拡大する写真・図版「アイ~ン」のポーズをとる志村けんさん=2006年1月


【2006年1月7~21日朝刊、土曜版連載「逆風満帆」 コメディアン・志村けん

笑いが救いの少年期

 今度、志村に会うんだ。

 そう話すと同世代の友人たちはなぜかパッと明るい表情になる。「すげえ」と身を乗り出してくるやつもいる。

 30をとうに超えた、いい年の男ばかりである。

 土曜の夜8時。「志村、うしろ、うしろ!」。客席の子どもたちが叫んだあの日から30年間、ぼくらを笑わせ続けてくれた男の背中は、どんな表情をしているのだろうか。“志村のうしろ姿”を見てみたいと思った。



 〈しむら・けん〉 50年東京都生まれ。本名・志村康徳。74年荒井注に代わりザ・ドリフターズの正式メンバーに。76年「東村山音頭」で一躍人気者に。85年の「8時だョ!全員集合」終了後は「志村けんのだいじょうぶだぁ」「バカ殿様」シリーズなどで活躍を続ける。

 「そりゃ、つらいことはいろいろあるけど、好きなことでメシを食っているわけですからね。中学生のころから、これ以外の仕事をやろうと思ったことはないから」

 シャイな笑みを浮かべながら、きちんとこちらの目をのぞきこんで答える。その折り目正しい姿は、バカ殿や「変なおじさん」のハジケぶりからは想像できない。

 志村がお笑いの道を目指したのは、厳格な父への反発からだった。小学校教頭の父・憲司は師範学校卒で柔道5段。口答えしようものなら容赦なく鉄拳が飛んできた。

 「うちも近所もほんと、みんな貧しい家ばかりでね」

 故郷の東京・東村山は、一面の畑と雑木林だった。同居の祖父母は農業を営んでおり、食卓にはサツマイモやカボチャばかりがのった。

 志村少年にとっての救いは、家に来たばかりのテレビから流れる漫才や落語だった。帰宅の遅かった父の目を盗むように見ることもあれば、父が一緒に笑い声をあげているのに驚くこともあった。その間だけは、息苦しい家に明るさがさしこんだ。

 「今でも不思議に思うんですが、人間笑わせてもらうと『よしがんばろう』という気になるじゃないですか。子供のころの僕も、ああ、人を笑わせる仕事っていいなと思うようになったんです」

 小学4年で柳家金語楼のレコードに出会い、中学校ではクレージーキャッツや、三木のり平が率いる「雲の上団五郎一座」の舞台に夢中になった。高校に入ると、「底抜けシリーズ」など、コミカルなアクションで一時代を築いた米国の喜劇俳優ジェリー・ルイスの映画に感銘を受けた。

 「セリフよりも身体の動きや表情で笑わせる。すごく影響を受けてまねしたもの」

 高校2年のとき、担任の先生に紹介状を書いてもらい、由利徹を訪ねたことがある。弟子にはならなかったが、「大学に行ったら気が変わっちゃうぞ」とアドバイスを受け、高校を出たらお笑いに身を投じる決心が固まった。

 芸人を目指す息子に父が反対することはなかった。志村が中学生のころ、父は交通事故にあい、後遺症でしだいに知能に障害をきたすようになったことが関係している。

 「末っ子の僕には、ああしろ、こうしろとはあまり言わなかった。けれど、いまこの仕事をしている僕を見たらなんて言うかなって、ふと思うことがありますね」

     ◇

「二人のおやじ」の間で

 のちに志村がザ・ドリフターズの見習いから正式メンバーになったのは74年だが、その前年に父は他界している。志村けんの芸名は父の名前「憲司」からとったものだ。

 高校卒業を控えた志村は選択を迫られることになる。ときに68年。飛ぶ鳥を落とす勢いのコント55号と、クレージーキャッツの後輩格として着実に人気を集めてきたドリフ。どちらに入門するか。

 結局、志村は「第二のおやじ」と自ら認めるいかりや長介の門をたたくことになる。

 「大きな理由は、ドリフがバンドだったから。僕はビートルズなど音楽が大好きだったし、笑いプラス音楽というのは圧倒的に幅が広がる」

 2月の雪の降る日。いかりやの自宅マンション前で、帰りを12時間待ち続けた。

 「付き人にしてください」

 1週間後「後楽園ホールにすぐ来い」と電話があった。

 「ドリフに入るのが目標じゃなくて、自分自身のお笑いを作る勉強をさせてもらおうと思っていたんだけどね」

 だが、付き人の月給は手取り4500円。靴が買えず、テレビ局の小道具係からもらったわらじを履いていた。わらじは、3日でぼろぼろになった。

     ◇

誰でもわかる笑いを

 マンネリと言われるのはおおいに結構。そこまで続けることに価値があるから。

 志村けんは折に触れて、そんな発言をしてきた。笑いは時代とともにあるという「常識」に対して、「笑いに古いも新しいもない」「面白いものは何度見ても面白い」と言い切るのは、自信と覚悟がなければできないことだ。

 原点はドリフの付き人時代にある。72年ごろに志村は付き人同士で「マックボンボン」というコンビを結成。ドリフの地方巡業や、小柳ルミ子沢田研二らのコンサートの前座として、しだいに人気を集めていった。

 しかし、年配客がメーンの三波春夫の前座でそれが暗転する。ギャグがことごとく受けなかったのだ。落ち込んだ志村は中学生のときに見た「雲の上団五郎一座」の芝居を翌日のステージにかけた。結果は吉と出た。

 「同じ芝居は小柳さんや沢田さんのステージでも受けた。お年寄りがわかるものは若い人が見ても笑う。なにがあっても、受けなくても客のせいにしちゃいけない。わかりやすく、ていねいな笑いを心がけないといけない。そう思うようになったんです」

 志村は74年、脱退した荒井注に代わってドリフのメンバーになった。76年に「東村山音頭」でブレークして以降は「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」など、繰り出すギャグがことごとくヒット。加藤茶にかわって「8時だョ!全員集合」の大黒柱となっていった。

 だが、昔もいまもテレビにおける絶対的な基準は視聴率だ。ビートたけし明石家さんまが出演する同時間帯の「オレたちひょうきん族」に、「全員集合」はしだいに押されていき、84年に入ると後塵(こうじん)を拝するようになる。

 番組が終了する1、2年前からメンバー間になんとなくギクシャクしたものがあった、と志村は述懐している。

 「テレビ局にとってはタレントは商品ですからね。たとえば、スポンサーの意向といわれても、芸人には確かめようもない」

 85年9月、最高視聴率50・5%を記録し、16年間続いた「全員集合」が最終回を迎える。翌年から加藤と志村がメーンの「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」が始まることが決まっていた。

 ときに志村けん、35歳。

 「さびしさにひたる暇はなかった。2人になったらつまらないということになったら後がない。必死でしたよ」

 ドリフの笑いは古い。これからはたけし・さんまだ。軽妙なアドリブがなければイマドキの笑いとはいえない。そんな時代の空気もあったが、志村は新番組で「作り込んだコント」にこだわった。

 加藤と志村の息のあったかけあいや、「全員集合」にはなかったロケを取り入れた新しいコントが人気を呼び、やがて「加トケン」の視聴率は「ひょうきん族」を抜き返す。87年からは、ゴールデン枠でのもう1本のコント番組「志村けんのだいじょうぶだぁ」も始まった。

     ◇

ネタ作りはつらいよ

 「全員集合」のコントは、いかりや長介のワンマン体制のもとでつくられ、5人のチームプレーで花開いた。しかし今度は、演者と作者両方の重圧を、志村が一身に負うことになった。

 「当時は作家が考えてくる本がつまらなかったんですよ。机上で考えているもんだから。でも『つまんないよ』というからには、それ以上の面白いものをつねに考えなきゃいけない。ネタ会議でも、志村の言うとおりにすれば一番面白いんだと、全員を納得させないといけない」

 志村は数千本に及ぶ映画やドラマのビデオコレクションから、カメラ割りや照明、音楽の使い方などを学び、コントに取り入れていった。

 「収録後に飲んで、飲んで、区切りをつけて、ウチへ帰ったらまた次の台本のスタンバイ。どんなに酔っぱらっていようが、朝4時だろうが、ビデオをあさって、『これを使おう』と思って、少し寝るというパターンで」

 もともとは「気分転換、ストレス発散がすごく下手なタイプ」という。

 寝付いて夢を見れば、すかさず枕元のノートにネタをメモ。ゴルフに行っても仕事が頭を離れずメモ。連日の深酒もたたって、胃潰瘍(かいよう)に悩まされるようになっていた。

 「でも、つくるときはつらいけど、表現するときは楽しいですからね。昔の芸人はよく『舞台で受けたときは女もカネもいらない』って言いましたけど、ほんと、ものすごい気持ちよくてね。欲が全部吹っ飛んじゃうんですよ」

 世はバブルの最高潮を迎えていた。「変なオジさん」「バカ殿様」の強力なキャラクターをひっさげて、芸人志村のキャリアも頂点を極めようとしていた。

     ◇


拡大する写真・図版「志村けんのだいじょうぶだぁⅡ」のコントで上島竜兵さん(左、後ろ向き)を問いつめる志村けんさん=1月、フジテレビで、杉山晶子撮影

コント、一生続けたい

 正月明けの東京・お台場のフジテレビ。志村のコントの収録現場を訪れた。

 驚かされるのは、セットの念の入りようだ。お茶の間には菓子箱、将棋の駒やクマの彫り物などが所狭しと陳列され、下町の事務所のセットには、黄ばんだ感謝状が並ぶ。

 当日のコントで、志村が手裏剣を投げる場面があった。リハーサル前には自ら小道具係のもとへ足を運び、手裏剣の光りぐあい、持つ部分の形などをアドバイスする。

 作り込んだ笑いにこだわり続ける姿は職人そのものだ。

 「コントは一生続けるだろうね。僕は芸人としてまだまだだと思うし、そもそもお笑いに『もうこれでいい』ということはありえないから」

 そういう志村にとって、90年代半ばは、受難の季節だったかもしれない。

 「全員集合」以来、活躍の場にしてきた夜のゴールデンタイムから、志村のコント番組が姿を消したのだ。92年に「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」、翌年には「志村けんのだいじょうぶだぁ」が放送終了を迎えた。

 「やっぱり数字(視聴率)が『低い』と言われてね。盛り返そうと思って、頑張っているんだけど、番組開始時じゃなくて、一番いいときの数字としか比べないから。テレビってそういうもんだよ」

 その後、志村のコント番組は深夜に移行する。くやしさはなかったのだろうか。

 「それはないね。時間帯が変わっても、やることはちゃんとやってたわけだし、ぶれてないから。年に何度かのバカ殿スペシャルもずーっと人気だったし。でも、なんか出ましたからね、死亡説が」

 96年の秋ごろ、世間をさわがせた「志村けん死亡説」のことである。もちろん、全く根拠のないデマだったのだが、志村の姿が以前ほどお茶の間で見られなくなった時期とあって、まさかと胸さわぎをおぼえたものだった。

 「べつに不愉快にも思いませんでしたね。でも、おふくろから電話がかかってきたんですよ。『大丈夫か、お前』って。いま、電話しているじゃないかってね(笑い)」

 好きなお笑いでめしを食えるのは幸せだが、お金をもうけようとは思っていない。

 そう語る志村にとって、問題は自分のギャラより「番組にかけられるお金」だった。コントはトーク番組より制作費がかかる。不況による経費削減も影を落としていた。

 「企画の段階であれやっちゃいけない、これも高すぎるって言われる。だから、一つのセットでコントを十何個も作って、ばらばらの週に放送したりしているわけ。つらいっちゃつらいですよね」

     ◇

真剣勝負が心地よい

 ここ数年の志村は追い風に乗っている。ドリフ人気の再燃。「全員集合」DVDの破格の売れ行き。ナインティナイン岡村隆史ら「志村チルドレン」といえる若手芸人の台頭。「ミニモニ。」とのCD制作。ビートたけし笑福亭鶴瓶との共演。今月27日には、20年分の集大成として「バカ殿様」のDVD―BOXが発売される。

 04年に始まった日本テレビ「天才!志村どうぶつ園」では、志村の発案で、カメラワークを厳しくしても舞台際まで客席を増設し、通常3時間はかかる収録を、観客のために1時間半に縮めた。清水星人ディレクターはこう語る。

 「本気で舞台をするつもりでやらなければ伝わらない。志村さんはそう言われます。『一番後ろのお客さんに音は聞こえているか』と、いつも気配りを欠かさない」

 4月には長年の念願という舞台「志村魂(シムラコン)」を東京で上演する。バカ殿様、新作コント、藤山寛美の名演技で知られる松竹新喜劇の「一姫二太郎三かぼちゃ」に挑む。

 「お金を払って見に来てくれる客だから、払った分以上のものをやらないとよくないんでね。真剣勝負ですよ」

 来月には56歳。気が付けば、「全員集合」が終わったときのいかりや長介の年齢を、三つ超えている。

 「ミスター・ビーン」で知られる英国のコメディアン、ローワン・アトキンソンはこのようなことを語っている。

 〈コメディーのキャラクターは演者の内面に深く根ざしている。それゆえ、どんな演者も二つ以上すぐれたキャラクターを生むことは難しい〉

 でも日本には志村がいて、今も「バカ殿」が姫君を追いかけ、「変なおじさん」が腰をくねらせている。これはすごいことではないか。

 「そうかもしれないね。でも、テレビ局の人は『志村さん、そろそろ新しいキャラを』なんて言ったりするけど。つらいよなぁ」=敬称略

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 〈しむら・けん〉 50年東京都生まれ。本名・志村康徳。74年荒井注に代わりザ・ドリフターズの正式メンバーに。76年「東村山音頭」で一躍人気者に。85年の「8時だョ!全員集合」終了後は「志村けんのだいじょうぶだぁ」「バカ殿様」シリーズなどで活躍を続ける。(宇都宮健太朗)