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2010年9月13日 (月曜日)

信頼というもの

信頼とは何だろうということを考える。そのきっかけは、不調が続くバイクの話を読んでいた人の「もっと信頼できる店に頼ってみては」というアドバイスの言葉であり、あるいはさらに大きく私を揺り動かしたのは三十年来の友人の身内に起こっている不測の出来事に拠るものだった。

信頼という簡単な言葉であっても、ふとしたきっかけで考え続け、深みを探れば果てしなくそこに潜んだ哲理が浮かび上がる。

友人の身内は、危篤が続く状況に追いやられている。意識が戻ることも無く生き返ることもできないかもしれない。しかも、本来ならば近くに住んで居るはずなのに、仕事の事情で飛行機を使っても8時間以上掛かるところにいて応答のあるうちに会えなかったという。年齢的にもまだまだ20年は早いと思える。様々な面で運に背かれた形になる。信頼して、順調な軌道の上を走っていると思っていたのだ。ここにも信頼という言葉がある。そして、信頼とは人物を信じる状況を指すだけでなく、あらゆる状態を見守っている自分の心の形を表すこともあるのだ。

何をどういう形で信じればいいのか。この廃れきった世の中で信じるものなど無くても銭金があれば生きて行けるとでも言うのか。信じられるものは神のみなのか。いや、神など信じられないのか。

*

私たちは信じるということを数限りない対象において様々な形で捉えている。それは、物理的にも心理的にも、また行動科学や精神科学が及ぶような分野においても、あてはめて考えている。

与えられた既得権のように厚かましく手中に持つこともあれば、感謝に満ちた信用もある。善し悪しなどは無く、ひとつの状態を表現するものとも考えられる。

それを物理現象と考えるなら、エネルギーは質量と速度が生み出すのだから、信頼、あるいは信頼関係というのは、そのものの思いの深さと情熱度合いということになってくるのだろうか。

しかし、そこには、これまで私たちが生きてきたこと、生かされてきたことへの畏敬が含まれていない。


まっすぐ跳んでゆくボールは突然曲がったりはしない。路線バスも定めれていない交差点で曲がったりはしない。

そうなると、どうやら、曲がらないと信じることは実は信頼とは呼べず、予期せぬときに何かの時点で曲がるかもしれないという事実を見詰め合うこと、またはそういう危機を共有すること、向き合うことが信頼なのではないかとさえ思えてくる。

かといって、危機管理などという安直な言葉で片付けられると腹が立つ。もっと心の奥の襞の中まで沁みこんだ感情的なものが「信頼」なのだ。

神は幸せというものも齎してくれるが、罰という裁きも可能だ。

いまや、信頼という言葉自体が風に晒された死体のように、無表情に残されている。

信じることは信じられることだ。そこには何の合理性も実益もないし、科学も哲学も無い。
信頼という言葉が深いところに秘めている重要な意味を見失った現代人たち。
そういう人たちが溢れかえった空間(または時間空間)を私は彷徨っているのだ。

---
(これも遺書のなかに綴じ込もう)

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