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2007年3月 3日 (土曜日)

果たして昔からこんなに重かったのだろうか

▼人はだらだらというものを好むのかもしれない。私もその一人で、京都・嵯峨野の枯野と愛宕山をその向こうに仰ぐこの別宅で、春のひとときを過ごしている。

日記も必然的にだらだらと書くことになる。しかし、読む人(読まされる人)はそんな面白くないものに付き合う気合などなく、このあたりで別のページへクリックしてしまうことだろう。

▼書きたいことがある。しかし、あんまし人には読ませたくない。そう思うものの、やはり私の日記など面白くもないので誰も読まないだろう。それで、いい。

今、おおかた書き終わったのですが、面白くないわ。

「ここで、さようなら」

まるで映画の題名のように、ここで読むのをおやめになることをお薦めします。
(棄てるのもったいないからアップするだけです)

  -----   -----

息抜きに、
http://yamaguchijiro.com/
─ ぜんぜん息抜きなじゃないだろうという声もあろうが ─ 山口二郎のブログ読む。週刊金曜日のカテゴリーが痛快だ。膝を叩いて嬉しがる。

▼さて、近頃、「足跡帖」がやたらと目に付く。特にGREEでは日記を書く人が100人あれば、100冊の足跡帖があるという事態になっている。足跡帖を作って、新しい友だちが来るのを待っている。

コミュニティー(略してコミュ)を3つ作っている私としては、そういうものを通じて、友だちの繋がりを広げようという人が予想以上に少ないのでちょいと驚いています。

ちょっと面白そうなので、その足跡帖に一筆書いてみたりしたことがあった。しかし、それで終わりで、どうやら日記を通じてメールを交わす友達になろうとか、日記の中でコメントを交し合う間柄を絵描いているようで、私が構想したコミュを通しての広がりに参加をしてみようという動きは見られなかった。

▼そこで、1:1の対話、多対多の対話、というものを必然的に考えることになる。

ボヤキでも非難でもない。

しばらく、徘徊して見つめていると、結構多くの人が、コミュよりも個人の日記をベースにネットワークの中で浮遊しようと考えているのだということが、多かれ少なかれわかってきた。

1対1の繋がりを好むようだ。つまり、日記の中にコメントを書く人と自分との繋がり。コミュだと、書き込んだ人とコメントを返した人との繋がり(1対多)が一番だということだ。

さらに、補足をすると、1対1の繋がり以外の人の介入を嫌う傾向がある、ということもわかった。
そして、コメントを返した人と自分との二人の世界(1対1の対話関係)が重要で、それ以外の人(部外者)が割り込んでコメントをしたり、その二人を抜きにして(部外者同士が)話題を進行させたり盛り上げたりすること(多対多の対話)を極端に嫌う傾向があるということも明らかになってきた。
これは、勇気を持って第三者として横レスを書いても邪魔者が来たという感覚もあらわしているのだ。

▼ケータイ電話の普及に見られるように、人間の感情コントロールに異変が起こっているといえようか。

異変という言葉は病的だから改めねばならないか。個性とか個人の多様性を尊重することによって、社会の中で磨き上げられるべき非個性の部分が失われてゆくのである。
人の潔癖性が病原菌に犯されやすくなって免疫力を失い、近代科学の生んだ食生活の未解明な要素が原因でアトピーなどのアレルギーを増産しているのと同じように、社会の中にも非個性を失った人が増えているということだ。

ある知人の子どもさんは、イエデン(家庭にある電話のことをいうらしい)の友人宅へは電話をかけないそうだ。当人以外が電話に出たら困るから、というのが理由だそうである。別の知人が言うには、電話に家の人が出たら黙って電話を切る子がある、という話もしていた。

このような特徴や、このことから連想できる現代社会の人々の行動の特徴を鑑みながら、GREEやmixi上のコミュや日記 ─ この日記のことをブログと呼んでいる子もいたが ─ を読んでいると、その集団にまみれて時間を過ごしている私もやはり少し異変を纏っていることになるが。

▼コミュの話を書いたので、マイミク(GREEなら友だちリンク)についても、ちょこっと書こう。
(長い日記なのでここまで読み進んでいないことを願う)

入会当初にだったら、(メールをもらっても)インスピレーションでこの人ならマイミクOKだとか、この人にはマイミクお願いしてもかまわないだろうなとかいうような人が割とたくさんいたし、そういうことで悩むことなく友だちOK!みたいなノリだったが、たった1年ちょいとが過ぎただけで、あのころと同じような感じの人であってもいまだにマイミク(My GREE)になっていなかったり、なりそびれてしまって、足跡も途切れ途切れになってやがて見えなくなってしまう人もある。そういう人だって本当はマイミク希望として一声かけて欲しかった(掛けなかった私もいけなかったのだが)ということが結構多い。

▼これにもやはり理由がある。それは、プロフィールに個人情報を書かない人が増えた傾向がいっそう強まったことが大きい。

個人情報から職業や住まいを割り出す事は簡単であるから、不適切な発言があればひとつ取り上げて公表すると社会的に強烈な攻撃になる。名前がわかれば顔付きで1発、コンニチハ、の時代ですから。確かに仕方がない側面もあろうが。

▼しかし、寂しいじゃない、とも思う。
私が誰かを知ってても、「どこの誰かは知らないけれど」ってことにして放置しておいて欲しいじゃないか。

月光仮面だってスーパーマンだって、仮面の忍者赤影だって、バットマンだって、「どこの誰かは知らないけれど」(TVを見てる人は知っていたんだ)という人だったわけなのだから。

で、ねこさん。って誰でしょう、、、って知りたい人などいないと思いますが。

▼いやー、そーいうわけで、この人がマイミクじゃないなんておかしいね(マイミクになってていいんじゃない?)、って思う人がポツポツと増えてきたので、小さな悩みになってます。

「マイミクに追加」@mixi
「リンクを申し込む」@GREE

このボタンって、果たして昔からこんなに重かったのだろうか。

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