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2009年3月28日 (土曜日)

年度末最後の土日、あれこれ

もうすぐ新年度が始まるということで、職場では机の並び替えやキャビネットの移動、新しく着任してくる方々が挨拶などでお越しになっている姿もちらほら。

少しだけ、あわただしい。

一方、巷では、1000円で高速道路が走れるということでニュースになっています。
その影響で発生する渋滞の中に突撃取材に入って記事を書こうという企画もありまして、新年度からの私らの広報誌〔「○○だより」といいますが〕にも少しスペースが戴けるし、WEBのほうのブログ感覚のコンテンツもぼちぼちと加速してきてますので、ある意味、楽しみでーす。

どうぞ、4月になってもご贔屓に。


と書きながらも、ちょっとぶり返した寒さに縮こまり、部屋でゴロゴロしています。エンジンが掛かることは確認してあるので、少し余裕があるのだ。
4-5日に晴れてくれればOK!

2009年3月25日 (水曜日)

日記にも、桜が咲いたと、書いておく (その2)

前略
桜が咲き始めました。

日記にもそう書くことにします。

咲いた咲いたと喜んでいいのか。

高速道路を1000円にして排気ガスを撒き散らすより
業務用の自動車を、平日に割り引く対策をしたほうが
一般道路の渋滞が減って、排気ガスが緩和される。

やがて散りゆく花
やがて滅びゆくかもしれない地球

日記にも、桜が咲いたと、書いておく

前略

私の日記にも、桜が咲きました、と
書いておくことにします。

ちょうどそのころに、
私が何を考えて、
何をしていたのか、
思い出すきっかけになるように。

昔の思い出は、
あまりよくないけれど

まあ、笑って懐かしむこともできるし。

花が咲いて
その下を歩けば
新しいストーリーが生まれるかもしれないモン。

2009年3月23日 (月曜日)

ひとことで、あなたの泣き顔奪いたい

そう

わたしのひとことで
あなたのその泣き顔を
笑顔に変えてしまいたい

そして笑顔のあなたを
連れ去ってどこまでも逃げてゆきたい

ああ
あなたの泣き顔は
どこまでも魅力的で
私をじっとそのままにしておいてくれない

私は
あなたを
あなたのその泣き顔とともに
独り占めしてしまいたい

2009年3月19日 (木曜日)

異動なし、そっと一人で喜んでいる

〔きょうの午後〕
異動なし、そっと一人で喜んでいる [2009-03-19 19:20]

〔今朝〕
もくれんが咲いていた驚き、いい予感 [2009-03-19 19:19]

〔今夜は〕
ブギウギ、ウキウキ、元気だぴょん

千円にすることの他に…

■ うしろ姿

仕事で出かけたときに運転をしていた子がとても好印象だったのでぜひ伝えておきたい。別にこれといって特徴があるわけでもない、いわゆる係長クラスのふつうの職員ですが、交差点で車が止まるたびにエンジンを切る。自分の家の車でも実践して満タンで100キロほどは長持ちすると話してくれた。

ただそれだけだが、私たちの職場の一員として、これほど素晴らしい行動はない。別に誰に見られているわけでもないし、そういう視線を期待しているわけでもない。真摯に、素直に実践する姿を見た。

アイドリングストップは、言うは優しいがなかなか実践できない。真価も計り知れない。実利用にいあたってはこれに適した車の開発も遅れているのが実態だ。そんな中で、つべこべ言わずにやる姿が素晴らしい。


■ 愚策への怒り

千円になる高速道路の話題で、ざわざわと騒がしい。経済効果の期待が大きいことはわかるが、千円にする政策は十分に吟味されたものでないこと、また、その対案などをいくつか挙げて検討協議がなされなかったまま、特定のところから勝手にできてしまった策であること、を考えると非難が出ている理由がよく理解できる。

どうしてこんなことを考え出したのだろうか、まったく不思議だ。情けない。そういう政治をさせている私らサイドはもっと反省が必要だ。

まず千円にするほかにも案があるし、国民に喜んでもらえる方法はある。交通に関して何らかの還元をするということであるなら、公共交通機関を利用した人に補助をするとか、運賃そのものを値下げするとか、鉄道会社やバス会社に還元してそれが住民に戻ってゆく手立てを考え出すなどの案を掲げ、その案をベースに知識人を含めて協議をすれば、あんな愚かな「ETC利用で千円」などというお祭りごとを招く前に、自分たちの社会をどうすればいいのかを考える機会が持てたはずだ。

交通量が一時期に特定の箇所に集中するなど、愚かな事態も予想できる。まったく持って公平性に欠けながら、環境への配慮を著しく欠いているのだから救いようがない。人気も欲しいし注目も欲しい。いい子になっていたい。高い評価を得たい。思いはよく理解できるが、国家行政として真っ先にするべきことであったのだろうか。

新自由主義と経済理論に汚染された国民が嵌まり込んだのが今のどん底社会で、これからまだまだ嵌まった穴凹の上から水やゴミを浴びせられるような大荒れが予想できるのに、どうするつもりんなんだろうか。

2009年3月17日 (火曜日)

春のツーリング、行きたいな

色々と頭をよぎりますが

○ 富士吉田うどん
○ 富士宮やきそば

をテーマにして

富士川沿いで、キャップかな。

4月4日、5日に雨の無い場合。

連絡くれたら、予定しているキャンプ場をお伝えします。

2009年3月16日 (月曜日)

滑液包炎

心配をおかけしました。
メール・コメントくださいましたみなさま。
ありがとうございました。

今朝から総合病院へ行ってきまして
(8時半から12時まで待ちましたが)

今度は整形外科へ行きまして
滑液包炎、という診断となりました。

とりあえず痛いので、痛み止めの薬をもらって
抗生剤と一緒に飲んで
快復を待つことになりました。

2009年3月15日 (日曜日)

いいお天気なのに家でしょぼーん

今日は、バイクの日でしょ!
と思うのですが
いい天気ですが家にいました。

体調のことですが、
ガングリオンと診断されました。
しかし、通常、痛くないそうですが、私は痛い。
肘付近がぽっこり+全体的に晴れ上がっていまして、押さえると痛いのです。
机に座って肘を突くところがそのまま全部痛い。

近所の医者(外科)に行ったのですが、
市内の大きな病院(の整形外科)でやってくれるけど、腫れてる袋ごと切除することになるわ
と言われたので、炎症が引いたら病院紹介してくれるかなと思っていたのですが…

痛いので、明日、大きな総合病院へ行こうと思います。
どっちみち炎症が引いてから手術だろうけど、手術の段取りで1日取られるだろうし、1日短縮かな。

明日休めるかどうかが大きな問題。明日から死のロード (県内各所で立合いがあったのですが) だったのですが、代理を調整しなきゃ。

--

先日からリンパ腺が腫れたりして熱が出ていたのは、このバイ菌のせいではないかと。

手術怖い!
腕の付け根で絞って、全体を麻酔してから切ると思うけど。

2009年3月14日 (土曜日)

3月14日 啓蟄から春分まで

荼毘にふす、二日で伸びた髭を剃る ねこ

「死んでしまうときは、生きているみたいに、すーっと熱がひいていくんやって。
抱いて寝ていたうちのオカンがそう言うてたわ」

私は、自分の熱が二晩で引いたことを喜んでそんな話をした。そして、頭の中はそのまま10年前のことへと跳んでいって、ちょうど納棺師の映画が話題になっていることもあって、棺に収まった父の顔が甦ってきたのだった。

「お棺に入ってなあ、二日もたつのに、人の髭は伸び続けるんやで」

そう。死んでから二晩が過ぎるのに髭は伸び続けるのだ。映画では綺麗にして送ってやるいうような様式らしいが、私の家ではそのまま、生きているような姿で送った。
こんな木枯らしの日にたいそう寒かろうにと誰もが思ったはずだ。(1月24日でしたから)

(人は死んでいくときに)「すーすーっと息をしててな、それが止まると体中の温もりがすぅーっとなくなって、冷とうなっていくんや」

「ふうーん、うちのおかあちゃんは、死んでしもても、いつまでも暖かかったわ…」

と妻は呟いて遠くを見るような目で

「せやけどな、あんまし、覚えてぇへん」

とポツリと言って黙ってしまった。

---

1975年3月14日。
この日に、ひとつの小さな出来事があった。

京都は、暖かい朝を迎えた。

おかあちゃんは、頭が痛いと訴え続けていた。
もう一週間以上も頭痛が治まらないと言い続け
「寒さのせいかなー、早よう暖たこうなってほしいわぁ」
と弱音を吐きながら、暇があれば頭を抱きかかえるようにして横になっていた。

ぽかぽかの春がそこまで来ている。
まさに三寒四温というように、優しい日差しが縁側から注いでいたのだろう。
妻の母は、あまりの痛さに京大病院の脳外科で診てもらう決心をした。
病院での診察が終わると、着の身着のままで即座に入院となった。
それが3月10日のことであった。

そして、翌々日の12日緊急手術となるのである。

「おかあちゃんの頭には金串のようなものがいくつも刺してあったような気がする、痛そうやったわ」
「手術に運ばれていくときに眠っている姿を見たのが最期やってん。
あのときには、自分の運命みたいなものがわかっていたのかもしれへん、そんな気がする」

と、妻は言う。

3月14日。
母は眼を覚ますことはなかった。

3月15日。
高校の卒業式。
欠席。

---

脳には腫瘍ができていて、切除など不可能なほどに転移していたのではないか。
そしてそれを、試しに切ってみたんやろ、京大の先生は。
あの手術は間違いなく失敗やった。

ワシはそう思っとる。

「おかあちゃん、痛い痛いて泣いてたわ。
手術の後は意識が戻ることはありませんでした…」

お父さんはそう言っていたのを何度も聞いたが、今となっては、どうしようもないことだ。

英国のEMI社で、コンピューター断層撮影装置(CT)と呼ばれる最新鋭の機械が発明されこの世に登場するのは1972年のことで、コンピューターによる断層撮影画像を扱う技術は、さまざまな学会でも取り上げられていたものの、身近にやってくるには、まだ数年の歳月を要した。

もしも、7,8年長生きしてくれていれば…と思うと悔しい限りです。

2009年。
あれから34年。
朝、嵐のように降っていた雨も上がりました。
少し肌寒いけど、晴れてきています。

3月16日、結婚記念日です。
(1984年のあの日の朝も雨、後晴れ)

そうそう、小中高と入学式は雨でした(私)

2009年3月11日 (水曜日)

年の瀬に考える 〔2003年12月下旬号〕

年の瀬に考える 〔2003年12月下旬号〕

いよいよ今年もあと数日で終わる。様々な感慨がこみあげてくる。2003年(平成15年)も喜怒哀楽の繰り返しの年であり、幸せであったことに感謝をする。

失業を経験しなければ、私はこれほど人さまに感謝をするような人間にはなれなかっただろうと思うことがある。優しさや哀しさというものは、そのことを命令して実行できるものではない。優しさには心の温かさが必要であり、心は自らの意思で優しく変化してゆくものである。哀しさは、哀しもうという意思だけではどうにもならず、感情の奥底から湧き出でてくるものであるのだ。したがって、私が喜怒哀楽を深深と感じ、皆様に感謝できるようになったことは大いなる進化であった。

だから、世界中の皆さんが失業しなさいとは言わないが、今ほどに社会が枯れ果ててしまい、個人主義、自由主義経済の名目が大手を振るうもとで、倫理や哲学を軽く考え、快適で住みやすければそれでいいという錯覚に、人々は陥っていまいか。

環境活動を創造するという仕事に現在携わっているが、社会の中の何が適切に機能せず、社会システムのどの部分が不活性なのかを見直そうとするとき、人々の気持ちが冷めてしまって、生きてゆくことへの戦略やポリシーを感じ取れないことがある。つまり、どうにかなる、私には関係ない、こっちのほうが楽しくて快適で得する、という概念ばかりが目立つ。

おまえら、誰にも感謝せずに生きるということは犯罪に等しいぞ、と言いたくなる。十年後、二十年後の社会を想像してみよう。そのときに、果たしてこれらの悩みは解決できているのだろうか。もしも解決できていれば、それはどんな手法なのだろうか。その手法を先取りしたい。そんな夢のようなことを思う一方、その夢を今すぐに実現するのが当面の私のテーマなのだ。

夜空を見上げて考える 〔2003年12月上旬号〕

夜空を見上げて考える 〔2003年12月上旬号〕

仕事を終えて建物の前の駐車場に向かうと空一面に星が出ている。私でも名前を知っているオリオン座が東の低空に見える。その形がはっきりとわかるので凄く嬉しくなる。人間が意図してデザインをしたわけではないのにこのように綺麗に並んでいるのを、太古の人類が発見したとき、それは発見ではなく偶然であったはずだが、そして今で言う科学の概念などないからこそ、そこにひとつの信仰のようなものとして定着したり、希望や願いをする際の祈りの対象となっていったのだろう。科学技術は果たして私たちに幸せをもたらしてくれたのであろうか。現代科学を考えると必ず私はそこに行き着いてしまう。

電話機で写真を撮影して送ったり、歩きながらでも電話を掛けられたりできること。200キロものスピードの出る車があること。非常に優れた音質でしかもマイルームで映像付きの音楽を聴けること。挙げれば数限りなく思い浮かぶ。しかも、そのことはほとんどが現代では当然のことで、低コストで提供されている。疑問はここから始まる。

人の命を救うために細菌や細胞を研究して癌をやっつけるとか、心理学や精神科学などとも融合させて人間というもの神秘を探る、というようなことに、歴史的な科学が挑んできた。だが、電車の座席に座ったままで電話を掛けたときに、もしかしたら相手がトイレの中にいるかもしれないのに、それでも平気で掛けてしまう可能性を認めてゆくのは正しい選択なのだろうか。確かに、暗い夜道を子供が帰ってくる時に電話がなくて連絡が取れないことは困ったことだろうけど。
科学技術を推進する人にとってみれば、開発することは人間の欲望であり未知なるものの解決は誇らしいことであるだろう。そしてシーズの活用分野を考えることも決して間違いではない。つまり、私たちがもう少し便利になるために新技術を利用してゆくことの「進化の流れ」に誤りはない。

進化する情報科学やデジタル技術を駆使して生活を向上し便利な社会を築きあげことに反対するつもりはない。しかし、人々が、電車の中から電話を掛けなくてはならない必然性を生んでいる社会構造に疑問を持ち、暗い夜道を危険にしてしまったこと(または暗い夜道に歩かねばならない必然性)を見直さねばならないのではないだろうか。

このようなことを考えながら、夜空を見上げる。寒さを何ひとつ感じることなく、マイカーでドアからドアまで帰ることができる便利さの恩恵を受けながら、この車の中から家に電話を掛けて「もうすぐ家に着くから」と言えることよりも、「お父さんがもうそろそろ帰ってくるよね、ご飯の支度をXXちゃんも手伝ってね」という会話の中で母と子が父を敬うようになるのではないか。このままでは、心待ちにする本当の姿が薄れてゆくのかもしれないと思う。

快適さを生産するのがテクノロジーを開発するエンジニアたちであるのだが、彼らを戦士と称えるメディア番組に人気があることなどを考えれば、矛盾も多くため息も出る。

自然環境が破壊され、人間としての野生の感覚も失い、生きていることの感謝を忘れ去り、暗いくて静かな夜も失ったことが重大なことだとは思わないのは、高度情報化社会の裏で、やはり、どこかで何かを勘違いしているとしか思えない。

木枯らし 〔2003年11月中旬号〕

木枯らし 〔2003年11月中旬号〕

木枯らしが一年ぶりに戻ってきた。
早朝の休日の国道は車の数も少なく、プラタナスの枯葉が舞っている。北山修が「プラタナスの枯葉舞う冬の道で♪」とうたったのは遥かに昔のことだ。本当にプラタナスの葉が京都の都大路を舞うのを彼は見たのだろうか。そんなことを考えながら鈴鹿山麓の職場に向かって車を走らせた。

日本海を渡った冷たい風は琵琶湖の北岸にある三国峠を越え、伊吹山と鈴鹿山系の谷間を吹き抜けてくる。本州の首根っこのように尾根筋が低い関が原付近でどっさりと空気中に含んだ水分を雪にして落とした後、鈴鹿の山から太平洋へと勢いよく去って行く。
11 月22日。御在所岳[1212m]の頂上には雲がかかっていた。しぐれているのだろう。車のフロントガラスにも小さな水滴が時々飛んで来る。少し手前にある入道ヶ岳[906m]の尾根に陽光が差し込み、紅葉した山肌がハイコントラストになって浮かび上がる。こうして冬を迎えれば、やがて、私はこの山脈から吹けてきて舞う小雪に毎朝迎えられて国道306号線を職場へと向かうことになる。

デスクのパソコンの電源を入れると県内の気象データを見ることができる。山頂の気温は1度以下、風は13メートル。北西。本格的な真冬の数字である。
ああイヤだ。…そんなことばかりも言ってもおれない。冬があるから春が来る。震え上がりながら3Fのコンピュータールームに入ったら、そこは20度の世界で、ひんやりと寒い。ああ、なんてこった!

でも、時にはいいこともある。正午ころ、藤原岳の方角に大きな虹が見えたのでした。これも時雨のお蔭なんだろうか。
PS:26日にはこちらの山の気象観測設備の設置完了の立会いで山に登ります。覚悟が必要そうです。

会釈 〔2003年11月初旬号〕

会釈 〔2003年11月初旬号〕

近頃、会釈という言葉は死語なのだろうか。

日が暮れるまでには十分に間がある時刻に、住宅街を私はウォーキングしていた。道の向こうを近所のお子さんが犬の散歩で歩いてゆくのが目に入ったので声を掛けた。こんにちは!と叫んだのだが届かなかった様子で、次に、○○君!と呼びかけてみた。首が私の方に少し動いたようにも見えたが、ネジの緩んだロボットのように再び元の方角を向いて、あたかも何もなかったかのように彼は過ぎ去ってしまった。
彼には私の声が本当に聞こえなかったのか、それとも聞こえたけど返事をすることができない事情があったのか。近所の皆さんとも、それが大人でも子供でも、挨拶を交わす機会が少なくなっている。高校生だと恥ずかしさもあってはにかんでいるだけの子もあるが、知らぬ振り、見えぬ振りで通り過ぎる人が多いことに驚く。地域社会が枯れている一面だろう。

早朝の散策では年配の方に深々と頭を下げられる。もちろん何処のどなたかは存ぜぬが、思わずつられて頭を下げる。その度に死人のように視線をそらせた彼を思い出す。

会釈をすることを忘れたのか、それとも親から受け継がなかったのか。そんな人たちが街で目立つのはどうしてなのだろうか。

キンモクセイ 〔2003年10月号外〕

キンモクセイ 〔2003年10月号外〕

何とも、身体じゅうがとろけてしまうのではないかと思わせるような香りを放つ。

三重県環境学習情報センターというところは、鈴鹿山麓にあるので周囲は雑木林で囲まれて、海側は見晴らしよく四日市市の街並みや遠く名古屋の街、さらに晴れた日には御嶽山も見える。

秋になって汗も噴出さなくなってきたので、お昼休みにはセンターの周辺に散歩に出ることが度々あります。すると、このキンモクセイの匂いに出会います。

花として、決して姿かたちが良いわけではない。ところが植栽としている家が近所にたくさんあることに、散歩に出てみて初めて気が付く。

さあ、キンモクセイを探しに散歩に出ようか。

土佐堀川 〔2003年10月下旬号〕

土佐堀川 〔2003年10月下旬号〕

「堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名前を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川がまじわる所に三つの橋が架かっていた。」

これは宮本輝の「泥の川」の書き出しです。映画は白黒映像で、貧しかった時代の、大阪の人々の切なさを淡々と映していました。その大阪の街を何年も後になって歩いてみたことがありました。研修の初日、北浜という地下鉄の駅を降りて地上に出ると、いとも簡単に淀川の水面に出会え、偶然にも土佐堀通りという名の通りに沿って歩きます。このまま逆に西に行けば1キロほどであの映画の舞台になった所に着けるのだと思いながら、ビルとビルの間から北に伸びている天神橋という橋のほうに向かってゆきました。

余った時間には少しだけ街を歩くことができました。何の変哲もない街ですが、ビルの合間にはささやかな紅葉が届き始めています。淀川というたった一本の川がこれほどまでにこの地域の風景を作り上げ、人々が無言でいるとき、あるいは、ビル街が騒音に包まれているときに、自分ひとりでこの川のほとりに立つと、真っ先に自分が蕪村になって堤防を歩いていたり、真田幸村の足跡を探そうとしていたりします。

大都会でありながら、歴史的風情を完全には捨て去らないのは、豊臣の意地とか慰霊というものでもなく、日本という国をまったくダメにしたまま何百年も勝手を続けた東の覇権への反発なのかも知れません。しかし、そういうことにも寛容になれる自分がどこかにいるのです。それは、この川に囲まれた街の持つ文化というものが、広義には関西文化というものが、ここまでしなやかさを保っているのは、或る意味では東のおかげだったのかも知れないと思えるようになったからでしょう。

海側から西日が差し込むという幸運な位置関係もあって、淀川の満々とした水が音もなく流れているのを、河岸の公園の鉄の手すりにもたれながら眺めることができました。市場動向に最も敏感に反応する人々が集まるような街です。わずかながら色づき始めたもみじや蔦などが公園の水際に巧妙に植栽されいるのを眺めてくつろいでいるような余裕人は誰一人としていない…ような気がする。でも、その分、私はひとりごちて、無言になれ、存分にエネルギーを蓄えることができたように思う。

実は…半年振りに電車に乗ったこともあって、通勤時間に溢れる社会情勢の顔のようなものもじっくりと見ることができたし、硬くなった脳みそも随分とリフレッシュできて、また、化粧をした子供たちもたくさん見て動物園に行っているみたいな気分にもなれたし、旅に出かけていたような三日間でした。

帰りの電車の中から、長谷寺の門前の在所が見えました。ゆうげの煙が山並みを静かに漂っていました。

やまあいに熟れ柿ともす日暮れかな  〔ねこ〕

ふたりの人 〔2003年10月中旬号〕

ふたりの人 〔2003年10月中旬号〕

或る電子会議室のことを急に思い出して、昔のログを読んでみた。こんなことをし始めるなんて、老化のひとつなのかもしれない。

1994年のものを読んだ。そこには懐かしい名前が二人あった。RさんとKさん。ちょっとストーカーみたいだけど、インターネットで検索をしたら、二人とも見つかって、恐る恐るメールを出したら、届いていることがわかった。

ひとりは、ツーリングレリーフのBBSに書き込んでくれたので、はしゃぐように返事を書いた。もうひとりは、その人のHPのBBSで挨拶をした。

その晩は、とても嬉しかった。彼女たちは子育ての合間にバイクから離れていた様子で、最近になってお二人ともバイクを動かそうとしたらしい。Kさんが再びバイクを動かし始めた日に私のメールが届いたってのも、何かのシナリオのようです。

RさんのHPには、ツーレポが載せてある。これがとても素晴らしい。さすが文筆を本職としておられるだけある。しかも、ツーリング日記では稼いでいないので文章に裏腹がない。素顔が見えるような気がした。

じっくりと読みたいという気分に飢えてる人は、ぜひ、行ってみてください。Rさんは、ツーリングの大先輩だったんです。〔URL:略〕

Kさんは、新しいハンドルになっているので、何か新しいことでも始めているのかもしれない。
うきうき気分になってゴキゲンだったので、ちょっと日本海まで走ってきた。走りながら、例のごとく様々な思いが駆け巡ってゆく。

二人とも10年以上前のバイクをじっと家の片隅にしまったまま、ずっと子育てなどをなさっていたらしい。その間、いかがな日々をお過ごしだったのだろうか、バイクにはもう乗らないかもしれないと思った日はなかったのだろうか…。そんなことを想像しながら私のバイクへのこだわりのことを考え続ける。
私も少し冷ましてみるのもいいかもしれない。何もこだわって乗りまくらなくても、通勤に乗ってるだけでもいいような気がしてくる。

Rさんのツーレポを読んで、また少し考える。風景も人も空気も、…何もそれほど大きく変化したわけではない。もしかしたら私の心が一番大きく変化したのかもしれない。

彗星のように巡りあえた二人は、彗星のように消えていってしまうのかもしれない。私もその宇宙を彷徨っているんだってことなんだな。

彼岸花 〔2003年10月初旬号〕

彼岸花 〔2003年10月初旬号〕

彼岸花とコスモス

9月24日に彼岸花が一斉に咲いた。不思議なことに伊勢平野ではほとんど誤差なく同じ時期に咲くから不思議だ。

あの赤い花は田んぼのあぜ道に似合うこともあって、秋になった象徴として待ち遠しい。まだかまだかと待ちわびる。それがお彼岸のころだから彼岸花と呼ぶ。

近くで見ると思うほどに綺麗ではない。寿命も短いうえに10月になるとあの赤みの鮮やかさが枯れてきて、花として幾分落ちぶれてくる。それが如何にも野山の草という感じで、ことさら寂しい。

やはり遠くから見ているのがよろしい。これは美人にも言えることかもしれない。彼岸花にも毒があって、手で千切ったりしたら、その苦味に悩まされる。美人にも悩まされた方は多かろう。

一方でコスモスには優しさが漂う。この花には毒もなく苦味もないようだ。ちかごろは、休耕田に咲き誇る花に埋もれて写真を撮る人の姿を見かける。

それぞれの花言葉を調べてみると、コスモスは「少女の純潔」「乙女の真心」、彼岸花は「悲しい思い出」とある。彼岸花のどこに「悲しみ」を連想するのだろうか。人それぞれだと思うものの、あの真っ赤な色には情熱を感じても、私は悲しみを想像しなかった。

若いころは赤色が好きで、赤い服の女性の見かけると、いそいそと後姿を追いかけてついていったものだが、年齢を重ねるとともに穏やかになったせいもあって、黄色系や黄緑系の服に刺激のもとが移ってきた。

以前にどこかで書いたが、自然の色の移り変わりというのは不思議なもので、春は新緑に代表されるように刺激の少ない緑や薄い青系の色に始まり、コレに少し赤色が加味され、黄色が主体になるのが夏のころ、秋になるとさらに赤が加わり、すべてが真っ赤に燃えて枯れてゆくのである。この色の変化を周波数軸にプロットすると、高波長から低波長へと移動していることがわかる。人間が体感する時間の速さも、高から低へと変化することを考えると、自然の変化といえども理論的に作られたかのようだからおもしろい。

星野道夫さん 〔2003年9月中旬号〕

星野道夫さん 〔2003年9月中旬号〕

 お盆に帰省をしたときのことです。京都・四条烏丸の大丸百貨店で開催される「星野道夫の宇宙」展の広告を地下鉄で発見して私は「おおっ!」と叫んでしまいました。そばに居た娘(高1)が「この人、中3の教科書に載っているよ」と言うので、あくる日に早速二人で出かけました。
 星野さんは「環境」に関して何かのメッセージを発信したわけではないし、無駄な電気は消そうとかゴミを減らそうなどとも、恐らくひとことも言わなかったのではないでしょうか。イデオロギーを掲げて活動したのではなく、ナチュラリストだったんです。それだけに地球の環境を考えている真剣味が伝わります。
 高校時代にアラスカの村を写した1枚の写真と出会い、感動し、一通の手紙だけをきっかけにして極北の地を訪れます。慶応義塾を卒業してアラスカ大学に留学し動物学を学び、そのまま永住します。大自然や野生動物を追いかけ、クマやカリブー、クジラ、オーロラなどの写真を撮って、エッセイを書いています。教科書に掲載された作品は、文春文庫「旅をする木」にあります。感動的な風景や動物たちの生態など、伝えたいたくさんのことを写真とエッセイに綴りながら、アラスカの風景を追いかけて暮らしながら、人間と自然とのかかわりに畏敬の念を抱き、いつまでも感動し続けていた人でした。
 「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか」という一節がエッセイにありますが、何不自由なく暮らす文明への提言なのかもしれません。
 私たちは何でもすぐに答えを求めたがる傾向があります。地球温暖化について教えてください、と質問を投げかける子供たちがいます。しかし、教育をする人、学習を手助けする人たちは、簡単に答えを教えたり、あらすじを知らせてしまう前に、調べる手立てやその過程での寄り道の手法を教えてあげることが大事です。これが真のゆとりです。そうすることで、例えば星野さんの写真を見て感動できるような、あるいは環境学習推進員の木村さんがミンミンゼミに出会ったとき(木村のページ参照)に「感動」したように、自然の姿やそれらの営みに強烈な刺激を受け心を奪われてゆくような、そんな感性を伝えてゆける。
 環境を学ぶ人には、フィールドワーカーたる気性も必要と思います。こういう書物に刺激されて野外に興味を持つ人がひとりでも増えると嬉しいですね。何か一冊に感動できれば、答えを求める旅の切符を手にしたようなものです。

がむしゃら 〔2003年9月号外〕

がむしゃら 〔2003年9月号外〕

朝夕が涼しいねというタイトルでかわせみさんのHPのBBSに書き込んだ。その内容はというと…

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 朝夕が涼しい季節になってきました。信州の山あいなどはさぞかし秋の気配も漂い始めているのでしょうね。夏に咲いた花々が一斉に実を結ぶ季節ですかねぇ。

 澄み切った青空の下、心地よい風に吹かれて遠くの山を眺めると、今度はあの山の麓に行こうかな、と想いを馳せることになります。

 信州には、そのときどきの思い入れで走った峠がたくさんあります。初めて信州に踏み込んだのは、20年ほど前です。バイクに乗り始めて30年なりますから、10年間は信州を知らずに近所の野山を走っていたんですね。

 ある意味では、最初から信州に踏み入れなかったのが幸運だったかもしれません。〔コレは東北にもいえます〕

 秋に誕生日を迎えると免許取得30周年。ご褒美にどこかに旅に行こうかなと考えています。

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 このあとで、何だか沁沁とした気分になってきた。

 がむしゃらに走った日々があった。でも、あんまり燃えすぎないほうがいいようにも思う。ほどよくたしなむ程度にいつまでも…というのも良い。

 何が一番、とは言えない。そもそも答えなど何処にも無い。

 このごろ、時々思うのことは、もう一度くらい再びがむしゃらに走ってみたい、ということ。コレは過去にそういうお馬鹿な経験のある人だけに与えられた特権かもしれない。

Patagonia Autor: Federico B. Kirbus 〔2003年9月初旬号〕

Patagonia Autor: Federico B. Kirbus 〔2003年9月初旬号〕

 南アメリカ大陸の南に位置するパタゴニアというところに興味を持ったのは、グレートジャーニー(関野吉晴著/No121で紹介済)を読んだからであった。まだ関野さんの著作が強烈な印象を残しているときに、手元に「Patagonia Autor: Federico B. Kirbus」の本が回覧されてきた。思わず「うううっ」と絶句であった。(この本は回覧後、私の机に居座っています。)

 ホームページに書籍の紹介があります。現地語(スペイン語?)と英語で書いてあります。少し読んでみましたら、なかなか詩的な文章で綴ってあります。

 広大な土地は自然の恵みを受け、大自然が歴史を越えて今もその姿をとどめ、野生生物が自らの営みを誇らしげに生き続ける。決して人類にこの宝を明け渡したりはしない。植物学、人類学。古生物学の側面からも宝庫と言えるこの地域の自然や暮らしの様子をこの書籍は紹介しています。(←冒頭文から少しパクってきた)

 地球上の一部の人々は、電気などのエネルギーをふんだんに使い、この上ない便利な生活をしてそれを幸せだと思っています。前に紹介した関野さんが(次回以降で紹介しようと考えている石川直樹さんや星野道夫さんも)、その著書の中で、大自然のなかに暮らしてみて現地人と触れているときに、はたして現代の便利な社会が幸せなのだろうか、と疑問を投げかけています。

 未来の地球を受け継ぐ若者が自然に畏敬を表わしひたむきな情熱を環境に注ぐ人となるかもしれないきっかけとして、もしも一冊の書籍がトリガーになれるならば、ここに挙げた人々(の書籍)は十分にその子の人生を変えてしまうにふさわしいモノでしょう。

 読書の秋にいかがでしょうか。

(石川さんと星野さんは、続篇で順に紹介しますね。)

夏の終わり 〔2003年8月下旬号〕

夏の終わり 〔2003年8月下旬号〕

8月30日 夏が終わってゆく。少しずつ日が暮れる時刻が早まってきたなと感じるこのごろ、火星はいちだんと輝きを増してゆく。エアコンを入れずとも窓を開け放てば涼しい風が通り抜け、風呂あがりには明かりを消して夜空を見上げたくなる季節だ。満月は九月十日過ぎ。そして次の満月が中秋の名月で十月中旬となる。

夕食が終わってから居間でプロ野球を見る日が多い。ビールを飲まない習慣が身についたけど、うちのんと半分ずつで乾杯をする日もある。娘もスポーツ観戦には熱心である。どこで教わってくるのか、かっこいい選手の名前をよく知っているのには驚く。

去年も今年も、失業者(不安定就業者)であるから、家族を連れてどこかにお泊り旅行などには行けない。何もできないけど、美味しいものでも食べに行こうということで、夏休みの前半は飛騨高山へラーメンを食べに行った。そして後半は、8月28日、伊勢市の内宮前に「赤福氷」を食べに行った。抹茶のかき氷の中に赤福餅が入っているのでこういう呼び名がある。どんぶりに山盛りで400円だからお安い。

平日の夕刻、内宮への参道の人影も疎らになりかけたころに店に着いた。5時を少し過ぎたら閉店するという。まだまだ明るいのに・・・と思ってしまうが、日が昇ったら仕事を初め日没とともに終わるというのは、考えてみたら非常に人間的ではないか。

閉店間近を予想し店まで少し駆けたので汗が噴き出した。真っ赤な太陽の光は容赦なく照りつける。しかし、すだれに隠れて氷を頬張るとからだ中に冷たさが広がってゆく。「夏も終わりやね、帰りには秋刀魚(サンマ)でも買って帰ろうか。」そんなことを言いながら赤福氷を平らげた。

夏休み中、会えなかったクラスメートの女の子の面影を思い出しながら真っ赤な夕日を眺めた青春時代。夏の終わりは開放された時間が過ぎてゆく寂寥と新しく始まる毎日への期待とで複雑な心境だった。わが娘は一週間ほど前から補講で午前中には学校に行っている。1年生のうちくらい少しはセンチにさせてあげてもいいのに。

ビール  〔2003年8月初旬号〕

ビール  〔2003年8月初旬号〕

8月9日
暑い日が続く。仕事から帰ってくると家族は食事をしているかテレビを見ていることが多い。うちのんが「ビールでも飲む?」と問いかけてくれたのは結婚して間もないころで、それが次第に変化し、後年には黙ってビールを出してくれるようになった。

私はウイスキー党であることに自分でも目覚めたのは10年ほど前からで、ウイスキーがないと美味しいビールやワインをいくら出しても落ち着かない。ツーリングから帰ってくると、旅先ではウイスキーを飲めないことが多いので、「ウイスキーが無くて寂しかったでしょ」といって、グラスに水割りを出してくれた。

ところが、仕事を辞めてぷー太郎をしているころから、ビールを飲みたいと強くは思わなくなったのです。発泡酒人気というのもあり、ひと通り発泡酒の新作が出ると飲んでみた時期があり、そこでビールが無くなると一番気に入った発泡酒を細々と買い続けてみたり、種類によって様々な発泡酒の味を楽しんでみたりしていた。気分に大きな変化がない限り、ビール類(発泡酒を含む)には手を延ばさずウイスキーを水割りで飲んでいた。

他人がそばでビールを飲んだりしているのを見ると、我慢できなかった時代があったのに、今では送迎運転手を買って出ても苦にならないほど飲みたくなくなった。夕食時にコップにビールを注いで、うちのんから薦められたらひとくちもらうことはあるけど、グイグイとは飲まない。


原因は自分でもわからない。もともとビールが好きではなかったのか。(???)

タバコを止めてしまうときには、いつもと違う舶来のパイプタバコをひと通り吸ってみた。現在の私はかなり強靭な嫌煙人ですから、お酒も同じような道を辿るのかね。。。

数日前から大好きなウイスキーにも手を延ばさない。飲まないと宣言したわけではない。飲みたいときには飲むと言っている。一昨日には小さなグラスにウイスキーを一杯だけ飲んだ。喉をうるおす程度のものだった。

「今日、ポイントの付く日なので買い物に行くけど、ウイスキー買っとくの?」とうちのんが尋ねるので、「そりゃあ、買うておいてぇな」と返事をした。
旨い酒を、旨いと思えるときに飲もうという意思ができたわけでもないが、どうもそれに似たモノが、身体の中に芽生えているらしい。形でもない、意思でもない、宣言でもない。

自分が、自然体で居ておれるようになったのだろうか。コレも年齢のせいだろうか。いや待てよ、このまま楽しみを失ってゆくと、何を愉しいと思って生きてゆくのだろうか。生きる愉しみを失くすときってのが命の炎の消えるときなんかい。

おいおい、新しい楽しみを探さねばならないぞ。

新潮文庫の3冊 〔2003年7月中旬号〕

新潮文庫の3冊 〔2003年7月中旬号〕

○ビタミンF
○ありがとう
○キッドナップ・ツアー

▼川上弘美の「ありがとう」と重松清の「ビタミンF」を買った。ちょうどそのときに私の脇に居たうちのんが、我が家の娘も先日、角田光代の「キッドナップ・ツアー」を買ったばかりだというのである。
▼夏休みは勉強から開放されて、教科書のことなど忘れて読書に耽るというのもなかなか面白いかもしれない。新潮文庫百冊も最近では中味が新しくなってきて、ひと夏に全部読んでしまった昔とは変わってしまった。相当に未読が増えてしまったことだし・・・。
▼川上弘美さんってどんな人なんだろうか。まったく先入観がないのだが、何だか面白そうだ。


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タマヨさんに会いに三島まで行った。
 明日が大晦日という日で、東海道線鈍行の下りはずいぶんすいていた。朝から何も食べていなかったので、タマヨさんへのみやげにと小田原で買った笹蒲鉾の袋をひとつ開けて、五本のうちの二本を食べてしまった。しばらくしてまたお腹が減ってきたので、もう一本食べた。
 タマヨさんは、封が開いていて二本しか残っていない袋の混じった笹蒲鉾の包みをみやげにと手渡しても、頓着しないたちである。少なくとも最後に会った十年前には、頓着しないたちであった。今はどうなっているかわからぬが、人間のたちが十年くらいでそうそう変わることもあるまい。ただし、もうしばらくたってさらにお腹が減り、結局残りの二本も食べてしまったので、タマヨさんのたちが変化しているかいないかはすぐには確かめられないことになる。
 笹蒲鉾はあまりおいしくなかったので、残った袋も、みやげにしないことに決めた。タマヨさんは残り物であるかないかには頓着しないだろうが、食べ物そのものの味にはわがままなのである。
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ちょっと引っ張り出したのが長くてごめんなさい。でも、この先も読んでみたくなる。
▼角田光代さんってどんな人?新聞の書評欄でお馴染みなので興味がある。

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夏休みの第一日目、私はユウカイされた。
 なんの予定もなくて、家にはだれもいなくて、寝転がって見ていたテレビに映った、新発売のアイスクリームがおいしそうだったから、買いにいくつもりで家をでた。岡田歯科の角を曲がり、向こうにセブンイレブンが見えたとき、うしろから走ってきた車が私の真横でスピードを落とし、しばらく先でとまった。運転席の窓が開き、男が顔をつきだして
「おじょうちゃん、お乗りになりませんか」……
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▼重松さんは・・・。長くなるので引用は省略します。
▼私はゴキゲンである。今度の休みは雨が降っていてもかまわない。

まだ梅雨は明けぬか 〔2003年7月初旬号〕

まだ梅雨は明けぬか 〔2003年7月初旬号〕


あっという間の7月初旬。
まだ梅雨は明けない。
何年か前は、嵐が来ていたこともあったなー。
あくる日には信州に旅に出たのだった。

〔記:7月9日/娘の誕生日〕

生きる 〔2002年12月下旬号〕

生きる 〔2002年12月下旬号〕

▼ 昨日のことだが、メモリアルホールの前を通りかかった時に、いつもより多くの花輪があがっていたの見つけてうちのんが「葬式が多いなあ、今ごろに…」と言った。歳の瀬に見送る人も大変だが、死んでしまう人はもっと大変だったに違いない。

▼死んでゆく人が自ら「死んでしまいたい」と叫ぶのを幇助する以前に、何故その人が死にたがっているのかを考えねばならない。受験に打ち勝てない。友達にいじめられている。仕事が苦しい。病気が重く、痛みも激しい。老体で動くことが辛い。どれをとってもご本人ではどうしようも不可能で、限界を感じているからこそ出てくる言葉である。

▼人は、そのような、あらゆる問題さえ解決できれば、もっともっと生き永らえたいと思っているに違いない。「生きる者の記録」を連載していた佐藤健・毎日新聞専門編集委員(60)は28日、食道がんのため死去した。毎日新聞のHPはこう書き出している。

▼私たちは何のためにこの世に生まれたのかを考え追いつづけ、この大きな目標に向かい、何を成してこの世を去れば良いのか。人生をまっとうしたと言えるのか。記者は何を伝えたかったのか。

▼2001年夏。私の大腸にポリープが見つかった。その宣告を受けたときは冷静であったが、数時間のうちに湧き上がってきたものは、「生きる」という激高に似たものだった。死の準備として言い伝えておかねばならないことなどを整理しながら、如何にして「生きるか」ということであった。幸いに良性のポリープであったので事なきを得たが、ひとつの教訓がそこにあった。

▼歳の瀬に、佐藤記者の記事を読み、自分が死に直面した一時期を思い起こしてみる。ボケっとテンションを伸ばし切って、現実に甘えて生きていないか。崖っぷちだと常に思え!引き締めろ。毎日、遺書を書いている覚悟で挑んでゆこう。仕事にも、余暇にも。改めてそう自戒している。 〔12月30日朝〕

2002年11月語録

2002年11月語録

3篇

__その1:「男は黙っていて、必要なときに仕事を言いつけるだけでいいのよ」
私がオバサンたちのご機嫌を取ろうとして苦労しているようにうちのんには見えたらしい。そういえば私はすぐに井戸端会議に入りたがるタイプである。会社のお茶室などでの立ち話は大好きだ…。いい話を聞くのが楽しい…仕事は二番という人、いますよね。ご機嫌など取らなくていい。仕事をびしっと言いつけて、黙って自分も動きなさい、と言う。

__その2:「なんや、(13歳も上なら)そんなのオバサンやんか、オバサン相手に必死になってどうするの」
オバサンがどうも私によそよそしい。仕事のことで厳しく当たりすぎたのか…と思い及んでいたときにうちのんが私に言ったひとことだ。もう「おばあちゃん」になる年齢の人を使おうとしているのに怒っても仕方ないやろうというのだ。肩の荷がおりるひとことだった。ああ、この人、おばあさんなんだと思ったら、仕事がやりやすくなった。

__その3:「どうせ三月までなんですから、そんなに(お互いを)理解し合わなくてもいいじゃないですか」
人にはそれぞれの考え方がある。冷めているといえばそれまでだが、人間性が言葉の端くれに表れる。まじめで、賢い人なのだが、自我が強い。失礼な言い方だが、あれだけの知識や素養をもちながら大手企業を早々に辞めてアルバイトの道を選んでいるには理由があった。一筋縄の性格じゃないのかね。(おっと私にも通じるか…) 自分の道をしっかりと持つのは結構だが、チームの足並みを見つめる才に欠けるのが残念だ。何もできないけど素直な人を代わりにひとり欲しい。期待が大きかっただけにショックも大きかった。

〔12月6日〕

ウィンドゥショッピング 〔2002年12月中旬号〕

ウィンドゥショッピング 〔2002年12月中旬号〕

▼ 先週末に、今年一番お世話になった人への挨拶を思いたち、百貨店を少しぶらついた。一年に数度しか街に出かけないので、心は子供のころのようである。歳末なんだなあと改めて感じながらスローなペースで歩いている。クリスマスプレゼントにするお菓子のブーツや洒落たパッケージ小物、人形、アクセサリなどが手ごろな値段で店に並んでいるのを目にすると、愛しい人に何かを買って帰りたくなる。サンタの人形やお菓子の詰まったブーツを贈られて、心から喜べるような素直な子どもであって欲しいと願う一面、そういう環境を枯らさないようにしてやることが親の責務だとも思う。
▼現代社会が、特に経済が発展しながら、教育システムが改革されてきたことは大いに評価できる一方で、学に対する貪るモノが子どもの心から消えてしまった。「なぜ勉強をするのだろう?」という疑問を投げかける子どもたちがこの社会にはたくさんいる。そもそも「知」の欲求とは、人の本能のようなもので「学」とはそのひとつの手段に過ぎなかったはずだ。大海原を見てそこに漕ぎ出す手段を考え、人々は「知」への欲求を叶えてきた。
▼知に限らず、あらゆるモノに満たされてきた現代人。生まれたときからさも当然のように自分の目の前にあるプレゼント商品やブランド衣類などは、無言で語っているように思う。社会はいったん発展したのだから後戻りを許さない。その中で様々な危険や諸悪が目立つようになり、守られるべき子どもは社会の波の中で、多少の勇気だけでは冒険できなくなった。富にまみれて冒険すら忘れた人は、学の志を抱くことさえなくなった。人間としての喜びを自ら放棄し、失ってしまったのだから、現代社会の(自由・個人主義という)大義名分の功罪は果てしなく重いと、私は思う。
▼今年は失業している年なので、年末だからといって何を特に買うわけでもない。しかし、店内散策は例年のようなコースを辿ってゆく。萩焼の抹茶茶碗がある。この陶器が放つ普遍性とは一体何だろうか。どこからくるのだろうか。花台や一輪差の自然体の構えも然りである。
▼「立ち止まることや逃げることはいっさい許されない」と聞かされ育て上げられた我々にとって、今、普遍性を見つめ、人間味や人間性をしっかりと見つめることが大事なのではないか。理論や方程式ではないもの…。漠然として答えがない。しかし、どれほど不安定な自分であっても心が静寂になってゆく、この押し寄せる波のようなパワーはいったい何処から来るのだろう。

〔12月14日〕

振り返る 〔2002年12月上旬号〕

振り返る 〔2002年12月上旬号〕

許さない許すものかと啖呵切る  ねこ

過ちなら許せるけれど、わがままなら許せない。いつでも何でも許してやるような顔をして、優しくていい人を装っている私に向って、「それってその人を諦め ているだけでしょ、いまふうに言えばキレテいるんだよ」と指摘をされたときには「ハッ!」となった。 放任主義だと言って仕事を任せ、自主性をモットーとし、自己判断で進める逞し い姿をつくるというのは形ばかりであり、言い訳だ。人を導くという強引な気性に欠けるという。つまり、投げてしまっているのは卑怯なのだ。 人前で仕切り屋さんなんかできる器じゃないのに無理をしようとして、結局とん だ災いを招いてしまって四苦八苦した時期を経て、私はすでにキレテいるらしい。 「所詮、貴方なんて仕切り屋にはなれっこないんだから、大勢でワイワイガヤガヤとやっているところに居ること自体が不自然なのよ。」 「そうだよ、どこの誰にも威張れないし、啖呵も切れないし、それに親分らしい こともできないじゃない。いっそうのこと、無人島にでも行ってひとりで暮らしてくればいい…。」 「あんたら、家族や思うて好き放題を言うてるなあー」と言い返したものの、住み心地の良さそうな無人島が見つかったらぜひとも永住したいものだと思う。 許しても、許さなかったとしても、軌道に乗ったらヒーローであり、失敗したら 独裁的だと言われるのである。

殻に入り殻の厚みを思い知る   ねこ

落第を言い渡されて落ち込んでいた時期がありました。誰とも逢いたくないし人ごみにも出かけたくないと考えていた。自分の殻を作りその中で考え続けた。こ の殻の中に居るのがとても心地よいと感じる。一度、篭ってごらんあれ。冬は暖かく夏は涼しい。たまには殻に篭ってしばらく過ごすと、その厚みを思い出し、 外の空気に触れてみたくなるのだ。所詮、殻の中で見る夢など知れたものであったのだが、その殻の厚さを客観的に理解できたのは殻から出てからのことである。

優しさをなくした言い訳考える  ねこ

人生は言い訳の連続だ。長い道のりを行くとき、野球で負け、試験に落ち、友だちを失い、恋人に出会い、別れ、過去を振り返り、挫折し、成功もする。 「ねえ、あなた、いつからそんなに優しくなくなったの?」 「ええ?そうか、気がつかなかったなあ」 そんな会話など我が夫婦には無い。理由は簡単で、初めから優しさなんて無かったのよ。「優しさごっこ」という永遠のドラマなのかもしれない。しかし、そういうのを「優しさというのだ」と言った人があった。今年はボーナスがないけど、 羽毛の布団をひとつ、買った。

〔12月6日〕

花屋 〔2002年11月号外〕

花屋 〔2002年11月号外〕

▼ 多忙だと嘆くと必ずといっていいほど誰かからそれは「心が亡びる」のを意味するのだというひとことを戴く。そのとき、私は、「だったら、いっそうのこと心が滅びてしまえばいいではないか」と応じてみたくなる。▼古代から、殷、周、秦、漢…と国を滅ぼしては甦ることを繰り返してきた中国大陸の国家は、決してその民族に血が消えてなくなったわけではない。だから、といえるものでもないが、私の心も、消えてしまわないならば、一度亡びてしまったほうがいいのかもしれない。▼師走である。別にこれといって忙しいわけでもないのに「忙しい」と口癖のように言ってしまう。翻訳勉強会の課題提出期限は守れずおよそ一週間ほど延ばしたままでいる。挑戦したいトライアルにも手をつけていない。読みかけの本は鞄に入れたままで、枕元に置いた本は1ページほど読むと眠ってしまっている。大掃除も始まらない。ファンヒータもまだ出していない。窓拭き、洗車、障子張り、お風呂の掃除…などなど忙しい気持ちにさせるネタは山積である。 ▼かといって、実はそれほど忙しくないのではないだろうか、とふと思った。まだまだ亡びるほどでもなかろう。もしも何もしなかったとしても、新年はやってくるし、3月になれば再び失業者となるのは紛れもない事実だ。しかし今更、何を着飾っても人間の本性や本質を変えられるものでもないし、偽善を装って人に媚びへつらうのも嫌だ。▼同じころに引退をした田中元外務大臣や辻本代議士にしても、言うなれば同じように失業者なのだろうが、きっと必ず甦ってくる人だ。一体、あの人たちと私とでは何が違うのか。▼さて、師走の賑わいもこれからが本番だ。ツリーをきれいに飾った店先を通りかかると、今、そういうものに癒される余裕もないのか、それとも冷めてしまっているのか、などと思う。店先にポインセチアやシクラメンを所狭しと並べているのを見かけた。京都の会社を辞めるときにある女性のかたが、「田舎に帰って、いつか、花屋をしたいなあ、って言うたはったよね。叶うとええね。」と言ってくださったのを思い出した。ほんとうに私は「忙しい」のだろうか。

冬ごもり 〔2002年11月号外〕

冬ごもり 〔2002年11月号外〕

▼ 朝夕に冷え込むばかりでなく、昼中でもガラス越しの暖かさとは打って変わって、木枯らしがピンと肌に突き刺す季節となりました。子供のころには、こういう季節を迎えるにあたって、生活の隙間に息づいている人々の暮らしの営みを垣間見ることができたものです。▼三重県の中部に青山高原というところがあります。20基ほどの風力発電施設の建設が数年前から進んでいて、この風車を回す原動力となる木枯らしが我が家を直撃します。子供のころ、今の季節になると脱穀した藁を屋根の高さほどの稲架(はさ)に掛けて風よけの藁の垣根を作ったものです。テレビなどで大根を干している風景を見かけますが、あのように積み上げて、藁の垣根とするのです。同じようなことをする地方は国内にも数々あるらしく、並大抵でない風の強さに耐えて生き抜くため、人々が考えだした暮らしの知恵でしょう。1年に1度の儀式のようなものですが、これを済ませないと冬を安心に迎えられませんでした。▼家の南側にはテスコートほどの庭があり、農家にとってここは重要な作業場です。稲を収穫したら筵(むしろ)に広げて乾燥させたり、小豆や切干大根も干したりする。もちろん子供の遊び場でもある。冬の日差しの柔らかい日であればこの広場は木枯らしの吹かない楽天地でした。▼冬が近づくと日常の雑用の中で冬ごもりの手続きをしなくてはなりません。山から切り下ろしてきた大きな木をのこぎりで曳き、斧で割って、薪を作るのは子供の仕事でした。子供はその労力を提供して風呂の湯のありがたみを知るのでした。そんなことをしながら11月を過ごし師走になったら家中の埃を払い落として新年を迎えます。冬という季節に何かしらの意味合いや重みを感じます。▼さて、勤労感謝の日にバイクを田舎の小屋の中にしまってきました。今年は通勤で乗ることも少なそうなので、ガレージの一角に風雨にさらしたままで冬の間、放置するのが気の毒だと思ったからです。先日からこのパティオで、冬は乗らない、という話がちらほらと出ていましたが、要所要所を押さえておけば冬でも乗れると思うし、冬のツーリングも楽しいと私は思います。気温が低い影響で混合気が濃くなるせいでしょうか、エンジンの吹き上がりが良くなりますしトルクも力強く感じがします。タイヤが冷えているのでコーナーは少し怖いですが、ツーリングでしたら気になるレベルでないでしょう。▼ただ、たくさん着込んでいるので、おトイレに行ったときに何枚も服を開けねばならないことや食堂に入ったら脱がねばならない上着が多くて面倒です。しかし、そう思いながらもバイクを冬ごもりさせてしまって、ちょいと寂しいなあというこのごろです。

叱られる 〔2002年11月下旬号〕

叱られる 〔2002年11月下旬号〕

▼たったひとりだけ、前に勤めた会社で信頼し尊敬できる人がいた。その人にメールを書いた。▼ご無沙汰しております。いかがお過ごしですか?先日、ある人にばったり会いましたが、会社は、相変わらずのようですね。全く魅力がないので、あまり考えないようにしてますけど。 ▼わたしはそんな状態ですので、まだ何とか生きております。人の身体に例えるなら、病理部片をきちんと切り捨てないで、また、罹患部位をきちんと処方しないで、縫合してしまったような状態ですね。世間を騒がせて、会社が一部業績を取り戻したかのように見せかけて、社会に安堵感を与えている詐欺まがいの状態は、いくら優良な法人であっても、その責任は重いと思います。リストラをするなら、病理部片をきちんと切るべきですね。社員は3分の1、平均給料は 60%、役員および管理職の給料は50%でもいいのではないでしょうか。▼コラ!ボケ!カス!と叱られて、この人の指示にだけは従おうと思える人は指折り数えるほどもいないが、そのひとりである。▼人は、時々、自己を抑制する本能を持ってのことか、叱られてみたくなる時があるのかもしれない。

ともだち 〔2002年11月中旬号〕

ともだち 〔2002年11月中旬号〕

▼学生時代の友人からメールが届いた。お互いに都内に住みながら、2、3度しか会ったことのない奴(♀)で、電話でも話すこともほとんどなく、手紙が主体の仲だった。彼女は大学を卒業してひと足先に社会人になっていたので、大学留め置きを食らっていた私の卒業をたいそう祝ってくれて、新宿で飲ませてくれた。お互いの結婚後も家族の付き合いがあったが、2、3年前に、私のエッチな話に何を怒ったのか絶交状態になっていた。▼そいつから久々に届いたメール語録を少しだけ。▼S:ずいぶん久しぶり、思いついたのでメールしてみました。覚えているかなー/私:リストラ失業中。失業保険も終了。年収は前年同月比10% 以下。/S:絶交中にそんな大変な事になってたのね。嫁やお嬢は元気?逃げないでいますか?おぼっちゃまだからきっと働かなくても暮らしには困らないのでしょうね。優雅なのね。/私:私はおぼっちゃまじゃない。子供は学校を辞める覚悟もした。/S:いや、やっぱりおぼっちゃんと思うよ。たった一人の娘にそんな覚悟をさせるのだから。相変わらずあまちゃんでプライドが高いところがぼっちゃんなの。でも息子の高校でも親の失業で学校を辞めてく話はたびたび聞きます。都立なんてやすいのよ、授業料は一万円しないのだから。それでも辞めてく。この私も実はひそかに恐れている、倒産の悪夢が忘れられない、今も引っ越しの夢でうなされる。あなたは今まで楽しい人生を送ってきてたよ、趣味に生きてるみたいなところがあって。とんだつまずきかもしれないけど、かならず夜は明けるから。▼私は返事を留保している。大学一年の合コンで出会って以来、ダンボール箱にいっぱいの手紙が残っている。いつ棄てるか、今度棄てよう…と思いながら押入れに眠っている。私の心の奥を遠くから見透かされているようで返事が書けない。

木枯らし 〔2002年11月上旬号〕

木枯らし 〔2002年11月上旬号〕

▼ 窓からの景色がすっかり秋のそれになった。▼セイタカアワダチソウが堤防の内側の荒地に群生している。しかしそれももはや枯れそうなほどに色あせている。 ▼11月上旬だというのに師走の寒さが襲いかかってきた。先日、あれほど心に染み入るような青さを見せた海が、今日は鉛色に変わってしまって、河口の向こうに広がるのは、飛び込めば一瞬のうちにして命を奪われてしまいそうな重苦しい色の海だ。▼風がツンと肌に染み入る。そう思いたくないけど、まさしくこれは冬の寒さだ。木枯らしが吹くこんな景色を見ているのは、ガラス越しが一番心地よい。何も考えずに、何を目で追うわけでもなく、河から海へと水が流れてゆく道筋を辿っているだけである。▼木枯らしの一日吹いておりにけり 岩田涼兎▼背中に日差しを浴びて手紙でも書いてみるか。▼前略、皆様。少し生活も落ち着きました。稼ぎは微々たるものですが、翻訳依頼のメールも忘れたころに飛び込んできます。まだそれをモノにすることができませんが、何とか自称翻訳家と言えるように頑張らねばと思っております。ひと月に数千円の収入です。▼アルバイトのほうは、冬が終わるまでで、3月になったら契約が切れます。とりあえず、コンピュータを触ってお給料をいただく仕事をさせてもらっています。永年、会社勤めをしてきた身柄ですから、ある意味ではこういうところで日々を送るのが良いような気もします。しかし、失業中に様々なことを考え、自分なりに「生きる道理」を考えてみましたので、もう少し意地を通してみたいとも思っていますが。どうやら、私はまだまだ夢を追いかけるしか能がないようですね。▼おっと、お昼休みがそろそろ終わります。「佐藤君の車の屋根に真っ黒の猫が乗って昼寝をしてるぞ」と誰かが窓際で言っています。ガラス越しの猫はさぞかし優雅なように見えますが、ヤツだって寝てばかりだったら餌にはありつけませんから、何か獲物を捕まえる策でも考えているのでしょうね。▼お天気は下り坂です。二三日前から比べると少し寒さが和らぎました。今日は立冬だそうです。朝の寒さはまだまだこれからだと思うと、冬の到来に少し尻込みをしています。▼風邪など召しませぬように。〔11月7日〕

水の一句 〔2002年10月下旬号〕

水の一句 〔2002年10月下旬号〕

▼10月23日。引き潮の時刻になると、安濃川の河口にひっそりと干潟があらわれて、それが私の居る三階の部屋から見渡せる。海岸線の向こうには、空の色よりもいっそう深みのある青い海が広がり知多半島の陸地がくっきりとあり、河口から海岸線をひとすじに辿ってゆくと、伊勢湾の形がわかる。湾に浮かぶ船は、ゆっくりと移動しているものもあれば、白い波の筋を船尾に残しながら動いているものもある。浜にわずかな人影があるのは、猟師が貝を採っているだろう。海は静かである。こんな日に海岸を散歩できればさぞかし気持ちがいいだろう。そんなことを昼下がりの日差しのなかでぼんやりと考えていた。▼あっという間に秋になってしまった。「今朝は寒かったですね」と朝の挨拶に声をかけられて、きょうは霜降だと知った。▼10月24日。水の一句の締め切りが近づいている。駆け込み応募の季節である。「水」という題を提示しているが、なかなか思い浮かばないので、きのうもきょうも温かい日差しを背に、眠くなったときの気分転換がてらに句を考えてみてはメモをしたりしている。しばらくしてもう一度ながめて、ああ駄作だと思って消してしまう。しかし、そもそも「うた」を詠むのに秀逸性や技術が必要なのだろうか、などと語気を荒立ててしまう私であるが、「水」といわれて最初に思い出すのは「みずくさい」とか「水商売」という言葉であった。なかなか句がわいてこないが、一日一句の俳句マラソンをしている気分で、なかなか面白い。▼10月25日。満月の日から幾日も過ぎた。朝、家を出るときに西の空、掘坂山のすぐ上に白い雲の切れ端のように丸い月があった。お月さんこれから家に帰るところかい、私はこれから仕事だよ、とひとりごとをぶつぶつと言いながら、NHKラジオのスイッチを入れる。近頃、騒々しくとりとめもなく話しつづける FM曲を、ひとりでしんみりと居るときにはほとんど聞かなくなってしまった。エアチェックをする人の減少もあろうが、音楽だけを何曲も続けて流すことが少なくなってしまって、質が薄く中味の軽いことが多いFM局の番組編成にやや疲れを感じるからだ。一方、NHKでは、朗読をするように重苦しく語るアナウンサーが、その道の専門家や著名人を招いたり、また読者が吟味して投稿したと思われる便りを取り上げ、凹凸なく自己主張もそれほどない番組をやっている。これが意外と落ち着くのである。通勤時間は片道で約1時間だが、通い始める前はこの時間にこそゆっくりCD音楽でも聴いて過ごそうと考えていたのに、実際の段になってみると、音楽を聴くことは全くなく、耳にするのは、自分が演奏をするときだけになりつつある。▼10月26日。雨畑の雨に降られて以来なり。〔ねこ〕大井川上流の、井川雨畑林道で雨に降られてからひと月以上が過ぎた。密かに再挑戦を狙うが、天候が思わしくない。雨の峠はじっくりと見た。晴れの山々が見たい。きょうは雨模様だから来週に延期だ。残されたチャンスは少ない…。 〔10月26日朝〕

クビになった人 〔2002年10月中旬号〕

クビになった人 〔2002年10月中旬号〕

▼先日、中日新聞の勧誘員の人が家に来た。私は35年以上朝日新聞を購読しているので、他紙を購読するつもりはまったくなく、勧誘者にもそのことが知れ渡っているはずである。言ってみれば私の家に勧誘に来た人は、そういうことを知らない素人の勧誘員だった。その男性と一点だけ話が合った。▼彼も少し前に仕事をクビになって先日までは失業者で、新しい仕事も選り好めるほどなく、今の仕事をしているのだと言う。「職安のカウンター越しに仕事を斡旋する役所の人は、失業者の気持ちなどを、スズメの涙ほども(理解したり)感じていないでしょうね。そこが腹の立つところですよ。」と言いながら同情を求める。なるほどなー、と思い、我が家としても彼に本音を語れる唯一のところだったが、そのことを言葉に出すと流されそうなので、心で感じながら、申し訳ないが断った。ただ、彼の仕事ぶりや話しぶりを見て、身につまされるものがあった。おそらくこれまでも辛い仕事をしているのだろう。我が家に来たくらいだから(勧誘などの経験も無く)本当に(失業者あがりの)素人なんだろう。▼「私も3月末で松下電器産業(株)をクビになりました。ひどい会社でした。世間には温情の厚い、クビと言う言葉など会社の辞書には無いような人に優しい会社と思われていますが、実際は人間を道具としか思わない、腐った泥のような部分があって、自由競争に勝つためには人を踏み潰してでも経営を重視するような会社です。松下幸之助の綺麗で美しいところを上手に悪用して、幸之助の悪いところばかりをいつまでも引きずっている旧体制の会社だったです。私はクビになる前に会社の中の泥をどっさりと浴びされ、怒りを通り越して、諦めの気持ちで辞めたんですよ・・・」とは、打ち明けなかった。▼今、新聞などの失業者や雇用、不況をテーマにした記事を見ても、失業者本人の声が聞こえてこない。経営状況の厳しい会社社長の叫びや大企業の経営陣の経済政策批判は騒がしく耳に届く。しかし、もっと底辺で本当に苦しんでいる人の声は、ほとんど届かない。職安(ハローワーク)で実際にささやかれている声は、どこに消えているのだろうか。▼しかし、考えようによっては、ハローワークで百人に聞き込みをしたルポや実際に失業した人のルポを掲載しても、面白くもないし、記事に活気が出るわけでもない。失業者が読みお互いを哀れむだけであろう。不況対策にしてもその政策にしても、失業する可能性が絶対にない人が失業者救済のための策を考えているのだから、ある意味では笑い話のようだ。こういうようにぼやいたり嘆いたりすれば、相乗的に失業者のひがみとして広がるばかりだ。▼私の場合、4月から9月まで失業給付をもらうための手続きや仕事を探すための検索システムのために職安に足を運んだ。そこで、職の無い人々が真っ先に交わす挨拶は何か。それは、「失業者は国民の代表の犠牲者なのである」と思っているかのように振舞うカウンター越しの役所の人々の対応や態度、そぶり、暇さ加減などへの批判である。さらに政策の無策を諦める声。▼「(カウンターの)向こうで働く人は失業など、どこ吹く風や」「ええなあ、座ってて給料がもらえるのか」と言う声には、「妬み」のようなものは少しもない。(当然のことだが)失業者に何の人格的な欠陥があるわけではないのだし、能力が欠けているわけでもない。どこで何が間違って、階層を隔てたような扱いを受けながら仕事を探さねばならないのか、と何割かは感じている。社会の失業者、つまり仕事を突然に失った人、または失わざるを得なかった人の本心は、何であろうか。前兆もなく論理もなくスピンアウトさせられた人の本心は様々で、毎日雑談をしていても掴めない。掴めるほど誰の意見も安定していない。こういう揺れた気持ちを新聞や雑誌は記事にしない。どうしてだろうか。▼だったら私が試しに、職安で顔を突き合わせて世間話をしている内容を、インタビュー記事にしてHPに載せてみようか・・・と思った。しかし、それは良く考えると無駄なことである。職を失った人の声など、誰も聞きたいと期待していない。失業者は代表的犠牲者であると考えられているから、そんな人の声など市民はまったく聞きたくないのだ、ということが冷静に考えればわかってくる。▼貴重な体験ができた。失業者という滅多に経験のできない体験だ。不況がいつまでたっても回復しないのは、「私が味わったような失業体験を机上でしか理解していない人が多いからである」と明確に感じている。国会解散や内閣総辞職などという建て前のアクションは不要だ。すべての国民を一斉にクビにして、一から出直せば必ず景気は回復する。そう私は思う。

鮎川先生〔2002年10月上旬号〕

鮎川先生〔2002年10月上旬号〕

秋になるとどことなく物寂しい風が吹く。それはノスタルジックでありセンチメンタルでもある。

私の高校時代の数学の恩師だった鮎川先生は、いかにも数学の先生といった感じであったが、高3だった当時の私には得体の知れない先生だった。

あとから思い起こしてみれば、いかにも大学の教授ふうで、講義に来ても馴染みの話をするわけでもない。黒板に学術的なジョークを交えて授業をして、私のような極悪劣等生を眼中に入れてかどうかが不明のまま、淡々と教壇での一時間を過ごしお帰りになったように思う。

この鮎川先生の偉大さに気づくことになったのはずっと後のことであるが、その予兆はいくつかあった。

まず予備校で出会った名も知れぬ先生と言ったら叱られるか。こちらは無意識だったが「石谷茂」先生だったのであった。かの先生の講義は、必死に人を押しのけようとしてもがいている学生(予備校生)どもを前に、数学の楽しさを説いておられた。受験の数学ではなく、問題を解決してゆく手段としての数学であった。これで受験に通るなら儲けモノというわけだ。

そのあと大学で、否が応でも数学と言うか数理科学の世界に首を突っ込まなくてはならなくなったのだが、情報工学第3研究室の守屋先生や防衛医大の医用電子工学講座の関谷先生のお世話になり、数理学の世界に引き込まれていった。

数理学って何にも面白くないのですが、私にはこの「学理」が肌に合って、視点を据えるのに様々な影響を受けたものだと、今になって思う。。

鮎川先生の数学は、たかが高校生の数学と侮ったものではなく、モノを解析する眼で問題を見つめているのだということに、5年も6年も後になって気がついた。鮎川先生は難関な受験問題もスラスラと説いて生徒に見せてくださった。果たして予習をしていたのだろうか。いずれにしろ、それが東大の問題でも、大きな山を崩すようにひとつひとつを解説をしてくださっている間に問題が崩れていた。そのことが凄いことだったのだとやはり数年後に気が付いたけど、そのときには先生は他界されていた。

先生は、解けない私(クラスメートは33人で、私は32番、ただし1人は休学中)を決して責めたりなさらなかった。問題を解く論理の話をなさった。

何年かあとに京都大学のある先生(森先生だったかも知れません)が、「問題を解ける人が(京大では)合格とすると限らない」、とおっしゃっていたのを記憶する。

学者に必要な資質は、解けない問題を、深い森に例えるなら、森をどこまでも彷徨って目的地にたどり着いた人ではなく、辿り付けなかったけど彷徨っていたその彷徨った過程を生かすことにある。ダメでも構わない、答えに結びつかない答案でも、論理立てて立派に解析できることが大事で、そういう人を合格とする (京大大学院)のだとおっしゃってられた。

私の答案が立派とは思わないが、満点をとれないヤツにも一筋の明かりが届く話であるではないか。

数学とはもしかしたらそういうモノなんだ。人のレベルに応じてそれなりに価値の出るものかもしれない。だとしたら私の数学的思考も、もしかしたら少しは使い物になるのかもしれない。そう思ったとたん、数理科学の書籍がマンガよりも面白く見えてきたのを思い出す。

この時点で鮎川先生の講義にもう1度出席できたら、私の人生は変わっていたかもしれない。そう思った。

あのときに優秀だったクラスの奴らはみんな小中学校や高校の教師になっているのだが、どうもヤツらは理系を逃げてしまって、文系が多いのだ。やはり、出来が悪かった私のようなヤツのほうが、先生の願いに叶っていたのかもしれない。

ちょうどここまで書いて、放置していたら、ノーベル賞の小柴先生のニュースが朝から飛び込んできた。物理学バンザイ!

何と言うか、最も苦手で、センスも悪かった物理学や数学が、いつまでたっても愛着深いことで、鮎川先生に感謝します。クソの役にも立たない学理に情熱を注ぐことに美学を感じませんか?感涙です。

でも、娘は期末試験で数学が落第点。今日は追試だったそうです。この親父にしてこの娘あり。どんなに忙しくても試験が迫っていても、図書館で5冊も6冊も本を借りてきて、中毒のように貪っております。娘よ、父のように苦手な数理学を専攻するなよ、と言いたい・・・ようで、薦めたいようで。。。

月齢7 〔9月中旬号〕

月齢7 〔9月中旬号〕

▼9月11日のテレビや報道誌は昨年のテロのことを振り返って騒ぎ立てた。そのどれもが私のような庶民には空しい中味ばかりで、命を亡くされた皆さんは確かにお気の毒であるものの、アメリカ合州国という体制に現代社会が迎合してそのご利益に噛り付いているのだから、その一番末席で同じようになびいた一員であった以上、100%の哀れみを捧げるわけにもゆかない。▼夜中の盛り場や駅裏での喧嘩と同じで、殴られたからといって殴り返していても始まらないだろう。死ぬまで殴って正当防衛を主張しても、シコリが残るだろう。アメリカ合州国が狙われたのは、当然のこと、それが合州国だったからで、東京ではないし、北京でもない。合州国という体制が憎まれる理由を世界が真剣に考えねばならなかった。▼北山修さんは、ザ・フォーククルセダーズのHPで「単なる9月のある日が突然世界にとって意味をもつ日になってしまった。アメリカとて世界平和のためというお題目のもとにある種の戦争をやってしまった。まだヴェトナム戦争当時と同じことをやっているにすぎないのではないかと思ってしまう。イムジン河を歌い始めた頃と何にもかわってないんだなって。まだあの頃のほうが良かったかもしれない、みんなそういったことに対して良きにつけ悪しきにつけ反応していた気がするから。何にも考えない、何にも反応しないというのはもっといけない。」と書いていた。▼メディアよ。腹が立つならアメリカ合州国をもっと露骨になじってもいいのではないか。それとも腹を立てている人の数など予想以上に少なく、お涙頂戴で同情して、体制の正義感に惑わされているのだろうか。世界は自分たちのためにあればいい、黙って子分になれ、と思っているような体制に向かって嫌悪感だけでもいいから示して欲しい。亡くなった人のためにも、それが一番、平和への道だと思うのだが。▼さて、題名に「月齢7」と書いた。あと8日で満月になる。なんと嬉しいことに満月はオフ会の夜ではないか。▼私の寝床は東の窓に面していて、夏の間は、夜中じゅう、カーテンを開けて窓も開け放して寝ている。月明かりが床まで差し込んでくるので、部屋の明かりはつけていない。この光の加減が寝る前の明るさにはとても良い。眩しくないし、本を読もうという欲も起こらない。明るい星なら見えるし、偶然にも雲が流れてゆくのが月明かりにシルエットになって照らし出されたら、心の中にあった1日の疲れがすべて忘れられてゆく。▼おまけに、虫の声までが聞こえてくる。はて、真夏には無かった声だから、いつの間に啼くようになったのだろうか。庭木を剪定したときに、その切り屑を近所の皆さんはごみ袋に入れて出してしまうけど、土に帰ることのできる植物たちの死後を奪ったら申し訳ないので、私は庭木の根っこに盛上げておいた。虫はその付近に棲んでいるらしい。あくる日にそっと見に行ったら、蜥蜴がゾロゾロと逃げ回って、こおろぎがピョンピョン跳ね回っている。少し掘ったら大きなミミズが出てきた。そういえば、庭の山茶花に毛虫がちっとも付かなくなったのは、この気持ちの悪い爬虫類が喰ってくれたおかげなんだろうか。〔9月13日〕

茜の空 〔9月のPoeticレター〕

茜の空 〔9月のPoeticレター〕

▼前略 遠い空のあなたへ▼夏が終わって、綺麗な夕焼けがみえる季節になると、いつも、こうしてあなたに手紙を書いたものですね。気に入る便箋が見つかるまで店を探し回って、ペンもついでに買ってきて。▼さっき真っ赤な太陽が山に突き刺さるように落ちてゆきました。そのあとも夕焼けが真っ赤です。街の空気も真っ赤になっています。少しウイスキーを飲みました。私の顔が赤く染まったぶん、空の色はだんだんと紫色になってゆきます。▼あなたを思い出しながら、自分の部屋の机に向かい、私は茜の空を見上げます。そうそう、この手紙を書くために、机の向きを窓のほうに変えたの。その机に座って片肘を突いて、グラスを持って窓の外を眺めてばかりいる。▼刻一刻と空の色が暗くなってゆく。ジェット機がどこかの飛行場へと帰ってゆくのが見える。すっかり街が暗くなっても、空にいる飛行機は銀色に光っている。ほんとうに美しい夕焼けは、一切の雲がない空ではなく、少しばかり雲が漂っているときに出会えるのだよ、って、あなたに話した昔のように、たった今、夕焼けを見て感じていた。あれからちっとも私は大人にならないなあ。▼ふたつの飛行機雲がクロスしている。それを横切るように、また、ジェット機が尾翼灯を点滅させて飛んでゆく。心地よい風が窓から吹き込む。▼時間がコツコツと進んでゆくけど、私の手紙は少しも進まない。あなたに会いたい。もう1度会いたい。どこの空の下にいるのだろうか。▼季節が少し変わろうとしただけで、こんな時間を過ごせるようになるなんて、不思議なものですね。季節の変わり目になるとあなたを思い出してばかりです。あなたも私を思い出してくれるだろうか…。 〔9月3日〕

夏の終わり 〔2002年9月上旬号〕

夏の終わり 〔2002年9月上旬号〕

▼8月19日。朝顔の花が咲いていた。淡い紫ピンクで、ひところよりも弱まった日差しにさえ負けそうであった。一度咲いたら終わる生命である。朝顔やつるべとられてもらひ水(千代女)。夏が終わってゆくんだと感じたら、次々と懐かしさがこみあがってくる。▼ラジオ体操、月見草、ふうりん、むぎわら帽子、ひぐらし、熱帯夜、花火、流れ星、お祭り、スイカ、線香花火、大文字、立秋。▼秋刀魚(さんま)の刺身がスーパーに並び始めた。今だけのことで、しばらくしたら刺身にせずに百円セールの皿に盛られるようになる。秋の味覚を一足先に味わってみた。刺身大好きの私としては満足この上ない食を堪能した。▼稲刈りが始まった。ミクロンオーダーの埃などにアレルギーのある方々には辛い時期かもしれない。しかし、稲刈りの最中にできる体中のぷつぷつは許してやってもいいのだなー。▼私たちはどうやら先祖代々から季節の移り目にセンチメンタルを感じる触覚を受け継いでいるらしい。夏が終わって秋がくる。そう思うだけで夕焼けがきれいに見えるし、トンボが爽やかに目に映るのである。▼8月下旬にこれをノートに書き始め、そのまま、置き去りにされたままだった。少し余裕が出たかなと思って、ふたたび開いた。▼8月31日。子供たちは大慌て。宿題が終わっていない!どうしようか!私が子供のころは、宿題で叱られるよりも、早く学校に行ってみんなの顔が見たかった。宿題なんかできてなくてもみんなの顔を見に学校に行きたくて仕方がなかった。1ヶ月半をひとりで過ごすのは長かった。▼9月1日。しばらくぶりに「塵埃秘帖」を書き始めた。▼去年の12月から休みを取ったので、3月までは仕事に行かずに家にいて、そのあとは失業者をしている。「よくぞまあ、暇でないこと、不思議だね」と声を掛けられる。気安い間柄だからでしょう、そういう雑言を言う人もありますが、私は不思議にもひとりで家にいて、あれこれと読み物をしているほうが性分に合っているみたい。▼思い起こせば、7月末にあるところからUS特許の抄録つくりのトライアル問題を受け取った。英語の特許文献である。4000語以上はある。中身も相当に難しかった。これを800字以内の日本語にしてお盆前に提出するように、というのがトライアルの課題だった。これを始めて「塵埃秘帖」も止まってしまった。▼どうやらそれにはパスした模様で、あと3度のトライアルを実施しますという連絡とともに次回の「特許」が送られてきた。提出期限まであと10日しか残っていない。もし本業にしたら2,3日のモノなのかもしれないが、私にとってはまだまだ厳しい。(報酬から逆算したら1日で終わらねばならないかもしれない。)▼さて、秋である。昨日、稲刈りを少しだけ手伝ったが、足手まといになるばかりなのを見かねてか、「(明日も)手伝いおうか」という私の問いに「困ったら電話をするわ」と応えただけで手伝って欲しいとは言わなかった。▼毎年、稲刈りをするときに思うのだが、1日中を費やして米俵を10俵か20俵である。たったこれだけの米が刈り取られるのに1日かかる。私の独自の推測だが、ひとりで1年に食う米が2,3俵として、弟家族、母、私の家族(9人)が消費する米が収穫でき、少し残り、これは市場に出てゆく。生産システムの、たったこれだけの部分を見ただけで、何とも歩みのノロイ話である。作業中も時計が止まっているような感じになることがある。決して仕事に鈍さがあるのではなく、焦りや苛立ちがないわけでもない。手際のよさも求められるし、経験や知恵も必要だ。しかし、慌てようがない。焦りようがない。相手は自然だ。▼大規模な工場を持ち、世界市場に向けて時々刻々と歩みつづける大企業の哲学と、ここで埃と泥にまみれて働く人の哲学を、同じ土台で処理しようとしてはいけないのだと感じる。そういう社会にしてしまった戦後の経済政策にも落ち度があるだろうが、この国に住む以上は仕方のなかったことなのかもしれない。「自由競争」という言葉を、近代的な産業発展の題目のようにし、(履き違えたまま)、利潤を追求しつづけることに、悲しく哀れな盲目さを感じる。最初に資本主義社会を唱えた人は、本当はもっと別の理念があったのではないだろうか。▼風通しが悪く、住み心地の悪い企業を、私は捨ててきてしまった。(捨てられたが正しいのかもしれないが)。勝てばそれでいいのか、マクドナルド然り…。人間はもっと自分たちの仲間のことを真剣に考えて暮らすという余裕を持っていたのではないか。お互いが発展するという姿勢のようなもの。遅い、小さい、汚い、などはクズだという思想にも似た覇権者の匂いのする意識…。▼田んぼの畦に腰掛けると、バッタが苅田の上を無数に飛び跳ねるのが見える。秋の風が首筋の汗を拭い去ってくれる。遠く山並みに風力発電の風車が3枚の羽根をゆっくりと回している。あの羽根から吹き降ろす風とこの心地良い風はつながっている。都会で電力を起こすために燃料を燃やしつづける炉の吸入口ともつながっている。二酸化炭素が排出される煙突ともつながっている。 〔9月1日〕

オロオロ 〔2002年7月下旬〕

〔2002年7月下旬〕

暑さのためでしょうか
パソコンが不調に陥り
その他の面でも多忙に陥り

暑さのために
オロオロする夏です。

塵埃秘帖は、そういうわけでお休みをさせてもらいました。

2002年/夏

稲穂 〔2002年7月中旬〕

稲穂 〔2002年7月中旬〕

▼ 台風が来て軒先を片付けたり、その合間に暑い日が続いたりして、ウォーキングを中断していた。歩かないと歩きたくなる。歩いても歩いても日毎にお腹が出てゆく。そういえば去年、ポリープを切除するために入院したけど、あのときの夕食の量ときたら、普段の私の食卓の25%ほどしかなかったもんな。お腹も出るわ。▼ さて、久しぶりに田園の中を散策して期待通りだったので喜んだことがある。朝露にしっとりと濡れて稲穂が出ているのである。森かげに隠れた水田の稲穂は、太陽が昇り始めても陽が当たるまではシルクのような露にまとわれている。一方、陰にならず陽が差し込む水田では、この露が水蒸気と変化し朝靄のように水田の上を漂う。神秘的な風景なのかもしれない。この稲穂もお盆が明けのころには黄金色になり収穫の時期を迎え、1ヶ月後に刈り取られてしまう。▼月見草が可憐である。実際の名前は大待宵草という。月見草というのは別の花のことであるが、野良で仕事をするみなさんに尋ねたらやはり「月見草に決まってるでしょう」と教えてくれる。月見草でいいじゃないか。黄色い花が何とも今の季節によく合う。茎は、セイタカワダチソウのようにいかにも雑草のように見える。しかし、花だけを見ると何とももの静かな女性を物陰から見つめるときのような恥じらいのようなものを覚える。人通りの少ない峠道で見かけようものなら、誰もがセンチメンタルに浸ってゆける。▼黄色い花は夏の象徴だ。そう近年になって気がついた。かぼちゃ、キュウリ、ナス、スイカなど、夏の花は黄色が主役である。スイカも握り拳ほどの実をつけている。雨が多いと美味しい実が成る。 ▼クマゼミが「しーわ、しーわ」とないている。これを聞くと夏が来たと身体が反応してくる。夏休みになったんだなと、カレンダーを見なくても反応できる。子どものころの夏は、ランニングシャツに短パンで山を駆けずり回って蝉を採り、川に行き魚を追い、その川で水浴びをして過ごした。近所の野山の獣道から茶畑の間の道、桑畑を横切る道など、何処でも知っていた。▼怖いものなどなかった?そうでもない。マムシのいる谷には入らないし、雷オヤジの見回りに来る畑は横切らないという知恵もあった。このころのほうが駆け回ることに意欲的だったかもしれない。 ▼実は、富山にキャンプに行こうという計画があがっていたが、天気予報が高めの降水確率を表示していたので、取りやめた。まだまだ不安定な気団が本州の上空にいるようで、雨だといいながら青空が一面を覆いつくし、日差しが痛いほど差し込んでくる。▼出鼻をくじかれたので家に居るかな。ウナギを食べてビールでも飲んでいようか。
〔7月19日〕

七夕 〔2002年7月初旬〕

七夕 〔2002年7月初旬〕

▼あじさいの花がすっかり色褪せてしまったのでバッサリと切り捨てた。せっかく咲いた花を切捨てるのは辛いが、これも花のためである。何年か前のことだが、剪定する際、配慮が足りず、明くる年になっても芽が出て来ず花のない年を過ごしたことがあった。それ以来、気をつけている。また来年にも咲いてほしいという願いを込めて切る。枝を剪定するということを農芸学の本を読んで勉強した?うそうそ、親父に教えてもらったんですが、でもあの人何処で剪定を学んできたのか、庭師のように枝を切るのが上手かった。▼紫色という色は幾分中途半端な色で、私は苦手だ。ちょっと意地悪で用心深い恋人のイメージがする。個人的には「真っ赤」が好きで、昔、大学の同僚に好きな色を聞いたら「黄色」と答えてくれて、「じゃあ、黄色のシャツの女の子が居たら後姿だけでつられて同じ電車に乗ってしまうんだ」と念を押してしまった。赤が好きな自分の感覚を信じて、黄色を好きな感覚を疑っていた?のを思い出す。はて?親父は何色が好きだったのだろうか。知らない。▼七夕の夜に子どもが星を見るのだといって一緒に庭に出た。子どもにはどうやら夢があるらしい。宇宙を勉強したいらしい。・・・。思い起こせば、私にも星を眺める夜が続いた若きころがあったものだ。未知なるものへのロマン、というようなそんな簡単な言葉では表せないだろうが、子どもはロマンを味わっている。あの年齢は、センチメンタルでありながら、変に現実的であったりするので、深層は心理はわからないけど。▼意地の悪い私は、「宇宙物理学とは、中学あたりでいえば数学のようなことばかりをやってるんですわ、父さんのように電気通信を勉強した人はまだ簡単な数学を勉強するだけですむのだけど、宇宙の物理は難しい数学やなー」といって物理や電磁気学のテキストを見せつけて、宇宙物理の難しさを解いたのであった・・・。子どもはそれでも怯まず、「星だ、宇宙だ」と言っていた。なんて意地悪な父だろうか、私。▼七夕の夜は、雲が多く星空はまったく見えなかった。それでも雲の合間から見えるひとつの星を見て歓喜していた。▼いやー今、ふと私の子どものころを思い出した。ちょうど娘と私のように、親父と屋根に寝転んで星空を見上げたことが何度もあった。あのときに親父は、私が娘に感じたように、私のことを思っていたのかねー。こんなことを想像したのは今が初めてです。▼親子三代で夜空を見上げていることになる。昔の夜空には数え切れないほどの流れ星が飛び、現代の夜空には流れ星などない。…そんなことは有り得ない。何処かに錯覚があるからで事実と反することは自明だが、現代の子はそれほど流れ星を欲しがらないし見たがらない。見えなくても残念がらないように感じる。その理由として、叶えたい夢の数が昔よりも遥かに少ないのではないか。もしかしたら一理あるかもしれない。▼もっともっと夢多き子になって欲しいものだ。そしたらもっともっとたくさんの星が流れ落ちるところへ行きたくなるだろう。そのときには一緒に宇宙を見に行こうじゃないか、ねえ、7月9日で15歳になった娘さん。
〔7月9日〕

全身の関節に痛み

昨日の午後あたりから、全身の関節に痛みを感じていた。
夕食後にはやや発熱もした。

私は風邪を引いたとしてもほとんど熱が出ないので、何かの体調不良で37度ほどになると大変しんどい。
死にそうなくらいにぐったりするのですが、周囲は重大とはみてくれない。とほほ。

早めに寝たのですが、朝の6時にはいつものように目が覚めるし、困ったもんだな。

家にいます。
まだ、首から肩、そして腰にかけて痛いです。
熱はないみたい。


実は3月になってお酒を飲んでいない。
美味い酒しか飲まないことにしたのです。
つまり、本当に飲みたいときとか、いいことでもあって美味しく戴けるときに飲むことにしたのだ。
〔体が丈夫じゃないので、少しは腎臓や肝臓、すい臓を労わろうかと思っています〕

あれこれ  〔2001年年末号〕

あれこれ  〔2001年年末号〕
01/12/17 12:36

あれこれと思い浮かぶこと多し
     つれづれなるままに手短に 〔ねこ〕

▼ トレード
新庄選手がトレードだって。私もトレード先を募集中のみです
が、実力の有無で違って見える。でも切迫感には差がないはず …
というか、いつも一生懸命であらねばならないのは同じ事なのだ
と自分に言い聞かせる。

▼ ミニスカート
朝がめっきり寒くなった。そのくせ、スカートはこれでもかって
ほどに短い。娘もベルトの部分を幾重にも折り返している。その
くせ毛糸のパンツを履いている。可愛いパンツがすごい流行だそ
うだ。

▼ 静電気
フリース製品が増えたので静電気の発生が心配だ。暗闇でパチパ
チと静電気を発生させてみると綺麗だけれど、これが10kVほ
どにも及ぶことがあるから、ICなどはヒヤヒヤドキドキもので
すね。身体にいっぱい静電気を貯めておいて指先をそっと前を行
く人の背中に(家族などでする程度に留めること)軽く触れてやる
と「バチッ!」と飛びます。ご本人はびっくりしてエビゾリにな
ります。

▼ 静電気その2
車のフロントガラスのウオッシャー液に水を入れておきますね。
これも静電気を帯びるとドロドロになってきますので詰まる原因
です。1ヶ月でちょうど空になる程度の頻度で使って常に水を新
しくしておく。チューブが詰まると費用がかかりますぜ。

▼ 木枯らし
木枯らしが吹きすさぶ庭にバイクは起きっぱなしである。近所の
猫がおしっこをするので、たまに乗るとメッチャ臭い。カバー
は、ハンドル部分だけに自転車用のものをかけてあるのと、シー
トにドカシーを折りたたんで乗せてあるだけである。風が吹くと
飛んでいきかける。もっと大事にしてやらねば。

▼ 納豆
失業が決まってから幾分か食事を節約気味である。納豆をよく食
うのだが、ひとつの議論が生まれた。カレーに納豆をトッピング
すると美味しいと言う私に家族がもう反対である。食べず嫌いを
説得するイイ方法はないものか。

▼ ウォーキング
近所にウォーキングに出かけた。
いやー大学のグラウンドの裏に竹やぶがあって、娘と二人で探検
ごっこでその山道に入り込んだ。春になったら竹の子を取に来よ
うな、と言いながら雑木林を駆け回った。

▼ シールド
前にかぶっていたヘルメットのシールドを外して通勤用に使って
いる。ジェットなので軽くて非常に乗りやすい。安全である。た
だし、ものすごく寒い。涙が凍りそうです。

▼ 青春18切符
お正月にこの切符で行けるところまで行って見ようかなっていう
ことをしばらく前に思いついたが、調査に入っていません。雪国
に行ってみたい。鈍行の夜行列車で移動しながら眠るという旅が
今でも出来るのかどうか。お正月だから駅舎は夜通し開けている
でしょう… と想像してますが。就職祈願で有名な神社あります
か?

暮れる  〔2001年12月下旬号〕

暮れる  〔2001年12月下旬号〕
01/12/29 11:46

考えてみたらたった44回しか暮れを経験していないことになる。44回と言う数字が大きいのか小さいのかは状況により違うのだろうけど、普段から扱う数字が500MHzとか50GBなとというように10を6乗も9乗もする資料の中で暮らして来た私にとったら、ほっとする数字である。500GHzの正弦波に44回のノイズがのったって見えないんだし…。もちろんそれが致命傷で機器が誤動作することもあるけどね。

稲作をしていた父は、様様な試行を繰り返していた。しかし、作物の出来高を確認することができるのは1年に1度だけで、途中でもやり直せない。時間の周期が太陽の周期と一致していた。日常の作業も同じで、日が昇ったら田畑に出掛け暮れたら帰ってきた。暗がりの小屋で小さな明かりをつけて片付けていた。仕事納めが近づくころになると注連縄(しめなわ)を作っていた。近くのスーパーなどのさばくこともあったが、ほとんどがお世話になった人達に差し上げていたのだと思う。

年の暮れはこのように静かにしめやかに暮れてゆく。様様なことを思い出し、様様なことに感謝し、様様なことに夢を持ちつづけながら、幾つかの儀式を済ませてゆく。決してこういう時間を過ごすことは迷信ではなく無駄でもない。人の心が暮れてゆくための手続きなのだと思う。科学が、合理主義や能力主義という一見もって素晴らしいようにも思える手続きを考え出したころから社会がおかしくなった。核家族化、個人主義、我先勝手の論理、駄菓子屋の消滅、買い物カゴは消えスーパーが大手を振る。村の長老にも価値を見出さなくなってゆく。

煩悩…。

「目、耳、鼻、舌、身、意」に「苦、楽、不苦不楽」の三つを数え18通り。これを「貧しい人、貧しくない人」にあてはめて36通り。時は流れますから「過去、現在、未来」にさらにあてはめると108通りになるという。

町を走る車も少なくなってきたし、新聞記事も幾分か薄っぺらくなってきた。TV放送はVTRが目立つし、さて私も私なりに今年の悪さをした煩悩を払う儀式に取りかからねばならないか。

除夜の鐘が響くにはまだあと2晩ある。

皆様、良いお年を。(少し早いけど)

立冬 〔2001年立冬篇〕

立冬 〔2001年立冬篇〕
01/11/09 20:52

冬じたく

▼ 早や夏秋もいつしかにすぎてしぐれの冬ちかくこの季節には必ずこの歌に触れてしまう。ああ、またか… と思われていることでしょう。▼ 私たちはひらがなという文字を使います。これがまた何とも言えない温かみを持っているのが好きで、漢字を少ないめにしてかなを多いめに使えば、流れる水のごとく文章が輝いてくれるような気がします。この謡曲を口ずさみながら、様々な思いが沸き上がってきます。▼ ねえ、そろそろ冬じたくをせねばなりませんね …としんみりと語り合えることは、暮らしの中に幾つもの節目があってそれが無意識に機能しているということなのだろう。▼ 冬が近づいてくる街を、いつまでも来ないバスを諦めて歩き始めたことがあった。木枯らしが吹きつけて、街路樹の葉が侘びしく見えた。周りの建物がみんな氷でできているのではないのかとさえ思えた。そんな冷めきったコンクリートジャングルにも、四季があり、花が咲く時も来る。▼ 時雨の冬が近づく。ガラスごしに外の景色を見ると庭はすっかり冬ごもりの準備をすませている。山茶花は大きなつぼみを幾つもつくっていた。無性に人と会いたくなる。

立冬に遠き友へと便りかく  ねこ
暮れる秋ひとりの友に逢いにゆき  ねこ


PS  - - - クリスマス
レイクスジャズオーケストラの練習に行きましたら、500番以上ある譜面の中からばさっと取り出してクリマスソングを合わせた。数曲をさらっと流して、ああ、そういう季節になったんだなと思った。クリスマスソング。何が好きですか?>みなさん

冬じたく 〔2001年10月下旬号〕

冬じたく 〔2001年10月下旬号〕
01/10/25 21:39

紅葉の便りが届いたなと思う間もなく山里から秋が一気に降りてくる。朝夕、ガラス窓に露が付き始めると秋とは名ばかりで冬が近いなと思う。中途半端という言葉があるように、確かに何とも言えない不安定な季節である。

|早夏秋もいつしかに
|過ぎて時雨の冬近く

福永武彦が「忘却の河」で雁金の一節を引用している。染み染みと読み返しながら、貧しく切なく哀しい毎日を過ごす人間がドラマのなかにで生きるとは何かを考える時、季節が秋から冬へと一気に変化する今ごろは人々を憂鬱にさせるのだろうかと考えてしまう。

私の住む街は冬になっても特に寒くはないが、風だけは強く街じゅうが木枯らしに吹き曝されて、パリパリに乾いてしまうのではないかとさえ思えてしまうことがしばしばあり、ああ、私は冬が嫌いでその前触れの秋という季節は不安な時期なのだと嘆いてばかりいる。

でもね。冬ごもりをするならば、熊だって準備をするんだか
ら、私だって秋を思う存分楽しんでから冬ごもりをしたいも
のです。


枯葉が宙を舞う速度は100cm/秒くらいだという。私
だって悠々と宙に舞い、優雅に地に着きたいものだ。木漏日の光の中を風に吹かれている、枯葉よ。あの無欲なところに底知れぬ安定感と反骨を感じるのは私だけだろうか。地に落ちてしまえばもう、高木の頂きから大地を見渡すことはないだろう。

こつこつと冬じたくをする自然の営みが大好きだ。紅葉を眺め、地味な陶器の渋い茶を手にしていると、過去がすべて愚かに見えそれを後悔しない自分が見えてくる。

冬じたく おやじの癖を繰り返し 〔ねこ〕

清張さんと司馬さん 〔2001年10月号外〕

清張さんと司馬さん 〔2001年10月号外〕
登録日時 :01/10/07 17:07

みなさん、こんにちは。二人のファンは多いと思います。

NHK人間講座の月曜日の講義で10月から「清張さんと司馬さん」が始まっています。ご存知ですよね?

半藤一利さんの講義です。プロフィールは、NHKのHPを参考にしてください。私は半藤さんの作品に何一つ触れたことがないのですが、この講義には少し興味を持ってみようかとも思っています。

司馬遼太郎さんや松本清張さんは、私の読書観を大きく変えてくれた人で、最も尊敬する作家です。単なる歴史小説、社会派推理というジャンルから与える印象とは全く違う、この上なく深い洞察があり、文学として魅力の溢れた作品ばかりです。

「竜馬が行く」を読み、土佐、京都を訪ね、「砂の器」に感動して島根県亀高に何度も足を運んだ。特に司馬さんの「街道をゆく」シリーズは私の旅の形をすっかり変えてしまった。いまだに二人の作品の未読を多く残していまして、私は簡単には旅を終えることが出来ないのですわ。

そういう二人を、どういう視点でそういうふうに講義をなさるのかが興味がありますね。

NHKのHPから引用すると
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司馬さんは、魅力あふれる話で誰をも参らせた「女たらし」ならぬ|「ひとたらし」の人物。清張さんは、「作家の条件は、原稿用紙を置いた机の前にできる限り長く座っている忍耐力だ」と常々言っていた勤勉な人だった。


 清張さんは地べたを這うような視点から、司馬さんは俯瞰的な視点から、という差はあるが、共に、人間の本質とは何か、日本人とは何か、というテーマに迫った「昭和の文豪」だ。

「点と線」によって社会派推理小説という新しいジャンルを打ち立てた。それまでのトリッキーな探偵小説とは違って、作品の日常的なリアリティが読者の胸を打つ。「ゼロの焦点」の題材は、敗戦日本の町々にいたパンパン・ガール。清張が推理小説を書いたのは、戦後日本を書くための手段だった。清張ミステリーの新しさは、動機の重要性を主張し、ミステリーの現実性、社会性を強く打ち出した点にある。平凡人が犯罪を犯す恐ろしさがここにある。

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近年、原作に使ったテレビドラマ系のものが幾つかありました。NHKが和田勉さんの監督で撮ったものとか。私は原作があっての映画(ドラマ)だという気持ちの強い奴なのに、テレビの映像を抱きながらロケ地を訪ねたりしました…。

秋とは・・・ 〔2001年10月初旬号〕

秋とは・・・ 〔2001年10月初旬号〕
01/10/05 06:56

秋…風が静かに、ただ、吹くばかり

▼松下電器産業は人を大事にする会社だともっぱらの評判で、リストラなど有り得ない所だと多くの人に思われていたらしい。確かに「人材」ではなく「人財」という言葉を創り出した。創り出してから、世間に対していかにもそれらしく思わせる魔術を与えつづけた会社なのかも知れない。▼私の又従兄弟に上之郷利明というとても有名なルポライターがいますが、彼は「松下」を(PHPと仲良しで)書き続けている。親父同志が従兄弟だというだけで裏切ってはいけないような気もあるが、彼に松下が今、何をしようとしているのかを伝えたい。(もちろん住所を知っているから手紙だって書けるが…)▼「ついに人件費にまで手をのばさねばならなくなりました」と会社はいう。9月末に各部署のひとりひとりを集めて目を潤ませて責任者はいう。その理由は簡単で、ひと月当たり50億円の売上があった時代には遜色なかったけど、今は10億円ほどしか売り上げがないからだ。人件費は8億円。5分の1に減った売上に対し人件費が同額でのしかかる…という。▼経営とは面白い。儲かればこれほど楽しいものもなかろうが、人件費が重いので600人のうち200人に退職して欲しいと意志表示をした責任者は、無責任すぎると私は思う。もちろん責任者は定期的に交替してゆくので、誰を責める訳にもいかないが。しかし、そこの労働者は経営者に身を預けているんだから、預かった立場の人はもう少し責任を感じるべきではないかねぇ。▼人財と讃え、たてまつりあげて大事に扱うふりをしながら、実は経営利益を得るための道具だったとしか思えない。私は「松下」という会社に10年前に移ってきたが、真っ先に(オムロンとの違いを)感じたのは、「人材とは、人の顔をした材料で、上手に使い騙して使え」と、どこかに書いてあるんだろうか…と疑ってみたことだった。オ社は本当にひとりひとりを大事にしてくれたと感じたものだ。▼創業者の意志を上手に勝手に解釈し、人材を上手に使いながら利益をあげて、社会に貢献するという大義名分で、経営体制側がぬくぬくと満足していたのではないか。松下に移ってきながら、愛社という言葉にまったく縁がなかったのも常にこういう不信があったからだと思う。▼業務改善という言葉を打ち出して、経営を改革しようという。そんなことは誰だってわかる。そこで、松下電器の見栄やプライドや建前を隠して、社員を辞めさせようとしている。「生活に支障が出ないように…皆さんの再雇用をお助けするために努力を…」と言うけれど、本音で思ったかどうかは不明である。事務的に相談室を設けた。最高で月収の40倍の特別手当を出すと新聞に公表した。社員の昔の業績をあっさりと忘れ去り、残った人間をこき使い利益を取り戻し、活気を出そうと考えているのだろう、私はそう思う。▼技術開発を担う私たちは幸いにも狙われにくい。技術を切り棄てたら数年後に立ち直れないと思ったのかどうか。(といいながらも心配ですが…) しかし、技術よりも経理が強い会社なので些か心配もある。▼全員に配布した1枚の紙切れ。それに私の退職金呈示額があった。10年で200万円あまりだった。特別給付を入れると1400万円ほどになる。もしかしたらこのまま勤めても一生でも貰えない金額かも知れない。しかし辞めてしまったら今まで通りの月額60万の収入を保障してくれる所はない。だから…▼切実な不況である。クビを切りたい気持ちもよくわかる。だったら、なぜ、肥大化した管理職層の給料を、特に1千万円以上の所得者の給料を一律に1千万にしないのか。会社の中に格差が果たして存在してそれが正当なのだろうか。▼共働きの人達には順番に面接があって、二人のうちのどちらかに退職を暗に願っているという。会社が儲かっている時にうまく会社のおだてに乗って住宅ローンを背負っている人もあるだろう。人にはそれぞれの理由があるはず。なのにそれを、いい子ぶって優しく声を掛けて心の内では冷たく切り棄て去ろうという行いがどうしても私には許されない。▼松下は「人材を材料程度と」思ってましたと、改めて訂正して公言して欲しい。▼-----▼もしも私にもう少し裁量があったら、この時期に苦い思いをした人達の声をかき集めて多くの人に伝えたいものです。何故なら私も弱者だし、世の中の多くの弱者の怒りをそのまま飲み込むなんて絶対に許せない、と思い続けているからです。▼でも…弱虫です。

虫が鳴く 鳴いているのか歓びか 〔ねこ〕

ツーレポに酔う 〔2001年中秋号〕

ツーレポに酔う 〔2001年中秋号〕
01/09/28 22:35

▼パティオというところは閉ざされているのでマイナス面もあるが、それなりにプライベートなことも書けるので、ツーレポを書いていくのに、私は心地よいのです。▼このツーレポってのに真価が出てくるのは、書いてから数年を過ぎて、そろそろその後のツーリングとオーバーラップして来たりして分からなくなる頃に、引っ張り出してきて読むとこれが克明に様子を思い出せるから不思議ですね。スーパーのレシートなどがあれば尚良い。店の中まで記憶に甦ります。▼ツーレポを楽しく(自己満足を味わいながら)書こうということで私が自分のために作って、書いてくれそうな人に声をを掛け、評論してくれそうな人に声を掛け、黙って読んでくれるだけの人にも声を掛けた。それがパティオの始まり。▼まずまず、意思表示は効果に現れているようで、談話も多いしレポートもそこそこ多い。どちらも大事だ。無駄に見える話も不要な人には片目をつぶってもらうことになるが、活性剤ではあると思っています。▼レポートに限らず、最も力を入れて書くところは書き始めですよね。だから、尻切れとんぼのレポートも、8割の完成品と解釈してます。ホントはお尻も読みたいけどね。▼もうすぐ満月になります。少し天気が下りのようですが、雲の向こうであの美しい月が「ツン」といるのだと思うと嬉しいのよ。物静かな美人のような趣きで、バランスよく浮かんでいる。気持ちが落ち着くと、街のざわめきまでハーモニーに聞こえてくるから不思議ですね。▼一方で星空は…見上げると吸い込まれるようで、あの暗がりに吸い込まれてしまいそうなところにロマンを感じますけど、月の明かりのような温もりに少し欠けるかな。どちらに優劣があるわけでもないですが、私の弱みをフォローしてくれる魔女のような美人の後姿の「苦さ」と「温かみ」を満月に感じてしまうのです。▼地獄の拷問のように暑かった夏もおわり、短い秋がやってくる。何度も何度も紅葉を見に行きながら、飽きずにあの静かに燃える山々に惹かれてしまうのは何故だろうか…。子供の頃は燃える秋を見ても感動さえしなかったのに。美しいものを素直に受け入れることが出来るの? 激動する刺激が身の回りから減ったから?…▼近頃は、土色の陶器に魅せられてしまい、茶器や投げ差しの花瓶に目が行ってしまう。利休にも池坊にも関心はないといいながら、秋になると大徳寺を散策したり、六角堂に立ち寄っている私。金もなければ美的感覚もないのでコレクションは出来ないけど、素焼きの器を両手で抱き上げると女の子と手を繋いだよりも温かい。ほほほ。茶は苦いが…▼秋とは不思議なもので、夢のようなことを思い浮かべてほろほろと酔い始めると、不思議と詩人気取りになれる。このあたりが危険な酔域とでもいおうか、酔い過ぎないようにしながら、月を見上げて無言で居るのもいいものだ。▼皆さんの作品や私のツーレポを読んでいると、人の心はその時だけの一瞬のひらめきで、レポートにそれが表れ出ていることにも気付く。秋には秋の味わいがあり、言葉では言い表しにくいから同じ宵刻に同じ月を見上げて酔っていれば通じるものがあるかもしれない。(素焼きのジョッキを出してこようかな…)

彼岸花 〔2001年9月中旬号〕

彼岸花 〔2001年9月中旬号〕
01/09/18 22:57

▼真っ赤な花が咲きそろった。不思議にも市内でも郊外の山村でもほとんど一斉に咲きそろったようだ。ちょうど土曜日の朝につぼみだったのが、日曜にはふくらいでいた。▼土曜日や日曜日には、あちらこちらで運動会の歓声が響いていた。私の子供の頃の運動会はもっともっと華やかだったように思うが、どうだろうか、最近はビデオやカメラを持つので拍手が少ないようだし、競争を無理にさせないということで、ゴールへの順位がなくなったりして、幾分寂しい気もする。▼秋は、祭りの季節だ。運動会も祭りなんだからといって観戦中にビールを飲む人も増えた。そのことで議論も起こっているようですね。つまりは、目くじらを立てる人も増えたようです。こういうことに目くじらを立てたりする風潮って、人々が中流意識の中で幸せに暮らせるようになってきたから生まれてきた視点ではないかと思う。▼人間ていうのは、もっともっと自然で大らかに暮らしていたはずだと思う。水平に人を眺めて、何処かの誰かより自分は何それで損をした--学力が劣った、試験で負けた、給料が少ない、家が狭い、車がダサイ--などといっているからこっけいです。▼赤い彼岸花は、秋の始まりには欠かせない花でして、ああこれが咲いたから山里に行こう!と思う。そしたら、そこにはコスモスも咲いてるしススキも靡いているわけ。▼毎度書きますが、夏は、タバコにしてもきゅうりにしても、なす、かぼちゃにしても、スイカにしても、黄色い花が咲き誇る。私は決して黄色が好きじゃないけど、ああ、夏なんだなと感じる。▼実家に帰ったら、栗が台所に山積されていました。休耕田に植えた栗が実を結んだらしい。近頃は、栗のご飯も食べなくなったし、蒸かしても食べないね。素朴で美味しい味なのに…。その田んぼでは毎年、キュウイがスーパーの籠なら数杯分ほど、たった1本の木なのに成るんです。▼美味しいものがいっぱいある。そんなことを考えていたら山に行きたくなったが、少し足が弱ってきた母を誘っても嫌だと言うだろうな。▼子供の頃、山を駆けずり回って採ってきたきのこやまったけは、凄く美味しかったけど、案外、今、行って採って来てもそうでもないのだろうか…。もしそうだとしたら、贅沢な食材は明らかに私たちの味覚を麻痺させてしまった悪材になる。▼オフで南信州に行きます。昔ながらの秋を今でも伝統的に味わっている人を、あの山村で探してみようかな…。久々におばあちゃんに声を掛けて昔話を聞いてこようかな。そんなことを考えています。

有終の美 〔2001年9月初旬その2号〕

有終の美 〔2001年9月初旬その2号〕
01/09/08 19:10

▼今年の夏は、私の職場のミスが発端でエアコン事業部の市場クレーム対応に借り出されることになった。不慣れな作業と精神的ストレス?で体調不良になるが、しかしながら、その御蔭で医者に(実際には軽い気持ちで)出掛けたら「大腸ポリープ」(φ3/グループ1)が発見された。▼発見された時の浜田先生の言葉が記憶に残っている。---先生:ポリープがあります。φ3ですが(形から推測して)癌になっていきやすいものかもしれませんね。細胞を採取したので2週間ほどしたら結果を聞きに来てください。---私:切ってしまいたのですが…---先生:小さいので急いで切ることもないですよ。まあ(細胞検査の)結果次第です。▼こういう状況にはいざなってみないと分からないもので、検診を受けた当日は大して重大だと考えてもいないのであるが、周辺の人々に事情を説明している間に段段とポリープが邪魔に思えて来てしかも恐ろしいもののような不安が私を襲い始める。結果的に問題が何もなかったからこうして書いておれるのであるが、気持ちの上で細やかなる変化がそこにあった。▼まず、日記を書き始めたことである。日記は、中学生の頃に書き始め、大学卒業後社会人になって間もない頃まで書き続けたが、やがてやめてしまった。やめる理由もなければ再開しなければならぬ理由もなかった。時々、何かのノートの端くれにメモを残す程度になっていた。(←ぐうたら)▼もしかしたら余命も短いかもしれないので思いの程を書き記しておこう。誰も読めない乱雑な字であっても構わないので、これまでの人生のこととやこれからのことを書いておこう…と考えた。▼しかし、いざ書くとなると何もない。子供を頼むぞ、今まで御世話になった皆さんありがとう---そんなことに枝葉をつけて書いているだけである。人間は如何に生きるべきなのかなどという話は、毎日飲んだくれて愚痴ってきた。腐るほどくどく薀蓄をたれてきたので、今更(家族の)誰も読まないだろうし聞きたくもなかろう。いざ死んだら、死んでしまった人間のことなど一刻も早く葬り去って、決して頼りにしないだろう。生きてゆくことが第一という現実があれば、私の残したものなどを頼りにしても何も始まらない、つまりは、何かが出来る遺産も資産も私にはないのだった。▼歴史に名を残したい、と常々(半ば冗談で)言っている。パティオの案内にも書いた。曽祖父は村長だったし祖父は村会議員だったので幾分、村史に名が残っただろう。親父は自治体の職員だっただけで語り継がれるものは何もないが、何点かの絵画や彫刻が残っている。ところが私には何もない。そのことに改めて気がついても、もう既に時は遅い。リストラの波が十分に降りかかる年齢(&ポスト)であった。▼夏目漱石も40歳を過ぎてから「我輩は猫である」を発表したし、種田山頭火の作品も人生の後半を過ぎてからの方が素晴らしい。ちょうど机の上にある本に目をやる。NHKの人間講座で「天才の栄光と挫折~数学者列伝~」を講義しておられる藤原正道先生の父であった小説家新田次郎さんも気象庁で富士山レーダー設置の際の測器課長として仕事を成し遂げた後に小説家に転向している。もう50歳に近かった頃だろう。▼何も著名人に倣うこともないが、ただここで大事なことは、そろそろ人生の目標というものをしっかりと再プランアップするべき時であり、自らが認識せねばならない、ということだ。▼休暇がどれほど長くても時間を過ごすのに決して暇をしない。図書館に行っても読みたい本が次から次へと出て来て時間を弄ばない。家の中ばかりにいるだけでなく、バイクに乗って旅をする。ジャズオーケストラにもヘタなりに参加している。(仕事の話が出なかったなー…) 定年後に困らない人だと言われる。しかし、もう一歩の突っ込みが足りないのだ。▼ちょうど、4週間+10日間の休暇が9月10日で終わる。そこで、この休暇の有終の美を飾らねば…と思いながら様々な反省をした。休暇中のイベントとしてこれといって大きなことが達成できたわけではないが、やはり計画をきちんと立ててそれをきちんとフォローすることがとても重要な条件であり、実践するのは高等なテクニックなんだ、という余りにも有触れたことにも気付く。▼今、死んでしまったら「有終」もへったくれもない。だから、まだまだ死ねませんけど、死んだと同様の人生を送らないでしっかりと足跡を残すためにも、「幸福漬け」の中で見失ったり棄てたりしてきたハングリ精神やしたたかさのようなものを取り戻さねばならない。

SEPTEMBER 〔2001年9月初旬号〕

SEPTEMBER 〔2001年9月初旬号〕
01/09/03 06:07

▼九月というのは不思議な月だ。まだ夏のざわめきがしっかり残っているのにもかかわらず、「秋風の吹けども青し栗のいが」(芭蕉)の句を開いてみて、染み染みと杯を傾ける。甘い栗きんとんが食いたくなる…

▼確かに随分と涼しい。秋刀魚も店に出回り始めたことだし「秋味」というビールも山積されたいたから、確かに秋なんだろうが、ほんの数日前にふと夜空を見上げたらくっきりと天の川が見えた。空は七夕の余韻を引きずっているのか。

▼SEPTEMBER という歌があったよな。竹内まりあ。大学2年か3年だったと思う。こんな女の子を好きになってみたいと切々と思ったものだ。(実際にはそれほど好みではないのです)

▼夏の間、実家の山に引篭もっていて目に刺激も何もなかったのに、9月になって都会に戻って来て、電車に乗ったら秋色のシャツで颯爽と髪を靡かせて、ブックバンドに縛った本を抱きかかえ校門をぬけて行く女性にあっという間に気を引き付けられる。その姿を目で追っては、その縁遠さにため息をついていた。

|恋がしたいなあ…
|いや、オレは旅に出てくるよ…
|オレだって試験に挑戦するよ…

▼昔に流行った青春ドラマそのものであった。下宿に帰って隣部屋の先輩と一緒に、グラブとボールを片手に公園に出掛けて思い切りキャッチボールをした。商店街を歩き回る時は下駄履き、長髪もぼさぼさだった。でも、あの頃も松屋の牛丼は300円だった。銭湯が95円くらいで、セブンスターが100円で、ビールは幾らだったかな…。

▼九月というと、アースウィンド・アンド・ファイヤが「SEPTEMBER」 という歌をヒットさせ、太田裕美が「九月の雨」を歌った。この時期に悲しいというイメージなど私にはまったくなかったし、期末試験も終わって、がむしゃらに遊んでいるのが楽しかったし忙しかった。

▼旅に出た友人は3ヶ月ほど、どこかに消えてしまい、下宿のおばさんに尋ねても行方が不明であった。

▼青春ってこんな季節のこんな色のような気がして、秋色というのか、あいまいで枯れたような色のガラスの向こうでやっている無声映画のように、私のイメージの中に甦ってくる。何を今更、青春もへったくれもなかろうに…と思いながらも、今、旅に出たら何か発見できるかも知れないなという幻のようなことを考えている。

▼秋とはこんなものか。

感性って? 〔2001年立秋号〕

感性って? 〔2001年立秋号〕
01/08/10 07:40

▼7月31日の朝日新聞の夕刊で松原先生が、AIという映画を題材に、「AIが重視する身体性/ロボットは感情を持てるか」という見出しで記事を書いてらっしゃいます。▼人口知能の研究の従来は、知性を追って、専門家を代用するシステムを実現することだったが、これからは感情を持つコンピュータが開発されるだろう、ということに触れています。▼私が情報数学を学び始めた頃、人口知能は花形であり夢でした。しかし、知識というものを代用するコンピュータを開発することにはそれほど興味がなく、むしろ感性を実現するコンピュータに魅力を感じていましたので、私の夢は現実的でなく夢物語扱いをされて、研究はストップでした。▼精神をコントロールしたり行動を制御したりするコンピュータと、人間の心の奥を探ることのできるコンピュータが少しでも身近になってくれば、これは実に面白い。精神科のお医者さんとか行動科学を研究する心理学者や生態学者の人と共同研究をしてみたかった。▼しかし、やはり理性が生みだしたものは社会を一時的には幸せにしても、永遠のそれを保障しないので、美学と芸術性が人間には必要。適当に貧乏していることも大事なんだから、果たしてこのようなものを開発することは人類の幸せを追求することになるのかどうか。ジレンマ。

▼ツーリングも芸術的にやりたい。でないと、いつかは飽きてしまって、白けるだけだろうと思うの。(恋愛だって仕事だって同じはずなんだけど…)  そこで…▼適当に貧乏をしながら、欲望を持ち続け、決して満足しないこと。何にでも好奇心を抱き、少し無謀なくらい突撃するタイプ。少なくなってしまったそういうツーリストに頑張っていただきたい。インターネットで情報を集め、段取りを立てて、およそのスケジュールを組上げチェックポイントを決めて淡々とクリアする。これはこれで素晴らしい旅なんですけど、そういう人と、自在に漂泊する自由人が旅先で出会い、お互いを尊重し合い刺激しながら旅を省みる。そこに新しい自分のスタイルの旅が出来上がるはずだ…とも思う。▼冒頭にコンピュータのことを書きましたが、漂泊しながら自由に旅をすることをアシストできるコンピュータ。迷いながらひとりごとを呟くコンピュータ。そんなものは決して開発できないでしょう。何故ならそこには気まぐれが存在するし、人間の弱さもあるし。(スケジュール通り旅するコンピュータなら可能だろうけど…)▼つまりは、遊びの精神。人間の優柔な弱さを持ち合わせること。管理されないことが大事なんだろう。▼迷いに迷った挙げ句、今年のツーリングは、19日ころから1週間で東北方面を回ってこようかな…と思っています。(13日から4日間コースで検査入院しますので、退院後です。)

夏の終わり 〔2001年8月下旬号〕

夏の終わり 〔2001年8月下旬号〕
01/08/31 18:59

▼夏休みが終わってゆく。

▼やっとクラスメイトに再会できると胸を躍らせた夏があった。黄色い麦藁帽子の彼女と灯台のある小さな漁村まで逢いに行ったなあ。彼女は同じクラスの隣の席だった。

▼北の大地を走ったあとの身体の疲れが抜けないままのこともあれば、指の骨折で何もしないままで終えた夏もある。東北を激走したのも夏、娘が生まれたのも夏だ。熱い日差しが照りつける日だった。

▼思い出は夏に作られる…なんてわけではない。バイクは涼しくてイイですね、と言われても、本当は暑いから乗りたくないのですよ、と言い続けているくらいだから。思い出が多いのは休みが集中することにもあろうけど、体温を越えるいような暑さの中を走ることで、ある種の達成感が残るのかもしれない。

▼私は夏が嫌いだ。理由は暑いからだとしている。でも本当は、過ぎ行くもの惜しんでいるのかな。情熱の汗を飛び散らせ目指すものへと駆けている自分と一時的であれさようならをしなくてはならないからかもしれない。

▼皆さんの夏はいかがでしたか? この夏があって、後から来る秋が味わえるのだし、冬があって春が来る。私がこれを書いている間も庭から虫の声が聞こえてくる。身体を汗が止めど無く流れた花火を見た夜がウソのようだ。

日記を書く  〔2001年8月上旬号〕

日記を書く  〔2001年8月上旬号〕
01/08/04 09:46

林芙美子の「放浪記」(新版)を読み始めた。帯に「私は宿命的に放浪者である」と記してある。

1903-1951を生きた人で、ちょうど関東大震災が1923年ですから、彼女の青春に放浪をした時代(二十歳代)はその少し後ですね。

林芙美子の文章は、決して小説向きではない…というか、この作品が日記だから余計にそう感じるのかも知れないが、毎日、数ページづつ読み進むには、刺激がその都度伝わって来て、自分が溺れていくのが分かる。

詩的である。今までに何度も手にしながら、一度も読まなかったことが悔やまれるし、これだけの作品をどうして若い時期に読まなかったのか。人生観が変わっていたかもしれない、とさえ思う。

彼女は、よく泣く。私も、それにつられて深く深く読み入ってゆく。この時代の人が皆さんそろってよく泣いたのかどうか。

この時代の社会の姿は、現代からは想像し難い。そんな世紀を迎えてしまったが、たかが50年から100年前ではないか。そんな少し前のこと、その時代の空気を再現できず、人々の痛みや喜びさえも後の世代に残せずして、この構造不況(経済停滞)を乗り切れるのだろうか。

私たちは、たったの50年前をいとも簡単に棄ててしまったことの罰当たりを受けているのではないか。


男が女を愛す。女が男を愛する。人が人を憎み、ある時はこの上なく心も許す。みんなが一生懸命に生き、友を愛し親兄弟を愛して、銭金(ぜにかね)に支配されることなく、清く暮らしているのが、うらやましい。

町の埃っぽい様子や貧乏そうな出で立ちも去ることながら、海の向こうで終わってしまった戦争のことなど何も考えないで、少しづつ開花してくる文化というか文明というか…そういう中で、何を考えて生きているのか。

結構、こういうのって文学性が高いのではないかと思います。神田や銀座、不忍あたりの地名が出てきます。日本橋の上からカモメを眺める様子も書いてあった。

会社が構造改革をする話ばっかし書いて、目くじら立ててるのはやめよう。確かにいつの時代も苦労を背負って生きているのだが、この時代の東京を夢に描いて放浪記を読んでると、いつのまにか暮らしの中にあった「幸せ観」が変化してしまっていることに気づく。

休日には「よそ行き」の服を箪笥から出しておしゃれをして町へ買い物に行く。もちろん着物だろう。今年のような暑い夏があったのかどうかは定かではないが、夜は線香を焚き蚊帳を吊って寝たのだろう。銭湯だってどんなものだったか。上下水だって今とはまったく違うだろう。履物は…と考えると切りがない。

芙美子が、尾道に帰る時に使う東海道線の列車だって当時なら20時間ほどかかったのではなかろうか。

尾道に行きたくなってくる。

-*---

先日から日記を、ノートに、読めないような字ですけど、書いています。明らかに放浪記の影響でしょう。

旅に出たくなってくる。日々の感動が蓄積できたら旅に出よう。

夏、夜 〔2001年7月下旬2号〕

夏、夜 〔2001年7月下旬2号〕
01/07/29 07:11

どうしても忘れられない夜がある
喧嘩して背中合わせの夜もある
星あかり、無言で過ごす夜があり
永遠に縁切る覚悟の夜もある〔ねこ〕

昼間は、明るさのおかげで行動ができるが、夜になってしまえば、闇の中で何も見えず、果てしなく無力だ。

そこで、六根(視、聞、話、触、味、意)という触覚のうち、大事なひとつの能力が無力であることを悟り、人間の知性という才覚が、冷静さの中で力を表す。

失った時にこそ見えてくるものがあるのだろう。

人は、だから、深夜に戦略をたてることができるし、自らを省みることもできる。

   *    *   *
夏の夜。海上に打ち広がる花火を見たあとの静けさのなかで考えていた。

過去の苦い化石の欠片が急に思い出されて、ちょっとセンチになってみたり、新らたなる好奇心が涌き出てきて、少し勇敢になっている自分を発見したりする。

過去を棄てる 〔2001年7月下旬号〕

過去を棄てる 〔2001年7月下旬号〕
01/07/21 22:11

ひとつの出来事で私は、またひとつ大人になれたかもしれない。

20日にパソコンのOSのインストールをやり直した。少し前から背景が見れなくなっていたからだ。急ぐ必要もなかったのだろうが、苛立ちが募っていたので、思い切って朝から作業に入った。事件はこのときに、私のミスで起こった。バックアップ用に保存をしておいたHDも一緒にフォーマットをかけてしまった。

-*--

私は一瞬のうちに10年以上も蓄積していたツーリング日誌や日常の日記、古い写真を電子化していたもの、それに加えて多くの皆さんへの連絡先を失った。

失ったことのある人にしか分かるまい・・・とずいぶんと荒立ててしまった午後であったが、少し冷静になってきてあれこれとその感想でも「銀マド」を書き始めてみよう。

-*---

失ってしまったのだから、もう戻らない。私の記憶の中だけにしかない。しかし、それで良かったのかもしれない。そんなふうに、一夜であきらめてしまえるほどになっている。

私自身が、燃えて走ったあの時間は、あのときの姿が一番に美しかったのだろうし、魅力もあったのだ。それを踏み台にする必要などない。きっぱり忘れて、私の記憶の中を辿れるだけ残せばいい。

さらにひとつの教訓は、どうしても残したいものは活字にして紙に残すべきだということだ。古紙に墨で日記を書けば、電子の情報と違って、幾千年の後に深い土の中から発見されても、解析できるのだから。

電子情報、広義には科学技術といいたくなるが、これに頼ることは、やはりほどほどにしないと、寂れてしまう。枯れてしまう。現代を寂れさせているも人間の英知ではないか。

今回のトラブルで過去を捨て去ることの辛さを知り、一方で未来への新しい踏み台は決して過去の実績でも思い出でもないし、またそうしてはいけないのではないかと思った。新しい旅を始めなくてはならないのだ。

-*--

<近況>

日曜から水曜(または木曜まで)東京に出張に行きます。花やしきの向かいにある「東横イン」とかいうホテルに連泊しますが、このあたりの地理には明るくないので、ホテルの近くでひとりで息抜きをしますわ。

いろいろと連絡をいただいた方々がありましたが、申し訳ありません。ホテルのロビーか界隈でならお目にかかれるかもしれませんけど、そのときはホテルに問い合わせてください。アドレスやケータイ番号のメモは無くなったので。

2年という月日 〔2001年7月初旬号〕

2年という月日 〔2001年7月初旬号〕
01/07/13 18:26

過去というものは、実に不思議なものです。こんな苦しみは一生涯忘れないと思っても、月日の果てに曖昧になってゆく。ところが、過去という時系列的に絶対に戻すことのできないものを、あいまいに辿りながらも引き戻すものがあります。それは、私と関わった人たちの記憶の中に分散された過去です。

つまり、誰や彼やと集まってくれば曖昧ながら、過去を思い出しながら話すことが出来る。その中には事実と夢の境目をなくしているものもあるが、なんとも神秘的で哲学的な領域であるな、と思ってみたりする。

したがって、神聖なる哲学理念に触れながら過去を遡ることは、時には善であり、時には悪とも成り得る。酒を飲みながら、ひとりで時空間を浮遊する程度がいいのかもしれない。

-*--

去年の7月に蓼科に集まってから1年が過ぎた。台風のあとだったな、と振り返っている。飲みすぎたな…(^.^)とか。

あのころのマイナスの自分とプラスの自分が、1年を過ぎて頭の中に現れる。2年前の私も現れることだってある。よくよく考えてみると、私自身は自らを変身させて、少しでも目標に近づきたいと考えてきたのだから、過去の自分がそれほど役に立つわけでもない。ささやかな鎮静剤か酒の肴程度である。

さらに、皆さんのお顔や声は1年前のそれで停止したままである。会わなければ死ぬまで、もしかしたら死後の世界でもそのままなのだろう。

会いたいな、と思うときがある。もしかしたら切々と思う時は、実は自分がジャンプしたがっている時なのかもしれない。プラスの自分なのかも…。

娘の誕生日が7月9日。去年のオフ会が、8日。パティオは7月が開始の月。

仕事が一段落したら、英検の試験の参考書は少ししまっておいて、みんなに会いに行こうかな…と思う。そう考えてる間に夏が終わってゆくのか。

-*---

七夕様の夜に二人が出会うという話にはロマンがある。お盆に精霊が戻ってくる。いわゆる里帰りですけど、その際にこの地上に降り立つ引っかかりが「盆棚」でそれが七夕の飾りになり、昔は縁側の先に、星明かりの届くところに置いたものだという話を教わった記憶がある。記憶曖昧ですけど。

人間というものを理解するために、世界の民族の文化に目を向け、古来の日本の風習に関心を持っていると、科学技術文明が散々かき回してくれた現代社会や経済システムの「寂れ」を哀しみ、(考えながら次第に)政治というイデオロギーが(まさに現在)ちっとも庶民に近づかないのに腹が立ってくる。総理の人気と中身の段差に、選挙が近いだけに失望が滲み湧く。

-*---

そうそう、七夕の夜を大阪で過ごして家に帰ってある人に便り(メール)を書いた。

|もう一度だけ、ひと目でも会えるなら会いたい人がひとりい
|ます。でも、それは叶わぬ夢です。大阪の桜ノ宮の夜景を見
|ながらそんな七夕の夜を過ごしてました。

|蕪村が「春風馬堤曲」に書いた毛馬の川沿いの区域は、まさ
|にこの桜ノ宮あたりだったか…と思い、近くの交番に行って
|尋ねたら、ピンポンで、もう少し上流に記念公園があると教
|えてくださった。偶然に近い出会いで何だか得した気持ち。

|暑かったので散策には行きませんでしたが、なかなか雰囲気
|のいいところでした。春には「大阪造幣局桜の通り抜け」で
|有名なこの一帯も今は満満の水をたたえて悠然としている。
|伊勢地方の人間の感覚では、満ち欠きしない川の水位に違和
|感を持ちましたけど、3日間の大阪出張はとりあえず終わり
|ました。

-*---

<週末は京都>
バイクに乗らない日々が続いている。年齢のせいで、暑さの中を走る気力が無いのもひとつ。旅のきっかけを少し失っているのもひとつ。まあ、長い人生だから翳ることもあるだろうと、深く考えないことにしてますけどね。

14,15日と京都にいってきます。今年は、宵宵山が日曜日です。いよいよ、夏本番です。京都の夜は暑いのよね。

<はみ出しなお話>         WIN98のこと。
WIN98の不具合は落ち着いていますが、背景を表示する機能が壊れてしまったみたい。再インストールする前に、モデムバグの不具合パッチをどうやって入手したのかさえ忘れてるのを思い出さねばならないし、幾つかのソフトの再ダウンロードが必要になるので、面倒くさくて、背景なしで使っています。メールやニフマネのログもバックアップ(どうしたらいいかわからんけど)しなくてはならないしね。

アクセスしに来なくなったらパソコンがBreakDownしたか、東京方面に行ってしまったかと思っていてください。東京でお目にかかるための、私からの連絡先(ケータイ)を教えてくださるならメールでも放り込んで置いてください。できる限りメモして行きます。

<私の送信メール箱から>  (13日)
|ケータイは結局買いませんでした。
|土曜からドコモキャンペーンで503が半額
|\16K、
|購入予定は210で\14K。
|アホらしなって買うのをやめた。
|土曜に503を買うかどうか。
|もしも買うたら携帯メールは日曜から。
|それにしても高い。

|なんであんなに、使用料もいるのに
|首輪より悪質なものを買うのかね。

おもちゃ感覚で、娘や家内は欲しがっているんですわ。私には首輪にしか思えませんです。

<あとがき>
こんどからもっと明るい話を書こうと思っています。愚痴が多くなるとパティオも沈下していくようで反省してます。

2009年3月 8日 (日曜日)

江古田(5)〔2004年9月初旬号〕

江古田(5)〔2004年9月初旬号〕

江古田駅の裏で降りて・・・いや待てよ、どっちが裏口なんだろうか。

武蔵野音大側で下りて西に歩いて踏み切りのある大通りも横切って歩いてくると「愛情ラーメン」という飯屋があった。

190円で焼き飯とラーメンが食えたので学食で食う300円ほどする定食より安上がりで重宝した。この頃、同じ駅裏にあった松屋が300円で牛丼を売り出していて、そちらも時々利用したが、値段と満腹度から愛情ラーメンは何度も利用した。

武蔵野音大や日大芸術学部や武蔵大学があったからだろう、駅前には割安感のある飯屋が多かった。天ぷらや焼き魚など、普通の定食屋では味わえないようなモノも置いている飯屋もあった。

華やかではなかったが、江古田が気に入ってゆく理由である。

9月18日(2004年)

お盆に思う 〔2004年8月中旬号〕

お盆に思う 〔2004年8月中旬号〕

稲穂がいよいよ重く垂れ始めもうまもなく収穫の時期を迎える。ツクツクボウシが鳴き始めたこともあっていよいよ夏も後半を迎える感が強い。暑くて眠れないというような夜も少なくなった。明かりを消して窓を開けると涼しい風が部屋に流れ込んでくる。しばらく夜空を眺めているのが、無心になれて心地良い。

お盆である。親不孝の私は親父の墓参りに出かけた。実家の空き部屋で勝手にごろんと横になり棚を見上げるとアルバムが積んである。ずいぶんと虫食いだらけになっている。懐かしい写真をひととおり見て懐かしむのは誰もがすることなのだろう。

私は親父とあまり語り合わなかったな、と思う。それだけに考えることや物事の捉え方、困ったときの対処の仕方が今頃になってよく似ていることに気付くと、ことさらそのこと口に出して問うてみることができない悔しさのようなものを感じる。しかし、また冷静に戻り考える。私の質問にもしも親父が答えてくれたならその文言がまた手に取るように想像できるのである。

墓の中に居てくれて、遠く離れたところからでも手を合わせれば会えるのだから、やはり、それで満足としよう。
東京の大学に通っているという名目で、ちっとも勉強しないでグウタラをしていたのを知りながら「どうや、勉強してるか、若いうちに勉強しておけよ、父は働くのが辛いわ」というような鉛筆の走り書きを、仕送り荷物のなかに入れてあったのを思い出す。

高 2の娘は受験の緊張が少しずつ高まってきているにもかかわらず朝寝夜更かしの毎日である。テレビを見てギャハハと笑い、部屋に戻ってはラジオを掛けっぱなしで、勉強しているのか読書をしているのか。この姿を見て、さらにまた親父の気持ちが良く分かる。親孝行は親のためにするのではない。自分のためにするのであった。

父は、肩の凝る人でした。いろいろと工夫をして肩を揉むような道具を考えて作っていました。私は父の肩を揉んでやったことはほとんど無かった。肩揉みは父のためにするのではなく私のためにもしっかりやっておきなさい、と若者に言ってもわからんだろうか言わない。まあ、みんな同じような思いをすればいいよ。

8月14日(2004年)

ココログ書き始め 〔2004年8月初旬号〕

ココログ書き始め 〔2004年8月初旬号〕

ココログを始めてみたが、やはり、どうしても我田引水の趣が漂うような気がしてならない。にもかかわらず自分の日記や独り言と称して書き綴ろうとする心理とは一体何だろうと考える。

DATE: 07/31/2004 10:30:00 AM----
さあ、始めようかっていうときは、やっぱし力が入ります。初めてバイクで旅に出たときを思い出すな。

こんなことを書いている。誰も読まないモノにどうして力が入るのかと苦笑している自分の姿があるのだ。とにかく、ココログにはつぶやくような話を書いてみようかと思う。後から振り返ってみればどうってことのないことでも、その瞬間があるだろう。そういうものを書いてみるのもいいでしょう。上手く行くようだったら、塵埃秘帖をココログに移行してしまうのもいいのかもしれない。BLOGが今後どう成長して市民権を得て、私の中に上手くマッチして定着できるかどうか。

【真っ赤な太陽】

DATE: 08/03/2004 06:41:42 PM ----台風10号が熊野灘沖の太平洋に向かって西にゆっくりと進んでいた先週末、真っ赤な太陽を見た。あれほど赤く燃えた太陽を久しぶりに見たことの感動もあり、また、その周辺に夕焼けがほとんどなかったこともあって、赤さと大きさが一層きわだって見えた。

あの日の太陽は、とても珍しかったと思う。東京時代のことだが、綺麗な夕焼けに感動したのを2度覚えている。1度目は小平駅。2度目は江古田駅。どちらもホームを渡る橋の上から夕日が見えた。小平駅からは富士山も見えていたかもしれない。

普段は他人のことなど関心のない顔をして、物事にも感動などしませんよーと言わんばかりのお澄まし顔のサラリーマンたちが夕日を見て立ち止まっている。陸橋の上で渋滞が起こっているほうが滑稽だったが、まんざら棄てたもんでもないと思えて嬉しかった。

今の都会人も変わりないのだろうかね。

【おいで家の話】

「おいで家」という店に行った話を書いた。独り占めにしたいような店だった。永年住んだ街で、昔そこには別の店があった。「点々」という小料理屋で、その名前が気に入って、値段も少し高かったが度々行った。おいで家も少しお値段は高いかもしれないが、こじんまりしていて気に入ってしまった。味も良かったし。

ココログには他に待宵草の話や宮本輝さんのことも書いた。銀色夏生の詩集のことも書いた。 夏なのにセンチになるのはちょっと変じゃないか・・・とも思うが、ま、いいじゃないか。

8月11日(2004年)

江古田(4) 〔2004年7月下旬号〕

江古田(4) 〔2004年7月下旬号〕

四畳半という言葉は死語かもしれない。裸電球のぶら下がった部屋だった。戸板を開けて部屋に入る。もちろん鍵などは無い。廊下沿いに窓があって、その反対側に1メートルほどの小さな窓が、道路に面してあるだけで、タダの四畳半に押入れがあるだけの部屋だった。

廊下を人が歩くとペタペタと煩い。しかしスリッパを履かないと靴下が汚れるのである。トイレや洗面所は廊下の突き当たりに1セットあり共同だ。しかし、朝や夕方に混雑した試しもないし、トイレにしても誰かの後で臭い思いをしたこともなかった。というか、そういう思いがあまりにも当たり前で苦にならなかったので記憶に無いのかもしれない。

ある日、友人が私の部屋に遊びに来た。夜遅くまで話していたので、さざかし騒々しかったに違いないが苦情も無かった。そういう社会なのだ、この下宿は。

話が脱線したので戻します。その友人と向かい合わせで畳に胡坐をかきビールを飲んでいたのだが、その彼がふとしたことでコップを倒してしまった。そのこぼれたビールが彼のいた所から部屋を一直線に縦断して流れたことがあった。

つまり、部屋が大きく傾いているので、コップを倒すと高いところから低いところに向かってビールが一直線に流れたのであった。それほど部屋は傾いていた。

私はそんなオンボロな下宿が好きだった。

続く

江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕

江古田(3) 〔2004年7月中旬号〕

その家族と私たち下宿人は「コ」の字型の棟に同居をしていた。家族の皆さんが2階の向こう側、私たち下宿生がこちら側。家族の部屋の1階部分が食堂と居間で、下宿人の1階は数人の人が寄って何か作業をしている会社の皆さんがいた。「コ」の字の縦の部分の1階は玄関と武蔵野音大の岡戸さんの部屋で、2階は子どもたちの部屋だった。

下宿人の2階は、道路側から辻さん、私、黒金さん、大塚さん、爪生さん、林さんの順だった。黒金さん以外は皆さんが法学部だったので、夜にあれこれと部屋に集まって駄弁るときは勉強させてもらいました。

辻さんと大塚さん、爪生さんは東大法学部を目指していたスゴイ人で、1次試験には現役、浪人、早稲田1年と3度ともパスするが、2次は厳しい壁に阻まれていたらしい。毎日、寝息の聞こえるような間合いで生活するのだから、大体どんな生活かは想像できるのだが、それほどガリガリ勉強する様子でもなく普通に机に向かったり息抜きしたりしていた。なのに1次に通るなんてやっぱしスゴイ。

広大福山高校、山口高校、韮崎高校、米沢興譲館、札幌南高校と、よくもまあこんな名門ばかりをそろえたものだ。そんな連中のなかに飛び込んできた私だが、飛び込むだけで賢くなるならいいけど、やっぱし劣等感から抜け出れない日々でもあった。

続く

江古田(2)〔2004年7月初旬号〕

江古田(2)〔2004年7月初旬号〕

私がこの下宿に住みこむことになったきっかけは、文学部に進んだ島田君の紹介だった。島田君は仙台市で3年間の浪人生活を経て、4年目の浪人生活を最後と覚悟して東村山へやってきて、私と同じ寮に住むことになった。その1年間の話は長くなるのでまたの機会に譲ることにして・・・。

江古田の下宿には、島田君の仙台時代の親友であった黒金さんという、早稲田大学の商学部にかよう人がいて、島田君の紹介もあるが、私が下宿の新米として入れてもらうときには、この黒金さんの知人の紹介ならOKでしょう、ということで受け入れてもらえた。

家主さんは安藤さんといって、下宿屋の名前は「能生館」といった。おじさんが新潟の出身なんだって聞いてもその頃の私は何も考えておらず、この名前は新潟県の能生町から取ったものだと初めて気付いたのが社会人になって旅の途中に能生を通ったときだった。

安藤さんの家族は、真の親のような気持ちで面倒を見てくださっただけに、私はグウタラ下宿生だったので、おじさんやおばさんに申し訳ないかったなとしきりに反省をしたものだ。

「ねえ、お父さん、東京が焼け野原になってもこの能生館は燃えずに残ったらしいですものね。昭和3年に建ったんだからたいしたものよねぇ」と沁みじみと安藤さんのおばさんが話していたのを憶えている。おばさんは当時、40歳くらいだっただろうか。高校生の男の子と中学の女の子、そして少し歳が離れて小学生の男の子の母で、私たちの下宿人の夕飯も作ってくださる、私たちにとっても母のような人だった。

続く

江古田(1) 〔2004年6月中旬号〕

江古田 〔2004年6月中旬号〕

西武池袋線の江古田駅の南口を出てすぐに線路沿いを西に歩く。しばらくすると稲荷神社に突き当たって、そこを通り抜けながら南へ直角に曲がると千川通りという大通りに出る。通り沿いには武蔵大学の塀が延びている。ここをひと区画ほどさらに西にゆくと武蔵大学の正門があって道路が北に向かって延びている、私の下宿は、駅からこのように北斗七星の形のように路地を曲がってゆくとあった。

玄関には「能生館」と書かれていて、スケールは小さいが大正時代の由緒のあるような旅館のような構えだった。どうやら昭和3年に建立されて東京の空襲でも燃えなかった幸運な建築物らしい。下宿屋のおばさんがお父さんに「空襲でも残ったんですものね」と染み染みと話をなさっていたのを耳にしたことがある。

隣に「南国屋」という飯屋があって、暖簾だけがぶら下げてある。暖簾が下駄屋ならば下駄屋らしいし旅館ならそれはそれでもっともらしく見えるという風情の飯屋だった。猫が7匹ほどいて、ばあさんが「ねこちゃーん、ご飯だよ」と夕方になると呼び寄せていたものだ。「さあおいで」と優しく誘いかけていると思えば、なつかない猫たちを「お前たち、どっかに行ってしまいなさい!」と追い払っているところも何度も見た。あの猫たち、料理されはしまいかと心配したものだ。そんなこともあって、ここのばあさんの飯はさすがに食う気になれず、よその店ばかりに行っていたが、一度は食ってみても良かったかもしれない。

南国屋さんは下宿屋も兼ねていて二階に若い女の人がひとり住んでいた。その彼女の部屋が能生館の私の部屋のまん前で、窓をあけるとお互いが部屋の中まで丸見えだった。女性は下着を干すのも平気で、まだ二十歳前の男が向かいに住んでいることを知ってか知らぬのか、あらわにカラフルな洗濯物を窓の手すりの前にいつもぶら下げてた。勉強机に向かってふと窓のほうを見ると風に下着が揺れて、その向こう、つまり部屋の中で女性の姿が動いているのが見えた。しばらくすると会釈くらいは交わすようになったような記憶もあるが、残念ながらそれ以上の知り合いになれたわけではなく、悩ましい衣類や年頃の私が最も好奇心を抱いていた女性という未知なるモノの姿ばかりが瞼に残っているだけである。

下宿屋は、早稲田の学生専用だったが、例外的に一階の玄関脇の広い部屋には武蔵野音大の岡戸さんという女性が住んでいた。毎朝8時になると「あー♪あー♪あー ♪」と発声練習をした。ピアノの練習よりも歌の練習が多かったように記憶する。聞くところでは教育課程が専攻らしい。
あのころは誰もがみんなが可愛く見えたが、女性にはまったく縁がなく、私の部屋に来るのは、もっぱら隣に並ぶ部屋に住む先輩たちだった。

続く

こころ 〔2004年6月初旬号〕

こころ〔2004年6月初旬号〕

夕刻、東の空を見上げると満月が出ている。雨が続いて空気が綺麗になったせいもあろう。ウサギの姿がくっきりと確認できる。

平安の人々のことを必ず想像してしまう。石油が起こす明かりは当然ながら無い。車の騒音もエアコンの熱も無い。しかし、夏の暑さは千年の昔も今も同じだろう。

人々は、同じ暑さを感じながらどうして不快な度数を異なって表現しているのだろうかと考えると、それはまさに自分たちが如何なるものであるのか、という意識の違いではなかろうか。自然には逆らえない無力のなか、自然のというものが科学によって証明されない状態で、そこには宇宙に飛んでゆくというような夢もなかった。

世界をひとつにし利益を貪ろうという強欲も生まれる前の、ある意味では純粋に文明を育んでいる時期である。

縁側を開け放ち、月の光を眺めて歌を詠んだのは、何も貴族だけでもなかっただろう。

庶民には庶民のうたがあったはずだ。子どもを寝かしつける唄もあろう。1日に感謝しながら、我が民族が身体の中に絶対的に持ち合わせた謡曲のようなものもあるだろう。庶民には言葉の遊びとしての抑揚を持った感情表現があった。それは梁塵秘帖や閑吟集のようなものでもあろうか。

今と比べて格段に弱くて非力な人間が、生きるということにしたたかであった足跡なのではないか。

インターネットに絡んだひとつの殺害事件が発生していた。心が荒んで貪り食われているのではないと思う。人間が無駄な時間を味わうことを美としなくなったからではないか。科学は哲学を持たずに歩き出してはいけない。

蛇苺 〔2004年5月中旬号〕

蛇苺 〔2004年5月中旬号〕

野山を歩くと思わぬモノに出遭いました。私はデジカメを持っていませんので撮影を出来ませんでしたが、しっかりと記憶に焼きつきました。

それは、蛇苺(ヘビイチゴ)です。緑の葉っぱに埋もれて真っ赤な実を幾つも付けていました。

かくれんぼ隠れた褒美に蛇苺 (ねこさん)

子どものころに裏山を走り回って遊びました。蛇苺を見つけたら、かくれんぼはひとまず中断で、みんなで摘んで食べたものです。

この日も、歩いたご褒美だったのだろうと思っています。蛇苺をひとくち食べにもう一度野山に行きたいなって思っています。

歴史街道を散策するとあぜ道にアザミの花も目に付く。去年、そういえば山伏峠を越えたときに、峠の麓の村でたくさんアザミを見かけた。


緑の中に赤系の色は刺激的だ。情熱を感じる。

カワセミさんがホームページで「雑草」と書いていたのは、シロツメクサ。これは、クローバーといえばわかってもらえるでしょう。四つ葉のクローバーを探して野山をかけた子どものころが懐かしい。

個性  〔2004年5月初旬号〕

個性  〔2004年5月初旬号〕

私は右の道を選びたい、というときに、左を選びたいという人に出会うとしよう。とことん話し合いをしてもそこに解決の糸口がないことだってある。向こうが暗闇ならばなおさらで、どっちでもいいわけだが、人が人の上や下に居る構造を成し、名誉や地位を勲章のように見せびらかされたら、話は純粋なものからかけ離れてゆき、駆け引きの話になってくる。もう、散々、こういうことに心を煩わせてきた。社会の中では当たり前だという人の声が大きいので、煩うのを嫌がった人は、私のように負け犬である。

残念ながら私には勝負という概念がなかった。つまり、そこに名誉もなければ地位もない。大声を出してがなることも、大金を儲けようとする欲もなかった。そういう文化の中から、逆の文化に飛び込むと、最初は錯覚に陥ると同時に、自分の存在がすべて逆に見えてくる。詰まらないことまでが本当に当たり前のように思える。

前の職場では面白い風景があって、それはチャイムが鳴ったら養鶏場の鶏のように飯を喰いに食堂に駆け出す人たちが多い姿であった。決められたように行動するのは、職場を移ってきた私には、さながらロボットのように見えた。(鎌田慧さんの「ロボット絶望工場」というルポルタージュのようなもんです。) この人たちはもしかしたら、食事の際にまず何から箸を着けるかというような規則を指示されているのではないか、と疑ってしまった。廊下を歩くときには足並みをそろえるとか、髪が長いと散髪に行けとか、駐車場に車を止めるときには同じ向きにそろえて止めろ・・・など挙げればキリがない。そうそう、私がひげを生やしていたのを見て「剃れ」と言った愚かな人もあった。
…と、ここまで書きながら、昔の詰まらないことを思い出している自分がこの上なくアホに思えてきた。

まあ、「右の方法でやってください」と指示を受けたら「左でもやらせてください」と応えてしまう私には、同じ品質で大量のものをソツなく作り出す事業体や、作り出させるためのシナリオを書いている部門には、まったくもって不向きであったのであるが、気付くのが遅かった自分の戦略意識の無さを今更ながら情けなく思う。
ただ、しみじみと思うことがひとつある。近頃の人の多くがこのようにあれこれと規約のあるほうが心地よくある意味で楽チンであると思うらしい。自分で何かをすると言い出すのは自分の得になるときだけで、組織の中にいるときはあまり何も考えないようにしているように思える。(…というか得になるときの主張ばかりが目立つのだ。) あくまでも私の個人的な猜疑的推測であるけど。

人の顔は、たとえどれほど似ていても必ず区別できる。だったら人の心や心の動き方や感じ方も、顔と同じほどに区別できるはずではないか。そうであるのに、同じ服を着せ、同じ時刻にチャイムを合図に行動させ、あげくの果てに痛いとか痒いということにまで同期を取らせようとする組織があった。そういうものの存在は許すとしても、その有害性は許すことが出来なかった。

風景  〔2002年6月下旬〕

風景  〔2002年6月下旬〕
▼さまざまな風景から▼ウォーキングの途中でじゃがいもの畑をみつけた。花が咲いたなーと思っていたらいつの間にか掘り返してさら地になってしまった。次は何だ。美味しいじゃがいも、先日、おふくろにもらってきて食べました。▼とうもろこしが大きくなっています。もうすぐ実がなる。この美味しい実を烏が襲うのよねー。農薬のかかっていない美味しい実は、一夜のうちにかじられてしまう。おふくろが、これも頭を悩ませていました。明日になったら収穫しようと思うとるとかじられる。あれは猿やない。烏や。▼梅雨です。でも、雨の降らない日はまさに真夏の暑さです。いつも歩いている川沿いに新しいアパートがあります。アパートのほうに向かって私は堤防を歩いてゆきます。それがいつものルートです。今日、その前で手を振って「さようなら」をしている若い二人を見かけました。女性は手を振ったあと自転車の乗って前のかごの荷物を気にしながら、堤防を一直線にこちらのほうに、振り返らずに走ってきます。男性は、手を振ったあと階段を昇って、部屋にたどり着くまでの間、何度も何度も彼女のほうを見て、見送っておりました。もちろん彼女はそんなことは知らないで、私とすれ違って堤防を走り去ってしまいました。いや、ただそれだけの風景です。▼高校陸上部のトラックの前も通ります。下校時刻が過ぎたのにトラックの中に人影が二つありました。周回を走っている十数名の歩調の掛け声が山に響いています。沈む太陽が真っ赤に燃える。忙しい、あれもこれもしたい、という言葉を口癖にしている自分の前を、真っ赤な夕日に包まれて、青春のひとときを過ごしている若者たちの姿を見ていると、何ひとつの損得も考えずに、一見怠惰にも見えるその語らいの時間が彼らの宝なんだな、って感じさせられる。トラックのなかの影は、向かい合ったり背中合わせになったりしている。夕日の赤い光線が容赦なくふたりに突き刺さる。

事故  〔2002年6月号外〕

事故  〔2002年6月号外〕
▼交通事故というものは、天災なのか。考えてみれば自明であろう。しかし、その悲惨さに直面すると自分たちの無力さえ感じることがある。昨日まで普通に話をして、(家内が)同じ職場で仕事をしていた人がバイクを運転中に、交差点で一方から走ってきた車に追突されて亡くなった。病院に運ばれたときには内臓破裂で即死状態だったという。交差点の外まで跳んだというから相当の速度で追突したことが想像できる。しかし、詳細は分からない。小学生の子どものあるお母さんだっただけに胸も痛い。▼1974年の5月31日。梅雨入り間近の空は、朝のうち曇、夕刻には大降りに変わっていた。私は、雨具を持たずに出かけために、学校から帰ってきて駅に着いたときにはその大雨に悩む猶予などまったく与えられていなかった。ただ、学生服をびしょぬれにしてでも雨の中に突進するしかなかった。「明日から夏服や、濡れてもええやろ」そう思ったかどうかは不明ですが、6キロの家までの道を濡れて帰ることになる。▼今でもあの事故に遭った交差点を通るとあのときを思い出す。通学バイクは原付きだったのでヘルメットの着用義務はなかった。しかし、ジェットが好きなので愛用していた。雨が顔じゅうに当たるというよりは突き刺さる。目に飛び込んでくる雨粒を避けるために、幾分うつむき加減になってひさし部分で遮る。必然的に遠方が見えなくなる。雨のために視界が不十分なこともあり、車がセンターラインを大きく踏み出して脇道(バイクの右手側)から出てきたことに気づくのが遅れ、車の右ヘッドライト付近と私の右足のスネとが接触。バイクは転倒して進行方向とほぼ同じ線分上を約30メートル滑って止まった。(足の怪我が治ってきた頃に、背中じゅうに擦り傷があることが分かった。) ▼近くの外科病院で30針余りの応急縫合処置をしてもらい、ひとまず家に帰った。その夜は痛かった。多分、鎮痛や化膿に関わる薬など何も飲まずに(というか応急の医者だったのでとりあえずフタをしただけなのか)夜を過ごさねばならなかった。スネにぐるぐると巻いた包帯は太ももよりも分厚くなっていたが、夜半を過ぎた頃にはそれが真っ赤に変わった。不気味にも血の包帯は冷たい。▼2日めからは親戚の計らいもあって別の医者にかかったが、主治医は傷跡を観察するだけである。1週間ほど過ぎた頃から発熱があったのをみて「化膿している」という。再手術は簡単である。縫い合わせた部分を全部開いて、ちょうど両手で拝んでいる手を広げたような大きさの傷口を洗ってくれるのである。魚が腐ったような匂いがする。もちろん私は暴れるので2人の看護婦さんが私の身体の上にプロレスラーのように乗っている。その柔らかさを喜んでいる暇などまったくない。▼結局、7月半ばに退院して、久しぶりに学校に行ったら微分積分の授業が終わってしまっていた…という記憶だけが残る。▼事故にはもう懲りたかというと、まだあった。その半年後くらいに同じ現場を500メートルほど過ぎた見通しの特に悪いカーブで、無理な追い越しをかけて、前方に突然現れたダンプにぶつかりそうになり急ハンドルを切って転倒するという事故を起こしている。腰のレントゲンを撮って主治医は「ヒビが入っているようにも見えるので」と言う。しばらくコルセットを巻いた生活をしていた。▼事故は何故に起こるのか。理由のひとつは、「速く走ろうと考えるからである」というのが私の考えです。速く走るために譲り合わない、慌てる、追い越す。これらのおこないの中に危険が潜む。実際に速く走ると、安全確認動作に要する時間[t1]が、その動作を許容する時間 [t2]を超えてしまい、t1>t2となる。ここで事故の発生する確率式を、P(x)=K・exp(t1/t2) と表せるかなー、なんて考えてみたりしてます。▼もうひとつの危険な理由がある。それは脇見で、歩道を行く可愛いらしいねーちゃんの足を見つづけると上の式のP(x)が大きくなってしまうので気をつけねばならない。まあ、これは余談です。▼そもそも、オートバイというのは作用と反作用の法則どおりものである。カーブでバイクが傾いているときにはこのふたつの力がつり合っている。ブレーキを掛けると、バイクは外側に傾きを戻そうとする→運転者はそれを抑制する(ハンドルをきつく切る)という現象が起こる。例えば、突然、カーブで前方に車が現れたら…、急ブレーキを掛けたあと上記の操作をし、ほとんどの人は内側に転倒する。▼自転車がかじを切る瞬間も同じだ。左に曲がるためには左に傾く必要がある。そこでハンドルを逆に右に切る→急に右に曲がろうとすれば反作用の力で車体は左に傾く→この傾きを利用してハンドルを左に戻すと車体は左にかじを取れる。▼これを意識して操作している人は少ないでしょう。まして4輪車などで考える人はラリードライバーくらいで、それも実戦時には考えないだろう。バイクに乗っている人の場合、こういう極限状態を身体でよく知っておき、常に心掛けておれば、バイクを相当に安全な乗り物にできることは間違いない。そういう意味では、元来、バイクは非常に安全な乗り物なんですからね。しかし、まだまだ狂気な乗り方をする人が(車もバイクも)絶えない(永遠に絶えないでしょうが)うちは、自己防衛をするしかない。すなわち、P(x)を小さくする心遣いだけが私たちを救うのである。

オヤジの背中  〔2002年6月中旬〕

オヤジの背中   〔2002年6月中旬〕
▼(パティオのYさんのメッセージを思い浮かべながら書いています)▼生意気にも、子育てのことでコメントを書いてしまった。ろくに子育てもしないでここまで来た私が書いたので、まことに失礼なコメントだったかと、幾分消沈気味である。▼これからの未来がある人には、それなりの希望と情熱と信条を持って生きて行って欲しい。子育ても然りです。それが私になかったわけではないが、ややもすると現代人には(←若者たちというとジジイみたいだしね)それが不足しているようにも思う。▼正高さんの本をオススメしていながら「父親力(中公新書)」をまだ読んでいなかった。早速、買ってきて読み始めました。正高節である。「子どもはことばをからだで覚える」「0才児が言葉を獲得するとき」にしても、大学の心理学や行動科学のような語り口で始まるけれど、嫌気を出さずに読むとなかなか庶民の視線で論じてあると思う。▼まだまったく読んでいないが「はじめに」を読んだだけで嬉しくなってくることが書いてある。「親はなくとも子は育つ」というように昔から言われてきた日本の社会であるが、「親の背中を見て子が育つ」という時代は終わった。子が親の日常を知らないし仲間同士が諸事をまかなうことがなくなったからだろうと (主題ではないけど)書いてられます。▼昔だったら子どもは必ず5人以上いて、末っ子は四十過ぎてからの子どもだったりしました。つまり、私のような年齢になってからの子供です。この時期、子育ては大変な苦労ですし、冷めているかもしれませんが、自分が生きている間に末っ子は成人して結婚してくれる可能性だって少ない。親は子どもの晴れ姿を諦めているし、子どもも親に甘えていなかった。▼こういう関係ができ上がっていた家族社会構成のなかで子どもはどんな意識を抱きながら大人になっていったのかを想像するだけで、逆に今、ひとりっ子で育ってゆく子どもたちが、ひとつの動物としてどれだけ弱々しいものかということがわかります。▼正高先生は当然のこととしてそういう現象をしっかりと掴んだうえで「親の背中を見て育つ時代は終わった」と書かれたのでしょう。では、今の子どもはひとりっ子が多く、ひ弱で未完成かというとそうではない、と私は思います。▼きっとさらに読み進めば、子どもに必要以上に差し延べている(現代の親の)「おせっかい」のことにも釘をさしながら、損得を介さずに、もっと人間らしく人間の行動を見つめるということを、科学の視点で論じてくれていることでしょうと予想します。これから読みますから分かりませんけど。▼私の父親について言えば、不思議な魔力を持っていて、あまり多くを説教したわけでもなければ、息子に薫陶を施したわけでもない。にもかかわらず、彼の信条や生き方、視点、思想、反論の仕方に始まり、反体制なところ、照れ方、すね方、怒り方、飯の食い方、屁のこき方に至るまで、父に似ていると、今になって思います。▼本の趣旨とかけ離れてしまいましたが、こうして考えてみると私も父親の背中を見て育った世代の人間なんだな、と思います。そこで、今の子どもたちに「もっとオヤジの背中を見ろ」と言っても、父が時計に操られるように行動するような会社人であっては、学ぶものは少ないですね。真面目(に見えるように) に働けということを教えるだけかね。▼私のように会社に「楯突く」のも良いとは言わないが、負ける喧嘩とわかっていても、時には意地を通すようなアホさを通すことを身をもって教えたことは、決してマイナスではなかったのだ…といつか言えるようになりたいものです。▼大型トラックの免許を取りに行っています。英語の学術論文を翻訳する仕事も諦めていませんし、コンピューターのプログラムを書く仕事も諦めていません。でも、ダンプの運転手や長距離トラックの運転手も目指したいと思って学校に通っています。世間からしたら一風変わった変な怠け者かもしれませんが、娘はどういう視線で見ているのでしょうかね。▼サッカーの英語新聞の記事。速読したらまだ私のほうが勝っていますからね、負けないように勉強しよう。そんな日々です。これもひとつの父親の姿だろう。

らくがき 〔2002年6月初旬〕

らくがき 〔2002年6月初旬〕
▼初旬号は、あっという間に時間が過ぎて書けなかった。すみませんでした。欠号。

ドラマ@らくがき

これでお別れだと決めた夜にも私はその子を抱いていた。
別れ話を口にできずただひたすら手を握りしめた。

二人で幸せになるんだと信じて何も疑わないその子を、ポイと海に放り投げるように突き放して、別れてしまった遠い夏。あの夏も雨が幾度となく旅の私をいじめた。

雨があがると蒸し暑い朝を迎えた。
大きな橋を渡った後に、川霧を見おろしながら私は言った。

「・・・」

あの子は何も返事をしないままそれきり一度も振り返ろうとしなかった。
別れの瞬間だった。

旬の味  〔2001年6月末日号〕

旬の味  〔2001年6月末日号〕
01/06/29 18:53
▼日帰り温泉に出かけて帰りに実家に立ち寄ったら、おふくろがとうもろこしが昨日あたりから実っているのでどうだと言う。そこで早速、裏の畑に行って取って来てもらった。▼畑の一角を1メートルも掘れば水が湧き出すようなところなのに、今年は水不足のせいで実の先のほうまで粒がそろわないのだと言う。なるほど、農家は今の時期には雨が必要なんだ。▼昨日獲れて茹でてあるものを冷蔵庫から出してかじってみた。特別に肥料をやっているわけでもないけど、農薬も無縁である。土の持つ独特の香りがする。畑が変わると少しづつ味が違うような気がする。店の味とは随分と違って、旨いと私は思う。▼ところが、これを早速、カラスが発見していて、二日目(今日)にして既に少しかじられた跡が残っている。収穫できるものは慌てて取ってきたと言う。せっかく作ったのにカラスに喰われるので、毎年、防御対策に苦心するが、相手は悪知恵の働く動物(鳥)であるから、なかなか苦心は実らない。▼茄子もきゅうり、トマトもこれからが旬である。きゅうりは、黄色い花を咲かせながら既にぶらんと実が垂れ下がっている。「親の小言と茄子の花は千に一度の無駄も無い」と親から説教を喰らったものだ。黄色い花は何故か夏に似合うな…。▼朝露に濡れたトマトの実をもぎ取りそのままかじった時の旨さ。あれを喰いたくて我が家の庭で一度、栽培したことがあったが味があれほどまでに再現できなかった。実家のトマトが旨いのは、豊富な水や畑に適した土のおかげなんだろうと思う。▼結局、茄子ときゅうりとトマトの栽培は2回ほど試みたがやめてしまった。▼ナスやきゅうりの横で、スイカが畑一面に広がっていた。葉っぱの隙間を覗き込んでみると、野球のボールくらいの大きさのスイカが成っている。何年か前、食べきれないほど成って軽トラに積んで運んだ記憶があれば、まったくできずに(カラスの被害もある)ひとつかふたつしか手元に頂けなかったこともあった。▼一昨日、夕立があったとよめはんが言う。そろそろ、そういう季節なんだな。夏は暑いから嫌だと叫んでいても、秋になったらもう忘れている。夕立ととうもろこしが暑い夏を思い出させてくれた。

四国遍路を読破中 〔2001年6月下旬〕

四国遍路を読破中 〔2001年6月下旬〕
01/06/22 21:35

▼辰濃和男さんの「四国遍路」(岩波新書)を読破中。▼明日は一旦、図書館に返却して、ポケットマネーで購入してから続きを読もう。どの見開きページを読んでも、惹きつけられるものがあると思います。▼皆さんも、騙されたと思って、よかったらどうぞ。きっと、このパティオの皆さんなら感銘を受けると思います。▼辰濃さんは長い間、天声人語を執筆していた人なんですが、あの視点というか、眼差しの優しさというか、自然体なんです。理屈も書く。歌も参照する。人の温かみを上手に包み込んでいます。ぜひ、どうぞ。

ため息 〔2001年6月中旬号〕

ため息 〔2001年6月中旬号〕
01/06/13 21:02

|あなたのため息と
|わたしのため息が
|都会の雑踏で出会って
|おい、週末だから、飲みに行こうか
|って相談してる

|待ち合わせた人混みのなかで
|まだ見つけられずに
|あなたとわたしは
|オロオロしてるのに…

|せめて
|わたしたちのキスが済むまで
|待っててくれよ


▼パソコンがデスクにやってきて、独占して使えるようになった時、そいつはまだ数行しか表示出来ず今なら子どものおもちゃ程度の物だった。しかしながら、私だけのことが書き込める秘密の箱で、ちょっとした心中の歓びや苛立ち、誰にも言えない内緒の話などを書いたりした。昔の旅日記を書き始めたのもこの頃だった。▼インターネットでは、個人のHPが花盛りで、どこもかしこもBBSと呼ばれるオープンなメッセージボードが個性を主張しあっている。それぞれがテーマを持って書いて、ちょっとした有名人気分である。そんなHPの中に日記を綴っている人がある。充分にネットの善し悪しを理解してのことだと思うが、結構、プライベートなことまで書いてる人があるので驚く。▼でも、所詮、他人の日記でして、たとえ妻であっても恋人であっても覗いたりしないものなので、読む側としてはすぐに飽きてしまい、また別の面白い作品を探すことになる。▼「ものかき」ではないけど、私だって有名人のような気分になってパティオに書き込んでみる。果たしてどれだけの皆さんが読んでくださっているのか。何を書いたら興味を持ってもらえるのか…と考えることがある一方で、一転開き直って、私は自由に書こうとも思う。もしも、ある日突然死んでしまっても、この記述は残るし、ゴミの中に将来の宝があるかも知れないのだから。▼何の意味もない「只の呟き」のような記述に惹かれることがあります。本人は詩人気取りでもないし、普通に思いを書いているんでしょうね。前にも書きましたが、パティオというところに居ると、皆さんのそういう文章に出会えます。▼バシバシ、書いてね。ツーレポ、エッセイ、日記系、ひとりごと、ため息…

書く文化、読む文化〔2001年6月その2〕

書く文化、読む文化〔2001年6月その2〕
01/06/07 22:03
▼危うくパティオを解散してしまうところでした。心の中で、奥深くで、やめたくないと願っていたのでしょうか。だからやめないでという人が数人も出てきたら、即座に継続を決意できた。やめるかも…という宣言は、とんだ茶番でした。みんなに迷惑になったと反省仕切りです。▼インターネットの掲示板は、皆さんがそろって使い勝手が悪いとおっしゃいます。私は以前から、インターネットとパティオの関係は、テレビとラジオのようなものだと感じていると書いてきました。▼音楽がかかっていないNHKの「語りの番組」を近ごろ、聞いてみたりします。私は野球中継が好きではないし、かといって喋りの多いFM番組も困ったものですので、ついつい、普通の番組を聞きます。それがNHKのもの。▼時に、ラジオドラマを聞いたりすると、「聞く文化」「聞き入る文化」の良さを感じます。パティオでも、書く文化、読む文化、があるんでしょうね。置き忘れてくるところでした。▼ま、騙されたと思ってNHKの番組を聞いてごらんあれ。ずるずると引き込まれることがあります。ちょっと憩うこともあれば、ちょっと博学になれることもある。俳句のひとつでもひねりたくなって、何か作品が出来たら、どうぞこのパティオへ。

2年という歳月 〔2001年6月上旬号〕

2年という歳月 〔2001年6月上旬号〕
01/06/02 23:28
▼よくまあここまでやって来れたものだと思う。皆さんに刺激されて楽しい日々でした。▼メディアは時時刻刻と変化しているのだから、私もそれに対応して、新しいことをやってみたいと感じ始めた。▼しかし、ネットワークの中にいると私という人物は途轍もなく孤独で、昔に遭遇した苦い思いでも重なってくると、ことさら、孤立感が増してくる。▼結局のところ、ネット―ワークでは、地に足が着かないような感触から抜けきれずにいる自分が浮き彫りにされてくる。▼そんな愚痴の傍ら、ニフティのパティオは打ち切って、まだ、何かは続けるつもりだ。もっともっとローカルな所に、使い勝手の良い掲示板を探して「素庵堂」という、茶も振る舞うこともあればスコッチも出せるような佇まいを探したいと思うの。

お茶 〔2004年4月下旬号〕

お茶 〔2004年4月下旬号〕
▼職場の周りは、三重県でも有数のお茶の産地です。水沢地区といいます。美味しい湧き水もあります。美味しい地下水があるから美味しいお茶ができるわけでもないと思いますが、元々は山ですから空気も綺麗です。▼お茶の新芽が今、まさに吹き出しています。こんなに緑色というモノが鮮やかであったかと思います。お茶の葉の摘み取りは機械でしてしまうのがちょっと味気ないけどね。▼私はお茶を飲む習慣があまりないのですが、そんな私でもあの甘くマイルドでなおかつ刺激を秘めたようなお茶の香りは好きです。昔、大井川を遡って本川根から接阻峡のほうへ出かけたときにあの匂いにやられました。腰が砕けるね。▼水沢地区ではそんな匂いはあまり漂いません。どっか別のところで加工してるんでしょうかね。でも、お茶屋さんはたくさんありますよ。▼その水沢地区の近くには、皆さんも良くご存知の湯の山温泉があります。有名な立ち寄り湯は、片岡温泉ですが、先日は、ちょっと別のところに行ってきました。▼三重県勤労福祉センター・希望荘というところでして、500円でタオル付。四日市が一望できる露天風呂があります。平日でしたので、ほとんど貸しきり状態でしたわ。皆さんもお近くにお越しの節はどうぞ。

穀雨篇 〔2004年4月上旬号〕

穀雨篇 〔2004年4月上旬号〕
▼三重県環境森林部のホームページに環境総合監視データの項があります。こちらの解説などは私が書いているのですが、今度、新企画として「監視室の裏窓」というのを提案してみようかなと思ってます。それに先駆けて、ツーリングレリーフのHPでも試しに同じものをアップしてみました。つまりは、こちらで書いてから、所属で認可をとろうという次第です。▼夕暮れの時刻が真冬よりも遥かに遅くなってゆくのを実感しながら、鈴鹿の峯峰が赤く染まっているのを、信号待ちの合間にぼんやり眺めていたりする。ほっとひと息をつける瞬間です。▼ふと気が付き嬉しくなったことがひとつあります。数日前に四日市市と津市を結ぶ国道沿いの水田にも水が張られ始めまたのです。この道路脇の水田が、滅びてゆく1日の光を受けて銀色に光ります。信州・姨捨山で眺めた「田毎の月」の風景を思い出しました。小さな棚田が1枚1枚、淡い光を受けて光る姿は万葉の一刻からの普遍の姿で、現代人もまた、時間を越えたひとときにそれぞれの思いを馳せながら山を見下ろします。▼夕焼けが綺麗に一面の空を覆っていたかと思えば、今、この原稿を書いているときは渋々と雨が降っています。「春に三日の晴れなし」と言うらしい。農家生まれの私としてはそんなことは常識なんですけどね。▼雪が解けると何になる? 水になる…。(それも正しい。)▼いえいえ、雪が解けると春になって、緑が芽吹き、花が咲き、生物が冬眠から目覚め、嵐のような雨が降り、花は散りゆき小川を流れ、その水が緩やかな斜面の棚田にも流れてくる。ただそれだけのことだが、それが自然の営みなのですね。▼さて、そろそろ「光化学監視強化体制」をとる季節がやってきました。その合間を上手に使って、時々、「監視室の裏窓」と題する、何の役にも立たないお話を綴ってゆこうかと思っています。試行時期のものも含めてアップしました。これからも、どうぞよろしく。

みどり 〔2003年4月初旬号〕

みどり 〔2003年4月初旬号〕
▼ 久しぶりに散歩に出た。冬枯れの野山が、灰色であったのをすっかりと忘れたように緑の新芽が吹き出している。最初は白色に近い、やや黄色い芽が顔を出すが、これがやがて青みを帯びて黄緑になり、さらに青さが増しホンモノの青になる。秋には赤みを注ぎ込まれ茶色くなって、やがて枯れ尽きてしまう。▼太陽の光というエネルギーを受け取って、自分自身を変化させてゆく姿は非常に美しく、自然というものの底知れぬ力を感じざるを得ない。このパワーを授かり、形こそ違っているものの、人は生命を維持し、私たちの住む地球も枯れることなく宇宙に存在できるのだ。そんなことを、環境部に来たこともあってか、考えるようになった。不思議なものである。▼自然界の植物たちがこのように色を変化させてゆくことは、ある意味で物理的なエネルギー保存の法則に叶っているのだろう。樹木に与えられたエネルギーは、その姿を変化させながら生命を燃やし続けてゆく。▼心理科学の世界にもこのような保存の法則が適用できるのではないか、と以前に書いたことがある。座標軸上を、-∞ から +∞ まで変化する際のひとコマに「生命の燃焼」や「人々の心の情熱の発散」があるとすると、限りなくマイナス無限大に近いときに運命として授かったエネルギーは、命が絶えるまで一定であるといえるのである。▼このバランスをあたかも正当であるかのように攪乱したのが「科学技術」というある種の正義で、人々の暮らしを豊かにするという大義名分でエネルギーを〔公害であるとか、子供たちの非行であるとかいう〕毒物に改変してしまった。しかしながら、人々の心の中にあったエネルギーは消え去ってしまった…わけではないだろう。▼経済にまで力学を適用し、我々の住む社会をより良くするために様々な理論が生まれている。国家の強さや脅威を表わすのにも使われる。人々の心は、自分が「-∞から+∞」という座標の上のひとコマにいることを忘れてしまい、今の自分の損得だけしか考えなくなってしまう。そこで生まれたのが産業廃棄物であろうし、過疎化現象であろう。広義には、原子力発電、DNA解析などもその派生といえるか。▼パソコンが普及し、科学機器が充実したおかげで、私のデスクからは県内の大気汚染の状況を瞬時に知ることができる。確かに素晴らしいことなのだが、デジタル技術がどれほど進化してきても、人類がのろしを上げて通信をしてきた時代を忘れてはいけないのではないだろうか。思い切ってそこまで遡って、地球の環境保護を再構築できるならば、たぶん全く違った社会を創造できるだろうに。〔本当に現代社会のように、デジタル放送やパソコンの普及やヒトゲノムの解析、原子力発電、先進的破壊兵器って必要なんだろうか…〕▼そんなおバカなことを考えながら散歩をしてゆく。ふと、黄緑からやがて青葉になってゆく葉っぱを見ながら、エネルギーが高位から低位へと変化するのならば、この新芽の色は植物として最も植物らしい位置にあるといえる色であり、時期であるのだな…と思った。▼四月から新しいことに取り組む人は多い。今、エネルギーを純粋に、自分の本当の姿に集中させている凄い瞬間なんだ、ってことだ。これを「初心」といった昔の人は偉い。そう思いません?

少年ジェット 〔2002年5月下旬号〕

少年ジェット 〔2002年5月下旬号〕
02/05/28
▼私らは、いや、少なくとも私は、という話で恐縮ですが、わかる方々も何名かあると思います。▼保育園から小学校低学年くらいのころ、遊び仲間とお外で遊ぶときには必ずと言っていいほど鯨尺の「さし」(ものさし)を背中に差し二丁拳銃を腰にぶら下げて、大きな風呂敷きを首から背中になびかせて駆け回ったものだった。▼「うーやーたー」と叫んで塀から飛び降りている自分の姿が手にとるように想像できてしまう。煙を撒き散らしフルカウルのオートバイ(スクーターだろう)で悪を追うのだ。▼少年ジェットのマネである。でも、どうしてマントを巻いているのかということは、はっきりしない。ちょうどこの頃のTVでは、月光仮面も登場する。こちらも正義の味方で、マントをひるがえして走り去る。▼そんな子どもの頃の影響が相当に強烈に焼きついているのだろう。高校に行き始めて駅まで6キロの道のりをバイクで通い始めたときに、学生服の上から着ていたジャケットの前のファスナーを閉めずに、あたかもマントのようになびかせて走った記憶がある。(わかるかな?この雰囲気…)▼正義の味方がいつの間にか不良のイメージに変わってしまっていたオートバイという乗り物であるが、5月から6月というすがすがしい季節に、薫風を受けて快適に飛ばしていると、なんだか正義の味方になったような気分になれそうですよね。まあ、単純な私だけのことかもしれないが…。▼週の後半に天気が崩れて、週末から明けにかけては晴れそうですね。安曇野パストラルYHに行きたいよー。誰か引っ張ってくれー。
|勇気だ 力だ
|誰にも負けない この意気だ
|白いマフラーは正義のしるし
|その名はジェット 少年ジェット
|進めジェット 少年ジェット 
|J・E・T
▼この歌詞を見ながらちゃんと歌えた人には百点差し上げます。

蛇苺 〔2002年5月中旬号〕

蛇苺 〔2002年5月中旬号〕
02/05/14
▼ふるさとの沼のにほいや蛇苺・水原秋桜子▼私はこの句が好きで、毎年今ごろになったら引っ張り出してきて書いてます。何というか…句に無駄が無いと思うの。何故か分からないけど。▼俳句には元々無駄など無いでしょう…いや、逆に適度に無駄があったほうがいいのか。▼とぎすまされた視線のよなものが俳句にはありますよね。▼古池やかわずとびこむ水の音▼古池が大事なのか、カエルが大事なのか、水の音が大事なのか。俳句というものには不思議です。鋭利な刃物を突きつけられたような感じがする。▼先日、田植えを終えた水田のほとりで小さな畑の手入れをしているおふくろを訪ねたときに、水辺で真っ赤な蛇苺を見つけました。野山には黄色い花が目立つ中で、蛇苺の実が赤色ってところに惹かれます。▼人間というのはこういうものを見つけると口にほうばりたくなる習性があるんですね。私も理性でそういうことを思いながら、ひとくち食べてみました。▼数年前にどこかの林道で食べた野苺は、ほっぺたが落ちるほど美味しかったけど、この蛇苺はそれほど美味しくなかった。子どもの頃に食べた蛇苺が美味しかった印象が強すぎるのかな。▼ひばりが高く宙に舞ってまして、久しぶりにその声を聞きました。▼じゃがいもが花を咲かせて、ミカンの木がつぼみを膨らませている。栗の木が新しい葉を、枝が折れんばかりに広げている。エンドウがもうすぐ実を結ぶだろうし…。▼そんな畑のそばになみなみと水を満たした水田が広がっているのですけど、水田の隣にはそろそろ黄色く色づき始めて、あと20日ほどで刈り取りになる麦畑がありました。▼10メートル×20メートルほどの広さ。ここで収穫する小麦でパン屋さんを始めたら、一日に20個ほどのパンを一年分くらいはできるかな…なんて考えている。決断力と実行力のある人なら事業を始めるのだろうな…とか、思いもよらぬ方に想像が展開していく。美味しいパンをご馳走できるペンションもいいなあー。▼今年は桜が早く咲いたから、蛍も早く飛び始めるでしょうか。

三日坊主 〔2002年5月初旬2号〕

三日坊主 〔2002年5月初旬2号〕 
02/05/09
▼ウォーキングを始めて幾らかの月日が過ぎた。毎日歩かねばならない、とは決めていない。三日坊主にならないようにしよう!、とも思わない。歩きたくない日は、歩かないのもいいだろうし、飽きたらやめればいいだろう。▼自然体でやろうというのがたったひとつの信条である。また始めたくなったら以前の失敗を悔やまず恐れず、歩き出せばいい。三日歩いて、四日怠けて、また二日歩いてもいいだろう。ひと月サボっても目くじらを立てない。▼何故歩くのか。人によって様々であると思う。三日坊主になってしまったら価値が無いとみなすのではなく、再開し始めたときはいつも初心者でありたい。▼歩いてみると、日々に植物や動物たちの姿が変化してゆくのがわかる。タンポポが綿毛を今にも飛ばせるのだと言わんばかりに膨らませていること、ツバメの巣が先日よりも大きく立派になっていることなど。▼早朝であれば、犬を連れて散歩している人の姿が、冬よりも増えたような気がする。道ばたですれ違いざまに会釈をしてくれる人も四月になってやはり少し増えた。▼しかし、三日坊主とはうまく言ったものだと思う。確かに、三日ほど歩くと(私の場合は1,2日おきに三回ほど歩くと)家を出るまでに少しパワーが必要になる。ところが、サボっている日々が三日ほど続くと、また歩きたくなる。どうやら、サボることも三日坊主らしい。

ゆきずり 〔2002年5月初旬号〕

ゆきずり 〔2002年5月初旬号〕
02/05/05
▼掛け声ばかりで自分はちっとも出かけない日が続いている。天気予報や観光地の混雑具合を気にしながら、結局は家にいた。GWといえば、九州や四国、東北を何度も懲りずに回った過去があるが、今年は諸般の事情もあるか。▼雨が降っていても走り続け、小さなひさしのある小屋でカ ロリーメイトをかじりながら休んだこともあった。そして、霧の咽ぶ山あいの峠道を越えて行く。▼民家の中にある小さな蕎麦屋に立ち寄る時間を惜しんで先へ急いだこともあれば、贅沢な時間をそういう店で過ごしたこともある。温泉だって同じで、手だけ突っ込んで次の目的地に向かうことがあった。余裕が無かったんだとも言えない気もする。好奇心が勝っていたとも言えるだろう。▼実際に行ってみたらつまらなかったという所もある。しかし、あとから思い起こせばそこだけの持ち味があった。さあ行くぞ!って叫んで、狙って行くようなところでもあるまい。早朝にテントを畳み、走り出したら、屋根から突き出した煙突から黙々と昇る煙と出会った。最高の気分である。狙って行ってもこんな気分は味わえない。▼景色にしても、人にしても、「ゆきずり」というのは何とも切ないもので、二度と味わいたくないよう気分であり、密かに期待をするような側面もある。▼旅先で出会った人の中には二三年ほど文通をしていた人もあったが、その後も継続している人は全くいないなあーと、今改めて思う。旅先でばったりと会うことなどもう二度と無いだろうと誰しもが分かっていながら、「またどこかで」と言って分かれてゆく。▼風薫るこの季節、「ゆきずり」にともなう寂寞感のようなものを刺激しつづける何かが、寄生虫のように体に棲みついている。★今年のGWの四国九州の天気はあまり良くなかったですね。走っているときは必死だから乗り切りますけど、辛い思いもあったことでしょう。でも、バイクに乗る人は、あの何とも言えないブルーな気分を共有できるから、お互いが分かり合えるんですものね。雨の真っ最中やその後の晴れ間の瞬間などに、ピースサインがフラッシュのように出てきますからね。

挑むということ 〔2001年5月下旬号〕

挑むということ 〔2001年5月下旬号〕
01/05/24 21:29
▼弱虫の話を書いてどっと読者を失ってしまったかなあとで考えて、どうも自分の世界に入り込みすぎてまったようだ。飲むとこれだからなー▼弱虫のふりして茨に踏み入れる〔ねこ〕▼さて、冒険家であり探検家であった河野兵市さんが死んでしまった。6年の歳月と2億5千万円の費用を掛けて極地への挑戦だった。ところが、北極海の海上で遭難という報道の後に、遺体で発見されたという記事が目に飛び込む。▼数々の冒険家に私たちは元気づけられ、励まされて勇気づけられてきた。時には、闘志を燃やし、未知なるものに挑む一歩をもらった。ひとりの庶民として夢物語であるけれど希望を燃やし続けた。▼冬の北岳、穂高に挑んで散った冒険家たち。アイガー北壁を目指した勇者。マッターホルン、キリマンジャロ、南極大陸、太平洋…。冒険家たちが散った舞台は、泰然としている。▼私たちは冒険家ではない。けれども、好奇心という麻薬に侵されてしまった亡者であるのかもしれない。さあ、弔いの旅に出よう。

弱虫 〔2001年5月下旬号〕

弱虫 〔2001年5月下旬号〕
01/05/23 22:22
▼弱虫で泣虫だった。競争をすると必ず負けた。草野球をしても8番でレフトだった。鈍足だった。絵も下手だった。鶏の絵を書いたら、それは何だと先生に聞かれた。高校の予餞会で寸劇のシナリオを書いた。でも監督をした同僚が大幅に改訂してしまった。もちろん主役には成らなかった。▼監督、俳優、脚本家を選ぶなら今の私なら脚本家だろう。しかし人前には出たくない。人を動かしたくない。夢を描きたい。年々、人に接するのが嫌になり段々と社交性を棄てていった。自分の世界に篭もってしまう日々が続く。▼社会人になってからもビックなプロジェクトに加わるものの、主人公には決して成れないし成らなかった。二つのブレインがあるならばその片方を担う程度だった。▼人生の最大の目標は…なんて薀畜を語りはじめると終わらないのも、こういう苦い経験からかなー。▼ひとりで居るのは嫌いでないが無性に寂しくなる事がある。そこで、社会の中で孤立した自分ではなく、楽天家の私をピエロで演じたいという願望があるのような気がする。…と言いながらも、目立つのは嫌だ。▼旅は…私だけのものだ。私のためにあって、誰にも迷惑を及ぼさないし、影響も受けない。旅人を私は決めこんだ。なのに何故、ひとりではなく、時にパートナーを求めたいと思う事があるんだろうか。過去にもあったのだろうか。それは、私が弱虫だから…。▼よめはんはそんな弱虫を理解していて、どうぞひとりでお出かけくださいなという。▼「あうん」という言葉がある。彼女はその、あ・う・んを(漢字では「阿吽」)知っていて私と結ばれたらしい。だから、ツーリングも「あ・う・ん」である。

ランディ田口さんのこと〔2001年5月中旬号〕

ランディ田口さんのこと〔2001年5月中旬号〕
01/05/19 09:36
▼ランディさんという人のことを私は何も知らなかったのですが、バンド仲間の方がメールマガジン(MM)を紹介してくださってから村上龍とランディ田口のMMだけは取り続けている。「積読」(つんどく)の状態が続いている。▼自分から探しに行かないで、一方的に与えられるものや、自動的に与えてもらえるものは、どうしても自分自身の中にある刺激され続ける触覚を、甘くしてしまいがちになる。つまり、読んだ気分になって放置される。▼何にでも当てはまることだが、私たちはこの無刺激状態から抜け出す為に、「怠惰になっているぞ」と自分を戒める。▼その一方で、無理をして戒める事も無いのだ、というような反論を理論的に考え出したりもする。言ってみれば、言い訳との闘いが始まる。▼人の感性は、廃れてしまったら、どんな薬も効かない。治すにはどうすればいいのか。簡単である。▼絶世の美人と出会った時のときめきと同じような気持ちに、自然体で成ることであろう。自然体で、というのがポイントだと思う。つまりは、泣いても喚いても、衰える触覚は取り戻せない。いつまでも心が道楽し続けることが自然体ではないか。▼現実論者の持ち主の諸氏がおっしゃる。そんな刺激を、教養と勘違いして自己満足しても仕方が無いだろうに。でもね、そういう人はきっと、世の中に哲学や考古学や宗教学があってもその存在が無意味で、工学や医学ばかりを重視していませんかねぇ。ランディさんが、屋久島にいる山尾三省さんのことをMMに書いている。引用している詩文だけを私もお借りします。
|山に夕闇がせまる
|子供達よ
|もう夜が背中まできている
|この日はもう充分に遊んだ
|遊びをやめて お前達の火にとりかかりなさい
|小屋には薪が充分に用意してある
|火を焚きなさい
|よく乾いたもの 少し湿り気のあるもの
|太いもの 細いもの
|よく選んで 上手に組み立て
|火を焚きなさい
|火がいっしんに燃え立つようになったら
|そのオレンジ色の炎の奥の
|金色の神殿から聴こえてくる
|お前達自身の昔と今と未来の物語に 耳を傾けなさい
|『詩集・びろう葉帽子の下で』 野草社 「火を焚きなさい」)


|わたくしは ここで夢を起こす
|どんな夢かというと
|大地が火と知れず夢みている夢がある
|その夢を起こす
|大地には 何億兆とも知れぬいきものの意識が
|そこに帰って行った深い夢がある
|その夢は椎の木
|その夢は小麦
|その夢は神
|わたくしは ここで夢を起こす
|無言で畑を起こす一人の百姓が 一人の神であることを知り
|無言で材を切る一人の大工が 一人の神であることを知り
|無言で網を引く一人の漁師が 一人の神であることを知って
|わたくしもまた 神々の列に加わりたいと思う
|(『詩集・びろう葉帽子の下で』 野草社 「夢起こし」)

睨む 〔2001年5月初旬号〕

睨む 〔2001年5月初旬号〕
01/05/01 18:47
▼睨む。空を見上げて、ひたすら考え込む。▼空を睨み決まらぬ自分に腹を立て〔ねこ〕▼もっと柔軟にならねばならぬのだろうなと思う。情報が溢れているので、天候が定まらないとすぐにインターネットで検索をしたりして、キャンプ場やら温泉やらを見ている。こんなことをしなかった時代には、空を見上げて家を飛び出した。雨が降っても決して自分も他人も恨んだりしなかった。▼人間も動物である以上、動物のような天性の勘が身体のどこかに備わっているはずだし、的中率に衰えが出てきていたとしても、そういう勘を疎かにしてはいけないような気がする。また、そういう勘で事を乗り切る歓びもあると思う。▼どこぞのプロ野球の監督にも、そんな勘があるようなことを言う人もある。人にはやはり恐るべき能力が理屈以外のところにあると信じたい。▼脱線修復。仕事から現実逃避をして旅に出ようとする者が、理論や情報だけでこの先を進むという堅実な道を選択するのではなく、苦楽の味に浸るのもいい。▼近所の水田はおおむね田植えを終えた様子。カンカン照りにならずに作業が出来て良かったという人もあろう。雨が降った後の日は、風も少しきつく、肌寒い一日となった。(5月1日)▼一面のれんげ畑、綺麗な新芽の模様が美しい茶畑、こいのぼり…。外を少し散策しても風が薫るのがわかる。▼出かけるあても決めることが出来ない奴が、荷物の山を睨みながら、三脚をどうするか、悩んでいる。口喧嘩睨んで許した時もある〔ねこ〕

2009年3月 7日 (土曜日)

ガーベラ飾り終えたキミの後姿

廊下の向こうから
花を持ってやってきて
職場のエレベーターの前の花台に
花を飾った。

私はちょうど反対側から帰り支度を終えて歩いてきて
この子が花を飾り付けているところに出会った。

いつもあなたが飾ってくれているの?
この花、なんて名前?

ガーベラです……
とその子が教えてくれて、
帰りのエレベーターの扉が開いたので
私は乗ってしまったのですが。

私の気持ちは
宙に浮いたままだなあ。
(わからないだろな、この気持ち)

2009年3月 5日 (木曜日)

啓蟄や、モッコリか、むっくりかもな

【巻頭言】

 あっという間に三月を迎えることになりました。日に日に夜明けが早くなって、寒さも緩んできました。

 種田山頭火は、句集「草木塔」のなかでいくつも春の句を詠んでいます。

  春が来た水音の行けるところまで
  もう明けさうな窓あけて青葉
  窓あけて窓いつぱいの春

 などという句を見ると、締め切っていた窓を開けて、新芽の吹き出す野山へ出掛けよう!と誘われているような気になります。

 その一方で、窓あけて…を読みながら、山頭火のころ(70年余り昔)にも花粉は浮遊していたのだろうか、と想像してしまいました。

 今月号の記事には、自然と触れ合うものが多いようです。重いコートを脱いで出掛けませんか。

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【あとがき】

 70年前には…と巻頭で書きました。10年ほど前のことになりますが、母校の同窓会に出席しまして、当時60歳から70歳ほどの大先輩の方々が感慨深く学生時代を回想されていたときの言葉が深く記憶に残っています。

「あのころはなあ、特急蒸気(機関車)で、一晩掛かって東京まで出て来たなあ、九州の奴らは二晩掛かったんやで」というようなもので、何もかものスピードが現代よりも格段にスローだった時代です。

 丹羽保次郎先生(10大発明家・松阪市名誉市民)のファックスの発明など、科学技術は指数関数的に進化し、60年70年昔には存在しなかったものが今の世に登場してきました。なかには昔ではまったく想像できなかったものもあり、様々な物質や構造物であったり仕組みやシステムであったりします。

 大内山インターまで開通した自動車道路の巨大な橋脚を見ながら、もしも、百年後へタイムスリップができるとしたら…私たちはいったい何に驚くのだろうか、と思いました。その驚きの中に、環境の変化とか見たことの無いエネルギーというようなもの入っているのでしょうか…。

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メルマガから

2009年3月 4日 (水曜日)

引き潮 〔2004年3月号外〕

外出した帰りに大きな橋を渡りました。そしたら潮が引いて干潟に海鳥がたくさんいるのが見えたの。この河を下っていけばすぐに海に辿り着くことは以前から知っていたので、1度だけ行ったことがありました。あの時は雨降りで、しかも潮が満ちていた。

ドキドキするような衝動が巻き起こって、橋を渡り切った交差点で河口に向かう道へと折れたんです。ちょうど3時過ぎでした。

太陽はまだまだ高く、西の空を見ると白くまぶしかったけど、東のほうに広がる海は真っ青で、波も立てずに落ち着いているというより、どっしりと両手を広げているように私を迎えてくれます。呼吸をするような小さな波と、沖合いのほうを揺さぶるような大きな波が、海原の霞むあたりでぶつかっているような気配がします。このまま、堤防を降りて、海を歩いてゆけそうな感じです。行けっこないのにね。

海が嫌いなときもあれば、好きなときもある。

昔、ある人を誘ってこの海岸よりももう少し南の海に行ったことがあった。太平洋の入り口が見える浜です。大きな貨物船がゆっくりゆっくりと動いてゆく。

私たちが急いで車を飛ばしてきた時間の10分の1以上にゆっくりと時間が動いていた。あれほど多弁にしゃべり続けた私たちが無言になって、遠くを見ている。水平線の向こうには夢があるのかな。心の中で、失った愛しい人のことを思っていました。

木星(ジュピター) 〔2004年3月下旬号〕

春の夕刻は、秋のような物悲しさではなく、一種の爽やかさを感じる。花が咲いて、昨日より今日、今日より明日と、暖かさが増してゆくせいもあろうか。

夕やけの空に金星が輝いている。驚くことに、そのそばに火星、さらに土星もいる。

ジュピターという音楽を平原さんという人が歌っている。この人が歌っている曲は、ホルストの組曲・惑星からいただいたもので、詞はオリジナルらしい。彼女の歌は、今ふうの洒落たアレンジをしてくれている。8分の6拍子を思わせるリズムラインに、4ビートふうに歌を、スローに乗せている…。

こたつに寝転んで本を読みながら、家族が見ている歌番組に半分ほど耳を傾けていたら、近頃には珍しく、難しいリズムを上手に(微妙にずらして)歌っている人がいたので、画面のほうを見上げたら彼女だった。遅いリズムを正確に歌える人が少ないだけに、少し聴き入った。(カワイコチャンだったし)

そしてさらに、その木星が東の空に見える…ということがわかった。木星はちょうど今の時期、太陽の反対側にあって、一晩中かかって天を横切ってゆくらしい。

夕刻の空で太陽系の惑星をこうして神秘的に見上げていると、自分たちの大地がその惑星の1つの地球であることを忘れかけていることにも気付く。頭の中には、子どものころに習った太陽系の図が広がっていて、一生懸命に宇宙をもっと高いところから眺めようとしている自分がいる。

3月27日の夜には、その地球をじかに背負って眠る。数々の惑星を見上げられるようなよい天気に恵まれますように祈りましょう。

〔3月21日〕

腑抜け 〔2004年3月中旬号〕

土が温かくなっていると書きながら、熱伝導率のことを考えていた。寝言のようなことを書くがゴミ帖なのだから許されたい。

大気が温暖化の傾向を表している。これが地中に伝わって、土壌の内部の温度が上昇する。温度が伝わることを伝導とよぶことにします。

その際、まず、その伝わる度合いの差を一定の領域に当てはめて考えて、これを温度変化式で表してみます。

 〔温度変化率〕=〔温度変化〕÷〔領域〕

引き起こす熱エネルギーの流れは、1次式で表現でき、上式に定数を掛けると熱の流れが求まります。

〔エネルギーの流れ〕=〔定数〕×〔温度変化率〕 

となって、ここにある定数が熱伝導率になる。(ハズである) つまり、温度の変化率をパラメータとし、熱伝導率を定数とした1次関数で与えられる式が熱の流れになります。

そこで、熱の流れって何だろう? 水の流れと同じようなものでしょうね、と私は考えようかと思うのですが、ここらあたりから本当に(目覚める前の)夢の中での話となっていました。川の上流で大雨が降って、大量の雨水が大きな塊になって流れて、河川が氾濫し海に流れ着く場合も同じように考えてもいいと思います。

土地高度較差、雨が時々刻々と降る変化率、土地が枯れているときとたくさん雨が降った後との雨量較差などなど、人は刻々と変化するものを捉えて、変化率という概念を持ち、この変化率を時間軸で積分するという知恵を考え出しました。

訳のわからない数学の話は、面白くないし苦手なので、まさに寝言ですけど…、桜の花が咲くのは、土壌が大気の温度の変化率を積分したかのように知っているからなんだなー、積分値が大きくなってきたので花が咲くんだなーと感じただけなんです。

ただ、桜の開花時期が年々、正確に早くなっている話を聞かされると、(熱伝導率や土壌の比熱はまったく変動しないのだから)、即ちこれは、「エネルギーの流れが速く」なっていることを意味します。人間は何も実感していません。だから「平気よ」と開き直っている。

天敵に狙われて命を奪われる恐れに対し常にアクティブに構えている動物たちはあらゆる物事の変化に非常に敏感です。人間は目に見えない物質の物性を科学的に解析したにもかかわらず、腑抜けになって油断をしている。違いますか?

麦 〔2004年3月初旬号〕

麦がぐいぐいと大きくなって緑を逞しく成長させている。この姿を見ると春が近いのだなぁ、待ち遠しいなぁと感じ、自然の息吹に感動するのである。

都会でも麦畑を見ることができるのだろうか。風はまだまだ冷たい。しかし、バイクに乗って郊外に飛び出したい、そう思っている人も多いだろう。思い切って出かけるのもいいでしょう。

梅の便りが真っ盛りです。あのほろ苦い香りが、地味でありながら愛しい。

春という季節は、混沌とした部分もありながら、閉ざされて枯れていた自分自身が、これから夏という季節を迎える準備をするのだという、わくわくドキドキするひとときでもある。

ぼたん雪がはっさくの木に積もって花火が開いたように成っていた黄色い実が雪をおぶって重たそうにしていた1月、2月。

しばらくしたら、南風が吹き荒れて、その後北風が再び吹いて、黄色い実は落ちてしまった。真っ黒い土の上に転がった実を集めに畑にゆくと、ふきのとうが芽吹いている姿を見つけ、目の前に広がる麦畑に足を踏み入れてみたくなってきた。

土が温かくなってきている。

校歌 〔2003年3月下旬号〕

卒業式の季節が過ぎていった。我が家の娘さんも中3なので卒業だったのですけど、クラスのほとんどがそのまま隣の高校に進学するので卒業にセンチさはまったくなさそうである。山のように積み上げられた春休みの宿題に埋もれて不平を言い、幾分、投げやり気味である。

三角関数がわからないと泣きべそをかいていたかと思うと、わからんものは仕方がないとあっけらかんとしている。焦るわけでもなく嘆くわけでもなく、ただ楽天的な雰囲気でいる。

それならそれが一番いいと思う。長い人生のひとコマであるなら、目の前に難題が山積されていることなど何ら異様なシーンではない。

飄々としているけれど、実は悩んでいるというのが最も始末が悪い。しかし、私には実のところ、あの子気持ちなど計り知れないので、私が飄々として見せて、できなくてもいつかは何とかなるだろう、と言ってやるしかない。仕事がなくても私は飄々としている。そんな私が最も始末が悪いのかもしれない。

「疾風に勁草を知る」というではないか。私に本当の力があったならば必ずや芽を出すだろうと信じるしかない。本当の力とはなんだろうか。

さて、校歌の話を書こうと思っていたのだった。校歌を歌う季節となっています。皆さんはご自身の母校の校歌が全部歌えますか? 

私は幸いにも楽器に縁があって中学高校と吹奏楽部で演奏したため、すらすらと思い出せます。大学では少林寺拳法部にいたので、これまた新入部員は嫌になるほど歌わされました。

また、小学校の校歌というのも意外と覚えているもので、校舎も校歌も今はすでに新しくなっているけど、私の記憶には鮮烈に残っています。どんな思想であっても異なったイデオロギーを持っていても、そこで修学しようとする学生をたたえ、また学生は恩師に感謝の気持ちを抱き日々勉学に励むのが普通の時代だったころ、私は決してそんな優良な学生ではなかったが、多くの学生は校歌を歌ったのですね。

春になる。学校を去る人は次の新しい闘いの地に向かい、次なる学校に進学する人は希望に満ちて新しい学舎の門をくぐる。こういう怒涛の中に踏み出してゆく人の気合に触れていると、まったくの他人でもうきうきとしてくるから不思議である。未知なる荒波に呑まれぬようにしよう。

これを書き始めてあっという間に日日が過ぎた。桜も咲いた。小泉さん、桜の下で校歌(塾歌)を歌えばそんな意地のツッパリのようなことを言うのも恥かしいでしょう。福沢諭吉が泣きますぜ。

春の鼓動〔2003年3月中旬号〕

大阪に住む10歳ほど歳上のかたからメールをいただいた。「東大寺のお水取りが終わると本格的な春です」と書いておられる、ここにも春を待つ人がひとりいる。前の職場での知り合いで、まったく違った部署でありながらバイクが好きな同士で仲良くして戴いており、ひと足早い定年を迎え新しい人生を始めてからも何度か便りが届く。春を待つ今度の便りには、380キロと重たかったハーレーを手放してBMWに替えたと書いてあり、2月の中旬には月ケ瀬梅林に初ツーリングに行ってきたらしい。

バイク乗りは冬の間、寒さを我慢しなければならないので乗らないという人が多い。暖かくなってくると身体も柔軟になり、走れる時間が長くなる。路面状態にも気を使わなくても済む季節なので早く表に出たくてしかたがない。時間を刻む早さに変化は無いのに、冬を待ち遠しがっていた自分を沁々と感じる。童謡のミヨちゃんのようだ。

こんな思いを胸に奈良の都を散策するのは格別である。東大寺の勇壮な姿に感動し、さらに裏に回って二月堂にのぼる坂道をゆくのが大好きだ。馬酔木の花が咲いている。白く房になって垂れ下がるのを見ていると、花に鮮やかさや美しさはないもののこの季節の乾き切ったような野山に季節感と和らぎを与えてくれる。毒のある木には思えない。土壁沿いに小川が流れ、石畳の坂道には清水が滲んでいる。枯れ木のように見えるこげ茶色の低木にも小さな新芽が顔を出している。

京都の秋の夕暮れはコートなしでは寒いくらいで…と語り歌ったフォークソングがあった。重いコート脱いで出かけませんか…と歌ったグループもあった。長く辛い冬の始まりは、苦渋をじっと堪えて文化を受け継いできた京都という古都を舞台に、鮮やかな紅葉の下を舞い散る落ち葉の侘びの如く迎えた。春の始まりには若草山を仰いで、大空を見上げて背伸びをしてみたい。

霞の中でぼんやりと存在感を控えめにしている生駒の山々とは対照的に、二月堂の庭は静寂の中に胎動を感じさせる。僧侶は、燃え散った松明の欠片が散らばっているのを竹箒で掃き、砂利の参道に水をまく。境内を行き交う人々は皆、手を合わせ二月堂に深深と祈って去ってゆく。ここから、すぐ前にそびえる東大寺の甍を見やり、荒波を越えてきた天平の僧たちのことに思いを馳せてみる。

春という季節には「鼓動」という響きがまことにふさわしい。

半年を振り返る 2003年〔3月初旬号〕

▼初めての職場のマネージャーは、放任主義の人だった。業務の詳細のオブザーバーとして、私たちに重く貴重な存在で、感情的な言動や気分の表裏などは一切無い人でした。メンバーは信頼をして仕事に打ち込めた。▼二度目の職場には放任という概念すら無かった。人間は放置をしておいたら悪いことしかしないから常に管理を行き届かせ、間違いがあったら追求し咎めた。人格を無視したような言動などが目立った。メンバーは規則に縛られ、無意識に規則を逃れるような行動をした人が多かった。体制側は「個々の自立、個性を生かす」という建前の言葉で世間に対して正当性をアピールしていた。▼そして三度目の職場を6ヶ月経験した。2002年10月からの半年を振り返ってあれこれと書いてみることにする。私はアルバイトとして雇用されることになり、同僚として3名のアルバイトの女性がいた。当初の予定では私がその人たちのマネージメントをすることになっていたのだが、意識レベルの相違で簡単に崩れた。詳しくは後述する。人間、誰しも新しい職場で仕事を始めたら初めは猫を被っているのが当たり前だ。やがてその化けの皮が剥がれてきたときに私に数々のショックが襲ってきた。▼アルバイターを使っての仕事は初めてであったので、その意識レベルとスキルの低さに驚いた。人は会社組織の中で、それぞれが掛け替えの無いポジションでいるという自己責任意識で仕事に取り組んでいる。だが、仕事をいい加減にしていた訳では無く、業務はきちんとこなし、能力の範囲で落ち度も無かったのであるが…、ここに来た女性たちには、まったくそういう意識が無かった。正式社員と比較してはいけないのかもしれないが、ことあるごとにその人たちの仕事意識を見ては、マシンに限りなく近いと感じた。そしてそれは彼女たちが自らの意識でそうしている(そうありたいと願っていた)のかもしれないと思わせることもあった。▼あるとき、ひとつの文書作成を依頼した。しかし彼女たちの取り組み姿勢はただ指示を待つだけで、創意工夫がなかった。実力をそれ相当に持っているのに残念だった。困ったのは、本論とは無関係の指示や重要でない不具合への質問が私との対話に頻出したことである。仕事の中味に重み付けができていないから、仕事を子どものお使い程度にしか考えていないのであろう。ピントのボケた質疑が交わされるのである。相手の立場やチームが置かれた状況を考慮して、自らが工夫をするという姿勢とチームが仕事を完成させるという意識があれば、そのような質問はなさないだろうと思わせる言動であった。もしも、職員の人にこの仕事を依頼したらどうだろうか。ほとんど詳細指示がなくとも作業を開始し、自主的に重要な問題点や課題を提起し、対話を十分に行い業務を遂行したであろう推測する。自分たちが気がついていないのだからどれだけ諭しても理解できない。苦言にしか聞こえないらしく、私は早々に諦めてしまった。▼また、あるとき、ひとりが「(私は)アルバイトですし、6ヶ月間だけですから…(そんなにチームに打ち解けなくてもいい)。」と言った。チームワークの意識を少しでもひとつにするためはどうしたら良いものかを悩んでおるときだけに、さらに愕然とした。▼こんなこともあった。定時が近づいていたので仕事の出来具合を確認しようとした私に「私たちは私たちのペースでしていますから」と強い口調で応対された。アルバイト女性の仲間で申し合わせたように結束されてしまったのである。意見の正当性が私にあったとしても、これでは勢いを失ってしう。私は意識教育を薫陶する立場でもないし、彼女たちも受けたくないだろう。▼アルバイトは所詮アルバイトであった。しばらく仕事を進めるうちに業務の管理を任されたので、ある程度の命令をしたが、ことさら従う気がない。理由は明快で、私たちはお互いがアルバイト同士であるからということらしい。(何故にそんなことに従わねばならないの?という無意識だったのだろう。) 確かになるほど私もそう思う。しかし、チームで業務を行う上での上下のない職制は必要なときもある。指示を出せば出すほど、あがけばあがくほど私が愚かに思えてきた。これもショックだった。▼3人のうち二人は大手のメーカーで女性の技術者としての実績もありスキルもある人である。どうして、これほどまでに「屈折」してしまったのだろう。企業の中で首に輪をつけられて、束縛されつづけてきたことに起因するのか。はてまた、人間関係の軋轢でモノの見方が変貌したのか。生まれながらに屈折した人だったのか。この若さでそれなりの実力の持ち主で正当な退職理由も無くアルバイターをしている人の精神構造の一面を見た思いがした。残念である。▼マネージメントを学ぶには、マクドナルドのように外食産業で店長などを経験するのもひとつの手法であるという。女子学生であったら仕事よりも重要な突発事態は頻繁に発生するだろうし、ドタキャンは、日常茶飯事なのだろう。その中で和を保ち仕事を止めずに進めることは、こういう現場で苦汁を舐めた人にしかわからないのかもしれない。▼私もアルバイトを経験してみて、第三の職場世界を経験できた。アルバイターをチームに迎え入れて仕事をしたことが無かっただけに、非常に私にとって学ぶべきことの多い貴重な体験であった。強制力の無いものに従って自らを苦境に陥れないように、また、仕事の負荷を必要以上に増やさないようにするという潜在的行動原理がアルバイター備わっている。一方で、これまでの職場では人材に恵まれていたんだとう感謝の気持ちも出てきた。▼アルバイトを性悪説的視点で見るようなことをしてはいけない。しかしながら、現代社会のどん底不況において、その場しのぎ的で無責任、そして人間関係からの逃避、指示待ち体制を好む人たちが増えて行くことに接してみて、社会全体の傾きや未来の屋台骨の痩せ細りのようなものを感じざるを得ない。このような人材が増産されているのが不況と深くかかわっているとは言い切れないが、社会現象として加速させていることは否めない。

阿久悠さん 〔2002年3月初号〕

02/03/11 12:36

阿久悠さんが、3月11日の中日新聞・朝刊にエッセイを書いていて、思わず切り抜いてしまったので、ここにアップしておきます。(OCRソフトでの読み取りなのでミスがあったら教えてください。)


音で分かる春の訪れ 3月

 体質的に寒いのが駄目で、冬の間は行動半径も狭くなり、思考の範囲も縮こまり、ひたすら、この季節が過ぎ去るのを待つような気持ちになる。

そして、句の根拠もないのだが、不還に見舞われたり、不幸がやって来るのは冬に違いないと思い込んでいる。

 そのくせ、書く詞というと冬の景色、冬の気分のものが多く、たぶんそれは何らかの代償行為かなと思ってしまう。辛さ、悲しさ、像さ、厳しさ、切なさ、いずれの感情もヒリヒリ感じる。体質的にといったが、ぼくは、テレビの画面で吹雪の風景を見ているだけで、風邪をひきそうになるのである。

 そんな冬嫌いであるから、数年前には、「春夏秋秋」などという詞も書いた。

 ♪ああ 私 もう 冬に生きたくありません春夏秋秋 そんな一年あなたと過したい…という調である。

 もっとも、この詞における冬は、現実の四季の冬というよりは、人生の冬の時代という意昧の方が強いかもしれない。

 ぼくは小説もたくさん書き、そのテーマの四分の一くらいは、日本の戦後とぼくの少年時代を重ね合わせたものである。記憶をまさぐりながら書く。

 記録よりは記億を大切にして書こうと思っている。記録は確認のために用いるに過ぎない。

 記憶が重要で、それは脳に刻まれたもの、皮膚感覚が忘れずにいるもの、心が条件反射で震えるもの、さまざまである。いずれにせよ、体感の記憶を大切にする。

 少年の物語であるが、ぼくの小説に登場する主人公は、実に老人のように季節の変化に敏感で、昨日と違う今日という感じ方をする。少隼が老人のように季節を愛でるのは、大人たちが季節どころではない飢餓と戦う生活をしていたからである。

 それで、ぼくは、少年にその役目を与えた。少年は四季と一体で花や虫のように日常そのものであったのである。その少年の目が倍の大きさになり、耳がパラボラアンテナのように開いて、自然の色彩と音色を感じ取ろうとワクワクするのは、冬から春へ一日にして変わる時のことである。

 瀬戸内海に面した海岸の町で幼少期を過ごしたので、ぼくは、風の音で季節を知る術を知っている。秋から冬は少し絶望的に、冬から書は希望的に感じる。

 冬の真っさかりには北西の風が吹いているので、終日ゴオーッと鳴りつづけでいる。雨戸に風の塊と、風が運んだ小砂利がぷつかる。それがある夜止む。ピタツと止んで静けさが訪れ、その静寂にかえって目がさめてしまう。

 しかし、その翌朝の雨戸を開けた時の感動は忘れられない。一夜にして冬が去り、春が訪れたことがわかるのである。空の色が違えぱ、海の色も違う。

 風の向きも変わり、鼻の頭をかすめる匂いは甘くなる、そして、一面の菜の花の満開に、その朝初めて気がつくのである。

 だから、三月は、そのときめきを書かずにはいられない。

 (あく・ゆう=作詞家・作家)


「記憶が重要で、それは脳に刻まれたもの、皮膚感覚が忘れずにいるもの、心が条件反射で震えるもの、さまざまである。いずれにせよ、体感の記憶を大切にする」
とかいていますね。

ともすれば、わたしたちは、記録を重要視してしまいがちである。

自分の頭のなかにしっかりと記憶できるほど、その時その時をしっかり生きなさいという暗示なのかもしれない。

ジャンケン 〔2002年春の彼岸号〕

   02/03/19  08:58

  ジャンケンで強い人と弱い人があるかと思う。このような勝負にテクニックがあるのだろうか…とかなり前から考えて、ひとつの結論を出した。

   結論1

  グー・チョキ・パーをアットランダムにシュミレーションをすると、どれを出しても勝つ確率は同じであった。百万回以上の勝負をさせた自分がアホだなと思った。

   考察1

  ただし……である。「グー」を出した後、必ず前回と同じものを出さないならばどうだろうか…こうして条件を限定すると次に出せるものは、「チョキ」と「パー」しかない。この場合は、「グー」→「チョキ」→「パー」の順で出すことに決めた人が最も勝つ。理由は簡単で、「グー」の次は「チョキ」か「パー」しかないのだから、悪くても引き分けしかないことになるからだ。

   考察2

  上の条件は、かなり強引だから…そこで、「同じものを続けて出しても良い」とする。「グー」「チョキ」「パー]を自在に遷移する場合の人間の心理を考える。

   P(X)を起こりうる確率とすると

  ・グー→チョキ   … P(A)

  ・グー→グー    … P(B)

  ・グー→パー    … P(C)

  の3つを推測できる。

   そこで、心理の問題である。やはり、グーチョキパーというくらいだから、「A」のパターンが多いのではないだろうか。

   つまり、P(A)>P(B) かつ P(A)>P(C)であると言えそうだ。

   ということは、

  結論2

  結論1ほど確実に勝てないにしても、ジャンケンをする時は「グー→チョキ→パー」の順だ!と決めている人が最も勝つ確率が高くなる。

   「最初はグー」というふうにして始めれば、第一回目で負けないから、なおさら勝つ確率が高くなるはずだ。

  〔P(A),P(B),P(C)の確率に依存すると言える)〕

   どうぞ、皆さんお試しください。

旅に出る 〔2002年3月下旬号〕

02/03/23  08:58

未読を貯めながらこれを書いている。少し後ろめたいが続けよう。

昔、東北4800キロのツーリングに行ったときの飯坂温泉で世話になったS君のことを思い出した。レポートの最後にも彼に出した礼状をつけたし、記録のどこかで彼のことにも少し触れている。その彼とは飲み友達だったから染み染みとした思い出が幾つかある。

おい、○○○くん、西門の××で呑もうか、ということになり、早稲田の街で化粧品屋を覗き込んでは、そこの化粧の濃いねえちゃんを誉めたぎり--彼は濃いのが好きだった--ながら、ある飲み屋に並んで急ぐ。(私は化粧は嫌いです、今でも)

最近、どうだよ、というような会話に始まり、バイトの話、可愛い子の話などをして酔いが回る。彼の年齢は私よりも4,5歳上だと思うが、不明だ。いったい何年浪人したのか分からない。4年だというのが共通の友人たちの間での暗黙の認証かな。おまけに在学期間が期限のギリギリだったことも彼らしい。文学部というところはそういうところなのかもしれない。

そうそう、△△君ねえ、旅に出ているんだよ。沖縄に行くって言って出て行ったきり三ヶ月にもなるけどさー。試験も終わったし、どうしてるんだろうな。(東北イントネーションである。)

旅に出るという言葉は、こういうときに使ってみたいものです。私も旅に出たいと切々と思うときはなかなか叶えられない。忙しいときに突然に居なくなるのが、これまた旅人なのかもしれない。

空き缶を蹴りたくなるさ、月曜日

裏日記みたいで、こそこそと。


空き缶を蹴りたくなるさ、月曜日
[2009-03-04 09:26:43]

東京は雪やと聞いて、うふふのふ
[2009-03-04 09:25:34]

---

東京は雪・・・・
と誰かが日記に書いてましたが

いかがでしょうか。

こちらは
鉛色の空です。

(号外) 春のキャンプの話

つぶやきレベルです。


春のキャンプを少しずつ考えていたのですが

場所
○静岡県内の某所
なのですが

とき が
○ 4月4日-5日
○ 4月25日-26日

くらいしかない。

4月は、自治会役員会、結婚式が立て続けで
5月以降の土日は、公務のため無理。

雨降りは、だめ。
理由は、雨具が小さくなって、おなか周りが入らない恐れがあるため。

お誘いするのは、面識ある人、またはメール履歴等を配慮して判断します。

駄目なときは・・・・
GW真っ最中か、
GWが終わったころに、平日に潮岬かな。

---

ご意見あったら、どうぞ。 (聞くだけ)

2009年3月 1日 (日曜日)

チューハイの氷がカタンと訴える

2005年5月11日 に記載した日記に
---
実は私はチューハイではなくウイスキー党ですので中身は茶色く優雅な香りのする麻薬です。

テーブルの上に置いて何か考え事をしていたのか夢物語を練っていたのか。

少し酔っ払うと机の右半分の専門書の数式を書いた本はその文字列が滲んで見えなくなる。
反対に机の左半分にある私にとって逃避材料の冊子の活字は老眼鏡が無くても見えるようになる。

ウイスキーグラスの氷がカタンと音を立てて崩れて回る。ほらメールが着てるよ!って
---
というのがあったのですが、以下だけ付け加えて再アップします。

実は、ここ2,3日、断酒してます。ほほほ。訳あり。

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