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2008年10月22日 (水曜日)

宮部みゆき 理由 と 火車


宮部みゆき 理由

「火車」を書いたので、勢いで「理由」も書いてみようと思ったけど。
あんまし、細かいところまでは思い出せない。

状況や心理を割と細かく、かといって、高村薫のようではなく、サラリと書いています。そういうところを読んで、ドキュメントタッチで、などという人がいるのかもしれない。

こういう作品を読むと、直木賞はいいなあ、と思う。
(逆の作品もあるのも事実だが)

----
理由 (新潮文庫)
宮部 みゆき
新潮社
\900

直木賞だからということで「火車」と「理由」を候補に早くからあげていた。しかし、宮部さんの穏やかで優しそうなプロフィール写真をみると、どうも推理小説作家としての強引さがこちらまで届かず、ついつい後回しにしていた。

しかし、なかなか。

読み始めると、あらら松本清張を30年ほど前に読み始めたときに感じたもの、それは身体の震えのようなもの、を感じて、この人は単なる物語を作る書き手ではなく、細かい表現手法や構成までも十分に吟味をしているぞ、と私なりに嬉しくなったのです。

話の筋が追えればそれで結構という作家ならば、極端なことを言えば、映画のプロモーション映像を見るように小説の解説を読めばいい。でも、作品そのものを愉しめるようなものを書いている人の場合は、一字一句をしっかりと読んで行くこと自体が快感なのだ。

読みながら、清張さんの再来だ!とブツブツ言ってしまったのを思い出す。一冊の文庫本がそう思えると、引き締まった感触を与えてくれ、どっしりと重く、一枚一枚が磨かれた高級紙に印刷されているようにも思えてくる。

物権の話なのでまずまず身近な話題である。殺人は決して身近ではないけども、よもや自分に降りかかることが無いとも言い切れない。宮部みゆきは、「火車」やこの「理由」で扱うテーマの非現実的な部分を、首筋を擽るように現実めいてドラマにして、上手に読者を引き入れてくれる。

法律の話は(工学部の私には)難しいこともあるけれど、彼女が自分の年齢で知り得ている以上に、これも上手に人の心を描いているから不思議だ。やはり、人物の目に見えないものを読者に伝えるのは天性の才能でしょう。「火車」と並べたら、出版順に読んだほうがいいかもしれない。
--
| 2008-10-22 14:34 | 読書系セレクション |


宮部みゆき 火車

虚像。

ネットワークシステムやデバイスの技術革新により社会の構造そのものが大きく変化している。人々はいとも簡単に大容量の情報を、あたかも自由な感触で操作できる。その裏には「あたかも」と書いたように「嘘」かもしれないことが数多く潜む。

虚像という言葉から連想されるものが段々と現実化されているともいえる。

誰もがストレス社会の中に晒され、人が安易に楽で快適な方へと流されていってしまうことや、麻薬中毒のようになるまで快楽、快適の中を連れ回されているのを、第三者としては咎めることはできない。そこには最もな理由もあるし、その乱れた姿は実はやがて常識化されてしまう正当な姿なのかもしれないから。しかし、真っ当な哲学と倫理観を持ち合わせていれば、必ずどこかで立ち止まるとも思う。いい加減なところで振り返る。そして自分が見ているモノが虚像だと分かるはずだ。


ブログやHPが身近にありケータイから簡単に扱え、自由に出入りできる時代だ。ある種の自分の理想像をブログなどに築き上げることもできる。バーチャルな夢の自分をそこに作れる。強くなりたい、格好よく振る舞い、お金持ちになりたい。そんな願望を叶えてくれるような錯覚に酔わせてくれるのがネット社会の一面でもある。

この一面を、正確かつ冷静に把握していなければ、ネット社会では大きな錯誤が発生する。もちろん起こらないことも有り得るわけだが、あらゆる事象がデジタル的に二者択一のデシジョンテーブルの上で判別されて、事件が起こることもあれば、平和が継続することもある。

-----
火車(新潮文庫)
宮部みゆき
新潮社
\900

火車という作品はこのようなネット社会が広がる以前に書かれた話で、人々の心の中に願望としてあった虚像がまだまだ夢の段階であったころの作品だ。虚像の中で腐ってゆく人の心の果てを予測していたともいえるが、小説とは現実と非現実との境目にほんの少しだけ踏み込んで読み耽る妄想を愉しみながら伴走してくれるようなものだとすると、火車という作品は読者を捉える駆引きを非常に心得ていると思う。

ストーリーのバランス感覚が吟味されて、一部分が特別に拘って長くなっていたり、何処かが分かりにくかったりするようなこともない。これは作者が天性の才能とセンスとして持ち合わせているからかもしれない。

二人の女性が登場するがそれは実像としてではない。人物の実態よりもその背後に潜んだものを手繰り寄せることでサスペンスとしての面白さを出す。一方、現実社会の事実や判例としてのできごとを、私たちの決して他人事ではない裏の日常として、読ませてくれる。有り得ない話でありながら有ってもおかしくないかもしれない話ともいえる。有って欲しいような期待に似たものもある。

そこで虚像という言葉を私は思い浮かべたのだ。

いい子で居たい。自分の弱いところや醜いところは隠しておきたい。そういう願いが人の心の中にはある。どれほど昔からあるのか不明だが、人はそういう願いを追いながら永遠の幸せを掴もうとしている。もしかしたら五千年前のエジプト人や中国大陸の民族にもあったかもしれない。

幸せになりたい、豊かに暮らしたいという夢を描くことで、ひとつずつステップを踏み、実像と虚像という二つの姿を睨みながら現実の幸せを追っていた。

姿の見えない主人公は果たして幸せを掴めるのか。たとえ一瞬であっても「ああ幸せだ」と思うことがあったか。そして未来に有るのか。複雑な余韻を投げかけてくれる。

-----

しかし、虚…という言葉が心に引っかかる。人間として目に見えぬものは信じられないし、地に足が着かないものは不安なのだ。そんな潜在心理が働くので、虚像、虚空、仮想という概念には心を許せないものがあるのだ。

複素数という概念では虚数という言葉がある。複素平面という我々が日常では出会うことのない座標軸の上では、ほんの少し時間や位相をずらしてやることで無限大に数理空間が広がってゆく。

実は私たちはそういう自在空間の中で生きているのではないかと思うと、時間軸の歪みに押しつぶされそうな苦痛が襲いかかってくる反面、孤独にそっと生きていれば永遠の幸せを手中にできそうな気もする。そう、誰の目にも触れずネット社会の中で慎ましやかに引き篭もり人生のようなものを送る…みたいな。だから、運命のサイコロをもう一度振り直すって、もしかしたら、容易いことなのかもしれない。そう思える人がいてもおかしくない。

火車という題名は「逃亡者」でもなければ「失踪」とか「偽りの姿」というようなものでもない。私たちが毎日、紙一重で背中合わせになっている一瞬のようなもの、それは負債による地獄だけではなく、人間と人間で責め立てあいながら孤独と闘わねばならない人たちが、実像と虚像、そして更なるもうひとつの虚像とを擦り合わせながら暮らしている状況と似ているよう気もしてくる。
--
| 2008-10-22 10:34 | 読書系セレクション |

2008年10月20日 (月曜日)

欠け欠けて月もなくなる夜寒かな 蕪村

 すっかり秋めいてきました。時に、夜道を歩けば冬を思わせるような寒さを感じることがあります。

 十三夜のころ、食事に出たあとに、月明かりの下を少し歩きました。薄着で出掛けたのでブルッときました。

 こういうのを夜寒というのかな、いや、夜寒とはもっと秋が深まったときのことをいうのかな、などと思案しながら家路を急いだのですが、辞書を調べると「10月から11月に使う」と書いてあったので、いまごろのことをいうのだなと安心しました。

 辞書を開いたオマケで、

 欠け欠けて月もなくなる夜寒かな 蕪村

という句が目に留まりました。

 昔から、誰もが同じようなことを肌に感じながら秋の夜を送っているのですね。

*

 三重の環境と森林のホームページのトップ画面左側に投稿写真のコーナーがあります。10月は「秋の風景」 11月は「秋から冬へ」というテーマで募集しています。

 近頃は携帯電話にカメラが付いていますし、コンパクトなカメラもお手ごろになっていますので、身近なところで秋を発見したらすかさずにパチリと撮って送ってみませんか?

 野山を歩いていて珍しいなと思うような動植物を発見したときなど、もしも名前が分からなくてもそのまま構わないので送ってみてください。環境森林部の誰かの目にとまれば、その名前は判明するでしょう。

 いい写真、珍しい写真が撮れたら投稿してくださいね。今なら掲載されること間違いなしです。

 実は私の場合…街角や雑誌で珍しい花や鳥などを見つけたら、即座にメールで環境学習情報センターの木村さんに「教えて、これなあに?」メールを出します。

 子ども電話相談室の先生みたいに分かりやすい解説と正解が、確実に返ってきます。けっこう重宝しています。

2008年10月18日 (土曜日)

絡む、絡まる、縺れる、纏う

絡むという言葉は、若者言葉で「交流を持つ」ということだそうだ。

やけにその言葉が、言葉として気に掛かっている。巷に氾濫している如く簡単に使ってホイ!と納得できるような感触ではなく、モヤッとしたものしか残らない。

日記サイトやブログで容易く「絡む」おこないが連想できるものの、私にはもっと深くて暗いところを流れる泥水を掬い取るような嫌な感触だ。

この言葉が気になりながらも・・・・

月曜から金曜までは、余暇の時間をゆるゆると彷徨っている自分が居て、ゆっくりと考えられないことが多いので、ブログにもあまりあれこれと書かないようにしている。思い付きでポンと書き込みをしてシマッタ!と思うことも多く、やや強制的に押さえている。

…のだが、昨晩は何が私の何処を突付いたのか、ふらふらっとおバカなことを書いている。普段の自分らしいと言ってオシマイにすることにする。消してしまおうかと思ったらコメントがあったので、消しては申し訳ないし。

私のことなど知っても仕方が無いと思うが、実際に会った人が少し居るのでその方のコメントを大いに参考にされたい。飲み交わした人の言葉であれば、なおさら信憑性が高いだろう。


閑話休題。

さてさて、この言葉について書きたいと思い、何日も前から気にかけ、紙切れがあれば余白に気の付くことをメモしたりしていたのだが、所詮自分のサラサラと書くメモ程度モノのには書き留めなくても記憶しておけるようなものも多い。忘れてしまったものは些細なことであったのだろうと諦めるとすると、大事なことは記憶にあるということか。忘れたとしてもそのうち、大事ならば再び思い出すだろう。
(つまり、メモはあまり当てにならないということです)

前置きが長くなったが、この「絡む」という言葉が、つまりは、簡単に出回っていることが私には「気に食わない」のだ。

└ └ └

意味は辞書に記されているとおり。PCにあった小学館国語大辞典(1988)を引いてみる。

◆絡む
自動詞として使うと
1.細長いものなどが、まわりに巻きつく。
2.言いがかりをつけてつきまとう。むり難題をしつこく言って困らせる。
3.事態がわかりにくく入り組む。
4.(1の比喩的用法)(感情や欲望が)つきまとってくる。「欲がからむ」「情がからむ」
5.登山で、山の中腹を回って進む。

他動詞としても使う。
1.細長いものなどを、まわりに巻きつける。
2.料理で、蜜、あんなど、ねばりけのあるものをまわりにつける。

◆絡める
他動詞として
1.つかまえてしばる。捕縛する。また、つかまえて監禁する。
2.なわ、ひもなど、細長いものを巻きつける。
3.(1の比喩的用法で、多く受け身の形で用いる)心を奪う。気持、感情をとらえる。
4.ある物事に、他の物事を関係づける。
5.登山で、障害物や通りにくい所をさけてまわり道をする。

◆絡まる
自動詞として使う。
1.細長いものなどが、まわりに巻きつく。また、うるさく人などにまといつく。
2.同じ場所から離れようとしないで、ぐずぐずしている。

└ └ └

◆縺れる
1.からまって解けなくなる。まつわりつく。からまる。
2.からみ合って乱れる。
3.事柄が複雑に入り乱れて混乱し、秩序を失う。事件が乱れて解決がつかなくなる。
4.言語・動作などが、正常さを失って思うようにならなくなる。

◆纏う、絡う
自動詞
1.まきつく。からみつく。からまる。まつわる。

他動詞
1.まきつくようにする。からみつかせる。また、絶えず側近くに置いて離さないようにする。
2.身につける。着用する。

----
 ----

「絡まる」1.の用例を広辞苑では以下のように引いている。
「道の辺の荊(うまら)の末(うれ)にはほ豆の可良麻流(カラマル)君を別(はか)れか行かむ」(万葉集)

他にもたくさん用例があるが省略します。
その用例が最高に素晴らしかったので、引いてみると面白い。


このように調べてみると、この言葉を使うことで、これまで生きてきた人生を綴れるのではないだろうか、と考えてしまう。

人生という物語では、
・女が
・仕事が
・事件が
・人間が
・社会が

複雑に、お互いに
・絡んで
・縺れて
・纏わりついて

そこには様々なドラマがあり似たようなことが繰り返されるものの、全く同じ出来事は起こらない。

辞書を読んでいると、妄想に陥るときと同じように自分が自分の世界に浸ってゆくのがわかる。

私の妄想の(記憶の?)物語には、愛があり、それがまた純愛であることもあれば、憎悪を伴なったり悪意を含んでいたりする。劇的な出会いがあり、別れがある。事件が絡む。不運が襲う。心が縺れて憎しみが生まれ、ベールに包まれたことも幾つか残る。

高校の日本史の先生が授業中に話していたのを思い出す。
「私たちは生きている間にひとつだけ立派な小説を書けるチャンスを持っているんだよ。それは自叙伝です。」

何と高貴なことか。
この日記も然りなのだろうか。

2008年10月17日 (金曜日)

確かに…

十年以上昔は、多少はこの顔(高橋克典)に似ていたかもしれないけど、今はそんな面影はない! (と妻は言う)

私のことを、この人に似てると褒めてくれる子がいて、30ちょいの独身の子(♀)なんですが、

きょう、職場でその子を訪ねて、その後、他で用事を済ませて、夕方再び寄ったら

「うちの職場の(若い)子が、私ら二人で話しているところを見ててな、・・・・と思ったみたいで、幾つ?30後半?40くらい?って言うてたよ」

と教えてくれたんですが、ちょっと大きく間違いすぎでしょ。それ!
ウレシイけど。


「彼氏?友だち?知り合い?」

とか、聞かれたか、どうかは…ナイショ

そんなことはどうでもよくって

--

家でよめはんにその話をしたら、

「昔は似てたかもしれない。今はブタやから…似てない。その子(♀)ちゃんの彼氏か、ちょっと離れすぎやな。(あなたは私のものよ)」

やって言うておりました。

久々に書く日記が、夫婦の会話でした。ほい。
(今の私は毛は無い。スキンに近いですから)

2008年10月13日 (月曜日)

五十路にひとつ踏み出す夜寒かな

寒い夜だった。
月明かりがアスファルトにぼんやりと影をつくる。

雲が居る。
流れるというようなものではなく、月光を少し遮って居る。

今夜は十三夜だという話をしながら、その淡い明かりのもとを娘と歩いて帰ってきた。

樋口一葉に「十三夜」という作品があるが、あれは素晴らしい。彼女は貧乏だったから、貧しい話が多いのだ・・・などと他愛ない話をしながら、コツコツとアスファルトを歩いてゆく。


(小林一茶)  六十に二ッふみ込む夜寒哉 
(川口松太郎) 生きるということむずかしき夜寒かな 


秋の夜というのは、誰しもがこのぶるっと来る寒さで似たようなことを想い、似たような感慨にふけるのだろうか。


京都の路地を十三夜の明かりが照らし出している。

一茶風に言って、
「五十路にひとつ踏み出す夜寒かな」
とパクリたいところだが

五十路を照らし出したる夜寒かな  ねこ

2008年10月10日 (金曜日)

巻き戻す

古代の人が残した文字には、未来に伝えようという当時の人々の意思が、どれほど込められているのだろうか。

人間の命は、血流が停止し、脳波が消えて、思考や記憶が不可能になった時点で終わる。そのことを科学という観念で捉えることが出来ない時代に、古代エジプト人たちはピラミッドの築造を手がけ、ミイラとなる埋葬を考案していた。

そのころの日本列島には、そのような歴史を残す文字という概念もなく、文字を書きとどめる墨さえもなかった。

縄文時代が平和で、人々は心豊かな暮らしをしていたのかどうかは、学術的な探求も進み様々な見解が出ている。何はともあれ時間は今以上に緩やかに進んでいたことは確実だろう。

情報通信を学ぶ人は波動という勉強を1年生になったら嫌というほどさせられるが、高校時代はいわゆる三角関数と呼ばれるものがこれらの基礎になっている。一定の周期を持って繰り返す現象というモノに私たちは囲まれて暮らしていて、乱数とか突然変異、ギャンブルでいう大穴というような現象の発生は稀であるといっていい。

漠然とそういうことを周期という観念で考え、夢にも思っていたのであろうか。人の生命は蘇えり、次の世(後世)でもまた今のように生きてゆくのだと考えたのだろう。

だから、文字というものは、コミュニケーションの必然として発生するのと同時に、漠然と、形づくられていったのかもしれない。

しかし、文字が活字となって未来に受け継がれ、科学者や考古学者たちが解析をするということまでを想像しなかっただろうな。

---

ささやかであるが、私たちは日記というものを書く。この歳になると、私が死んだ後にこの日記はどのように処分されてしまうのか、がちょっと気に掛かる。

秋が深まる寒露の夜、窓の向こうには絹で覆ったような満ちかけの月があった…気がする。気がするというのは、しっかりと見上げたわけではなかったためで、秋の月はそこに添えて置いて、私のほうの想いは忙しく巡っていることが多いから。

前略、秋も深まり…なんて月並みな手紙も書きだせない。

少しばかり余白がある紙切れに、断片的に手紙のようなものを覚え書きしてみたりするものの、それを纏めて便箋に書くこともない。柿が美味しい季節ですね。栗ご飯を炊いたよ。サンマも食べたよ。などなど、書いては丸めて棄ててしまう。従って、封書に詰められ送り届けられることもない。

「まあ、いいか」

日常の口癖になったこの言葉を「好きじゃない言葉だけど」と思いながら、呟いてみては、ほんとうの友だちってのは手紙を書いて丸めて棄てた紙に書いてあったことを、もしかしたらテレパシーのようなもので感じ取ってくれているような気もする。
だから、手紙は、また今度、書こうか、で終わる。


些細な感動はある。

ホームで列車を待つときに、隣に並んだ女子高生がカバンからチョコボールの袋を携帯といっしょに取り出して、袋の封を切ったらチョコがポン!と1個飛び出してホームをコロコロ。思わず、悔しい!と思ったけど、口には出せなかった。

その話は夕飯のときに報告して、言葉を飲んだ私を、二人で悔やんだ。


巻き戻す。

すかさず「人生を巻き戻す」などという言葉が思い浮かんだが、今更そんなものを巻き戻すつもりも無い。二、三日前の夕飯が思い出せないかもしれないというのに。


うふふふ、と笑って過去を巻き戻す ねこ

日常を巻き戻して手紙に書くことすら、御座なりにして、寒露の夜は過ぎていったのでした。

巻き戻す手紙を包む寒露かな  ねこ

2008年10月 7日 (火曜日)

手紙 から

同窓生の友人たちに出した手紙。メモ

----
各位、

さぞかし、呆れていることでしょう。

別に機嫌が悪かったわけでも不真面目であったわけでもない。

まあ、一番の信頼できる人たちということで、何も隠さず、嫌われるようなことを承知で、あのようなことを書いたのでしょうか。>自分

何でも話せる人がなかなか居ませんね。
家族だけかもしれない。

社会では、仕事を失っても、そのことを妻にも言えず、公園で一日を過ごす人が居て、自殺者や犯罪報道のときにも、非常に興味本位に取り上げられている。

結局、そういう現象を始めとして、数々の社会の悩み

(これは病理学的にも、人間の疾患と似た特徴を表すもので
心理学と社会学というものは、よく似た構造であり)

を放置してきた人間側の問題が、本質的に解決されてゆかない限り
明るい未来は見えない。

私は全ての源流は「豊かさと満足度」に帰着するのではないかと考えたわけです。
あまり、理屈を広げて書いた作文を見せたくないので、掲載箇所は非公開としますが

豊かさと満足度、だけでは大きな誤解を招くので少し補足をすると…

・幸せ意識、中流意識にはじまった豊かさ
・現状でかなり頂点を迎えて後戻りできない満足度。
(それらの基軸のなかに、)
・お坊ちゃまな政治家や
・タレントの議員や
・売れれば何でも報道するマスコミや
・儲かれば環境問題でもしゃぶり尽くす業界や
・奇麗事を前面に出していい格好をする企業や
・経済やマネーだけを尺度にしか考えられない狭い視野の人々や
・そういう妄想にいつまでもしがみついている人たちなどなど。

客観的にモノを見る姿勢の中心点が確実に傾いているのだなあと思うたびに、浮力の中心を失った船は一度解体するしかないか、と思うのです。

長い歴史を顧みても、人の知性とはそれほど大したものではなく、欲望とかカリスマに振り回されてきたわけで、たかが2000年にも満たない民主政治というものの流れをみても劇的な改革は厳しい。

物質文明やその文明を取り巻く環境が変わるにつれて思想も変遷するのでしょう。人は痛い思いをしなければ何もわからない。

「上から目線」という言葉が盛んに新聞などでも目に付きますが、本当にそのことをわかっている人はどれだけ居るのか。

今の私の目標は、年金をもらえるまで健康に行きぬくこと。これしかないのですわ。

---------
↑の前に出したメール。

別に、読まんでエエです。
生存としての返信ですから。

メールがこんので、メルアド変更してドロンしようかなと怒っておりました。
日本の社会の縮図のようなリアクションだと感じてます。

田中康夫の質問は、ニュースと新聞でダイジェストに知っていますが、知っている程度です。

それを聞きながら、家でよめはんに言った感想は、

概略ですが
----

まともなことを考えている政治家もいるんやから、国民は真剣に考えなアカンのや。
しかし、全然、(国民は)自分のことしか考えてえへん。
社会を変えるためにどうあるべきかなど、考える気は無い。
その使命感もないわな。
自分が損したり、しんどい思いをしたりするのは嫌や。
(そう考えているだけや、ぼーっと)
それは正しい考えやけど、今の社会にはそぐわないんや。

自分たちが痛い思いをして、犠牲を出せとまでは言わんが、
マイナスを出してプラスに導く発想がない限り、今の社会はアカン。

滅びるしかない。
国民全員が失業するか、戦争でも起こって、目茶目茶になることや。
要領のええ奴が生き残って、そいつらだけが幸せに暮らし始めたら、それが破滅への道やとそのときに気付けばええ。

ワシには、できることは何もない。

ボケな国民ばっかしやろ。
やれ、人気投票が高かったから、この人好きやわぁ。
バナナの騒動。納豆の騒動と同じや。
そういうモノで価値が決まってゆくわけよ。

クイズ番組見て、ああ正解、やれ不正解。
こんな簡単な問題が出来た出来んで喜ぶなボケ。
賢くなった錯覚。
そういうのをボケというのや。

儲かるかどうか。
損失がないかどうか。
僻地の医療がそういうモノサシで決定付けられてええと思う?

住民のほうが先にその土地に住み始めたんや。
行政は、経済理論を盾に政治をしてええの?

戦争でひとりの人間が鉄砲で撃たれて犠牲になって死んで、大騒ぎするんやろ。
たった一人でも、僻地に人が居たら、医療行政は消滅したらあかんやろ。

経済理論の本やマネーを稼ぐ話。保険で損しない話など。
がめつい奴ばっかしの飛びつく話で、それが今の社会での、大手を振った正論。

技術優先で社会を良くしてきて、国民は豊かになった。
その甘い汁をいっしょになって吸ったわけやが、それは大きな間違いやった。

社会の中では、ほんとうはそんな技術よりも、人々の心のなかに絶対的に豊かに宿るものが、育てってゆくべきやったのよ。

哲学。何ですか。役に立たんやろ、そんなもん。
理学部、物理学科。そんなとこでは就職できんやろ。
(そういうふうに)目先の損得を考えるだけの社会が、
人々の心や生活を豊かにしてきたように思っていたけど、間違いでした。

更なる大きな間違いは、「豊かさと満足度」ということを考察したときにも触れたが、そういう大変な状況なことになっているのに、私は大丈夫、と思っていることやね。
言い換えれば、私がよければかまわないわ、ということですな。

そんなことを言うから、
「昨日食べた夕食の中で高額なものを上から二つピックアップして、それを取り下げて、社会に役立てる何かに使ってみるなどの工夫をする精神を持ってよ」
と言いたくなるわけや。

反論くるけど、将棋の盤なら、ここで180度回転させて勝負継続してみるのが面白い。
頭に血を登らせている奴に限って、相手の言い分の論理を、大空から見下ろすように理解できてないん。

今の国民にはそういうレベルが掃いて棄てるように居る。
少しばかり賢くなって、学歴を得て、社会的にも名誉も地位もお金も得た人もそういう中にはいますな。

バカ高い車が売れる社会。
車が不必要に渋滞してても仕方ない。
ガソリンが高いのに、暴動も不平も言わん。
テレビは24時間。
食い物も贅沢の限り。
食糧管理問題なんか、出てきて当然の結果や。
縄文時代に戻ることから始めなあかんのよ。

また、あほ言ってると思うやろ。
けど、真剣に考えて欲しいなあ。
と、愚痴りました。

やっぱし、ワシが立候補するしかないんやけど、大バカ国民は、ワシには投票せんしなあ。

どうぞ、好きにしてください。

----------

腹の内では、

・民主党に入れて、政治に楔を打つという戦略が必要。
・政治は自民党でないと出来ないかもしれない。
・楔を打つ必要は大いにあり、そのことで有能な自民党政治家は国民をもっと見る可能性も出るけど、出ない可能性もある。
・大バカ国民は、近所や知り合い、有名人、世間の動向調査結果などに敏感な反応を示し、真剣に考えてない(ノンポリ、体裁主義、美的自己中心な)んだから、だったらワシは真剣に考えることにしよう。
・ワシの一票は生きないことがわかっていても、民主党と自民党には絶対に投票しないと決めてます。
・生きないという結果は投票した人の人格を踏みにじる行為に等しく、哀しく寂しいのですが。
・だから、好きにしてください、といいたくなるのですよ。


行政のプロの人の中で仕事をしていますが、住民(県民)は、非常に無関心です。
自分のことしか考えていない人が多い。
世の中を改革するためにどうすればいいのかを考えている人は一部の人。
考えない人は、集まってどっかの島にでも移住してほしわ。

まあ、そんなことをブツブツいいながら毎晩、よめはんと飯食ってます。
晩酌はウィスキー1杯にしました。

もう世の中で暴れたる気合いも無いし、金も無い。カリスマ性もない。

行政側の人は、井のなかの蛙、ということもよく分かってきました。
しかし、「行政人。しっかりしなさい、自信を持って。」とも言いたい。

2008年10月 1日 (水曜日)

ずいき祭

京都に秋を告げる、という。

台風は温帯低気圧に変わり、そのとたんに、曇っていた空が青空になった。この現象は全くの偶然であろうが、時時刻刻と流れが移り変わってゆく力のようなものを感じる。

状態が変化するときというのは、遷移するエネルギーが大きい。心がときめくのも、活性化している証拠なのであろう。

街行く女性の髪型がみんな特別なお洒落に見えてくるのもこの季節。ドキドキが続く。(でも、あまりドキドキしすぎても、身体に悪いかも)

--

おでんを、すでに食べた。

毎年、コンビニの前を通り過ぎるときに「おでん始めました」という幟を見ると嬉しくなった。4月から汽車通勤になったので、コンビニの前は通らないから少し寂しい。

そうだ。汽車通勤になって6ヶ月が過ぎたのだ。でも、痩せない。

--

先ほど、娘から電話があった。母が留守だったのでそのまま切ってしまった。あとで、何の電話やったの?と尋ねたら、ずいき祭の夜店は今夜から出てるかなーって聞きたかったみたい、と教えてくれた。

授業の帰りに、Aちゃんと仲良くぶらついてくるのだろう。
京都の秋を告げるずいき祭。


カレンダーめくり忘れて秋の風 ねこ

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