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2010年8月 7日 (土曜日)

いつも空を見ていた 6


長い夜

ひろちゃんの日記をあのままストンと終わってしまうことにひとつの美学を感じながらも、実はまだまだ語り尽くせなかったことが幾つかある。あれだけ心も身体もとろけるように魅せられながら、悪魔のような女だったひろちゃんが心の中に居るのだ。

11月の、もはや、秋とは呼べないほどの寒さだった朝早くに、琵琶湖の東岸から伊吹山が赤く染まるのを仰いでいた私たちは、お互い口には出さないものの、それが最後なのだという決心をしていたのだろう。

夏の終わりに一緒に旅した海で私が撮影してやった飛び切りのできばえで、可愛く撮れたあの子の写真を、背中を摺り寄せるようにして腕を組むふりをして彼女のポケットに仕舞った。大勢の人が集まる中での秘密の「さようなら」だった。

----

あの子は、いつも、人気者だった。可愛くて、猫のように人懐っこく話をしてくれたので、友だちもたくさんできた。でも、ほんとうの友だちは、もしかしたら多くなかったのかもしれない。

ときどき、寂しそうな目で遠くを見つめるあの子の横顔が、私は好きだった。もっとそばにおいでよ、といって腕を抱えて私を引き付けた。それが無性に可愛かったけど、それ以上に、その裏に秘めている彼女の悲しい生い立ちの物語を聞いて放ってはおけない衝動を私は持っていたのだった。

あの子が身の上話をし始めた夜のことを、今でも鮮明に思い出す。悪女であろうと、黒い天使であろうと、私には不問だった。この子を連れて遠くに行こうと、言葉ではなく私の身体が反応したのだった。しかし、あの子はあのとき、どこまで私を犯してしまうかを考えてはいなかったのだ。

「ひろちゃんはほんとうは可哀相な子なんだよ、お母さんも何処かに逃げていってしまって、父さんが育ててくれたけど、でも父さんはひどい人で…内田春菊のファザーファッカーみたいだったの。18歳で家を飛び出たので、今は頼る人も居ない可哀相な子なんだよ」

そんな話を始めたところから長い夜は始まったのだった。

(続く)

| 2007-11-13 21:58 | 鳥のひろちゃん |


長い夜 その2

長い夜だった。真っ暗な夜空を見上げながら、ひろちゃんは話を続けた。

父のひどい暴力はとどまることはなく、お腹を蹴られた晩に母は泣いていた。そしてあくる朝、母は家に居なかったと言う。

その事件があった後の苦労の日々。クラスメートや担任から受けるイジメ。高校は卒業するけれど、進学の挫折。多摩川の堤防沿いの壊れそうなプレハブ・アパート暮らしやそこからミニバイクで専門学校に通った辛い日々。

自分の歴史からあんな過去は抹殺したいと彼女は話した。


無数の星が暗闇に散らばっていた。真夏の高原は清清しい涼しさで、草原に寝転がって二人で星を眺めた。星が宇宙にこれほどたくさんあるとは思ってもみなかったし、そのことを共通して感じていたけれど、二人は言葉に出さなかった。

この星の中から流れ星を見つけてお祈りをすれば、二人が結ばれることだってあるのだ。そんな夢のような話も、二人のどちらもが言い出すことはなかった。


父のことを身勝手で浮気性、妹と自分を分け隔てて扱うような尊敬できない人だったと言い、母はそれに愛想をつかせて出ていった可哀相人だったのだ、と彼女は話した。

このように、哀れむべき母と憎むべき父の像を、くっきりと浮かび上がらせたのもこの夜のことだった。

長い夜は二人の間に数々のドラマを残したのだ。しかし、その夜に交わした会話の中で彼女が描き上げた父と母の像が実態とは大きくかけ離れたものだった、という事実が後に明白になってくる。

| 2007-12-18 11:08 | 鳥のひろちゃん |


長い夜 その3

ないしょの話だよといって
キミの耳に近づけた唇が話し掛ける前に
ボクの影とキミの影が触れ合って
ほほを赤く染めている


これはボクがまだ17歳くらいのころに、授業の合い間に大学ノートに書いた落書きの一節だった。

----

いつか昔に、この落書きのことをキミに話したかも知れない。

ボクたちは、
髪と髪が触れ合うほどまで傍に近づく運命になんかなかったのに、
シナリオの紙切れが一枚、風に吹かれてどこかに飛んでいったからなのだろうか、
長い夜に、寄り添いながら話をすることになったんだ。

不思議な夜だった。

悪魔が罠を仕組んだ夜。
黒い天使のようなキミが、ボクを魔法にかけてしまう。

キミの背中は、柔らかくて、丸くて、温かかった。

| 2007-12-23 23:10 | 鳥のひろちゃん |


長い夜 その4

静かな夜だった。触れ合うことより、満ちてくる哀しみを受け止めることに必死だった。

ひろちゃんがタンポポの話をしたのは、この夜が最初だった。彼女のしゃべり口調に哀しさはなかったが、引き付けようとする気持ちはあったのかもしれない。

---

「タンポポには日向で生まれた奴と日陰で生まれた奴がいるんだよ。日向のタンポポはいつもいっぱいのお日様の光を受けて幸せに育つんだけど、日陰のタンポポは一生日が当たらないんだ。でもね。日陰のタンポポは日向のことを一生知らないんだから、それはそれでいいのよ。日陰でも幸せに暮らしているんだ。」


あなたに巡り会えたことが一番の幸せです、とは口には出さなかったが、強く強く私の腕にしがみついて、「このまま行こうよね、ねっ、ねっ」と小さな声で囁くのだった。


私たちが長い旅を続ける間に、彼女はこの話を何度もして、「私はもういいの、それで幸せだから…」と言う。これは彼女の一種の人生哲学のようなものなんだなと、そのとき、私は考えた。

長い夜は、罪を残しながらも、更けていったのでした。

| 2008-01-08 18:51 | 鳥のひろちゃん |


積もる

いつの日にか、キミにもう一度逢える日が来ると信じている。
その願いが叶ったときに、ボクはキミに、山のように積もった伝言を話そうとするのだろうか。


何だか、今、そのときを想像すると、そこに封じられた喜びや悲しみを、そして憎しみも、そう、それから誤解も、みんな水に流してしまいそうな気がするのです。

ひょんなことから二人の歯車が噛み合わなくなっただけで、あのときまでちゃんと動いていたのだから、急に立ち止まった交差点でキミは引き返し、ボクは橋を渡ったすぐ先の曲がり角の陰でキミを待ったのさ。


十年の歳月が過ぎても、ボクの机のノートにはキミへの伝言が積み重なってゆく。

きっと、十年経っても、同じところで同じようにこの星空を見上げているような気がするの。
でも、二人で語ったドラマのような未来も、交わした約束も、みんなウソだったの。

もしも、そんなふうに恋を終わらせて、積み上げた伝言には目も暮れず、ポイと地面に投げ出したとしても、ボクはキミを許すだろう。

積もる想いを綴ったノートを開けて、色褪せたインクの文字をなぞってみるよ。
情熱が花びらのように揺れて落ちてゆくように、静かにドラマが終わるのだろうね。

| 2008-01-16 18:44 | 鳥のひろちゃん |


悪女

長い夜が明けて…。


時間はコツコツと正確に刻まれ、人の気持ちの濃淡にかかわらず現在は過去になってゆく。
コツコツという音は都会の駅の階段を登る女のハイヒールの足音のようであり、時を刻む柱時計の音にも似ている。


二十歳の頃から私はハイヒールが嫌いだった。だから、ハイヒールを履いた女も好きになってはならないというようなルールを自分のなかに持ち続けていた。

コツコツと時間を過去へと追いやってゆく、あの華麗な靴で階段を駆け上がるときに、その人の美で包まれた人生の裏を、ちらりと見えてしまった靴底から、まるで人生の裏まで覗いてしまったような不快感に襲われて、それが理由で好きになれなかったのだろう。


悪女という言葉がある。男にはそんな言葉はないなと思いながら、ひろちゃんの方を見ると、可愛い笑窪をピクピクさせて私を横目で見つめていた。

「見ているだけでいいの。でも、やがて、見ているだけじゃ我慢できなくなる。あなたは奥さんを棄ててよ、私は東京を棄ててもいい。二人で行くのよ、遠くへ!」

この子にハイヒールなんて洒落た靴は似合わない。でも、飛び切りの悪女だな…と、私は、このころから次第にそう感じ始めていた。

| 2008-01-21 21:53 | 鳥のひろちゃん |


別れの断章

ひろちゃんは訴えるように喋ることもあれば、ひとりごとのように穏やかに語ることもあった。

暴力をふるう父のこと、逃れられず泣いていた母が、あくる日に家を出ていってしまったことなどを話してくれたことがあった。小学生のときだったという。

高校時代には生活資金に困ってバイトもした。疲れ果てて体調を崩し机に寄り掛かるように眠っているひろちゃんを見た担任が、やばい夜のバイトをして子どもでも堕したんじゃないか、って暴言を吐いた。苛められやすいタイプだったのかもしれないね、とひろちゃんは諦めたように呟く。3年のときに先輩に巧く騙されてヤラれちゃったし。

高校を卒業してからは多摩川沿いの土手の傍にあるボロアパートに住んで、父の性的暴力から逃れていた時期もあった。専門学校に通い始めるものの学費を稼ぐのが大変だったのだが、そんな折に父がアパートを見つけて、僅かな自分の稼ぎにたかろうとするのが悔しかった。

怒りと哀しみが交錯する日々を送りながらここまで生きてきた。

そんな話をひとしきり済ませると、あなたに逢えてホッとするよ、と言って優しく握っていた私の手を再び強く握り直し、静かに息をしているのが私にはわかった。


夜は静かに過ぎてゆく。その静けさが、暗闇からの叫び声よりも遥かに怖く感じられて、眠ろうと思えば思うほどこの恐怖が私を眠らせてくれなかった。

眠れない夜を一度経験してしまった人は、そんな夜を再び迎えるのが怖くなる。時間に押しつぶされて、その場に置き去られていってしまうような幻想的シーンが渦巻きのように頭の中を駆け巡るのだった。

しかしながら、時間は確実に過ぎてゆく。やがて空が白み始めて朝が訪れるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら少しうつうつとしたのかもしれない。体じゅうの力が抜けて、天から突き落とされるような夢を見ているときに、騒がしい野鳥の声が耳に飛び込んできて私は目が覚めた。

----

私たちの旅は、別れの旅だ。

朝に目覚めてひとときを過ごしても、日が暮れるときにはお別れしなくてはならない。きのうの朝に旧い宿場町の一角で待ち合わせて、緩やかな時間を二人で感じながら駆けてきた。峠道で佇みながら遠くの雪を被った山々を眺めたり、せせらぎに耳を澄ませて時を過ごしてきた。

バックミラーにひろちゃんの笑顔が写っている。それを確認しながら街道を走ってゆく。言葉の要らない時間が過ぎてゆく。

----

別れの瞬間は、いつも雨降りだった。

ここでお別れね。あなたは峠の向こうへ、私はこちらへ。しばらく会えないけど、また必ず会えるよね。次に会うときには、ずっとずっと遠くへと旅に出ようよね。

そう彼女が思っていたかどうかはわからないけれど、峠の駐車場でお互いが反対方向を向きながら、どしゃ降りの雨の中で見つめ合って別れを惜しんだ。

バックミラーに写った後ろ姿が雨に霞んでゆく。こんなに切ない旅の終わりはかつて一度もなかった。

| 2008-03-04 12:44 | 鳥のひろちゃん |


別れの断章 番外

北風が止んだ或る日、暖かい陽射しが庭にもふりそそいだ。
ふと屈みこんだそこに水仙が一輪ひっそりと咲いているのを見つけて、春が来るのだ、今年もまた春が来るのだ、と心の中で何度も私は呟いた。


さよならを言うこともなく
二人は別れた
こぶしの花の咲く丘で
ボクたちは出会ったことを
忘れないで欲しい

雪解けの峠道には小さな緑が芽吹いていた。
--- 「山が笑う」っていうの。素敵じゃない。

あのときのあの子の笑顔を忘れたくない。

別れの断章。そう、数々の旅を共にしながら、その旅の小さなピリオドには小さな分かれがあった。

新緑の高原を一緒に駆けて、土砂降りの雨の峠で、向こうとこっちに分かれて行った日もあった。
北国へと続く寂れた国道脇の寂れた食堂でラーメンを啜り、そのあと大喧嘩をしたこともあった。
幾つものドラマを作って、そして、伊吹おろしが吹く冷たく寒い湖畔で、朝日を見ながら二人はほんとうに別れてしまった。

花を愛する素敵な人と、どこか遠くで結ばれて幸せに暮らしているだろう。
約束されたように春が来て、こぶしが蕾を結んでも、タンポポが日蔭に咲いているのを見つけても、もう辛い過去など思い出さないだろう。


あの場所へ、私はもう帰らない。
雨が降り嵐が吹き荒れ、冬には雪が積もり、季節が巡って来たその場所に、たとえ輝かしい軌跡が残されていたとしても、私はそこへは帰らない。


----

好きだった人
ボクの前で涙など見せない
でもそれは負けないための強がりだった
寂しい森を走りぬけ
峠の麓にボクが待つ公園があるのを見つけたとき
ひっそり泣いて、涙を拭いた
寂しかったの、あなたの姿が見えるまでは不安だったわ
涙は白い雲の流れと一緒に消えた

| 2008-03-21 21:34 | 鳥のひろちゃん |


終楽章(8) ─ さようなら ─

あんなふうに電話を切って別れたあとで、少しずつひろちゃんのことがわかってきたな、と思うことがある。

「お母さんは可哀相だったんだよ」と何度も繰り返したのは、あの子の精一杯のツッパリだったのではなかったのか。

「お父さんはお母さんおなかを蹴ってたんだ」と話していたのが作り話だったわけではないだろうけど、本当はお父さんが可哀相だったのではないか。

つまり、お母さんにオトコができて、二人の娘を置いたまま、朝になったら姿を消していたのではないのかい。

今更、そのことをひろちゃんに尋ねることなどできないが、「エロじじい」と私に向かって叫んでいるあの子の姿を電話の向こうに想像しながら、「構わないよ、奥さん棄てて逃げてくればいいんだよ。誰だってそうしてるよ。私が好きな人を奪って逃げていくのは悪いことじゃないよ」と感情も高ぶらせることなく話していたあの子の可愛い悪魔のような顔が思い浮かぶ。

ひろちゃんは、母親譲りの気性で、母が男と逃げたのと同じように、私と出会った後に私を連れて逃げようとしたのだった。その行動力の素早さに私が付いて行けなくて、尻込みしてしまったというのが顛末だった。

そう。
私はひろちゃんに恐怖感を感じたことがあった。この子は一途に私を捉まえて一目散にダッシュをするだろう。私には私の手続きがあるのだが、それをも許さない勢いだった。このままでは、空中分解になってしまう。


しかし、
そんな状況においても、彼女が可愛くてしかたがなかった。棄ててしまうことなど出来なかった。

物理学における力学でも説明できない不合理な力が二人の関係に働けば、もうバラバラになるしかない。エロかった関係も甘かった日々も、すべてが憎むべき過去になってしまう。

---

或る冬の日に、ひろちゃんはひとりの男性と出会った。それは、運命を大きく変えてくれる大切な人だった。

いつものようにモーニング・メールを受信したひろちゃんは、「いったいどういうつもりなのよ。私たちはもうオシマイよ」、と冷たくヒステリックなメールを送り返した。

その後、お互いの醜い関係を罵り合う場面もあったものの、物語はそこで終わりを迎えることとなった。

村下孝蔵が「初恋」という歌の中で
---
五月雨は緑色
悲しくさせたよ 一人の午後は
恋をして淋しくて
届かぬ想いを暖めていた

好きだよと言えずに初恋は
ふりこ細工の心
放課後の校庭を走る君がいた
遠くで僕はいつでも君を探してた
浅い夢だから胸をはなれない
---
と、歌った。


ひろちゃんを、
ほんとうは、遠くへ連れ去りたかった。
でも、魔性のような怖さがあった。
儚く浅い夢は、そこで終わったのだった。

| 2008-04-12 23:06 | 鳥のひろちゃん |


さよならなんべんも云つてわかれる(尾崎放哉)

放哉はそう詠んだ。
なんべんも、か。

さようならという言葉を言い合うこともなく私たちは別れた。
あのとき、私の気持ちのなかには、またいつかどこかできっと会えるという予感のようなものがあったはずだ。
けれども、あの人にはそんな気は毛頭も無かった。私を憎んでいただろう。

いっしょに旅をしたときに撮ってやった写真を大事に持っていたので、それをあの子に返した。
「ちょっとそばにおいで」というように手招きをして、おでことおでこがゴッツンコするほど近寄って、息が掛かるほどになって、ポケットから写真を出してそっと手に握らせた。

たくさんの友だちに見られないように、そっと、そっと、渡した。
あれが私たちの本当の別れの儀式だった。

   *

十年の歳月が過ぎたんだ。

空白の時間に突入して、あの人のことを思うと旅を継続できなくなり、ペンが持てなくなった。
「十年も過ぎれば…」と誰かが言ったことが頭の片隅から離れないまま、ときが過ぎてきた。

或る人の日記で「十年」という言葉を見つけた夜に私は…「十年が過ぎても何も変わらないままなところもある」と振り返った。


遥かな未来を見つめていたつもりだった。
あなたを大切な人だと思っていた。
でも、ぜんぜん、上手に伝えられなかった私がおバカだった。

それでも、何事にも無関係に、時は流れてゆく。

(続くの?)

| 2008-09-24 00:06 | 鳥のひろちゃん |


番外編

番外篇

そういえば、ひろちゃんの寝顔をゆっくりと眺めたことなど、一度も無かった。
走り疲れてテントに潜り込みマットにごろりと横になって、猫のように身体じゅうの力を抜いて寝てしまうあの子は必ず私に背中を向けていた。

寝顔を見せようとはしなかった。それは恥ずかしいからという子どものような気持ちだけではなく、野生の動物が外敵から身を守るときの緊張した眠りにも似ていたかもしれない。自分の人生を垣間見られるのを拒んだのかもしれない。

テントの外で風がざわついているような小さな変化にも、目を醒まして寝言を呟くようにしてから眠ってゆくことがあった。時には、あらゆる緊張の糸が切れたように寝姿を乱してしまうこともあった。しかし、どんなときでも無意識に寝返りを打ち、夢の中で魘されまいと頑張りながら丸まっていた。

そんな寝姿を強引には見つめることなどできない。闇の中で目を閉じて、私は、ぼんやりと寝息を聞いていることが多かった。

---

お母さんは父さんに蹴られた次の朝に私たちを棄てて家を出て行っていなくなったの。残された妹は父さんに大事されたけど、私は嫌われっ子だったわ。ファザーファッカーっていう内田春菊の小説みたいだったんだよ。バイトで疲れて、学校で居眠ってしまったら、先生が、オマエなぁ夜の仕事が忙しいんだろう、ってみんなの前で大声で言うの。あるとき、疲れのせいで気持ち悪くなってオエオエしてたら、妊娠してんじゃねぇか、とも言ったんだよ。担任がだよ。ひでえ先生だったよ。

父さんは私のバイトの金を盗むしさ。そんな小説みたいな暮らしには飽き飽きして家を出たの。多摩川の土手の傍にあるオンボロアパートで暮らし始めた。ミニバイクで専門学校に通ったわ。父さんは追ってこなかったけど、ひとり暮らしでお金には困った。いかがわしいバイトの一歩手前くらいまではやったんだよ。大丈夫、そこまでだから。

---


深みに嵌まるという言葉があるように、この子の話を聞きながら私はこの子を私の元から遠くへ離してはいけないのかもしれないと直感した。ドロドロとした沼に沈んでゆくように私の想像は彼女の人生の過去の部分まで及んだ。一刻も早くこの子と一緒に沼から這い上がって明るい光の当たる森を散歩できるところまで、辿り着かねばならない。しかし、手を差し伸べることが未来を捻じ曲げることかもしれない…。すぐにそのことに気が付いたのに、深い森を彷徨うことから私は抜け出れなかったのだった。

あの子は人生に疲れていたのだろう。誰からも大事されずに、友だちだって偽りの仲間ばかりで、しかも多くの人に裏切られ「学校の帰りに先輩に騙されてやられちゃったんだよ。かわいそうっだよね、ひろちゃんって…」と泣きそうな顔をしながら話した夜もあった。泥のように眠っていた背中が小さく見えた。特別に可愛いわけでもないし、綺麗にしているわけでもない。女らしさもない。色白でそばかすがいっぱいあって、笑うと笑窪ができる子だった。

機嫌が良くなると、「日向のタンポポと日蔭のタンポポ」の話をした。自分は一生、陽光の当たらない日蔭のタンポポであり、日向のタンポポのことはわからない。でも、幸せだと話した。

あれは偽善心だったのだろうか。

----

別れのときにはいつも雨が降っていた。旅を終えてひとりの部屋へと戻ってゆかねばならない。そんなときに、いつも彼女の言葉が甦った。

「父と妹とは離れて暮らしているから、もう煩うものは何もないけど、騙した男たちが憎くて仕方ないこともあるよ。でも、そんなことはもうどうでもいいの。許すとか許さないとか、そういう問題じゃないの。私は生きなきゃいけないんだよ」
「素敵な男がいたら、奪ってしまうことは構わない。私の周りにはそんな汚く見えても必死で生きている女ばかりだよ」


淫らで鬼のような形相で父と口論をしてお腹を殴られ、家族を棄てて出ていった母。その後に残された妹には優しく接して、自分だけを苛めた父。ひろちゃんにとって世間の本態は、温かい人々の集まりなんかではなく、憎しみ合い、隙があれば陥れや突落しもありで、お互いを騙して生き抜くところであったのかもしれない。そこで、天涯孤独で可哀相な自分をどうしても演じる必要がひろちゃんにはあったのではないだろうか。

猫のように擦り寄って甘えてみたり、時には底抜けなひょうきんさを演じて見せたり、誰とでもすぐに仲良くなれる人懐っこさも持ち合わせていた。反面、小学時代にあのような不幸があったこともあってか、野生の生き物のような目を持っていた。抜け目の無いすばしこさがあった。つまり、その裏には想像以上に狡くて執念深かった。しかしながら、それをさて置いても、私は彼女のことを黒い天使のようだったと思っている。不思議な魔力だった。

----

実像。それを、あとになって少し知ることがあった。

つまり、話に聞いていた一連の内容は全く逆であり、悪に満ちた父の実像は、ほんとうは優しく母性に満ちたものだった。そして、暴力的な父に追われるように家を出た気の毒な母の実像は、身勝手三昧の挙げ句に子どもを棄てて男のもとへと逃げて行った女の姿だったのだ。

苦い生い立ちのなかで、生きるために人を欺き、幸せを手に入れるためには手段を選ばない、そんな女であった。

でも、今はもう、許してもいいと思っている。

| 2008-10-25 14:05 | 鳥のひろちゃん |


ムクゲ

---私、ムクゲが好きなんだよ

と、いつか彼女が言った。

あのときの言葉だけが、梅雨明けの今ごろになると甦る。

ムクゲは、
梅雨の合間に、
天に向かって伸びてゆく
素朴で可憐な花だ。


咲いても、一夜で花びらを落としてしまうという。

そんな悲しい花だと知ったのは、
そのことを彼女と語りあうことのできなくなってからのことだ。

あの人、この花を見て、
いまごろ、何をしてるやら。

| 2009-08-01 10:07 | 鳥のひろちゃん |


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