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2009年7月28日 (火曜日)

心を支える Ⅱ

不安定なものは、意思がしっかりしていても揺らぐ。しかし、考えてみれば、何ひとつ安定したものなど世の中にはないかもしれない。ジャイロのコマであっても自転があるから安定しているのだ。

やはり、不安定なものにはそれを支えるものが必要であることは否めない。もちろん、支えた状態を得ても、それは即、再び不安定ということも事実であるが、支えられている安定度数は指数関数的に上昇する。

心という目に見えないものを支えるものは、やはり目に見えない何かであるのだろうか。精神科学や心理科学を追い続ける人たちは、自己矛盾を引き起こしそうだ。

実は最初にこのタイトルの命題を掲げたときに幾つかのモデルを考えていた。ひとつは、「子ども」である。次に「夫婦」そして「趣味」「お金」などが思い浮べた。細論を考えるつもりはないので、「子ども」と「夫婦」を少し追いかけてみる。


今や子どもの就学を終えて社会に出てゆけば、やれやれというわけではない。結婚が控えている。だから結婚まで面倒を見るという親が多い。裏返せば子どもの晴れ姿を見たいという希望が親にはあり、子どもが親からなかなか巣立たなくなった。

25歳で結婚して子どもが生まれ、その後も2年毎に8人ほどできた時代は、最後の子どもが生まれるころには親は40歳を越えていた。したがって、その子が成人をするときに、自分は60歳を越える。その時代の平均寿命が60歳から70歳の間にあったとして、55歳で仕事の定年を迎えているころの話だから、親は、すでに人生の終盤を迎え着陸態勢に入っていたと考えても間違いではないだろう。

子どもは、成人するまで親に育ててもらえるとは思ってもいなかったし、期待もできなかった。ある意味で危機感を持ちながら成人になっていった。だから、このころの子どもは、義務教育を終えたあたりから自立をして、資産がある家柄の子どもであったならば堂々とその資産に甘えながらも、自立して社会で遊ぶなり学ぶなりをしていた。

親が子どもを手放さなくなったのはおそらく近代のことで、戦後復興の後にやってきた学歴主義と甘えの時代、そして経済発展を伴うサラリーマン激増の成金社会ができたころに同期する。

子どもに苦労をさせまいとして大事に育てた親は、子どもから、自立して物事を考える時期を与えるチャンスを奪い、生きてゆく力や判断力を欠乏させたまま、ノンポリで外面を着飾り、役立ちそうに見える情報で武装した腑抜けな人物で満足し、猫のように可愛がる。その反面で、家庭内での軋轢も爆発する事件が起こったりもする。

しかしながら、そんな子どもであっても自分の家から結婚等で出て行くと、心の支えを失って家に篭ってしまったり食欲をなくしたりする母親が存在するのは事実である。


一方で、夫婦にも変化が出てきている。

子どもの有る無しにかかわらず、人生の終点が見えてくると慌てだす人もある。自分の人生は何だったのかと振り返って、もう一度楽しくやりたいために、苦労を及ぼしあっていた夫婦を解消しようと言い出す人たちが目立ち始めたのだ。

その人たちにはそれぞれの正当な理屈があってそのことをあれこれ言うつもりはない。しかし、この現象は、音や光こそ放出しないものの、立派な社会的雑音であると思うことがある。

自分たちはまっとうな生き方をしており、自分の考えを正直に通すだけだというような考え方、全てをとまではいかないが金銭的に(民法上で)解決していけば、何も問題はないはずだという論理である。

私たちは他人に迷惑をかけなければ勝手気ままをやっていても構わないというものではない。人は生まれたときからたくさん人たちのおかげで暮らしてこれているのだし、人間という形で存続できていることまで及んで考えれば、人類の祖先たちの恩恵を受けている。恩恵は暮らしや文化だけではなく、自然や技術でも受けているのだから、自分だけがひとりで今の地球に居るなんていう考えは思い上がりも甚だしい。

だから、人生を振り返れば、そう易々と思い付きとか損得だけで一瞬の行動判断をしてしまっては罰当たりではないか。もしも、どうしても自分の幸せを得たいなら、生まれ変わってからにするべきではないかと、思う。


心の支えをなくしている人は、心が貧しくなっているのかもしれない。現代社会、物質が豊かにあふれ、精神的にも満足感が溢れているのだが、人々の心を支える柱がか細くなりつつある。この貧しさを解消するために、お金を使おうとか、力を出そうとか、見栄を張ろうとか、快感や快楽を求めようなどとは考えないほうがいいだろう。何度も書いているが、自分を見失ったことによる損失は、自分を破滅に追いやってしまいかねない。

そうこう考えると「心を支える」ではなく「心を支えあう」が正しかったのではないかと気づく。

「心を支える」という言葉を考えていろいろと悩み続けた人たちは、ここで見つけた「あう」という二文字を落としてきてしまっただけなのだ。

あう。
「見つめあう」という言葉もある。
美しいと思いませんか。

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