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2008年5月28日 (水曜日)

ホトトギス

去年の6月には、メルマガの巻頭言で私は次のように書いた。
─*─

 県議会議事堂(津市)の植栽の緑がいよいよ夏の趣を呈して、博物館への坂道を辿ると街路の銀杏も夏に備えて着々と装いを新たにしています。日差しは既に夏のもので、時には木陰が恋しいとさえ思うこの頃です。

 センターでは、夕刻になると不如帰(ホトトギス)の声が聞こえてきます。閉館のころ、裏山のほうから夕暮れのしじまを突き抜けるようにその声が届きます。

キョッキョッ キョキョキョ。
キョッキョッ キョキョキョ。

 鈴鹿山麓の不如帰の初音は毎年、5月下旬です。山積の仕事にまみれているセンターの面々は、この風情に耳を傾けるゆとりなど無かったかもしれませんが…、今年も間違いなく5月20日ころから啼きはじめました。

 不如帰。カナでホトトギスと書くことが多いですね。「泣いて血を吐く」といわれたり、「泣かぬなら殺」されてしまうような悲劇な鳥ですが、連日、きれいな声をビルの谷間に響かせてくれています。

こだまして山ほととぎすほしいまま  杉田久女

─*─

このように書けるのは、やはり自分が自然のなかに暮らし、当たり前のように鳥や花たちと暮らせたからだろうなと思う。

山の中腹に向かう緩やかな上り坂へと車が交差点を曲がるころ、木の香りが漂い始めるのが肌身に沁みてわかり、駐車場に車を止めてドアを閉めれば、そこには機械が作り出した音が存在しない空間があった。鳥が鳴き花の香りが何処からともなく届いてきた。

しかし、年度が変わると同時に私は時空間をスリップするように新しい場所に異動して来た。


多かれ少なかれ人が寄り集まり、群れをなして駅という当たり前の建築物を行き交い、コンクリートの階段をコツコツと歩き、エレベーターに乗って職場に辿り着く。そんな生活を始めて2ヶ月が終わった。

幸運にも五月病にも悩まされることなく(笑)、美味しくお昼ご飯を食べ、加速度を増しながら仕事も順調に走り始めた。

心配していた通勤電車の苦難も予想以上に軽くて安心しています。

短いスカートの高校生が、BOX座席の通路側の手すりに腰掛けるのはいいのですが、下着で直に座っているのかと思うと、その後手すりに肘をついてゆっくりと読書ができないという予想外の神経的病いが発症した以外は、まずまず楽しく通勤時間も過ごせている。あの子どもたちの汚い太股を何とかして欲しいという怒りとも悲鳴ともいえる嘆きは、夕食の愚痴になっているが。


そんなこんなで、5月が終わり、6月を迎えようとしている。

昔、古里の家の片隅に小さな蜜柑の木があって、今ごろになると白い小さな花をぽつぽつとささやかに咲かせていた。傍を通り掛かると甘い匂いがする。年末には実をつけた。店に出回る蜜柑のような甘味はこれっぽちもなく、おもいきり酸っぱい実だったが、花の香りだけは何とも例えようの無い甘さがあった。

5月の花といえば「卯の花のにほふ垣根にほととぎす早も来鳴きて…」と歌われるように卯の花を想い浮かべる方々も多いことでしょう。こちらも甘い香りを放ってくれますが、私は蜜柑の花のほうが思い出深い。

一方、ホトトギスですが、お天気を心配する人にはあまり有り難い話はなく、「ホトトギスが啼くと明日は雨」という諺もあるらしい。

前線が迫っている。
今夕あたり、奴らは騒々しいほどに啼いているのだろう。想いおこすと、研究所の建物にこだましていた余韻が蘇えってくる。

杉田久女の一句。この句は凄いな。

2008年5月21日 (水曜日)

宮本輝;にぎやかな天地 もうすぐ

5月14日に、上巻を読み終わり、少しずつ下巻を読んでました。

やっと、終わります。あと10ページほど。

大事に大事に読んでます。

久しぶりに宮本輝の世界に浸れました。

2008年5月20日 (火曜日)

やまぶき その2

「塵埃秘帖」に山吹(ヤマブキ)のことを書いたのは、まず、母親のことを思い出したからでした。

母の日に顔を出さなかったこともあってか、電話があってお呼びが掛かった形になりましたが、今の時期、真夏を思わせような土砂降りに見舞われることがあって、何の根拠も無く母が夜なべに太田道灌の山吹の伝説の話をしてくれたことを思い出したりしてましたから、まあ神様のお呼びかと。

子どものころ、初春には菅原道真の歌を、夏には太田道灌を、ほとんど感情も表さずに淡々と母は説明をしてくれました。

そして、いつも、「親の小言と茄子の花は千に一度の無駄も無し」、昔からそういうものだと言い、「茄子の花は咲いたら必ず実を結ぶんや。親の小言と同じやというてな・・・」と、私から目をそらせていました。

私にはたくさんの小言を投げつけたかったのでしょうが、コイツには言っても無駄な面があると早々に諦めたのかもしれない。そのくせ東京の大学にやってくれましたけどね。

ショッピングセンターの買い物カートに凭れかかりながら歩いている後ろ姿はすっかり腰も二つに折れてしまってました。杖があればさぞかし楽だろうに。
しかし、なかなか杖を買わせてくれないから、私は少し困っているのだが。

そうそう、書棚に積み上げた本の整理をしていたら、ぽたりと封書が落ちまして、中に紙切れが一枚入っていました。

父の死亡診断書です。死ぬまでの4日間の苦しさが伝わってきます。

人間、生きていなあかん。オームのサリン事件と阪神の地震のときに大腸癌を切って入院していた母です。6人部屋で同室に居た人たちは瞬く間に5人とも死んでいってしまったのに、どういうわけか生きています。

父の分も生きているのかな、とか思います。

折れ曲がった腰が辛そうにも見えますが、スイスイと歩いていたので、安心して帰ってきました。

そんなことを思いながらメルマガ書いておりました。(巻頭言と編集後記:5月号)

2008年5月19日 (月曜日)

爽やかな風

 風薫る5月。爽やかな風が野山を吹き渡り、自然の中に飛び出すには絶好の季節となりました。

 大型連休のころ、伊勢平野に植えられたばかりの苗は、水かさが増えれば流されてしまわぬかと心配をするほど弱々しかったにもかかわらず、わずか半月余りのうちに逞しく青々と育ち始めました。この早苗に負けじと麦の穂も顔を出し、やがてこれらが色づき始めるころには夏の盛りがやってくるわけです。

 夏が待ち遠しい方々。もうすぐですね。

*

 実はメルマガ編集を3年前から担当してますが、3月まではこの拠点が鈴鹿山麓にありまして、豊かな自然に恵まれた環境のもとでPCに向かっておりました。

 しかし、4月から県庁8階に異動してきまして、南の窓からは伊勢湾を遠望できるものの、ほんの2、3分歩けば雑木林の散歩道まで辿り着けて今の季節ならホトトギスの鳴き声に耳を澄ませるというようなこともなくなってしまいました。

 そこで、何か身近なところでホッとするような記事でもないものかと新聞を開ければ、遠い国で嵐が吹き荒れたとか、地震が襲って街が壊滅的になっているとか、地元では雷雨の被害があって災害が発生しているというようなものが目に付きました。いずれも近年、注目されている気候変動に因るものかもしれないと思うと複雑な心境になります。

 琵琶(ビワ)の花が咲いたとか、その花が咲いたと思っていたらいつの間にか実がなっていたとか、ハイキングの途中で鮮やかな山吹の花が咲いていたとか。できることなら、そんな便りや写真が数多く私たちのところに飛び込んでくると嬉しいな、と思います。

2008年5月18日 (日曜日)

やまぶき

七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだに無きぞ悲しき

ずぶ濡れになったままで聞かされたときに太田道灌は、果たしてどのような感情を抱いたのだろうか。

後になって兼明親王の歌と知るという伝説があるものの、この「みのひとつだに無きぞ悲しき」という言葉で表現される芸術作品の響きに、何を思ったのだろうかと気にかかる。


五月の田植えの合い間のシトシトと雨が降る夜に、一日の疲れを風呂で癒した後に居間で母は、「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだに無きぞ悲しき」という歌があって太田道灌が雨宿りを申し出てたときに断られたんや、という話をしてくれた。

何度その話を聞かされたのかさえ記憶に無いが、母は女学生時代にこの歌に感動したので息子に話したのだろう。

一度だけ聞いただけでも忘れない歌もあれば、何度聞いても憶えていない歌もある。この歌のどこを気に入ったのかは自分でも曖昧だが、悲しさに共鳴したのではないかと振り返っている。


山吹は恋の花である。古代の人は八重咲きの花を好んだのだろうか。薔薇にしてもそうだが、湧き上がるような熱情を花びらに感じるのだろうか。

黄色くて地味な花だと思う。一重咲きの山吹(ヤマブキ)は可憐な花で、庭にひっそりと咲かせておきたいような落ち着きさえある。

鼻を近づけると薔薇のような香りがする…はずだけど、その香りの記憶は無い。そう思うと嗅ぎに行きたくなってくる。


さて、

きょう、久しぶりに母を連れて買い物に出かけた。鰻が食べたくなったと言って私に町まで連れて行って欲しそうにしたのだが、そこにはまた別の理由があったのようだ。

妻と私と3人でショッピングセンターの中を歩いた。後ろ姿を眺めながら、そういえば子どものころの我が家の庭にはバラ園ができるほどの薔薇が咲いていたなあ、と思い出した。
母は薔薇がきっと好きなのだ。だから、山吹も好きだったのだろう。

まあ、そんなことに今ごろ気づいた。

そして、もうひとつ気付いたことがあった。
京都を離れるときに同僚の女性が「田舎に帰ったら花屋さんをするんでしょ。それが夢やって入社のころに話してなあ」と言ってくれて、その「いつか、花屋になりたい」と私に言わしめたものは、この歌か、庭に咲き誇った薔薇の花にルーツがあったのかもしれない・・・・ということだった。

2008年5月11日 (日曜日)

母の日や人生重たし母軽し

きのうの雨は冷たかった。
嵐のように横殴りの風が吹くわけでもなく、しとしとと雨が降っていた。

黄金週間に晴れ間が続いたし、遊びまわった人も多いだろうから、ここは一休みするのにちょうど良いかもしれない。

そんなことを思いながら、いつものようにぼんやりと、通勤途上の車窓風景を眺めていると、麦の穂が出ていることに気づきました。

あと半月か1ヶ月でこの穂がこがね色に輝くようになるんだなあ、と月日の過ぎゆくことに感じ入ってしまったのです。


私の乗るJRの車内には、ぶら下がり広告や壁の広告が無く、その分、ぼんやり眺めることができるのは、車窓の景色となってしまう。

もしも広告があれば、母の日のプレゼントのチラシで賑やかなことだろうに。


今ごろになって、「できること…ないかなー」と、も思う。
何をいまさら。

母の日や人生重たし母軽し  ねこ作

2008年5月10日 (土曜日)

ヘビイチゴ

通勤にJRを使うようになって、車窓からの景色を楽しむことが増えた。 気候や天気のおかげで日々刻々と変化し、決して見飽きることがない。

人は、朝日を見て一日の始まりを引き締め、夕焼けを見て今日の自分を労わっている。ネクタイを緩めカバンの中の文庫を取り出すものの、ふと車窓から眺めたそこに、蓮華畑と麦畑が広がっていて思わず目を奪われてしまった。

この感動を丸ごと写真に納めたり絵にすることは難しい。やはり感動というものは、隣にいて同じ景色を黙って見つめることから始めねばならない。

効率化、簡素化などの波が押し寄せ、自由とい旗のもとマネー主義の嵐が吹き荒れ、人の心が荒廃してゆく。 寂れるものを二人でじっと見つめることで、寂れさせてはいけないものを丁寧に拾い上げるという至って単純であり重要な手続きを社会は御座なりにしている。

何の変哲もない田舎の平野。 その向こうには夕日が沈む山並があり、麓には脈々と流れ来る河川の水の恵みがある。

麦畑に隣接する水田に水が満たされ鏡のように光る。昔の人はこの水田に朧な月が姿を映す自然に感謝し、子どもは蓮華の花畑で戯れて逞しくなった。 思うまもなく田植えが始まり麦畑が緑から黄金色へと変化をしてゆく。

巡りゆく季節のなりわいのおかげで私たちは暮らしているのだということを忘れてはイケナイのだ。





景色ばっかし眺めていて、一向に読み進まない司馬遼太郎さんですが、菜の花が好きだったといいます。黄色い花は、赤い花が情熱を発散するのとは対照的に、自然のなかに生存する逞しさのようなものを届けてくれるような気がします。



黄色い花の写真を知人(木村さん)が

HP

にあげていたのでちょいとお借りしてきました。



ヘビイチゴの花

ふるさとの沼のにほひや蛇苺 (水原秋桜子)
私の大好きな句です。


蛇苺の実


2008年5月 9日 (金曜日)

徳山ダムと八草峠など

徳山ダム(岐阜県)に行ってきました。
できたてのホヤホヤ。
(写真はない。)


1999年、初夏の日記と対比しながら、今日を振り返ってみることにします。
─ ・ ─ ・ ─
何げなしに峠を越えてきた。
その峠に向かって行く道路沿いにダム湖があったとしてもさほど気にせず湖岸道路をとばしたりしてきた。
しかし、今回のツーリングではちょっとセンチな旅であった。(日帰470キロ)
─ ・ ─ ・ ─

▼…と書き出しています。

─ ・ ─ ・ ─
岐阜県・徳山村。知る人も少ないだろうが、今は藤橋村に吸収されてしまった。
その理由は、やがて旧徳山村が全村ともダムに沈んでしまうからであった。
廃村の面影は余りない。
しかし、ただならぬ風が吹いているような気がする。
山が野生味を帯びているのである。
怒りのパワーにも思えるし、山々が自然に還っていく歓喜の叫びにも思えた。
風が吹くと廃屋の前の大木が揺れる。
鳥が自由に舞う。
─ ・ ─ ・ ─

▼私のこの頃の身分は、現在関わっている「地球温暖化対策」とか「環境活動」とは全く無縁だったのですが、自然に対して今と似たようなことを感じるアンテナを持っていたんだなと驚きます。

─ ・ ─ ・ ─
休日だったからだろうか。何でもない空き地でバーベキューをする家族を見かけた。
そこに予想以上に老人が多く混じっていたのは、廃村のこの地から追われた人たちが週末には帰ってきてるのだろうか。
それを想像すると胸が痛んだ。
荒れ放題の田畑がある。
それが田畑だったかさえ解らないほど荒れている。
しかし、地形的にみてもそれが自然の物でないことが解るし、畑の真ん中に自生している栗の木などは誰かが植えなければあんな所には生えていないはずだ。
─ ・ ─ ・ ─

▼あのときの風景が目に焼き付いているので、水底にあの村があったことを思い、ダム湖の岸を高速道路のような国道が通っていることを思うと、やはり、いたたまれない気持ちになる。

─ ・ ─ ・ ─
道路は黙々と冠峠[1050m]に上ってゆく。
穏やかな地形でありながら、峠方向には、冠山[1257m]や金草岳[1227m]、能郷白山[1617m]が見える。
最後の集落で、高倉峠[964m]よりは冠峠のほうが通行できる可能性が高いだろうと教えてくれたので、分岐点では冠峠方面を選んだ。
このあたりから眺める冠岳の姿が素晴らしく奇形で美しい。甲府盆地から上州へと越えたときに見た瑞牆山の姿を思い出した。
─ ・ ─ ・ ─

▼快適道路の終点に「冠山林道通行止め」と表記されている。
きょうは、そちらへ行くのは止めにしたが、正解だった。もしも走り抜けていたら家に帰り着くのは夜中になっていたはずだ。

─ ・ ─ ・ ─
峠の舗装の上に頭ほどの落石が散乱しているなか、ガードレールのない上りを少しづつかせいで行く。福井県側は、野麦峠のような感じで谷が深く眺めも良い
─ ・ ─ ・ ─

▼あの険しい峠に行けなかったのは残念だが、もう少し夏になってからでもいいなと思う。
京都では山々がコナラの新芽で黄緑に彩られているが、このあたりの山々はもう少し後かも知れない。5月の下旬ころに来ると素晴らしい景色でしょうか。


▼徳山ダムに行くまでに、揖斐川右岸の堤防道路を走った。
これは、大きな収穫だった。
また、のんびりと走りたい。
▼八草峠(トンネル)を越えて滋賀県周りで帰ってきた。
この峠も、昔の険しさは全く無い。
山間部に住む人たちは、道路が不便であれば、例えば救急医療が必要になったときのことなどを考えるだけで不安だ。
▼徳山ダムの底に沈んだ人たちは村を棄てざるを得なかった。
一方で、村を簡単に棄てるわけにゆかない人もたくさんいるはずだ。むしろそのほうが多いだろう。
▼行政は、村人がたとえ1人になったとしても、国家ができるよりも前にヒトが居たことを考えても、責任を持って村を守るのが正しい筋ではないのか。
そんなことを考えながら集落を通り過ぎた。

京都日記 (GW)

5月6日。

朝からよいお天気だったが、朝寝坊な家族であるから、行動は午後からとなる。

待っている間に娘の本棚に在った江戸川乱歩短編集を読む。

そこで気がつくが、何故に私の本棚の本と同じ本がここにあるのか。即ち娘が持ち出しているわけで、まあ、大いに結構です。司馬遼太郎や遠藤周作は全部持っていってよろしい。

さて、お出かけは、寺田屋と東山界隈の二者択一で悩みまくったが、結局、様々な思い出の地である真如堂へまず行ってみることにしました。

真如堂は、京都大学の裏手にある吉田山の一角にあります。

私が結婚する前にある女性をここへお誘いし、紅葉の絨毯の参道で芸術的な写真を撮ってやったのでした。半年後に結婚してますが。

まあ、いろいろと見て回ると記憶が曖昧というか、20年以上も前のことは覚えていませんでした。

あちこち歩き回って、光明寺のお墓のほうに出て、坂道を下って丸太町通りに下りるルートを歩いてみました。光明寺ってデカイお寺でした。

そのあと、南禅寺方面へとゆっくり散策し、三門でぼんやり。

しかい、こんなところでぼーーーっとしてても、オトコがひとりで何してるのよ、って感じです。隣に腰掛けているネエちゃんに変な目で見られるし。

いいお天気で日焼けしました。でも、予想したほど人出もなく、社寺はひっそりとしているような感じがしました。

    ┘


北野の梅。
これは、3月の天神さんの前日の撮影



高瀬川の桜。
この日はこの後六角堂。嵐山へと行きました。
(4月初旬)


六角堂の本堂。
なーんにも無いところですけど、好きなスポットです。
これは、桜のころに撮影したもの。


六角堂の一言願い地蔵です。
一言だけお願いできるそうです。
百万遍も大好きですが、六角堂も好きなスポットですね。
(撮影日:同上)


これは、南禅寺の三門です。
わりと有名ですね。
絶景かな!って、アレですよね。
(5月6日)
カメラ:EOS

2008年5月 4日 (日曜日)

吉野日記 (先月27日)

伊勢と奈良の間には高見峠という険しい峠道があったのだが、今はそこもトンネルになってしまった。

平野から櫛田川沿いを遡ってゆく。徒歩の時代ならば1日では峠を越えられなかった距離になる。コナラが芽吹き、山肌を甘く彩っている。この色合いをみて昔の人は「山が笑う」と言った。

現代のように杉や檜の植林が進んでいなかっただろうから、山々は春になると枯れ色から激変したのだろう。

人々の希望が込められていた。

海から60キロ西に行くと国境があり、そこから山を下ると吉野という地域に出る。

峠道をゆるりと遡ってゆけば、紫色の花を咲かせている野生のフジに出会う。近づいてみると、甘い香りが漂ってくる。

高見峠を越えて吉野地域に入ると、少し空気がひんやりというよりも、寒い。
トンネルを越えたり日蔭の走り続けると、身体が冷え込んでしまって戻らなくなっていることに気付く。

吉村寅太郎の終焉の碑がある。
ひっそりと、ある。

私がバイクを止めて碑文を読んでいても、車やバイクは誰も止まることなく通り過ぎてゆく。

150余年前の出来事なのだ。日本は所詮、その程度の短い時間に一人前になってきたわけで、成り上がりの癖に今という時代で大きな顔をしているのが、メチャメチャ可笑しいような気がしてくる。

さて、
川上ダムから洞川高原林道を越えて大峰林道へと行き吉野山の麓まで走ろうというのが今日の楽しみだ。

川上ダムには少しづつ水が溜まり始めているらしい。来るたびに立派なダムが完成度を増すのを眺めてきたが、いよいよなんですな。
おっと、ネズミ捕りもやってました。お隣さんの県で捕まるわけにもいきません。洒落にならんでしょ。

洞川林道の途中で珍しいものを発見しいました。ワサビ田です。やっぱし、水が綺麗だからね。
その脇から山の峰に向かって林道が伸びていきます。今度は、ここを上ってみようか。もしかしたら大峰林道に出るかもしれない。

せせらぎを見ながらどんどんと上っていきます。視界が開け始めたころに吉野へと向かう大峰林道の分岐点が現れました。

この大峰林道は、尾根道をゆく綺麗な道路でした。路肩を整備したら有料スカイライン道路にもなりそうなところです。ちょっと味気なかった。洞川林道や行者林道の方が楽しい。


そして
あっという間に吉野山に到着。

水分神社のところの展望台から蔵王堂を見下ろし大きく息を吸う。

後醍醐天皇は、52歳で最期を遂げたという。実年齢50歳。
自分の歳と同じときに、この地で再起を誓い、心を振るわせたのか、と思うと、こっちまで身震いする。

吉野山の桜は、ほとんどが散り果て、微かに残る花びらが風に舞っておりました。
穏やかな日曜日でした。

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