2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト
サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
無料ブログはココログ

« 司馬遼太郎 坂の上の雲 (第1巻から第8巻) | トップページ | 読書部 解散! @mixi »

2009年7月 9日 (木曜日)

井戸水で冷麺を洗って考える

きのう実家で、冷麺を作った。

湯がいたあとに麺を洗う。ハンカチを洗濯するように丁寧にごしごしと洗うほど、麺の表面がサラサラになって美味しい。

井戸水が冷たい。ここは、井戸水なのだ。こんなに冷たいものだったか。忘れていたなあと思いながら、やはり現代の贅沢と豊かさについて考えてしまう。(宿命なのだ)


大昔は、都心であっても井戸水であったはずだ。それが何段階かの変化の後に水道水のみになるのだ。

井戸水と水道と併用時代には、井戸水は冷たくてイイねえと言いながら、無限大に贅沢に使えて枯れることのない水道水も使った。

時には水道水の臭さに文句を言い、井戸水の不衛生に不安になりながら、人々の暮らしから井戸水が消えてゆく。

井戸水がふんだんに使える地方や地域でも、行政の政策で水道水が常識化される。下水が普及するとなおさらである。

井戸水のころは良かったねという人が激減してゆく。

今は、井戸水を知らない人が大部分になってきた。

便利で衛生的で安くてまずまず美味しい。不満はないし、無理して井戸水の暮らしに戻る必要もないと思うのが当然だろう。


井戸水を復活させようと叫んでいるのではない。

人の暮らしが便利になったその過程を、しっかりと分析すると、豊かさ意識の麻薬的なモノが付きまとう。快適さや便利さを求めて経済的なゆとりを実現するために、些細なことだからと切り捨ててきたモノが幾つかあった。その判断に間違いはなかったと思う。

しかし、自然の恵みをここまでズタズタにして、科学技術の生んだ便利が最上のものだという錯覚にとらわれ、今までの自分たちがここまで来れたことへの恩恵を踏みにじるかのような考えが横行する世紀なってしまったことを、もう少し真剣に考えて反省してもいいのではないか。

たかが、井戸水ごときであるが、こういうものと共に暮らせるゆっくりとした、安らかな社会を、どうして取り戻そうとしないのだろう。豊かさや贅沢満足にはそんなに魅力がいっぱいなのだろうか。

井戸水を汲み上げる井戸がなくなっていった20世紀から21世紀のひとつの風景と同じように、必ず街の中からガソリンスタンドが姿を消す日が来る。原油の枯渇と同じ時期にそれは必ずやって来る。人々は井戸のことを忘れてしまったように、石油のことも忘れるのだろう。あとは、想像も出来ない話となってしまう。

« 司馬遼太郎 坂の上の雲 (第1巻から第8巻) | トップページ | 読書部 解散! @mixi »

【随想帖 I】」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/46088/45580033

この記事へのトラックバック一覧です: 井戸水で冷麺を洗って考える:

« 司馬遼太郎 坂の上の雲 (第1巻から第8巻) | トップページ | 読書部 解散! @mixi »