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2005年10月29日 (土曜日)

真如堂のこと

結婚をする前の話でございます。休日になると市内散策に出掛けるのが私は好きでした。バイクのこともありますが、多くはバスに乗って行きました。カメラを持って歩き回る格好でした。

マンションの上と下の間柄だったので、いつも私を追うようにうちのんがついて来ました。私は冷たいヤツでしたから、「興味があるなら付いて来てもいいよ」というような誘い方をしたんだろうな。ほんとうは一緒に行きたいくせに。

ちっとも優しくないので、お茶の一杯もご馳走したりしませんでした。バス代も割り勘だっただろうかね。うちのんに聞いてみないとわからない。

秋もすっかり深まったある日。その日は真如堂に行きました。といっても、真如堂というところを知っていたわけではなく、偶然にそこに行ってしまったというのが正しい。

京都大学の前に百万遍というところがあり、そこでバスを降りて最初は古本屋を探していたのです。でも、ちょっと入っていきたくなるようなところを見つけたんです。それが吉田神社でして、その中を通り抜けると、さらにどこかへと続く道があるのを発見してしまいます。

京都の路地は狭くて、家並みに風情があります。ちょっとしたものに生活の一面を垣間見ることができるので、すぐに寄り道をして、追いかけているとどこかに迷い込んでしまいます。簡単な市内地図を持っていますので照らし合わせながら、緩やかな坂道を登って行きました。

真如堂はひっそりと佇んでいました。もみじが綺麗だと、近頃のパンフには書かれていますが、私が見た風景は銀杏の落葉が石畳に敷き詰められた参道でした。

うちのんの写真を何枚か撮り同じアングルで私の写真も撮ってもらいました。あとでわかったのですが、うちのんはそのときの1枚を自分のお見合いの写真に使いながら、大きく引き伸ばした私の1枚も大事に持ってくれていました。それを結婚する頃に宝物のように見せてくれました。
本当はお見合いなどしたくなかったのでしょうか。それとも、いい人がいたら行っちゃおうかな、と思っていたのでしょうか。いずれにしても、二人が一緒に1枚に収まっている写真ではなく、別々に同じ庭を背景に写っています。

今年、娘の受験があって京都に行くことになりました。だったらみんなで出かけようか、ということになりかけています。

それでふと、夫婦で顔を見合わせて思いついたのが真如堂の再訪です。本当は誰にも教えたくない素敵なスポットなんですが、なかなか感動的な紅葉です。二十数年も前の景色しか記憶にないけど、今でも昔のように静かだろうか。

2005年10月27日 (木曜日)

赤い実

名前を知らないが、裏庭の木が赤い実をつけているのを見つけた。

南天ではないと思うけど

 一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 山崎方代

を思い浮かべた。

私の恋は暮れ行く秋に、何処の野山を彷徨うていることやら。


昨晩、土砂降りのように降った・・・らしい。私はぐっすり眠っていたので気づかなかった。朝方に気持ちよく冷え込むと眠りが深くなるらしく、子どものようによく眠れる。だから、雨が降ったことさえ知らずにいた。


「ごみ出し頼むわ」とうちのんが言うので

  雨上がりちょっとそこまで二三軒

のノリでゴミ出しに行ってきました。

  赤い実が濡れて綺麗に化粧して  


そう、私は化粧が嫌いなので、うちのんはいつもスッピン。
あの赤い実にも、水のルージュがよく似合う。


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なかなか清清しい朝です。
まだ、Tシャツ1枚です。(笑)

2005年10月22日 (土曜日)

空が悲しい <霜降篇>

あの旅の途中の青い空の下で、山の向こうの見詰めながら、目指す村に辿り着く夢を語った夏の日があった。道ばたに屈んで雑草を引き抜きながら、片寄せ合って二人で夢を考えていた。

そう、あの村のどこかで別れてきた女のことを、十年近くも前に棄ててきたオンナのことを、何を今更考えてみたころで始まらないじゃないか。悲しい素振りなんかやめてくれ。

あの旅を途中で切り上げて、二人でそこで暮らそうなんて、本気で考えていたんだけれど、怖くなったのは、どっちだったんだろうね。
十年経ったらあの村で小さなペンションをやってるよ。美味しいキノコの料理をしよう。そんな会話を、今はもう誰も覚えていやしないだろう。

二人が目指した村にあれから一人で行ってみた。何もない寂れた村を確かめてみたかった。小さな神社の角を曲がって、ひっそりと山陰にある沼のほとりを通って急坂を降りると廃校があった。もう何年も誰も耕さなかった田んぼがあって、枯れた草が生い茂っていたよ。


ひとりじゃ旅に出られやしない。あいつがそこにいるようで。

鳥のようなオンナだったあいつを想うと、きょうの夕焼けは何故か悲しい色に思えてくる。
空が冷たくなるほどに、燃え尽きるように空が赤い。
鳥になれなかった俺を思うと、ああ、空が悲しい。

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【銀マドとは】
(※銀マドとは、銀のマドラーのことです)

2005年10月17日 (月曜日)

天災は忘れたころにやってくる

昨年は、夏から秋にかけて、台風が何度も三重県にやってきまして、宮川村では大きな災害も発生しました。しかも、その後で、ちょうど10月の下旬に新潟では大きな地震がありました。まさに「天災は忘れたころにやってくる」〔寺田寅彦〕の言葉どおりでした。

今年は、「子ども環境会議2005」、「Mieちびっこエコ王国大会」と、夏にイベントが続きましたが、台風の影響を受けずに、お天気に恵まれて幸運でした。

*

愛・地球博も終わりました。

環境をテーマにした万国博覧会ということで注目されていたのですが、お越しになった皆さんの感想はいかがでしょうか。

入場者数だけに注目すると「世界の国からこんにちは」と歌われた大阪万国博覧会が6千421万8770人、今年の愛・地球博が2千204万9,544人となっています。連日、大混雑の報道でしたが、それでも大阪万国博覧会には及ばなかったのですね。これは意外でした。

国民のほとんどが注目した大阪万国博覧会では、動く歩道が注目を浴び、コードの無い電話機や電気自動車が夢の技術として展示されていました。

わずか35年の間に電気通信工学や情報工学は目覚しく発展をし、21世紀になって本格的なITの時代を迎えることになります。今や我々の身の回りでこれらの機器を使いこなさずに仕事をすることは考えられない状況となっています。

便利とか快適とか面白い、楽しいなどということに科学技術を注ぎ込むことで、このテクノロジーの進化が庶民に還元されて社会は潤うわけです。経済発展や社会革新の指標のひとつとして決して誤っているわけではないのですが、それらの技術が環境問題を解決するのにどうしてもっと役立たないのだろうか、というジレンマを感じることもあります。

「もったいない」という言葉が世界共通語になりつつあると聞きました。地球温暖化の危機も年々大きな声で叫ばれているのが伝わってきます。

無限点に向かって発展を続けるIT技術を、環境分野で上手に活用するような新技術の研究開発は、一体どのあたりまで進んでいるのでしょうか。それが見えて来ないなあ、というのがここ2,3年の科学技術の進化に対する感想です。

2005年10月12日 (水曜日)

きかせてよ柱の傷の物語

けさ、新聞を見たら

きかせてよ柱の傷の物語

私の川柳が載っているじゃないか。

2005年10月 9日 (日曜日)

コーヒーをホットにかえる寒露かな

前略。
朝夕も時折りひんやりとする日があり、秋がやってくることを子供のように喜んでおります。
高三の娘がまだ赤ん坊のころ、休日になるとその子をおぶって人影疎らな嵐山渡月橋のたもとへとしばしば散歩に出ました。憩いのひとときでした。
静かに秋を待ち続ける小倉山の峰に、霧のかかった朝もあったのが懐かしい。やがて一面をもみじに覆われる山々は、ひっそりとしていました。
きょうからモーニングコーヒー。ホットにかえました。

━・・━━・・━━・・━

そんな書きかけの手紙を置いて、しばし考えにはまりゆく。

きょうは寒露。

昔を振り返って、あのころはよかった・・・と誰もが一度は口にしたことがあろうかと思う。果たしてほんとうに昔は良かったのだろうか。
なかなか筋書き通りに行かない仕事。苛立ちを募らせながら、大いに愚痴を言い、投げやりにもなったこともあった。そんな日々がどうして今頃になって美化されてくるのだろうか。

端的に言えば、対岸まで急流を漕ぎ渡ったのは、あれは過去のことになったからだ。過去になったらもう二度と戻らない。急流に漕ぎ出すことはない。いや、今そんな勇気はないというのが正しい。
一生懸命漕ぐ私のボートに、強くて重い抵抗成分となって襲い掛かる急流。私はこれに逆らい、激しく波しぶきを上げて自分に降りかかる些かの脅えも感じず必死だった。

理屈を書くのはよそうじゃないか。必死になることが少なくなったね、程度にしておこう。

━・・━━・・━━・・━

それはそうと、旅の話はどうなったんだい。
ええ?
二週間延期だって。
ほんとに。

だって、二三日前から再読し始めた「道頓堀川」(宮本輝著)にどっぷりなんだ。
ひとりにしてくれ、読み終わるまでは。
______________
【銀のマドラー・塵埃秘帖・寒露篇】

2005年10月 7日 (金曜日)

17歳(バトンが来たので)

なんて儚い青春を思い出す人も多かろう。はてまた、南沙織の歌を思い出す人も多いんじゃないだろうか。私と同世代の人ならなおさらだ。17歳というバトンを受けて、さまざまな思い出が走る。
ナアオマエ、娘はいつの間にか18歳ぞよ。しっかりしなさい。

わが娘は青春を謳歌している。私の17歳は悲惨な青春だった。受験の危機感に苛まれていた。このままだと何処の大学にもいけないぞ、と自分を責めていたなあ。

■ 17歳のころ何をしていましたか
はい。勉強してました。
美術部のMさんを、放課後に訪ねていって、無言で絵を描くのを見ていた。学校帰りに二人で遠回りして帰ったよ。

■ 17歳のころ何を考えていましたか
今みたいに、エッチなことは考えたことなどなかったです。
将来はアナウンサーになりたいと思った小学生時代。政治家になりたいと思った中学時代。そして、気象学者になろうと思っていた高校時代(17歳のころ)。そのあと、医者になろうと思って勉強したり(叶わなかったが)、作家になろうと思ったり、ジャーナリストになろうと思ったりした。今は「中年ニート」です。

■ 17歳のイベント
イベントなんていう言葉すらなかった。バイクで暴走してました。

■ 17歳でやりのこしたこと
ない。
しいて言えば、もっといい師匠に出会って、真剣に勉強してみても良かったな。昔、夢見た精神科学の医者になりたかったのが実現できたかもしれない。

■ 17歳に戻ったら何をする?
美術部のMさんが私に「若きウェルテルの悩み」を貸してくれたことがあった。冒頭を読んで「ああ、ふられたんだ」と思ったが、真意を聞きたい、今になって。

【コメント先】

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