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2003年1月25日 (土曜日)

痛み <2003年1月下旬号>

銀マド  / 痛み   

▼一九九七年の年末、県立一志病院を父は退院した。しかし、この退院の理由は病気が完治したことではなく、患者に徘徊症状が顕著に表れるために内科として病院が預かるには限界がある、というものであった。

▼当該内科に直接関連しない関係者の常識的推測や病院事情に詳しい人の話を統合し整理すると、その理由はもっと簡潔で我々にもわかりやすいものであった。つまり、徘徊をするため医師が嫌がったようにも見せかけながら、実際のところは看護婦がそのような患者の面倒をみるのを強く拒否したため、主治医であったY医師の口から、自分たちの病院ではなく然るべき(精神科などを備えた)病院に転院をするのが望ましい、と言わせたというのである。まあ、このような経緯で退院となった。

▼Y医師は脳梗塞や脳内出血などで体に障害の残った人のリハビリテーションを専門的に研究し協議する医療研究協議会グループを作り公的に活動している、ということを、後になって私は知った。死後数年経ってしまってからのことで非常に残念だが、もしも、退院理由の事実や真意を即時に知ったとしても打つ手はなかったのかもしれないだろう。ただ、脳内出血が原因で徘徊などの病状がでることがあるらしく、脳のどの部位かに支障をきたして、これが原因で徘徊のような行動が出始めたのならば、この時点からY医師の率いる内科の医師が最後まで責任を持ち、治療を施し、必要に応じて脳神経外科を紹介したり精神科的分野からの治癒も含めて何らかの対応できたのではないか。患者側からはその治療処方についてもっと相談することは可能であったはずである。医師としての常識に欠如はなかったか。然らば私等も患者側も医者を信頼することができるようになる。Y医師は後にこの県立病院の院長にまでなってゆく人である。しかし、今更、彼女に面会を求める理由もない。

▼年末に退院をした父は、病院を転院するための紹介状も書いてもらうことなく家で年を越したが、ある人の計らいで隣の町にある榊原病院の精神科のA医師にお世話になれることになった。A医師も、Y医師が参加している協議会グループのメンバーである。転院を受け入れるために最初に診察をして、A医師は「こんなひどい状態になるまで放置して、一体、(医師として)どういう神経をしてるんや」、と怒ったと当事に付き添った者が証言している。A医師は、年始から二十日間ほど非常に多忙にもかかわらず、個人の携帯電話でも病状の相談を受けて患者のことを気に掛けてくださっていた、と聞いた。しかしながら、やっと入院の準備が整いつつあった二十二日に父は入院を目前に逝ってしまった。死を判定してくださったのは最寄の診療所のM医師で、診断書での死因は心不全。脳内出血患者の多くが高血圧を起因とし併発している胃潰瘍の出血も伴っていたという。

▼一九九八年一月二十四日の葬儀には小雪が舞い、木枯らしが吹き荒れた。

▼息が絶える少し前の、平常に対話ができるころのことだと推測するが、M医師が往診で計測した血圧値(シストリック)が280mmHgであったという。皮膚から血が滲み出てもおかしくないほどである。寒さが厳しくなるとこの血圧値は、人体の各所に対し相対的に非常に高くなったとみなしてよいだろう。

▼決して痛みを伴わないからことさら怖い。痛みを伴わなわず、本体を蝕むものは幾らでもある。肝に銘じて、仕事にも健康にも気をつけたい。  【ねこ】 ─ 1月8日

(追記)

県立一志病院のポリシーがWEBサイトのなかに掲げてあった。

  1. 患者様の人権を尊重する医療を追求します
  2. 県民と地域の信頼を得る医療を追求します
  3. 常に時代や環境を先取りし、求められるサービスを実践します

痛みを感じない人が掲げてもそれは無意味に近いことが容易に想像できる。県立一志病院のY院長は、このポリシーを決して実践できていたとは認めがたい処置であったことは、結果が語っている。

死亡診断書

2003年1月 5日 (日曜日)

言葉 <2003年1月上旬号>

銀マド / 言葉 

▼言葉は、身の回りにあふれていて、ありふれたものだ。その数々の中からたったひとつに反応し、掘り下げて見つめてしまうことがある。我々はそんな巧みなことができる人間である。

年末のある日、職場で、対話をすることを失ってしまった悲しい人に出会った。どうにかしてやりたい気持ちと、蝕まれていてそこへは入ってはいけないという戒めに似た罪悪感とで、しばらく私は考え込んでしまった。

どうしても、対話を放棄しているその人の心の奥に私は踏み込みたかった。しかし、対話を拒む人にはその人の世界があるのかもしれない。もっと無言でいることにしようと私は思った。無言イコール対話拒否ではないはずだから。

しばらく時が過ぎた。私のようなまだまだの人間が悩むことでもなかろう、ということに気付いたときに、その命題の答えの解法は見えたような気がした。言葉の嵐は吹きすさぶ。しかし、あるときはそれは嵐ではなく、満帆へと導く順風であることもあろう。待てば海路の日和あり。

▼言葉というものは不思議な魔力を持っている。どうしようもない脱力感に襲われていたり、持って行きようのない感情の高まりを抱いたときであっても、私の心の弱っている部分にさりげなく手を差し伸ばしてくれる。

それは乾ききった身体に降り注ぐスコールよりももっともっと静かで穏やかなものだ。その言葉をひとつの依り処にして永遠の逃げ道を探す旅に私は出る。

ただし、永遠と思われた旅でも思いもよらぬことで早急に打ち切られることがある。言葉そのものの治癒力が逞しいことで私自身にエネルギーがチャージされて、ひとりで歩もうという気概が生まれてくるからだろうと思う。

▼時間という目に見えない波の上を浮遊する私は、ほんの些細な言葉に支えられて、この波に感情という新しい出会いという波を重畳させて、未来という目に見えない先を、それが真っ暗闇であろうと、そちらに足を向けるのだ。複雑化した波は無限大に広がるスペクトラムを持っている。フーリエ解析という方法によっても、無限大は机上のものであるのに、理論上果てることのないこのエネルギーに限界を与えるこの式を胸にしまい、酔うようにさまよう。あたかもそれは現実と夢の間を往来していた、私が昔に見た夢のようだ。


◆日記から

○成人式のニュースを見て
成人式の話題のニュース報道を見た。昔の塵埃秘帖にも書いているが、私に成人式の歴史はない。進級が重くのしかかった後期の試験を数日後に控えて、そんな余裕などなかった。「負ける戦」であっても臨まねばならなかった。このときの試験の結果で3月には落第が確定するのである。嵐のような日々、地獄の谷から這いずり上がろうとしていた。それが私の成人の頃の思い出である。
自分でしくじったのだから、自分で這い上がるしかなかったのだ。

○センター試験
そうそう、私の頃は1期校と2期校とに分かれていたのよ。2期校は3月末に試験があった。合格者が巷にあふれる中であの頃まで受験勉強を続けていた2期校受験生というのは相当に強い精神力である。会社に入って同期に福井大学出身の奴がいた。実際に会社に入ってからも2期校出身者は逞しかった。
彼から「逞しい」という言葉の重さを知らされた。奴は元気だろうか。

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