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2006年5月31日 (水曜日)

1974年の5月31日のこと

大雨の日でした。

文化祭か何かの準備で帰りの電車が一本遅かったかもしれない。(1本=1時間です) だから、駅からの道を急いだんだと思う。
集落から集落へと小さな山を越える小さな切通しの峠道で、道路脇から飛び出した車と接触して転倒し大怪我をしました。高校2年でした。

雨が激しかったので、目に入ると痛い。だから、うつむき加減で坂道を下ったんでしょうか。脇から出てきた車に気づくのが遅れ、右ひざから足首まで40針ほどを縫う怪我をしました。

事故の状況のことは、機会があったらどこかで書きたいと思いますが、今日は、あの出来事にまつわる読書の話をします。

大雨。
事故。
そういう、ありふれたハプニングが、幾つもあって、私の人生の筋書きをねじ曲げてきたのかもしれないな、とつくづく思います。

元々は、遠藤周作さんの「どっこいショ」という本の出会いを書いたのですが、5月31日のことが絡まっていますし、自分のために今日の日記にアップしておこうかなと思ったのです。
「どっこいショ」のレビューにしてもいいかなとも考えましたが、そちらには既に別のことを載せていましたので。

------

あのころの私は国語が嫌いで、決して活字というものを好んで読みませんでした。ところが、おかしな勘違いをしている友だちがクラスに一人おりまして、彼のおかげで人生が変わってゆくのです。

彼の名前は宮崎といいました。毎朝、電車の中で一緒にバイクや車、夕べのテレビの話をする仲間でした。休日には近所をバイクで走り回る親友だったのですが、私が読書好きだと思いこみ、さらに遠藤周作のファンだと思っていたらしいのです。

高校二年の五月三十一日の夕方、下校途中に私は車と接触事故を起こしてしまいました。バイクは破損し右足の脛を四十針ほど縫う大怪我を負い、六月と七月は入院生活となりました。

一週間ほどして宮崎が見舞いに来て単行本を一冊差し出し、「オマエは本が好きやろう、遠藤周作が好きやろう」と言うのです。そして「どっこいショ」という分厚い本を私にくれたのです。遠藤周作という作家はこのときに初めて知りました。そして、宮崎が勘違いをしていることにも気づきました。

その本は、病院へ来る途中で買ったらしく安っぽい袋に入れられ、彼はそのまま私の枕元に置きました。何でも言える仲だったので「俺はお前が思っているほどに本が好きじゃないのだ」と白状したかもしれない。傷口の縫合直後で、あと一ヶ月は安静だったので「まあ、そのうち読むわ」と返事をしたかもしれない。

そういうわけで「どっこいショ」は、枕元に置かれて幾日も過ぎ、退院してからも読まれずに棚に積み上げられたままとなり、やがて、宮崎からの見舞品であることさえも忘れられてしまうのです。

私は二学期から学校に復帰しました。宮崎にとって、私は読書好きな友人のままです。そして毎朝、彼と一緒の電車で通学し、バイクや車の話をする。だから、二人の間にはそのおかしな勘違いが続いたままとなっていました。

それから一年後の秋、十一月十四日の夜のことです。彼は取りたての免許でドライブ中に運転操作を誤り海へ転落してしまい、あっけなく命を落としてしまいます。きっとそのときもまだ、「どっこいショ」は読まれないまま本棚にそのまま置かれていたと思います。

私は受験生でした。葬儀が終わり、秋が過ぎて時雨の冬がやってきて試験の時期が近づくにつれて、見舞いにもらった本のことも宮崎自身のことも次第に頭の片隅に追いやってしまいました。

受験は失敗でした。故郷を離れて上京し一年間の浪人時代を始める私は、めまぐるしく変化する時間に埋もれて、親友を慕うことや読書のことなどは、あとまわしの生活を送り始めます。

一年が過ぎて大学生になる時期が来ました。新しい下宿に引っ越した日、荷物の山の中から色褪せた「どっこいショ」を発見します。宮崎との思い出を呼び起こし遠藤周作と再び向き合うことになった一瞬でした。「どっこいショ」が私の手元に贈られてから二年と数ヶ月が過ぎていました。

遠藤周作と高二で出会いながら作品に触れるのはこのときが最初です。つまり、私の読書人生はこのときに第一歩を踏み出したことになります。
ちょうど偶然にも一般教養科目で文学を履修します。先生は斎藤末弘さんというかたで、先生のことにはさして興味を抱かずに履修しました。斎藤先生は、キリスト教文学などの作品群をピックアップし、太宰治を始め椎名麟三、遠藤周作の講義をしてくださいました。

「きょう、これから遠藤と一杯飲みに行くんだよ」などと、ちょっと自慢めいた話もしてくれました。
「ホラ吹き遠藤って言われるけど、ほんとうでねぇー」

電気通信工学科でしたので、一般教養の文学は卒業のためのどうでもいい授業で、少なくとも大多数の学生にとっても簡単に単位をもらえるお得な講義でした。

しかし私は、専門の講義をサボることはあっても先生の文学講義は熱心に聴いてしまうようになってゆきます。それは斎藤先生の熱意の溢れる話と椎名麟三や遠藤周作がもたらすテーマに魅力があったからでしょう。文学作品を探して母校周辺の古本屋を散策する習慣もこのころ定着しました。

そのころの遠藤周作には「沈黙」や「イエスの生涯」という代表作があり、「おバカさん」「ユーモア小説集」という馴染みやすい作品も人気でした。
私がこれまで幾度となく読み返し、そのたびごとに涙を誘われる「わたしが・棄てた・女」との出会いもこの時期です。

「なあ、君たち、『棄てる』という漢字はこう書くんだよ。この漢字はなあ、紙くずを丸めて屑籠に棄てるときに使うんだ。」

斎藤先生がそう話していらっしゃるとき、熱烈な遠藤周作ファンになってしまう今の私の姿などは想像もできませんでした。

読書人生を振り返れば「どっこいショ」だけが特別ではない。けれども、見舞いに宮崎がくれた「どっこいショ」の意味が理解できる年齢になって、斎藤先生や遠藤周作との出会いからすべては始まったのだという深い感慨が滾滾と湧いてくるのです。

第24話【花も嵐も】 何故、惹かれるのだろう<四国>

四国を旅すると他の地方では味わえなかった様々な光景に出会うことができます。山村部を走ると信号の数が極端に少ないような気がするし、町工場の建物も目立たない。

その代わりに頻繁に細い道をお遍路さんが歩いてゆくのを見かけます。空海の開いた道。白い装束を纏い片手に杖を持って黙々と歩く。ときにはよろよろと歩く人もあるけれど、そのすべてが絵になって美しいのです。ひとつの想いを胸に抱きながらか、何か祈りを唱えてか、はたまた訳もなくなのか。歩く姿は人の原点であるのだなと気づかされます。

国道439の狭い峠道を幾つか越えて、次から次へと村を訪ねました。途中で雨に降られます。降り出した雨に合羽を着ようか着まいか躊躇している女性ライダーがいた。
「どこまで?」
て尋ねると、
「西海岸に出て大堂海岸ユースまで」
昔からの友だちと交わしている会話のようだ。ライダーたちは、気軽に声を掛け合い名前も聞かずに分かれてゆく。

寒風峠で、昨日のキャンプ場で言葉を交わした人たちと偶然に再会した。旅人の道筋は似かよっているので、途中で何度も顔を合わすことも稀ではありません。
その日は朝から雨降りで、峠に辿り着いたら雨足が更に強くなり始めた。霧が流れてゆく方向にみんなが目指す「瓶ヶ森林道」があります。しばらく、霧に包まれた峠の小屋で一服した後、思いを決したように彼らは消えて行きました。

旅の途中の出会いは様々です。剣山林道で出会った若い男の子は、ハンドルにジュースの缶を縛り付けて灰皿にしていた。四万十川源流の道しるべの前でも言葉を交わして、川を遡って源流を見届けるロマンの話をした。

大雨の日、外はもう真っ暗闇になっている時間に、屋島ユースにグースというバイクで飛び込んできた東京からのひとり旅の女の子。

日和佐の駅で野営したときに、朝早く陽が昇る前だったので私を起こさないようにという気遣いで、タンクバックに「お先に」というメモを残して先に旅立って行ってしまった子。

日本中の何処のどんな場所を走っている人であっても、風を受けて走りながら感じているものは同じなんだけど、それを言葉で確かめ合うと感動があるのだ。

走っている旅人たちは純朴でほんとうにバイク旅が好きな人たちばかりだ。様々な波長がある楽しみかたがあるなかで、都会の街中ならば対立するかもしれないのにここでなら理解し合えるのが不思議だ。

ひとりで旅をする人たちは雨の日も風の日も自分と対話をしながらアクセルを握っている。
ひとりだけれどひとりじゃないのだ。

2006年5月30日 (火曜日)

第23話【花も嵐も】 足音だけ一草庵(松山)<四国>

ゴールデンウィークに四国や九州を目指す人は多いと思います。神戸や大阪からのフェリーの満席率を聞くだけでそのことがわかる。

九州が良かったという人、四国が良かったという人に分かれるようだが、ツーリングの楽しみ方による違いが顕著に出てくると思う。

四国は周回をしてくるのではなく、山岳部、山間部に入って峰々を眺めながらのんびりするのが面白いと私は思う。平家の落人の集落という人もあるらしいが、山の峰々に張り付くように点在する家々には驚かされる。

種田山頭火の終焉の庵である松山市の「一草庵」を訪ねてゆっくり鑑賞しようと旅に出たことがあった。

松山市は正岡子規で有名で、俳句の盛んな土地でもあります。ところが意外なことに、山頭火については案内も乏しくパンフレットにも省略されているのです。でも、タクシーの運転手さんに尋ねたら教えてくれた。さすがプロだなと感心しました。

一草庵には、来訪した人がそれぞれの想いを綴ってゆくノートが置いてあります。

種田山頭火を訪ねて遠路を遥々ここまでやって来る人には、それぞれかなりの思い入れがあるのだなとノートを読むと感じます。一草庵は、観光ルートに紹介されているわけでないし、ここへ行きなさいと薦めてくれる人も少ないでしょう。自らの意志で山頭火の庵を訪ね来る人が大多数だろうから、思い出を書き込むノートを綴る人たちの言葉には情熱が篭もっている。感動が溢れている。もしかして感涙に咽びながら書いてません?ってのもあります。

私の念願が叶って一草庵に初めて行ったときは、カメラを持って庵の周りをぐるぐる回ったり、立ったまま垣根を見続けたり、空を見たり、腰掛けたりして時間をすごしました。暫く時を過ごすことに意義があったのです。

スタンプが用意してあることに気づきそれを是非押したかったので、バイクまで戻って地図と句集を持ってきて隙間にたくさん押しました。

普通の民家の間にひっそりと佇むのです。いかにも山頭火らしい。

濁れる水のなかれつつ澄む  山頭火

私の足音だけがコツコツとあたりに響きます。

2006年5月28日 (日曜日)

第22話【花も嵐も】 嵐に向かった土佐湾岸<四国>

「夜になると、知らない街の様子が見えてくる」
なんて言って私は、自分のイメージを描きながら旅の出発に向けて高ぶりを維持します。

それは1992年の夏のことでした。
ネットで出会ったバイク仲間同士がが四国の或る場所で落ち合おうという話が持ち上がりました。ちょうどお盆を挟んで夏休みだった私は、一足先に家を出て、剣山周辺を堪能して、室戸岬を回って目的地の宿毛市を目指していました。

台風が来ていました。
このときのこの経験で台風発生時のツーリングに神経を使うようになりますが、このころは台風が接近していることに薄々気が付いていても能天気なものでした。。

宿を、室戸の北川温泉というところに定めました。そのうち四国から中国地方へと抜けてくれるだろう、安易に考えています。
午後一番くらいに宿にチェックインして、高校野球を見ながらリラックスしています。あくる日の朝になってもそんなに風も強くならないし、集合日が当日だったこともあり宿を出ます。

ところが、この温泉地を出発してから高知市に近づくにつれて風が次第に激しくなります。そして、高知市から宿毛市に向かう途中あたりから雨が激しくなってくるのです。

いざとなったら駅に避難すればいいだろうと思いながらも、行けるまで行こうという判断で南へと走りました。
ちょうど台風が宿毛に上陸しようとしていたのだということは、風や雨がやんで一息ついてから知りました。宿毛市に向かう国道から見える海の景色は、私の知っている太平洋とはまったく違っていました。

今、思い返すとあの荒れ狂う風雨はまさに地獄絵のようだった。車から降りた人がまっすぐに歩けないほどの強い風でした。気圧が下がってエンジンがアイドリングで停止します。止まらぬように回転を上げ続け、どこか避難できる場所がないものかを探しました。

しかし、バイクを止めたとしてもバイクが強風で倒れますから置き去りにはできません。屋根のあるところや風を避けるような所も見当たりませでした。

走行を諦めて道路脇に止まっているワンボックス車も多くなりました。私だってどこかに止まりたいのですが、止まっても走っても何も変わらないのです。ならば…という判断で走り続けてたのでした。あとになって考えると、市役所のような公共施設の中庭などに避難できなかったのかと思いました。


必死になって集合場所の家に着いたときは、ほんとうに放心状態だでした。
暖かい風呂と皿鉢料理、鰹のタタキなどをそこでご馳走になりまして、そのおかげで台風一過のころには元気をすっかり取り戻せました。

再び帰り道もキャンプをしながら道草を喰って旅を続けることができました。四国は、割と狭い島なんですが、面白みがいっぱい詰め込まれている島でした。

ツーリングの楽しみは、スピードを出せる道があることや長い距離を走るばかりではありません。そのことを多くに人にも知ってもらうためにも、どうぞ、四国へ行って旅の楽しみに出会ってきて欲しい。

2006年5月26日 (金曜日)

第21話【花も嵐も】 ひよいと四国へ<四国>

種田山頭火が詠んだ句がある。

ひよいと四国へ晴れきつてゐる  山頭火

私も、まさにそういう気分で徳島へと上陸したことがありました。
初めて行った四国の旅では、どこに行くと面白いかという情報をまったく持たないまま和歌山から船に乗ります。
フェリーの中で色々と話の相手をしてくださったご婦人から「剣山」を教わりました。

先ずは国道439号線で西へと向かいます。
国道439具線は「よさく国道」としてもその名が有名です。

走り始めてみると思ったよりも険しい道だったのでドキドキしながら走ったのを思い出します。
別の国道へとそれて土須峠を越えて、剣山スーパー林道に少し踏み込んだりしながら、剣山の東側から南側へと山を越えてゆきました。
山の景色が素晴らしいので随分と道草を喰って走りました。


テントを張れるところを探しながらどんどんと走って、遂に海岸まで辿り着き、日和佐駅で寝ることになってしまいます。
野営をするのも駅で寝るのも初めての経験でした。
真夏の旅だったので、明かりに虫が集まり、蚊に刺されながら眠ろうとしました。
ホームのベンチへ行ったり待合い室のベンチへ移動したり、駅前のロータリーの中の芝生で寝てみたりして、時間を過ごすのに苦心をしました。
枕元を沢蟹がサラサラと歩き回っていたのを覚えています。


眠れぬ夜に、それはもう終電が行ったか、もうすぐ来るか、そんな時刻に、バイクの若い子がひとり、駅にやって来ました。

少し話をします。
暑いので夜に走ることが多いという。
既に横になって眠ろうとしていた私とどれだけ話していただろうか。
先に私が眠ってしまいました。

夜中に一度、目が覚めたときはまだ近くで寝ていたのに、朝、起きたらもうバイクもその子の姿もなかった。

まだ夜が明けない時刻に、ひとりひっそりと旅立って行ったらしい。
きっと、私を起こさないように静かに、バイクを押して駅を離れていったのでしょう。

私のタンクバックにメモが挟んであって「お先に…」と書いてあった。
粋なことをしてくれるもんだ、旅人さん。

そんな切ないことがありました。

その子のこと。
就職が決まって、来年(93年)から近畿日本ツーリストに行くのだって言っていたような気がする。
きっと素敵な旅の案内人になっていることでしょう。

2006年5月24日 (水曜日)

【号外】 ほたる

卯の花の匂う垣根にほととぎす早やも来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ
と詠んだのは佐々木信綱ですね。いま、このうたを歌える子はどれほどいるのだろうかしらん。

はて、卯の花ってどんな花なんだろうか、と思ったかたも多いことでしょう。もしもお近くに植物図鑑があればご確認くださいませ。

私には頼もしい人【きむら】さんがいるので、ちょっと彼女のページを探って見つけました。
  センター周辺の自然>春へGO!>ウツギの花  で行けます。


タイトルに蛍と書いて、卯の花にいきなり脱線してしまいました。
五月の連休が終わって六月の梅雨入りまでの間は、初夏から夏へ、新芽と花のラッシュですね。アレなんだろう…コレなんですか、の繰り返しです。

きのう、5月号のメルマガを発行しました。
メルマガの巻頭でも、卯の花のことも書きたいし、他にも、牡丹、ミカン、橘、薔薇、初ガツオ、ツバメ、ホトトギス…など、ちょこっといい話がたくさんあります。そういう点でも、いい季節ですなあ、今は。
(どちらかというと、私は夏が嫌いですし)

その中で、ちゃっかり、蛍祭りの話の一文を入れておいたのですが、お気づきでしたか。
(編集後記)

あいにく、私は当日出勤当番でして、本番ではキリギリか遅刻で滑り込むのもナンなのですが…コンサートだけは久々のナマ音なので行きたいです。(コラコラ)

〇 FMみえ公開録音
〇 日時 : 2006年6月10日(土)
  [ 開場 ] 17時30分 [ 開演 ] 18時00分
〇 場所 : 榊原温泉保養館「湯の瀬」多目的広場
FMみえのHPでは公開録音の概要を紹介してます。

2006年5月23日 (火曜日)

第20話【花も嵐も】 寂しい風になりたい<紀州山中>

初めて紀州を旅したときのことです。潮岬の国民宿舎でちょいと珍しい人と同宿になりました。その人は、初心者の旅人である私を刺激しました。

スーパーのバーゲンで飛び切り安い自転車を買い、それでサイクリングをして潮岬までやって来たというのです。チャリダー(自転車旅人)は、有名なメーカーのサイクリング車に乗っているのが普通で、荷物の積み方もサマになってカッコいいなあと思っていたので、ごく普通の格好で旅に来ているチャリダーさんに出会ったときはある種の驚きがありました。

話をしていると、彼はコックさんということがわかってきます。シベリア鉄道に乗ってフランスへ渡り、コックさんの修行を何年かして、国内のフランス料理店で働いたきた経歴があるらしい。

お店を辞めてきたのか、休暇を取ってか、何か深い理由があってのことか、そのあたりをチラチラと話してくれるのですが、とにかく、紀州へのこの旅は無計画にひょいと家を飛び出して来たらしい。

80年代前半のころには、貧乏な旅人が多かったが、ここまで無鉄砲な人は珍しかったかもしれません。

そのとき、私は初めての紀州への旅でした。そんな旅で出会った人がこういう刺激的な人だっただけに、私の紀州での旅は思い出深いものになりました。

引牛越、牛廻越、野迫川村、龍神スカイライン、大塔林道…。どれも今となってはオーソドックスな場所ばかりですが、全国にも誇れるほど素晴らしいツーリングルートとして旅雑誌などにも紹介されている。世界遺産になってしまったのでちょっと心配な面も出てきているものの、山岳林道も多く、オフローダーには楽しい地域です。

これまでに何度もここを旅をしてきました。同じ道を走るのですけど、その都度新しい感動が得られる所です。

龍神村と十津川温泉を結ぶ峠の途中に、ひっそりとした集落があります。秋に訪れると干し柿が(吊るし柿が)軒先にたわわにぶら下がっている。それを見上げることのできるような広い路肩があって、たまたま私はバイクを止めて佇みます。

民家は、急斜面に数軒だけ散在して建っていて、屋根の上に隣家の庭がある状態です。村の片隅によそから来た通りがかりの私が居ることが不自然な感じがする。

しかし、落ち着きます。村の静けさと懐の深さのようなものを感じながら、そこに佇んで居たいのです。

村民運動会の案内のポスターが張ってありました。どんな子どもたちが、どれくらい集まって、どんな競技をするのだろうか。ものすごく興味が湧きます。

そのポスターを見て以来、秋になると狙って出掛けて行こうと思うのですけれど、用事が重なって延び延びになっているのが悔しいです。今でも廃校にならずにあるかな、あの学校。

もうすぐ梅雨入り

大型連休(ゴールデンウィーク)は好天に恵まれましたが、そのあとが少しぐずつき気味ですね。

ニュースによると、5月7日から18日までの日照時間は平年を大幅に下回り、大阪で33時間、名古屋では19時間余だったそうです。このメルマガを書いている22日は晴れていますが、お届けするころは再び曇り空か雨模様かもしれません。

5月6日に立夏ということで、暦の上ではすでに夏です。しかしながら、まだまだ寒暖の差が激しい日々が続きますので、お身体には十分にお気をつけください。

例年、三重県地方の梅雨入りは6月の初旬です。次のメルマガ〔6月号〕が届くころにはすでに梅雨(つゆ)でしょう。今はまだ青い穂を天に突き出している麦も、そのころには黄金に色づき、早いところではもう収穫が終わっているかもしれませんね。

*

 三重の環境と森林のホームページの投稿写真のコーナーが少し活気づいてきました。

 春から夏へとたくさんの花が咲きますので、それを被写体に狙った作品が多いようです。

 6月から7月にかけて、梅雨の風景や盛夏の風景なども募集しますので、さらなるご投稿をお待ちしております。


 ちょっと写真に収めるのは難しいかもしれませんが、5月中旬から下旬にかけて、県内では蛍が飛び始めますね。

 筆者の近所にも蛍を鑑賞できる水田がありました。ところが、今年になってその水田が埋め立てられ、宅地に変化していました。寂しい限りです。

   ふるさとの沼のにほひや蛇苺  〔水原秋櫻子〕

 この句は、私の大好きな作品のひとつです。身近な自然から大事にしたいものです。


 蛇足ですが………蛍祭りなどのイベントもあり、6月10日には榊原温泉で地元FM放送の公開録音のコンサートがあります。実力・ビジュアルともに兼ね備えた若手箏奏者、「森川浩恵」の和のテイスト溢れるコンサートのほかに、地元のジャズバンド「ザ・ソルツ・アンド・シュガーズ」(筆者所属)の演奏もあります。

2006年5月21日 (日曜日)

青山高原

久々に行きました。

三角点の駐車場で思わぬ人にお目にかかれて、シアワセ。
実に、いい日です。

参考写真:http://img1.mixi.jp/photo/bbs_comm/81/20/70408120_120.jpg

高原を通り抜けて、帰って来ました。

----

お目にかかった、ルイさん。
その後、琵琶湖方面へと行かれるということで、もっと詳しくグリーンロードをご説明して差し上げればよかったと後悔してます。

でも、
また来てください。伊勢志摩をご案内します。

2006年5月20日 (土曜日)

第19話【花も嵐も】 木曾馬牧場の岡さん<開田村>

木曾は山の中だった。一度行って気に入ったので何度も行くようになった。

その中でも、毎年、蕎麦を喰いに出掛けるところに開田村というところがあります。木曾馬を保存するということで、全国的にも注目を集めているらしい。

木曾馬は昔から日本の農耕に寄与してきた馬だそうで、馬の種の保存が危ぶまれている昨今であるから故に多くの人に木曾馬を理解してもらい、積極的に保存もしていこうという試みを村をあげて実践しているらしい。

岡さんという女性がいろいろと説明をしてくださった。何故名前が分かっているかというと、後日、テレビなどの取材があって出演しているのを見かけたからです。

彼女は東京方面の大学の出身者で馬術部の経験があるらしく、こよなく馬を愛する人だった。木曽馬の保存のためにということでこの村の役場に就職したのでしょう。

馬が好きなのが手に取るようにわかる。さわやかな口調で馬の説明をしてくださった。人懐っこい感じなのでさぞかしモテることだろう。とても可愛いい。
昔風に言うとチャーミングな女性でした。
当然、その後も、彼女に会いに、否、何度も馬を見に開田村に出掛けて行った。

あるとき、岡さんに
「このここにいる馬は、幸せなんでしょうか。観光客を背中に乗せて歩き回ることが幸せなんですか」
と尋ねた。

思いつきでちょっと意地悪な質問をしてしまったが、彼女は私の質問を噛みしめるように考えたあと、情熱を秘めて馬の話を語ってくださった。

「馬は働くためにこの世に生まれてきたわけです、種を保存して行くことは大事なことです。」
そんなことを話してくださった記憶がある。

ほんとうに木曾馬が可愛いがっている姿が良かった。ぜひ、木曾馬牧場に行って見てください。可愛いから。ええ、岡さんもですが、木曾馬も。

ここまで書いて、そういえば、岡さんの姿は最近になって見かけなくなってしまったなあ。どうなさってるだろう。元気だろうか。

開田村は、お蕎麦が美味しいので食べに行った際には、ぜひとも牧場にも寄ってみてください。

ブックバンド

懐かしい響きだ。そうお思いのかたも少なからずおられましょう。私のよめはんも女子大時代にはときどき使ったという。
想像してみるだけでその当時の電車の中の学生の様子が甦ってきます。今ではちょっと珍しい光景だ。

娘のPCをセッティングするために京都に滞在して、私たちが学生だったころの話に花が咲いた。
・ GWが過ぎたら出席する学生数が激減すること
・梅雨に入るとさらに減ること。
・ 私なんぞはその減った方の側で、久しぶりに大学に顔を出すと
「よぉー久しぶり!試験のできはどうだった?」
と学友から声を掛けられ、
「試験があったんか…」
と肩を落としたことが数え切れぬほどあった話。

そのころ、講義のテキストを男子学生は、Madison Square Garden のスポーツバックに入れて持ち歩くか、または、ブックバンドで十文字に縛って持ちあるいていた。解析学概論、電磁気学演習、なんていう本を見えるように持ちあるくのは、ブランドかぶれの今の若者よりも颯爽感が高かったともいえるかもしれない。

しかしながら、私自身は時代の流行りには無頓着な奴で、一年中同じ服を着て二枚羽の下駄を履いて街へ出たような奴だったので、ちっとも格好良かったわけではなかったのです、決して颯爽とはしてなかった。汚い髪を肩まで伸ばし、1年ほどたつと手におえなくなるので自分で散髪をする(友人に頼むこともあった)ビンボーな学生でした。


PCをセッティングしながら机上に置いてあった本 ─ それは図書館で借りてきた「潮騒」(三島由紀夫)だったのだ ─ をちょっと拝借して読み始めたら止まらなくなった。面白いというか、若者の心の普遍性をうまく書いているのが小気味よい。三島のことをこんなに深みのある美しい文章を書く人なのだと、若き時代には考えたりしなかった。つまり、文学作品の品揃えのひとつとしてしか捉えず、義務のようにして読んだのだが、私が大人になったのだろう、これを味わうことができるように変化しました。

三島の話から映画の話へ。そして、映画の主役であった吉永小百合、山口百恵と話が移り、三浦友和の話にまで及ぶ。
(余談だが、)若きそのころ、わたしも(目の細いところが)三浦友和似ということで、実はそれほど似てないのだろうが、よめはんもその話に乗ってくれて
「お父さん、、、まあまあ似てたかな」
なんて話をあわせた。


すみません。ブックバンドの話は出てこなくて・・・・。その話が展開して、いよいよです。

ただただ、懐かしき学生時代。
あのころの若者は、大学生という身分にある種の特権を感じていて、しかもそれを裏切らないように生きていた。ある意味で一途だったとも言えようか。
学内にはベトナム戦争反対集会の爪痕が残り、団結などというペンキの落書きのような文字も残っていた。

もちろん、パソコン、ケータイはおろか、電話も無い。風呂付きの下宿に住んでいるような奴は、親の甘い汁を吸って生きている軟弱者だった。就活なんていう言葉もない。

(語ればキリがないので書けないけど、そんな時代背景の中で)
ブックバンドは、若さの象徴であり、子どもらしさの表現でもあった。
もしも復刻したとしても、持ち主を外からしか表せない薄っぺらなモノにしかならないだろう。
いや、「今の若者自体が薄っぺらい…」と書いたらジジイになったのだと指摘を受けることになるのだろうか。
…というわけで、「娘よ、厚みのある人間を目指しなさい」、というような話をしたかったのだが。

PC買ったし、娘の mixi 参入も間近かね。

----
3日間、京都でまったりしてました。
雨でした。

2006年5月17日 (水曜日)

近づくところ

母の日に、母を訪ねた。
弟が杖を買ったというので、私はこれというものもなく、ケーキを買って行った。

弟が
「おばあさんにソックリになったなあ」
と大きく息をつき沁み沁みというほど、自分の母に似てきた。

ひとつの物があるところに収束するとき、その時系列パラメーターを n として、n → ∞ という表現をする。世の中のすべてのものが、この ∞ (無限大) に収束するか、または、 0 (零、empty)に収束することが多い。

母は、限りなく、あるところに近づいているのだ。
人はそのときストンと終わりたいと願う。

この日に、実家の台所で、母から話を聞いた。

「なあ、うちのお父さんが逝くときには、どんなふうやった?」
「そうやなぁー」
と、母は目を細めて話し始めた。

高血圧で、脳みその中のあちらこちらで血が滲んでいたのだろうか。

「その日の二三日前には既に意識がぼーっとしてたなあ。ビールが飲みたいと言うので、こんな状態で飲ましてはならんと思い、お茶をやったら、『ビールと違うやないか、まずいなあ』、と言うてやったわ」

「どこかが痛かったとか、そういうことはなかったのか」
と尋ねると
「そんなに苦しがることはなかったな。布団に入ってスースーと眠っていて、(父の実姉と三人で布団に入って)、向こうから姉さんが身体を暖めて、わたしがこちらから暖めていたんやけど・・・・、姉さんが『なあ、仁(じん:父の名前)、冷たくなっていくわ。あかんな、もう』、と言うて・・・・。あれが最期や」

1998年に父が逝ってから、身近な人々の通夜を幾度も私は経験してきた。
次はお袋の順番なのかもしれない。
母の日に、私の母から父の最期の話を聞いたことは、ひとつのメモリアルだったのかもしれない。

この日の夜に、「母の日やし、何かせなあかんのかな」と、娘からメールがあった。

「何もいらんやろう、電話だけでええ」
私はそう答えて、それで良かったのだと納得しておいた。

一歩一歩、大人になる。
人は、無限大にある場所に向かってゆくのだ。
しかしそれは、関数論では語れない。

2006年5月16日 (火曜日)

第18話【花も嵐も】 一里野温泉の熊さん<越前>

奥飛騨を経て能登半島に行こうとしたことが一度あった。しかし能登は遠い。
奥飛騨を経て行くと少し遠回りになるのだろう、余計に遠く感じる。
この話は能登までいけず「一里野温泉」で断念したときのことである。


あの日は能登まで行けずに引き返してきたので、やや消沈気味だったかもしれない。温泉の近いキャンプ場もなかなか見つからない。「ゼロの焦点」(松本清張著)の舞台となった鶴来町を通って、更に南下しながら温泉が湧いていそうな谷を伝って野営場所を探し続けた。

夕闇が迫るころに一里野スキー場の管理事務所までやって来ていたので、この一角でテントを張ることにした。
面白いことはいくつもあるが、二つほど紹介しよう。

まずその1話。

テントの前にあった公衆電話に若いカップルの乗った車がやってきて、女の子が電話を掛けている。

「ねえ、○○子、私、まだそこにいるって、私のお母さんから電話があったら言っといてくれるぅ。今まだ××高原にいるの」

おいおい、可愛い声してねえちゃん、ここは××高原じゃないよ。親も騙す上に友達も騙すのかい。私は心の中で叫んでしまった。ほんとに最近の子はねえ、と思ったものだが、近ごろはこの程度なら普通らしい。

次にその2話。

夜も更けたころ、スキー場の緊急連絡用のスピーカーに村内放送が響く。田舎に行くと電信柱などに備え付けのスピーカーがあるところが多く、この村も例外なく設置してあった。

「村内の皆さんに連絡します。近ごろ親子熊が出没しております。外出の際には十分お気を付け下さい。」

そんなこと急に言われても困ってしまうじゃないですか。私は既にスキー場にテントを張ってしまったんですから。

その晩、テントを出てオシッコに行くにもどれほど気合いと勇気が必要だったことか。

「ツーリングに来てスキー場で野営していた男性が、深夜オシッコに出た際に熊に襲われました」なんていうニュースで名前を出したくない。しかし、我慢はできないので「どうぞ熊さん出ませんように」と心の中で叫びながらオシッコをした。

だが、怖くて早く寝ようと思いたくさんビールを飲んでいたので、オシッコはそう簡単には終わらない。

怖い夜。

2006年5月13日 (土曜日)

新聞広告をみて

約束の冬 宮本輝

今朝、新聞広告をみて、「約束の冬」(宮本輝) を発見した。

いい日だ。こんな清清しい朝を迎えられて最高だ。
早速、午後に出かけよう。

第17話【花も嵐も】 水沢のうどん小野上の湯<上州>

誰に教わったのか記憶にない。水沢というところがあってうどんが美味いと言う。
そこで、好奇心に逆らうことなく、水沢へうどんを食べるために立ち寄った。1996年の東北ツーリングの途上のことだ。

道端の屋台のようなところでとうもろこしを焼いて売っているおばさんがいたので話しかけた。

「水沢で一番美味しいうどん屋さんを教えてくださいますか」
と私が尋ねると、
「水沢のうどんはどこでも美味しいけどねぇ」
と言いながら、
「若い人だから量が多いところがいいでしょう」
と、まるで母か私に説教をするような面持ちで一軒の店を教えてくださった。
「山一屋さんと言うんだよ」

上州の人は少し言葉の語尾に訛りがあるようで、優しさが伝わってくる。
教えてもらって入った店は、結果的に大満足であった。大食いの私にとって、麺の量に不足はなく十分だったし、味も良かった。醤油の味がいかにも関東らしかった。そして何よりもオヤジさんを気に入ってしまった。

「旨いうどんですね、ダシ、少し醤油の匂いがします」
と私がいうと、みりんと酒と醤油を混ぜて、秘伝の細工を加えて、しばらく寝かすのだそうである。この出来上がりを専門用語で何とかというらしい。薀蓄も聞かしてくれた。寝かせると醤油の匂いが取れるなど、ダシの講義まで受けた。このころはちょっとしたグルメがマイブームでその話も耳慣れていたような気がしてメモしなかったのが残念だ。

しかし、十分に満足して店を出た。「なかなか意気のいいオヤジさんだったなあ」と、しばらくの間、得した気分で満杯だった。

そのあと、小野上温泉に寄って湯に浸かった。
一緒に湯舟に浸かっている爺さんに、私が
「30年のリフレッシュ休暇で旅に出てきたんですよ。水沢のうどん屋さんでこの温泉を教えてもらって来ました」
と言うと、自分は
「毎日が暇でなあ、こうして温泉に入ってるんだ」
と大声でこたえてくれる。すると隣に浸かっているもうひとりの爺さんが、
「家族のおかげで30年やって来れたんだ。感謝しろよ」
と私に向かって言う。

定年を過ぎた爺さんたちが、私に嫌味もなく、和やかに説教をする。会話はそんなペースで進み、年寄りの昔話に相槌をうちながら湯に浸かっている。

もっともな話が多いし、ユーモアが溢れていて説教も悪くないぞと思う。
それは、説教する人が親身になって、大らかに小言をいうからだろう。聞くほうもストレスを感じることなく、魔術にかかったように素直に頷いていた。

2006年5月 9日 (火曜日)

第16話【花も嵐も】 タラの芽<奥飛騨にて>

ゴールデンウィークの天気は、西の方から低気圧が移動してくることで雨と晴が交互にやってくる。教科書通りに天気概況が変化してゆくので有り難いけど、長い旅を続けるツーリングライダーは、旅の途中で必ず雨に遭遇することになる。

昔、信州を旅したときにこの雨を避けて東へ西へ、南へ北へと広い地域を行ったり来たりしたことがあった。あとで思い起こせば、無計画な旅だからこそ、朝の空模様を眺めて行先を決めてやればいい。ここに無計画でひとり旅の醍醐味があるといえよう。

まったく予想もしていなかった観光地や温泉地の情報を教わって、突然立ち寄ったこともあった温泉などが思い出深くなることもある。まだひとり旅を始めたばかりのころのことだ。

三寒四温といわれる季節は過ぎていても、信州あたりではまだまだ寒い日がある5月の初旬である。高山植物や草花は、まだツボミで新芽も硬かった。融雪が進まず幹線であっても路肩の土砂が崩れたままの峠も多く、通れたとしても補修工事中のことがある。

卒業以来で、会えば久しぶりになる友人が奥飛騨の五箇山ユースホステルに泊まるという連絡をくれたので、懐かしさのあまり会いたくなった。私はそのときに甲州を旅していたのですが、一夜明けて奥飛騨へと向かおうと決心を変えていた。

甲州街道を通って諏訪湖岸へ。そして松本盆地から平湯峠を越えて飛騨高山へと急いだ。高山市から白川郷方面へは天生峠を越えることにした。
五箇山までの最後の峠である天生峠には、断崖絶壁の下に転落しそうな危険箇所が数多い。そこを必死の思いで回避して走ってゆく。

合掌づくりの里を見おろせる谷まで降り立ち、ほっとひと息をつく。五箇山ユースホステルまであと数キロという山村道で、道脇の斜面にひとりの女性の姿を見つけた。

「何をしているのですか」
と声を掛けた。

「タラの芽を摘んでるんです」
という。

ぽかぽかと柔らかい日差しの中で、たったそれだけの会話だったが、それが私のタラの芽という美味なるモノとの初めての出会いだった。これをきっかけに春になると、私はタラの目を摘みに出かけるようになる。旅をするときに、小さな自然に目を向けるような余裕が芽生えたのだ。

もしも、彼女に声をかけなかったら、私は「タラの目」という春の味覚にも出会えなかっただろうし、自然というものに目を向けることもしなかっただろう。
たったひとりの女性が、自然と触れ合っていた姿が刺激を与えてくれたことになる。

「多くを摘まないで、必要なだけ摘んでゆくんです。あとは来年の芽になりますように。」

そう、静かに、ニコニコと話しながら、芽を摘む愉しさとそれ自体の美味しさを私に教えてくた人は、ガサガサと斜面の茂みに踏み込んで、藪の向こうに消えて行ってしまった。

2006年5月 7日 (日曜日)

第15話【花も嵐も】 利賀村への道<奥美濃>

富山県に利賀村というところがあります。

そこの蕎麦は格別に旨いのだという話をバイク仲間から教えられて知ってしまった私は、ずっとそこに行くチャンスを伺っていました。1992年の10月31日の朝、ふっと天の知らせがあって、テントなど一式とパンツを3枚を持って家を飛び出しました。

久しぶりの奥美濃でした。少しずつ道路が広められて、集落をバイパスするルートなどできて、奥美濃は開発されつつあるのを感じならの旅の始まりでした。

初めてこの地を訪れたのは1980年代の半ばころだった。平村には一軒のガソリンスタンドがありまして、そこで中学生ほどの可愛い娘さんがお店を手伝っていました。

久々にこの村に立ち寄ってみると、あのときの中学生が、子供さんを連れながらあのときと同じようにお店を手伝っていたのです。大きくなっていて驚かされました。実家の稼業を手伝いにきてるんだな、って思いながら、幾つかの思い出の余韻を胸に、私は利賀村への峠へと向かいました。

※これを書いている2005年にはその子どもさんも成人していることだろうと推測できます。

利賀村への峠は「山の神峠」といいます。このころの峠は、現在と違って旧道の凸凹ダートの道です。

おまけに奥美濃街道を北上してくる途中で雨が降り出し、山の神峠の中腹で雨足が最高潮を迎えていました。利賀村に降り立ったときにはもうヘトヘトで、身体も冷え切ってしまっていた。蕎麦を食べる「ごっつお館」などが天国に見えたのを思い出します。その天国に見えた蕎麦屋も閉店間際だったのですが、色々と無理をお願いしてお蕎麦を1杯食べました。

蕎麦屋の前は小さな広場になっていて、トイレと背中合わせになっている休憩小屋が一軒ポツンとありました。

あっという間に日が暮れてきましたので、あの晩はこの休憩小屋で野宿をすることにしました。雨足は衰えることなく、バシバシと屋根に打ち付けてくる雨粒が恨めしかった。せめてもの救いは、建物もトイレもとても綺麗だったことです。出来る限り屋根の下までバイクを引き込み、小屋の中の木のベンチで寝ました。

朝、目覚めると夕べの雨が雪に変わって、村を取り囲む山は真っ白でした。村の人に尋ねて楢峠の方を目指しました。

まず牛首峠に向かって行き、道路工事中で指示で、途中から楢峠に方向を変えるルートを取りました。峠道は凸凹というだけではなく、電車の線路にあるようなバラストが一面に撒かれていて、タイヤが空転して坂道を登らない。見る見るうちに尖った石でタイヤが傷だらけになってゆくので、パンクやバーストの心配もしながらの峠越えです。タイヤは新品だったにもかかわらず不安は募りました。谷の向こうの尾根の彼方まで峠道は続いていました。果たして行けるのだろうか。

あの峠が牛首峠だったんだいうことは、随分とあとになって地図を見て気が付きました。

楢峠は紅葉の真っ盛りでした。一部でダートが残っていましたが、牛首峠と較べたら凸凹はまったくありませんでしたので走りやすかった。

苦難や不安が多かっただけに、思い出深いツーリングとなりました。オンロード車だった私のバイクですが、これを機会にダートを走るようになり、テント持参でのキャンプツーリングも定着してゆきます。

あのころ、利賀村へと通じる道路はすべてがダートだったんです。そんな村がひとつくらい、日本のどこかに残っていて欲しいなと思います。

2006年5月 6日 (土曜日)

前年・同月、、、 (子どもの日篇)

はたして、わたしは、どれだけ進歩したのだろうか。(あの日から)

mixiにも、ブログにも書き続けて、自問を時時刻刻と繰り返しながらも、着陸場所を見つけられずに浮遊するグライダーのようだ。

そんな自分に、
カツを入れるのは、紛れも無く、逝ってしまっている父と、まもなくそこに行く母の小言だ。

何を小癪な…と言われるのだろうが、私の意地で母の日には、杖を買ってゆこうと思っている。

何と礼を言ってくれるかは想定していない。その一言に
「まあ、僕への形見が欲しかったのよ」
とでも応じようか、と考えている。

子ども日は、「おとなの日」でもある、と5日の読売新聞(編集手帳)は書いている。
母は私の母であり、私はいつまでも母の「子ども」である。

「オマエは船乗りになりたいというのが口癖だったな」と昔を回顧するのが口癖の母に、
「泳げなかったのでいとも簡単に諦めたが、空が飛べない人だってパイロットになるんだから、諦めることも無かったのになあ」
と返事をする。

近頃の私の口癖は
「私は鳥だから空を飛べるんよ」
である。それを聞いた家族が
「猫やから魚が好きなん」
の間違いでしょ。。。

「いいえ、私は鳥です。ほら・・・」
と言って、部屋の中を羽ばたいてみせる。
「ニワトリは飛べません」
と反撃を食らう。

その娘も京都に帰ってしまったので、おとなどうしで仲良くしました。
だから「おとなの日」だったのだろうか。
前年同月と比べても、精神年齢には余り変化が無い。

2006年5月 4日 (木曜日)

連休余話

お茶が新芽を吹き出して、擽るように緑が揺れる。今の季節は、郊外を走ると目に優しい風景が多く、茶畑もそのひとつで、機械的に整然と引かれた線ではなく、自然が織り成す直線と曲線がこれほどまでに見ている人の気持ちを和らげてくれるものなのかと、感心する。

社会の事象にしても同じことが言えて、理屈を通して理路整然としたものばかりが美しいのではなく、どちらでもない曖昧なものや優劣の論理などを抜きにして取り上げねばならないことというものがあるのだ。

自然体というものの奥深さとその大きさに改めて驚き、有り難味を感じながら、そよ風に吹かれていると、不自然の世界に戻るのが嫌になる。

5月には休日を連ねて旅に出ることが慣例だった昔は、この自然に自分を戻してやる作業が意外と大事だったのかもしれない。しかし、戻さねばならないほど病んでいることも望ましくないし、旅というものを癒しに利用しなくてはならない自分自身も情けなかった。

─ ─ ─ ─ ─

お茶の畑のほかに、麦畑、れんげ畑も広がる。この土地に生まれ住めることに喜びを感じる。
蓮華の花を枕に戯れた子どものころは、それが本当に子どもたちの遊びだったし、「麦ふみ」という農作業労働に汗を流すことが生活の一部でありながら楽しいひとときでもあった。

今や、れんげ畑の中で駆けずり回る子どもの姿はどれだけ探しても見当たらない。水を張った田んぼで屈んで作業をするのは年寄りばかりだ。「山村を走ってみても、こいのぼりが少なくなった…」と日記に書き続けて十年ほど過ぎる。

紀州道という自動車専用道路が開通して、山と山を繋ぐように大きな橋梁が架かっている。そのコンクリートの上に渋滞で動かなくなった自動車が点々と並ぶ。

人はどうして群がろうとするのだろう。排気ガスを出し、自然を踏みにじり、金をまき散らす。そういう社会現象は相乗的なもので、もはや止めようが無い。
人と同じ尺度で、同じステージに乗って、同じようにふるまうことを無意識に選択している。しかも、いつでも、急いでいる。

一体、何に怯えているのだろう。どこに向かって走ろうとしているのだろう。
見つめ直すことが必要なんだとわかっていながら、駆けている。それが、不思議だし、また歯痒い。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 【5月初旬号】

第14話【花も嵐も】 コスモス揺れる・無言館<信州>

長野県上田市の郊外に「無言館」という戦没画学生慰霊美術館があります。今では新聞や雑誌などで紹介されてすっかり有名ですが、私が初めて訪れたときは開設後一年余りで、人影は疎らでした。

この美術館は、村山槐多らの作品を集めている「信濃デッサン館」の窪島誠一郎さんが私費を投じて分館として建てたといいます。画家を目指していながら戦争によって命を絶たれてしまった人たちがありました。彼ら彼女らは、志を半ばにし国家の犠牲になっていったのですが、そんな人たちの生前の足跡を追い、館長の窪島さん自身が全国を巡って集めた作品を展示しています。

建物はコンクリートを打ちっぱなしにしたような質素なデザインで、美術館の周辺も近代的な塀で囲まれているわけではなく、雑木林に埋もれて丘の上の森の中にポツンとありました。

あと十分、あと五分と時間が迫る中で描いた恋人のポートレート。戦争から還ったら続きを描くから、と言って出征した作者は戦争の犠牲になって還らぬ人となってしまう。

絵画はもとより手紙、画具、写真、死亡通知なども展示しています。それらの作品や遺品は生きており、若々しく逞しさが漲っていました。それは確かに未熟かも知れないけれど、作品を絵描くことへの情熱を感じます。

見学者の中にはその作品を「重い」という人があるそうです。しかし、この程度で重く感じではいけない、もっと事実を見つめなきゃいけないのではないか、と私は思います。

母や妻、あるいは友人などの手により絵画は家の奥深くにしまってあったことでしょう。もう二度と取り出して見ることもないかもしれない。でも、心の片隅にしまいこむと同時に、実像として残すことがひとつの使命であるのだ、と諦めきったように暗くて冷たい場所で時間が過ぎるのを待っていた遺品たち。それらが光のあたる美術館へと出てきたのです。

すべてがかなり損傷しています。絵の具が剥がれ落ちている。綺麗な額縁に飾られてはおらず、質素な枠に支えられ冷たいコンクリートの壁を背に掛けられてある。つまり、これこそが作品の持つ主張であり彼らが本当に訴えたいことなのかも知れない。死んでいった画学生の息づかいが届いてくるような気がしました。

コスモスを優しく揺らす風が吹くころに、私はここを訪ねた。太平洋岸の平野では稲刈りは終わっていても、ここ信州の塩田平を見下ろす高台からは、黄金色の稲穂が、大海に波打つうねりのように輝いている景色が見下ろせる季節だった。

小池民男さんと大岡信さん

コラムニスト小池民男さんというかたが居た。
朝日新聞の編集委員兼論説委員だった。

4月末に食道がんで亡くなられた。
その記事がひっそりと紙面に載っていたのを読んで、ああ「時の墓碑銘(エピタフ)」を書いていた人だと気づいた。

新聞を読んでいると、ちょっと変わったといったら失礼だが、購読していて得した気分になれる記事を書く人がいた。
気にかけていた人だった。
小池さんは、「素粒子」(夕刊)や「天声人語」(朝刊)を書いていた人だった。


娘がこの訃報記事を読んで、「毎週月曜日を楽しみにしていたのに」と残念がっていた。それを聞いて、この子も新聞の読むべきところをきちんと読んでいる子になったなと感心した。

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大岡信さんの「折々のうた」も復活している。娘はそのことも驚いたらしい。
気が付いたら連載を再開していたよ、と喜んでいた。

小池さんと大岡さんの話から思うこと。

「ブンガク」を4月から専攻し始めた娘は、私が持てないような文学の眼を持ち始めているのかもしれない。
寂しいようで嬉しいような気分だ。

群がる人、急ぐ人…

お茶が新芽を吹き出して、擽るように緑が揺れる。今の季節は、郊外を走ると目に優しい風景が多く、茶畑もそのひとつで、機械的に整然と引かれた線ではなく、自然が織り成す直線と曲線がこれほどまでに見ている人の気持ちを和らげてくれるものなのかと、感心する。

社会の事象にしても同じことが言えて、理屈を通して理路整然としたものばかりが美しいのではなく、どちらでもない曖昧なものや優劣の論理などを抜きにして取り上げねばならないことというものがあるのだ。

自然体というものの奥深さとその大きさに改めて驚き、有り難味を感じながら、そよ風に吹かれていると、不自然の世界に戻るのが嫌になる。

5月には休日を連ねて旅に出ることが慣例だった昔は、この自然に自分を戻してやる作業が意外と大事だったのかもしれない。しかし、戻さねばならないほど病んでいることも望ましくないし、旅というものを癒しに利用しなくてはならない自分自身も情けなかった。

─ ─ ─ ─ ─

お茶の畑のほかに、麦畑、れんげ畑も広がる。この土地に生まれ住めることに喜びを感じる。
蓮華の花を枕に戯れた子どものころは、それが本当に子どもたちの遊びだったし、「麦ふみ」という農作業労働に汗を流すことが生活の一部でありながら楽しいひとときでもあった。

今や、れんげ畑の中で駆けずり回る子どもの姿はどれだけ探しても見当たらない。水を張った田んぼで屈んで作業をするのは年寄りばかりだ。「山村を走ってみても、こいのぼりが少なくなった…」と日記に書き続けて十年ほど過ぎる。

紀州道という自動車専用道路が開通して、山と山を繋ぐように大きな橋梁が架かっている。そのコンクリートの上に渋滞で動かなくなった自動車が点々と並ぶ。

人はどうして群がろうとするのだろう。排気ガスを出し、自然を踏みにじり、金をまき散らす。そういう社会現象は相乗的なもので、もはや止めようが無い。
人と同じ尺度で、同じステージに乗って、同じようにふるまうことを無意識に選択している。しかも、いつでも、急いでいる。

一体、何に怯えているのだろう。どこに向かって走ろうとしているのだろう。
見つめ直すことが必要なんだとわかっていながら、駆けている。それが、不思議だし、また歯痒い。
─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ ─ 【5月初旬号】

2006年5月 3日 (水曜日)

連休余話

▼「花も嵐も」は、まだまだこの先は長く。34話まで書き終わるにはしばらく時間がかかる。のんびり行こう。でも、どこかに残しておこうと思って、書き写しています。

▼GWはいい天気ですね。ど真ん中の5日に仕事が入っています。皆さんを相手にヤクザな公務なもので…。

▼そうそう、もうすぐ、あと数ページで「胸の香り」(宮本輝)を読み終わります。窓を開けて爽やかな風の吹き込む初夏に、この作品を読み終わることが、清清しくて嬉しい。

▼いしいしんじ「麦ふみクーツェ」をどうしても読み進めない私は、多くの読書人のオススメもあってどうしても読みきりたいと悩んでいたのですが、心が揺さぶられることを望んでいたのでしょう、宮本輝と熊谷達也に戻ってきてしまったのでした。

▼そもそも、この短編集に手を伸ばしたキッカケは、マイミクのみほこさんがブックレビューを書いていたからでした。
短編集ということで少し躊躇いを私は持っていました。短い故のインパクトの薄さを好きになれなず、重松清の短編を読んで少し先入観を変更しつつあったものの、どっしりと重たい宮本輝の作品もってして、短編はどんなものなのかが想像できなかった。

▼怖いものを触るように、、、という感じで、みほこさんのオススメの胸の香りを読み始めたのでした。しかし、何も心配することはなかった。宮本輝は私を裏切ることなく、むしろ細かいところまで行き届くように気を使って作品は書かれています。一字一句に作品への想いが感じられる。

▼ついつい、熱く語ってしまう癖があって、多くの宮本ファンのかたとマイミクにして戴いてきました。
本が好きなかたで、宮本輝がまだというかたは、ぜひ読んでいただきたい。
また、宮本輝ファンでありながら私のマイミクでない人がいらしたら、ぜひともマイミクになってやってください。

▼そんなことを書きながら、娘にはまだ宮本輝を薦めたりしていないんです。理由は特に無いのですけど、まだ子どもだろうと思っている点もあるし、この人の書く物語をしっかりと捉えることができるようになってから自分の中に生まれるインセンティブで読み始めて欲しいとも思っているのでしょう。

先日も、「mixi、検索ランクでTOPやろ…」と言って私のPCを覗き込んでいましたから、ここにやって来る日もそう遠くないのでしょうかねぇ。

第13話【花も嵐も】 峠に魅せられて<奥飛騨や信州>

私のバイクには速く走るための性能は不必要です。旅を楽しく愉快にできるための性能のほうがむしろ大事です。オートバイに乗っている友達のみなさんには、バイク=パワーだ、という人もあるんでしょうが、自分のバイクの馬力を今だに知ろうとしない私ですから、ほどよい馬力があれば、あとは信頼して走れる品質と疲れずに走れる安定感が重要となります。

法定速度より少しのろいめで走ることが多いため、私と同じようなツーリングスタンスの人にはトップギアでアイドリングの2~3倍の回転が保てるバイクをお薦めしています。そう考えると、私の乗るに相応しいバイクは、250CCから500CCくらいのものとなってきます。

ぶっ飛ばすだけでなく、その土地の空気を思う存分味わったり、景色を心ゆくまで眺めてられるような峠が信州にはたくさんあります。そういう峠をノロノロと、時には少し飛ばすことがあっても、ほとんどは風景を堪能したりしている時間です。峠を駆け上って展望所で佇み、少しひとりごちてみるのも気分爽快です。

峠から更に尾根を伝って歩き回ってみたり、湿原や高原を散策するのも楽しい。もちろん谷間の出で湯に浸かってリラックスするのもいいですね。
旧街道や歴史古道があれば、私は惜しまず歩きます。重いなと思っても必ずカメラを持って行きます。奈良や明日香といった古都の史跡も好きですが、信州に出掛けて、苔蒸した道しるべや地蔵さん、道祖神さまに出会うのも楽しみのひとつです。

気に入ってしまうと同じ場所でも何度でも出掛けてゆきます。大きな山脈の峠でしたら分水嶺になっていることもあります。日本海と太平洋に一筋の水が分かれてゆくというドラマティックななところにも惹かます。

信州の峠を思い出せば限りないのだけど、ツーリングという楽しい旅の世界へと誘ってくれたのはこれらの信州の峠の数々でした。

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