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2006年4月30日 (日曜日)

第12話【花も嵐も】 ぶどう峠~御巣鷹を望む<上信>

1995年の夏に武道峠(ぶどう峠)を越えたときのことです。

日本航空のジャンボジェット機が墜落したのがこのぶどう峠から望める御巣鷹山でした。
たまたま10周忌に私はこの峠を越えました。そんなことで関係者や報道陣が溢れているのに遭遇します。

家を出発する前にこの事故の関連するドキュメンタリーを読み終わっていたこともあって、事故の内容と目の前の風景が一体になって、無関係な人間でありながら心にズキンとくるものがありました。バイクを止めて思わず峠で合掌をしているのです。一人だと心に淀みや嘘がないのだなと感じます。

峠からの景色は素晴らしく、きちんと綺麗に植林された山並みが幾つも重なりその向こうに御巣鷹山は見えました。恐怖の数時間の間に考えたこと、大多数の方々は思い浮かんでくるのが子供のことだったのであろうなと思います。もしも私があの飛行機に乗っていたら何を思いどんな行動を取ったのだろうか。

信州と関東は、山ひとつを隔てて隣同士だということに改めて気が付きます。この峠を越えるだけで関東平野に行けてしまう。だから、幾人もの関東ナンバーに出会う。ああ、遠くまで走ってきたもんだ、という感動がじわっと襲ってくる。こんな奥深い山の中に投げ出されたときに、微かでも意識が残っていた人はさぞかし無念だったことでしょう。

JAL123便の皆さん、安らかに。私が峠を越えてゆく間に何台ものツーリングライダーとすれ違う。若いツーリングライダーの中にはこの事故が歴史となってしまってから生まれたという子もいることでしょう。

伝えることに尻込みをしてはならないのだな、と思う。いつ、どんなときでも、どんなことでも。

2006年4月27日 (木曜日)

第11話【花も嵐も】 感動の車窓の娘さん<六十里越街道>

忘れもしない。1994年の夏に東北ツーリングをしたときの話です。
六十里越えの街道を会津に向かって私は走っていました。山深く寂しい峠越えです。

汽車の線路がそばを走っていました。しばらく行くと、私と並ぶようにディーゼルカーが追いついてきました。バイクの方が速いときもあれば、列車が私を追い抜いて行くときもありました。

ふと、背よりも高く生い茂った雑草の向こうを走る列車の窓に、若い何人かの女の子たちの姿が見えました。誰が乗っているのか、どんな人なのかということなど、私は関心に持っていませんでした。

ところがそのとき、道が急坂道になり、ヘアピンカーブに差し掛かるとバイクの速度が少し落ちました。これから峠の上へと一気に登って行こうというとき、カーブが一番きつくなっている。偶然にもちょうど、窓に手が届きそうなほど列車が近づいてきていました。

まさにそのときに、乗り合わせている人たちの顔が、私にはっきり見えるほど近づいた一瞬がありました。

「みんなキャンプに行くのかな」という思いが閃いた瞬間、車窓の向こうからこっちを見つめるひとりの女の子が、手を肩のあたりまであげて、そっと振ってくれたのです。はにかみながら…。

しかし、私には返事をする暇がありませんでした。バイクは木だちの影に隠れてしまい、列車はトンネルに入って見えなくなってしまいました。

手を振ってくれた理由は、ほんのひとときでも、峠道を一緒に走ったという出逢い、そしてそれに別れを告げる儀式だったのかもしれません。そのときの彼女の顔を、私は忘れないように誓いました。

彼女は、きっと旅人でした、旅の仲間を意識していたのかも知れません。恥ずかしそうでした。かすかに微笑みながら、躊躇がありました。きっと思い切ってのことだろう、手を振ってくれたのだろうと思います。

視線と視線が触れ合った瞬間に急いで手を挙げた彼女にむかって、何の返事もできずにすっと離れて行ってしまわなければならなかった私は、どんどんセンチになってゆきました。ひとりごとを繰り返し、しばらくの間、自分を失ってしまってホロホロとしていました。短かったけど美しい出会いであり、悲しい別れでもありました。

六十里越の街道を走ると、ディーゼルカーのあの影と悲しい別れを思い出します。暑い暑い夏のできごとでした。

2006年4月26日 (水曜日)

第10話【花も嵐も】 桧枝岐・通過の秘話<福島県・桧枝岐>

新潟県の小出地域と福島県の桧枝岐地域を結ぶ国道は、桧枝岐という集落を通ることで知られていて、この区域は新潟から福島に行くツアラーにとっては非常に魅力を感じるルートである。にもかかわらず実際には、この国道はバイクの通行が禁止されているのです。そこをある時期に通過したことがありました。

その当時のツーレポには、ことの一部始終を明確には書かなかったが、実をいうと少し禁止区間を走ってしまっていたらしい。お巡りさんが見て見ぬふりをしてくれたのだ、というような表現も適切ではないものの、秘術を使ってトンネルを通り抜けることができたわけである。

通行禁止区域入口近くのガソリンスタンドのおじさんに通行止のことを尋ねると、「仕方ないねー」というように言葉が濁してしまう。
一箇所の人だけでなく何箇所かで「どうしたものか」と尋ねてみると、悩みの相談を投げかけられた人のように顔をしかめて、しばらくして、行政が決定しているその禁止区間のことを棚にあげて、ほとんどの皆さんが具体的な方策を話してくださる。

行政は何故にこの区間を禁止にしているか。それは、実際に走って行政側の立場で考えれば明確に見えてくる。しかし、走り終えて庶民の立場になって考えた場合、行政指導者の考えが如何に庶民から遠いものであるか、というやり場のない思いも湧き上がってくるのでした。

この道路を通行禁止にしたら事故や危険は確実に減る。人間が工夫をし合い自分達の住んでいる所を住みよくしてゆくのだ。みんなのために生活を向上させて、発展させていこうじゃないか。そのような前進的な生活への挑戦が少し足りない。

いくら事故が減ってくれたとしても、知恵を出し合い工夫して住みよくする共同作業の部分を放棄してしまったことへの残念無念さが残るのだ。道路は誰のために造ったのですか、と走りながら私は思った。

桧枝岐にやってきて、尾瀬沼への入口に車を止めて登山に向かう人たちの群れに出会う。自然愛好家で、インテリジェントで、リッチな都会の人々が、大自然の中に車を放置して尾瀬の中に歩き出してゆく。おそらく、ブランドの登山用具で身を固め、都会風の言葉で会話を交わしながら、長蛇の列を成して沼の遊歩道を歩いているのだろう。結局は「得て勝手」の世界なんだ。自分だけが楽しむのだ。

いっぱいに人が溢れた尾瀬沼の風景を想像してみながら、一層のこと、上高地のようにすべての道を通行止めにすればいい。そんな皮肉なことまで思いながら桧枝岐を通過した。

夢とロマンが満ちていた尾瀬であったが、湯野上温泉に着くころには、私の頭の中からすっかり尾瀬への憧れや興味が消えた。

もしも尾瀬や桧枝岐にその土地の精がいるならば、大勢の文化人が群れる風景をどのように感じるのだろうか。

どれだけ環境保護を大義名分に挙げて、あるときには文化的なふりをしても、実際はまさに侵略の風景でしかないのだ。これ以上夢を奪い取られたくない。しかし、今度来るときには、きっと道幅がさらに倍近くになっているのだろう。車は増え続け駐車場は整備され、観光バスが溢れている。

悔しい限りである。

2006年4月25日 (火曜日)

第9話【花も嵐も】 もっとこちらへ 夏油温泉 <東北>

山深い所にある温泉だった。尾根と谷を幾つも越えたら古ぼけた湯治旅館が軍事収容所のように並んでいた。湯舟は旅館の一番奥にあった。

混浴なので、脱衣場には男も女も入り混じっている。しかも湯舟との仕切りがなく、服を脱いだらそのまま湯舟へ向かって進むと風呂に浸かれる。
湯舟は長方形で、45℃くらいあろうかという熱い源泉が流れ落ち、ゆっくり脱衣場のほうに向かって流れている。だから、まず掛かり湯をするときのお湯は一番温いお湯なのです。

ところが、元々熱い湯が流れ込んでいるのを知らない人は「あららら」と驚き周囲を見回すことが多い。どこかに温いところがあるのではと思うのだろう。
そこで、「あらら」と思った女性と湯舟の片隅にいる男性と視線が合う。もちろん私とも視線を交わすが、湯治になれている男性がいて親切にも対岸からしきりに声を掛けてやっている。

男性が
「もっとこっち。こっちの方が温いから」
といって上流のほうを指さしている。教えてもらった女性は、無言でそちらに移動する。

「もっとずっと奥の方よ」と男性が言う。
「ほんとうですかねぇ」と女性が呟く。

そんなことを繰り返しながら女性は男性の言葉を信じ、上流の方に屈んだまま小刻みに蟹のような横歩きをする。行く方向が意地悪にも上流なのだから、お湯が温くなるわけがない。逆に熱くて入り辛くなってくる。

どうしてもアソコを隠すタオルを持つ手が疎かになり、対岸の方に腰掛けた私からは、見てはいけないものまで見えてしまいそうになる。というかマル見えになってしまっていた。

男性が彼女と知り合いだったのかどうかはわからないが、そういう雰囲気が意地悪だというまえに、会話自体が浴場の雰囲気を非常に和ませてゆく。罪が多少あったとしても終いには許し合えているのだ。

人間が自然に還ればこういうふうに振る舞い、一緒に湯舟に浸かり、身も心もほんとうの意味で清くなり、病も直り、ストレスも消え去ってしまうだろう。
夏油温泉までの山岳道路は、狭くて長い。自動車が少ない時代はそれはそれは途轍もなく秘湯だったことだろう。

人は、人と暮らし、大勢で社会を築き、利害を対立させ、いがみ合いをし始めたころから侵略という概念を持ち始めたのだとすれば、この湯治場の建物の中を通り過ぎるとき、時空を越えてユートピアに降り立ったような錯覚に私は襲われた。

湯の効用や知名度などとは別に私はこの湯舟での出来事が強烈に印象に残り、ますます東北の温泉ファンになっていってしまうのでした。

2006年4月24日 (月曜日)

やっとセンターにもツバメが来ました

ツバメが来ました。隣の入口の巣には先日から忙しそうに飛び交うツバメの姿があったのですが、一番近い入口の巣には姿が見えなかったのです。でも、来ました、やっと。どこで迷子になっていたのやら。

さて、
光化学スモッグ緊急措置管理体制が始まりました。この体制は、24日(今日)から始まり9月下旬まで続きます。

毎朝、空を見上げ、四日市の工場群から立ち上る煙突の煙のたなびくのを眺める日々が始まります。


いやあ、
それにしても、春ですね。うららか、という言葉が何とも心地よい響きです。
(ちょこっと黄砂がたくさん飛んできているようですが・・・・)

春眠不覚暁
処処聞啼鳥
夜来風雨声
花落知多少

孟浩然は「春暁」で、実に美的に、このときをうたっています。

子供のころ、麦踏みの合間に、その麦畑に寝転がって青空を見上げたものです。ひばりが天高く啼いて、それを指差し「るりるりが啼いている」と、いつも母に言ったそうです。春になると、そのことを目を細めて母は口癖のように話してくれます。

麦踏み。そういうスローな暮らしがあったのだということも、思い出すだけでやけに懐かしい。

山笑う

「春山は笑っているよう、夏山は滴るよう、秋山は粧うよう、冬山は眠るようだ」と臥遊録の言葉にあると、授業の閑話で恩師が話してくれたのを三十余年が過ぎた今でも春になると思い出すことがあります。

早春の野山は、まさに「笑う」と例えるにふさわしいですね。水が温んでくると、眠っていた草花が咲き鳥が啼き生き物たちが騒ぎ始めます。

決して約束を交わしたわけでもないのに、ツバメがやって来て巣作りを始め、忙しそうに飛び回る姿を見ていると、私たちに突きつけられている環境を憂うことは、そのこと自体がナンセンスであって、解決の糸口はもっと他の所にあるのかもしれません。

*

日の沈む時刻がアッという間に遅くなったせいで、家路へと急ぎながら郊外を走ってゆくと、鈴鹿山脈や経ヶ峰が残照に赤く染まっているのに出会うことがあります。

ちょうど四月も中旬を迎える今は、あちらこちらの田んぼに水が張られ田植えが始まる季節です。その水田の一枚一枚に、ガラス細工を散りばめたように夕日が映り、赤く染まるのを眺めながら、三重の自然の奥深さを感じます。


春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村

冒頭にツバメのことを書きましたが、ツバメのように大空から見下ろすような大局観を持っていた蕪村ならば、この田ごとに映えた赤い夕日をみていったいどんな句を詠んでくれるんだろうか。ふと、そんなこと思ったのでした。


今月のメルマガの記事には自然系のものがたくさんあります。三重の環境と森林のトップページに掲載しています投稿写真も三重の自然をテーマにしています。

みなさんも薫風に吹かれながらカメラを手に「小さな旅」に出かけてみませんか?

2006年4月23日 (日曜日)

第8話【花も嵐も】 ソロの娘さん・八幡平<東北>

もう少し東北の話をします。その後、少しづつ南下したいと考えています。しばらく東北にお付き合いを。

東北を走ると必ず北海道を目指して北上する人に出会う。皆さんの心にある東北はついでに通るだけである。魅力ある北海道を何も否定はしないけど、折角、東北を走っているんだから、ついで意識は棄て、東北の素晴らしさを味わって欲しい。

東北といえば八甲田や蔵王と並んで八幡平がある。ここで出会った女の子の話をしよう。

その子は大学生くらいの子で、相棒の女性と二人で京都を発ったという。でも、二人だと意見が一致しないことがあるらしく、今夜のユースホステルだけを決めて別行動になったらしい。
八幡平から岩手県の雲海を見おろしている彼女の脇を、ちょうど私が通りかかり、ディバージョンという珍しいバイクに乗っていたこともあって、後ろ姿に声を掛けたのだった。

「どちらから?」
「京都の北区からです」
4月に免許をとって、早速、北海道へということらしい。もしも私が彼女と同年代ならもっと胸をときめかせて彼女を知りたがるだろうが、離れているし、そこは一人のツーリストとして旅の挨拶を交わしたのでした。

ソロツーリストにはソロの掟のようなものがあって、名前も聞かないことだってあります。でも、家に帰ったころに彼女のことを探したくなってくるのだった。

昔、プロポーズ大作戦というテレビ番組があったなあ、と懐かしみ、日記を書きながら思い出しました。

2006年4月22日 (土曜日)

第7話【花も嵐も】 ひっそり・大沢温泉<花巻>

「ほっと・ゆだ」駅で温泉に入った私は駅前のタクシーの運転手さんに話しかけた。ソロツーリングでは人に話し掛けるというのが楽しみのひとつで、情報獲得の手段でもあります。

旅の役立つ情報は旅先で獲得するのが1番いい。10年ほど前まではインターネットなどの情報源もなく、パソコン通信で談話をする程度だったので、やはりとにかく現地に行ってみるというスタンスは行動力の象徴だった。
「大沢温泉がいいよ」と運転手さんが教えてくださったのでそちらに向かうことにした。昔ながらの湯治温泉で一軒宿である。宿泊をするかどうかで迷ったが、いわゆる番頭さんらしき旦那さんもバイクに乗るという片言の会話で安心感が出たこともあり、2000円払って泊まる手続きをした。

旅館の廊下を歩きながら、ここが有名な「大沢温泉自炊部」であるのか、と思うと、あとになってから満ち潮のように感激がこみ上げた。不安と好奇心が入り交じっているころで、今では滅多に味わうことのない不安と動揺だった。時代を2、30年遡るような建物の中で湯治客が行き来するのを見ていると、長い湯治の文化を感じる。ぽつんとある売店。活気が出たり急に静かになったりしている。

周囲がガラガラと開け閉めする戸で囲まれた8畳ほどの大部屋で蚊取り線香に火をつけて寝ころんでみた。台所に行けば10円を払ってガスコンロに火をつけ湯を沸かす。湯治客のおばあさんたちと会話も弾んだ。おすそ分けも戴いた。

そうそう、タイトルに書いた「ひっそり」の意味を説明しなくてはならない。それは、温泉場がひっそりと佇んでいるという意味もあるが、お客さんに若い女性がけっこう混じっていて、暗闇の中で無言で服を脱ぎ「ひっそり」と湯に浸かっているのである。せせらぎが人の気配の雑音を消してくれる。

人がざわついた雰囲気がなく、遠くでほのかに灯された明かりがお湯まで届いてくる。自然の姿が持っている夜空のほんとうの明るさを、湯舟の中から見上げ、人が生まれたときのように男女の隔たりなく湯に浸かる。

無言が続く。だから「ひっそり」である。

大沢温泉にて

2006年4月21日 (金曜日)

第6話【花も嵐も】 続・素敵な駐在さん <下北半島>

私は「ひとり旅、下北の衝撃」という日記を後になって書かねばならなくなった。そのわけが次に書かれています。

何故、人はただひとりで旅に出るのだろうか。風に吹かれることにロマンを感じるようになったのは、いったい、いつごろからなのだろうか。そういう遠大な自問を、恥じらいも照れもなくさらけ出すようになると、同じことを感じていた仲間たちがコメントをくれます。ひとり旅仲間がどれだけ増えても、やはり、ひとり旅です。

「ひとり旅ですか、いいねぇー」と旅先で話しかけられる。でも私にとって、旅はいつもひとり。日常の生活の中からそっと抜け出すために、あるいは、あらかじめ敷かれたレールの上を決まった手順で走り続けることへの反発・・・・のようなものを感じて、旅に出る。どこまでも淋しくセンチでありながらもロマンに満ちている。そして旅先で様々な人たちに出逢い語り合う。名前も尋ねなければ身の上も聞かない。便りを交わすわけでもなく、やがてその人たちのことを忘れてしまう。それでも旅を続ける。

ひとつの衝撃的な話が目に飛び込んだ。私が下北を旅して2、3年後が過ぎた6月末のある日、ふと朝刊を見て驚きました。青森県の下北半島でひとりの警察官が殺害されたという記事が載っていたのです。

生々しい血痕がパトカーに付着している写真が大きく一面に出ている。その脇に小さく写った顔写真に見覚えがある。
1996年の夏、このお巡りさんが下北半島の老部という寒村の交番に着任して間もないころ、旅の途中だった私は、この交番で朝食をご馳走になっていたのです。

あの日は、少し肌寒い朝でした。「老部」という漁村の交番の前でバイクを止め跨ったまま地図を見ていたら突然、「どうぞ」と太くて低い声で交番の中に誘ってくださった人がそのお巡りさんでした。奥さまと一緒にソファーに腰掛け、私に朝食をご馳走してくださった。できたての美味しいドーナツと、無添加の林檎ジュース。警察官だからという先入観もあって、厳しそうに見えたが、理解のありそうな人で、奥さんも綺麗な人だった。

漁村の話をしたり、息子さんがバイクに乗って東京から帰ってきたんだ、という話などをし、親近感が深まってゆく。「仏ヶ浦」の話もした。テレホンカードを出してきてこんな所だと説明をしてくださった。
「ぜひ、船に乗って海から見ることをお薦めしますよ」と話して、そのカードまでも記念にくださった。8月1日と日記に書いてある。

何度も新聞記事を読み返した。交番の地理や様子が新聞記事と一致する。もう一度地図を広げてみると記事にある「白糠交番」の位置が不明。しかし、こんな田舎にそんなにたくさんの交番があるとも思えないから、あの交番で間違いないのではないだろうか。白糠小学校と老部の集落は2キロほどしか離れていない。白糠交番は老部の交番の事ではないか、と確信している。

しかし、やはり私の勘違いであって欲しい。(合掌)

第5話【花も嵐も】 素敵な駐在さん<下北半島>

下北半島の太平洋岸にはヤマセが吹き、街はしたたかな霧に包まれていました。カワヨグリーンユースホステルを出て下北半島の先端を目指していた私は、半島の首の一番細い部分の太平洋側を北上してゆく。地図を見るためにバイクを止めた集落が「老部」(おいっぺと言うらしい)というところで、ちょうど駐在所の前でした。

いつも私は女性を可愛いとか綺麗とかと表現するので、嘘つきだとお思いの皆様が多いも知れませんが、決して嘘つきではないと自分では思っています。前置きはいいとして、交番の前で地図を広げていると「綺麗な」女性が声を掛けてくれました。交番の奥さんです。

中に入らないかと誘ってくれるので、8月初旬にしてはやや肌寒かったこともあり、少し休憩をさせて戴くことにし、遠慮なくお世話になりました。無添加の林檎ジュースと、さっき作ったばかりのまだ暖かいおからのドーナッツを、奥さんは出して下さった。そして、交番の応接用ソファーで色々とこの土地の話を聞かせてもらったり、私も旅のいきさつなどを1時間ほど話しました。

「老部という村落は寂れた漁村に見えるけど、実は黒字経営で立派な家屋が並んでいるのが交番の窓からも見えるでしょ、イカが大きな漁業資源なんですよ」というような説明をしてくださった。地元の人の話を聞くことはツーリングには欠かせない楽しみですが、まさか駐在所で、しかも、奥様も一緒になって話が聞けるとは驚きで、最高にいい思い出です。

仏が浦の景色の話になったときに、奥さんがテレホンカードを出してきて、遊覧船の乗り方などを説明してくださって、「海から眺めるのがいいですよ」と教えてくださった。カードは新品で「記念に」と言って私にくださった。
仏が浦は水上勉の「飢餓海峡」舞台でもあり感動もひとしおである。

駐在さん。現在もそこにおいでなのか…、また新しい村へと移って行かれたのか、気になる。

2006年4月20日 (木曜日)

第4話【花も嵐も】 ただ佇む、三内丸山遺跡<青森県>

1996年の東北ツーリングでは13日間をかけて東北を走り回って19箇所の温泉に入ってきました。私にとっては思い出深い場所であり不動の記録です。その旅の動機は「三内丸山遺跡」を見てみたいからでした。

縄文時代、まだ1歳ほどの子どもを亡くしてしまったら、村のはずれの墓には埋葬しなかった。自分たちが毎日暮らす台所の片隅に、その子を壺に入れて埋葬したのだ。そんな発掘の報告記事を読んだことで、私は、その遺跡を見てみたいとそう思ったのです。人の心に触れることができるような気がしました。

ツーリングに飛び出すには、瞬間的なパワーが必要です。しかしそれだけではなく、北の果てまで諦めずに走り続けるだけのエネルギーを保持させてくれる何かも必要です。この三内丸山遺跡は私を釘付けにして、エネルギーをくれました。公開直後には復元された大きな櫓はなく、ただの野っ原に発掘箇所が点在していただけだったのだが、あまりにもその素朴な生活ぶりに感動しました。その夜も感動が冷めず予定を変更して二日目も行った。

旅は気まぐれ。明日の予定は自分で決めるたびだからこそ出来たのだろう。

決してソロツーリングというスタイルを皆さんに押しつけるつもりはないけれど、こういう所に佇んでひとりでのんびりと考えに沈んでみるのもツーリングの醍醐味ではないだろうか。

車に乗ればカーステレオやラジオの音楽が、電車に乗れば周囲の人の会話が否応なしに飛び込んで来る。

それがバイクであれば、自分だけとの会話が一日中続く。何と贅沢なことでしょうか。

2006年4月19日 (水曜日)

第3話【花も嵐も】 酸ヶ湯のかわいこちゃん<青森県>

青森を走るなら酸ヶ湯は絶対のチェックポイントだと思う。温泉が好きならばなおさらのこと、多少面倒でもここのお風呂に寄って欲しい。東北にしては400円(1996年当時)は少し高かったけど、惜しまずに寄った私の選択を称えたい。
湯舟は千人風呂といわれるだけあって広い。昔ながらの混浴になっていて、脱衣場が男女別々でありながら、湯舟には男女の区別はない。大きな浴槽の淵の両端に境界線マークがあり、そのポイントを繋いだ線が男女の湯舟の境界を意味するらしい。プールのようにラインが引いてるわけでもなかった。その湯舟の淵で、いい歳の爺さんたちがその境界マークぎりぎりのところにスズメが電線に止まるかのように並んでいる風景が滑稽だった。ばあさんたちはそんなことも気にとめない素振りでオープンに湯に浸かっている。まずまず家庭的な雰囲気が溢れていたと思った。
お湯から上がって着替えを済ませ建物の前の駐車場でくつろいでいるときに、駐車場の片隅にある売店の売り子さんと言葉を交わしたときのことだった。可愛らしい子だったのでおでん買うことにした。
そのときに彼女に声を掛けるきっかけは、
「筍おでんをください…。青森では何が美味しいですか?」
だった。彼女は、私の質問にすかざず
「りんご」
と答えてくれた。即答でした。でも私が期待していたのは、違う。
「それは今はないでしょう、今から食べに行くものですよ」
私はこの旅で美味しいもの探していたので、彼女にそう尋ねたのである。でも、赤いほっぺの、津軽訛りのその子と、たったそれだけの会話がとても嬉しくて仕方がなかった。
お味噌が白くて、生姜が少し入っていて、とっても美味いおでんでした。彼女のおかげで酸ヶ湯は最高にいい思い出になった。
もちろん、あれから何年も過ぎているのでその子はその店には居ないだろけど、青森の子って可愛いかったなあっていう印象ばかりが甦る。
旅から帰ってズームイン朝というテレビ番組を見ていたら青山さんというアナウンサーがレポーターで出ているのを見て、その人が少し訛を交えてインタビューするのが好きになってしまった。津軽の子はやっぱしカワイイのだ。

2006年4月18日 (火曜日)

第2話【花も嵐も】 感涙の傘松峠<青森県>

東北は遠くて大きい。
その地を走破することへの挑戦が4度目だったか5度目だったか、そんなことはどうだっていい。とにかく私は北に向かって走って、まだ行ったことのない青森県に深く踏み込んで走ってみたいと考えていた。
発荷峠までは随分と昔に来ていたので、こんど来るときには八甲田山をぐるりと回って、下北半島へも行ってみたいな、と夢を膨らませていた。
1986年の旅でこれが実現した。
大湯温泉で泊まって、奥入瀬を越えて八甲田山系に入った。真夏であるのに涼しい。低木に囲まれてた小さな沼の水辺には雪が少量だけ残っていて、空気が白くうっすらと霧状になって流れている。
しばらくして風向きが変わると、これが分厚く深い霧に変化した。真夏に出会う自然の雪に感動させていただきながら、私はのんびりとバイクを進めてゆく。傘松峠の標高を記した峠のてっぺんを過ぎるときには、神秘的な霧はブナ林の中を流れていた。
初めて東北に来たのは随分と昔のことだった。京都を発ち本州の山間部を高速道路も使わずに走り抜けてきた。福島で友人に会い松島まで3日間を要した。久しぶりに真っ青の海を見たとき、熱い感動が私を襲った。若きころのほろ苦い思い出だ。
傘松峠への道程でも似たものがあった。この峠は単なる県境線で、何の変哲もない只の峠に過ぎなかったのだが、旅を幾日も続けてきた果てに出会えた私だけが感じえる景色であった。だから感動できたのだ。嬉しかった。本州の最果てである青森県へ到達する笠松峠にバイクを止めて、やっと来たことを喜び、ぶつぶつひとりごとを繰り返しながら、周辺をうろうろと歩き回った。
私はここから青森県を走り始めるのだ。旅の原点とはこういう感動だといつも思う。感動があるからこそ、その旅の記録の輝き続け、翳らないのだと思う。

第1話【花も嵐も】 増毛から更に北へ…<北海道>

バイクは、まだ慣らしが終わっていなかった。新車のころのことだ。まだ子供はヨチヨチ歩きだったことを今でもうちのんが話す。そんな娘を置いて私がひとりで旅立ったことをそっと責める。その子ももう来年は大学生になる予定だ。
1989年の夏、舞鶴のフェリー乗り場に向けて出発する私を、アパートの軒下で雨を避けて小さな手を振りながら送り出してくれたシーンが深く印象に残っている。それは私にとって4度目の北海道で、最後の北海道への出発だった。
初めてこの大地に降り立ったのは1977年の夏のことで、そのころに未完成だった国道が1989年には幾つか開通して、ツーリングで走るバイクの数も格段に増えつつあった。
小樽のフェリーターミナルを降りてから日本海沿岸の国道を北上した。増毛という街を通り抜ける国道も当時には開通したばかりのひとつだった。
しばらく走って小平町という小さな集落を通過するとき「さようなら小平小学校」と校舎に大きく書かれた文字を見つけた。窓ガラスが所々割れていたが、校舎は朽ち果てていたわけではなかった。この学校の卒業生たちは今ごろ何処で何をしているのだろうかと思うとジーンときた。
旅先で廃校の学舎に出会うことはのは珍しくなかったのだが、最果ての大地のまっすぐな海岸通を走りつづけて見つけた文字。その大きく書かれた文字がソロツーリストの私にはこたえた。
この年の旅では、他にも幾つかの大きな感動があった。オーホーツク沿岸を走っていたときのことである。やはりここも過疎が「じわっ」と、いや、「どかーん」と襲ってきて、街じゅうが静まり返っている雰囲気が隠せない。
沈みがちな私が見つけたものは、草が茫茫と生い茂る中に「もうここを汽車は走りません」と書いた看板だった。幹線道路と並行して走っていた鉄路を横切る踏切跡だ。
国鉄が廃線になって、少しずつ変わり果てていく集落を見るのは辛かった。
ぶつぶつとひとりごとを言いながらに、私は更に大地を走った。
知床半島では、数年前に来たときにはウトロまでしかなかった道がその先の在所まで、しかも舗装されて完成している。
登山道しかない道だった知床峠に観光バスが走っている。バスの吐き出す黒煙にユリの花が揺れていた。
斜里岳の東の峰を越える「野付国道」はダートではなく舗装に変わっていた。
美しい思い出や感動的な出来事などが数限りなく北海道にはある。だからもう一度といわず行きたいとも思う。ひとりでも多くの人に紹介ができたらいいなあと思う。
しかしながら、いつも真っ先に頭に浮かぶのは、素晴らしかったものの思い出ではなく、開発されて人に踏みにじられてしまった自然の姿だ。単に昔は良かったと言いたいのではない。乱開発についてみんなで真剣に考えねばならないのないか。
もう一度、あの大地を走りたい。しかし、無残な姿を見るのは嫌なので躊躇している。
最後に北海道を訪ねた1989年からの幾日もの空白の日々が過ぎる。それが私の躊躇の気持ちを表している。

2006年4月13日 (木曜日)

泣き言を聞いて叶わぬ春の雨

大雨が降りました。(11日)

国道が危険回避のために通行規制をしたり通行止めをしているニュースが車のラジオから流れてくるのを聞きながら家路を目指します。

いつも通りの時刻にいつもの河口あたりで海に一番近い橋を渡る。晴れていればまん丸の月が出ている夜だから、潮が今から満ちてくるはずだ。

道路は冠水しても海は決して溢れることがない、という当たり前のことが妙に新鮮で驚くべきことに思えて、それに気づいている自分がエライと思えてくる。

だから、この激しい雨に車ごと流されてしまうのではないかという不安が襲ってきても、海にすがっていれば流されることはないのだという安心感が湧く。

いつもならば、暗闇の向こうに広がる海原に満月が映し出されるところだろう。でも、今夜はお預けだ。(この夜は十三夜あたりだったかな)

信号待ちでも、フロントガラスが雨に打たれているのを何も考えずにぼんやり見たりしている。

「どしゃ降り」が昔を思い出せる出来事ってのは、どうして、悲しく、寂しく、人に言えず、聞いてもらえず、不倫で汚く、しかしながら熱くて燃えるようなモノばかりなんだろうか。心がチクチクする…。

泣き言を聞いてもらうのは今度の満月の夜にしよう。

(4月11日の夜のこと)

2006年4月 8日 (土曜日)

漂う

サクラの花は、それ自身が滅びるために生まれてきたのではないかと思うほどに儚い。
春という陽気に浮き足立った人々を引き立てて、気づかれぬ間に散ってゆく。

秋の落ち葉が、そっと音を立てずに老木の枝から離れ、数秒というスローな時間をかけて地面に辿り着き土に還るのと違って、サクラは風に吹かれてゆき、自らの幹のたもとでは土になれないのかもしれない。

それも自然の摂理なのだと思うと、なおさら、哀しい。


生ぬるい空気とピリッと冷たい空気が混在して漂っているような春の気配の中に、誰にも見つめられることなく咲く山あいのサクラを見つけると、長い1年を労ってあげたくなる。ささやかな自己主張をわかってもらうことでサクラは満足するのだろうか。

どこからも力を作用されないで自在に漂うには、春風に吹かれるのが気持ちよい。恋をしたくなる。

散歩中

サクラ

【参照先】

2006年4月 3日 (月曜日)

歯ブラシが行ってしまえど朝は来る

久しぶりに京都の夜を過ごしてきました。

土曜の夜の嵐電(京福電鉄嵐山線)は、観光マップを片手にした人々で混雑していました。四条大宮で降りて少し歩いて、牛楽亭という名前のお店へ行きました。

私は入学式をサボって家でPCのセッティングをして過ごしていたが、入学式を終えて買い物などを済ませてきた娘と落ち合いました。

お母さんも実は女子大(じょしだい)だったんだけど、まるで自分が再び新入生となるかのようにはしゃいでいる。嬉しいのが半分。寂しいのが半分というところだろうか。

娘よ。知らない間にたくさん食べるようになったな。
そう思った。

そして、母よ。
ウォーミングアップはもういいんじゃないかい。

朝は来ます。

2006年4月 2日 (日曜日)

ツバメの観測

うちの木村さんの「電伝虫の伝言板」 のなかで、3月27日、ショウジョウバカマの写真をアップしている。

そして3月29日には、ヒキガエルの卵塊(抜け殻)とオタマジャクシのことを書いている。

私のように数学と格闘してきた人間から見ると、木村さんは生物学科で生態学をやっていた人なので、いっしょに野山を散策すると、驚かされてばかりだ。

━ ねえ、今、鳥が啼いて、飛びましたね? 何ていう鳥ですか?
と尋ねると、すかさず
━ 3種類いましたよ
と仰る。

飛んでいる鳥や、私たちを取り巻いている植物たちが、みんな自分の仲間というか、名前や種類が分かっているんだから、そりゃあさぞかし森を歩いても面白いに違いない。

(もうひとり、みきちゃんという子もいますが、この子は淡水魚の方が専門らしく、やはり生物の話をすると生き生きしてくる。)

新芽を見ても、
樹木を見ても、
虫を見ても、
見ているところが違うのはもちろんのことだが、
僕が感じていることの何十倍ものことを感じているのです。

それを盗み取るというか、ご教授いただこうと必死なのだが、モノゴトを理屈で処理しようとする人間には、非常に難しい。


ツバメが市内で観測されて半月が過ぎている。
私の職場ではもう一週間ほど後だろう。

私の仕事の絡みもあるのだが、この季節が来ると、いよいよだなという気持ちが強い。空を見上げる日々が始まります。4月24日から。

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