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2006年8月31日 (木曜日)

ゆく夏や背戸で見送る鰯雲

ねこ作。

朝は大きく息を吸い、夕には大きく息を吐く。

仕事の帰りに少しだけ寄り道をすると、大きな川の河口から私の住む町が暮れてゆくのをゆっくりと眺めることができる。

夕暮れの佇まいは、いつ見ても何度見ても、私が大きく息を吐いた余韻と同調するように、静けさの中で燃えているのだ。


町がうっすらと闇に包まれるころに姿を見せる夕焼けは、赤から紫へと色を濃く変化させながら、東の空へと天を移動してゆく。散歩をする人影が河口近くの堤防から干潟のほうへとゆっくりと歩いている。

午後に引き潮を迎えてた海は、今はすっかりと色を失ったてしまったけれど、ざわめくように刻々と満ち始めている。


私が、ゆく夏を惜しむ。ガラにもなく・・・・。
夕焼けの美しい季節が来るんだなと密かに喜んでいる。
あしたから9月。

2006年8月30日 (水曜日)

KLEが車検から戻ってきました

さあ、また2年の付き合いだ

KLEが車検から戻ってきました。

もう8年も過ぎるのですなあ。
ありとあらゆる峠を走ってやったし、幸せなバイクですわ。

GSXとあわせると、全国の峠をくまなく走ってきたのですが、KLEのほうが少し数が少ないかもな。

でもそのぶん、剣山や瓶が森、井川雨畑、朝日スーパーなどの林道や、他にも屈指の山岳道路、旧街道の峠越えを共にしてきたんだからな。

今度の2年間は、去年一昨年以上にもっと走ってあげたいなあって思っています。

絶好調です。

2006年8月23日 (水曜日)

サンマ

昨日、サンマを食べた。いっきに秋が近づいてきたような感じがする。
サンマはちょっと痩せてたけど、全部戴きました。美味しかった。
食べながら、よめさんが(娘は)「サンマを食べているかなぁー、大好物だから食べさせてあげたい」と何度も言う。
そこで…私にも学生時代があったのを思い出しておりました。


江古田の、早稲田人たちの下宿に居たときは、賄付きだったので美味しいものを食べさせて戴けた。短い間だったが、あれも学生時代のいい思い出だ。
(詳しくは、塵埃秘帖のバックナンバーにあります「江古田(1)~(5)」)

下宿代は2万5千円。風呂なし。部屋にはカギもない。木戸をガラガラと開ける方式です。電気は裸電球。後にオバサンが見るに見かねて蛍光灯を買ってくださいましたが。夕食付き。トイレ、洗面所は共同。
何よりも凄かったのは、友人と部屋で飲んでいたときにコップを倒したら、中のビールが部屋のはじからはじまで一直線に筋になって流れました。つまり部屋は緩やかに傾いていたのですよ。もちろん知っていました。下宿とはそんなものですしね。

夏目漱石の小説に出てくるような下宿で、玄関を入って式台を上がり脇の下駄箱に靴をしまい、正面の階段をのぼります。2階は「コの字」構造になっていて、真ん中が庭。下宿人の棟と家主さんの棟が向かい合わせになる。奥から法学部の林さん(広大福山高校)、瓜生さん(山口高校)、大塚さん(韮崎高校)、辻さん(札幌南高校)、商学部の黒金さん(米沢興譲館高)。名門でなかったのは僕だけでしたが、楽しい下宿生活でした。アタシだけ理系だったこともあって、ちょっと特別扱いだったけど、朝寝をしてると早く起きなさいといわんばかりに廊下を箒でガサガサと掃かれたなあ。青春時代と呼べるのはこのころなのかもしれない。

窓を開けると、小さな路地を隔てて、南国屋さんという暖簾だけを出してる食堂の2階と向かい合わせでした。(南国屋さんは7匹も猫を飼っていましたが)、そこには、若いオネエサンが下宿していて、いろんな色の刺激的なパンツなどを窓にぶら下げてくれるばかりではなく、部屋の中を下着姿で歩き回ってくれました。困るような嬉しいような。(勉強に気が散るからな。)


サンマの話だった。

この下宿に居たころは、ときどき、サンマを食べることができました。下宿のオバサンの作ってくださる夕食は、ここの家族の食事とまったく同じだったから、─ 12人ほどが座れる長いテーブルで食べます ─ すき焼きもあったし、焼き肉もあったし、納豆も、天ぷらも、ウナギも、サンマもありました。

娘は、おじいちゃんちに下宿をしていますが、サンマを食べているだろうかねえ。
学生時代は、ちょっとくらいはハングリーなほうがいいだろうと個人的に思っています。

願い事は叶えるために僕たちは努力をする。叶いそうになるとそのころには自分が成長して、願い事も成長している。だから、また願い事を叶えるために努力する。いつまでたっても叶わなかったとしても、それほど不幸せだと思わない…のではないか。願い事を簡単に叶えて、幸せになって(心が太ってしまって)、夢をなくしてしまったらオシマイなのだし。


秋になる。
サンマを食うと、思い出す。
あのころの食生活はヒモジカッタヨナー。


夏が終わってゆこうとしてます。
ツーリングに出かけた人のレポートもボチボチ出てきています。
私のバイクはただ今車検に行ってます。
帰ってきたらどっかに行きたいな。

処暑。
暑い日もありますが、度々やってくる夕立のおかげで大気は割と綺麗です。
日没が少しずつ早まり、太陽光線の入射角度が低くなってきたこと、そして空気が綺麗なことも手伝って、夕焼けが随分と赤みを帯びてきました。
稲穂の黄金色を少し混ぜたような少し黄色味のある赤い夕焼け。
秋が深まると、黄色味がとれて、ホンモノの真っ赤になります。

PS
「生物多様性」「絶滅危惧種」の特集記事を書かねばならないので、マジメにそっちに没頭します。でも、たまに来ます。

2006年8月15日 (火曜日)

二人の田中氏

▽先日、葡萄を食べながら子どものころを思い出していたのですが、夏休みといえば家の前の畑で収穫した葡萄や桃、すいか、瓜、枇杷、とうもろこし、などが食べ放題でしたが、ところがその葡萄にしても桃にしても、いまどきに店で買ってくるものと比較すると各段にマズかったように思います。ほんの二十余年の間にすっかりと甘くなり、さらに美味しくなってしまったなと思うのです。

▽人々の暮らしも様変わりしました。良きモノ、悪しきモノの盛衰をとやかく言うわけでもありませんが、いと儚きことであるなあと思いながら、甘くて美味しい葡萄をパクパクと食べていました。

▽いつの間にか、渋くて甘くもない果物を避けて、よりいっそう美味しいモノを求めるようになった現代人の心に間違いはないと思うものの、一種の麻薬のような誘惑がそこにはありまして、この麻薬のようなモノにしわじわとやられていってしまっているのではないでしょうか。まあ、その結果、失ってゆくものがあるわけです。


▽二人の田中氏。まず、三重県議会議員だった田中氏の言葉から
┃ 暴行事件については
┃ 「力の強い者に果敢に挑戦するのが自分の信条だったが、
┃ 言っていることとやっていることが乖離(かいり)していた」
┃ と自嘲(じちょう)気味に振り返り、
┃ 「4期連続当選し、会派の代表になり、
┃ 若くして議長も経験したことで、
┃ 人の意見を聞かないようになってしまっていた」。

▽もうひとりの田中氏について、朝日新聞の社説(8月8日)から
┃ 田中氏の敗北 大人の知事になれずに
┃ 長野県知事選で、3期目に挑んだ田中康夫氏(50)が敗れた。
┃ ことし6月、「鳴りやまぬ『目覚まし時計』をもう止めましょう」
┃ という意見広告が地元紙などに載った。
┃ 6年前、作家の田中氏を知事選に担ぎ出した元銀行頭取が出した。
┃ 「利権集団との長年の癒着を徹底的に断ち切ったのは見事」と、
┃ 民主主義の目覚まし時計としての田中氏を評価しつつも、
┃ 出直し選後は身勝手な言動が目立ち、改革も停滞したと批判した。
┃ 当初の田中氏の取り組みは斬新だった。
┃ だが、いかんせん、組織プレーができなかった。

▽ここで 「力の強い者に果敢に挑戦するのが自分の信条だったが、言っていることとやっていることが乖離していた」いう語録が残されたわけですが、ここでも諸行無常を感じるわけで、この言葉は我々の周りのあらゆるモノに一般論理として当てはまるような気がするのです。

▽彼も権力という麻薬に犯されてしまったひとりだったのではないでしょうか。二人の田中氏。持ち味に深みがあり、社会を引っ張っていく牽引力、人物としての求心力も持ち合わせていると思います。甦って再び活躍する日を待つのか、はてまた、新しい時代の人に任せるのか。

空を見上げる

▽今年は梅雨明けが遅かったので夏が幾分、短いのかな、と思ったりしていますが、立秋が過ぎても日差しの強さは一向に衰える気配もありません。しかし、伊勢平野の水田でたっぷりと実をつけて垂れている稲穂は少しずつ色づいてきたようです。このメルマガが配信されるころには稲刈りが始まる地域もありましょう。

▽内田百間をパラパラとめくっていたら
 欠伸して鳴る頬骨や秋の風
という句がありました。

▽読者のみなさんは、どんなところで秋を感じられるのでしょうか。


【空を見上げる講座の話】

▽去る13日に「空と雲を観察してみよう」という講座を当センターで行いました。私が子どもたちに「将来、気象予報士になりたい人、いますか?」と問かけたら幾人かが手を挙げてくれました。

▽センターでの講座は、実際に実験をしたり工作をしたりするものがほとんどですから、話ばかりを聞かねばならない講座に来てくれた子どもたちはきっと退屈だったことだろうと思います。熱心に聞いてくれた人たちに感謝します。

▽知らないことがひとつでもあればそれを探求しようとする心が大切です。講座をきっかけに、毎日空を見上げて不思議なことをひとつずつ解決したり、これまでは気にならなかった雲や空、お天気のことを気に掛けるようになって、資料で調べてみましたという子が一人でもいてくれるといいなあ、と思っています。

▽暦の上では秋です。台風も近づいてきます。空を見上げるにはいい季節になってきましたね。

秋を感じる

 今年は、梅雨明けが遅かったので夏が幾分、短いのかな、と思ったりしていますが、立秋が過ぎても日差しの強さは一向に衰える気配がありません。しかし、伊勢平野の水田でたっぷりと実をつけて垂れている稲穂は少しずつ色づいてきたようです。このメルマガが配信されるころには稲刈りが始まる地域もありましょう。

内田百間をパラパラとめくっていたら
 欠伸して鳴る頬骨や秋の風
という句がありました。

読者のみなさんは、どんなところで秋を感じられるのでしょうか。

*

 暦の上では秋です。台風も近づいてきます。空を見上げるにはいい季節になってきましたね。

 去る13日に「空と雲を観察してみよう」という講座を環境学習情報センターで行いました。私が子どもたちに「将来、気象予報士になりたい人、いますか?」と問いかけたら幾人かが手を挙げてくれました。

 センターでの講座は、実際に実験をしたり工作をしたりするものがほとんどですから、話ばかりを聞かねばならない講座に来てくれた子どもたちはきっと退屈だったことだろうと思います。熱心に聞いてくれた人たちに感謝します。

 知らないことがひとつでもあればそれを探求しようとする心が大切です。講座をきっかけに、毎日空を見上げて不思議なことをひとつずつ解決したり、これまでは気にならなかった雲や空、お天気のことを気に掛けるようになって、資料で調べてみましたという子が一人でもいてくれるといいなあ、と思っています。

2006年8月 5日 (土曜日)

疲れる・棄てる・滅びる

「mixi疲れ」のような話を、やはり「マイmixiな人」が書いていたので思わずコメントを書いた。そのことをベースにあれこれと考えた…。

私にも退会してしまったマイミクさんが何名かある。「いろいろ事情があって辞めます」という連絡がメッセージで届く。事の真相はなんだろうかと思い慌ててメールの返信をしようとすると既に連絡が取れない。

最近では立て続けに2件そのような事例があり、このケースでは、連絡先、捜索の手掛りなど一切が残っていなかった。楽しいときはそれなりに盛り上がってワイワイガヤガヤとやるのだが、消えてゆくときはアッサリと消える。忍者はドロンと消える。まさにそのモノだった。
何も急に消えなくても、名前や連絡手段くらい教えておいてくれればいいのにと思うのは私くらいのものなのか。寂しいともいえるし、現代のネット文化の特徴を表す重大要素であるともいえようか。

やっぱし、名前を知り、顔も知り、話もして、、、という付き合いのある友は、10年便りが途絶えても、どっしりと友だちだと思う。まさに、音信のないのが元気の証拠なのだ。その点で、ネットの友は軽くて薄い。上辺だけで友達になったような錯覚を味わえ、賑やかに活動しているとそのひとときは相当に楽しい。


本心を慎重に隠しながら最大利益を追求するような社会の様々なモノの姿を思い浮かべる。それはまさに現代社会の人間関係、企業と個人の関係であるのではないか。

このような「関係」がネットまで浸透来たまでの順序は逆で、社会が現物主義、実利主義を押し通し、合理的な経済が大手を振って歩くようになって、それに便乗するようにネット社会や情報至上観念が生まれてきたと考えてよい。携帯電話の普及もあたかも自然の成りゆきのようでありながら、何処かの誰かに嵌められたという感が強い。

グーグルで検索していとも簡単に情報を入手できる。グーグルやヤフーなどを使用した検索によって私たちが得る情報というのは、指数関数的に増加する閲覧数の上層20%程度である場合が多いことは容易に想像できながらも、その入手した情報をそのときに完璧なものとしてデジタル化してして頭にインプットする人たちが溢れるのには少し首を傾げたい。
そういう人を情報を上手に活用する人と称し、そこにはマイナスイメージは無い。情報を調べ出すことがあたかも必須のようになり、そこに散らばった知識を連結させて雑学のような知識を持ち合わせることまで現代社会を生き抜くリテラシーだとまで言おうとする人が居るのも事実だ。
(TVのクイズ番組も少しずつ様変わりして、このようなどうでもいいような知識の順番をクイズのステージにあらわにするようになっているみたいです。)

しかし、その人たちが社会を動かしてゆう可能性もありうるわけだし、社会の意見はこれらの情報で大きな波の底流の方向だって変えることもありえる。デジタル化情報を入手する時点で事の本質が持ちあわせるノイズ的な要素、つまりそこには結果だけではなく、発祥の起源であるとか課程の段階での様々な苦心など、取るに足らないが着想に重要な影響を与えたヒントなど、後になって誰も語らないものの決して削ぎとって済ましてしまってはいけない内容も多い。
(身近なところでは、選挙動向のメディア報道、ベストセラーの情報、流行りモノ情報、価格、などなど)

ネットの友だちと称される人たちがそのときだけの一過性の愉楽を味わったとしても、それをいまさら責めるつもりはない。
しかし、ネットを彷徨って、あるときにはまったりとミクシーで時間を過ごしていると、自分の貴重な時間を盗み取られたような錯覚に陥ることがある。いや、これは錯覚ではなく、確実に紛失しているのかもしれないのだが、そのことを形としてではなく、何となくではあるものの気づき始める人が現れ始め、それが「mixi 疲れ」となって表出するのだ。

遁走をする人がどんな気持ちで去ってゆくのかは計り知れない。
楽になりたい、気疲れしたので新しいことを始めたい。そう考えているのだろうか。だったら、何処まで行っても疲れは取れないし、一時的に取れたとしても疲れの発生源は除去できていない。

友だちの友だちは友だちになれるかもしれない…という着想は面白かったし、それを言葉(カタチ)にして注目を集めた点でも素晴らしい。最初に群がって残留し続けている人たちの意気も感じる。そこには、ネットで出会って、厚くて深くなれた友だちが何人もできたことは確かだ。

しかし、群がったことによる自滅の感も拭えない。人々の潜在意識にある不信感、被害感、危険度が相応に人々の心理を蝕んでいる。(社会にあふれる社会の犯罪情報なども後押ししているのだろうか。それを伝えている一翼もネットが担っているという事実も大きい。)
性悪説的なものまでに発展はしていないものの、現代のネット文化は重厚で親密なモノを決して歓迎していない…ということでもあろうか。商業主義から派生する使い棄て文化意識が、ここまで影響を及ぼしているのだろうか。

だからといって、「パソコンを棄てて印刷した活字を読もう。ケータイを棄てて手紙を書こう。万年筆を買おうじゃないか」と私が幾ら言っても虚しいだけだが。

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