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2010年9月17日 (金曜日)

信頼というもの を考える

信頼というもの
2010年09月13日

▼信頼とはを考えはじめる
信頼とは何だろうということを考える。そのきっかけは、不調が続くバイクの話を読んでいた人の「もっと信頼できる店に頼ってみては」というアドバイスの言葉であり、あるいはさらに大きく私を揺り動かしたのは三十年来の友人の身内に起こっている不測の出来事に拠るものだった。信頼という簡単な言葉であっても、ふとしたきっかけで考え続け、深みを探れば果てしなくそこに潜んだ哲理が浮かび上がる。

▼友人に身内の危篤から
友人の身内は、危篤が続く状況に追いやられている。意識が戻ることも無く生き返ることもできないかもしれない。しかも、本来ならば近くに住んで居るはずなのに、仕事の事情で飛行機を使っても8時間以上掛かるところにいて応答のあるうちに会えなかったという。年齢的にもまだまだ20年は早いと思える。様々な面で運に背かれた形になる。信頼して、順調な軌道の上を走っていると思っていたのだ。ここにも信頼という言葉がある。そして、信頼とは人物を信じる状況を指すだけでなく、あらゆる状態を見守っている自分の心の形を表すこともあるのだ。

▼信じるとは何か
何をどういう形で信じればいいのか。この廃れきった世の中で信じるものなど無くても銭金があれば生きて行けるとでも言うのか。信じられるものは神のみなのか。いや、神など信じられないのか。

私たちは信じるということを数限りない対象において様々な形で捉えている。それは、物理的にも心理的にも、また行動科学や精神科学が及ぶような分野においても、あてはめて考えている。与えられた既得権のように厚かましく手中に持つこともあれば、感謝に満ちた信用もある。善し悪しなどは無く、ひとつの状態を表現するものとも考えられる。

それを物理現象と考えるなら、エネルギーは質量と速度が生み出すのだから、信頼、あるいは信頼関係というのは、そのものの思いの深さと情熱度合いということになってくるのだろうか。しかし、そこには、これまで私たちが生きてきたこと、生かされてきたことへの畏敬が含まれていない。

▼さらに考える
まっすぐ跳んでゆくボールは突然曲がったりはしない。路線バスも定めれていない交差点で曲がったりはしない。そうなると、どうやら、曲がらないと信じることは実は信頼とは呼べず、予期せぬときに何かの時点で曲がるかもしれないという事実を見詰め合うこと、またはそういう危機を共有すること、向き合うことが信頼なのではないかとさえ思えてくる。だからといって「危機管理」などという安直な言葉で片付けられると腹が立つ。もっと心の奥の襞の中まで沁みこんだ感情的なものが「信頼」なのだ。

▼信頼なんて存在しないのか
神は幸せというものも齎してくれるが、罰という裁きも可能だ。いまや、信頼という言葉自体が風に晒された死体のように、無表情に残されている。

信じることは信じられることだ。そこには何の合理性も実益もないし、科学も哲学も無い。
信頼という言葉が深いところに秘めている重要な意味を見失った現代人たち。
そういう人たちが溢れかえった空間(または時間空間)を私は彷徨っているのだ。

(日が変わって)

▼信頼というもの──その2
信頼というもの。・・・・というわけの分からない私の呟きにたくさんのコメントを戴き感謝します。答えの無い問いかけに答えるのは難しく、そこんところを上手にかわしてひと言を残してゆくというのは、人生を上手に生きることにも通じると思います。みなさんのもうひとつの姿を見るような思いです。

▼続・考える
さて、きのうのお話の続きを今朝から書いておりました。信頼という重々しい言葉を投げかけておきながら答えも出さずに、というか答えも出せずに放り出した私の心理までを理解してくれる人など、たぶん誰も居ないだろうが、私は「信じる」ということと「頼る」ということを、発生学的に考察したかったのだ。

◎「信」と「頼」に分けるてはどうか。もしかしたら二つに分けて考えれば見えてくるものがあるかもしれない。複合の言葉なのだから、ひとつずつ紐解けばいい。

◎「信じる」といことも「頼る」ということも、どちらも親の言いつけでできるようなことではない。つまり、その人自身の心の奥底に存在する本心のような部分が無意識に決定するものだということだ。

◎信頼という行為の結果が必ずしも正解であったり、報われる結果を導くというようなハッピーエンドなストーリーでもないというのも現実だ。

◎信じることはある意味では信仰のような側面を持ち、人を信じることは己の誠に通じるともいえる。「頼る」「頼られる」というような相対する言葉にもそれらが当てはまる。

◎さらに頼られることの奥深くには、その人物やその出来事の重みが生きてくる。人に重みがあれば、そこには尊敬の念が返ってくるし、行いであれば実行力とバックアップが対になって勢いを生む。

◎仁義礼智忠信孝梯。この言葉の中にも「信」が存在する。南総里見八犬伝でも出てくる語句だが、やはり人はそこに戻ってくるのだろうか。

▼信じる根拠の変化
人間関係が希薄になっているのだろう。だから、心から信用できるものや人が少なくなってきている。物事をお金や数字や統計的な割合で表現する傾向を見てもわかるように、スーパーの買い物ひとつを取り上げても、信用イコール数字なのかもしれない。

◎みんなが買っている、誰かが良いと言う、そういう情報がネットにある、カタログに信用できる数字が記載されている、性能表の内容が良い。

◎癌の治療、脳外科的疾患の治療についても、医者の評判、噂、テレビの情報、新薬の情報、最新医療のTVなどでの紹介、病院の事故率・失敗率。

▼信頼できるものの激減
数字の上では身の回りには私たちに役立つものが増えているのだが、どうも温かみのようなものが減ってしまったことで、心から信頼できるもがなくなってきて、信頼という言葉のもつ意味が軽々しくなってきたのではないかということかな。

▼これまでにこの日記で書き綴ってきていることは、私たちは「豊かさと満足度」という、現代人の骨の髄まで溶かしてしまった麻薬より恐ろしいものがあり、それが様々な面で人々の暮らしを激変させたこと。そして生活レベルや満足度は満たすのだけど、その変化により人と人との間に存在していた温かみのある信頼関係は、お金や数字や情報では語れないところで破壊されてしまっていること、を認識に無くてはならない。情報を活用していいものを手中に出来ても、なんだか嬉しくない気持ちが残ったりすることがあるのはそのせいなのだ。

▼家族を癌で亡くすかもしれない。脳卒中で死なせてしまうかもしれない。そこに、当人とあとに残るものとの信頼があれば、また治療をする医者との信頼関係が確実に出来ていれば、もしかしたら短い運命であるのかもしれないけれど、自分でもひとつの区切りをつけることが出来るのかもしれない。

現実にはそんなに甘いものでもないと叱られるかもしれないが、たくさんの人を見送ってきた。そういう年齢に達している。不治の病、手遅れの病気、突然の変化、事故、自殺、老衰。治療の限界を感じて自分の父も死なかしてしまったのだが、今更、そのことを悔いて仕方がない。

そういう世相のもとに生まれてきたのだと思う。

▼この日記の初版では
結局、何が言いたいのかワカラン。>自分
と書いた。

人の純真さが薄れてきていることを嘆いたのかもしれない。
自分のことしか考えない社会に怒りを持っているのかもしれない。
悪が悪として裁かれないことや戒められないことに怒っているのかもしれない。
世の中が、間違った方向に多数決で進んでゆくことに怒りを持っているのだろうか。

まあ、いいや。もうすぐ死ぬ時期が来るし。それが諦めの言葉なのだが。

(まんざらハズレでもない悩みかな)

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