりわかりやすい工夫がされていて、工学部で数理科学や情報理論をやっていた私のような人間でも、溶け込みやすい解説であったと思う。
(残念ながら、図書館で借りたので家の書庫に無いのだ。正高先生の本ではこの本が一番インパクトが強かっただけに、手持ちに無いのが悔しい)

ちょうど、子どもが生まれて数年のころに読んだので、私自身の子育ても並列に頭に蓄積されて非常に面白かった。ただし、この理屈を理解していても子育てが上手く行くという本ではないです。

人の行動を分析することを、実験を交えてやってゆくと、未知なことをひとつずつ崩しながら非常に面白く進むのだという、刺激の強かった本です。
(でも、私はもうこの分野のことを専門的に勉強するには遅すぎたかな)

| 2009-05-16 15:57 | 読書系セレクション |


ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊 正高信男著

ケータイを持ったサル「人間らしさ」の崩壊 中公新書 正高信男著

現代のあたり前の風景。[下※]
ケータイでメールを打つ姿、靴のかかとを踏み潰した高校生、電車の中での化粧…。
正高氏は「家の中主義」という。

正高先生の研究って、文科系方面のことと先入観を持っていたが、「0歳児がことばを獲得するとき―行動学からのアプローチ 中公新書」を読んだときに、その実証の手法が科学的で、計画や要領も数学屋のすることに違いないと思った。

書物の中では、高校生などには少し馴染みの薄い実験などがあるかもしれないが、ひとつずつしっかり理解して読み進もう。>高校生のみなさん


思えば心当たりはあります。電車の中での化粧もそうですし、地べたに座る行為もそうだ。どうしてケータイを持つと、このように行動が変化し、仲間との間に信頼関係が築けず、自分の世界だけにいられるのでしょうかね。

モヤモヤと私は心のなかで考え続けていたの。

>「ITは、コミュニケーションに加わる者の要件である空間的近接性と
>時間的永続性を決定的につきくずしてしまった。
>人々は「どこからでも」「いつでも」という利便性に魅惑される。」

だから、勝手気ままに生きてゆけるわけです。

>「空間上の近接性と時間上の持続性を欠いたコミュニケーション」

は、彼ら彼女らをどんどん臆病にし、いわゆる「家の中」に閉じ込めてしまい、お互いの信頼も薄れる。

緻密な実験による実証が唸らせる。

| 2004-11-25 09:08 | 読書系セレクション |


続・ケータイを持ったサル、の話

1.メル友を300人以上持つグループ
2.ケータイを持たないグループ
投資ゲームをします。
5000円程度の金額で、実験だと思わないで実際に自分が今直面して取引をしていると思い答えを出すように、として実験をしていました。

押しなべていえば
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まさに、情報理論の講義で習う「囚人のジレンマ」のようなゲームです。
2人の囚人がいて、それぞれの独房に入れられて5年の刑に。
そしてそこで取引を持ちかけられます。

相棒の罪を証言したら、オマエは許す。相棒は、10年にする。
ただし、相棒もオマエの罪を証言することがあるぞ。そのときは2人とも7年だ。

相棒を裏切って5年で出てこようとしますけど、よく考えると相棒も裏切るので7年になる。
結局、相棒を暴きあうことなく、5年の刑を受ける所に落着くだろうというお話です。
一方だけが戦略を変えれば、囚人の利得率は減少する。
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第4章で記述してますので、立ち読みの参考に。
実験ゲームでは、いわゆる、上で書いた囚人たちが落着くような傾向を示さず、ケータイを持ちメル友のあるグループには、投資をする勇気がない傾向が顕著に出ています。正高氏の本は、こういう点でも、面白く読めて背筋がゾクゾクする結果で、たまには小説から逃げてくるのもいいかな、と思わせますよ。
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ゲームの理論は、情報工学科に入ったら宿命です。確率理論と代数学は当然、必須。記号の嵐を浴びると体が痺れて快感となります(嘘)。
囚人のジレンマ:わたしも25年の間に虫喰ってしまった教科書を探りながらですので、詳しいことは尋ねないでください
| 2004-12-01 21:29 | 読書系セレクション |

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