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2009年2月25日 (水曜日)

じっと見つめる 

子供のころ、「見てわからんものは聞いてもわからん」といって父にいつも説教をされた。小屋で仕事をしている父に「何しとるの?」とか「これ何?」とすぐに尋ねる私を戒めて、頑固にも「見てわからんようでは聞いてもわからん」と厳しかった。「見てわからなくても、聞けばわかるではないか」と考えていた私には父が言う本当の意味が理解できなかった。

随分と大人になっても私は「聞けば必ずわかるのだ」と信じていた。確かにそれはそれで正しいのかもしれないが、あのときの父の言葉の意味の深さに出会ったのは、父が死んでから随分と経ってからだった。

学生時代の数学の先生が難問にぶつかると黒板に向かいながら学生に背を向けたままで「じっと見つめるんですよ、見えてきますから」と仰っていたのを思い出すのだが、この先生の話を聞いているときでさえもまだ私は「見る」ことの本当の意味を理解していなかった。

「見る」「見つめる」とは一体どういうことを言うのだろうか。

じっと見つめることは、あきらめずに見ることで、その姿勢でじっと考え続けることなのだと、あるときに気がつく。

じっと考えることは、ひとりで考えることでもあり、自力で考えることでもある。
そのモノが意味するあらゆることを、原理から見つめて、奥深くまで考え抜くことである。

微分方程式の解放を「聞いて」覚えてしまったら確かにその問題は解けるようになるが、その人は考えることをスキップして「賢く」なってしまう。時間が掛かろうが失敗を繰り返そうが、それを惜しまず考えることが大事なのだが、そこが欠落したままとなる。

いわゆる偏差値の高い有能な学生さんが職場には次々とやってくる。微分積分や三角関数の話をしたらやはりスゴイのだが、どこか物足りなさを感じることも多い。それはその子たちが、目の当たりにしたものに対し「じっと見つめて考える」ことを余りしなくなったからではないか、と思うことがある。

聞いてわかっている子、教えられて知っている子が溢れている。それは結構なことだし社会のニーズなのかもしれない。しかし、人が、チンパンジーから一歩進化を遂げたときの原点のようなものを忘れていくようで少し寂しい。

父が死んで、この言葉の意味に気づいて、さらにこの「じっと見る」行為とともに「無言・無音」というものを意識するようになった。時には非合理的であるかもしれないこの無言の姿に、自らが切り拓く屈しない精神、見抜いて掘り起こす知恵を磨く工夫を感じる。

父の言いたかったのは「見てわからん者は…」という言葉どおりの指摘ではなかったのだ。

つまりそれが(聞く前に)「見て、考えて、わかれ」であったのだと気づくのも、くしくもこれがブログ「雷山無言」シリーズを書き始めて相当の月日が過ぎてからのことで、「雷山」が父の姿であったとこじつけると、これもまた、知らぬ間に私はオヤジ(父)っぽくなってしまっていたことに苦笑している。

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