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2005年8月31日 (水曜日)

チキンカレーを作る

今日はカレーを作ることにしました。

こくまろ、ザ・カリー・・・などは使わないで、「オリエンタルカレー」を使う。

Photo

・チキンは、骨付きの手羽先がよろしい。絶対に骨付きです。
(でっかいモモ肉を丸ごとでもOKだが鍋に入りきらないことがあるので注意。きょうは店で発見できず)
・ニンニク、しょうが、鷹のツメ、他香辛料は自由に
・茄子、かぼちゃ、ピーマン、にんじん、
・ついでに残っていた玉ねぎを半分ほど

まず、
チキンをフライパンで焦げ目が付くまで炒めますと油がしっとりと出てきていい香りがします。

いや、
男の料理ですから、これに野菜を混ぜ合わせて強火で炒めます。このまま酢醤油をかけても美味そうだなって感じですが、

そのあと
鍋に移してコトコト煮ます。

たっぷりと水を入れて煮るのですが、このスープをそのままラーメンに使ったら絶対に美味いなーと思いながら、ごくふつうにカレーを作るわけです。

カレーはこうでなくてはならない、という考えを棄てます。
スープのようなサラサラのカレーにしてしまいます。具のなかで、形を残しているのはお肉とニンジンだけですからね。というか、骨とニンジンだけです。野菜は簡単にとけますから、たぶん何が入っているかわからない。

お肉は骨が綺麗に取れてしまっていることが多いですね。肉がはがれていなくてもガブリと噛み付けばさらりとはがれます。

カレーはビーフ。そう思っている人も多いかもしれませんし、うちのんなんか「絶対にビーフしか食べない」と物凄く強情を張っているのに、私がこのカレーを初めて作ったときに食べて「美味しい」といってくれましたからね。

何故、オリエンタルカレーかって。
牛肉を入れることを前提に作られたカレー粉は余りあわないような気がします。いや、何度も何度も作ってきて、オリエンタルがチキンカレーにマッチングすると思うだけです。
昔、チキンカレーというのが(ハウスかグリコから)売ってたんですが、なくなりました…

ちょっとマニアなカレーです。食品会社に努める知人が名古屋に仕事に来た際にこれを発見して、お宝の如く喜んで買って帰ったということもあります。
お安いですしね。ジャスコで90円。

2005年8月22日 (月曜日)

8月号 メルマガの巻頭言と後記

【巻頭】

 立秋を過ぎて少し暑さが和らいだように感じます。でも、まだまだ暑い日となることもあり、暑さ対策への油断は禁物です。夏休みも終盤にさしかかりますが、自然の中での遊びも十分に注意をして事故のないように心がけてくださいね。

 夕立が洗つていつた茄子をもぐ 種田山頭火
お盆が明けて連日のように雷雨に見舞われました。そんな折、山頭火の自然を見つめた句にハッとさせられます。自然に逆らわないで自然と共に暮らす。インタープリター講座では、参加者のみなさんに一句ひねってもらうこともあります。ちょうど「木の一句」の募集も始まりました。

環境を考えながら一句、いかがでしょうか。

(略)

【後記】

県内では稲刈りが始まりました。ふた昔ほど前ですともう少し刈り入れ時期が遅く、農作業の終わった田んぼにはたくさんの赤とんぼが飛んでいました。「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(百人一首)と天智天皇が詠んだ時代は、夜露が付着するほど冷え込むことから、さらに晩秋だったということになります。

 さて、先月の後記で少し触れました「そしてウンコは空のかなたへ」〔出版社:金曜日〕を読みました。タイトルの意味は、メルマガ読者のみなさんのご想像どおりのことと思います。

 この本は全部で15章から成っています。産業廃棄物が実際に私たちの知らないところでどのように処理をされてゆくのかを追っています。狂牛病で有名になった肉骨粉、スーパーから出る食品廃棄物、ペットの死骸、献血された血液、携帯電話などなど、面白い話題が取り上げられています。

 そして、第15章で日本一の糞尿生産地、東京都の下水処理事情をルポルタージュしています。ウンコが燃やされて「空のかなたへ」消えてゆく話で締めくくっています。

 ちょっと結論としての押しがアマイようにも思えますが、リサイクルだけではなく、ゴミを出さない工夫を提言しようとしています。(…と思いたい。)

 本書は、あの「買ってはいけない」(←私は著者のサインも貰いました)で有名になった「週刊・金曜日」に連載されたルポです。それだけにもう少し辛口でも良かったと感じるわけです。

みなさんも興味のある方はどうぞご覧ください。(環境学習情報センターに蔵書があります)

【8月号:22日配布】

県内では稲刈りが始まりました

 立秋を過ぎて少し暑さが和らいだように感じます。でも、まだまだ暑い日となることもあり、暑さ対策への油断は禁物です。夏休みも終盤にさしかかりますが、自然の中での遊びも十分に注意をして事故のないように心がけてくださいね。

 夕立が洗つていつた茄子をもぐ 種田山頭火

お盆が明けて連日のように雷雨に見舞われました。そんな折、山頭火の自然を見つめた句にハッとさせられます。自然に逆らわないで自然と共に暮らす。インタープリター養成講座では、参加者のみなさんに一句ひねってもらうこともあります。ちょうど「木の一句」の募集も始まりました。

環境を考えながら一句、いかがでしょうか。

*

 県内では稲刈りが始まりました。ふた昔ほど前ですともう少し刈り入れ時期が遅く、農作業の終わった田んぼにはたくさんの赤とんぼが飛んでいました。 

「秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」(百人一首)

と天智天皇が詠んだ時代は、夜露が付着するほど冷え込むことから、さらに晩秋だったということになります。

 さて、先月の後記で少し触れました「そしてウンコは空のかなたへ」〔出版社:金曜日〕を読みました。タイトルの意味は、メルマガ読者のみなさんのご想像どおりのことと思います。

  この本は全部で15章から成っています。産業廃棄物が実際に私たちの知らないところでどのように処理をされてゆくのかを追っています。狂牛病で有名になった肉骨粉、スーパーから出る食品廃棄物、ペットの死骸、献血された血液、携帯電話などなど、面白い話題が取り上げられています。

 そして、第15章で日本一の糞尿生産地、東京都の下水処理事情をルポルタージュしています。ウンコが燃やされて「空のかなたへ」消えてゆく話で締めくくっています。

 ちょっと結論としての押しがアマイようにも思えますが、リサイクルだけではなく、ゴミを出さない工夫を提言しようとしています。(…と思いたい。)

 本書は、あの「買ってはいけない」(←私は著者のサインも貰いました)で有名になった「週刊・金曜日」に連載されたルポです。それだけにもう少し辛口でも良かったと感じるわけです。

2005年8月20日 (土曜日)

一日一魚

私はお肉よりお魚の方が好きです。

きのうの夜は、サンマの塩焼き。

頭も尻尾も落とさずにそのまま焼きます。食べるときに頭だけ箸で切り落として丸かじりします。つまり食べ終わったときには頭しか残っていません。

娘も上手に魚を開いて食べます。
腹に箸を入れて、解剖学の講座のように(私も少し薀蓄をたれて教えたが)、三枚に開いて苦味のあるところを少し取り除いて漫画のように綺麗に骨だけを残して食べ終わります。

秋はサンマが美味いですね。


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一日一魚 :、ほとんどをお刺身でいただきます。

カツオ、トンボシビ、ツバス、カンパチ、サンマ、ブリ、アジ、ヨコワ、ワラサ、ヒラマサ、アオリイカ、スルメイカ
このへんが多いですね。休日にはスーパーに行き、自分の目で見て買ってきます。
(ブロックで買うときは包丁研ぎから始めます)

タコは酢の物にすることが多いです。

ああ、お腹、減ってきたな。

2005年8月19日 (金曜日)

哀しく、乱れる

カナカナカナ・・・・

なんて哀しい鳴き声なんだろう。
ヒグラシが職場のビルの隣の森で鳴いている。

草笛のように掠れた声。
もうすぐ息が途絶えてゆくような声。
残り少ない息を吹きかけるような弱い声。

そんなヒグラシは嫌いじゃないけど。


暗くなるまえに、道端にひっそりユリの花。
駐車場までの花壇と道路の間に咲き乱れている。
まさに、乱れるように咲いている。


週末だよ、きょうは・・・・
哀しくて、乱れるように、日が暮れる。

満月です。ほら、まだ間に合うから。

2005年8月15日 (月曜日)

「喫茶・コリン」の提案

私は、ハンドルネームを昔から「猫柳」「猫柳素庵」としています。だから、友だちはねこさんと呼びます。そこでmixiではねこさんなのです。
(ときどき「六角堂」とか「百万遍」などと名乗ることがあります。少し変人な人間になろうとするときには「六角堂」であったりします。)

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ネットでは友達と呼べる人ができても、時期が来て廃れていってしまうとそのまま音信も途絶えることが過去には数多くありました。その原因が本名を扱わないことに拠るのかどうかは断言できないものの、助長していることは否めません。しかし一方で、ハンドル名ではなく本名を名乗り、ときには顔を見せればコミュニケーションが円滑にさらに深くできるのかというとそうでもないと思うのです。その大きな原因は、コミュニケーションボードの構造に大きく起因していると考えるからです。

その一番大きな特徴は、日記サイトで顕著に見ることができます。主宰者はまずメッセージを提起します。それに対してコメントを書く人が数々現れます。ここでコメントを書く人は、主宰者のサイトを自分の意思で訪問しなければなりません。そこで主宰者と何らかの共有を持ちコメンテーターになってゆくのです。
やがて、コメントを書く人が2人、3人と増えることになります。しかし、そこに来るコメンテーター同士ではコメントを交わすことをあまりしません。それは日記サイトが主宰者の持ち物であるからという大きな理由があるものの、お隣さんに居るコメンテーターはある意味で無関係であり無関心だからです。また、贔屓の主催者が増えるとその数だけ巡回をしなくてはならなくなることも構造的な欠陥といえるかもしれません。
この点がネットのコミュニケーションでの一歩突っ込んだ関係を阻んでいるのだ、と確信を持っています。

この話を突き詰めてゆくと、日記サイトのような構造では「1対多」(主宰者:客人)のコミュニケーションしかできず、多対多(主催者を含めた客人同志の相互交流)ができないことになります。
そこで、私が申し上げたいのは、なるべくなら共通のエリアに、同じ意思のある人が集まってきて談話・意見交換をするというのが望ましいということです。
しかしながら、メディア社会の流行は決してこれに賛同しているわけではなく、ますます日記サイトが大流行で、「自分の」日記のところにたくさんの人が集まってくるのを楽しんでいる。(そのことは何ら間違いでもないし、悪くもないのですよ)
何だか会社組織の縦割り構造を見ているようにも思えます。

そこで当然のように湧き上がってくるのが、横串を刺したコミュニケーション構造の提案です。私が作っている「俳句部」「読書系」「ひとり旅」(何れもmixi)などが、それに近いわけです。ただ、このコミュニケーション・コミュニティも今ではよく似たモノがたくさんあって選ぶのに困ってしまいます。どれにも属さない話を書き込めるところも、上手には探せませんしね。

おうちの片付けをしても、完璧に片付けるのは難しいしい、仕事で資料を分類しても、やはり完璧は難しい。そこで、いわゆるハキダメ(掃き溜め)のような所が必要なことがわかってきて、広義に私は冗長性(Redundancy)のようなものと解釈しています。通信情報工学を専門としている人には基礎過程で嫌というほど叩き込まれる確率理論と情報理論で登場します。(すみません。つまらない話に行ってしまいました。)

つまり、コミュニケーション・コミュニティにも冗長性(Redundancy)を持たせようじゃないかってことで、フリートーク・コミュニティ(いろんな話をするところ)を作ってみようかな・・・・と考えたりしてます。名前は決めていまして「喫茶・コリン」といいます。神経伝達物質のアセチルコリンからいただきます。さて、・・・・と。
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雷山無言 8月中旬号

2005年8月11日 (木曜日)

西瓜切る母の手をただ見つめている

久し振りに実家に行く。
喧嘩ばかりしているので、なるべく言葉は交わしたくない。
奥の座敷に寝転んでうたた寝をしている。

「今年は西瓜、食べたんか?」
百姓の長男だから、西瓜など買うわけもないことを見抜いている。

私は起き上がって台所の隅に立った。

一個を半分に切ってくれたので、それを丸ごと食べてしまって、
「今年の西瓜は美味しくないな」
と私は言った。

「食べる者がおらんので古うなったわ」
と母は言う。

私にだって西瓜の味はわかる。
ここの畑で採れた西瓜は、ここの味がするのだ。

そんなことは言葉に出さずに、西瓜を切る母の手を見ている。
背丈も、手も、小さくなったな、と思う。

2005年8月10日 (水曜日)

夕焼けが木魚に合わせて暮れてゆく

真っ赤な太陽が沈んでゆく。
きょう1日の戦いを称えるような鮮やかな赤い夕日が空をおおっている。
散歩の足をふと止めると遠くから木魚を叩く音が聞こえてくるのだ。

立秋が過ぎ名ばかりの秋になったのだが、盆棚を祭り、じめじめとした蒸し暑さのなかにも、暦の上で秋を迎えた心の余裕を少なからず感じる。

木魚は淡々と時を刻むように響く。コツコツと叩く音にあわせて太陽が沈み、夕焼けの赤みは紫に変わり、西の空から東の空へと移ってゆく。

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【コチラはミクシー俳句部へのメッセージから】

続・ブレーキパッド

続・ブレーキパッド
5320円。
パッドが届いていたのですが、交換前に覗き込んだらまだまだ走れるというので、パッドだけ購入ということで交換せずに帰ってきました。あらら。

コレで心置きなく旅に出れそうです。

(R)ブレーキパッド

(R)ブレーキパッド
月曜日に注文してきた。
お盆休み前の駆け込みメンテとなってしまうなー。

2005年8月 8日 (月曜日)

ひとりでに、消えるように

ひとりでに、消えるように : 串田孫一さん


きょうの朝日の夕刊に串田孫一さんの惜別の記事があった。串田さんは7月8日に89歳で老衰で亡くなられた。

私はこの人のエッセイに大きく刺激を受けた一人だ。いわゆる、上手な字で板書をする先生が居てくれると自ずからノートも綺麗な字になり、乱雑な板書であればノートは乱れ眠気も襲うのと同様に、串田さんは私に作文の歓びを教えてくれたのかもしれない。味わいを持った温かみのある、ときには厳しいエッセイだった。

およそ40年ほどの年齢差があるので、私が二十歳ころに串田さんのエッセイに出会ったときには既に60歳に近かったことになる。ジジイの風格の中に若さを匂わせてくれる、知的で哲学的なエッセイに酔いしれることができた。

「私はひとりで山の夜みちを何度も歩いたことはあるが、これに似た記憶は、さっぱり残っていない。それは何故だろうか」
書斎に残された原稿の結びの一節だという。詩的であり哲学的である。

家で転んで少し頭を打ち、近所の医者に行きCTをとった。その晩には風呂に入らず休み、あくる朝に息がなかった、という。

悲しい話ですけれど、串田さんのエッセイを数多く読んだ人ならきっと頷けるに違いない。数々の作品のような結末だったといえると思いませんか。

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